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| 小島明子氏の略歴(上掲書による) |
| 大谷大学特別研修員 ※後日補充します。 |
| ※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。 ※原文の傍線部分を赤、二重傍線部を紫、波線部分を青に換えました。 |
百五十年余りの歴史を、十五代に及ぶ天皇・皇室と貴族社会を中心に記した『増鏡』は、従来から三部(段)構成で説明されることが多く、それを最も明快に整理したのが、加納重文氏である。氏の「『増鏡』の思想(上)」(「古代文化」昭和五十一年六月)の論稿での説明は次のごとく明快である。
期せずしてこの福田氏の論稿と同時期に、伊藤敬氏が「増鏡の思想」1を中世文学会で口頭発表されている。伊藤敬氏は『増鏡』のいわゆる古本・十七巻と、流布本・二十巻の質的な差を論ずる目的で論を展開し、結果として『増鏡』の構想を明暗の相、因果流転思想で読み解くことが有効であると論じられた。 この両者の「明暗循環」説は、『増鏡』の作者の意図として肯定されるべきものと思われる。歴史物語は、ある一時点で過去を振り返り記述されるもので、歴史的事実の取捨選択がなされ、一部は強調され、また省略され、時には歪めて記述される。そこに作者の主張が読み取れるのは言うまでもない。 そうした視点から見ると、『増鏡』ではその叙述にあたって、数多くの先例が用いられることが一つの特徴であろう。『増鏡』では、先例は、それによって描写・説明される人物などに、ある種の価値を与えるものであることは疑いない。そして、その先例は、先行の歴史物語や日記・記録の類だけでなく、『増鏡』の内部で、先に記述された部分であることもある。また虚構である筈の物語のある場面を、史実とほぼ同様に見なし、先例とする場合も見られる。小稿では、こうした先例の与える意味を、皇位経承者に焦点を絞って読み込むことによって、「明暗循環」との相互関係を問い直してみたい。 一 まず、『増鏡』三部(段)構成中で「公武対立時代」の第一部と第三部に注目したい。第一部は後鳥羽院、第三部は後醍醐天皇を中心人物とし、両者は、倒幕運動に着手し、隠岐に配流されるまでほぼ共通の足跡をたどり、当然先例の用いられた方2にも共通点が少なくない。その先例は、次の四つに分類が可能であると思われる。
最初に(ア)として、虚構の『源氏物語』があたかも歴史的な事実であるように先例として用いられている部分であるが、以下のように後鳥羽院・後醍醐天皇の両者にある。
この中で、@Aは後鳥羽院・後醍醐天皇の双方が、共通の『源氏物語』の部分を基にしている。@は隠岐の御所の有様を描き、Aは『源氏物語』の二箇所の文辞を取り合わせ、さらに『源氏物語』にない「いまさらめきたり」(波線部)という同語句で都から遠く離れた感概を示す。従って、後鳥羽院・後醍醐天皇の二者の文章は、かなり類似していることがわかる。 先の(ア)のa・bで先例としての「須磨」の源氏の君の姿が、後鳥羽院・後醍醐天皇に重ね合わせられ、(イ)の@ABが示す文辞の引用によってそのイメージを定着させられている。従って、 (ア)先例的投影と、(イ)文辞の投影の両者は密接に結びついている4と言えよう。 これは、後醍醐天皇への「明石」の巻の投影である(ア)のc、(イ)のCによって一層はっきりと裏付けられる。隠岐のまどろむ後醍醐天皇の夢に現れる、父・後宇多院という構図は、この二箇所のみでは何の不自然さもなく、従来も特に言及されていない。ところが『増鏡』の「春の別れ」の次の記事によると、意外なことに気が付く。
このように(ア)(イ)から後鳥羽院も後醍醐天皇も、共に源氏の君像が与えられることで結び付いていると言える。だが、さらに、(ウ)として、後鳥羽院時代の承久の乱の例が、次のように、後醍醐天皇の描写に繰り返し用いられることも見落としてはならない。
さて、(ア)(イ)の源氏の君のイメージと、(ウ)の歴史的先例から後鳥羽院・後醍醐天皇を位置付けたが、さらにもう一人をその系譜上に加え得る。それは、『増鏡』三部構成説の第二部「公武協調時代」の主人公、後嵯峨院の子・亀山院である。 まず、源氏の君のイメージが亀山院に付加されていることを二箇所で確認出来る。一つめは、
二つめは、亀山院の出家後、後宮の一人であった※子女王と源有房が道ならぬ契りを結ぶ場面である。 ※てへんに「侖」
次に歴史的先例の投彰に目を向けよう。
加えて、『増鏡』はこのすぐ直後の記事で、亀山院がこの事件の責任を負うかのごとく、剃髪したことを記す。史実としては、亀山院剃髪は朝原事件の前の年であり、『増鏡』では虚構が施されていることは、早くから指摘されているのである。つまりは、一見平和な、いわゆる「公武協調時代」にも後鳥羽院の時代のような、世を騒がす出来事もあったという設定を、『増鏡』は作り出している。 このように、後鳥羽院の系譜に、亀山院が位置することを述ベたが、他方、亀山院と後醍醐天皇の関係に目を移すと、
またこうした両者の直接の交渉だけでなく、(ウ)の歴史的先例の投影も指摘し得る。
以上から、後鳥羽院・亀山院・後醍醐天皇の三者は、一本の系譜に位置付けることができると思われる。これを、こなれない表現ながらも、わたくしに「公武対立派」と称しておきたい。 二 それでは次に、『増鏡』の第二部にあたる「公武協調時代」に目を移したい。主として、前章冒頭に示した(エ)に該当するものが検討対象となる。「公武協調時代」は後嵯峨院がその中心人物となるが、この時代の歴史的先例を考える上では、『五代帝王物語』が欠かせない。『五代帝王物語』の中では後堀川・四条・後嵯峨・後深草・亀山の五代の天皇の即位が描かれるが、後堀川・四条の二代は全体の四分の一にすぎず、それ以外は、後嵯峨院の天皇時代、および後嵯峨院院政の下の、後深草天皇・亀山天皇の時代を描き、後嵯峨院の薨去で筆をおいているのである。 木藤才蔵氏10によれば、『増鏡』がこの『五代帝王物語』を資料としたことがほぼ確実な箇所は八例、利用した公算が大きいのは十例とされている。今回、氏とは別に先例という視点でこの資料を見直してみると、次の@〜Eの六例が、強い困果関係をもつものと思われる。 @後堀川天皇の践祚
A四条天皇の践祚
B後深草天皇の践祚
C女御公子入内
D実氏の栄華
E後嵯峨院の如法経
木藤氏の検討結果と比較してみると、Cは氏が全く資料として認められていない箇所であり、残りの五例、すなわち@ABDEは利用された公算が大きい箇所(注意−資料としたことが確実な箇所ではない)に当たっている。つまり、『増鏡』のある事件に関する記述全体の資料として『五代帝王物語』が利用されず、他の物によって書かれていても、その事件の先例を提示する資料としては用いられる場合もある、と言うことができるだろう。 今、問題にしている後嵯峨院の天皇および院政持代については、B〜Eまでがそれに相当する。その中でBでは、後深草院の四歳での践祚の佳例を『五代帝王物語』は後鳥羽院・土御門院と具体例を示しているのに、『増鏡』では「御例ども」とぼかしている。これはAの場合とは対照的である。Aは四条天皇の二歳での践祚記事で、『五代帝王物語』では「先例もよろしからず」という曖昧な表現であるのに、『増鏡』の方は、近衛院・六条院といずれも夭逝した天皇の具体例を補っているのである。 また、Eでは後嵯峨院が如法経を書写するにあたり、『五代帝王物語』は後白河院・後鳥羽院の例に倣って、と記すのにもかかわらず、『増鏡』では後白河院のみを取り上げている。このBとEから『増鏡』は、後嵯峨院が後鳥羽院の先例を受けることがないように操作して表現しているのではないか、と考えられてくる。 それで次に、後嵯峨院に関して、『五代帝王物語』と『増鏡』に呼応する記事があっても、その『五代帝王物語』の先例を『増鏡』が踏襲しない場合の、『五代帝王物語』の記事を抜き出してみる。
残りのaは後嵯峨院の高野御幸が、dは後嵯峨院の治める世が、後鳥羽院のそれより勝っていたという記事である。特にdは、後白河院と後鳥羽院は末代の佳例であったとまで言いながら、後嵯峨院の御世はそれを越えたものだと、記しているが、『増鏡』は採用しない。 以上a〜dから、『増鏡』では『五代帝王物語』の引用に際して、後嵯峨院が後鳥羽院の先例に倣った場合はむろん、後嵯峨院が後鳥羽院の先例を上回っている場合でも、後鳥羽院を引き合いには出さない、と言えるだろう。 それでは、『五代帝王物語』以外の資料を元にしたと思われる先例14を表にして検討したい。
T群は、後嵯峨院と、その子・後深草院の時代である。そして、その繁栄を支えた西園寺家もここに含める。先例となる人物はいずれも『増鏡』の叙述範囲より、前の時代の人物である。そして、これらの人物の先例に倣った、あるいは先例に勝るとも劣らないという表現がなされている。ここに挙げられた人物は、いずれも卓越した人物とされ、しかもその子孫が『増鏡』の描く時代の皇室に続いている点が大きな共通点である。そして、T’群は、T群の時代の『増鏡』の先述の人物を先例にしている。 では比較のため、先章で扱った後鳥羽院−亀山院−後醍醐天皇という「公武対立派」に目を移そう。一章で(ア)〜(ウ)として論じたものは省略したため、数が少ない。
この中で「承久の乱のまとめ」は特異である。皇室に弓を引いた四人の臣下と、時の天皇・後白河と争った崇徳上皇の先例である。どの場合も天皇は敗れることはなかったのに、承久の乱は、皇室が敗北した稀なものとする。 さて二箇所に見られる「崇徳院」は讃岐で空しく崩御し、次の「三条院」は、その皇子・敦明親王が道長の圧迫で東宮を辞して、小一条院となってしまう。「承香殿の女御」15は一条天皇の後宮の元子で、懐妊した筈が、出産の時に子ではなく水のみ流れでたという逸話をもつ。さらに「二条院」はその子供の六条院が夭逝しており、「後冷泉院」は男子にも女子にも恵まれなかったのである。つまり、例外なしに皇統が続かなかった人物が先例に挙げられていて、T類と明らかな対照をなしている。 以上から、先例の投影によって、TT’類に位置する、後嵯峨院−後深草院−伏見院の系譜の人物は、先章およびこのU類で扱った「公武対立派」とは、明確に書き分けられていることがわかるのである。これを、再びこなれない言い方ながら「公武協調派」と仮に呼んでおくこととする。 三 それでは、この「公武対立派」と「公武協調派」の位置付けはどう考えるべきか。これについて先行の論稿でもしばしば問題とされる『増鏡』の記述がある。
まずは大覚寺統の方をみるが、特に必要な部分の略系図が以下である。 94代 90代 91代 ┌後二条─邦良親王─康仁親王 亀山─後宇多┤96代 └後醍醐 一章で述べたように後宇多院のおぼしめしは、早く世を去った後二条院の皇子・邦良親王にあり、また後醍醐天皇が、亀山院に、取り分け愛されていたと『増鏡』が記すことも触れて来た。これは、さらに『増鏡』の「正中の変」の記述につながる。
ところが、後宇多院の期待を受けた邦良親王は、位に即かないうちに世を去る。
そして、邦良親王の皇子・康仁親王は、「かゝるにつけては、一御族のみ、今はわく方なく定まり給べきかと、世の人も思ひきこゆる程に、亀山院の御流れの絶ゆべきにはあらずとにや、先坊の一の宮を太子に立てまつる。」と「むら時雨」にあるように、後醍醐天皇の倒幕計面が失敗し、天皇が隠岐へ流された後、光厳天皇の即位に伴って、東宮となる。
つまり、いわゆる大覚寺統は内部でさらに二分裂している史実を、『増鏡』は繰り返し強調20し示しているといえる。本稿で、大覚寺統・持明院統という用語を使わず、「公武対立派」「公武協調派」という耳慣れない言葉に置き換えてきた理由の一つがこの点にある。 この分裂の様相の大覚寺統の方に比べ、持明院統が、皇統の一本化を図ったことも歴史的事実である。『増鏡』はそれを諸所においで賛美する。「この御門をば、新院の御子になし奉らせ給て」と「浦千鳥」に言うように、花園天皇を、兄である後伏見院の猶子という形にしたのは、二人の父・伏見院の配慮である。
こうした内部分裂の「公武対立派」と、融和の「公武強調派」を対比しつつ、『増鏡』は、最終の巻「月草の花」では、後醍醐天皇が京に戻り、再び世を治めることを描いて終わっている。明暗の「明」の状況にある「公武対立派」と、「暗」の中にある「公武協調派」という形なのだが、それが大団円なのか。そして、なんらかの未来の暗示はないのだろうか。 「公武対立派」については、後醍醐天皇の皇子に着目したい。後醍醐天皇に実に多くの皇子がいたことは、周知の事であるが、倒幕に大きな功績のあった大塔宮・護良親王以外で、『増鏡』の中で三箇所の記事が見られるのは、一の皇子と二の皇子のみである。
だが、その将来を期待されながらも元弘の変の前に病死してしまう、言うなれば全くの瑞役に過ぎない二の宮に、なぜ特に筆を割いたのか、という疑問が起こる。これは、弟の系譜であるといえる「公武対立派」が絶える未来の暗示ではないか、と考えるのが妥当ではないだろうか。そして、同時に一章で検討したように、この「公武対立派」に源氏の君のイメージが投影されていたことも思い合わされる。源氏の君も、その不義の子・冷泉院の皇統は絶える。つまり先例が、「公武対立派」に負の価値を付与しているのである。 一方、「公武協調派」に目をやると、次のように光厳天皇の後を継ぐ「まうけの君」となる「宮たち」の事が書かれている。
ここで、伊藤説に賛同の立場から、その補強として次の記事を提示したい。
以上から、『増鏡』は終末部に至って、「公武対立派」の光輝を描きながらも、その裏に「公武協調派」の再浮上も微かに示しつつ終わっている、という結論になる。それは『増鏡』が「明暗循環」の様相を示す故に、享受者が十分推察可能な結果であろうし、同時に、本稿が論じてきた先例が、それを暗示し、予言しているのである。 〈注〉 『増鏡』は、従来十七巻本(いわゆる古本系)が原態であるとされてきたが、近年、伊藤敬氏が二十巻本(いわゆる増補本系、または流布本系)の見直しを主張されている。ただ、現存最古の二十巻本である「後崇光院本」自体が混態本であることもあり、まだ大方の賛同を得るには至っていない。今後、筆者も検討したいが、本稿は岩波古典文学大系所収古本系の学習院大学附属図書館本を用いる。 1 伊藤敬氏「増鏡の思想」 ○昭和58年5月中世文学会春季大会口頭発表 ○「中世文学」29号・昭和59年5月(同題) ○「藤女子大学国文学雑誌」33号・昭和59年6月(続) ○「藤女子大学国文学雑誌」34号・昭和59年12月(完) その後『増鏡考説−流布本考−』(新典社・平成4年4月刊)に改稿されて所収。 2 先例についての先行論文がある。福田景道氏「『増鏡』における過去と現在−「先例」の機能について−」(「島根大学教育学部紀要(人文・社会科学)」24巻2号・平成2年12月) 3 引用は日本古典文学全集(小学館)所収の本文。 4 他にも『増鏡』の中で源氏の君のイメージが宗尊親王・堀川具親にも付与される。しかし、宗尊親王は(イ)の文辞の投影が一箇所のみ、堀川具親は(ア)の先例的投影が一箇所のみで、その印象は希簿である。 5 『花園院宸記』の本文は史料纂集(続群書類従完成会)所収のもの。なお、『神皇正統記』(岩波日本古典文学大系所収)後醍醐天皇の箇所では「俄ニ立太子ノ沙汰アリシニ、亀山ハコノ君ヲスへ奉ラントオボシメシテ……後宇多ノ御心ザシモアサカラズ」とあるが、北畠親房の言であり、かなり割り引いて読む必要がある。 6 1の伊藤敬氏著書・第五章の四 7 亀山院の後宮が、他の男性と通じるケースはこの※子女王の他、近衛位子(新陽明門院)と民部卿三位の二例がある。ただし、この二人の記事はごく短く、物語的表現とは程遠い。 8 ○小川利彦氏「源氏受容からみた『増鏡』の執筆意図」(「源氏物語研究」1号・昭和48年12月) ○河北騰氏「『増鏡』の文学性について」(「国語と国文学」68巻1号・平成3年1月)など 9 底本「二の」がなく諸本により補う。 10 「五代帝王物語と増鏡」(「日本女子大学紀要(文学部)」15号・昭和41年3月) 11 『群書類従』第二輯帝王部所収の本文。 12 底本「奉」は諸本「給へる」とする。 13 底本「御」がなく諸本で補う。 14 勅撰集など政冶的な意味が殆どないと思われる記事は対象から外してある。 15 承香殿の女御元子(『増鏡』諸本は弘徽殿とするが誤り)同様、出産に水を産んだのは、邦良親王の妃・▲子内親王であった。後醍醐天皇側ではそれを嘲笑したが、やがて後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに、三十ヵ月以上も出産もなく終わり、よりひどい事態であった、という二段構えの先例の引き方である。 ▲偏が「示」、旁が「某」 16 1の伊藤敬氏「増鏡の思想(完)」。ただし『増鏡考説−流布本考−』に改稿・所収にあたってはこの部分は省略されている。 17 福田景道氏「『増鏡』と両統問題」(「島根大学教育学部紀要(人文・社会科学)」25巻・平成3年12月) 18 ○一つめの例−「藤衣」 (新勅撰集成立) 「元久に新古今いできて、ほどなく世の中もひきかへぬるに、又新の字うち続きたる心よからぬ事」など、さゝめく人も侍けるとかや。 (この直後に、後の四条天皇立太子) 例の人の口さがなさは、「先の承久の廃帝の、生させ給とひとしく坊にゐ給へりしは、いと不用なりし〔を〕」などいふめり。 ○二つめの例−「あすか川」 (後嵯峨院の遺詔で皇位は亀山院一流のみと決定) ひとつ御腹の御兄にてもをはします。かた/゛\ことはりなるベき世を、思ひの外にもと、思ふ人/゛\も多かるべし…「…新院にも若宮おはしませば、行く末の一ふしには、などか」など、いひしろふ。 19 比較のため『太平記』(岩波日本古典文学大系)の記述を拾ってゆく。都から落ち行く途中の四宮河原で「東宮ヲ始進ラセテ供奉ノ卿相雲客、方々ヘ落散給ケル」と東宮は帝・院と別れたように記されるのに、その後「今ハ主上・春宮・両上皇ノ御方様トテハ、経顕・有光卿ノ二人ヨリ外ハ供奉仕ル人モナシ。」と再び行動を共にしている、という奇妙な叙述である(以上、巻九)。しかも元弘三年(1333)「十一月三日、春宮崩御成ニケリ」としている(以上、巻十二)。しかし、康仁親王の享年は文和四年(1355)である。つまり、『大平記』では、康仁親王に細かな注意は払われていないのである。 20 国史学の側からの研究成果を『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社・昭和60年11月)の邦良親王の項で簡便に見ると、「親王の死により、……男女三十余人が落飾してしまう。この結果、大覚寺統内部の分裂は鎮静化する。」(武田彩子氏)としておられる。 21 世良親王についての論はほとんどないが、森茂暁氏『皇子たちの南北朝−後醍醐天皇の分身−』(中公新書・昭和63年7月)は多少言及がある。 22 1の「増境の思想(続)」 23 この記事は『増鏡』の成立年代を特定する一つの鍵として、和田英松氏が早くに指摘され、宮内三二郎氏も新たに考察を加えておられる。 24 1の「増鏡の思想(完)」 |
| ☆小島明子氏の考え方の学説史上の位置づけについてはこちら。(伊藤敬氏「増鏡研究の動向」) |
