更新13.2/27


『特別展観.中世の貴族〜重要文化財久我家文書修復完成記念〜』
(編集.國學院大學久我家文書特別展示開催実行委員会.平成8年)







引用の趣旨
 私は久我家の相続争いに関する国文学者たちの認識に大変な不満を持っている。久我家の相続争いは西園寺家をも巻き込んだ非常に深刻なものであり、『とはずがたり』の登場人物の人間関係を考えるうえで極めて興味深いものであるが、国文学者たちは愚にもつかない想像を重ねるのにかまけて、こうした重要問題に関する基礎的な資料をきちんと研究していない。
 本書は平成8年4月から6月にかけて京都国立博物館と東京国立博物館で開催された『特別展観.中世の貴族〜重要文化財久我家文書修復完成記念〜』で販売されていた解説書であるが、久我家の相続問題の深刻さ、そして鎌倉時代における女性の社会的地位を考える上で大変参考になるので、その一部を紹介する。



久我家領の成立と展開


 中院流家領目録草案(16号)は、平安末期の中院右大臣雅定の陸奥から豊前にわたる七一ケ所に上る家領で、中院流諸家の家領の淵源がわかる。またこれらの家領の多くが皇室を本家と仰ぎ、その領家職や預所職を保ったものであったことから、当時の中院流村上源氏の皇室との経済的結合の在り方がわかる。




村上源氏系図はこちら

中院右大臣源雅定(1094〜1162.69歳)は、白河上皇の近臣として勢威を振るった修理大夫(すりだいぶ)藤原顕季(あきすえ)の婿となり、その中院邸を本居とした。顕季は四条流の隆盛を築き上げた人物であり、顕季から6代下ると二条の祖父隆親,(1203〜1279.77歳)、7代目が善勝寺大納言隆顕(1243〜没年未詳)となる。

源通親(1149〜1202.54歳)についてはこちら(橋本義彦氏『源通親』)。

土御門定実(1241〜1306.66歳)は『増鏡』では子の雅房・親定とともに優れた人物だとして激賞されている
 しかしこの多数の家領は分割相続、さらに他家への譲与や寺社への寄進によって、しだいに分散していった。たとえば越後国加地荘は雅定の猶子(ゆうし)堀河定房の家領となり、また山城国東久世(ひがしくぜ)荘・駿河国蒲原(かんばら)荘・伊予国大島荘等は雅定の孫(通親の弟)唐橋通資の家領になり、このうち東久世荘は通資の子雅親からその外孫土御門定実に譲られ、蒲原荘は通資の子雅清から石清水八幡宮に寄進された。

 しかも「久我家根本家領相伝文書案」によって知られるように、鎌倉中期には、久我家に伝領された諸荘をめぐって一族間に相続争いが起こり、結局家領の一部は縁故関係を通じて鎌倉末期に他家の家領となった。

 すなわち久我通光が遺産のすべてを夫人三条(西蓮)に譲って逝去すると、通光の嫡子通忠はただちに継母三条を相手として後嵯峨上皇に訴え、その結果、久我荘は通忠の領有、その他の荘園は三条の領有などとする院宣が下った。

久我通光(1187〜1248.62歳)は後深草院二条の祖父。
三条(西蓮.生没年不詳)は通光の後妻で、『とはずがたり』にも久我尼としてたびたび登場する人。
後嵯峨上皇(1220〜1272.53歳)
久我家では、相続争いに加えて、通光の死後、わずか2年後に嫡子の通忠(1216〜1250)まで35歳の若さで死んでしまい、家勢は沈滞を余儀なくされた。
西園寺実兼(1249〜1322.74歳)
源顕子(生没年不詳)の父の中院通成と二条の父雅忠は従兄弟。 『とはずがたり』には、二条が「雪の曙」の子を産んだのと同時期に、「雪の曙」の正室が死産したため、二条の子は、この正室の子として、帝の妃とすべく大切に育てられていると書かれている。国文学者たちはこれが歴史的事実であって、西園寺実兼の正室である顕子が二条の子を育てたと考えているのである。
西園寺公衡(1264〜1315.52歳)についてはこちらこちら(徳仁親王・木村真美子氏「<史料紹介>西園寺家所蔵『公衡公記』」)。
 やがて西蓮(三条)は肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑荘(御厨)の三荘をその娘如月に、その死後は西園寺実兼夫人源顕子(けんし.如月の従兄弟中院通成の娘)に譲ることを条件として譲り、如月はやがて母の条件を守って顕子に譲った。

 こうして根本家領のうち久我家嫡流に留まったのは久我荘のみとなり、山本等の三荘は関東申次として鎌倉幕府と結び権勢を誇る西園寺家に帰した。なお田根荘は顕子から嫡子西園寺公衡に譲られ、公衡は同荘を春日社に寄進し、興福寺東北院門跡の管轄とした。

 この間、久我通光の孫中院雅相(中院雅忠の子)は如月を相手取って家領回復の訴訟を起こしたが、西園寺公衡にたいして後宇多上皇の宣が下り、雅相の主張は退けられた。やがて鎌倉幕府の滅亡などにより西園寺家が権勢を失うと、久我家当主長通は家領回復運動を起こして成功したと推定され、田根荘は康永元年(1342)の足利直義裁許状(刊62号)に「領家久我太政大臣(長通)家」とある。

中院雅相(生没年不詳)が雅忠の子と書かれているが、これは本書p43の系図に書かれているように雅光の誤りである。雅忠の子なら二条の兄弟が西園寺家を相手に訴訟をしていたことになってしまうので、この記述を最初に見たときは驚いたが、単純な誤記である。雅光(1226〜1267.42歳)は、『とはずがたり』では二条に琵琶の手ほどきをしたとされる人物。

久我長通(1280〜1353.74歳)「鎌倉末・南北朝時代の公卿。父は太政大臣久我通雄。母は源仲基の女。弘安九年(1286)叙爵。永仁五年(1297)、従三位に叙せられ、累進して暦応三・興国元年(1340)十二月、太政大臣に任ぜられ、翌年正月、奨学院別当氏長者となった。康永元、興国三年(1342)二月、太政大臣を辞し、文和二・正平八年(1353)八月二十七日、赤痢のため七十四歳で薨ず。のち中院太政大臣と号した」(『鎌倉・室町人名事典』宮崎康充氏)。

平治の乱(1159)で源義朝が敗れ、頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母池禅尼が、死んだ自分の子に似ているからと清盛に助命を嘆願し、頼朝は九死に一生を得た。その恩返しとして、平頼盛(1131〜1186.56歳)は、平家一族でありながら、頼朝から厚遇された。

久我通基(後久我内大臣.1240〜1308.69歳)1288年、内大臣に任ぜられるも辞す。『とはずがたり』の跋文の直前で、二条は「久我の前(さき)の大臣(おとど)」と手紙で歌のやりとりをしているが、東京大学教授三角洋一氏は「久我の前の大臣」を、「源通基か。右大将通忠の男。前内大臣、67歳。その男通雄も前内大臣であるが、中院を号したらしい。」としている(岩波.新日本古典文学大系)。しかし、『徒然草』第195段によれば、晩年の通基は精神に異常をきたしていたとされており、『徒然草』の記載を信じれば、通基と考えるのは無理となる。
 『徒然草』と『とはずがたり』の登場人物は、奇妙なくらい重なっており、『とはずがたり』の登場人物の意外な側面を『徒然草』で見いだすことが多い。
 観応元年(1350)に長通が嫡子通相に全財産を譲与した譲状(23号)に記される「根本家領」は、「家領名区」と「遠園家領」からなる。前者は京都南西郊の久我荘以下の六荘であり、後者は西園寺家から取り戻した伊勢国石榑御厨・近江国田根荘・肥後国山本荘の三荘である。また別に「洛中名区」として、「大王(具平親王)名跡」と注記された千種町(ちぐさまち)方四町をはじめ、祖先師房・顕房・通親・通光等の邸宅跡およぴ当時居住の邸宅等よりなる九筆の屋敷地が記されている。

 ところで、鎌倉中期に家領の大部分を喪失した久我家にとって、財政的窮乏を緩和する結果となったのは、池大納言(いけのだいなごん)すなわち平頼盛の家領の一部が姻戚関係によって久我家に伝来したことである。その経過は「池大納言家領相伝文書案」(18号〈1〉〜〈19〉)に詳しい。

 池大納言家領とは、頼朝が平清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)に助命された恩義に報いるため、平家都落ち直後に禅尼の実子の池大納言頼盛を鎌倉に招いて返付した、平家没官領(もっかんりょう)のうちの頼盛領三十四ヵ所であり、その経緯は『吾妻鏡』に記されているが、この相伝文書案の冒頭には『吾妻鏡』の誤記・脱漏を訂正できる源頼朝下文案三通が含まれている。

 さて、この文書案によると、頼盛の子息光盛(入道円性)は頼盛遺領のうち九ケ所と他の由緒による家領二ケ所の合わせて十一ケ所を七人の娘に分譲したが、光盛の長女安嘉門院宣旨局は頼盛遺領のうち播磨国石作荘をのちに久我通忠の嫡子通基に譲るという条件で五条という女性に譲り、一方尾張国真清田(ますみだ)社・河内国大和田荘・伊勢国木造(こづくり)荘と洛中梅小路の地を久我通忠後室に譲った。

 また四女の三条局(前述の西蓮とは別人)は、頼盛領のうち美作国弓削荘・備前国佐伯荘・尾張国海東(かいとう)上荘・同中荘を姉妹の久我通忠後室に譲った。通忠は久我通光の嫡子である。正応二年(1289)、通忠後室は大和田・木造・海東上・中の諸荘を通基に譲り、五条も約束通り石作荘を通基に譲った。以上が「池大納言家領相伝文書案」による所見である。

 こうして池大納言家領の一部は久我家領となったが、これは久我家の姻戚である安嘉門院宣旨局や三条局が、西蓮の家領専有などのため苦況に陥った久我家にたいして、全面的な援助を加えたためと推測される。なお通忠夫人はその実の娘とみられる久我殿の姫君すなわち小坂禅尼に真清田社を譲り、三条局も所領のうち播磨国這田(ほうた)荘を小坂禅尼に譲った(19号、池大納言家領相伝系図)。

安嘉門院とその周辺についてはこちら

小坂禅尼は、二条が二度も籠もったとされる醍醐寺勝倶胝院との関係が深い。(参考.細川涼一氏「洛東山科における寺院の成立と展開−醍醐寺の歴史と真言密教寺院の展開」)
 通基の家領となった頼盛遺領石作・大和田・海東上・同中・木造の五荘は通基の嫡子通雄が相続したが、通雄は末子通定を偏愛して嫡子長通を勘当し、五荘をすべて通定に譲った。しかし通雄が元徳元年(1329)に逝去すると、長通は後醍醐天皇に訴えて、祖父通基の素意により家門を管領し、通定が頼盛遺領にことよせて鎌倉幕府に申請した不当を弁明せよという綸旨(20号)を申し賜り、この綸旨にもとづいて長通は幕府に訴え、右の諸荘の安堵と、この諸荘にたいする通定の雑掌の濫妨狼籍禁止という二通の関東御教書を受けた(21号・22号)。


久我通雄(1258〜1329.72歳)は二条と同年の生まれ。1297年内大臣、1319年、61歳で太政大臣になっている。通光に続いて、久我家に相続問題をめぐる大混乱を生ぜしめたことになる。
 長通はこの五荘を回復したばかりでなく、鎌倉幕府滅亡後まもなく、後醍醐天皇帰京の翌日の元弘三年(1333年6月9日付で播磨国這田荘安堵の綸旨を受け(刊42号)、また建武政権下に尾張国一宮(いちのみや)すなわち真清田社等も長通の領有に帰した(8号〈3〉)。さらに建武三年(1336)八月、室町幕府の開創と前後していち早く足利尊氏から家領にたいする違乱停止・所務保全の御判御教書(9号〈1〉)を受けたのをはじめ、しばしば室町幕府から這田荘・田根荘・海東上中荘・真清田社などに関する安堵や裁決を受けた。


後醍醐天皇(1288〜1339.52歳)



足利尊氏(1305〜1358.54歳)
 そこで長通の譲状(23号)に記す久我家領は、京都近郊の「家領名区」六荘、「洛中名区」九ケ所、一旦西園寺家領になった「遠国家領」三二荘、「外家相伝池大納言家領」一社・六荘、洛中屋敷地二ケ所という、相当多数の家領が記載されるにいたった。

 なお「斯外(このほか)不慮違乱所々」として大和国野辺荘・美濃国弓削田荘・同国三村・美作国弓削荘・備前国佐伯荘の五ケ所を記す。この五ケ所の内、前三荘は平光盛から三人の息女にそれぞれ譲った所領の内に見え、後二荘は前述のように三条局から久我通忠後室に譲られているが、久我家領となった確証は存在しない。長通はこれらの諾荘をも回復≠オたいと希望したのであるが、それは実現しなかった。

通光逝去後、久我家の相続問題は延々と続いており、後宇多上皇が久我雅相の訴えを退け、尼如月(西蓮の娘)の中院家領等安堵を西園寺公衡に告げたのは1302年、実に通光の死亡の54年後である。権門西園寺家を相手取っての訴訟は大変な負担で、悪影響も多かったはずである。そして次は長通・通定間の相続争いである。こうした大混乱を見ると、久我家が村上源氏嫡流の地位を確立したのは長通の努力の賜物であって、長通以後の村上源氏における久我家の位置づけから、直ちに鎌倉時代後半における久我家の優越的な地位を想定することはできない。
 このように長通は後醍醐天皇親政→鎌倉幕府減亡→建武政権成立→室町幕府開創といった大変動に機敏に対処して、多数の家領の回復に見事な手腕を発揮した。長通が右の譲状に家記・所領等をすべて家督通相のみに譲る旨を明記して、いち早く単独相続制に切り替えたことは、彼自身が苦心の結果克ち取った家産が再び散逸することを防ぎ、すべてを久我家嫡流に伝えようとする強い意欲のあらわれであったに相違ない。





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