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小島明子 「『増鏡』の先例の意味−「明暗循環説」との関連」
(『国語国文』第62巻9号.平成5年.p1以下)







小島明子氏の略歴(上掲書による)
大谷大学特別研修員
※後日補充します。


※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。

※原文の傍線部分を、二重傍線部を、波線部分をに換えました。




 百五十年余りの歴史を、十五代に及ぶ天皇・皇室と貴族社会を中心に記した『増鏡』は、従来から三部(段)構成で説明されることが多く、それを最も明快に整理したのが、加納重文氏である。氏の「『増鏡』の思想(上)」(「古代文化」昭和五十一年六月)の論稿での説明は次のごとく明快である。

●第一部 第一「おどろのした」〜第三「藤衣」
     後鳥羽院物語 公武対立時代
●第二部 第四「三神山」〜第十二「浦千鳥」
     後嵯峨院物語 公武協調時代
●第三部 第十三「秋のみ山」〜第十七「月草の花」
     後醍醐帝物語 公武対立時代

 それに対して、『増鏡』の基調として「明暗循環」という語が持ち出されたのはそう古いことではなく、福田景道氏「『増鏡』の世界−「皇位継承」の意義をめぐって−」(「日本文芸論叢」二号・昭和五十八年三月)がその嚆矢である。『増鏡』では、新しい皇位継承者が決定する際には、その陰で前の帝や前の治天の君、皇位継承に漏れた候補者、そしてその縁故者の不遇と悲哀が詳しく描写される。これは『栄花物語』以来の歴史物語に共通する明暗対比であり、なんら新しさがないようだが、『増鏡』の場合には単なる対比ではないことに着目するべきである。この時代の複雑な皇位の推移のために、失意に沈む人々は、必ずと言っていいほど、栄光の座に浮上もしくは再浮上し、一方、栄光を手にしている人物にはやがて失意の日が訪れることが多いので、明と暗は反転を繰り返す、これが福田氏の言われる「明暗循環」である。

 期せずしてこの福田氏の論稿と同時期に、伊藤敬氏が「増鏡の思想」1を中世文学会で口頭発表されている。伊藤敬氏は『増鏡』のいわゆる古本・十七巻と、流布本・二十巻の質的な差を論ずる目的で論を展開し、結果として『増鏡』の構想を明暗の相、因果流転思想で読み解くことが有効であると論じられた。

 この両者の「明暗循環」説は、『増鏡』の作者の意図として肯定されるべきものと思われる。歴史物語は、ある一時点で過去を振り返り記述されるもので、歴史的事実の取捨選択がなされ、一部は強調され、また省略され、時には歪めて記述される。そこに作者の主張が読み取れるのは言うまでもない。

 そうした視点から見ると、『増鏡』ではその叙述にあたって、数多くの先例が用いられることが一つの特徴であろう。『増鏡』では、先例は、それによって描写・説明される人物などに、ある種の価値を与えるものであることは疑いない。そして、その先例は、先行の歴史物語や日記・記録の類だけでなく、『増鏡』の内部で、先に記述された部分であることもある。また虚構である筈の物語のある場面を、史実とほぼ同様に見なし、先例とする場合も見られる。小稿では、こうした先例の与える意味を、皇位経承者に焦点を絞って読み込むことによって、「明暗循環」との相互関係を問い直してみたい。


 

 まず、『増鏡』三部(段)構成中で「公武対立時代」の第一部と第三部に注目したい。第一部は後鳥羽院、第三部は後醍醐天皇を中心人物とし、両者は、倒幕運動に着手し、隠岐に配流されるまでほぼ共通の足跡をたどり、当然先例の用いられた方2にも共通点が少なくない。その先例は、次の四つに分類が可能であると思われる。

(ア)『源氏物語』が史実のごとく先例として投影されている部分
(イ)『源氏物語』の文辞が投影されている部分
(ウ)『増鏡』の先行の記述の部分が歴史的先例として投影されている部分
(エ)他の歴史物語・記録などが歴史的先例として投影されている部分

 このうち本章では(ア)(イ)(ウ)を検討し、(エ)についでは次章に譲ることとする。

 最初に(ア)として、虚構の『源氏物語』があたかも歴史的な事実であるように先例として用いられている部分であるが、以下のように後鳥羽院・後醍醐天皇の両者にある。

a.こゝかしこよりあはれなる御消息……かの伊勢より須磨に参りけんも、かくやとおぼゆるまで、
 (後鳥羽院 「新島守」)
b.須磨の関にかゝらせたまふ。かの行平の中納言、「関吹こゆる」といひけんは、浦よりおちなるべし。あはれに御覧じわたさる。源氏の大将の、「泣く音にまがふ」とのたまひけん浦波、いまもげに御袖にかゝる心ちするも、さま/゛\御涙のもよほし也。
 (後醍醐天皇「久米のさら山」)
c.源氏の大将、須磨の浦にて、父御門見奉りけん夢の心ちし給も、いとあはれに頼もしう、
 (後醍醐天皇「月草の花」)

 次に(イ)『源氏物語』の文辞の投影に関しては、既に先行の諸注釈が指摘するところで、それだけならば全く「ことふりにたれど」ではあるが、論旨の都合上、提示する。

@ 『源氏物語』3
「須磨」

おはすべき所は……海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。……茅屋ども、葦ふける廊めく屋など、をかしうしつらひなしたり。
後鳥羽院
「新島守」
このおはします所は……海づらよりは少しひき入て、山かげにかたそへて、……松の柱に葦ふける廊など、気色ばかり事そぎたり。
後醍醐天皇
「久米のさら山」
海づらよりはすこし入たる国分寺といふ寺を、よろしきさまにとり払いて、おはしまし所に定む。
A 『源氏物語』
「須磨」
●うちかへりみたまへるに、来し方の山は霞遙かにて、まことに三千里の外の心地するに、櫂の雫もたへがたし。
●「二千里外故人心」と誦じたまへる、例の涙もとどめられず。
後鳥羽院
「新島守」
はる/゛\と見やらるゝ海の眺望、二千里の外も残りなき心ちする、いまさらめきたり
後醍醐天皇
「久米のさら山」
遙かに押し出だす程、いま一かすみ心細うあはれにて、まことに「二千里の外」の心ちするも、今さらめきたり
B 『源氏物語』
「須磨」
煙のいと近く時々立ち来るを、……おはします背後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて
 山がつのいほりに焚けるしばしばも
  こと問ひ来なん恋ふる里人
後醍醐天皇
「久米のさら山」
おはしますにつゞきたる軒のつまより、煙の立ち来れば、「庵にたける」とうち誦ぜさせ給へるも艶なり。
C 『源氏物語』
「明石」
終日にいりもみつる雷の騒ぎに、さこそいへ、いたう困じたまひにければ、心にもあらずうちまどろみたまふ。……故院ただおはしまししさながら立ちたまひて、…「…この浦を去りね」とのたまはす。
後醍醐天皇
「月草の花」
夜も大殿ごもらぬ日数へて、さすが、いたう困じ給にけり。心ならずまどろませ給へるあか月がた、夢うつゝともわかぬ程に、後宇多院、ありしながらの御面影さやかに見え給て、きこえ知らせ給事多かりけり。


この中で、@Aは後鳥羽院・後醍醐天皇の双方が、共通の『源氏物語』の部分を基にしている。@は隠岐の御所の有様を描き、Aは『源氏物語』の二箇所の文辞を取り合わせ、さらに『源氏物語』にない「いまさらめきたり」(波線部)という同語句で都から遠く離れた感概を示す。従って、後鳥羽院・後醍醐天皇の二者の文章は、かなり類似していることがわかる。

 先の(ア)のaで先例としての「須磨」の源氏の君の姿が、後鳥羽院・後醍醐天皇に重ね合わせられ、(イ)の@ABが示す文辞の引用によってそのイメージを定着させられている。従って、 (ア)先例的投影と、(イ)文辞の投影の両者は密接に結びついている4と言えよう。

 これは、後醍醐天皇への「明石」の巻の投影である(ア)の、(イ)のCによって一層はっきりと裏付けられる。隠岐のまどろむ後醍醐天皇の夢に現れる、父・後宇多院という構図は、この二箇所のみでは何の不自然さもなく、従来も特に言及されていない。ところが『増鏡』の「春の別れ」の次の記事によると、意外なことに気が付く。

法皇御悩み重くならせ給へば、……その後、御むま子の春宮行啓あり……御門の御なからい、うはべはいとよけれど、まめやかならぬを、いと心苦しとおぼさるれど、

これは、法皇・後宇多院の病に、孫の東宮・邦良親王が見舞う場面である。邦良親王は、後醍醐天皇の兄・後二条院の子で、院は東宮と後醍醐天皇の仲の思わしくないことを危倶している、というものである。この『増鏡』の記述は虚構でなく、例えば以下の『花園天皇宸記』でも裏付けられる史実5である。

近年禁裏・龍楼不和、法皇御旨在東宮、依之旧臣等懐怖、如踏薄氷云々、
 (元亨四年六月廿五日条)

 この『花園天皇宸記』は、後宇多院のおぼしめしが東宮にあったため、臣下の不安を招いたという、『増鏡』よりも後宇多院の意志を明らかにした書き振りである。つまり、後醍醐天皇の夢に父院が現れるという『増鏡』の(ア)のや(イ)のCの記述は、かなりの無理があるということになる。こうした無理を敢えて行ったのは、後醍醐天皇に源氏の君のイメージを強く植え付けようとする、作者の意図があるのではないだろうか。

 このように(ア)(イ)から後鳥羽院も後醍醐天皇も、共に源氏の君像が与えられることで結び付いていると言える。だが、さらに、(ウ)として、後鳥羽院時代の承久の乱の例が、次のように、後醍醐天皇の描写に繰り返し用いられることも見落としてはならない。

@ 大かた、京も鎌倉も、騒ぎのゝしるさま、けしからず。承久の昔もかくやと、今さらに思ひやらる。
 「むら時雨」

A かの承久のためしにや、東より御使には、……ふりにし事を思し出づるにも、たち返また世をやすく思さん事のいとかたければ、よろづ今をとぢめにこそと、思しめぐらすに、
 「久米のさら山」

B 崇徳院の讃岐におはしましけん程のありさま、後鳥羽院の隠岐に移らせ給けむ時なども、さこそはありけめなれど、
 「〃」

C 三日月の中山にて、むかし後鳥羽院の仰られけん事思し出づるさヘ、げに憂かりけるためしなり。……さはいへど、今まで国のあるじにて、世をもいみじう治めさせ給へりつる名残にやあらん、いとねんごろにのみ仕まつれり。いにしへの御幸どもには、かうはあらざりけりとぞ、ふるき事知れる人/゛\言ひ侍る。
 「〃」

D かの島におはしまし着きぬ。昔の御跡は、それとばかりのしるしだになく、……御身の上はさしをかれて、まづかのいにしへの事思し出づ。……今はた、さらにかくさすらへぬるも、何により思ひ立ちし事ぞ、かの御心の末や果たし遂ぐると思ひしゆヘ也
 「〃」

 このうち特に、Dの波線部は、後醍醐天皇が乱を起こしてこのように配流の憂き目にあうのも後鳥羽院の志を受け継ごうとしたためである、と明記されている。一方、Cでは、「いにしへの御幸」ではそうではなかったが、後醍醐天皇には人々が心を寄せ「ねんごろに」仕えた、と後鳥羽院との違いがあることも示されている。しかし、後醍醐天皇は後鳥羽院の先例を踏まえるものとして人物造形されているのは疑いようがないであろう。

 さて、(ア)(イ)の源氏の君のイメージと、(ウ)の歴史的先例から後鳥羽院・後醍醐天皇を位置付けたが、さらにもう一人をその系譜上に加え得る。それは、『増鏡』三部構成説の第二部「公武協調時代」の主人公、後嵯峨院の子・亀山院である。

 まず、源氏の君のイメージが亀山院に付加されていることを二箇所で確認出来る。一つめは、

寝殿の母屋に、御座対座に設けられたるを、新院入らせ給て、「故院の御時、定めをかれし上は、今さらにやは」とて、長押の下へひき下げさせ給ほどに、本院は出給て、「朱雀院の行辛には、あるじの座をこそ直され侍けるに、今日の御幸には、御座おろさるゝ、いとことやうに侍り」などきこえ給ほど、おもしろし。
 「老のなみ」

蹴鞠の際、兄の本院・後深草院と、弟の新院・亀山院の座が同列にしつらえてあったのを、亀山院が下座に直す。しかし『源氏物語』「藤裏葉」を先例に、後深草院がまた同列にする、という記事で、後深草院が朱雀院に、亀山院が源氏の君になぞらえられているのである。なお、この部分が『とはずがたり』を典拠とするのは周知のことだが、『とはずがたり』には六条院の女楽をまねぶ記事が近接して存在する。こちらは後深草院が源氏の君、亀山院が夕霧の役をする趣向で、これは『増鏡』には採用されていない。

 二つめは、亀山院の出家後、後宮の一人であった※子女王と源有房が道ならぬ契りを結ぶ場面である。
※てへんに「侖」

出でがてにやすらいたる面影も、なにの御目とまるふしもなし。さばかりいみじかりし院の御目うつりに、こよなの契の程やと、おぼし知らるゝもつらければ、いらへもし給はず。
 「さしぐし」

伊藤敬氏6は、『増鏡』には、こうしたいわゆる恋の物語が二十件あり、内、亀山院関係が九件と最も多い、とされる。この明確な傾向は動かないが、氏が数えられなかった小さい記事、また正式に入内した記事も含めると、亀山院と交渉があった女性は『増鏡』中に十六名にもなり、多少の非難をこめて、亀山院がさまざまな女性と持つ情事が描かれる中で、この「さしぐし」は全く異色7である。この記事は、従来王朝的物語として、『増鏡』の中で高い文学的評価がなされている8のだが、『増鏡』に敢えて採用されている意味はそれだけでは説明できない。これは次の『源氏物語』の「若菜下」の投影と考えるべきであろう。

宮は尽きせずわりなきことに思したり。院をいみじく怖ぢきこえたまへる御心に、ありさまも人のほども等しくだにやはある。……幼くよりさるたぐひなき御ありさまにならひたまへる御心には、めざましくのみ見たまふほどに、
 「若菜下」

女三の宮が柏木と契りを結んだ後、源氏を見慣れている目には柏木など比べようもないという感想は、そのまま※子女王・源有房・亀山院の三者にあてはまるのである。つまりは、この恋の記事からは、亀山院に、源氏の君像が重ね合わされることを読み取るべきと思われる。

 次に歴史的先例の投彰に目を向けよう。

公衡、一院の御前にて「この事は、なを、禅林寺殿の、御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引たがヘ、東よりかく当代考据ゑたてまつり、世をしろしめさする事を、心よからず思すによりて、世を傾け給はんの御本意なり。……院をまづ六波羅に移し奉らるべきにこそ」など、かの承久の例もひき出でつべく申給へば、いといとをしうあさましと思して、「いかでかさまであらん。実ならぬ事をも人はよくいひなす物也。故院のなき御影にも、思さん事いみじけれ」と涙ぐみてのたまふを
 「さしぐし」

これは、いわゆる朝原事件、すなわち、朝原為頼という武士が伏見天皇の殺害を企て、御所に乱入した事件に際しての記事である。事件の背後には禅林寺殿(亀山院)があると、公衡が、一院(後深草院)に訴えている。ちなみに破線部の気弱い後深草院には、『源氏物語』の「須磨」の巻に描かれる「院の思しのたまはせし御心を違へつるかな。罪得らむかしとて、涙ぐませたまふ」朱雀院が重ね合わされ、先に見て来た亀山院に源氏の君のイメージが付与されているのと対照的である。ともあれ、この朝原事件では、承久の乱の例が引かれていることに注意したい。

 加えて、『増鏡』はこのすぐ直後の記事で、亀山院がこの事件の責任を負うかのごとく、剃髪したことを記す。史実としては、亀山院剃髪は朝原事件の前の年であり、『増鏡』では虚構が施されていることは、早くから指摘されているのである。つまりは、一見平和な、いわゆる「公武協調時代」にも後鳥羽院の時代のような、世を騒がす出来事もあったという設定を、『増鏡』は作り出している。

 このように、後鳥羽院の系譜に、亀山院が位置することを述ベたが、他方、亀山院と後醍醐天皇の関係に目を移すと、

院の〔二の〕9御子……此ころ帥宮ときこゆるを、法皇とりわき御かたはら去らず馴らはし奉り給ひて、いみじうらうたがりきこえさせ給しかば、人よりことにおぼし歎べし。
 「さしぐし」

帥の宮と呼ばれていた孫の尊治親王(後醍醐天皇)を、祖父の亀山法皇が非常にかわいがったと、『増鏡』は記す。そして以下、亀山院の崩御後の帥の宮の悲しみを、余人以上に詳しく綴ってゆく。

 またこうした両者の直接の交渉だけでなく、(ウ)の歴史的先例の投影も指摘し得る。

事の起こりは、御門世を乱り給はんとて、かの武士どもを召したる也とぞ、いひあつかふめる。……正応にも、浅原といひし騒ぎは、後嵯峨院の御処分を、東よりひき違へし御恨みとこそきこえしかば、今もその御憤りの名残なるべし。
 「春の別れ」

元弘の変に先立つこと七年前の、この正中の変の記事で、先の朝原事件が持ち出され、今回の正中の変がその「御憤りの名残」であるとしている。先に引用したDで、後醍醐天皇は後鳥羽院の討幕の意志を継いだ、とされていることに触れたが、同時に後醍醐天皇は亀山院の志の継承者でもあったのである。

 以上から、後鳥羽院・亀山院・後醍醐天皇の三者は、一本の系譜に位置付けることができると思われる。これを、こなれない表現ながらも、わたくしに「公武対立派」と称しておきたい。


 

 それでは次に、『増鏡』の第二部にあたる「公武協調時代」に目を移したい。主として、前章冒頭に示した(エ)に該当するものが検討対象となる。「公武協調時代」は後嵯峨院がその中心人物となるが、この時代の歴史的先例を考える上では、『五代帝王物語』が欠かせない。『五代帝王物語』の中では後堀川・四条・後嵯峨・後深草・亀山の五代の天皇の即位が描かれるが、後堀川・四条の二代は全体の四分の一にすぎず、それ以外は、後嵯峨院の天皇時代、および後嵯峨院院政の下の、後深草天皇・亀山天皇の時代を描き、後嵯峨院の薨去で筆をおいているのである。

 木藤才蔵氏10によれば、『増鏡』がこの『五代帝王物語』を資料としたことがほぼ確実な箇所は八例、利用した公算が大きいのは十例とされている。今回、氏とは別に先例という視点でこの資料を見直してみると、次の@〜Eの六例が、強い困果関係をもつものと思われる。

 @後堀川天皇の践祚
『五代帝王物語』11 孫王の位に即給事。光仁天皇より後絶て久しくなれり。聖運のわたらせ給けるこそ恭侍れ。
『増鏡』 孫王にて位に即かせ奉12ためし、光仁天皇より後は絶えてひさしかりつるに、めづらしくめでたし。
 「藤衣」

 A四条天皇の践祚
『五代帝王物語』 御年二歳いつしかなるうヘ。先例もよろしからずおぼえ侍き。
『増鏡』 今上は二歳にぞならせ給。……むかし、近衛院三、六条院二にて、位につき給へりし、いづれもいと心ゆかぬためしなり。
 「藤衣」

 B後深草天皇の践祚
『五代帝王物語』 位を春宮に譲まいらせらる。御年四也。四歳にてつがせ給事。後鳥羽。土御門院。此佳なるべし。
『増鏡』 この御門も又四にぞならせ給。めでたき御例どもなれば、行末をしはかられ給。
 「内野の雪」

 C女御公子入内
『五代帝王物語』 康元元年十一月に女御に参りて。同二年二月に立后あり。御年は遙の姉にてぞおはします。御姨にて入内し給事。先例多侍るにや。(以下具体例を多数配す)かやうのに至まで。ためし多く侍る。
『増鏡』 康元元年にもなりにけり。太政大臣の第二の〔御〕13女、女御にまいり給。女院の御はらからなれば、過ぐし給へるほどなれど、かゝるためしはあまた侍べし。
 「おりゐる雲」

 D実氏の栄華
『五代帝王物語』 大宮院の御せうとたち。公相公基は左右の大将に並て。珍しきにて侍しに。父の前相国実氏公。院の最勝講五巻の日。左右の大将共に具して参らせられたりしかば。一家の公卿座を立て礼節ありき。ゆゝしとも申も愚か也。近衛大将兄弟任ずる事帝王摂録臣などの御子たちは申に及ばず。延喜の比より後。凡人のなかには……。源氏には……平家には……の外は。なく侍りしを。
『増鏡』 公相・公基とて、大将にも左右に並びてをはせしぞかし。これも、ためしいとあまたはきこえぬ事なるべし。我御身太政大臣にて、ふたりの大将をひき具して、最勝講なりしかとよ、参り給へりし御勢ひのめでたさは、めづらかなるほどにぞ侍し。
 「おりゐる雲」

 E後嵯峨院の如法経
『五代帝王物語』 後白川院文治〔後鳥羽〕の御修行のをたづねて。亀山殿仙洞にて。如法写経の御願をはじめらる。彼は御法体の後なり。此は御俗体也といへども、三衣をかけさせ給て。万機諮詢の御隙はなけれども。たび/\此御願をはたさる。
『増鏡』 本院、亀山殿にて御如法経書かせ給。いとありがたくめでたき御事ならんかし。後白川院こそかゝる御事はせさせ給けれ。それも御髪おろして後の事なりけり。いとかく思し立たせ給へる、いみじき御願なるべし。さるは、あまた度侍しぞかし。
 「北野の雪」
『五代帝王物語』 又上東門院の佳を追て。大宮院も妙経に伴ひまいらせ給ふ。
『増鏡』 むかし、上東門院も行なはせ給たりしためしにや、大宮院の、おなじく書かせおはしますとぞうけ給し。
 「北野の雪」

 木藤氏の検討結果と比較してみると、Cは氏が全く資料として認められていない箇所であり、残りの五例、すなわち@ABDEは利用された公算が大きい箇所(注意−資料としたことが確実な箇所ではない)に当たっている。つまり、『増鏡』のある事件に関する記述全体の資料として『五代帝王物語』が利用されず、他の物によって書かれていても、その事件の先例を提示する資料としては用いられる場合もある、と言うことができるだろう。

 今、問題にしている後嵯峨院の天皇および院政持代については、B〜Eまでがそれに相当する。その中でBでは、後深草院の四歳での践祚の佳例を『五代帝王物語』は後鳥羽院・土御門院と具体例を示しているのに、『増鏡』では「御例ども」とぼかしている。これはAの場合とは対照的である。Aは四条天皇の二歳での践祚記事で、『五代帝王物語』では「先例もよろしからず」という曖昧な表現であるのに、『増鏡』の方は、近衛院・六条院といずれも夭逝した天皇の具体例を補っているのである。

 また、Eでは後嵯峨院が如法経を書写するにあたり、『五代帝王物語』は後白河院・後鳥羽院の例に倣って、と記すのにもかかわらず、『増鏡』では後白河院のみを取り上げている。このBとEから『増鏡』は、後嵯峨院が後鳥羽院の先例を受けることがないように操作して表現しているのではないか、と考えられてくる。

 それで次に、後嵯峨院に関して、『五代帝王物語』と『増鏡』に呼応する記事があっても、その『五代帝王物語』の先例を『増鏡』が踏襲しない場合の、『五代帝王物語』の記事を抜き出してみる。

a.後嵯峨院の高野御幸
 (『増鏡』」は「おりゐる雲」に該当記事
後鳥羽院の御代ありける後。久しくなりつれば。……後鳥羽院の御幸に。よろづ事の外に超過して侍よし申き。

b.後嵯峨院の出家
 (『増鏡』は「あすか川」に該当記事)
大多勝院にて御逆修を始らる。是は後鳥羽院の御逆修の例を守られて。僧衆八人也。

c.後嵯峨院の実施されなかった五十の賀
 (『増鏡』は「あすか川」に該当記事)
御賀は。後鳥羽院御心にかけさせおはしたりけれども。むなしくやみにけり。さればめざましくおぼしめせば。いかにもあらすまじき由御託宣有けるときこえしに。げにもさりけるやらん。

d.後嵯峨院崩御
 (『増鏡』は「あすか川」に該当記事
後白河後鳥羽二代は。目出御事どもゝ多く。末代の佳例にこそ引まいらせたれども。うき事をも御覧ぜられしに。故院御代は。波も風もたゝず。

このうち、は後嵯峨院が後鳥羽院の先例に倣ったという記事である。また、は後嵯峨院五十の賀が中止されたのは後鳥羽院の託宣による、との記事だが、言い換えれば、後鳥羽院の五十の賀が実施されなかったことに後嵯峨院も倣ったという結果になっている。つまりこのbcが採用されないのは、BEが後鳥羽院の先例をとりあげないことと同様であろう。

 残りのaは後嵯峨院の高野御幸が、は後嵯峨院の治める世が、後鳥羽院のそれより勝っていたという記事である。特には、後白河院と後鳥羽院は末代の佳例であったとまで言いながら、後嵯峨院の御世はそれを越えたものだと、記しているが、『増鏡』は採用しない。

 以上aから、『増鏡』では『五代帝王物語』の引用に際して、後嵯峨院が後鳥羽院の先例に倣った場合はむろん、後嵯峨院が後鳥羽院の先例を上回っている場合でも、後鳥羽院を引き合いには出さない、と言えるだろう。

 それでは、『五代帝王物語』以外の資料を元にしたと思われる先例14を表にして検討したい。


『増鏡』記事 先例となる人物 出典
T 西園寺の建立
 「内野の雪」
道長 大鏡
後嵯峨院住吉御幸
 「内野の雪」
後三条院 今鏡
女御公子、後深草天皇に入内
 「おりゐる雲」
待賢門院 今鏡
煕仁親王(後の伏見天皇)立太子
 「草枕」
高倉院 今鏡
後深草院長講堂移徙・供花
 「老のなみ」
白河院 今鏡
北山准后(貞子)の有様
 「老のなみ」
道長北の方、鷹司殿 特定不可
大宮院(※子)の有様
 「老のなみ」
※女へんに「吉」
穏子・安子
上東門院
待賢門院
大鏡
今鏡
今鏡
T’ 伏見天皇後宮、季子
 「さしぐし」
東二条院 増鏡
女御△子、伏見天皇に入内
 「さしぐし」
△金へんに「章」
大宮院
東二条院
京極院
増鏡
増鏡
増鏡

T群は、後嵯峨院と、その子・後深草院の時代である。そして、その繁栄を支えた西園寺家もここに含める。先例となる人物はいずれも『増鏡』の叙述範囲より、前の時代の人物である。そして、これらの人物の先例に倣った、あるいは先例に勝るとも劣らないという表現がなされている。ここに挙げられた人物は、いずれも卓越した人物とされ、しかもその子孫が『増鏡』の描く時代の皇室に続いている点が大きな共通点である。そして、T’群は、T群の時代の『増鏡』の先述の人物を先例にしている。

 では比較のため、先章で扱った後鳥羽院−亀山院−後醍醐天皇という「公武対立派」に目を移そう。一章で(ア)〜(ウ)として論じたものは省略したため、数が少ない。

『増鏡』記事 先例となる人物 出典
後鳥羽院隠岐配流
 「新島守」
崇徳院 特定不可
承久の乱のまとめ
 「新島守」
将門・純友
義親・信頼
崇徳院
平家物語
平家物語
特定不可
亀山天皇の内裏炎上
 「あすか川」
三条院 栄花物語
後醍醐天皇中宮御産
 「むら時雨」
承香殿の女御 栄花物語
後醍醐天皇内裏退出
 「むら時雨」
二条院 平治物語
後醍醐天皇宇治行幸
 「むら時雨」
後冷泉院 今鏡

この中で「承久の乱のまとめ」は特異である。皇室に弓を引いた四人の臣下と、時の天皇・後白河と争った崇徳上皇の先例である。どの場合も天皇は敗れることはなかったのに、承久の乱は、皇室が敗北した稀なものとする。

 さて二箇所に見られる「崇徳院」は讃岐で空しく崩御し、次の「三条院」は、その皇子・敦明親王が道長の圧迫で東宮を辞して、小一条院となってしまう。「承香殿の女御」15は一条天皇の後宮の元子で、懐妊した筈が、出産の時に子ではなく水のみ流れでたという逸話をもつ。さらに「二条院」はその子供の六条院が夭逝しており、「後冷泉院」は男子にも女子にも恵まれなかったのである。つまり、例外なしに皇統が続かなかった人物が先例に挙げられていて、T類と明らかな対照をなしている。

 以上から、先例の投影によって、TT’類に位置する、後嵯峨院−後深草院−伏見院の系譜の人物は、先章およびこのU類で扱った「公武対立派」とは、明確に書き分けられていることがわかるのである。これを、再びこなれない言い方ながら「公武協調派」と仮に呼んでおくこととする。


 

 それでは、この「公武対立派」と「公武協調派」の位置付けはどう考えるべきか。これについて先行の論稿でもしばしば問題とされる『増鏡』の記述がある。

御門よりは、いま二ばかりの御兄なり。まうけの君、御年まされるためし、遠き昔はさておきぬ、近比は三条院・小一条院・高倉院などやおはしましけん。高倉の御末こそ、今もかく栄へさせをはしませば、かしこきためしなめり。いにしへの天智天皇と天武天皇とは同じ御腹の御はらからなり。その御末、しばしは、うちかはり/\世をしろしめしゝためしなどをも、思ひや出けむ。御二流れにて、位にもおはしまさなむと思ひ申けり。
 「草枕」

これは、煕仁親王(後の伏見天皇)の立太子の部分の先例(二章の表Tに既述)で、東宮・煕仁親王が、後宇多天皇より年上であることを、高倉院の先例でことほぐのだが、その後半が問題となっている。伊藤敬氏は、その論稿16で「天智・天武帝の二流の例も、結局は今に伝わるのは、兄である天智帝の血脈であることへの、無言の言及ではないか」とされ、持明院統の将来への予言を読み取っておられる。他方、福田景道氏17は、二流が「うちかはり/\」天皇の位についた、奈良時代までの事実の方にポイントをおいて、持明院統・大覚寺統が並び立つことの肯定とし、伊藤氏の読みに疑問を提示しているのである。この判断をするには、この一文のみでは全く不十分であり、他の部分を合わせ考察したい。

 まずは大覚寺統の方をみるが、特に必要な部分の略系図が以下である。

            94代
 90代 91代  ┌後二条─邦良親王─康仁親王
 亀山─後宇多┤96代
          └後醍醐


一章で述べたように後宇多院のおぼしめしは、早く世を去った後二条院の皇子・邦良親王にあり、また後醍醐天皇が、亀山院に、取り分け愛されていたと『増鏡』が記すことも触れて来た。これは、さらに『増鏡』の「正中の変」の記述につながる。

「故院おはしましゝ程は、世ものどかにめでたかりしを、いつしか、かやうのことも出で来ぬるよ」と、人の口安からざるべし。
 「春の別れ」

「故院」すなわち後宇多院が亡くなって後の後醍醐天皇の御世、大覚寺統の要がなくなったため、世の乱れが起こったという書きぶりである。この「人の口」は、これまで問題にされていないが、『増鏡』では重要な意味をもつ予言の表現であると考えられる。 『増鏡』全体で三箇所18あり、一つめは、四条天皇の早逝を予言、それに伴って後嵯峨院に皇位の道が開かれる。二つめは、伏見天皇が即位し、それに伴ってその父、後深草院が冶天の君になることの予言、そして三つめがこの箇所である。いずれも大きく世が変転する場合に用いられ、ここは、当然元弘の動乱の予言であろう。

 ところが、後宇多院の期待を受けた邦良親王は、位に即かないうちに世を去る。

院号などの沙汰もあるべくこそ。されど、おはしましし時に、その事はよしなかるべく仰せられ置きしかば、内よりもきこしめしすぐしけり。
 「春の別れ」

院号を贈るのが当然であるはずなのに、邦良親王が生前辞退したので、朝廷でもそのままにしたというもので、東宮と「内」すなわち後醍醐天皇の不和を、『増鏡』はここでも繰り返しのぞかせている。

 そして、邦良親王の皇子・康仁親王は、「かゝるにつけては、一御族のみ、今はわく方なく定まり給べきかと、世の人も思ひきこゆる程に、亀山院の御流れの絶ゆべきにはあらずとにや、先坊の一の宮を太子に立てまつる。」と「むら時雨」にあるように、後醍醐天皇の倒幕計面が失敗し、天皇が隠岐へ流された後、光厳天皇の即位に伴って、東宮となる。

そのまゝに(六波羅に行幸・御幸のまま−筆者注)院も御門もおはしませば、春宮も離れ給へる、よろしからぬ事とて、廿六日六波羅へ行啓なる。
 「月草の花」

その後、後醍醐天皇方の赤松勢京都進攻で、洛中も不安な状態となり、後伏見院・花園院・光厳天皇と共に、康仁親王も六波羅に避難することになる記事が右である。これは『太平記』や、光厳天皇の典侍・名子の日記『竹むきが記』にも同様の記事が見られる。加えて、『増鏡』は、「又京よりも追手かゝるなど聞こえければ、六波羅の北といひし仲時、内・春宮・両院具したてまつり、番馬といふ所の山の上に入奉りけり。」とする。これらから、東宮・康仁親王は、大覚寺統でなく、むしろ持明院統に寄り添うような形19であることが読み取れる。

 つまり、いわゆる大覚寺統は内部でさらに二分裂している史実を、『増鏡』は繰り返し強調20し示しているといえる。本稿で、大覚寺統・持明院統という用語を使わず、「公武対立派」「公武協調派」という耳慣れない言葉に置き換えてきた理由の一つがこの点にある。

 この分裂の様相の大覚寺統の方に比べ、持明院統が、皇統の一本化を図ったことも歴史的事実である。『増鏡』はそれを諸所においで賛美する。「この御門をば、新院の御子になし奉らせ給て」と「浦千鳥」に言うように、花園天皇を、兄である後伏見院の猶子という形にしたのは、二人の父・伏見院の配慮である。

おりゐの御門は、御兄の本院とひとつ持明院殿に住ませ給。もとより御子のよしにておはしませば、まいて、一つ院のうちにて、いさゝかも隔てなくきこえさせ給。いと思ふやうなる御有様也。さべき御中といへども、昔も今も御腹などかはりぬるは、いかにぞや、そば/\しきこともうちまじり、くせあるならひにこそあるを、この院の御あはひ、まめやかに思ひかはしたる、いとありがたうめでたし。
 「秋のみ山」
これにより、二人は異腹の兄弟でありながら、「まめやかに思ひかはし」て、同じ持明院殿の中に住んだことがわかり、また『増鏡』の別の箇所では、一つ車で物見に出かける様も描かれている。

 こうした内部分裂の「公武対立派」と、融和の「公武強調派」を対比しつつ、『増鏡』は、最終の巻「月草の花」では、後醍醐天皇が京に戻り、再び世を治めることを描いて終わっている。明暗の「明」の状況にある「公武対立派」と、「暗」の中にある「公武協調派」という形なのだが、それが大団円なのか。そして、なんらかの未来の暗示はないのだろうか。

 「公武対立派」については、後醍醐天皇の皇子に着目したい。後醍醐天皇に実に多くの皇子がいたことは、周知の事であるが、倒幕に大きな功績のあった大塔宮・護良親王以外で、『増鏡』の中で三箇所の記事が見られるのは、一の皇子と二の皇子のみである。

@ 一の御子は、藤大納言の御腹、吉田の大納言定房の家にわたらせ給。二の御子も、いときら/\しうて、源大納言親房の御あづかりなり。
 「春の別れ」

A一の宮御冠して、中務の卿尊良の親王ときこゆ。……二の宮は西園寺宰相中将実俊の女の御腹也。帥の親王世良の親王ときこゆ。昭慶門院、とりわき養ひ奉らせ給ふ。この宮は、御めのと源大納言親房也。
 「春の別れ」

B 今年も人多くにわか病みして死ぬる中に、帥の御子も重く悩ませ給て、あへなく失せ給ぬ。内の上、おぼし嘆く事をろかならず。一の御子よりも御才などもいとかしこく、よろづきやうざくに物し給へれば、今より記録所へも御供にも出でさせ給。議定などいふ事にもまいり給べしときこえつるに、いとあさまし。
 「むら時雨」

この二人の描写は、三箇所とも対で、明らかに二の宮・世良親王21に比重がかかっており、兄の一の宮・尊良親王は引き立て役を負わされている。実は、温厚ながら目立たない兄と、才ばしった華やかな弟というこの構図は、土御門院と順徳院、それから後深草院と亀山院、と重ねて現れると伊藤敬氏22の指摘がある。しかし、それ以外にも、後二条院と後醍醐天皇も、この兄と弟である。ただ、後二条院が早く世を去ったため、この構図が明確になっていない故に見過ごされているのだが、後醍醐天皇が才ある華やかな存在であることは確かであろう。そして、今問題にしている、後醍醐天皇の一の宮・尊良親王と二の宮・世良親王も、紛れもなくこの構図上にある。

 だが、その将来を期待されながらも元弘の変の前に病死してしまう、言うなれば全くの瑞役に過ぎない二の宮に、なぜ特に筆を割いたのか、という疑問が起こる。これは、弟の系譜であるといえる「公武対立派」が絶える未来の暗示ではないか、と考えるのが妥当ではないだろうか。そして、同時に一章で検討したように、この「公武対立派」に源氏の君のイメージが投影されていたことも思い合わされる。源氏の君も、その不義の子・冷泉院の皇統は絶える。つまり先例が、「公武対立派」に負の価値を付与しているのである。

 一方、「公武協調派」に目をやると、次のように光厳天皇の後を継ぐ「まうけの君」となる「宮たち」の事が書かれている。

内には女御もいまださぶらい給はぬに、……三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるゝ御腹にぞ、宮/\あまた出でものし給ぬる、終のまうけの君にてこそおはしますめれ。
 「久米のさら山」

ところがこの「三条」という女性に「宮/\」、つまり二人目の皇子が生まれるのが暦応元年(1338)三月で、その二人の皇子のうち年長の具仁親王の立坊が同年八月である。『増鏡』の最終記事が元弘三年(1333)であるので、五年後の出来事が先取りされている23。この部分が、『増鏡』の描く範囲を逸脱しているのは、「公武協調派」にやがて皇位がめぐってくることを示す、と伊藤敬氏24は述べられている。しかし、この記事は「公武強調派」が「明」の時期に配置されており、慶事を集めたという解釈も不可能ではない。

 ここで、伊藤説に賛同の立場から、その補強として次の記事を提示したい。

一院よりも、帰り入らせ給御門に御文をたてまつり給て、「面/\に御出家あるべし」などまで申されけれども、思よらぬよしを、かたく申されけるとかやぞ聞こえし。
 「月草の花」

これは先にも言及したが、光厳天皇・両院・東宮が近江の国で、後醍醐天皇方に捕らわれ帰京した時の記述である。「一院」すなわち後伏見院が光厳天皇に出家を勧め、天皇がきっぱり断るというものである。これに対して、本稿で重視してきた具体的な固有名詞を挙げての先例の投影はないのだが、類似の設定をもつ記事はある。

土御門殿の宮は……城興寺宮僧正真性ときこゆる、御弟子にとかたらひ申給ければ、さやうにもと思して、女院にもほのめかし申させ給けるを、いとあるましき事とのみ諫めきこえさせ給。
 「三神山」

「土御門殿の宮」、つまり後の後嵯峨院が、世にかえりみられなかった時代に、仏門に入ることも考えるものの、祖母の承明門院・在子が強く止めた、というもので、その結果が後嵯峨院の開運になった訳である。失意のどん底にある、この時期の「公武協調派」に、この先例は明るい未来を暗示するものである。また、二章を思い出されたい。「公武協調派」が引用する先例は、皇統が継続している人物に限られていた。この「三神山」の先例も、同様で、プラスの価値を与えるものであるのは明白である。

 以上から、『増鏡』は終末部に至って、「公武対立派」の光輝を描きながらも、その裏に「公武協調派」の再浮上も微かに示しつつ終わっている、という結論になる。それは『増鏡』が「明暗循環」の様相を示す故に、享受者が十分推察可能な結果であろうし、同時に、本稿が論じてきた先例が、それを暗示し、予言しているのである。



〈注〉
『増鏡』は、従来十七巻本(いわゆる古本系)が原態であるとされてきたが、近年、伊藤敬氏が二十巻本(いわゆる増補本系、または流布本系)の見直しを主張されている。ただ、現存最古の二十巻本である「後崇光院本」自体が混態本であることもあり、まだ大方の賛同を得るには至っていない。今後、筆者も検討したいが、本稿は岩波古典文学大系所収古本系の学習院大学附属図書館本を用いる。
1 伊藤敬氏「増鏡の思想」
○昭和58年5月中世文学会春季大会口頭発表
○「中世文学」29号・昭和59年5月(同題)
○「藤女子大学国文学雑誌」33号・昭和59年6月(続)
○「藤女子大学国文学雑誌」34号・昭和59年12月(完)
その後『増鏡考説−流布本考−』(新典社・平成4年4月刊)に改稿されて所収。
2 先例についての先行論文がある。福田景道氏「『増鏡』における過去と現在−「先例」の機能について−」(「島根大学教育学部紀要(人文・社会科学)」24巻2号・平成2年12月)
3 引用は日本古典文学全集(小学館)所収の本文。
4 他にも『増鏡』の中で源氏の君のイメージが宗尊親王・堀川具親にも付与される。しかし、宗尊親王は(イ)の文辞の投影が一箇所のみ堀川具親は(ア)の先例的投影が一箇所のみで、その印象は希簿である。
5 『花園院宸記』の本文は史料纂集(続群書類従完成会)所収のもの。なお、『神皇正統記』(岩波日本古典文学大系所収)後醍醐天皇の箇所では「俄ニ立太子ノ沙汰アリシニ、亀山ハコノ君ヲスへ奉ラントオボシメシテ……後宇多ノ御心ザシモアサカラズ」とあるが、北畠親房の言であり、かなり割り引いて読む必要がある。
6 1の伊藤敬氏著書・第五章の四
7 亀山院の後宮が、他の男性と通じるケースはこの※子女王の他、近衛位子(新陽明門院)と民部卿三位の二例がある。ただし、この二人の記事はごく短く、物語的表現とは程遠い。
8 ○小川利彦氏「源氏受容からみた『増鏡』の執筆意図」(「源氏物語研究」1号・昭和48年12月)
 ○河北騰氏「『増鏡』の文学性について」(「国語と国文学」68巻1号・平成3年1月)など
9 底本「二の」がなく諸本により補う。
10 「五代帝王物語と増鏡」(「日本女子大学紀要(文学部)」15号・昭和41年3月)
11 『群書類従』第二輯帝王部所収の本文。
12 底本「奉」は諸本「給へる」とする。
13 底本「御」がなく諸本で補う。
14 勅撰集など政冶的な意味が殆どないと思われる記事は対象から外してある。
15 承香殿の女御元子(『増鏡』諸本は弘徽殿とするが誤り)同様、出産に水を産んだのは、邦良親王の妃・▲子内親王であった。後醍醐天皇側ではそれを嘲笑したが、やがて後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに、三十ヵ月以上も出産もなく終わり、よりひどい事態であった、という二段構えの先例の引き方である。
▲偏が「示」、旁が「某」
16 1の伊藤敬氏「増鏡の思想(完)」。ただし『増鏡考説−流布本考−』に改稿・所収にあたってはこの部分は省略されている。
17 福田景道氏「『増鏡』と両統問題」(「島根大学教育学部紀要(人文・社会科学)」25巻・平成3年12月)
18
○一つめの例−「藤衣」
(新勅撰集成立)
「元久に新古今いできて、ほどなく世の中もひきかへぬるに、又新の字うち続きたる心よからぬ事」など、さゝめく人も侍けるとかや。
(この直後に、後の四条天皇立太子)
例の人の口さがなさは、「先の承久の廃帝の、生させ給とひとしく坊にゐ給へりしは、いと不用なりし〔を〕」などいふめり。
○二つめの例−「あすか川」
(後嵯峨院の遺詔で皇位は亀山院一流のみと決定)
ひとつ御腹の御兄にてもをはします。かた/゛\ことはりなるベき世を、思ひの外にもと、思ふ人/゛\も多かるべし…「…新院にも若宮おはしませば、行く末の一ふしには、などか」など、いひしろふ。
19 比較のため『太平記』(岩波日本古典文学大系)の記述を拾ってゆく。都から落ち行く途中の四宮河原で「東宮ヲ始進ラセテ供奉ノ卿相雲客、方々ヘ落散給ケル」と東宮は帝・院と別れたように記されるのに、その後「今ハ主上・春宮・両上皇ノ御方様トテハ、経顕・有光卿ノ二人ヨリ外ハ供奉仕ル人モナシ。」と再び行動を共にしている、という奇妙な叙述である(以上、巻九)。しかも元弘三年(1333)「十一月三日、春宮崩御成ニケリ」としている(以上、巻十二)。しかし、康仁親王の享年は文和四年(1355)である。つまり、『大平記』では、康仁親王に細かな注意は払われていないのである。
20 国史学の側からの研究成果を『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社・昭和60年11月)の邦良親王の項で簡便に見ると、「親王の死により、……男女三十余人が落飾してしまう。この結果、大覚寺統内部の分裂は鎮静化する。」(武田彩子氏)としておられる。
21 世良親王についての論はほとんどないが、森茂暁氏『皇子たちの南北朝−後醍醐天皇の分身−』(中公新書・昭和63年7月)は多少言及がある。
22 1の「増境の思想(続)」
23 この記事は『増鏡』の成立年代を特定する一つの鍵として、和田英松氏が早くに指摘され、宮内三二郎氏も新たに考察を加えておられる。
24 1の「増鏡の思想(完)」



☆小島明子氏の考え方の学説史上の位置づけについてはこちら。(伊藤敬氏「増鏡研究の動向」)





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