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川添昭二 「北条時宗の研究−連署時代まで−」(3/4)
(『日蓮とその時代』.山喜房佛書林.平成11年.p386以下)




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※原文傍点部分は下線に換えました。


  (四)小侍所

 元服以後、時宗は将軍の二所(伊豆・箱根)参詣、最明寺亭出行、鶴岡参詣等に供奉し、正元二年(一二六○)正月二十日には昼番衆の一番筆頭になっている。この昼番衆については前引『吾妻鏡』同日条に記するとおりである。

 『吾妻鏡』弘長元年(一二六一)四月二十五日条には、極楽寺の第で時頼〔1227〜63.37歳〕の命により、結婚後三日目の時宗が小笠懸の妙技を披露した話が載せられており、時宗が弓馬に熟達していたことは知られる。時宗が昼番衆一番筆頭になったのは、弓矢に熟達していたこともあろうが、やはり北条氏家督の後継者たることを示すべく時頼が配慮したものであろう。

 正元二年は四月で文応と改元するが、同年二月、十歳の時宗は小侍所に入った。このことを記しているのは『鎌倉年代記』であるが、小侍所としての時宗の活動の史料的初見は同年七月六日であり、信じてよい記事である。以後、時宗は文永元年(一二六四)八月連署になるまで小侍所にあって活動した。この期間は、時宗が連署−執権になるまでの政務の基礎練成期間であり、教養蓄積の期間でもあった。以下、小侍所がどのようなものであるかを述ベ、小侍所としての時宗の活動を具体的に述べてみたい。

 小侍所については、将軍に対する御家人の奉公の実態を究明する一環として、牧健二「武家的奉公の初期形態」(『法学論叢』四三−四)、橋本実『日本武士道史研究』(雄山閣、一九三八年六月)などに言及されているが、五味克夫「鎌倉御家人の番役勤仕について(二)」(『史学雑誌』六三−一○)、同「鎌倉幕府の番衆と供奉人について」(『鹿児島大学文科報告』七号史学篇四)によって勤務の実態が明らかにされた。これらの業績を参照しながら小侍所について概略ふれておこう。小侍所が創設されたのは承久元年(一二一九)七月二十八日である。この日、京都から下向した幕府の幼主藤原頼経〔1218〜56.39歳〕を北条義時〔1163〜1224.62歳〕の大倉亭の郭内南方の新造御所に迎え入れ、宿侍等を定めた。これ以前、然るべき輩は昔西侍に着到していたのであるが、郭内が手狭なため小侍に候して将軍を守護する、ということで、二十二歳の北条重時〔1198〜1261.64歳〕が小侍別当に補せられたのである。これまで西侍(侍所)に着到出仕する御家人の中から特選された御家人が近士・近習として将軍及び夫人の身辺を警固し、学芸その他諸用を勤めていたのである。頼経の下向を機として小侍別当が御所内諸役を統括することになった。だから広く言えば、小侍所は侍所から分化したのである。

 侍所は、鎌倉幕府が最初に設置した政治機関で、建保元年(一二一三)北条義時が和田義盛〔1147〜1213.67歳〕を滅ぼして義盛の帯びていた侍所別当を兼ねるようになったときを画期として段階的にとらえられる。これ以前は和田義盛・梶原景時〔?〜1200〕が別当・所司(一時、景時が別当となる)で、囚人の召し預かり、軍奉行、将軍の随兵供奉・警固などに任じ、非違の検断、罪人の処分などを行っていた。つまり御家人統制がその職務である。義盛族滅後の建保六年(一二一八)七月二十二日、侍所の職員と管轄事項が明示された。別当は北条泰時〔1183〜1242.60歳〕であり、二階堂行村〔1155〜1238.84歳〕・三浦義村〔?〜1239〕らを指揮して御家人の奉行に当たり、大江能範が御出以下御所中雑事を管掌し、伊賀光宗〔1178〜1257.80歳〕が御家人供奉所役以下の催促を管掌することとなった。侍所は御家人を統括するが、後には刑事訴訟を扱うようになる。侍所は幕政機構中きわめて重要な役割を占めるが、別当の職は義時以降北条氏の独占するところであり、所司(次官)には得宗被官が常任されており、北条氏(得宗)の侍所掌握は決して名目的なものではなかった。小早川家文書正安元年(一二九九)六月七日の侍所発給の裁許状は鎌倉番役に関する相論を裁決したものであるが、奉者は中務丞藤原・左衛門尉金刺・左衛門尉藤原である。金刺氏は諏訪氏一族の得宗被官で、他の二者も得宗被官ではないかと思われる。

 小侍所は、侍所が管掌していた御家人統制にかかわる広範な任務の中から直接には将軍の侍衛を中心とする諸役を分掌した。将軍出行の際の供奉人及び宿直の催促などそうである。供奉・警固は、当初は軍事的性格の強いものであったが、幕府権力の安定、将軍周辺の京風化の進行などによって、儀容を張ることに力点が移り形式的整備が進められた。弓始射手の選定も小侍所の管掌下にあったが、まさに儀式の執行である。小侍所が管掌する御所内諸役は時代が降るとともに複雑化し、実質を失なって形式化の度合いを深めていく。時宗が小侍所にあった将軍宗尊親王〔1242〜74.33歳〕時代は、形式化が一段と進んだ時代である。

 小侍所別当は寛喜二年(一二三○)三月、重時〔1198〜1261.64歳〕が六波羅探題になったため、北条氏一門の実泰〔1208〜63.56歳〕がこれに替った。実泰は重時の弟で金沢氏の祖。亀谷殿と呼ばれ、法名浄仙、歌人として知られた。しかし病弱で、天福二年(一二三四)六月には辞職し、嫡男の実時1224〜76.53歳〕がこれに替わった。実泰は弘長三年(一二六三)九月、五十六歳で没している。実時が小侍所別当になったのは十一歳である。要職ではあり年少で譲補しがたいという意見もあったが、泰時の保証で就任した。泰時は実時の烏帽子親で、実時が実直優秀であることをよく知っており、要職を北条氏一門で占めておくのに適切な好人材であったから、あえて推したのであろう。『吾妻鏡』仁治二年(一二四一)十一月二十五日条によれは、泰時は孫の経時1224〜46.23歳〕に対し「好文を事とし武家の政道を扶くべし」と諌め、実時に相談をし両人相互に水魚の思いを成せ、と言っている。泰時は北条氏家督のよき支持者として実時を信頼していたのである。天福二年七月、将軍頼経の室竹御所.源頼家女.1203〜34.32歳〕が死産で卒去し、後のことを実時が奉行したため、小侍所別当を二十一歳の経時が替わり、嘉禎二年(一二三六)十二月まで経時が別当をしている。以後、実時が再び別当となるが、建長六年(一二五四)三月、母の死によって、重時の子時茂1240〜70.31歳〕と交替。しかし所司は実時の被官平岡実俊がそのまま執務しており、実時もすぐに再任し、同年閏五月一日には別当としての活動が知られる。弘長三年(一二六三)十月までは別当として明証があるので、文永元年(一二六四)八月、時宗が連署になると同時かその前後に辞職し、北条宗政1253〜81.29歳〕・業時1241〜87.47歳〕と替わったのであろう。宗政・業時のあとは『鎌倉年代記』によると次のような人物が別当となっている。弘安七年(一二八四)七月に師時(九歳)、正応六年(一二九三)七月に宗宣(三十五歳)、永仁六年(一二九八)十二月に煕時(二十歳)、嘉元三年(一三○五)五月に維貞(二十歳)、延慶四年(一三一一)正月に高時(九歳)。なお『尊卑分脈』によると、師時の子時茂、煕時の子茂時が小侍所であったと記されている。室町幕府にも小侍所があり、諸記録にその活動が記されている。

 実時の略歴(28)を見ると次のようである。誕生は元仁元年(一二二四)。父は義時の子実泰、母は天野政景の娘である。天福二年六月、十一歳で小侍所別当となる。嘉禎四年(一二三八)正月、将軍藤原頼経の上洛に際し、将軍宿所を夜営守護して小侍所別当としての責任を果たし評価を高めた。同年掃部助に任じ宣陽門院蔵人となった。寛元四年(一二四六)江馬光時の叛のときは、時頼は政村〔1205〜73.69歳〕・実時・安達義景〔1210〜53.44歳〕らを相談相手として「深秘の沙汰」を行っている。時頼に深く信頼されていたことが知られる。建長四年(一二五二)には関東引付衆となり、翌五年には関東評定衆となった。同七年十二月越後守に任じて叙爵し、建長八年(一二五六)四月には三番引付頭。文永元年(一二六四)六月二番引付頭、同年十二月越訴奉行。翌二年六月従五位上に叙し、同十年六月一番引付頭、建治元年(一二七五)五月所労によって武蔵国久良岐郡六浦庄に籠居し、翌二年十月二十三日、六浦の別業で死去した。享年五十三歳。

 実時は射術・蹴鞠等の諸芸に通じていたが、なかでも学問に精励し、清原教隆〔1199〜1265.67歳〕について清原家の儒学を学んだ。宝治元年(一二四七)教隆について『古文孝経』の訓説を受けたのが、実時の学問関係の史料的初見である。以後、文永二年(一二六五)教隆の卒去に至るまで教隆について訓説を受け、その間の書写本の奥書はおおむね教隆が記している。教隆没後は越州刺史という唐風の署名で書写校合をしている。実時の儒学の学習は、教隆の卒去を境いにして前後二期に分けることが出来る(関靖『武家の興学』一三二頁)。実時の好学によって金沢文庫が建てられた。好学好文の北条氏一門の中でも抜群の存在であった。時宗が小侍所に入った文応元年〔1260〕は、実時は三十七歳、小侍所の別当であり、評定衆で三番引付頭という要職にあり、儒学の学習は進境いちじるしいものがあった。時頼が時宗を小侍所に入れたのは、実時の指導のもとに政務に習熟させるためであったと思われる。


  (五)北条時宗の小侍所勤務

 時宗がどのような役職で小侍所に入ったのか、明記したものはない。別当は北条実時であり、実時以前、別当が複数であった例はない。別当で入ったとは断言出来ない。所司は得宗被官の工藤光泰と北条実時の被官平岡実俊であり、得宗家の嫡男を被官格の役職である所司に任ずるわけはない。小侍所として命令を受け、執行している責任者は実時と時宗である。つまり時宗は名目的には別当格として実質的には副別当の働きをしているのである。形式的には別当の複数制であり、執権・連署の複数制を想起させる。実時・時宗のあとも宗政・業時の複数制で、この両人は新規に同時に就任しているから、実質的な複数別当である。両例以外、小侍所の複数別当の例は見出し得ない。宗政・業時の場合は、実時・時宗の場合を継承しているのであるが、むしろ時宗の特例をあとから正当化するための措置であったようにうけとれる。時宗の小侍所入りが、父時頼の意向による政務見習いのためであったことは明らかである。

 時宗が小侍所に入った年齢は十歳、実時はそのとき三十七歳である。実時は幕府の重職を兼ね、泰時・経時・時頼と北条氏得宗家の信任厚く、学問・諸芸に通じた、北条氏一門中第一等の人物である。実時の政治の理念と実践の概賂は、最晩年に子息実政〔1249〜1302.54歳〕にあてた「実時遺訓」に明らかである。泰時・重時の公平を旨とする政道理念を継承し、実際に国政を担う者としての政治的責任感に裏付けられた治者意識の高揚が読み取れる。時頼は実時を時宗の師父としたのである。実時は儒学の学習に精励しており、陰に勝に時宗の教養蓄積に影響を及ぼしたろう。時宗が小侍所として直接に関係した将軍宗尊親王〔1242〜74.33歳〕は、幕府歌壇を京都歌壇に遜色のないほど水準を引き上げた屈指の歌人であり、将軍周辺には和歌をたしなむ者がひしめいていた。しかし、時宗はその影響をあまり受けなかったようで、漢詩文の世界へ沈潜していった。これはやはり実時や父時頼、禅僧らの影響とみられる。ともあれ、小侍所時代は時宗の教養形成の上で重要な時期であった。

 小侍所の実務を直接に担当しているのは所司の工藤光泰と平岡実俊であり、その下に朝夕雑色番頭・小舎人などがいた。工藤光泰は得宗被官である。小侍所の所司に得宗被官が配置されているのは、侍所の所司が得宗被官であることと関連しており、政務機構内への得宗の巧妙な手配を示すものである。工藤光泰は『吾妻鏡』では、仁治二年(一二四一)正月五日の弓始射手に見えるのを始めとし、文永二年(一二六五)元旦の年始の儀まで三十ケ所の記事がある。それらは純然たる得宗被官としての記事と、小侍所所司としての記事に大別できる。得宗被官としては、弘長三年(一二六三)十一月二十日、時頼の臨終看病をした時頼七近臣の一人であり、御内宿老というべき上層被官であった。時輔の後見的役割もしている。工藤氏(29)は伊豆国伊東から出たもので、所領は伊豆・駿河・陸奥等に散在し、被官として鎌倉西御門に屋地を持っていた。若狭守護代としての活動はよく知られている。一族の分出は繁く、系譜的な整理はむずかしい。

 弘長元年(一二六一)九月十九日、二所参詣着到奉行の事に関し、光泰は小侍所司と明記されている。正元二年(一二六○)元旦の将軍宗尊親王の御行始の供奉人の催促を、平岡実俊故障のために工藤三郎右衛門尉光泰が単独で奉行している。このときすでに小侍所所司は光泰・実俊であったことが分かる。所司の任務内容は、仏事法会の奉行、二所・鶴岡放生会参詣等将軍出行の際の供奉・随兵、※飯出仕者・的始射手・笠懸射手・鞠始等の交名注進、小侍所衆の人事関係等である。
※土へんに「完」

 平岡実俊が北条実時の被官であることは、すでに佐藤進一『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』一三八頁で示されている。平岡氏は実時の子息実政〔1249〜1302.54歳〕の長門守護・肥後守護の代官、鎮西探題実政の引付職員等もしている。実俊は『吾妻鏡』では、寛元三年(一二四五)八月十五日、平次左衛門尉実俊の名で鶴岡放生会の供奉人として見えるのを始め、弘長三年(一二六三)六月二十八日放生会供奉人の散状を工藤光泰とともに廻らせたことまで二十四ケ所の記事がある。建長五年(一二五三)正月二日条は、時頼亭への将軍の御行始供奉人催促に関する記事で、小侍所司平岡左衛門尉実俊が朝夕雑色らをして散状を廼らせている。実俊はこれ以前すでに小侍所司に任じていたのである。『吾妻鏡』の実俊に関する記事はほとんど所司としての記事である。任務内容は工藤光泰と同じである。

 下総中山法華経寺所蔵の「天台肝要文」裏文書に次のような実俊奉書が残っている。中尾堯『中山法華経寺史料』一四四頁に紹介されたものであり、『鎌倉遺文』第十一巻七七三二には左衛門尉平岡実俊奉書として収める。

六月廿日御神事流鏑馬役事、雖為定役、兼日可被催侯之由、所被仰下、仍執達如件、
   四月十五日    左衛門尉奉(花押)
  千葉介殿

 『鎌倉遺文』は建長六年〔1254〕の条にかけている。このとき別当の実時は母の死で別当を時茂1240〜70.31歳〕と交替していたときであるが、所司にはかわりはない。同文書の建長六年五月九日千葉介宛左兵衛尉某奉書が同一内容であるところからすると、建長六年と見得る可能性は高い。鶴岡神事流鏑馬役を下総守護千棄頼胤に催促したものであり、小侍所司の催促状として貴重である。同文書には年月日欠の、ちやうにん書状があり「来八月御放生会御随兵事、御催状如此侯、平岡左行門尉奉行にて候也、いそき可有御奉之由、催使申侯つるに侯也」とあり、所司実俊の活動の一端を伝えている。なお、中山法華経寺文書「秘書」裏文書には、法橋長専の富木入道にあてた七月六日の書状があり「御放生会随兵役事、以廻文被相催候之上、掃部助殿御奉行にて」とある。別当実時が放生会随兵役催促の散状を千葉氏に廼らせたことが知られる。

 ところで、北条時宗の小侍所における活動はどのようなものであったのか、その全てにわたって詳述する紙幅はないので、ここでは発給文書に即して述べておきたい。そのことによって小侍所における時宗の主要事績を見ることができるし、さらには古文書学的にも説明の価値あるものと考えるからである。

 正嘉元年(一二五七)十二月二十四日、始めて廂衆を結番させ、問見参番(五味克夫氏は申次番衆と解する)を結番せしめたとき、『吾妻鏡』は「仙洞(院)の儀をもって関東に模せらるるの条」云々と記していることからも推知出来るように、宗尊親王の代になると将軍周辺の諸儀式・諸制度がいちじるしく京部風に整備化されていった。それだけに諸儀式・諸制度は形式化され、それを直接に負担する関東の御家人は、一面には負担を名誉とし供奉から脱落すると諸方に愁訴して回復を願ったりしているが(30)、実情としてはむしろ、何とか口実を設けて負担から逃れようとする者が多くなっていた。供奉の度数が頻繁になったからである。供奉辞退の理由としては鹿食(31)・鳥食(32)・服忌、散状以前の帰国等があるが、所労を称するのが多い。中には「いささか心に懸る事」があるから、という例もある(33)。この傾向は時宗が小侍所に入る頃から一段と強くなった。小侍所としての実時・時宗の精力は、御家人に所役の自由対捍を禁ずることに多く費やされた(34)。

 時宗の代の小侍所の任務は、主として二所参詣・鶴岡参詣・御行始め等の供奉人の撰定、鞠始めの交名注進、的始め・笠懸等の射手の撰定、日常的な将軍近士者の結番事務等であった。『吾妻鏡』建長八年(一二五六)正月五日条によると、宗尊親王は北条時頼第への御行始めの供奉人を自ら撰定し、その日出仕の衆八十五名の交名を被覧して三十八名を定めている。そして、このことは以前両三年は時頼が撰定していたのであるが、今年始めて将軍が行った、と記している。建長五年十二月三十日条では、正朔の将軍御行始めの供奉人の事について、莚の上の座席に付ける札を取り集めて、その交名を注し、御点を申し下して相催した、とある。建長八年以前に将軍が供奉人の撰定を最終的に行っていたことが知られるが、建長八年からはそれを直接行うようになったのである。正嘉元年(一二五七)十二月十六日条によると、宗尊親王は御所奉行の二階堂行方〔1206〜67.62歳〕を介し、二所・三島参詣の供奉の惣人数を注して進覧すべきを小侍所に命じている。逆の径路で供奉惣人数記が将軍に進覧されるのである(35)。正嘉二年六月十八日、来たる八月の鶴岡放生会に向けての供奉人の撰定を宗尊親王は自ら行い、中使を実時の許に遣わしているが、その散状の右の御点は布衣、左の長点は随兵、短点は帯剣であった。小侍所司はその散状を朝夕雑色等を使いとして御家人に触れ廻すのである(36)。命を受けた御家人は奉りを書くのであるが、故障ある者はその由を押紙に書いたりする。小侍所ではその散状を書き整え将軍に進覧する(37)。

 文応元年(一二六○)十一月十日、明年的始めの射手差し定めの奉書が時宗・実時に下された。弘長元年(一二六一)十一月二十六日には、明年正月の御弓始めの射手等を撰び、実時・時宗が連署の奉書を下している。奉書そのものは残っていない。弘長三年十月十七日には、明年正月的始め射手撰定につき、実時が父実泰卒去の重服であったため、時宗が単署の催促奉書を出している。この奉書も残っていない。文応元年十一月十一日、来たる十九日の二所参詣の供奉人の催促を、宗尊親王は二階堂行方を介して実時・時宗に命じた。卿相雲客(関東祗候の廷臣)の事は御所奉行二階堂行方の管掌である。ところがそれを小侍方の奉行の事に加え催促せよと実時・時宗に言って来たので、次の状を以て、すぐに公卿等の散状を行方に返却している。

二所御参詣供奉人間事、仰給之趣、不得其意侯之間、所給之注文等返進候、恐々謹言、
   (文応元年)
   十一月十三日        時宗
                     実時
   (二階堂行方)
   和泉前司殿御返事

 前述のように、宗尊親王の代になり、将軍出行の度数が多くなり、しかも威儀を整え、御家人の負担が増加したため、何かと理由をつけて供奉を対捍する者が多くなった。小侍所実時・時宗にとっての主要課題は、供奉対捍をなくしていくことにあった。時宗が小侍所に入った文応元年七月六日、宗尊親王は二階堂行方を介し、実時・時宗に去年の随兵不参者を調査させている。大須賀朝氏と河曽沼光綱が勝手に不参し、弟や子息を代官に立てていたのである。この事の許容は誰がしたのか、という将軍の問いに対し、実時等は口頭で人を介して伝達したのでは、そのままに伝わらないからと文書にして工藤光泰に付して時頼に覧てもらった。時頼は「状に載するの条、頗るもって厳重に似たらんか」と言って所司の工藤光泰・平岡実俊等に、二勝堂行方を介して口頭で返答させている。実時・時宗連署請文は、結局文書としての用は果たさなかったのであるが、『吾妻鏡』に収められて伝存した。時宗関係の文書としては、今日知られる限り最初のものであり、実時・時宗の厳格な勤務振りなどから、時宗の性格の一端も推知出来るので、やや長文であるが、次に引用しておく。

去年八月放生会御社参供奉人間被仰下両条
一、阿曽沼小次郎(光綱)随兵役以子息令勤仕申事
右、所労之由、押紙于廻文之間、言上子細之処、以光泰・実俊、度々有御尋子細、可令勤仕之由被仰下訖、更非自由之計侯、
一、大須賀新左衛門尉(朝氏)・同五郎左行門尉(信泰)等間事、
右、於大須賀新左行門尉者、被下随兵御点歟間、催促侯之処、所労之由押紙于廻文之間、注申此旨侯之処、現所労之間、御免訖、次於五郎左衛門尉者、本自被下直垂御点候之間、勤仕訖、此両人事、同非私計侯、
以前両条、如此之由覚悟侯、但胸臆申状、不足御信用侯歟、然而如此事、先々不及御書下侯之間、或引勘愚記、或任御点注文、言上子細、以此趣可令披露給侯、恐惶謹言、
    (文応元年)
    七月六日           平時宗
                     越後守実時
     (二階堂行方)
 進上 和泉前司殿

 この連署請文はかなり激しい筆致で抗議をしており、時頼の厳命で没になり文書として作用しなかったが、それをわざわざ『吾妻鏡』に入れた同書編纂者の意図はどこにあったのだろうか。連署請文は、直接には実時・時宗の処置が「私の計らい」でないこと、つまり処置に手落ちはないことを強調したものである。その背景には、前述のような将軍周辺の繁文※礼化に対する批判的な目があったように思われる。『吾妻鏡』がわざわざこのような文書を収載しているのは、連署請文の抗議を是としていたからであろう。そのことは、時宗による宗尊親王追放を正当化する意識が『吾妻鏡』の編纂に作用していたことを示していると見られる。連署請文は将軍の専制的な供奉人催促に対するあわわな抗議である。時宗が宗尊親王を追放する要因は、将軍を侍衛することを本とした小侍所時代に醸成されていったのである。実時・時宗が、宗尊親王の和歌的世界になじまず、儒教的世界を強固なものにしていったのも、このことと少なからぬ関係がありそうである。
※糸へんに「辱」




(28)関靖『武家の興学』、東京堂、一九四五年四月。同『金沢文庫の研究』、講談社、一九五一年四月、参照。
(29)奥富敬之「得宗被官家の個別的研究−工藤氏の場合−」(『日本史攷究』一七、一九七一年六月。
(30)『吾妻鏡』建長八年正月十七日条。
(31)右同弘長元年八月二日・弘長三年正月二十三日条その他。
(32)右同弘長三年正月二十三日条。
(33)右同建長六年七月二十日条。
(34)右同文応元年十二月十六日条。
(35)右同正嘉元年十二月十八日条。
(36)右同建長五年正月二日条。
(37)右同建長五年七月十七日条。



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