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木藤才蔵 「増鏡の作者と成立した時代」(前半)
(『歴史物語講座第六巻 増鏡』.風間書房.平成9年.p1以下)




※木藤才蔵氏の略歴はこちら

※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。




 増鏡の作者や成立した時代に関しては、石田吉貞1、松村博司2、西沢正二3、の諸氏によって、相当丹念に諸説の紹介と批判がなされているが、論を進める必要上、ここにあらためて諸説の概要と批判を記し、その上で私見を述べたいと思う。


 1.増鏡の作者に関する諸説

 増鏡の作者に関しては、江戸時代においては二条良基あるいはその子孫の人々が作者に擬せられていた。作者とされた人々と、所載の文献名を記すと次のとおりである。

二条良基(彰考館目録別本4
一条経嗣(岩瀬文庫蔵増鏡の柳原紀光の奥書・僧慈延の鄰女晤言・史籍集覧本増鏡の屋代弘賢の跋文5
一条兼良(九条家旧蔵指南抄以下の諸書6
一条冬良(本朝通鑑、扶桑拾葉集・東見記・類聚名物考・安斎随筆等7

 このうち、冬良説は寛文十年(1670)に成立した江戸幕府編集の編年体の日本史『本朝通鑑』以下の諸書に見える説であるが、柳原紀光・慈延・屋代弘賢・伴信友等は、応永九年(1402)の奥書を有する応永本が存在することによって冬良説を否定した。紀光・慈延・弘賢は、冬良の祖父経嗣を増鏡の作者と考えたが、応永本の奥書には、「永和二年卯月十五日」とも記されている。経嗣は永和二年に数え年十九歳であって、この年までに増鏡のような大部の歴史書を書き上げていたとは考えられないので、江戸時代に増鏡の作者とされていた人々のうち、可能性のあるのは経嗣の父良基だけである。良基説は明治以後も多くの人々によって支持されて現在に至っている。その一方において、昭和以後、四条隆資・丹波忠守・二条為明・二条為定・兼好・洞院公賢などが、あらたに作者に擬せられてきている。次に、それぞれの作者説の可能性について考えてみたい。

(1)四条隆資説

 中村直勝が、「岩波講座日本文学」の「増鏡」(昭和7年8月)において提唱した説である。この説は、増鏡の巻末で後醍醐天皇が隠岐の島から還幸されると同時に大塔の法親王などとともに隆資も還俗したことを記しているが、隆資程度の公卿の還俗に特に筆をついやし、しかもその還俗を合理化して叙述していること、増鏡には西園寺家とともに四条家が重視されていることなどを論拠としている。

 しかし、石田吉貞が論じたとおり8、隆資は「政治家的活動的な人間で」、しかも、増鏡執筆期間の上限とされている延元三年(1338)から彼の死までの十九年の間は、席の暖まる暇もなく活躍した期間であって、「万巻の書を引いて、静かに増鏡のやうな優艶な大著を筆にする余裕があったとは考へられない」上に、一家を挙げて南朝のために奮闘した隆資が、もし実際に増鏡を執筆したならば、「尊氏筆誅に全力をあげたに相違ない」から、隆資説の可能性はほとんどないとみてよい。

 ところが、小沢良衛は、『とはずがたり』が増鏡の資料として利用されており、『とはずがたり』の作者二条は、その母方の叔父四条降顕が隆資の祖父にあたる点に注目して、隆資作者説の可能性について言及している9。しかし、『とはずがたり』が四条隆資の許に伝えられていたという確証はなく、その上、動乱のまっただ中に身を置いて東奔西走していた隆資が、増鏡の資料とされた厖大な文献類を僻遠の吉野の地にまで持参して増鏡を書き上げたなどということは到底考えられないことである。

(2)丹波忠守説

 荒木良雄が「増鏡作者異説」(『文学』昭10・2月号)において提唱した説である。増鏡には源氏物語の影響がいちじるしいが、忠守は源氏物語に精通しており、宮廷内の事情にも通じており歌人でもあったことが、その論拠である。

 忠守は河海抄の著著四辻善成が先師と呼んでいた源氏学者であり、宮廷内の事情に通じていたことも確かだと思うが、石田吉貞が指摘しているように10、その当時、源氏物語に通じていたのは忠守だけに限らないこと、元亨三年(1323)、亀山殿七百首の作者に召された頃には相当老齢であった忠守が、それより十五年後の延元三年(増鏡成立年代の上限)まで生存していたかどうか疑問であること、忠守には厖大な資料を駆使して歴史書を書く資格には欠けていること等の理由によって、この説の可能性はほとんどないといってよいであろう。

(3)二条為明説

 和田英松が「増鏡の研究」(『日本文学講座三』昭9.2)において提唱した説である。その論拠とするところは次のとおりである。

(1)増鏡の記述は持明院流に比して大覚寺流のほうが詳細である。著者は南朝方に心を寄せていたものである。

(2)定家の子孫の事が著しく目立っており、和歌集勅撰に関する事が他に比して詳細である。「老の波」の源氏物語に関する記述の仕方からみて為世に関係の深い者であろう。

(3)増鏡の著作年代と考えられる延元・正平の間で生存していた為世門流としては、為定・為明・為忠をあげることができるが、記述の仕方からみて為定ではなく、為忠の事蹟ははっきりしないのに対して、為明は土佐に流された尊良親王のお伴をしており、その時の動静を増鏡に記してあるのは、為明の筆録より出たものであろう。

 この為明説に対して、石田吉貞は、増鏡の作者が和歌に深い関心を有し二条派陣営の人であることは容易に推測できるが、為明が歌人として以外にどれだけの学問教養があったか全く不明であり、和歌以外に一つの雑文さえ残していない人間を作者と考えることは無理であるという11

 西沢正二も、増鏡における和歌関係の記事は、「宮廷公家たちの動静・心情・挿話などを中心にしており、他の儀式・行事の記事と同様に、宮廷生活史の一コマとして構成されている。」したがって、為明のごとき、「歌道の家出身の和歌専門家の筆になる作品であるとは必ずしもいえない」という否定的な見解を述べている12。結局、和田英松が為明説の論拠としてあげていることからいえることは、増鏡の作者は為世などの二条派の歌人に近い関係にある人ということだけであろう。

(4)二条為定説

 関東四郎が「増鏡の作者について」(『国学』昭12・1月号)において提唱した説である。増鏡は延元三年以後延文三年に至る二十年間に成立したものであり13、その作者に関して、(一)武家政治に対して反感を有した宮廷人、(二)初は大覚寺統に後は持明院統に縁故のあった人、(三)歌人にして御子左眷属の者、(四)御子左為定・為明・為忠の三者の中、為定を以て第一の被擬者とす可である、といった見解のもとに、この論文においては、もっぱら(三)について論証している。その結果、増鏡の作者は、(一)源氏物語に通暁している者、(二)歌人、(三)定家の一族、(四)御子左家の者であって、成立当時持明院統の天子に仕えていた為定であろう、という結論を導き出している。

 テキストは和田英松、佐藤球合著の『増鏡詳解」の本文(増補系)を用い、増鏡における源氏物語の引用の仕方、情事の物語、勅撰集の記事の記し方、歌合・歌会・披講の記し方、所載の和歌などについて、つぶさに検討を加えた上で、記事素材につき御子左・京極・冷泉三家の比較をした上で導き出された結論であり、西沢氏も論ぜられたとおり14、聞くべき点も少くない。為定は歌人としては為明より遙かに大きな存在であるが、為明説に寄せられた批判のほとんどは、為定説にもあてはまるといってよい。その上に、勅撰集の撰歌の途中で死去した為藤の後継者は自分だと思っていた為定が、祖父為世の意向は末子の為冬にあることを知って実如出奔した時のことを、「為定もうらみ歎きて、山伏姿に出でたちて、修行に失せぬなどいひ沙汰すれば、人々いとをしうあはれになどもてあつかへど、さすが求め出して、もとのやうにおだしく定まりぬとなん」(春の別れ)などと、為定みずから記すなどとは考えられないことである。

(5)兼好説

 宮内三二郎が「兼好法師と増鏡」(昭46・9、私家版)「徒然草と増鏡」(『文学』昭48・11月号)15等において提唱した説で、その論拠は次のとおりである。

(1)兼好は二条派有数の歌人であるだけでなく、稀代の思想家・文筆家であり、内外古典の造詣が深く、また宮廷の故実や諸技芸に通じ、上下貴賎の世俗的現実にも多大の関心を持っていた。

(2)兼好は建武年間から貞和・観応年間にかけて、北朝宮廷の周辺にあって洞院公賢・二条良基・賢俊・高野ママ師直等公武の最上層階級の諸人物にも親しく接触していたが、建武三年から延元三年の間、二条為定から二条家の家説を受講したほか、当時の貴顕の家に秘蔵されていた源氏物語・八雲御抄・古今集等の貴重な典籍を校合したり書写したりしている。したがって増鏡の著作に必要な旧記典籍の類を閲覧利用する機会や便宜を十分持っていたと考えられる。

(3)徒然草には、宮廷関係、公武の人物関係の記事の章段が約八十箇段含まれているが、それらの記事に登場する人物約七十名のうちの六十名は増鏡にも登場する。

(4)徒然草第一段にうかがわれる作者の公家尊重、宮廷生活礼讃の姿勢は、増鏡全体の叙述の基本的な姿勢と全く合致する。その一方において増鏡における武家および武家政治に対する作者の批判的態度は、徒然草の第八○、一四一、一四二段等にみられる武家批判の言説や関東武士観と合致する。また、北条時頼に対する例外的な好意的叙述においても両者はまったく軌を一にしている。

(5)増鏡には、全篇に亘って一貫して西園寺家の諸人物に関する記事が他家のそれに比べて圧倒的に多いが、徒然草の公家関係の記事においても、西園寺家の人物に関するものが他家に比べて最も多い。

(6)増鏡と徒然草との間には記事内容の上で関連、類縁牲のあるものが十七箇所にわたって措摘できる。

 以上は宮内氏が「徒然草と増鏡」の中で兼好が増鏡の作者にふさわしいとして列挙している論拠の中の主要なものの要点を記したものであるが、そのうちの(3)から(6)までは、増鏡と徒然草の間で記事内容・執筆態度の上で共通する点が多いことを指摘している。 しかし、この事は増鏡の作者が徒然草の作者ときわめて近い宮廷生活観、武家観、歴史観を有していたことを証明するだけで、兼好が増鏡の作者であるという決め手にはならない。

 また、兼好が公武の最上層と交渉があり、建武三年から延元三年の間、源氏物語その他の貴重な典籍を校合したり書写したりしているというが、その事からただちに増鏡の著作に必要な旧記典籍の類を閲覧利用することが可能であったと断言することはできない。兼好が書写した確証のあるのは、すべて文学関係の典籍であって、歌人として生計を立てるために、主として二条為定あたりから借用したものと考えるのが自然だからである。

 宮内氏はまた、西園寺家に比重をかけた叙述をしている点から、増鏡は西園寺家あるいは洞院家の何者かが兼好に執筆を委嘱したものといい、同じ論文でそれは洞院公賢であるというが16、そのことは立証されていず、単なる憶測を述べているに過ぎない。結局、兼好説の決め手になるものは何一つないといってよいのである。

 しかし、宮内氏が兼好作者説をうち出した最初の論文「兼好法師と増鏡」(昭46・9、私家版)において指摘されたとおり、兼好が諸大夫として仕えた堀川具守やその孫具親、蔵人として仕えた後二条天皇とその皇子邦良親王、兼好の和歌の師二条為世とその一門、特に為世の孫の為定に関する叙述が詳細で印象に残るものがあることは事実である。そのことと、兼好が徒然草に見られるような各種の文体を自由に書きこなすことのできる名文家であることを考え合わせると、増鏡の作者である可能性が全く無いとは言い切れないのである。

(6)洞院公賢説

 田中隆裕が「増鏡と洞院公賢前・後」(『二松学舎大学人文論叢、27・29」(1984・3)において提唱した説で、その論拠とするところは次のとおりである。

(1)大臣以上の薨去に関して五人の大臣を取り上げて検討してみると、洞院実雄とその嫡孫実泰が意識的に叙述されている。

(2)元亨四年の賀茂祭の叙述で公賢の聟徳大寺公清を讃辞をもって描いている。

(3)元徳二年の後醍醐天皇の北山邸行幸に関して、語り手の老尼が、その日の事は見ていないので、「幼きわらはべなど」が語ったままを記すといっているのは、その日に会に欠席した公賢が十四歳年下の弟公泰から聞いたことを示すものであろう。

(4)皇太子邦良親王に対する好意的同情的な描き方は、親王の東宮大夫を九年にわたって勤めた公賢にふさわしい。

(5)後醍醐天皇の隠岐遷幸の記事は、天皇に随行した内侍三位(公賢の養女)が公賢に書き送った私信に依るものろう。

(6)公賢は善勝寺長者四条隆蔭と親しい関係にあったから、同家に伝えられた『とはずがたり』を借覧して増鏡の資料とする可能性が考えられる。

(7)増鏡の作者は二条派系統の歌人で御子左為定に好感を寄せていたと考えられるが、公賢は為定と親しい関係にあった。

(8)和漢兼学の廷臣であった公賢は、有職故実に長け二種の史書を編述し、園太暦のようなすぐれた日記を残している。作品こそ残されていないが、和文に短であったとは考えられない。

 以上が田中氏の公賢説の論拠であるが、この説に関しては西沢正二の批判がある17。宮内三二郎は、先にも記したように、増鏡に西園寺家に関する記事が詳細であり、兼好のことがその日記に記されていることに注目して、増鏡は西園寺一族の洞院公賢が、内密に兼好に執筆を委嘱したものという説を出しているが、田中氏は、この宮内説を一歩進めて、公賢こそ増鏡の作者であるとされたのである。

 しかし、西沢氏も論ぜられているように、西園寺家に関する記事が詳細であり、西園寺家の人々が好意的、讃美的に描かれている部分が少くないからといって、そのことからただちに増鏡の作者を西園寺一族の者と断定することはできない。好意的に描かれているかどうかは、読者の読み取り方によって異ってくる場合があるからである。それに、作品の中で、ある事件や人物が詳細にしかも印象的に描かれているかどうかは、作者の入手した資料の性格と、その資科をいかに効果的に使用するかによって左右される場合もあることを考慮にいれなければならない。亀山院と五条院の情事より、後深草院と※子内親王との情事のほうが遙かに詳しく印象的に描かれているのは、増鏡の作者が『とはずがたり』を入手して、それを効果的に便用できたからだと考えて誤りあるまい。その点を考慮にいれると、前記の論拠の(1)・(2)・(4)・(7)などは、公賢説の有力な論拠とは、なり得ないのである。

 次に、(3)で元徳二年の北山邸行幸に関して、語り手の老尼が「幼きわらはべ」から聞いたといっているのは、当時二十七歳になっていた弟の公泰から公賢が聞いたことだという田中説は、西沢氏も指摘されているとおり、何としても無理である。また、(5)の後醍醐天皇の隠岐遷幸の記事に関しては、筆者はかつて遷幸の途中で詠まれた後醍醐天皇自身の歌日記や隠岐の島に供奉した女房の手記または回想記のごときものを資料とした可能性について論じたことがあるが18、この種の資料なら、入手可能な人物は公賢以外にも何人かいたはずである。したがって、田中説は一つの可能性を提示したにとどまる。

 さらに(6)において、公賢は四条隆蔭と親しい関係にあったから、同家に伝えられた『とはずがたり』を借覧する可能性があったというが、これも西沢氏が論ぜられたとおり、『とはずがたり』が四条家に伝来した確証は見出せないのであるから、公賢が借覧したという可能性は、きわめて薄いものといわなくてはならない。最後に(8)において、公賢が増鏡のような歴史物語を書く文章力を有していたかどうかに関して、漢文で書かれた史書や日記が残されているからといって、その事から増鏡を書くぐらいの和文の能力は十分にあったはずだと推測するのは乱暴な話である。結局、公賢説が成立する有力な論拠は一つも見出せないといってよい。



 2、二条良基説の展開

 江戸時代において増鏡の作者に擬せられた人々のうち、応永本の奥書によって作者の可能性のあるのは二条良基だけであることは先に記したとおりである。この良基説は、大沢清臣・松本愛重・関根正直・佐藤仁之助の諸氏によって支持されてきたが、大正十五年(1926)五月に刊行された坂井衡平の『新撰国文学通史中巻』において、詳細な論拠のもとに強力に支持されることになった。その論拠の主要なものをあげると次のとおりである。

(1)全体の記述の様や序の寓意の事が彼の出身にふさわしい。増鏡の両統に対する史筆は両統に仕えて南朝にも多く知友がいる彼の筆にふさわしい。

(2)延文・貞治の頃には、『榊葉の日記』や『おもひのままの日記』など増鏡と似た作風の作品を著作している。この種の記類や多くの序文類を草した文藻上の技巧や、和歌を好んだことも、この作品の作者にふさわしい。

(3)「おもひのままの日記」には、殊に増鏡の記事との類似が見られる。筑波問答の序にも増鏡に関係のありそうな記事がある。

(4)増鏡の序文に見える
ろかなる心や見えむ増鏡ふるき姿にたちはおよばで
の歌と、新後拾遺集・雑下に見える
いにしへの跡におよばぬ身なれども老の数こそかはらざりけれ19
という良基の詠歌と詩想がたいへん近い。この藤氏の往時の盛んな様を追想する思想が一篇執筆の動機となったものと考えられる。

 良基説の論拠として、関根正直は、良基が博覧にして文才があり、その家に典籍を多く所有し、和歌を好み有職故実に通じていたことをあげているが20、坂井衡平は、増鏡全体の記述の仕方や両統に対する史筆が良基の出身や立場にふさわしい事を説いた上で、良基作の記類や序文と増鏡の文章との間に類似が見られることを指摘しているのは注目すべきである。

 ついで岡一男は、日本古典全書『増鏡』(昭23・10月刊)の解説において、

(1)良基は連歌のほか歌道にも思いをいたし新後拾遺集の仮名序を書き、近来風体抄、愚問賢註などの歌学書を著わしている。

(2)代々摂関の家に生まれ、宮廷の事情にも通じ、文献も豊富であった。

(3)増鏡の著者が源氏物語をよく読んでいたことが知られるが、良基ほどの学者が、増鏡の作者程度にも源氏に通じていなかったとは考えられない。

(4)文藻からいうと、彼の遺著の文章のやや雄勁なのと増鏡の文章の優艶なのと、多少の相違が感ぜられるが、これは女性の筆に仮託したからである。

(5)増鏡のなかに勅撰集の歴史や歌壇の消息や二条家の内情やが比較的にこまかに述べられているのも、二条為世の弟子の頓阿を挙用した良基にふさわしい。

(6)増鏡の源氏物語の引用のしかたは連歌的なところがあって、当時の連歌師の聖典が源氏物語だったことも参考にすべきである。

等の論拠をあげて、松本・坂井氏らと共に良基説を支持する旨を記している。

 右にあげてある論拠のうち、(1)は関根・坂井両氏が、ただ「和歌を好んだ」とだけ記しているのを、一歩踏みこんで具体的に記したものであるし、(4)で良基の文章と増鏡の文章との間に多少の相違を認めているものの、その相違は増鏡が女性の筆に仮託した作品だからといっているのは、坂井説を前提にした立論と考えてよいと思う。 また、(3)と(5)とは、それ以前に提唱された「丹波忠守説」や「二条為明説」「二条為定説」等の論拠とするところは、良基説の論拠ともなり得ることを論証しようとしたもの と見ることができる。

 ただし、(3)では、良基ほどの学者が増鏡の作者程度にも源氏に通じていなかったとは考えられないとしか記していないが、良基は源親行の孫行阿から貞治三年(1364)に原中最秘抄を伝授され、貞治四年には自邸において源氏寄合の書き抜き作業を行い、その席には源氏学者として著名な四辻善成も参加していた。また、その著作を見ても源氏物語に通暁していたことは明らかである。

 その後石田吉貞は、「増鏡作者論」(『国語と国文学』昭28・9月号)において、増鏡の作者として具うべき条件として、第一に延元三年から永和二年の間に増鏡執筆に堪え得る年齢の人、第二に公家貴族、第三に文学と学問における教養が高く、特に旧記の博覧強識と和歌、源氏物語等について深い造詣を有すること、第四に恐らく北朝方の貴族の四か条をあげ、この条件のもとに従来増鏡の作者に擬せられていた隆資・忠守・為明等についても検討を加えた結果、良基以外はすべて失格であるゆえんを論じている。

 ついで良基については、従来良基説の論拠として提示されたもののうち、可能性のあるものはすべてこれを取り上げ、忠守説や為明説の論拠とされていたものも良基説において一層適切であるゆえんを明らかにして、良基説をいちだんと前進させた。

 そのうちで特に注目すべきは、良基の筆になる文章と増鏡の文章との類似点に関して、坂井衡平説では単なる指摘にとどまっていたものを、石田氏は語句の類似・文章の類似に分けて具体例をあげて詳細に対比して考察された上で、風姿の上でも両者に共通点のあることにつき論ぜられた点である。さらに、「増鏡の作者に関する古い説が、すべて良基又はその子孫の間を彷徨していたこと」を重視された点も注目すべきである。

 石田氏の「増鏡作者論」は、それ以前の良基説の論拠とされたものを集大成し、それをいちだんと前進させた画期的な論文であったが、増鏡を良基の作と言い切るには、解決しておかねばならない幾つかの問題点が残されていることも確かであった。それらの問題点の指摘と解決を意図したのが、拙論「増鏡の作者」(『国語と国文学』昭37・11、12月号)であった。その概要を記すと次のとおりである。

(1)増鏡の作者は、後醍醐天皇の治世や元弘の乱について相当力をこめて記しているが、良基は若年の頃、父とともに後醍醐天皇から特別に目をかけられ、その事を晩年に至るまで忘れずにいたし、建武の中興を近い過去における偉大な時期と考えていた。

(2)増鏡には二条家の祖先のことより西園寺一族の事が遙かに詳細に記されているが、天皇家を中心に鎌倉期の宮廷生活に筆をついやしている増鏡において、その家から多くの后妃を出し天皇の外戚として権勢をふるっていた西園寺家の事を詳述するのは自然のことである。また、武家と結ぶことで一族の繁栄をもたらした西園寺家の人々の生き方は、足利三代の将軍と深く交わり朝廷に重きをなした良基の理想とするところであった。

(3)異常と思われるほど連歌を愛好した良基の著作にしては、増鏡に連歌の記述が乏しいのは不思議な気がするが、良基著作の行事や公事関係書・紀行文などにも連歌は記されていない。それに、巻の名と巻の名の呼応の仕方、巻の名と本文との関係、素材の微妙な配列の仕方など、歌の付合の感覚で叙述されている点で、増鏡は良基の著作とみるにふさわしい。

(4)佐々木導誉や二条為定の叙述の仕方など、この両者と親しい関係にあった良基の著作とみて納得がゆく。






1「増鏡作者論」(『国語と国文学』昭28・9月号)
2『歴史物語』(昭36・11、塙書房刊。昭54・9、改訂版)
3『増鏡研究序説』(昭57・9、桜楓社)
46和田英松「増鏡の研究」(昭9.2、『日本文学講座、三』。昭14・3刊の『国史説苑』に収録)に依る。なお、「彰考館目録別本」には、「塙検校所蔵応永本云、園摂政良基作」と記してあるという。
57吉岡幹子「一条冬良と『増鏡』」(『後藤重郎教授退官記念論集』昭59・4、名古屋大学出版会)に依る。
81011注1の論文に同じ。
9「増鏡をめぐる問題」(『文学研究』昭52・6)
1214注3に同じ。
13この論文より先に公表された和田英松の論文に依ったものであろう。
15宮内氏の論文は、すべて、昭和52年8月に明治書院から刊行された『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』に収められている。拙論もそれに依って記す。
16「増鏡と西園寺家」(『国語国文薩摩路』一六号、昭47・1)
17「『増鏡」作者論のゆくえ−洞院公賢説批判を中心に−」(『学苑』昭63・1月号)
18『中世文学試論』(昭和59年3月、明治書院刊)のうちの「増鏡の編集資料」の項。
19この歌には、「永徳二年譲国の宣命に摂政のことのせられ侍りしに、忠仁公はじめてこの宣をかうぶりしが、おなじ年六十三にて侍りしを思ひ出でて」と詞書が付されている。忠仁公は藤原良房。人臣で最初の摂政。
20関根正直「二条良基公の御事」(『新国学」明30・1)伊藤敬『増鏡考説−流布本考−」(平4.4、新典社刊)の付録による。



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