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「『吉舎町史(上)』中世編」(1/2)
(吉舎町教育委員会.昭和63年.p69以下)







 はじめに

 古代の貴族・寺社などの権門勢家(けんもんせいか)に代わって、中世社会を支配したのは武士階級である。西日本に勢力をはっていた平家は、いわゆる源平の合戦で敗れ、この地方も源氏の御家人(ごけにん)つまり関東武士団の支配下に入った。和智氏がそれである。和智氏は、一四世紀半ばの南北朝期に和知(三次市)から吉舎に本拠を移し、やがて備後の有力国衆として成長していく。吉舎町内には近辺の町村と比べて由緒ある寺院や文化財が数多くあるが、その多くは和智氏の残した文化遺産である。また、町内に残る一○ヵ所以上の戦国期を中心とする山城は、和智氏の戦いの夢の跡といえよう。

 他方農民は、米と麦との二毛作、そば・なたねといった新しい作物の導入、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)といった品種の改良、牛馬の飼育など新しい技術をとりいれたり、あちこちの谷頭(かしら)にため池を築いたり水車を発明して灌漑(かんがい)用水を確保して新たに畑を水田にかえ、経営を安定させて多くの農民が中小名主(みょうしゅ)として独立していった。今日の吉舎町内の集落の多くは、この中世四○○年の間に成立したものとみられる。また、自立した農民が、村内のさまざまな問題について惣(そう)村とよばれる寄り合いを持って協議決定し、農民の連帯意識を高めていった。現在吉舎町内各地に勧請(かんじょう)されている産土神(うぶすながみ)を祭った神社の多くは、この農民たちの自立と連帯の象徴としての存在であった。

 三玉大塚の存在が、吉舎が備後南部の瀬戸内海沿岸と備後北部を結ぶ交通上の要路に立地していたことを無視しては考えられないと同様に、中世においても、特に世羅台地に開発された高野山領大田(おおた)荘の発展にともない、尾道・甲山・吉舎、さらに三次・庄原へと延びる道は、備後北部と外界を結ぶもっとも重要な経済路線として大きな意義をもっていた。吉舎は、この交通の要地に立地して七日市・四日市などの市(いち)商業を発達させ、今日の吉舎市街地の原型を形成したのも中世であった。

 日本全体の歴史の流れからみれば、古代には地下水として流れ、歴史の表面になかなか姿をみせなかった庶民が、たくましく成長してその姿を歴史の上に具体的にあらわしてくるのが中世であるといえる。吉舎町においても中世に庶民の成長はめざましいものがあったと考えられるが、残念ながらその姿を具体的に描くだけの史料が残っていない。そこで、若干ではあるが文献史料も残っている和智氏の動向を中心に、吉舎町の中世の歴史を追ってみたい。


 広沢氏の祖、波多野氏

 寿永四年(一一八五)二月、源頼朝〔1147〜99.53歳〕が長門国の壇ノ浦に平家一門を滅ぼし、新しい歴史のページが始まった。建久三年(一一九二)七月二日、源頼朝は、寿永三年一二月の備前国の藤戸海峡(倉敷市)における平家との合戦に手柄をたてた広沢余三実方に対して、恩賞として備後国三谷郡一二郷を与えた(『閥閲録〈ばつえつろく〉』巻三○・「和智氏系譜」)。このことが広沢氏がわが吉舎町に縁由をもつに至ったきっかけである。

(※『閥閲録』は正しくは『萩藩閥閲録』といい、長州藩が享保一○年〈一七二五〉藩内諸家の文書、系譜を調査・編集したもので、その巻三○に載る「和智氏系譜」は、長州藩士和智次郎兵衛の提出したもの)

 広沢氏は、波多野氏からの派生で、その波多野氏は藤原秀郷を祖としている。


 波多野氏系図T(『尊卑分脈』より抄出)
                      (波多野)
 藤原秀郷−○−○−○─公清─経範─経秀─┐
 ┌───────────────────┘
 │          (松田)
 │          ┌義通──義経──有経
 └秀遠─遠義─┤
            │(広沢)
            │波多野余三
            └ 実方──実高──実能

(※『尊卑分脈』は広沢余三実方を波多野遠義の子としているが、その他の諸氏系図ではすべて義通の子としている)

 藤原氏が中流貴族として代々関東地方の国々の国司を歴任したのち、経範のとき、藤原摂関家の所領となっていた波多野(はたの)荘の預所(あずかりどころ)として同地へ土着し、在地名をとって波多野を称したものである。波多野荘は、神奈川県の相模湾から少し内陸に入ったところにある盆地で、ほぼ現在の奏野(はだの)市の位置にあたる。

 波多野氏は、この地に成長した関東武士で、波多野義通は保元の乱では源義朝〔1123〜60.38歳〕に仕えるが、彼の子義経は、治承四年(一一八○)八月源頼朝が石橋山で平氏打倒の最初の兵を挙げたときには、平氏方につき、一○月頼朝からの追及をうけて自殺して果てた。しかし、義経の弟忠綱は、源氏方に転じて平氏方の江田氏を討って父の所領を安堵されている(『吾妻鏡』)。義通の兄弟や子から大友・河村・菖蒲・沼田・広沢などの諸氏が分流し、秦野盆地を中心に相模国中西部を総領体制で固め、鎌倉時代源氏の有力御家人として勢力をふるった。


波多野氏系図U(『続群書類従』第六輯下所収「波多野氏関係系図」による)
                    (松田)
 波多野遠義┬義通───┬─義経
         │(河村)   ├─忠綱┬─経朝
         ├重高    │      └─義重
         │(大友)   │
         ├経家    │(広沢)
         │(菖蒲)   ├実方─実高─実能
         ├実経    │
         │(沼田)   └義職─義定─朝定
         └家通

 義通の子忠綱について、『吾妻鏡』は次のようなエピソードを伝えている。

 建保元年(一二一三)、北条時政〔1138〜1215.78歳〕は、幕府創立以来の重臣和田義盛〔1147〜1213.67歳〕を二日間の激戦の末これを滅ぼした。いわゆる和田合戦である。この戦いで、波多野忠綱は北条方について御所の西南政所での戦いでその先頭に立ち、駆けつけた三浦義村〔?〜1239〕とともにめざましい奮戦ぶりを示した。和田氏が敗れた原因の一つに、同族の三浦義村の寝返りがあった。戦いのすんだ翌五月四日、早速この度の合戦の論功行賞が行われたが、そのとき波多野忠綱と三浦義村の両人ともに政所(まんどころ)前の合戦での先陣は自分であったと主張して譲らなかった。困った北条義時〔1163〜1224.62歳〕は、ひそかに忠綱を別室へ招き、先陣は忠綱であることは分っている。しかし、このたびの戦いに勝利を得ることができたのは、ひとえに三浦義村の寝返りによる。それ故、先陣の功名は義村に譲ってやってくれ、その代わり後日忠綱にはそれなりに恩賞をとらせるから、と説得したところ、忠綱は「勇士の戦場に向かうは先登をもって本意となす。忠綱いやしくも家業を継ぎ、弓馬に携わる。何度といえども、なんぞ先登に進まざらんや。一時の恩賞に耽(ふけ)り、万代の名を汚すべからず」ときっぱり拒否したので、やむなく両者は将軍や武将の前で対決となり、忠綱、義村ともに自分の主張を述べたが、その戦いに加わっていた多くの武将が、先陣をきったのは、赤革威(おどし)の鐙に葦毛(あしげ)の馬に乗った忠綱であったと口を揃えた。しかし、幕府は、多くの武将に恩賞を与えたが、忠綱には何も与えなかった。というのは、「無双の軍忠にたいしては御疑いに及ばずといえども、御前において対決のとき、義村をもって盲目と称し、悪口をなすうえは、もって賞を加えず、罪科に準ずべきの由」ではあるが特別をもって罪科だけは許す、という結果に柊わった。

 このエピソードに経済的な利益よりも、一門の名誉と戦場での武勇を誇りとする鎌倉時代の武将の面目をみることができる。

 相模国に勢力をもっていた波多野氏は、北条氏の力におされて次第に同国での勢力を失い、忠綱の子義重が越前国守護および同国の志比(しび)荘の地頭に任ぜられてその地へ下向し、同じく忠綱の子経朝も丹波国へ移り同国一円に勢力を張った。

 『吾妻鏡』には波多野氏一族の名を八十数ヵ所に見ることができるが、前述の忠綱の先陣争いなどの武勇談のほかに、一族の文化的素養をしのばせる記事も多い。すなわち、建暦三年(一二一三)二月、三代将軍源実朝〔1192〜1219.28歳〕が昵懇(じっこん)の祗候(しこう)人の中から「芸能の人」一八人を選んで学問所番人に任命しているが、その一人に波多野経朝の名が見えるし、四代将軍源〔藤原の誤り〕頼経〔1218〜56.39歳〕も和歌会を催すにあたって、しばしば「和歌に携わる」波多野朝定を参加させている。また、僧道元〔1200〜53.54歳〕が越前国の志比荘内に有名な曹洞宗永平寺を開いたのは、彼に師事していた同荘の地頭波多野義重の勧誘によるものである。ついでながら『千載和歌集』には波多野秀遠や同経因の歌を載せている。これらの文化的素養は、後で述べる和智氏が寺社の建立・保護に努めたことと関連して興味がある。


 広沢氏の分流

 広沢氏はこの波多野氏からの分流である。「和智氏系譜」は、余三実方を「広沢流之初」とし、久寿二年(一一五五)八月源義朝の子義平〔1141〜60.20歳〕が叔父源義賢を討った戦いの功で、翌保元元年〔1156〕一○月、武蔵国広沢を賜い初めて広沢を称したとある。この実方が戦賞として得た広沢については、確証を欠くが現埼玉県朝霞市内とみられている(群馬県桐生市内の旧広沢村に勢力を張った広沢氏をあてる説もあるが、これは間違いである。『桐生市史』参照)。

 鎌倉幕府の有力御家人であった波多野氏の一族である広沢氏の幕府内での地位も、それにふさわしいものであったようで、『吾妻鏡』には広沢一族の名前を二十数ヵ所に見ることができ、それは、

文治元年(一一八五)八月 源頼朝、下河辺庄行平が献上した弓を〈広沢三郎(実高)〉を召して張らせ、自ら引き試す。
〃 一〇月 源頼朝、〈広沢三郎実高〉らを随兵に従え、勝長寿院の落慶供養に臨む。
建久元年(一一九○)一一月 源頼朝、〈広沢余三(実方)同三郎(実能)〉らを随兵に従え、上洛。
建暦三年(一二一三)八月 源実朝、〈広沢左衛門尉実高〉らを随兵に従え、新御所に移る。

といった将軍の随兵・供奉人あるいは近習といったかたちでしばしば名前が出てくる(年表参照)。

 関東御家人の広沢氏が備後国と縁由を持つにいたったのは、前に述べたとおり備前国藤戸での合戦の功名によって、建久三年(一一九二)七月、備後国三谷郡一二郷を与えられたことによる。備後国が平家の勢力範囲であった関係上、広沢氏以外の多くの関東御家人も新しく備後国に所領を得ている。その主なものを示すと、表のとおりで、このほか信敷(しのう)荘(庄原市)の地頭職は源頼朝の妹である一条能保室が得ている。

土肥(小早川) 相模国より 沼田荘(豊田郡本郷町)へ
三善 同国より 大田荘(世羅郡)へ
長井(田総〈たぶさ〉) 下野国より 田総荘(甲奴部田総町)へ
三吉 近江国より 三吉村(三次市)ヘ
山内首藤(やまのうちすどう) 相模国より 地昆荘(比婆郡・庄原市)へ

 広沢氏が得た三谷郡一二郷について考えてみたい。三谷郡というのは、現在の吉舎(ただし、もと甲奴郡に属していた上安田・知和と、もと世羅郡に属していた徳市を除く)・三良坂両町と三次市の東南部を郡域とする郡で、明治三一年(一八九八)三次郡と合併して双三郡となるまで、古代から存在した行政区画である。平安時代初期には郡内に五つの郷(ごう)(村)あったことが知られている(『和名抄』)が、鎌倉時代にはどれだけの郷に増えていたかいまのところわかっていないし、その政治的状況もわかっていない。ただ、後で述べるように、実方の孫実村のとき、「三谷郡西方を領す」(「和智氏系譜」)とあることからして、一二郷は三谷郡の全域でなくその一部で、しかも郡の東部つまり現吉舎・三良坂上両町の地域で、さらに、これも後から述べる理由により「三谷西条(みたにさいじょう)」ともよばれていた地域とみられる。

 古代末期、三次盆地周辺には太田(おおた)荘(世羅郡)や地毘(じび)荘(比婆郡・庄原市)・小童保(ひちほ)(甲奴郡)・吉田荘(高田郡)など多くの荘園があったが、三次盆地にはそのような荘園の所在が確認されていない。また、備後国には鎌倉時代に入っても国の公領つまり国司の支配する国衙(こくが)領がかなりあったことが知られており、当地方には私領である荘園は成立せず、公領として国司の支配下に置かれていて、その下で独立化した郡司や在地の豪族が平家方の武士の被官(家臣)に組織されていたものとみられ、そして、平家没落後「平家没官(もっかん)領」として追放され、彼らがこれまで所有していた職(しき)(職務・権限・収入)を広沢氏や三吉氏が得たものと考えられる。


 広沢氏の備後国入部・和智氏の分流

 承久三年(一二二一)、後鳥羽上皇〔1180〜1239.60歳〕は三代将軍源実朝〔1192〜1219.28歳〕暗殺後の幕府の混乱をとらえて、北条義時〔1163〜1224.62歳〕追討の院宣(いんぜん)を発した。しかし、関東御家人は結束してこれに対抗し、後鳥羽上皇の計画は全く失敗に終わった。この承久の乱の結果、幕府は後鳥羽上皇の隠岐島へ配流など責任者の処罰、院方加担者の所領三千余ヵ所を没収して戦功のあった者へ恩賞として下与、京都へ幕府の出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)の設置などの処置をとった。わずか一○日間ばかりの戦闘にすぎなかったが、この戦いで公家(京都方)と武士(鎌倉方)の力関係は大きく武士(鎌倉)方に傾いた。この承久の乱に広沢氏がどのように対応したかは不明であるが、関東の波多野氏は、松田・河村氏など一族共々幕府方についているし(『承久記』)、「和智氏系譜」に実高の三男実村の項に「三谷郡西方を領す」とあるので、あるいは実村も承久の乱で幕府方に従って戦い、その恩賞として「三谷郡西方」を新たに得たものとも考えられる。なお、実村が「三谷郡西方」を得ているところから、最初実方が得た「三谷郡一二郷」は同郡の東方に位置していたと推定されるのである。いずれにせよ、広沢氏は実村のときに三谷郡全域に支配権を拡大したものと思われる。


広沢氏系図(『続群書類従』第六輯下「松田氏系図」による)

   波多野義通─広沢実方─実高─┐
                        │
 ┌──────────────┘
 │
 │┌─実義──行実(与三)──宗実
 ││
 └┼─実家──実継
   │        (江田)
   └─実村─┬実綱──┬実高
          │(和智)  └頼実
           ├実成
           └女子

 関東地方に本貫の地を持ち、新たに西日本に所領を獲得した関東御家人たちは、直ちに西日本へ実際に移って来たわけではない。建暦三年(一二一三)備後国で陸海の賊徒が峰起したので、広沢実高がその鎮圧のために下向(げこう)を命ぜられ、三ヵ年ぶりに鎌倉に帰参している(『吾妻鏡』)が、実高が賊徒鎮圧の使節に任命されたのは、彼が三谷郡に所領を有していたこともその理由であろう。また、使節に任命されて「かの国に下向」し、三ヵ年ぶりに鎌倉へ「備後国より帰参す」といった記事からみても、まだこちらへ移住はしていなかったとみられる。広沢氏が実際に備後国に移住してくるのは、新たに「三谷郡西方」を得て支配圏を三谷郡全域へ拡大して経営を安定させた一四世紀半ばとみられ、『芸藩通志』は「正中年間(一三二四〜二六)に始めて当郡に来る」としている。

(※『芸藩通志』は江戸時代後期の文政八年(一八二五)に広島藩がまとめた藩内の地誌書)

 関東の広沢氏の総領(そうりょう)家は、三谷郡の所領を分割して、新たに獲得した「三谷郡西方」を三男実村に与え、その彼に総領家の所領である「三谷郡一二郷」の代官職にもあたらせたものとみられ、「松田氏系図」では、実村とその子実綱に「備後国上御使」の肩書を付している。関東御家人の西国への移住が鎌倉時代中後期に多くみられるのは、当時の分割相続制度のもとに、関東地方の所領が次第に細分化されてきたこと、それに西国の所領経営が安定したことなどが背景にあったものと考えられる。

 実村が移住してきたのは三谷郡西北部の和知(三次市和智町)で、『芸藩通志』は同村の国広(くにひろ)山について「二つ山ともいふ。始め国広石見が所居。後和知余三実方より七世これに居る」と、国広山(二つ山)に拠ったとしているが、昭和四八年(一九七三)の発掘調査の結果(『中国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告一』一九七八年広島県文化財協会)によれば、国広山はのちの戦国期の築城で、広沢氏が最初に築いたのはその東方の小(古)城山(じょうやま)で、その麓に土居(どい)とよばれる台地があるが、そこに館を構えて日常生活をおくったものとみられている。

 なお、『芸藩通志』は広沢氏の和知村入部以前に、国広石見という人物がいたとしているが、彼が承久の乱まで「三谷郡西方」を支配していた在地武士であったかもしれない。

 一三世紀後半、広沢実村は所領をその子実綱・実成の二人に分割して相続させた。兄の実綱は江田(えた)荘を、弟の実成は和知荘を相続し、それぞれその在地名をとって江田・和智を名乗った。すなわち、広沢氏から江田・和智氏の分流である。『芸藩通志』は近世の三谷郡三八ヵ村を、江田庄(一五ヵ村)・和知庄(五ヵ村)・湯谷(ゆだに)庄(五ヵ村)・吉舎庄(一二ヵ村)・徳田庄(一力村)の五つの庄に分けているが二人が得たのはこの江田・和知両庄とみてよいであろう。江田庄は、三谷郡西南部にあたり、ほぼ美波羅(みはら)川流域とそれに馬洗川北岸の向江田(むこうえた)を併せた地域で、江田氏は初め天良(てら)山(三次市向江田町)に本拠を構えたが、のちその所領の南端旗返(はたがえし)山(三次市三若町)ヘ移り、戦国時代に毛利氏に滅ぼされた。和知荘は、三谷郡北部の和知(三次市)、光清(みつきよ)・仁賀(にか)・田利(たり)・皆瀬(かいぜ)(以上三良坂町)の地域である。

 鎌倉時代、広沢氏の三谷郡経営は必ずしも安定したものではなかったようである。

弘安二年(一二七九) 亀山上皇が、備後国三谷郡を祇園神社へ長日大般若・常灯料所として寄進する(「祇園社記」)
嘉元三年(一三○五) 同じく亀山上皇が、備後国三谷郡を祇園神社修造料所として寄進する(「社家条々記録」)。

 この二つの史料は、三谷郡のうち少なくとも総領家領は広沢氏の手を離れていた可能性を示している。また、後でふれるように、嘉元二年〔1304〕から翌年にかけて、武蔵国から広沢氏総領家の与三入道がはるばるこの地を訪れているが、そのとき彼が江田や和知の里を訪れた記事はあるが、肝心の総領家領である「三谷郡一二郷」に関する記事は全くみられない(『とわずがたり』)。

 ここで武蔵国の広沢総領家をみておくと、『吾妻鏡』には実高の子実能(義)についても四代将軍頼経〔1218〜56.39歳〕の供奉人としてしばしばその名を載せ、鎌倉末期の嘉元三年(一三○五)・北条時村政村男.1242〜1305.64歳〕を暗殺した一二人の者の刎(はね)首が行われたとき、実能の孫広沢弾正丞宗実が使者になる(『北条九代記』下)、徳治二年(一三○七)北条貞時〔1271〜1311.41歳〕が宗実らに亡父時宗1251〜84.34歳〕の毎月行う供養の斉料の結番(けちばん)(当番)を命ずる(「円覚寺文書」)などとあり、北条家の被官となっていったようである。広沢氏の北条家被官化については、和智初代実成も北条貞時が執権職を師時(もろとき)1275〜1311.37歳〕に譲って出家したとき、彼もそれに従って出家している(「和智氏系譜」、ただし、同書に貞時卒去のときとしているのは、出家の誤り)ことや、総領家の余三入道が北条氏の内管領(うちかんれい)平頼綱?〜1293〕の子飯沼助宗1267〜93.27歳〕と連歌仲間であった(『とわずがたり』)ことなどもそれを傍証している。なお、延元元年(一三三六)建武新政府の武者所結番に五番楠正成〔?〜1336〕・六番名和長年?〜1336〕などとともに四番に広沢安芸弾正左衛門尉高実の名がみえる(『建武年間記』)が、彼も総領家の系譜に属する人物であろう。


※続きはこちら

☆波多野氏について、より詳しくはこちら。(湯山学氏「執権北条家と波多野氏」)
☆神奈川県秦野市のホームページはこちら
☆広島県双三郡吉舎町のホームページはこちら。広島県三次市ホームページはこちら





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