小西甚一 「日記と紀行の盛衰」(『日本文藝史』.講談社.p463以下)



小西甚一氏の略歴(上掲書による)
東京文理科大学卒業(昭和15年)
東京教育大学教授を経て、筑波大学副学長、同名誉教授。
スタンフォード大学客員教授、ハワイ大学高等研究員、プリンストン大学高等研究員を経て、アメリカ議会図書館常任学術審議員。
研究=比較文学・日本中世文学。
著書=『梁塵秘抄考』『文鏡秘府論考』(日本学士院賞)『能楽論研究』『宗祗』等。
趣味=連歌(山田孝雄博士に師事)・俳句(『寒雷』誌友)・能(観世寿夫師に就く)。



小西甚一氏の見解

私の考え方

 和文とは、十世紀・十一世紀ごろの日記や物語と同じ様式で書かれた文体のことだが、十四世紀から十五世紀にかけて、そうした文体はすでに遠い過去のものとなっていた。したがって、よほど習練をかさねた人でなければ和文作品は書けなかったはずであり、十四世紀よりあと和文作品の数が激減してゆく。しかも、少ない和文作品のなかで、漢語や漢文よみくだしめいた語法が次第に滲透してゆくのであり、やがては和文と和漢混淆文との中間態である準和文へと変質する。

 十四世紀の和文日記としては、二条の『とはずがたり』と日野名子(めいし)(?−一三五八)の『竹向(たけむき)が記』だけ現存し、十五世紀の作品は見られない。それも、純粋な和文とはいえない点がある。たとえば『とはずがたり』の話主が父大納言の死をいたむ条で、次のように述べられている(1・四二−四三)。

すべて何と思ふばかりもなく、天に仰ぎて見れば、日月(じつげつ)地に落ちけるにや、光も見えぬ心(ここ)ちし、地に伏して泣く涙は、河となりて流るるかと思ひ、母には二つにて後れしかども、心なき昔は覚えずして過ぎぬ。生(しやう)を享(う)けて四十一日といふより、初めて膝の上に居そめけるより、十五の春秋を送り迎ふ。朝(あした)には鏡を見る際(をり)も、誰(た)が蔭ならむと喜び、夕(ゆふべ)に衣(ころも)を着るとても、誰(た)が恩ならむと思ひき。五体身分(しんぶん)を得しことは、その恩、迷廬(めいろ)八万の頂(いただき)よりも高く、養育扶持(ふち)の心ざし、母に代はりて切(せつ)なりしかば、その恩また四大海(しだいかい)の水よりも深し。
何気ない言い回しであるが、「朝、鏡を見るとき、誰のおかげでこんなに美人なのだろうと喜び」と言っているのであり、父親の死をいたむ、との名目で、ちゃっかり自分がいかに美人であるかを自慢しているのである。大体、この父親は臨終だと言うのになかなか死なず、べらべらしゃべりまくるのだが、その中でも「おまえが二つで母に死に別れてから、わたしだけがおまえを気がかりに思い、何人も子供があっても、おまえ一人に三千の寵愛をみな傾け尽した心地できた。お前が笑うのをみては、たいへん魅力があると思い」(次田香澄氏訳)などと言っている。これは長恨歌の「後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身」「回眸一笑百媚生」を受けた表現であり、要するに作者は自分が楊貴妃並みの美人だと言っているのである。他人の口を借りて言いたい放題の自慢話をするのが作者の常套手段であるが、この部分など、父親の死の場面を利用して自慢話をしているのであり、作者のとんでもなくずうずうしい性格を伺わせるところである。

作者の漢文学に関する素養は大変なものであり、またその思考は極めて論理的で、どこか男性的な印象を受ける。「女性の筆であることを疑わせる」部分が本当に多いのである。

場面にふさわしく願文・表白ふうの言いかたを試みたのかもしれないけれど、もし十二世紀ごろの作品であれば、女性の筆であることを疑わせるほどである。また「如法(によほふ)」(一一)・「凶害」(二四)・「政務」(三三)・「秘蔵(ひさう)」(三九)・「九献(くこん)」(五五)・「傾城(けいせい)」(六六)・「前後相違」(七二)・「芳心」(七九)・「述懐」(八三)・「領掌」(八五)・「存(ぞん)」(八七)などの漢語や、会話および書簡で助動詞「候」を用いるのは(七七・八五等)、十世紀・十一世紀の和文に見られない。程度の差は示すが『竹向が記』も同様である。

 とりわけ『とはずがたり』の文体が和文としていくらか不純なことは、この作品を世話物のような作調(トーン)で書こうとした態度の反映だと考えられる。日記であるからには、作者と同じ時期の事を題材とするのが当然であり、わざわざ世話物ふうとことわるのは蛇足だと感じられるかもしれないけれど、この作品には、かなり物語めいた要素が含まれる。何よりも、日記としては、作中事件が異常すぎる。十四歳のとき「院」によって女にされた主役女性(ヒロイン)は、作中で「雪の曙」とよばれる高位の貴族とも関係をもち、さらに「院」と親交のある阿闍梨「在明(ありあけ)の月」とも情交する。また「院」は、自分の寝所に侍る主役女性を「近衛大殿(おおいどの)」に連れてゆかせ、隣室で関係させるという事件も出てくる。そのあと「在明の月」は、戒律の許さない性愛に心身が燃え尽き、若くして病没する。主役女性と「在明の月」との関係を「院」は知りながら黙認していたけれども、主役女性と亀山院との間にも醜聞があるという中傷のため、主役女性は宮中から逐われ、出家して諸国をめぐることになった。そのうち「院」はお亡くなりになるが、葬儀に出席できる身分でなくなっている主役女性は、路上で葬列を見送り、裸足(はだし)であとを追う。その三回忌が済んだころ、主役女性は「西行が修行の仕儀(しぎ)」を慕う志こそが本意なのだ──という述懐のことばで全篇を結ぶ。出家廻国の後半二巻はともかく、主役女性が幾重もの愛慾葛藤にとらえられる前半三巻は、題材として異事(あやしごと)に属するものであり、記実日記にはありえない仮構性が含まれると考えたい。

後深草院(1243〜1304.62歳)

























これがごく普通の理性の帰結だと思うが、こうした立場は国文学会では圧倒的な少数派である。
 つまり『とはずがたり』は仮構日記なのである。素材としては、二条自身もしくは他作の記実日記も利用されたにちがいない。たとえば、准后の九十歳賀宴を述べた条(3・二〇八−二四)などは、拠り所なしに書けるはずがなく、たぶん『北山准后九十賀記』の類を利用したのであろう〔松本(寧)−一九七一・三七四−八五〕。しかしながら、これは、記実日記ふうの部分がたまたま紛れこんでいるわけでなくて、局到な配慮のもとでこの所に置かれたものである。宮中に局(つぼね)をもち「院」の愛人として華やかな生活に慣れてきた主役女性は、中傷を受けて退任することになった。出家廻国の件も、すでに決意されていたろう。そうした主役女性の境遇を知る大宮の院は、せめてもの思い出にさせてやりたいと、一世一代の盛儀に主役女性がひっそり出席できる便宜を提供した。この盛儀を、もはや傍観者でしかない女性主役の視点から詳細に描写することは、華やかさを単純な華やかさとして扱うのでなく、哀愁の素地に画いた華やかさが、画いてある以上の華やかさとなることを冷静に計算しているのであり、前半三巻のフィナーレとして、みごとな効果をあげている。




北山准后(西園寺実氏夫人貞子.1196〜1302.107歳)二条の祖父隆親の姉。大宮院と東二条院の母、後深草院と亀山院の祖母。九十賀は1285年の時のこと。それからさらに十七年生きており、驚くべき長寿の人である。金さん銀さんより年上であり、日本史を通しても、それなりの有名人で、この人に匹敵する長寿といったら、天海僧正(1536〜1643.108歳)くらいしかいないのではなかろうか。九十賀の華やかな様子は、『とはずがたり』のみならず『増鏡』でも極めて詳細に、現代の読者には煩瑣すぎて耐えきれないほど詳細に述べられており、『とはずがたり』はともかく、何故『増鏡』でそれほど詳しく書く必要があるのか不思議なほどである。
 構想における周到な設計は、他にも例が多い。主役女性は、九歳のとき「西行が修行の記(き)といふ絵」を見て、自分も「世を捨てて、足に任(まか)せて行きつつ……かかる修行の記をも書き記(しる)して、亡(な)からむ後(のち)の形見(かたみ)にもせばや」と考えたことを回想する(1・七三)。しかし、九歳の少女がこうした感懐をもつとは考えがたく、廻国修行を題材とする後半二巻への伏線にしたものであり、全篇の終結部で「西行が修行の仕儀(しぎ)」(5・三三〇)に言及しているのと照応させた仮構であろう。これらはわかりやすい例だけれども、作中の重要な事件展開については、もっと複雑かつ隠微な照応が設計されている。主役女性が宮中から追放されることになった経緯が、その代表的な例である。追放の原因をさきに中傷と述べたけれど、中傷は表面的な口実にすぎず、その裏には「院」の屈折した心理と謀略が潜んでいる。それは、この作品をひとわたり見る程度ではとうてい気がつくものではなく、幾度かよみかえすうち、ひとつの事件がもうひとつの事件をひきおこし、そうした過程の複合から陰湿な謀略が生まれて、ついには破局となってゆくように構成された綿密な設計の存在を知ることであろう。







これもまことに常識的な見方であり、普通の理性があればこう考えるはずであるが、国文学会の常識とは異なる。
 主役の女性が十五歳のとき、父大納言は死去する(1・四二−四三)。大納言の息女だから、更衣か尚侍になる資格はあったけれども、有力な後見人がいなくなった主役女性は、妃(きさき)としての体面を維持することができず、公然たる私的の侍妾という不安定な地位に甘んずるほかなかった〔Brazell,1973:ix〕。こうした地位の不安定さが、私文書ひとつで退居を命じられたことの遠因にほかならない。直接には中宮の東二条院を無視したふうの行動が非難され、主役女性の外祖父たる四条兵部卿(隆親)を通し退居命令の中宮書簡が届けられたのだけれど(3・二〇四)、その前に「院」も御承知ずみだったはずである。兵部卿からの連絡を受け不安な主役女性が、たぶん「院」の御意向ではなかろうかと推測し、御所へ参上したところ、ちらりと主役女性のほうを御覧になった「院」は、冷たく「今晩はどうしたのだ。退居するのかね」と仰せられ、奥へ入ってしまわれる(3・二〇三)。もし「院」が主役女性を見限らなかったのならば、中宮がいくら抗議しようとも、相手にされなかったろう。中宮からの抗議は、この時が最初ではない。主役女性が中宮の所へ出入りすることは以前から拒否されており(1・75)、中宮から「院」へ主役女性の傍若無人ぶりを強硬に非難する申し入れがあったけれども、これに対し「院」は長文の書簡で答え、主役女性を懸命に弁護なさった(1・八四−八六)。この時と同じ程度に「院」の愛情が続いていたら、破局はおこらなかったにちがいない。ところが、主役女性は冷然と見捨てられた。なぜ「院」はそのような心変わりをされたのであろうか。

雅忠(1228〜1272.45歳)

東二条院(1232〜1304.73歳)


四条隆親(1203〜1279.77歳)この場面を、国文学者たちは1283年の出来事だとしているのであるが、その四年前の弘安二年(1279)九月六日に隆親は死んでいるのである(公卿補任)。学者たちは「存疑」(三角洋一氏)「虚構か」(松村雄二氏)「ここに登場するのは何らかの虚構と考えられる(作者の記憶違いとする説もある)」(福田秀一氏)などと言っているのであるが、その程度で済まして良い問題なのだろうか。「記憶違い」という「学説」があるそうだが、宮廷追放という自分の人生における最大の危機の場面で四年前に死んでしまっている祖父を登場させるほど記憶力の悪い人が『とはずがたり』のような相当の分量のある書物を書けるのであろうか。また、虚構だとするなら、たとえ仲が悪かったとはいえ、既に亡くなっている祖父をつくり話の材料としてしまう作者の神経に根本的な疑問を抱くべきではなかろうか。
 主役女性がその不安定な身分にも拘わらず幾件もの情事をかさねたのは、本人の性格によるだけでなく、裏面において「院」が暗黙の諒解を与えていられたからにほかならない。それは「近衛(このえ)大殿」の所望に任せ、客人の大殿に主役女性を添い臥しとして「院」の提供された件が、いちばん明らかに示していよう。重要な客への接待として自分の愛人に寝所の相手をさせるのは、当時でもありふれた事ではなかったろうけれど、女房たちの情事を大目に見てやる慣わしは『枕冊子』の時代からあまり変わっていなかったらしい(U一五四−五五ペイジ参照)。主役女性が多少の浮気をしても、たんなる肉体関係であるかぎり、それは「院」にとって大きな問題でなかった。しかし心まで「院」以外の男に捧げるとなれば、許せない背信行為なのである。主役女性が心を捧げた相手は「雪の曙」だったと考えてよい。はじめて「雪の曙」と関係したときの事を「心のほかの新枕」と述べているのが(1・五一)、その証迹である。このとき主役女性はすでに「院」のものだったから、いまさら新枕もおかしいようだけれど、あとで再び「雪の曙」のことを「さしも新枕とも言ひぬべく互(かたみ)に浅からざりし志の人」と述べる(3・一六六)。主役女性にとって「雪の曙」こそ真の愛人であった。ところが「院」は、むしろ「在明の月」が主役女性の心をとらえていると誤解され、それが破局の直接原因になったと認められる。

伏見御所で「近衛大殿」に二条を提供したこと、嵯峨御所での亀山院との関係、「有明の月」に対する対応など、いずれの場面でも、後深草院は極めて奇怪で不可思議な人物として描かれており、真面目で素直な読者ほど、その人物に憎しみを抱くように描かれている。作者の心理誘導の手腕は水際立っているのである。
 もともと「在明の月」にあまり好意的でなかった主役女性だが、病中の「院」に平癒祈願を依頼された阿闍梨「在明の月」と、修法場所の近くで、伴僧たちの眼を盗みながら密通するところまで引きこまれてゆく。僧の身として、堕地獄をも覚悟だったろう凄まじい恋情に、主役女性は抵抗できなかった。それは、甘美な陶酔でなく、むしろ愛慾の泥沼であったろう。たまたま「院」が座をはずした間、苦しい心を主役女性に訴えていた「在明の月」は、もどった「院」がそれを立ち聞きされたのに気づかなかった。主役女性の告白を聴取された「院」は、それほどまで「在明の月」が思いこんだのも前世からの因縁だろうから、どうしようもないと語り、かれとの関係が世間に知られずに続いてゆくよう措置される(3・一五八−六一)。表面的にはきわめて寛大なはからいだけれども、この時「院」の心は主役女性から去ったのである。それは「院」が主役女性を染殿后に比されたことからわかる。染殿后にとりついた紺青鬼(真済僧正の妄念)が「在明の月」に当たるわけで、后(きさき)のほうは「あまた仏(ぶつ)・菩薩の力尽くしたまふといへども、終(つひ)にはこれに身を捨てたまひにけるにこそ」と言われている(3・一六〇)。主役女性も染殿后のように身を失うはずだと間接的ながら「院」は予告なさったのである。これは、強調しておく必要があったのだろう、染殿后の事をもういちど「院」から聞かされ、主役女性はひどく衝撃を受ける(3・一六九)。

「染殿后に比された」云々の話は「真言談義」の場で出てくるのであるが、その時期は学者たちによれば弘安四年(1281)七月だそうであり、そうすると元寇(弘安の役)の真最中である。五月三日に壱岐・対馬を侵した東路軍四万が六月六日に博多湾の志賀島に到着、上陸作戦に失敗して江南軍十万を待つことになり、予定より遅れて六月十八日に寧波を出発した江南軍と肥前平戸島で合体して七月二十七日に鷹島に移り、総攻撃を開始するとみられていた矢先の七月二十九日の夜、暴風雨となり、翌閏七月一日元軍は壊滅したのである。国文学者たちは日本が元軍の圧倒的な軍事力により蹂躙されようとしていた国家的危機の最中に、後深草院がのんびり真言談義をやり、奇怪な性哲学を述べていたと言うのである。そしてまさにこの場面での後深草院の発言を根拠として、八嶌正治氏をはじめとする多くの学者が後深草院は真言立川流の影響を受けていたと断じており、その中には仏教について極めて造詣の深い梅原猛氏すら含まれるのであるが、私は疑問に思っている。
 主役女性が「在明の月」との情交を告白したあと、夢見にかこつけて「院」は妊娠の事をほのめかされる。主役女性はその真意をはかりかねている。その後しばらく「院」からお召しがなかった間に、主役女性は妊娠の徴候を感ずる。やがてお召しになった「院」は、あれから「月を隔てむ」〈一箇月ほど間を置こう〉と思って、わざとおまえを呼ばなかったのだ──と告げられる(3・一六五−六六)。生まれてくるのが「在明の月」の子であることを確認させるための手段なのであった。これは「院」の心がすでに主役女性から離れていたことを示す行動にほかならない。しかし、理由なしに追放するわけにゆかず、もし真の理由(「在明の月」と主役女性の情事)を公表するなら、それは「院」にとって重大な不名誉となる。そのため「院」は事が洩れないよう配慮され、主役女性の着帯も宮中でおこなわれた(3・一七五)。生まれてくるのが「院」の子だと認知した意思表示なのである。ところが、あまりにも強烈な「在明の月」の執心を拒みかねた主役女性は、しばしば逢瀬をかさね、ついに世間でも噂するようになった(3・一八四)。いちばん心配だった事態に直面した「院」は、ひとつの非常手段を案出される。それは、たまたま死産した婦人があったので、こんど生まれてくる子をその婦人が生んだことにし、主役女性は死産した態にする──というのである。この計略はうまく成功し、醜聞めいた噂も消えていった。主役女性は「院」の細かい配慮に対し、公的にも私的にも忝ないことだと、心から感謝している(3・一八七)。

ここでの後深草院のやり方は二条が雪の曙の子を生んだときの状況と対照的であり、興味深い。
 しかしながら、この処置は、主役女性や「在明の月」のためよりも、むしろ「院」自身が「わが濡衣(ぬれぎぬ)さへ、さまざまをかしき節(ふし)に取りなさるると聞くが、よに由(よし)なく思(おぼ)ゆる」ことへの対策であった。こんど生まれるのは「院」の子だ──と認知したのだから、その子が万一にも「在明の月」とよく似ていれば、噂の真実性を裏書きすることになりかねない。それを未然に避けるのが、おそらく「院」の真意だったろう。ところが、十一月十六日にその子が生まれたあと間もなく、同月二十五日に、流行病のため「在明の月」は急死する(3・一九一−九二)。かれの在世中に追放などの手荒な処置をすれば、どんな盲目的行動に出るかもしれず、その結果、醜聞の再燃する可能性も無いではなかった。しかし、もはや「在明の月」がいない今、主役女性に関わる醜聞で「院」の傷つく心配はなく、主役女性の運命はこの時点で決まったわけだけれども、すぐ実行に移すだけの表面的な理由は見つからず、また「院」が自身の意思で追放するという形も取りたくなかったはずである。









「十一月十六日にその子が生まれた」とあるが、これは六日の誤りである。六日の出産から一週間後の十三日に「有明の月」が来たと思ったら、二十五日にはぽっくり死んでしまったというのだから随分忙しい話である。そして、後になって考えてみると、十三日に「有明の月」が来たときに「有明の月」の第二子を懐妊していたというのであるが、出産の一週間後に懐妊するというのは医学的に無理な話である。
 翌年の四月中旬、主役女性に「院」から、わたしなど相手にしないつもりかね──という寓意の和歌が届いた。まだ「在明の月」のことを思っているのがお気に召さないのか──と最初は理解したのだけれど、よく聞くと、亀山院との醜聞を「院」が気にしていられるよしなのである(3・一九七−九八)。事は、六箇月ほどさかのぼる。嵯峨御所で「院」と「新院」が興遊なさったあと、兄弟である両院は同じ寝所にやすまれる。ところが「新院」のお望みで、主役女性もその寝所に泊る。ひどくお酔いになった「院」は、すぐ熟睡される。夜明け近く、主役女性が側にいないと気づいた「院」は、わたしのお寝坊が過ぎて、添臥(そいぶし)に逃げられたのかな──とおっしゃる。これに対し「新院」は、さきほどまでお傍(そば)にいましたが──と答えられる。屏風の後で聞いているらしい主役女性は、わたし自身の罪というわけではないわ──と、言訳がましく考える(3・一八一−八二)。この場面にいたのは、三人だけである。亀山院(つまり「新院」)のほうから噂を流すはずはない。とすれば情報源は「院」のほかにあるまい。しかも、この噂を、主役女性は「いかでか知らむ」と言う(3・一九八)。以前のとき「在明の月」との噂を耳にできた主役女性が、こんどは、まったく知らない。それは、噂が実際に流れたわけでなく、おそらく主役女性にだけ聞かせるよう「院」が仕組まれた架空のものだったことを示すであろう。その伝達は、ごく少数の腹心者を便ってなされたはずである。もし実際にそんな噂が立ったら、両院とも迷惑しごくだからであり、主役女性に「噂あり」と思いこませる以外の波及効果は避けられるべきであった。

嵯峨御所の場面は、前年(学者によれば1281年)の十月のことであり、翌十一月六日の出産の直前である。後深草院と亀山院の兄弟は、妊娠九か月の女を相手に変態行為に及んだことになっており、想像しただけでぞっとするような話であるが、殆どの国文学者たちはそれを事実だと考えているのである。
 その翌年正月、主役女性は「院」が自分に対して「御心の隔てある」ことを明確に感ずる(3・二〇〇)。そして、七月に退居命令がくだる(3・二〇一−〇四)。それも「院」からではなく、東二条院の私信によるものであった。以前から主役女性に悪感情を抱くことの周知されている東二条院が、この際に利用されたのである。こうして「院」は、ゆっくり時間をかけながら、皇室の醜聞になりそうな火種を、ひとつひとつ注意ぶかく消してゆかれたわけだが、この「院」を後深草上皇(一二四三−一三〇四)の実像と認めることはできない。史上の後深草上皇はこれこれの性格でいられた──といった類の調査に基づき作中における「院」の行動を説明する試みが、これまで少なからずなされた。しかし、それは的はずれである。また、作中における院の行動がすべて事実だと考えるのも、この作品が仮構日記であることを無視している。

「退去命令がくだ」ったのは、学者たちによれば弘安六年(1283)のことであり、作者は二十六歳である。
 この作品は人物がふつう実名で登場し、だいたいの作中事件が史実に合うことから、これを記実日記であるかのごとく扱う向きが少なくない。しかし、作者が「雪の曙」および「在明の月」という雅名で二人の重要人物をよぶことにしたのは、この作品で記実性を放棄した態度の現われなのである。従来の研究によると、作中で「雪の曙」とよばれる人物は、西園寺実兼(さねかぬ)(一二四九−一三二二)だという。ところが、作中でしばしば西園寺大納言(1・二九等)とか実兼(1・八二等)とかのよびかたも出てくる。なぜ実名と雅名を混用するのであろうか。これは、雅名「雪の曙」が主役女性との恋愛場面にだけ使われていることから、その解答を引き出せよう。現実にはありえない名で登場するとき、それらの場面は仮構であることが示されている。実兼が生前にこの作品を見ることがあったとしても、仮構であることを承知のかれは、作中で優雅な色男に造形されている自分を愉しんだはずである。もっとも「在明の月」は、実名で現われることがない。後深草院の異母弟である性助法親王(一二四七−八二)だとか、九条道家の子で性助の前任者だった法助(一二二七−八四)だろうとか、いろいろ推測されているけれど、明証はない。それよりも、実名がまったく出てこないのは、むしろ「在明の月」は仮構人物であり、かれの登場する件もすべて仮構だと考えるほうがよいであろう。また、前三巻の「院」「新院」も、雅名に準ずるものである。時点を示すため「亀山院の御位の頃」と言いながらも(3・一九八)、兄院および主役女性と寝所を共にする場面では(3・一七九−八三)、すべて「新院」とよばれている。したがって、前三巻に「院」の登場する事件も、やはり仮構ということになろう。

 この作品の前三巻を宮廷篇、後二篇を紀行篇とよぶことが、学界では定着しているように見える。それはさしつかえないけれども、後二巻が紀行的な題材を採りあげているにすぎず、内質としては前三巻と同じ仮構日記である点に留意しなくてはなるまい。主役女性の父は、臨終に際して「もし君にも世にも根みもあり、世に住む力なくは、急ぎて真実(まこと)の道に入りて、わが後生(ごしやう)も助かり、両(ふた)つの親の恩をも送り、一つ蓮(はちす)の縁と祈るべし」(1・四〇)と遺言した。主役女性はその教えが身にしみ、早くから「西行が修行の記」に接して、いつかは俗世をのがれ、こうした修行の記を書きたい──と念願している(1・七三)。その「修行の記」に対応するのが後二巻なのであり、前三巻だけの『とはずがたり』は不完全作品でしかない。後二巻は、けっして旅行の記でなく、修行の記として書かれたのである。では、なぜ廻国行脚(あんぎゃ)の記を加えることにより、この作品が完全になれるのか。『法華経』に、 ここまでの部分については、私は小西甚一氏の見解に殆ど賛成である。私は、『とはずがたり』や『増鏡』の研究を始めてかなりたってから小西氏の見解に触れたのであるが、ここまでの部分を読み、国文学者であっても本当に物を考えている人はしかるべき結論を出しているのだから、私のような素人が口をはさむ必要はないのだ、とすら思いかけたのである。しかし、小西甚一氏の見解はここから先の部分が極めて難解である。作者は前三巻で、ウソをつきまくっている女である。だとすれば後二巻もウソをついていると考える方がずっとすっきりするはずである。それなのに小西甚一氏は、一方で後二巻も「紀行的な題材を採りあげているにすぎず、内質としては前三巻と同じ仮構日記である点に留意しなくてはなるまい」と述べながら、他方で後二巻は「修行の記として書かれた」とも言われるのである。そして、話題は『とはずがたり』からどんどん離れて、中世紀行文学一般の話になってしまうのである。私は『とはずがたり』を中世紀行文学の一般論に解消すべきではないと考えるが、この点については末尾で検討する。

如来已難三界火宅 如来は已(すで)に三界の火宅(くわたく)を離れ
寂然閑居安処林野 寂然(じやくねん)と閑居(げんこ)し林野(りんや)に安らかに処(い)たまふ

という有名な偈(げ)がある(3・一九八)。三界すなわち生者の存在する空間は、火事におそわれた建物と同じく昏迷・苦悩の場だから、覚者(ブッダ)となるためには林野で心を澄まさなくてはならない。その際、ひとつの所に坐って精神集中するのが常坐三昧で、天台でも禅でも重要な修行だけれど、ほかに常行三昧すなわち歩くという行為を通じて精神集中する方法もある。これは堂内で阿弥陀仏像のまわりを歩くのだが、その歩くという行為を林野へ延長してもよいはずであろう。仏像が無くても、心に阿弥陀仏をしっかり画きながら林野を歩げば、堂内での常行三昧と異なるところはない。諸国を歩くのが仏道修行だという考えは、もともとこのような筋あいから出たらしい。だから『とはずがたり』の前三巻は火宅篇、後二篇は林野篇といってもよい。

 このように諸国を歩くことがすなわち仏道修行でありうるという考えかたは、べつに『とはずがたり』の作者が案出したわけでなく、遙か以前から存在しており、その代表的なものが「西行が修行の記」だったろう。これがどんな書物なのかはわからない。引用のぐあいから考えると(1・七三)、現存する『西行物語』『西行物語絵巻』ではないようだけれども、たぶんこれらと同類のものであったろう(三〇五−〇六ペイジ)。ところで、十三世紀中葉ごろから西行の新しい人物像が形成されていったことは、以後の紀行作品を考えるうえで注意を要する。たとえば『撰集抄』のなかで西行の自記らしく装(よそお)った章を見ると、それらに出てくる人物像は、いずれも「出家の望みを遂(と)げて、尊(たふと)き所どころをも順礼し、おもしろき所をも見まゆかしく思(おぼ)えて」(7・二二〇)廻国する漂泊の歌僧であって、西行の作歌やその題詞から推定される人物像とかならずしも一致はしない。これは『西行物語』などについても同様であり、当時から西行像の変容が生じたのであろう。西行が漂泊の歌僧というヴィジョンで考えられるようになったのは、その背後に廻国を仏道修行のひとつだとする意識がはたらいていたからで、それは、旅に宗教的な価値を認めることにもなった。十四世紀から十七世紀にかけて、和文ないし準和文の紀行は夥しく現われるが、それらはほとんどすべて宗教的心性の裏づけをもち、たんなる旅行記であるシナの紀行と同じではない。

西行(1118〜1190.73歳)俗名佐藤義清。鳥羽上皇に北面の武士として仕えていたが、1140年、突然出家。新古今和歌集には最多の九十四首収められた。
 いま宗教的心性というのは、かならずしも仏教だけに限るわけでなく、ヤマトの昔から日本に生き継いできた地霊との交感もそれに含まれる。漂泊の歌僧は到る所で歌枕を訪う。歌道にたずさわる者として、歌枕の土地に行きついたとき、古歌をなつかしみ、知性的な興趣を愉しむのは当然だけれども、そのほかに、詠み主(ぬし)たる歌人の魂と触れあうこと、さらには、後世まで残るような歌を詠ませた土地の生気に接することが、きわめて重要であった。名歌が生まれた土地の一木一草にも、山にも川にも、それを生まれさせた地霊がいまなお息づいているはずであり、その地霊と無言ながら語りあうためには、自分でそこへ行くことが必要だったのである(プルチョウ−一九八三・二〇−五一)。それは、かならずしも歌枕だけのことではない。昔からずっと語り伝えられ、いまも人びとの心のなかで生きているような事件がおこった土地には、主役人物の魂が残り、またその魂にはたらきかけた地霊も健在のはずであった。それらと交感することは、訪れた人たちに、訪れる以前には無かった何ものかを与えてくれたのであろう。それは、教義や体制をもった宗教ではなく、宗教以前の原始心性というべきだろうが、当時の日本人にとって、宗教と区別がつかなかったと考えられる。これに仏教の廻国修行が結びつき、著明な寺社や歌枕ないし由緒ある土地、いわゆる名所(などころ)を訪れるのがすなわち紀行だという通念になっていった。

 十四世紀よりあと、この意味での紀行が夥しく書かれる。しかし、それらは、現代人にとって、おそろしく退屈な作品の集積にすぎないであろう。仏道修行に共感せず古歌にうとい人たちが興味をもてないのは当然だけれども、あれだけ多数の紀行が書かれたのは、当時の人たちが強くひきつけられたからにちがいない。それらのなかで、いちばん秀れているのは、たぶん宗祇の『筑紫道記(みちのき)』であろう。この紀行は、かれが文明十二年(一四八○)九月六日から十月十二日にかけて筑紫を訪れたときのもので、記事はほとんどすべて寺社の参詣と名所へ立ち寄ったことだけである。それは『撰集抄』のいう「尊き所」と「おもしろき所」に対応するわけだが、宗祇のばあい、名所への評価は格別であった。内浦(うつら)浜という所へ行った条で、かれは、

松原とほく連(つら)なりて、箱崎にもいかで劣りはべらむなど見ゆるは、類(たぐひ)なけれど、名所(などころ)ならねば、しひて心留(と)まらず。やまと言(こと)のはの道も、その家(いへ)の人または大家(たいけ)などにあらずは、効(かひ)なかるべし。

と述べる(筑紫道記・九二)。宗祇個人が内浦浜を箱崎以下でないと認めても、名所(などころ)に登録されていなければ、とくに注意する必要はなかったわけである。和歌において師範家とか高貴な家とかの人が詠じたのでなければ勅撰集などに入る資格が無いのと、同じ筋あいにほかならない。名所として社会的に認知されることは、それだけの由緒があるからで、長い時代にわたり多くの人たちによって形成され保持されてきた由緒は、有能な個人の認識よりも優位に立つのだ──という考えかたは、宗祇だけでなく、当時の人たちに共通していた。
宗祇(1421〜1502.82歳)
 十四世紀以降、名所(などころ)についての関心が増大していったことは、夥しい紀行が書かれたのと表裏をなす事実だと言える。宗祇の撰という『名所方角抄』は、そうした要求に応(こた)えたものである。名所であるか否かの認定は、歌に詠まれているかどうかでなされることが多いから、完備した歌枕集成も必要となって、澄月の『歌枕名寄』が編まれた。これらの名所を訪れる人たちは、古典に通じていたわけだから、その経験を文書にしておくことが容易であったはずで、それが夥しい紀行の生まれた理由である。もっとも、いちいち文章にする気がなく、たんに名所を行脚するだけの人たちもいたらしい。そのことを示すのが、能のワキとして登場する「諸国一見(いつけん)の僧」である。かれらは、作中事件のおこる所に来るまで、どのような道筋をたどったかについて、能の冒頭部分で詳細に謡う。術語で道行(ミチユキ)とよばれるこの部分は、現代の観客にほとんど共感をもたらさない。しかし、それらの能が作られたころ、ワキの旅僧が謡うかずかずの名所は、意義ある土地だということを、享受者たちも知っていた。幾つもの名所でそれぞれの地霊と交感し、その生気を身に受けた旅僧は、もはや普通の状態でない。作中事件のおこる特別な場所は、これも名所のひとつである。そこで旅僧は、亡霊・精霊・神仏などの化身(けしん)に遇い、話をかわす。現世の者ならぬ化身と話しあうことができるのは、旅僧が地霊の生気を受けた特別な状態に在るからで(三六一−六三ペイジ)、道行はやはりぜひ必要だったのである。その道行を冗長に感ずる現代人は、宗祇たちの紀行にも退屈するほかない。 結局、『とはずがたり』の話は立ち消えになってしまって、この後も出てこないのである。


補説: 「修行の記」について


 小西甚一氏は、一方で後半も「紀行的な題材を採りあげているにすぎず、内質としては前三巻と同じ仮構日記である点に留意しなくてはなるまい」と述べながら、他方で後半は「修行の記として書かれた」とも言われるのであるが、その関係がよく分からない。

 「修行の記」を書くつもりなら、『とはずがたり』は後二巻だけで充分で、前三巻は不要だったのではなかろうか。宗教的動機から『とはずがたり』を書いたのだったら、せいぜい出家・廻国を決意するに至った事情を明らかにするために必要な範囲で自分の半生を記述すれば充分なはずであり、宮廷生活の詳細をくだくだしく述べる必要がどこにあったのだろうか。

 しかも、二条が描いた宮廷生活は、小西甚一氏自身が言われるように事実の記録ではないと考えるべきである。小西甚一氏のように「仮構日記」と言えば、表現が多少柔らかくなる代わりに、その意味が今ひとつ不鮮明となるが、率直に言えば、『とはずがたり』の宮廷編の内容は主として後深草院に対する誹謗中傷であって、ウソ八百である。

 宮廷編と紀行編が全く別個独立のもので、書かれた時期も異なると言うのだったら、小西甚一氏のように紀行編(後二巻)は「修行の記」だと考えることも不可能ではないが、「西行の修行の記」の一事からも、作者にとって宮廷編と紀行編は密接不可分であることは明らかである。そうだとしたら、宗教的な理由で仮構日記を書かねばならないどのような必要性があったのだろうか。そもそも宗教的な記録に虚偽を書いてよいのであろうか。

 また、紀行編については、小西甚一氏は中世紀行文学の一般論を言うだけで、『とはずがたり』の分析を全然しないけれども、別途述べたように、紀行編も不審な箇所が異常に多い。極めて著名な歌枕である八橋と熱田社の位置関係を誤ったり、極楽寺坂と化粧坂を混同したり、善光寺に行く途中で「木曽の懸路の丸木橋」を渡ったり、浅草寺の対岸が三芳野の里(埼玉県川越市)だったり、浅草寺の本尊が聖観音ではなく十一面観音だったり、とにかく変なことだらけである。

 私のように浅草寺の本尊を十一面観音としたのは故意によるものだ、とまで考えなくとも、訪問先の本尊を間違うようないい加減な尼が本当の事を言っていると考えていいのであろうか。宮廷編については、小西甚一氏は極めて慎重な、疑い深いとさえ言える態度をとっておきながら、どうして紀行編にもっと疑いの目を向けないのだろうか。宗教界の重要人物である「有明の月」を架空人物と断じるなら、紀行編の宗教に関わる一連の記述も、やはり架空であると考える方が遙かに筋が通っているのではなかろうか。全五巻のうち、前半三巻までを虚偽だというなら、後半も虚偽だと考える方がはるかに自然ではなかろうか。

 私は『とはずがたり』は極めて特殊な性格を持つ書物であって、中世紀行文学の一般論にはとうてい解消できない問題を孕むと考えているし、また「仮構日記」でありながら「修行の記」でもあるという小西甚一氏の考え方は一貫性を欠くと思うが、『とはずがたり』だけを考察の対象としていると、この点は水掛け論になってしまう。

 結局は動機の問題に帰着するのである。私のように『とはずがたり』は虚構の書だと言うのは実は簡単である。虚構の虚構たる所以は殆どすべて従来の学者たちがをきちんと説明しているのであり、彼等が内心多少の疑念を抱きながらも虚構説に踏み切れないのは動機の説明が著しく困難だからである。

 前三巻は非常に面白い宮廷秘話であり、仮構日記を書く意味は充分ある。人を楽しませる、という動機が考えられる。しかし、後二巻は、ごく一部を除いて異常に退屈な話が延々とつづくのであり、普通の読者には耐えきれないほどで、およそ人を楽しませることなど期待できない。後半だけなら、いくら退屈な内容だろうが、小西甚一氏が言われるように「修行の記」ということで話は済んでしまうのであるが、どう見ても『とはずがたり』は前半と後半が一体となって緊密な関係を保っていることが明らかであり、単純な「修行の記」と解することは無理である。

 『とはずがたり』はまったく異質な二つの部分から構成されていながら、少なくとも作者にとって両者を統合する契機が存在していると考えざるをえず、従ってその契機、即ち作者の創作動機の説明をきちんとしない限り、虚偽だといいつのっても説得力はないのである。

 私は、『とはずがたり』の創作動機についてひとつの仮説をたてているが、それは『増鏡』の分析を済ませてから述べることとしたい。



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