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系図 御子左家








藤原兼家──道長─┬─頼通
              │
              └─長家──忠家──俊忠──俊成─┬─定家─┬為家──────┐
                                         │      └女子(民部卿典侍) │
                                         │                    │
                                         └女子──俊成卿女        │
                                                               │
┌───────────────────────────────────────┘
二条
├為氏──為世─┬為道─┬為定
│           │     │
│           │     └女子(宣旨三位。法仁法親王母)
│           │
│           ├為藤──為明
│           │
│           ├為冬
│           │
│           ├女子(為子。尊良・宗良親王母)
│           │
│           ├女子(昭訓門院春日)
│           │
│           └女子(大納言典侍)

├源承
京極
├為教─┬為兼
│     │
│     └女子(為子。大納言三位)
冷泉
├為相─┬為秀──為尹─┬為之─為富──(中略)──為臣──為任──為人
│     │           │
│     │           └持為
│     │
│     └女子(久明親王室)

└女子(大納言典侍)
                         


後深草院二条 との年齢差 備考・関連ページ
藤原道長(966〜1027.62歳) 292歳上
藤原長家(1005〜1064.60歳) 253歳上 道長の六男。御子左(みこひだり)家の祖。正二位権大納言。「御子左」との名称は長家が醍醐天皇の御子大臣兼明親王の邸宅(御子左第)を伝領したことに拠る。
藤原俊成(1114〜1204.91歳) 144歳上 平安末・鎌倉初期の代表的歌人。正三位非参議で出家。後白河法皇の命により『千載集』を編纂。1203年、後鳥羽院より九十の賀を賜る。
藤原定家(1162〜1241.80歳) 96歳上 不世出の天才歌人ではあるが、性格が狷介で出世は遅れた。『新古今集』編纂者の一人。九条家の庇護を受けていたため、源通親には敵意を抱いていた『増鏡』には後鳥羽院から苦手な長歌の撰進を突然求められた定家があわてふためく様子が描かれており、『増鏡』の作者の眼は定家に対して決して好意的ではない。
俊成卿女(1171?〜1254?) 87歳上? 鎌倉初期の女流歌人。実名不詳。母が俊成女で、実際には俊成の孫。源通親の子の堀川通具に嫁し、具定と一女を生んだが、後に別居した。定家は俊成卿女のこともあって堀川通具に敵意を抱いていた。
藤原為家(1198〜1275.78歳) 60歳上 若い頃は蹴鞠に熱中。後嵯峨院の命により『続後撰集』を編纂。晩年は阿仏尼を溺愛し、その子為相に細川荘を与える旨の文券を書いて、後に延々と続く相続争いの原因を作った。
二条為氏(1222〜1286.65歳) 36歳上 為家の嫡男。母は宇都宮頼綱女。二条家の祖。『増鏡』の弘安の御祈願をめぐる奇妙な記事に為氏の名前が出てくる。大正時代には『増鏡』のこの部分の解釈をめぐって激烈な論争が起きた。
源承(げんしょう.1224〜?) 34歳上 為家の二男。二条派の長老的存在。『源承和歌口伝』で反御子左派の真観や阿仏尼・為相母子を激しく攻撃。
京極為教(1227〜1279.53歳) 31歳上 為家の三男。母は為氏と同じく宇都宮頼綱女。京極家の祖。兄と不仲だった。
二条為世(1250〜1338.89歳) 8歳上 為氏の長男。従兄弟の京極為兼と厳しく対立した。『増鏡』には後宇多院側近として権勢を振るう為世に対し、極めて辛辣な批評がなされている。兼好の歌道の師でもあり、『徒然草』第230段に登場する。
京極為兼(1254〜1332.79歳) 4歳上 伏見院側近として権勢を振るうが、特異な性格の故に敵が多く、幕府の嫌疑を受けて、佐渡・土佐と二度にわたって流罪になる。『徒然草』第153段に登場。より詳しくはこちら
冷泉為相(1263〜1328.66歳) 5歳下 為家晩年の子。母阿仏尼。冷泉家の祖。41歳上の異母兄為氏と細川荘をめぐる訴訟となり、為氏死後は為世との間で延々続けた。鎌倉在住期間が長く、関東歌壇の指導者となった。早歌「竜田河恋」の作者。『増鏡』には登場せず。(「冷泉家の歴史」
二条為道(1271〜1299.29歳) 13歳下 為世の嫡男であるが、29歳で没。関東に下ったこともある。早歌「名取河恋」の作者。
二条為藤(1275〜1324.50歳) 17歳下 叔父為雄の猶子となったが、兄為道が早世したので嫡家を嗣ぐ。『増鏡』は「為藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたるぬしにて」と評しているが、為藤自身を高く評価しているというよりも、父為世へのあてつけの感がある。
二条為子(?〜1311?) 為世女。「権大納言局。二条派の代表的女流歌人。遊義門院に仕え、嘉元二年(1304)以後に後二条院の典侍となり、徳治頃から後醍醐天皇の寵愛を受けて尊良親王・宗良親王らを生む。天皇即位後従三位を贈られた。」(桜楓社『和歌文学辞典』)
二条為定(1293〜1360.68歳) 35歳下 為道の二男。母は飛鳥井雅有女。7歳で父を失い、叔父為藤の教えを受け、1325年、為藤の後を嗣いで『続後拾遺集』を撰進。
二条為明(1295〜1364.70歳) 37歳下 為藤の子。後醍醐天皇に仕え、笠置の陣で捕えられて、1332年尊良親王の土佐配流に従った。1351年、南朝が京都を一時的に回復した際、参議となったが、その後は北朝にとどまった。
二条為冬(1302〜1335.34歳) 44歳下 為世の末子。南朝に仕え、尊良親王を奉じて足利尊氏追討の軍に従い、箱根竹の下で戦死。
冷泉為人(1944〜) 688歳下 冷泉家第25代当主。養子。大手前女子大学教授。








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