小口倫司 『増鏡』作者考への疑問−一つの提案−
(『とはずがたりの周辺』銀河書房.所収)

| 小口倫司氏の略歴(上掲書による) |
| (おぐちりんじ) 1935年、長野県岡谷市に生まれる。 駒沢大学文学部国文学科卒業後、長野県阿智高等学校を振出しに、長野県伊那弥生ケ丘高等学校、長野県岡谷南高等学校勤務。現在は長野県岡谷東高等学校教諭。 中世文学会員。冨含徳次郎訳「とはずがたり」(筑摩書房)共同執筆。 ※上掲書は1986年発行。 |
| 小口倫司氏の見解 |
私の考え方 |
四鏡の一つ『増鏡』の作者については古来多くの論証がなされて来たが、未だ定説をみない。一条冬良説、一条兼良説、一条経嗣説、丹波忠守説、二条為明説、四条隆資説、二条良基説など諸説があるが、その中で最も有力視されているのが、二条良基説である。私はここで二条良基説、それに四条隆資説の二説を中心に、いささかの私見を述べてみたい。 |
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| 『増鏡』は申すまでもなく、歴史物語のジャンルに属する作品で、大鏡につぐ傑作とされ、文治二年後鳥羽天皇の御即位からはじまり、元弘三年、後醍醐天皇が隠岐より京都に還幸されるまで百五十一年間、一五代の歴史を編年体に記したものである。もとより歴史物語の性格として、『増鏡』も多くの資料を駆使している。岡一男博士は、『増鏡』の成立年代を上限が1338年(元弘3)、下限を1376年(永和2)と推定されている。 |
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| この年代を参考に『増鏡』の資料になり得るべき作品を挙げてみると、@『中務内侍日記』(1292年頃の成立)A『弁内侍日記』(1252年頃)B『春の深山路』(1280年頃)C『百錬抄』(1259年頃)D『勘仲記』(1308年頃)E『元亨釈書』(1313年項)F『神皇正統記』(1339年頃)G『梅松論』(1350年項)H『かづきの日記』(1360年頃)I『吾妻鏡』J『一代要記』K『北山准后記』L『五代帝王物語』M『舞御覧記』N『とはずがたリ』などである。 |
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| これらの日記、記録の中でもK、L、Mは部分的な記事の資料として活用され、あるいはそのまま引用されているが、多くの部分ではない。ところがNの『とはずがたリ』は『増鏡』によって非常に多く引用されている。『栄花物語』や『源氏物語』が文章上影響していることは周知のことであるが、これは別として、数多くある日記・記録の中から一番影響を受けているのが『とはずがたリ』であるところに一つの問題があると思うのである。 |
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| 『とはずがたリ』は近年にわかに研究が活発になり開拓された作品で、後深草院二条と呼ばれる女性の日記である。この作品の成立年代は松本寧至氏によリ「今の大覚寺の法皇の古註にもとづき下限は正和2年(1313)11月17日以前であろう」と推定されている。また次田香澄博士が「『増鏡』は『とはずがたリ』の巻一から巻五にわたって計画的に盗用し、その取り方は資料としてばかリでなく露骨に用語・文体などに至るまで用いている」と説かれているように、特に『増鏡』の「おリゐる雲」から「さし櫛」にわたってその引用は著しいものがある。 |
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| さてここで『とはずがたリ』と『増鏡』の関連性という点から作者考を進めてみたい。両作品は、一、ともに政治的関心がないこと(蒙古の来襲など国の大事にあまり触れていない)、二、共に『源氏物語』『今様』の影響が文中に見られることである。それに加えて二条は、中院流久我家と呼ばれ代々歴史・文書の家として知られる(『水鏡』の作者を中院家の者とみる説もある)系累の出である。 |
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| この家は歌にも堪能であった(源通親・源通具などが一族にいる)から、その作品には文学的も、記録としても価値があり、『とはずがたり』が充分に資料としての資格をもっていたという点、時代的にも『増鏡』が利用しやすいなどの点から、『増鏡』の作者が意識して久我雅忠の女二条の作品である『とはずがたり』を資料として利用したということがはっきりする。 |
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| ここで論証に必要と思われる部分の引用をしてみる。 (一) 「なにがしの大納言の女、御身近く召し使う人」(『増鏡』草枕)・「また上臈だつ久我の大おとどのむまごとかや」(老のなみ)、「この車左久我大納言雅忠の女、三条とつきたまふ」(さし櫛)、「『二千里の外の心地こそすれ』などのたまひて、新院(亀山)『雲の波けぷりの波をわけてけり、誰にかあらん、女房の中より『行末遠き君が御代』とて」(老のなみ)。 |
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| (二) 「なにがしの朝臣の槇の島のけしきを造りて侍りけるを、平大納言経親、未だ下臈にて兵衛佐などいひけるほどにや、その宇治川の橋を盗みてわがつくろひたるかたにわたして侍りける。いと恐ろしく心かしこくぞ侍りける」(『増鏡』老のなみ)、「反橋を遣水に小さく、うつくしく渡したるを、善勝寺の大納言夜の間に盗み渡して、我が御壺に置かれたりしこそ、いとをかしかりしか。」(『とはずがたリ』巻二) |
| (三) 「朝夕むつましく仕うまつりし人々の思ひしづみあへるさま、ことわりにも過ぎたり。その中に経任の中納言は人より殊に御おぼえありき。年も若からねば定めて頭おろしなむと皆人思へるに、なよらかなる狩衣にて御骨の御壺もちまゐらせて参れるを思ひの外にもと見る人思へり」(『増鏡』あすか川) |
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| (四) 「道にて参るべき御せんじ物を胤成、師成という医師ども御前にてしたためて、しろがねの水瓶に入れて隆良の中納言承りて、北面の信友といふに、持たせたりけるを、内野のほどにて、参らせんとて召したるに、この瓶に露程もなし、いとめづらかなるわざなり」(『増鏡』あすか川) 「御煎じ物を胤成・師成二人して、御前にて御水瓶二つにしたため入れて経任北面の下臈信友に仰せ持たせて(中略)露ばかりもなし。いと不思議なりし事也」(『とはずがたり』巻三) |
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| (五) 「行末をなほ長き世と契るかなやよひにうつる今日の春日に新院御製は内大臣書き給ふ。(中略)つぎつぎの例おほけれどむつかしくて漏らしつ」(『増鏡』老のなみ) 「行末をなほ永き世と契るかな弥生に移る今日の春日に新院の御歌は内の大臣書き給ふ。(中略)この他のをば別に記しおく」(『とはずがたり』巻三) |
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| (六) 「なにがしの大納言の女、御身近く召しつかふ人、かの斎宮にも、さるべきゆかりありて、むつまじく参りなるを召しよせて、なれなれしきまでは思ひよらず。たゞ少しけ近きほどにて‥‥(『増鏡』草枕) 「『思ひもよらぬ御言の葉は、『何と申すべき方もなくて』とばかりにて、又寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りて、この由を申す。『たヾ、寝給ふらん所ヘ、導け』と・…・」(『とはずがたり』巻一) |
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| (一)からは後深草院の寵愛を受けたとはいえ、『増鏡』にとっては唯の女房にすぎぬ二条の名が多出しているということ、それに二条の名をわざとぼかして記している点が一つのヒントになる。(二)の場合は文中に見られる四条家の善勝寺大納言に対し二条は悪感情を抱いており『とはずがたり』では好意的書き方をしていないが、『増鏡』の作者はその人物を書き変えて表現している点が問題になる。 (四)からは、これは失敗談として記されている部分であるが、『とはずがたり』に記されている吉田経任に変えて四条家の隆親の子隆良を記している点と、そうかと思えば(三)の引用文のように経任を非難した記事が見える。 |
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| (五)は後述するが、『増鏡』の引用があまりにも露骨で知恵がないこと。これらの諸点と『増鏡』の作者は「足利幕府に媚ぴを呈している観がある。(中略)また持明院統の後深草上皇や光厳天皇に対しても、決して悪意をもたないで、かへって謳歌している」と岡博士も述べられているが、大覚寺統一辺倒ではなかったということが考えられる。また作者は武家よりも公家的傾向のある人物であろうという点など合わせて、まず岡博士の説かれている二条良基説について考えてみたい。 | |
| 私は『とはずがたリ』との関連から二条良基説にはいささかの疑問をもっており、結論的に申し上げてむしろ中院家か、四条家に『増鏡』の作者がいるのではないかと推定している。具体的に述べると良基は博学で、活躍した時代からみても作者の資格を充分もっている。しかし引用文(五)のところで述べたように『源氏物語』に精通し、旧儀に詳しく歌道に秀でている良基が「むつかしくて漏らしつ」という幼稚な、ぎこちなく腑におちない引用をするであろうか。 |
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| また良基が『とはずがたリ』の作者二条との関連がなく、この時代どの作品の作者にも擬せられるふさわしさ、資格をもっているが、半面歌道が中心であり歴史とは縁が薄い。それに二条良基は『連歌新式』『連理秘抄』などの著の外に『近来風体抄』『愚問賢註』など多くの作品を残しているのに、なぜ『増鏡』の作者だということだけが、その時代、あるいは後世に伝わっていないのか。また内容からみてもかくすべき作品ではないという稚拙な疑問。それだけに作者とするにはいささかのためらいを感ずるのである。 |
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| 次に四条隆資説であるが、これは中村直勝博士の説である。隆資の『増鏡』ヘの登場は五箇所程あり、『とはずがたリ』との結ぴつきでも、二条の母大納言典侍は四条家の出であり関係がある。引用文(二)の点からも失敗談をわざと四条家の者に書き変えているが、むしろ南朝の法皇のお側近く仕える身分にむしろ自負心をもった顕示的な表現だともとれるが、この考え方には無理があろう。 |
| 四条家にも『絵草子』の作者隆房のように文才のあるものがいるなどの点から隆資作者説はうなづけるにはうなづけるが、しかし『尊卑分脈』に「観応三、五十一、南軍敗北之刻、依祗彼陣於戦場討死了」とあるように、隆資は南朝方に加わり戦場で活躍したこと、あるいは逐電などの事件があること(※)などから『増鏡』を記す環境にあったであろうか。 |
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| 中村博士は「承久後の西園寺家の栄達に対しては、頗る快からぬ感想を抱いた筆致であり、持明院統の巡らされる秘計には憎悪の眼を向けているのである」といわれているが、四条家と西園寺家はむしろ密接であり、『とはずがたり』の作者二条の方がかえって四条家に対しては憎悪の眼を向けている。持明院統に対しては前述の通りで、どうも隆資の筆致とは思われない。岡博士も説かれるごとく『増鏡』の終りの部分で「すみぞめの色をもかへつ」とやりこめられている点。 | |
| さらに「本書には宮廷の殊に大覚寺統の秘事をよく知って居らねば書けぬ記事がある」といわれているが、これは引用文(六)のように亀山院の秘事ではなく斎宮ガイシ内親王と後深草院の秘事であり、隆資でなくては書けない記事ではない。また引用文(二)のように、不名誉な嘲笑事件の主人公隆親を経親に書き変えている。これらの諸点から隆資説は納得できない点が多々あり作者には不適格である。 | |
| では『増鏡』の作者はということであるが、『増鏡』の成立時代からみても、一、『とはずがたり』となんらかの関連をもつ、しかも引用できる立場、環境にある人物であるということ。二、『とはずがたり』の引用はその時代の知識人になら誰にでもできるということも考えられるが、これが自伝的日記であるという性格、その内容からしてもあまり公にされるべきものではなく、引用が難しいかったであろうということ。三、『増鏡』と『とはずがたり』の間に五十年程の年限があるだけで『とはずがたり』が流布されたのは、その写本から見て、もっと時代が下ってからではないだろうかということ。四、『増鏡』には『源氏物語』の影響があるが、『とはずがたリ』もこの点共通している。これについてはこの中世の時代は『源氏物語』の知識は常識であったろうし、多くの人々に愛読された時代でもあるから、敢えて作者を『源氏物語』に精通した人物と考えることはない。 | |
| 以上述べて来たような点を根拠にして、私は『増鏡』の作者が、二条とは密接な立場にある中院家の中にいるのではないかという推測を立てたい。前述したように久我家は『高倉院厳島御幸記』の通親、『新古今和歌集』の撰者通具などがおり、その中でも通親の子、通方の流れ、中院家は歴史の家である。この末流には北畠親房がいる。 |
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| さて歴史物語といわれる作品の場合、その作品に作者自身の登場が許され、それが可能かという問題である。日記文学においては、第一人称の文学であり、これは当然のことである。いく度となく作品に参加することによって発展があり、作者の考えがはっきりとする。この点日記文学と歴史物語には多分の共通性がある。したがって歴史物語への作者登場には、時代を人事を正確に伝える目的があり、むしろありうべきことであり必要なことであろう。 |
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| もし四条隆資を『増鏡』の作者だとすれば、五箇所程の登場を見る。『大鏡』『今鏡』などの作者が詳かならばそれは明らかになるであろうが、不可能なことである。しかし二条良基の『増鏡』ヘの登場はない。 |
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| 終りに私は時代的に見ても、『増鏡』ヘの登場という点からも中院通顕か、その近くの時代に存した中院家の人物を『増鏡』の作者と推定したい。通顕の登場は「秋のみ山」の石清水行幸のところにその子通冬と、「むら時雨」の康仁親王の立太子のところに一度、さらに光厳院の御即位のところに登場している。「月草の花」にも二度、その一度は光厳院の六波羅出御の部分であり、合わせて六回登場している。 |
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| 具顕・通頼・実兼の室顕子などは『とはずがたリ』にも登場している。通顕は、『公卿補任』によれば「正慶二年五月八日四十三才で出家」、また『尊卑分脈』には「春宮大夫続千載の作者正慶二年五月八日出家康永二年没」と記されている。歌人としても知られ、持明院方の東宮大夫(光厳院)の位にあり、『とはずがたリ』との関連、歴史の家柄、生存した時代と『増鏡』の成立年代が同時代であるなどという点からも、作者としての資格を充分有するのである。以上、何分にも論拠薄弱で肉付けは今後の間題とせねばならぬが、ここに一提案をしてご批判を仰ぎたい。 |