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川添昭二 「北条時宗の研究−連署時代まで−」(1/4)
(『日蓮とその時代』.山喜房佛書林.平成11年.p358以下)
☆川添昭二氏の略歴はこちら。
| ※初出は『松浦党研究』第五号(1982年)。 ※原文傍点部分は下線に換えました。 |
一 北条時宗略伝 鎌倉時代中期の執権。父は北条時頼〔1227〜63.37歳〕、母は時の連署北条重時の女。建長三年(一二五一)五月十五日、時頼の母松下禅尼の居宅である甘縄の安達邸で生まれた。幼名は正寿。庶兄に時輔がいた。康元元年(一二五六)十一月父時頼が出家して執権を重時の子長時〔1230〜64.35歳〕に譲った。時宗が幼いための中継ぎとしての措置である。翌年二月将軍宗尊親王〔1242〜74.33歳〕の御所で元服し時宗と命名された。七歳である。文応元年(一二六○)二月、小侍所に入った。小侍所は将軍出行の際の催促や弓始射手の選定などをつかさどった。別当は北条氏一門の好学で知られる金沢実時〔1224〜76.53歳〕で、時宗は実質的には副別当格であったが、以後四年間連署になるまで実時について幕府儀容面を中心に政務教育を受けた。時宗の文事関係の中国系の教養はこの期間を中心に蓄積されたとみられる。弘長元年(一二六一)四月、十一歳の時、安達義景〔1210〜53.44歳〕の娘で十歳になる堀内殿〔1252〜1306.55歳〕と結婚した。彼女はのちに駈込寺として有名な東慶寺の開山になる。同年十二月従五位下左馬権頭となる。同三年十一月二十二日、父時頼が三十七歳で死去。文永元年(一二六四)七月、執権長時が出家し、翌月死去。連署の政村〔1205〜73.69歳〕が執権となり、十四歳の時宗が連署となった。 翌年正月従五位上、但馬権守となり、同年三月相模守となる。同三年七月、政村・時宗・実時・安達泰盛〔1231〜85.55歳〕らの主導によって将軍宗尊親王が廃され、京都に送還、親王の王子で三歳の惟康王〔1264〜1326.63歳〕が将軍となった。同五年正月、蒙古の国書が日本にもたらされ、日本はいやおうなしに蒙古の対高麗・南宋政策の環の中に組み込まれることになった。同年三月、時宗は執権となり、蒙古問題の真正面に立つことなった。以後、弘安七年(一二八四)に没するまでの十六年間は、まさに時宗政権の時代と言ってよい。 その時宗政権に一画期をなすのが文永九年の二月騒動(北条教時の乱)である。これは、評定衆で一番引付を兼ねる名越時章〔1215〜72.58歳〕と、その弟で同じく評定衆である北条(名越)教時〔1235〜72.38歳〕を鎌倉で誅殺し、庶兄の六波羅探題南方の時輔〔1248〜72.25歳〕を同北方の北条義宗に誅殺させた事件である。時宗はこの事件を通して北条氏一門をほぼ完全に掌握し得宗としての地位を安定させた。蒙古問題の外圧は幕府内部の反得宗的因子の粛清を正当化したのである。 文永十一年〔1274〕十月、蒙古は国書を拒絶した日本に攻め込んだ。いわゆる文永の役である。蒙古軍は対馬・壱岐を経て博多に上陸し合戦を展開するが撤退し、撤退途上いわゆる「神風」にあう。建治年間(一二七五−七八)幕府は時宗を中心に防御体制を諸方面にわたって積極的に整備し、元使杜世忠を竜ノ口に斬り、蒙古(元)の日本侵攻の基地高麗を逆攻撃しようという異国征伐を企てた(不実行)。弘安二年南宋を完全に滅ぼした元は同四年〔1281〕東路・江南両軍をもって日本を攻めた。いわゆる弘安の役で、閏七月一日、またもやの「神風」で壊滅的打撃を受けた。 元はこのあと日本招諭を試みるが、結局成功しなかった。同五年、時宗は無学祖元〔1226〜86.61歳〕を開山として鎌倉山内に円覚寺を建立した。主旨は両度蒙古合戦の戦死者・溺死者らを弔うためであった。しかし元の三征に対する防備の手をゆるめるわけにはいかず、長期間にわたる防御態勢の維持、合戦その他による社会の矛盾は激化しつつあった。安達泰盛らによる政治改革案が練られている最中の弘安七年〔1284〕四月四日、時宗は三十四歳の若さでその生涯を閉じた。法号は法光寺殿道杲(どうこう)。墓堂は円覚寺仏日庵である。異国防御に関連しながら、国内政治では文永十年〔1273〕思い切った御家人所領回復令を出している。また、亀山天皇〔1249〜1305.57歳〕の院政開始のあと、後宇多天皇〔1267〜1324.58歳〕の東宮に後深草上皇〔1243〜1304.62歳〕の皇子照仁(ひろひと)親王〔1265〜1317.53歳〕を推載して持明院統・大覚寺統両統迭立の端緒を作っている。禅宗を崇敬して大休正念〔1215〜89.75歳〕・無学祖元らに参じ、詩文にも相応の力量をもっていた。 北条時宗の略伝は、以上のようなことであるが、時宗の事績中後半生執権時代の蒙古襲来関係については周知のところであり、本書でも随所に述べ、二月騒動・被官平頼綱〔?〜1293〕についても考察を加えているので、本章では、それ以前の連署時代までのことについて詳述する。 主要参考文献 関靖『史話北条時宗』朝日新聞社、一九四三年一二月。 網野善彦『蒙古襲来』小学館、一九七四年九月。一九九二年六月、小学館ライブラリー25に収む。 渡辺晴美「北条時宗の家督継承条件に関する一考察」『政治経済史学』一一○、一一一号、一九七五年七・八月。 同「得宗専制体制の成立過程」『政治経済史学』一二五・一三九・一六二・一六五号、一九七六年七月−一九八○年二月。 工藤敬一『北条時宗』平凡社、一九七八年六月。 村井章介「執権政治の変質」『日本史研究』二六一、一九八四年五月。 川添昭二『九州の中世世界』海鳥社、一九九四年四月。 二 小侍所時代まで (一)誕生 『吾妻鏡』には北条時宗誕生に至るまでの経緯がこまかく記されている。『吾妻鏡』で、誕生に至るまでの経緯を時宗のようにくわしく記されている人物は外にいない。これは北条氏得宗(嫡流)家の時宗をことに重視していることによるものであろうから、『吾妻鏡』の編纂事情にもかかわることであろう。以下『吾妻鏡』を中心に時宗誕生に至る経緯を追ってみよう。父は執権北条時頼、母は時の連署北条重時(泰時の弟)の娘である。時頼は二十五歳であった。 時頼は、すでに宝寿丸という男子をもうけていたが、いわゆる側室の子で、正妻から正嫡が生まれることを強く欲していた。そこで、鶴岡若宮別当法印隆弁〔1208〜83.76歳〕に祈願を依頼した。隆弁は正二位四条大納言降房の子、兄は正二位権大納言隆衡、妹は摂政藤原師家の室である。文暦元年(一二三四)三月、園城寺から鎌倉に入り将軍藤原頼経〔1218〜56.39歳〕に見参して以来、将軍頼経、執権経時〔1224〜46.23歳〕、時頼、あるいは安達氏ら有力御家人などの加持祈祷を行い、幕府内でその法験を称讃されていた。上洛しては皇子(後深草天皇)降誕の加持、西園寺公経〔1171〜1244.74歳〕の瘧病の祈祷などで法験をあらわした。宝治元年(一二四七)六月、鶴岡八幡宮別当職に任じ、建長四年(一二五二)十月権僧正、文永二年(一二六五)十月大僧正、同四年十二月園城寺長吏になり、弘安六年(一二八三)八月十五日七十六歳で没している。時頼と隆弁との直接関係は『吾妻鏡』でみる限り、時頼が執権になって間もなくの寛元四年(一二四六)九月、在京中の隆弁をわざわざ呼び下し、里第で如意輪法・大般若経信読(六百巻全部の読誦)を兼行させているのが初見である。以来、時頼は種々の行法を隆弁に依頼している。禅宗に深く傾倒するようになってからもそうである。時頼が深く帰依した僧侶は隆弁・西大寺叡尊〔1201〜90.90歳〕・蘭渓道隆〔1213〜78.76歳〕等で、隆弁には加持祈祷の法験面で深く帰依していた。 『吾妻鏡』建長三年(一二五一)五月十五日条によると、時頼の依頼をうけた隆弁は、建長二年正月元旦鶴岡八幡宮の宝前において丹誠の肝胆を砕き、同年八月には懐妊するとの夢告をうけた。報告をうけた時頼は狂喜したことであろう。同年五月時頼の妻にいささかの病悩があり女房たちは、すわ懐妊と喜んだが、隆弁は八月必定たるべしと言っている。果たせるかな八月には懐妊がはっきりし、祈請が行われた。隆弁は園城寺復興のため上洛していたが、同年十二月、時頼はこれを呼び下して妻の著帯加持を依頼している。時頼の母、松下禅尼の兄にあたる安達義景〔1210〜53.44歳〕も同じく隆弁に招請の使者を送っている。安達氏一門にとっても時頼に正嫡の男子が誕生することは熱望するところであった。妻の父北条重時〔1198〜1261.64歳〕がさらに強く熱望していることは言うまでもなく、時頼とともに、その分国ならびに庄園に対して明年五月出産の時期まで、安産を祈って殺生を禁断させている。十二月十三日隆弁の加持で著帯。鎌倉へめざしていた隆弁は、時頼らの招請の飛卿と萱津の駅で逢い、寸陰を競って急ぎ下り十三日夕刻に到着したのである。隆弁は翌年二月十二日伊豆国の三島社(静岡県三島市)に詣で安産を祈った。夢に老翁が現われ、来たる五月十五日酉の刻(午後七時ごろ)に男子を平産する、との告げをうけた。 時頼自身も熱烈な祈願を行っている。建長二年十二月八日、大倉の薬師堂に参詣して平産を祈った。 この堂は、建保六年(一二一八)、夢告によって北条義時〔1163〜1224.62歳〕が建立し、運慶作の薬師如来を安置し霊験とくに顕著と言われた。堂は建長三年十月に焼亡するが、その跡に永仁四年(一二九六)時宗の子の貞時〔1271〜1311.41歳〕が覚園寺を建立している。建長三年正月八日、八寸の金銅薬師如来像を鋳造し隆弁を導師として供養し平産を祈り、長日の薬師供、大般若経信読を始めた。信読は同月二十八日に結願している。正月十七日には自邸で隆弁を導師として放光仏の像を供養し、如意輪護摩を修して平産を祈った。正月二十一日には、平産を祈って百日の泰山府君祭を始行。供料は安達義景の負担である。 妊振の経過は順調であった。出産の日も近まり、安達家の松下禅尼の甘縄の邸を産所とし、妊婦はここに移った。松下禅尼は安達義景の妹で、北条泰時の子・時氏に嫁し、経時・時頼・為時・時定等を生んでいる。時氏は泰時〔1183〜1242.60歳〕の嫡男、貞応三年(一二二四)六月、泰時・時房〔1175〜1240.66歳〕にかわり時盛〔1197〜1277.81歳〕とともに六波羅探題として上洛し寛喜二年(一二三○)三月まで在職。重時と交替して鎌倉に帰り、同年六月十八日、二十八歳の若さで死去している。松下禅尼はこのころ出家したのであろう。寛元四年(一二四六)には経時を失なう。経時はそのとき二十三歳であるから(『鎌倉年代記』)、時氏の二十二歳の子ということになる。禅尼は文応元年(一二六○)五月十日、父安達景盛〔?〜1248〕の十三年忌を施主としてとり行っているが、それ以後史料的所見がない。 『徒然草』第百八十四段に伝えられている逸話は有名である。時頼を甘縄の邸に招いたときのこと、障子の破れた箇所だけをまだらに張って、兄の義景〔1210〜53.44歳〕が見苦しかろうと言うたところ、後ではさっぱりと張り替えようとは思っていますが、今日ばかりはわざとこうしておくのがよいのです。物は破れた所だけを修理して用いるものだと若い人に注意させるためですと答えたと言う。為政者であるわが子時頼に倹約の精神を理解させたいという禅尼の心を伝えた話である。政治の基本は為政者の心構えによるという兼好の考えに合致した話柄で、兼好は末尾に次のような評言をつけ加えている。
『徒然草』の幽斎本・常縁本・正徹本などは「松下」を「松の下」と表記している。「松下」は鎌倉の地名だというが、定かでない。安達氏が三浦氏をほろぼした宝治合戦の折には、父景盛(法名覚智)を高野山から呼び戻して、策を時頼に授けたとも伝えられており、『徒然草』の逸話からも政治を忘れない女性であったらしいことがうかがわれる。仏教の篤信者で、無住(一二三六−一三一二)の『雑談集』巻之第三は次のような話を伝えている。「松下ノ禅尼」は有り難い人であった、上東門院(道長の娘、藤原彰子、一条天皇の中宮、後一条・後朱雀天皇の母)のことを常に慕って、上東門院と同じように、仏法を信じ行じない者は召使われなかった、と言うのである。夫とともに京都にいたこともあるので、京都文化憧憬が背後にあるが、この篤信は時頼の宗教心培養に影響をおよぼしているとみられる。出家後、安達家の甘縄邸内にいて、一族の敬仰をうけていたようである。時頼妻室の産所がその実家北条重時邸でなく、安達氏の甘縄の松下禅尼の邸に設けられたということの政治的な意味は小さくない。時頼は舅の連署重時の手腕に依頼すること多く、得宗に次いで重時流の幕政に占める地位は重かった。男子出産という隆弁の夢告は関係者の知るところであったろう。そのようななかで、産所が夫の母方に設けられるというのは当時通例であったのかもしれないが、男子出産となれば、安達氏は正嫡の外孫を擁することになる。松下禅尼を含めて安達氏側の機敏な対応は見逃せない。時宗の代、安達氏が重時流を凌いで幕府政界に重きをなした布石の一つはここにあったと言えよう。安達氏に即して言えば、宝治合戦における三浦氏打倒に連続する政治的な意味をもつものとみてよかろう。 建長三年〔1251〕五月一日、産所で祈祷が始められた。五月十四日、若宮別当法印隆弁は、出産の日時は明日酉の刻だと予告した。その日になったが出産の気配なく、心配になった時頼は被官(家臣)安東五郎太郎を隆弁の所にやった。隆弁の返報は「今日酉の剋必定」であった。申の刻(午後三時−五時)、ようやく産気づき、医師・陰陽師・験者等が参侯。酉の終わりの刻(午後七時)隆弁が来て加持を行い。男子誕生となった。重時は早くから来ており、一門の老若・諸人が続々とつめかけた。験者以下にそれぞれ禄が与えられた。三浦介盛時(1)も馳せ参じ、喜びのあまり銀の鞍をつけた名馬の誉れ高い乗馬をそのまま陰陽師の泰房に与えている。盛時は三浦氏中の大族佐原氏で、義連の孫、盛連の子、宝治合戦の折には三浦泰村〔1204〜47.44歳〕につかず時頼につき、時頼出家のときには自由出家の禁を犯して出家したというほどの親時頼派である。 五月二十一日、重時は七夜の儀をねんごろにとり行った。小児誕生の夜を初夜と言い、その日から三日目、五日目、七日目、九日目にあたる各夜には祝宴が催されていたのである。いわゆる産養である。新生児に対して形式的な響応をし母子の邪気をはらうことを祈念する意味をもっていた。鎌倉初期の武士の間では偶数の夜にも行われていた。七夜に関して、時宗が童名をいつ誰から命名されたかはっきりしない。時宗は康元二年(一二五七)二月元服のときまで正寿丸と名乗っていたことが分かる。近世では七夜に命名式があるのが慣例のように考えられているが、鎌倉時代では当日すぐに命名していることもあるし、あるいはかなり遅れたかもしれない。命名者は隆弁か時頼あたりであろうが、不明である。とにかく新誕の若公は正寿と名付けられた。童名は、いわば家庭内の名であり、元服による実名が公的名称であるが、「正」は正嫡を含意していたようである。 五月二十七日、正寿は小町の父の屋敷に移った。その母は七月八日に帰っている。時頼は、このたびの男子平産はこれすべて隆弁〔1208〜83.76歳〕の法験の致すところであり、しかも万事予告のとおりであったと隆弁に感謝し、能登国鳳至郡諸橋保を、祈祷の賞として与えている。公家のあたりでは、五月生まれの子は親にたたるなどと言って忌む風習もあったが(『大鏡』序)、正寿は産後の肥立ちもよく、十月二十一日には「五十日百日」の儀が行われた。五十日は小児誕生ののち五十日目にあたる夜、オモユのなかに餅を入れて小児に含ませる儀であり、そのあと祝宴が行われる。誕生後百日目に五十日と同様の義を行うのが百日である。ただ、生誕から起算して必らず該当する日に行うとは限っていない。正寿の場合、五十日と百日の二つの祝儀が一緒に行われている。他にもまま見られることである。 以上、誕生までの経緯をみてきたが、時宗は母の胎中にあったときから既に政治的な存在であったことが知られる。 (二)時宗の兄弟たち 1 相模次郎 時頼の正室、妾として知られる女性は四人はいた。第一番目の正妻は毛利季光(法名西阿)〔1202〜47.46歳〕の娘である。延応元年(一二三九)十一月二日、時頼十三歳(一二四七年)ママのときに結婚している。宝治合戦(一二四七)に際し、季光が妻の兄三浦泰村についたため離別となり、その間に子があったかどうか知られない。第二の正室は北条重時の娘である。その腹に時宗・宗政・女子が生まれている。妾としては三河局・将軍家讃岐が知られる。両者は同一人かも知れないが、一応別人としておく。三河局の子は二男若公と呼ばれ、讃岐の子は時輔〔1248〜72.25歳〕である。「北条系図」では以上のほかに、宗時・政頼・時厳・宗頼らを挙げているが、その母は知られない。 時頼の子息の呼び名を排行順にみると、時宗が相模太郎、時輔が相模三郎、宗政が相模四郎、政頼が相模六郎、宗頼が相模七郎と呼ばれていたことが知られる。相模次郎と相模五郎が知られないのである。『鎌倉年代記』文永元年条に時輔を相模次郎とするのは、明らかに相模三郎の誤まりである。『北条系図』(『続群書類従』)では右のほかに時頼の子息として宗時(遠江守)時厳(桜田禅師)をあげている。あるいは彼等が相模次郎・相模五郎と呼ぶべき者に当たるのかもしれないが、明証を得ない。 『吾妻鏡』建長二年(一二五○)十二月二十三日条には、相模次郎を考えるうえに参考となる記事がある。「相州(時頼)の妾三河局、他所に移る。いささか口舌等あり。奥州(重時)子細を申さるるによって、俄かにこの儀あり、これ二男若公の母なり。」と言うのがそれである。口舌と言うのは男女間についての評判を言うのであり、近世になると男女間の痴話げんかを言うことが多い。時宗誕生の時期が迫り、時頼の妻の父重時は、時頼の妾三河局が現在の場所(時頼邸内か近くであろう)にいるのはまずいから他所へ移してくれ、と時頼に申し入れたのである。時頼と妾・正室(重時の娘)との愛情の問題、さらに何よりも得宗家の後嗣の問題があり、正室の父として重時は婿の時頼に申し入れをしたのである。三河局は将軍に仕えていた女房のようである。若干の疑いは残るが、時輔の母将軍家讃岐とは別人であろう(2)。さすれば三河局所生の二男若公と時輔とは別人である。このとき、後に相模三郎と呼ばれる時輔は三歳である。この二男若公と時輔の長幼の順は不明であるが、時輔と同様、妾腹であるから嫡男とされずに次郎と呼ばれたのではあるまいか。時宗が相模太郎と呼ばれる初見は『吾妻鏡』正嘉元年(一二五七)三月二日条であり、年長の時輔が相模三郎と呼ばれる初見は『吾妻鏡』康元元年(一二五六)八月十一日条である。残った史料に即してみる限り正嫡の男子が生まれない前の妾腹の男子は、太郎を称さずに次郎・三郎と称している。一般化できないかもしれないが、時頼の子息については一応そのように言える。ただ、時宗と同腹の宗政〔1253〜81.29歳〕は四郎であるから、正嫡の男子生誕のあとは、出生順が一応の基準になっているようである。 2 相模三郎時輔 『吾妻鏡』宝治二年(一二四八)五月二十八日条に次のような記事がある。「左親衛(左近将監北条時頼)の妾(幕府の女房)が男子を平産した。今日宝寿という字を授けられた。」この日生誕して即日命名したとも受け取れそうであり、誕生即日命名の例もあるが、この記事は、同日以前(余りさかのぼらない日)に生誕していた男子にこの日命名したとも取れる。授名者は不明。後の時輔の生誕、生母・授名に関する記事である(3)。時宗の誕生に至る詳細な記事と比べると、すこぶる簡単でまったく突然生まれたような記事である。生母は時頼の妾で幕府の女房とあり、いわゆる正室ではなかった。『鎌倉年代記』文永元年〔1264〕時輔の条に「最明寺入道男、母将軍家讃岐」とみえる。この記事に信をおけば、宝治二年のときの将軍家藤原頼嗣〔1239〜56.18歳〕に仕え、讃岐と呼ばれた女性が宝寿の生母である(4)。将軍家讃岐の出自については分からない。『吾妻鏡』文応元年(一二六○)八月六日条には相模三郎時利の外祖父卒去について軽服(軽い忌服)したという記事がある。時輔十三歳のときである。讃岐の父のことについて記しているのであるが、出自については不明である。門地は低く政治的に時輔を強力に後援できるような外祖父でなかったことは確かである。時輔は正室の子ではなく、外祖父の政治的経済的後援は期待できず、誕生時においては、時頼の実子ということ以外、時輔が得宗の後嗣になり得る条件はなかった。 宝治二年六月十日、誕生後二週間目に、諏訪入道蓮仏(実名、盛重)が宝寿の乳母(めのと)になり、七月九日に乳母役雑事を始めている。時頼の子供で、その乳母が分かるのは時輔だけである。諏訪氏は信濃の諏訪神社の神官の出身である。建武二年(一三三五)北条高時〔1303〜33.31歳〕の子時行〔?〜1353〕が幕府の復活をはかって敗れた中先代の乱の折、時行を支えたのは諏訪神社を背景とする諏訪氏の伝統的な在地軍事力である。それは長年にわたる得宗の強力な信濃支配の成果でもあった。承久合戦に際して、諏訪大祝盛重は世上の無為を祈って巻数(読誦した経巻の数を記した文書)を献じ、子息太郎信重を上洛せしめている。これを機として寛喜二年(一二三○)二月には、すでに盛重の得宗被官としての活動がうかがえる。盛重は貞永元年(一二三二)八月、和賀江島築港に際してその巡検使となり、嘉禎二年(一二三六)十二月、泰時亭新造の折には同じ部内に家を構え、このころ入道して蓮仏と名乗った。 諏訪蓮仏は得宗被官の要人平左衛門入道盛綱とともに泰時の孫時頼の成長に少なからぬ努力を払っていたらしく、無住〔1226〜1312.87歳〕の『雑談集』巻之第三に次のような話を伝えている。時頼は幼少のときから宗教的傾向があり、遊びに堂を作ったり仏像を作ったりしていた。盛綱と蓮仏はこれを憂えて「弓矢取らせ給う御身は弓矢の御遊びこそなさるべきで、仏事遊びなどは詮なき事です」と誡めた。祖父の泰時はそれを聞き、「須達長者、祇園造立のときの大工頭の生まれ替わりだ」という説話を引いて、心配しなくてもよいと言ったという。時頼の勢威は仏教信仰による果報だという分脈の中の一挿話であるが(5)、得宗被官要人蓮仏、盛綱らの時頼補弼を伝える話でもある。時頼が執権となってから、その腹心として活躍したことは言うまでもない。時頼邸での「深秘の沙汰」や「内々の寄合」に蓮仏は北条実時〔1224〜76.53歳〕や安達泰盛〔1231〜85.55歳〕、尾藤・平らの得宗被官要人とともに参加しており、宝治合戦の折にも政治的な活動をしている。建長五年(一二五三)十一月に泰時追福のために山内に一堂を建立しており、『法然上人行状絵図』二十六によると時頼は臨終にあたって蓮仏の極楽往生を引導せんことを契ったと伝えられている。泰時・時頼の被官として、蓮仏がとくに強いミウチ関係にあったことを示している。時輔の養育が蓮仏にまかされたのは、このような事情による。その家も時頼邸の同じ廊内にあったろう。『外記日記』文永四年(一二六七)四月二十七日条に「関東諏方兵衛入道去比死去云々」とある。蓮仏の卒去を伝えるものではあるまいか。 建長八年(一二五六)八月十一日、九歳の宝寿は元服して相模三郎時利と号した。加冠は足利三郎利氏〔1240?〜62?〕である。利氏が烏帽子親となり、利の一字を与えたのである。足利利氏は泰氏(母は北条泰時の娘)〔1216〜70.55歳〕の子、泰氏には家氏・義顕・頼氏(利氏)らの子息がおり、利氏は第三子であったが、北条時氏(時頼の父)の女を母とする本腹であったため兄二人をさしおいて家嫡となった。時頼が泰氏の父義氏〔1189〜1254.66歳〕と親しい間柄であったことは『徒然草』第二百十六段が伝えているところである。利氏は後に頼氏と改めるが、時頼との関係からであろう。利氏(頼氏)が時輔に加冠したのは、このような北条氏との重縁によるものであり、足利氏独自の立場からだけではない。 時輔は後に述べるように、二月騒動で時宗のために誅殺されるが、時宗・時輔などのように武家政治の最高レベルで生涯を送る者にとって結婚問題はおのずから重要な政治的意味をもっている。『吾妻鏡』正嘉二年(一ニ五八)四月二十五日条によると、十一歳の時利は小山出羽前司長村の娘と結婚している。小山氏(6)は平安時代から下野国衙の有力な在庁官人として知られ、押領使を世襲して下野一国の検断権・軍事警察権を掌握し、さらに鎌倉時代を通じて下野守護であった。長沼・結城・下河辺などの有力庶家を分出し、まさに下野をおおう勢力をもっていた。史料的に小山氏が北条時輔を政治的側面で具体的に後援した事実は見出し難いが、北条時宗にとってこの婚姻関係は無視し得ぬことになろう。 得宗被官諏訪蓮仏が時輔の乳母として養育に当たっていたことは前に述べておいたが、時輔の後見として検討すべき者に得宗被官家の南条左衛門尉頼員がいる。『高野山文書』之一宝簡集三十三に収める建治元年(一二七五)八月七日唯浄注進状案に、阿弖河庄新雑掌従蓮は相模式部大夫時輔の後見南条新左行門尉頼員の舅で訴訟(沙汰)に馴れた者だ、とある(『鎌倉遺文』一六−一一九八八)。康元二年(一二五七)年始の折の引出物は相模三郎時利と南条新左衛門尉が一具になっており、同年二月二十六日の時宗元服の折の進物の馬も同様であり、正元二年(一二六○)年始の折の引出物の馬も同様であり、頼員が時輔の後見であった事実が補強される。頼員は六波羅奉行人として時輔を直接補佐していた(『天台座主記』文永四年四月二十九日・『鎌倉遺文』十四−一○四五四・同十六−一一八九○)。 南条氏(7)は伊豆国南条を名字地とする御家人であったらしく、承久の乱前後北条義時・泰時の被官になったようである。主家と同じ廊内に邸宅を構えた。駿河国富士郡上野郷を本拠とした南条氏には関係史料があり、南条氏一族は、同国蒲原庄関島や陸奥国三迫加賀野村・同国岩手郡二王郷等の所領をもち鎌倉に屋地があった。その所領は散在しており、かつ零細である。鎌倉時代南条氏の実名の知られる者としては『吾妻鏡』では時員・経忠・忠時・頼員など、それ以外の史料では、時光・時忠・高光・時綱・宗直・高直らがいるが、それらを系統立てて系図化することはむずかしい。頼員もどのように位置づけてよいかはっきりしない。時光は平姓を称している(日興筆本門寺棟札裏書)。時光の系統が日蓮〔1222〜82.61歳〕の信者であり、時光が日蓮の門弟日興〔1246〜1333.88歳〕の外護者として富士門流発展の基礎を作ったことはよく知られている。 正嘉二年〔1258〕正月二日の引出物の馬は工藤三郎左衛門尉光泰が相模三郎時利と一具になっている(8)。得宗被官工藤光泰の時輔に対する親昵さを推量できる材料になろうか。東寺百合文書エ一至十三の文永六年(一二六九)七月五日六波羅御教書案奥書にみえる訴状裏判の所に南条左衛門尉・河井右衛門尉等が記載されているが、彼等は六波羅探題南方時輔の被官・奉行人である。こうして、時頼の被官はそれぞれ時頼の子息たちの養育・後見に当たり、また子息たちの腹心としてその職務活動を推進したのである。ただ、これら被官たちは時輔を政治的にもり立てて得宗正嫡に敵対するような存在ではなかった。 文応二年(一二六一)正月四日、来たる正月七日の将軍宗尊親王鶴岡八幡宮参詣の供奉人が決められた。時頼の子息たちの供奉の順序は、相模太郎(時宗)・同四郎(宗政)・同三郎(時輔)・同七郎(宗頼)で、これは時頼の内意にもとづくものであった。時頼はとくに「時宗は兄の上に著させよ」と言っている。以前から供奉の次第はこの順序であったが、時頼は時宗を筆頭に嫡庶の順を明言したのである。得宗家の継嗣の次第を時宗−宗政と明言したことにもなる。時宗十一歳、宗政九歳、時輔十四歳、宗頼は建長六年生まれとすると八歳である。 以下、時輔が幕府政治においてどのような役職をつとめたかをみてみよう。正嘉元年〔1257〕十二月二十四日廂番衆二番、文応元年〔1260〕正月二十日昼番衆三番(時宗は一番)、同年二月二十日鷹御所結番四番として将軍の侍衛をしており、将軍出行の諸儀式に供奉している。この文応元年に、時利から時輔に改名する。動機ははっきりしていない。時利に加冠をした足利利氏は『吾妻鏡』では建長八年(一二五六)八月二十三日条に足利三郎頼氏と初出する。渡辺晴美氏は「『輔』という名乗りは『宗』たる者に対して“輔”としての存在を鎌倉政界に明示したことになる。」としている(9)。渡辺晴美氏は、時利の改名を臼井信義氏の論文「尊氏の父祖」(『日本歴史』二五七号)に言う、利氏→頼氏改名の時期を正元二年=文応元年〔1260〕とする意見を踏まえ、時利→時輔改名時期と同時期として右の意見を出しているのである。利氏→頼氏改名は『吾妻鏡』では、それより四年さかのぼるから、両者をからませて言うには検討の余地があるが、興味ある意見である。 執権北条長時〔1230〜64.35歳〕の出家にともない、文永元年(一二六四)八月、連署政村〔1205〜73.69歳〕が執権となり、時宗が連署となった。それまでの長時執権・政村連署の体制から、いよいよ時宗体制への第一歩を踏み出したのである。それにともなって同年十一月、時輔は六波羅探題南方となる。政村・時宗の意図が、時輔を幕府中枢部からはずすことにあったのか、幕府の出先機関を強化するための措置であったのか、簡単には断定できない問題である。前者に比重がかかっていたと思うがあとでまた考えよう。 「若狭守護職次第」には文永元年から文永八年まで陸奥守時輔朝臣(号北殿)が若狭守護であったとあるが(10)、これは諸徴証からみて時茂〔1240〜70.31歳〕の誤まりである。また佐藤進一氏は時輔が伯耆守護であったと考証しておられるが(11)、従い難い。『吾妻鏡』によると正嘉二年(一二五八)六月十二日遠笠懸を行っており、弘長三年〔1263〕正月十日には旬の鞠奉行をしており、蹴鞠も上手であった。生母の筋から言っても京都風の教養にはなじんでいたろう。『東巌安禅師行実』によると、時輔は兀庵普寧〔1197〜1276.80歳〕の門弟であった。兀庵普寧が文応元年時頼に招かれて建長寺に住したあと六波羅探題として時輔が上洛するまでの間に参禅していたのである。十三歳から十七歳までの間である。文永二年〔1265〕兀庵は離日する前に上洛しているから、時輔は京都で会っていたかもしれない。離日後の兀庵普寧の墨蹟によっても、両者の道交がかなり深いものであったことが知られる。 時頼はじめ幕府首脳者はことごとに正嫡の時宗を第一に立てて時輔を差別待遇している。それは意図的であり、かなり執拗でもある。残された史料からは時輔の人となりを明確に把握することはむずかしいが、ひとかどの人物ではあったらしい。少なくとも暗愚でなければ、反得宗(=時宗)的な動きの結節点になる可能性はある。無気味な存在であったろう。誅殺されたときは二十五歳である(12)。 注 (1)三浦義村の女、北条泰時の室となり時氏を生み(時頼の祖母)、のち三浦盛連に嫁して光盛・盛時・時連らを生む。 (2)野辺文書所収『北条氏系図』も「母讃岐局」とする。高田豊氏は三河の局を宝寿丸(時利・時輔)の母とする(「吾妻鏡における『建長元年』欠文理由の一考察」『政治経済史学』一一四号、一九七五年一一月)。 (3)『帝王編年記』巻廿六、六波羅南方の説明及び文永九年二月十五日北条時輔誅伐条は時輔について「最明寺禅門(時頼)四男」とする。 (4)網野善彦氏は北条時輔について「家女房といわれた小山長村の娘を母として生まれた」(『蒙古襲来』一三六頁、小学館、一九七四年九月)とするが、小山長村〔1217〜69.53歳〕の娘は北条時輔の妻である(『吾妻鏡』正嘉二年四月二十五日条)。 (5)川添昭二「北条時頼の信仰」(『法華』六五−四、一九七九年四月)。本書第三編第一章。 (6)小山氏については和久井紀明「中世東国の在地領主制の展開−下野国小山氏について−」(『地方史研究』二八号、一九七二年八月)を参照。 (7)南条氏に関する論文として川添昭二「日蓮と武士との関係」(『日本仏教』八号、一九六○年五月)。奥富敬之「得宗被官家の個別的研究−南条氏の場合−」(『日本史攷究』一四、一九六九年四月)。 (8)なお、『吾妻鏡』弘長元年(文応二年)正月四日条も参照。 (9)渡辺晴美「北条時宗の家督継承条件に関する一考察(下)」(『政治経済史学』一一一号、一九七五年八月)。 (10)佐藤進一『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』一○○頁。東京大学出版会、一九一年六月。 (11)右同書一○七頁・一四二頁。村井章介「蒙古襲来と鎮西探題の成立」(『史学雑誌』八七編四号、一九七八年)では平政長に擬定している。同『アジアのなかの中世日本』校倉書房、一九八八年一一月に再録。 (12)弘安八年豊後国図田帳に「(大野郡)井田郷八十町五段・地頭職相模三郎入道跡女子」とあり「按大系図・相模三郎跡ハ時輔ナルベシ」とある(田北学『増補訂正編年大友史料』三−一一一号)。時輔の入道の事実は知らない。 ※「注」は原論文では末尾に一括して置かれています。 |
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