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川添昭二 「日蓮と北条時宗の被官平頼綱」
(『日蓮とその時代』.山喜房佛書林.平成11年.p310以下)






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※初出は『法華』798号、1991年で、原題は「日蓮と平頼綱」。



 山川智応は論文「平左衛門尉頼綱の父祖と其の位地権力及び信仰」(『日蓮聖人研究』第一巻、新潮社、昭和四年九月)の冒頭に「平左衛門尉頼綱は、日蓮聖人劇などの場合は、何時も赤面の敵役とせられる」と述べ、頼綱に史的研究を加え、当時の政界の状態を明らかにし、日蓮〔1222〜82.61歳〕の環境を知る必要があるとしている。山川の研究が出てからすでに六十年をこえた。平頼綱?〜1293〕をめぐる研究もかなり進んでいる。今日の研究段階を踏まえて、平頼綱の事績を述ベ、日蓮の歴史的理解の一助とし、鎌倉後期の政治と宗教についての認識を深めることに備えたい。

 平頼綱の祖先の本貫地はどこか。おそらく、伊豆国田方郡の長崎(静岡県韮山市長崎)であろう。長崎の地は『吾妻鏡』や三島神社文書によると、源頼朝〔1147〜99.53歳〕によって伊豆の三島神社に寄進され、同社領となっているが、北条氏の支配下に入っていったものであろう。平(長崎)氏は、北条氏の根本被官なのか、他の例にあるように御家人から得宗被官になったものなのか、検討課題である。平(長崎)氏の惣領は平盛綱から平盛時を経て平頼綱に至ったと思われる。

 平(長崎)氏の系譜については、幾つかの整理があるが、最近の整理として次の二つを挙げておこう。系図を簡略化し、文章表現として紹介する。一つは細川重男「内管領長崎氏の基礎的研究」(『日本歴史』四七九号、一九八八年四月)である。平氏を盛綱−盛時−頼綱−宗綱(弟資宗)とし、長崎氏を盛綱から光盛−光綱−高綱−高資と次第している。今一つは森幸夫「平・長崎氏の系譜」(『吾妻鏡人名総覧−注釈と考証』吉川弘文館、一九九八年二月)である。平氏を盛綱−盛時−頼綱とし、長崎氏を盛綱−時綱−盛弁とし、平頼綱の兄弟に長崎光綱を配している。平(長崎)氏については史料が断片的で整理が困難であり、現在の筆者には、その復原系譜を示す用意は十分ではない。ここでは、専ら平頼綱に焦点をしぼり、日蓮との関係を探ってみる。

 平頼綱が史料に初めてみえるのは『吾妻鏡』康元元年(一二五六)正月四日の的始射手としての平新左衛門三郎である。同九日の的射手としての平新左衛門三郎、正嘉二年(一二五八)正月十一日の的始射手として平新左衛門三郎頼綱、弘長三年(一二六三)正月一日の御馬曳きとしての平新左衛門尉頼綱と続いている。神宮文庫所蔵山中文書文永四年(一二六七)五月三十日六波羅挙状の宛名平三郎左衛門尉は鎌倉幕府の御家人を統括する侍所の所司で実質上の侍所の責任者である。名乗りなど、平頼綱かともみられる。肥前深堀家文書文永六年〔1269〕七月二十五日六波羅挙状の宛名平左衛門尉については頼綱とみてよかろう。このあとの常陸真壁文書文永七年十二月八日関東下知状は平盛時を常陸国真壁郡六箇郷の地頭職としたものであるが、平盛時の亡父時幹法師(法名敬念)の譲状による継目安堵(所領相続の保障)であり、ここにいう平盛時は平盛綱のあとを継いだ盛時とは同名異人である。この間、文永五年〔1268〕十月十一日の日蓮の十一通の状の宛名の一人に平左衛門尉がみえ、頼綱と解されている。同書は偽書とみられるが、日蓮宗内では早くからこの段階の平(長崎)氏の惣領を頼綱とみていたのであろう。日蓮遺文には平左衛門尉あての文永八年〔1271〕九月十二日の「一昨日御書」を収めるが、検討を要する遺文である。『元祖化導記』下に収める文永八年九月十四日次郎兵衛尉あての平頼綱書状は明白な偽文書である。このような要検討遺文、偽文書があるのは日蓮宗で日蓮対平頼綱を強く意識していたことの表われであろう。

 『昭和定本日蓮聖人遺文』に収める真蹟現存遺文で、平頼綱が最初に見えるのは、文永八年(一二七一)五月にかけられている叡山留学中の弟子三位房にあてた「十章鈔」末尾の沙汰・問註つまり裁判の進行状況を述べた段である。そのことについて「少弼殿より平三郎左衛門のもとにわたりて侯とぞうけ給候」(四九二頁)と述べられている。裁判が弾正少弼兼左馬権助で引付衆をしている北条業時重時男.1241〜87.47歳〕の手から平頼綱のもとへ移された、と解しておく。文永八年の法難を前にした緊張の段階である。続いて『撰時抄』「光旦房御書」『報恩抄』「下山御消息」など日蓮の真蹟遺文では、文永八年(一二七一)九月十二日、日蓮逮捕の指揮責任者として現われる。このとき日蓮は平頼綱に向かって、日蓮を逮捕することは日本国の柱を倒すことであり、日本国内に内訌が起こり外国からの侵略があろう、建長寺をはじめ鎌倉の諸宗寺院を破却し念仏者、禅僧等を斬首せよと言っている。三度の国諌のうち第二度目の諌暁である。確かな残存史料に即してみる限り、日蓮ははじめて平頼綱と対応したのである。このときの平頼綱の立場は何であったのだろう。端的に言えば、侍所の所司(次官)としての行動であったと考えられる。

 当時、鎌倉幕府の政治は北条氏嫡家(得宗)の専制化を主軸としており、文永五年〔1268〕蒙古国書の到来以降、異国防御を介して得宗専制の度合は一段と強化されていた。本来、北条氏の家臣として私的存在である得宗被官(御内人、北条氏本家の家臣)が、幕府政治の公的機関の運営をつかさどるようになってきた。平時には非違の検断、罪人の決罰などを所管とし、戦時には軍奉行として御家人を統括する侍所の別当(長官)は、北条義時〔1163〜1224.62歳〕以来おおむね執権が兼ね、このころはもとより北条時宗1251〜84.34歳〕が別当であった。侍所の実務はその所司が執行しており、平氏は盛綱・盛時とあいついで侍所の所司であった。前述の文永六年七月の六波羅挙状は京都の治安警備いわゆる京都大番役(京都警備の課役)にかかわる史料で平頼綱の侍所々司としての活動を示すものである。ともあれ、日蓮の文永八年の法難の開幕である平頼綱による日蓮逮捕は、頼綱の侍所々司としての行動であった。前述の「十章鈔」は文永七年五月系年説もあるが、前掲記述は、この日蓮逮捕に至る過程のことと理解してもよいのではなかろうか。

 正法(法華信仰)確立をめざして、今のままの信仰状況であるならば日本は自界叛逆難と他国侵逼難っまり内乱と外寇が現前する、と念仏等を厳しく排撃する日蓮の宗教活動は、蒙古国書到来以後、鎌倉を中心に、多くの人々の心をとらえ、その教説は急速に社会化されていった。いっぽう幕府は異国防御のため、体制維持の方策を強化し、秩序をみだすものを厳しく取り締った。いわゆる悪党禁圧である。日蓮の宗教活動は法華信仰の体制的確立の主張を通して、結果的には幕府政治の批判となっていた。その教説の社会化は、幕府の目からみれば反秩序的悪党的行為である。日蓮から排撃をうけた鎌倉の寺院・僧侶の一致した訴えを機として日蓮逮捕となったのである。日蓮がこのとき平頼綱に自分の逮捕は日本国の柱を倒すものだと言ったのを第二度百の国家諌暁というのは、平頼綱が侍所の所司、得宗被官の代表的存在として幕府権力を動かしているものであるとみてのことである。日蓮は逮捕されたあと、佐渡に配流されたことは言うまでもない。

 文永九年(一二七二)二月、北条時宗は一門の名越氏と庶兄の時輔1248〜72.25歳〕を誅殺する。日蓮の自界叛逆難の現証であり、『保暦間記』にいう二月騒動である。それは、緊迫した蒙古問題の処理と不可分な形で幕府内の不統一を解決し、得宗権力に一元化するために行われた粛清であった。このとき名越時章〔1215〜72.58歳〕・教時〔1235〜72.38歳〕の討手となったのは北条時宗・政村〔1205〜73.69歳〕の被官(家臣)である。ところが、名越時章には罪はなく誤殺だった、ということで、同年九月二日討手五人は斬首されている。討手五人の「誤殺」を政治化して斬首にもちこんだのは、おそらく安達泰盛〔1231〜85.55歳〕であろう。得宗・北条氏一門の被官らが討手の功に誇り政治的権力を増強させていたのを押さえるためであったろうか。喜劇的悲劇を演じた彼等の同輩被官たちの安達氏に対する反感はつのっただろう。このとき得宗被官の代表的存在である平頼綱がどうしていたのか、不明である。弘安二年(一二七九)にかけられている十月一日の日蓮の真蹟「聖人御難事」に「一定として平等も城等もいかりて此一門をさん/\となす事も出来せば、眼をひさいで観念せよ」(『定遺』一六七四頁)と述べており、弘安二年当時には平頼綱と安達泰盛が幕府権力を代表する存在であったことが知られるが、二月騒動の被官勢力への打撃が、かえって平頼綱の勢力を増強する促進力になったのかもしれない。

 東寺百合文書アによると、平頼綱は幕命を奉じ、文永九年十一月三日、得宗被官で若狭守護代(守護は北条時宗)である渋谷十郎(経重)に対して若狭国田文の注進を命じている。田文(大田文〈おおたぶみ〉)というのは一国内の国衙領・庄園別の田地面積、領有関係などを記録した文書である。これは諸国田文注進の一つであり、背景に異国防御体制の強化がある。若狭は得宗の守護分国であり、平頼綱は得宗被官の筆頭として得宗被官の若狭守護代に注進を命じているのである。竹内理三氏編『鎌倉遺文』第十五巻一一一四二号に右文書を収め内管領平頼綱奉書案としている。内管領は名実共に得宗被管の代表者である。平頼綱がいつ内管領になったのか明らかでないが、右奉書は内管領として出したものとみてよかろう。

 このあと平頼綱の事績で知られるのは、文永十一年(一二七四)、日蓮が佐渡配流をゆるされて鎌倉に入ったときである。同年四月八日、日蓮は自ら出向いたのか、幕府から呼び出されてか、おそらく後者であろうが、平頼綱と会見している。この間の事情は、建治元年(一二七五)四月の「法蓮鈔」、同年六月の『撰時抄』、同年七月の「高橋入道殿御返事」などの日蓮真蹟遺文に語られている。平頼綱は様々のことを日蓮に問うているが、日蓮は、蒙古はいつ攻めてくるか、と問われたことを特記している。日蓮は「よも今年はすごし侯はじ」(『撰時抄』一○五四頁)と答えている。その年の十月、蒙古の第一次日本遠征いわゆる文永の役がおこるから、この答えは、まさに適中しているのである。防衛体制の中心にある者として頼綱は蒙古襲来の時期についてかなりの情報はもっていたはずである。日蓮にあえて問うているのは、いわば念押しであったろう。経文によりながら外国から侵略が行われることをあらかじめ主張し、蒙古襲来の現実を予言するかたちになった、そんな日蓮に頼綱は一面少なからぬ畏敬の念を抱いていたろう。あえて襲来の時期を問うたのも、一つにはそのような心理の動きもあったからであろう。

 日蓮が幕府(平頼綱が事実上管轄する侍所ではあるまいか)に出頭したのは、佐渡配流中の事情の説明もあったろうが、頼綱としては、“蒙古襲来の予言者”としての日蓮に、襲来の時期をはじめ、具体的な対策があればそれを聞く、ということを目的のうちに加えていたろう。具体的対策といっても僧侶に聞くのであるから、宗教的な問題、とくに異国降伏の祈祷のあり方が中心になったろう。『撰時抄』によれば、日蓮は、

王地に生たれば身をば随られたてまつるやうなりとも心をば随へられたてまつるべからず、念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑なし、殊に真言宗が此国土の大なるわざひにては候なり、大蒙古を調伏せん事真言師には仰付らるべからず、若大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此国ほろぶべし(一○五三頁)

と答えている。日蓮は徹頭徹尾宗教の問題として、従前からの主張を繰り返し強調したのである。平頼綱にしてみれば、異国降伏の祈祷体制にかかわる問題は政治・軍事の問題であり、両者の行違いは絶対に交わることはない。幕府は密教祈祷による蒙古調伏に頼ること多く、より多くの神、より多くの仏に祈ることが勝利に至る道であるとし、一仏や一経に収束してしまう宗教感覚は、もち合わせていなかったし、そのことを理解もできなかった。むしろ頼綱としては、日蓮が蒙古調伏の祈祷の一端を担ってくれることを期待していたかもしれない。後世のものであるが、そのことを示す史料が残っている。日蓮の応答は、法華信仰に帰一することからすべては始まるのである。日蓮は頼綱に対するこの進言を第三度目の高名(国家諌暁)と言っている。頼綱が日蓮の進言をいれる余地はどこにもなかった。こうして日蓮は鎌倉を退去し、流浪の感懐深く身延山に入るのである。

 日蓮遺文中に文永十一年十二月二十八日の「与平内左衛門書」(二一○三頁)を収めている。佐渡流罪からゆるされて当時に至る法華経弘通の過程を述べたものである。平内左衛門は平頼綱かとの説もあるが、この書自体検討を要するものである。豊後日名子文書によると、建治二年〔1276〕三月八日、北条時宗の弟で長門・周防の守護である北条宗頼〔?〜1279〕が平左衛門尉(頼綱)にあてて次のように記している。豊後国の御家人で大友氏庶流である田原泰広が、文永十一年の蒙古合戦で軍忠をたて、その訴訟のため鎌倉に上訴したいと歎き申しているが、今一両月は異国警固を厳重にしなければならないので、まず使者をたて子細を申すように言っている。内々の心得のために報告する。これを受取った平頼綱の立場は、異国防御体制の中枢にある侍所の所司としてであろう。

 山城三聖寺文書に建治二年の追記をもつ十二月四日付けの備中目代あての備中国宣があり(『鎌倉遺文』十六−一二五九一)、備中守重名内田畠壱町余を守護代時綱が濫妨をしたと訴えられたことが述べられている。これは弘安二年(一二七九)十月一日の日蓮真蹟遺文「聖人御難事」にみえる長崎次郎兵衛尉時縄(綱)と同一人とみられる。平頼綱の同族であろう。ちなみに、長崎氏が史料に出てくるのは『吾妻鏡』弘長元年(一二六一)四月二十五日条の長崎左衛門尉、同三年十一月二十日条の長崎次郎左衛門尉(前者と同一人)が早い例である。

 建治年間(一二七五−七八)は鎌倉幕府が蒙古防備の体制を積極的に整備した時期である。平頼綱に即してそれに関する事例をみたが、建治三年〔1277〕の幕政における平頼綱の活動が現存武家日記の最古のものである鎌倉幕府問注所執事三善(太田)康有〔1229〜90.62歳〕の『建治三年記』に散見する。平頼綱は北条時宗の側近にあって重要政務の取り次ぎなどを行っているが(九月四日・十月二十九日・十月三十日)、ことに、安達泰盛・太田康有・得宗被官佐藤業連・同諏訪真性らと寄合に参加していることは注目される(十月二十日・十月二十五日・十二月二十五日)。寄合は幕府公式の評定とは別の、北条時宗を中心とした秘密会議である。幕政上の真に重要な事項は寄合で決定されていた。平頼綱は得宗被官の筆頭として寄合に参加していたのであり、右のことからも日蓮の言う「平等も城等も」と言われる状況が理解できる。

 日蓮と平頼綱との直接の交渉は、文永十一年〔1274〕四月八日の会見で終わっている。しかし、弘安二年(一二七九)の熱原法難で日蓮が究極に対決したのは、平頼綱に具現する得宗権力であった。

 日蓮の居所身延山に近い駿河富士郡では、日蓮の弟子日興〔1246〜1333.88歳〕を中心に日蓮の教説が弘められていった。蒲原四十九院・岩本実相寺・熱原瀧泉寺など天台系寺院内部に日興の弟子になるものが現われ、彼等がまた檀越を創出して身延の日蓮を頂点とする駿河の門弟が形成されていった。実相寺・四十九院ではこれらの日興の弟子と寺院上層部とが対立抗争した。熱原瀧泉寺の院主代平左近入道行智は、平頼綱有縁の者と思われ、弥陀信仰者で、日蓮的法華信仰を強調する日興の弟子たちを弾圧した。行智は苅田狼籍の問題を契機に熱原の百姓神四郎二十名を捕えて鎌倉に送った。熱原(静岡県富士市)は得宗領(北条氏本家の所領)であったから、同件は得宗被官の筆頭として、得宗領の管轄をしていた得宗家公文所をつかさどる平頼綱の審理するところとなり、神四郎ら三名は頼綱の子息飯沼判官助宗1267〜93.27歳〕の蟇目の矢で射殺され、十七名は禁獄となった。この間、日蓮が日興らに種々指示を与えていることは言うまでもない。

 この法難は、建治年間の異国防御の体制強化を背景に得宗領内で行われたのである。日興の布教によって駿河の得宗支配下の天台系寺院に専持法華の僧侶と農民が創出され、彼等によってそれら寺院の人倫的・宗教的覚醒がうながされ、得宗被官筆頭者有縁の院主代に対して信仰・世俗両面において抵抗がなされたのである。日興らは北条氏支配機構の宗教的、政治的末端機構から逸脱し、得宗の支配をおびやかすことになった。神四郎らは「住人」と呼ばれているから少なくとも名主級の上層農民である。熱原法難は、右のように宗教的事情と共に得宗権力の得宗領−名主支配を軸としていたのであろう。熱原法難のこまかいことは別稿を期そう。これ以後、日蓮遺文には平頼綱のことはみえない。

 円覚寺文書弘安七年(一二八四)九月九日の北条氏得宗家公文所奉書では平頼綱は実名で佐藤業蓮・諏訪真性と連署しているが、肥後大慈寺文書弘安九年(一二八六)閏十二月二十三日の平頼綱書状案は法名杲円(前掲系図では杲円)で出している。以後、蒙古合戦の恩賞配分にかかわる松浦山代文書弘安十年十一月十一日肥前守護北条為時挙状の宛名などは平左衛門入道となっている。この間、弘安八年1285〕十一月、平頼綱は安達泰盛〔1231〜85.55歳〕を滅ぼしている。いわゆる霜月騒動である。北条時宗の存生中、豪古の外圧などのこともあり、均衡を保っていた安達泰盛と平頼綱との間は弘安七年1284〕四月の北条時宗の死を機として破綻をきたしたのである。

 安達氏減亡後、平頼綱は専権を振るったが北条時宗のあとの得宗北条貞時1271〜1311.41歳〕の成人にともない、平頼綱は貞時権力の強化にとっては障害となった。頼綱の嫡男宗綱は“頼綱が次男の飯沼助宗を将軍に立てようとしている”と密告し、正応六年(一二九三)四月二十二日、北条貞時は平頼綱・助宗父子を誅滅した。いわゆる平禅門の乱である。頼綱の助宗偏愛に端を発していようが、得宗北条貞時の側にもそれを利用して平頼綱を押さえようとした面もあったろう。平宗綱は佐渡に配流され、赦免されて内管領になったようであるが、のちにまた罪ありとして、上総に配流されている。こうして得宗被官として権勢を振るった平氏の頼綱系にかわって光綱系の長崎氏が得宗被官の代表者となる。鎌倉最末期の御内政治の主導権を握ったのは、光綱の子高綱(入道円喜)である。

 得宗権力の有力基盤であった信濃の「諏訪大明神絵詞」下には、北条貞時の管領で、上野守護代であった平左行門入道杲円の従人らが権勢に誇って小諸氏の下人らを誅せんとしたが同社の神威で果たさなかった、と記している。上野守護職は霜月騒動で安達泰盛が敗滅したあと北条氏得宗に移っていた。守護代が平頼綱であったことは確かである。平頼綱の権勢を背景としている説話ではあろう。平禅門の乱で平頼綱・助宗父子が誅滅されたことを、日興は永仁六年(一二九八)の「本尊分与帳」で「法華現罰ヲ蒙レリ」と記している。平頼綱父子滅亡後、はるか後代の、義堂周信1326〜89.64歳〕の『空華日用工夫略集』は永和元年(一三七五)二月二十五日条に「昔、平左行門虐を作すこと勝げて計うべからず(原漢文)」と書いている。八十二年後のことである。只単に日蓮1222〜82.61歳〕にとって赤面の敵役というばかりでなく、その専権の印象ははるか後代にまで残っていたのである。鎌倉末期の「鎌倉殿中問答記録」(『改訂史籍集覧』第廿七冊)は、長崎入道円喜の息所(私宅)等での宗義問答の記録で、この期の鎌倉日蓮教団の動向を伝える貴重な史料である。日蓮教団が「鍛冶番匠の様なる云う甲斐無き者こそ信ずれ、甲斐々々しき人は信ぜず」と言われていることなど鎌倉における日蓮教団の性格をうかがわせるが、何よりも、この問答に得宗北条高時1303〜33.31歳〕や内管領長崎円喜が関与していることが注目される。鎌倉幕府の健在な限り、得宗・御内は何らかの形で日蓮の教えを奉ずるものとかかわっていたのである。





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