更新11.2/5


木藤才蔵 『日本古典文学大系新装版.神皇正統記・増鏡』(岩波書店)解説
−その1−






木藤才蔵氏の略歴(※)
(きどうさいぞう)
大正4年 台北市に生まれる。
昭和14年 東京帝国大学文学部国文学科卒業。
現在 日本女子大学名誉教授
著書 『校注ささめごと.研究と解説』『連歌論集』(日本古典文学大系)『増鏡』(日本古典文学大系)『連歌史論考.上・下』『徒然草』(新潮日本古典集成)『連歌論集.一・二』

※『中世日本文学試論』.明治書院.昭59より



木藤才蔵氏の見解

私の考え方

一 増鏡の内容

 増鏡には、治承四年(1180)の後鳥羽院の降誕から、後醍醐帯が隠岐の島から還幸になった元弘三年(1333)に至る百五十余年間の出来事がしるされている。それは鎌倉初期から末期に至る、まことに波乱にみちた時代であって、その間に平家一門の没落、武家政治の開始、源氏の滅亡、北条氏の制覇、承久の乱、新仏教の興隆、蒙古の来襲、北条氏の滅亡など、日本歴史上特筆すべき事件があいついで起こっている。



後鳥羽院(1180〜1239.60歳)

後醍醐天皇(1288〜1339.52歳)
 しかし、増鏡には、これらの大事件のうち、承久の乱と元弘の乱に関して詳しい記述が見られるだけで、他の事件に関してはほんの一通りの触れ方をしているに過ぎない。それに反して、歴史的事件としては特筆に価しないような、宮廷における儀式や行事、あるいは、貴族たちの文化的な生活に関しては、相当にカをこめた詳しい叙述がなされている。この点から、増鏡の本質がどういうところにあるかが、まず問題になると思うのである。

 増鏡の内容に関して、芳賀矢一は「大体において宮中のやはらかな生活を写すを主とし、中には特に情話をうつし、平安時代の軟かな気分をうつす」といい、岡一男氏は、この書の中心興味は、「鎌倉時代の貴族のアナクロニズム的な生活の種々相を、それにつきづきしいアナクロニズム的な源氏式の擬古文で、万華鏡的に表現したところにある」といっている。

 他方において、和田英松は、承久・元弘の討幕に重きを置いて書いたものといい、尾上八郎は、後鳥羽・後嵯峨・後醍醐三帝の御紀に詳しく、特に後醍醐帝に関して詳細である点を指摘した上で、後醍醐帝のことを描こうとして、歴代の天皇の事績を、序のごとくしるしたかのようにも見えるといっている。また、著作の意図に関して、中村直勝氏は、公家一統の政治をねがうところに、執筆のねらいがあったとなす。


後嵯峨院(1220〜1272.53歳)



中村直勝氏の略歴と『増鏡』についての考え方はこちら
 これらの諸説は、ある意味では、いずれも真実を含んでいる。承久・元弘の討幕に重きを置いて書いたことも、後醍醐帝のことを中心にして書こうとしたことも、確かにいえることであって、これを記述量の上で見ていくと、元弘の乱を中心にした最後の三巻には、全体の五分の一の筆をついやしており、さらにその前の二巻を含めて、後醍醐帝即位以後の出来事をしるした部分には、全体の約三分の一の記述量をあてている。この間、約十六年であって、増鏡に扱われた百五十数年間の十分の一の期間に過ぎない。この点からいっても、増鏡の作者に、後醍醐帝治下の出来事、その中でも特に、元弘の乱の一部始終を記述して、後世に伝えたいという意図のあったことを否定できないように思うのである。

 一方において、「宮中のやはらかな生活を写す」のを主にして、叙述がなされていることも事実である。この書の中心部にあたる巻々は、ほとんどその種の記事でみたされているが、後醍醐帝治下の出来事をしるした巻々においても、宮廷を中心にした風流生活の叙述は、相当の比重を占めている。したがって元弘の乱を中心にする後醍醐帝治下の出来事にカをいれて書いたことも、宮廷生活のやわらかな方面のことを主として書いたことも、ともに事実であるということができる。

「やはらかな」部分の他に柔らか過ぎる部分があって、不倫話や同性愛などの変態話がたっぷり出てくるのが『増鏡』の特徴である。作者の守備範囲が広すぎて、近代・現代の生真面目な学者たちでは追いついていけないという感じがするのである。
 ところが、これらの記事のいずれかに重点を置いて考えることによって、増鏡の本質も、相当に異なったものとして把握されることになるのである。結局、増鏡の作者が、どういう意図のもとに、どういう事を主にして、鎌倉時代の歴史を書こうとしたかを明らかにするためには、そこにしるされている出来事が、全編の中で、どういう位置づけをなされているかを、はっきりさせることが必要だと思うのである。その点に関して、まず元弘の乱に関する巻々が、本書の中で、どういう位置を占めているかについて、すこし詳しく考察してみたいと思う。

 増鏡の作者が、元弘の乱の原因を、どのような点に求めているかという点に関して、「久米のさら山」において、隠岐の島に流された後醍醐帝の心境をしるした部分で、「今はた、さらにかくさすらへぬるも、何により思ひ立ちし事ぞ、かの御心の末や果たし遂ぐると思ひしゆへ也。苔の下にもあはれと思さるらんかしと、かき集めつきせずなん」と述べているのに注意すべきであろう。ここでは元弘の討幕の挙が、遠く後鳥羽院の素志をつらぬこうとしたものであることを明らかにしている。

後宇多院(1267〜1324.58歳)は亀山院の子、母は洞院実雄の娘、京極院。
 後宇多院は後醍醐天皇の父であるが、母である参議藤原忠継の娘、談天門院忠子は後醍醐を生んでから後宇多のもとを離れ、亀山院の庇護を受けることになり、後醍醐は祖父亀山院の強い影響を受けて育った。後醍醐天皇と後宇多院の父子関係は非常に複雑で、不審な部分が多い。
 後宇多院について、より詳しくはこちら。また、後宇多院と後醍醐天皇の父子関係についてはこちら。(村松剛氏『帝王後醍醐』)
 また「秋のみ山」では、後宇多法皇が政治の実権を後醍醐帝に譲ろうとするに当たって、鎌倉幕府の了承を得るために、藤原定房を関東に下向させたことをしるして、「おほかたは、いとあさましうなりはてたる世にこそあめれ。かばかりの事は、父御門の御心にいとやすく任せぬべき物をと、めざまし。されど、昨日今日はじまりたるにもあらず、承久よりこなたは、かくのみなりもてゆきければなめり」とも述べている。

 これらの記述によって、増鏡の作者が、承久の乱における王朝の敗退を、恥辱の日として意識しており、元弘の乱の遠因をも、そこに求めていることを知るのである。

 このように見てくると、増鏡の冒頭の巻の名が、鎌倉幕府の専横を嘆いて後鳥羽院の詠まれたという「おく山のおどろの下を踏みわけて道ある世ぞと人に知らせん」によりて「おどろの下」と名づけられ、その次の巻の名が、院が隠岐の島に流されて後の御製「我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け」によって「新島守」と名づけられているのも、決して偶然ではないように考えられる。

 この二つの巻において、後鳥羽院を中心にした宮廷における風流生活、院による討幕計画、王朝軍の敗退、隠岐の島における院の悲愁に満ちた生活等を叙して、巻末の元弘の乱を中心にする生彩に満ちた叙述と呼応せしめたのは、増鏡の作者が初めから意図していたところであったように思うのである。

『増鏡』は承久の乱と元弘の乱を2つの山場として、シンメトリカルな構成をとっており、作者に論理を重視する硬質な知的側面があることを伺わせる。
 承久の乱における王朝軍の敗退が、正中・元弘の討幕運動の遠因をなすのに対して、その直接の原因としては、後嵯峨院没後の両統交立と皇位継承に関する幕府の干渉が史家によって指摘されているが、この点に関しても、増鏡の中には一連の記述を見出だすことができる。

後嵯峨院(1220〜1272.53歳)は土御門天皇の子、母は源通宗の娘通子。長じても無品のままで、誰も即位するとは考えていなかったが、1242年、四条天皇の突然の死を受けて、北条泰時の強力な推挙により皇位についた。『増鏡』の「内野の雪」を読んでいると、後嵯峨院は遊んでばかりいたような印象を受けてしまうが、実際には後嵯峨院は優れた人材を積極的に登用して朝廷政治の活性化をはかり、相当の成果をあげている。即位の時の事情から、後嵯峨院は自己の支配の正統性に若干の弱みがあることを自覚していたはずであり、そのために優れた政治を心がけたのだと思われる。
 すなわち「あすか川」では、両統交立の遠因になった後嵯峨院の遺勅および後深草院方と亀山帝方の対立について、「草枕」では、後深草院の皇子を北条時宗の計らいで東宮に立てたいきさつについて、「さしぐし」では、伏見帝に危害を加えようとした浅原為頼の事件と、その背後関係者と見られた亀山院の出家について、しるしてある。さらに、それ以後の巻においては、両統の交立ごとに一喜一憂する院の心境、天皇・院・東宮等の心理的葛藤などがしるされており、それらの記事をあとづけていくと、後醍醐帝が討幕へと踏み切っていくことに、一応の必然性を認めることができるのである。

 しかし、これらの記事は、それほど強く相互の関連を意識させない。事件の脈絡をたどれば、元弘の乱の遠因・近因は一応押えられているが、それらの遠因・近因は、叙事詩的な盛り上がりをもって、元弘の乱へと高まっていかないのである。

 なぜ、高まらないかというと、この書には、元弘の乱の遠因・近因以外に、大きな比重をもって叙述されていることがあるからである。それは、増鏡の作者が、武家との対立相克にだけ焦点をあてて、鎌倉時代の公家の歴史を叙述しようと意図していなかったためであると考えられる。

浅原為頼(?〜1290)は甲斐源氏小笠原氏の一族。諸国で強盗狼藉を働いた後、1290年3月9日夜、内裏(富小路殿)に乱入し、伏見天皇の暗殺を図ったが失敗、清涼殿で自害した。この事件の背後に亀山院がいるとの嫌疑がかかったが、亀山院は誓詞を幕府に送って事なきを得た。700年前のアサハラ事件であり、昔のアサハラも危険で迷惑な人だったのである。
 なお、『増鏡』では亀山院の出家が浅原事件を契機としているように描かれているが、史実としては亀山院は前年(1289年)に出家している。『増鏡』の著者は、物語を盛り上げるためには、院の出家のような当時の貴族社会における最重要事項すら勝手に改変してしまうのである。
 増鏡の中で、初めから終わりまで、一貫して取りあげられているのは、歴代の天皇に関する事項である。その天皇の父母・誕生・元服・立坊・践祚・即位・後宮・子女・譲位・出家・死等に関しては、歴代ごとに必ず記述されている。天皇に関する事項は、六国史以来の史書の骨格をなす部分で、栄花物語以下の歴史物語においても、取りあげられてきた事項であるが、栄花物語・大鏡・今鏡などでは、このほかに、藤原氏や源氏などの有力な廷臣たちの系譜および事績について、相当の紙幅をさいている。栄花物語や大鏡などにおいては、むしろ、その点に中心があるといってもよいのである。

 ところが、増鏡では、廷臣たちの系譜や事績に関する記述は極めて簡単にしかなされていない。摂関の交替の次第をしるしてあるのも、永仁六年十二月に摂政をやめた鷹司兼忠までであって、それ以後の摂関については、儀式に参列したり、事件に関係がある場合を除いては、ほとんど記述がなされていないのである。

 これは、鎌倉時代の廷臣たちが、摂関を初めとして、歴史的記述に価しない存在と化している事実に即応した扱い方であるということができるであろう。西園寺家に関する記述がやや詳しいのは、その一門から多くの后妃を輩出し、廷臣中の実力者であったためだと考えられる。

鷹司兼忠(1262〜1301.40歳)
永仁6年は1298年。なお、兼忠の父は国文学者たちが「近衛の大殿」だと断言している鷹司兼平(1228〜1294.67歳)である。

木藤才蔵氏のこの見解は極めておかしい。木藤才蔵氏は通説に従って二条良基を『増鏡』の作者としているのであるが、そうだとすれば、仮に良基が「廷臣たちが、摂関を初めとして、歴史的記述に価しない存在と化している事実」を認識していたとしても、摂関家の一員として先祖の事績を積極的に記述しないなどと言うことが考えられるのだろうか。『増鏡』には愛欲・不倫・変態話など、「歴史的記述に値しない」話がたっぷり盛り込まれているのであるが、摂関家のトップの一人である良基が、先祖の事績を無視して、そんな無駄話を書いていていいのだろうか。しかも、その無駄話の中には、明らかに二条家の先祖についての不名誉な話すら存在するのであって、二条良基説など全く成立する余地はないと私は考える。二条良基説を採る多くの学者たちは、家門の名誉を重んずる貴族の心理にあまりに鈍感である。
 また、西園寺家に関する記述は、木藤才蔵氏が言われるような「やや詳しい」どころではなく、凄まじい分量なのであるが、この点は別途検討する。
 それに対して、鎌倉の将軍に関しては、初代の源頼朝以後、九代めの守邦親王に至るまで、一応の記述が見られる。また、執権の北条氏については、皇室に関係のある大事件に関与した場合に限って記述がなされ、時政・義時・泰時・時頼・時宗・貞時・高時などが登場してくる。

 その扱い方をみると、時頼に関しては、廻国修行をして、民政に意を用いた話をしるしており、その子の時宗については、「それが子なればにや、時宗朝臣も、いとめでたきものにて」というように讃辞を呈している。ところが、高時については、「心ばへなどもいかにぞや、うつゝなくて、朝夕好む事とては、犬くい・田楽などをぞ愛しける」というふうに述べている。ここには、ほむべきはほめ、貶すべきは貶するという公平な態度を見ることができる。

 両統分立以後の天皇に対しても、特に持明院統の肩をもつとか、あるいは大覚寺統に好意を寄せるというような点は見られない。その点で、この書は、正統の歴史書の公平客観の精神を継承した、みごとな歴史書であったというべきであろう。

 増鏡が日本歴史上稀に見る波乱に満ちた時代を扱いながら、斜陽化した宮廷生活の叙述に多くの筆をついやした結果、平板にして退屈な印象を与えているという点については、多くの批判が加えられている。鎌倉時代の歴史を推進させた原動力は武士階級であるから、武士階級に中心をすえて、それと拮抗しながら斜陽化の一路をたどっていった公家の歴史を書けば、この時代の世相は、もっと全面的にとらえられたかも知れない。





木藤才蔵氏は「斜陽化の一路をたどっていった公家」といわれるが、この基本的な認識の部分で木藤氏を含む殆どの国文学者は重大な誤りを犯している。鎌倉時代、特にその後半は、貨幣経済が急速に浸透して経済全体のパイが拡大し、寺社はもちろん貴族もしっかり富を蓄積していたのであり、そうでなければ北山准后九十賀のような「盛大な儀式や行事」はできなかったのである。「斜陽化」は鎌倉時代全体をとおしてダラダラ進んだのではなく、後醍醐天皇の建武の新政の失敗を契機に、急激に、ガラガラと起こったのである。
 しかし、それは、増鏡の作者の意図したところではなかったように思われる。増鏡の作者が真に関心をもっていたのは、宮廷を中心にした公家の生活であったと思う。そこには優雅な王朝の伝統が生きていた。貴族たちは不倫と頽廃をはらんだ日常生活を送り、盛大な儀式や行事に生き甲斐と誇りを見出だしていた。そうした公家の生活と人間像を内側から描こうとしたのが、増鏡の作者の意図したところであったと思われる。

 栄花物語このかたの歴史物語の伝統が、増鏡の中で強く生かされたのもそのためである。増鏡が見事な歴史書であったというのも、その限りにおいていえることであるが、単に歴史書という観点だけで、この書を評価することは、当を得ていないであろう。この書の本領は、もっととほかの点にあったと考えられるからである。



二 『増鏡』の文芸性

 増鏡の中で特に目につくのは、天皇や上皇を中心にする儀式や行事の叙述が精細を極めていることである。その圧巻は、天皇・上皇・東宮その他の貴顕の参集のもとに行なわれた北山准后九十の賀に関する記述であって、増鏡のほぼ中程に位置づけられている「老のなみ」の後半が、ほとんどその盛儀の叙述で埋められているのは、この書の性格の一面を端的にあらわしている。


1285年に行われた「北山准后九十賀」の記述の分量は本当に凄まじいものであって、どこか異常な感じすらしてくる程である。
 この話は『とはずがたり』にもたっぷり出てくるのであるが、国文学者たちの年立てによれば、二条は1283年初秋に御所を追放され、約1年半後の1285年2月末から3月はじめにかけて「北山准后九十賀」に参加して、久しぶりに後深草院らと言葉をかわしたことになっており、華やかな行事の中にいながら、疎外された自分の身を嘆ずる、というのであるから、『とはずがたり』には「北山准后九十賀」がたっぷり書いてあっても、それはそれで納得できるのである。
 しかし、『増鏡』は、公家の立場から鎌倉時代を鳥瞰した歴史書であって、他に書くべきことが一杯ありそうなのに、なぜ「北山准后九十賀」を、ここまで執拗に書かねばならないのか、極めて不思議なのである。
 ところが、増鏡にとりあげられたすべての儀式や行事が、ひとしく詳述されているかというと、そうではないのであって、ある場合には詳しく、ある場合には簡単にしるされているというふうである。それらの叙述量は、必ずしも儀式や行事の盛大さに比例しているわけではなく、むしろ全体の配合を考慮することが優先しているようである。

 また、場合によっては、似たような行事や儀式を隣接させて叙述していることもあって、こういう部分は、やや退屈な感じを与えるのであるが、こまかに読み分けていくと、実は特殊の効果をねらって、こうした配合がなされていることに気づくのである。

 たとえば「内野の雪」の中ほどには、後嵯峨上皇の石清水・宇治・鳥羽殿・吹田への御幸が、あいついでしるされ、ひき続いて、宮廷における風流生活が次々に述べられている。それらの出来事に関しては、何年何月のことと、日時を必ずしも明示してない。場合によっては、時間的な順序を前後させた記述もみられる。

 したがって、増鏡の筆者の意図は、これらの行事の正確な日時を伝えようとする点にあったのではなかったことか明らかである。似たような行事を、次々と書きしるすことによって、後嵯峨院政下における優艶で風流な貴族生活を、絵巻物のように展開させることに、筆者の意図があったものと考えられるのである。

 増鏡の中には、歴史的な出来事としては特筆に価しないような恋の物語や情事に、相当の紙幅をさいている場合を見うけるが、これも鎌倉時代の貴族生活のうちに、王朝のみやびの伝統が、色こく伝えられている実態を、書きしるそうとしたためであると思われる。

この木藤才蔵氏の見解は、きれいにまとまりすぎていて賛成できない。『増鏡』には「みやびの伝統」とは異質の話が多すぎるのである。
 「草枕」のほぼ三分の二を、※子内親王を中心とする恋の物語にあてているのなどは、そのはなはだしい例である。そこには、後深草院の異母妹の※子内親王が、兄の院の情欲のおもむくままに、道ならぬ契りを結んだことや、その後、西園寺実兼の愛を受けて、その来訪を心待ちにしていたある夕暮れに、実兼の行列を避けてこの女院の邸内に入りこんできた二条師忠を実兼と思いちがえて、憂き寝の夢を重ねたことなどをしるしてある。

※りっしんべんに「豈」。ガイシ内親王。
この部分は『とはずがたり』が「発見」されるまでは亀山院のエピソードだと思われていた話である。
西園寺実兼(1249〜1322.74歳)
二条師忠(1254〜1341.88歳)
通説が『増鏡』の作者とする二条良基(1320〜1388.69歳)は、この師忠の曾孫にあたる。この話では、師忠は西園寺実兼の引き立て役の極めて滑稽な人物として描かれており、直系の子孫である良基がこんな摂関家の面汚しのような話を書くはずがないと私は考える。

●てへんに「侖」。リンシ女王。

六条有房(1251〜1319.69歳)は通光の孫で、二条より7歳上の従兄弟である。この話が1290年のこととしても、有房は既に40歳であり、決して「若き日の物語」ではない。この六条有房の奇妙な恋物語の原文と、それについての私の解釈はこちら
 また、亀山院の妃であった●子女王が、院の出家後、禅林寺の奥の淋しい住居で、かねて自分に奉仕してくれている若い中将に迫られて契りを結び、逢う瀬を重ねて、ついに一子をなすに至ったことをしるした「さしぐし」の一節なども、やはりすぐれた恋の物語といえよう。

 雷鳴の夜を舞台にして、それまでは頼もしい従者の地位にあった中将が、突如として熱烈な求愛者に変じていく、この物語の書き出しといい、後朝の歌を詠んで別れを惜しむ中将に対して、ロ惜しさと身の不運を嘆く女王の気持ちを描いた中程の部分といい、女王との間に一子をなしたこの中将が、その才学のゆえに異数の栄進をとげて、その晩年に「あつめこし窓の螢の光もて思しよりも身をてらすかな」の歌を詠んだ六条内大臣有房の若き日の物語であることを明らかにした、この物語の結びの部分といい、これだけで巧みに構成された短編小説の趣をもっている。

 こうした、宮廷生活史にとっても插話に類するような話に、相当のカを注いで叙述をしていることによっても、本書の性格の一端を察知することができるであろう。結局、増鏡の作者は、源氏物語をはじめとする王朝の物語の面影を、鎌倉時代の貴族の生活に求め、王朝の伝統を確認しながら、歴史を書きつづっていったといえるのである。

木藤才蔵氏は、要するに『増鏡』は斜陽化していた貴族が昔の栄光をしのんで書いたものと見ているのであるが、私は賛成できない。『増鏡』には、表面的には分かりにくいものの、極めて力強い精神が漲っており、決して過去を振り返ってばかりいる訳ではないと私は思う。
 このように見てくると、艶とあわれに満ちた文化的な生活が、鎌倉時代の宮廷に一貫して存在し続けたことを、立証しようとする気持ちが、増鏡の作者にあったことは否定できないように思う。増鏡の中で、後醍醐帝治下の出来事、特に正中・元弘の計幕に大きな比重がかけられていることは先にも述べたが、なぜ、後醍醐帝治下の出来事に大きな比重をかけて書いたかについても、この点から明らかにできるように思う。それは、この帝によって遂行された北条氏討滅の挙と、それにつづく建武の新政府樹立の事業とが、王朝文化を復興する壮挙を意味していたからである。


「この帝によって遂行された北条氏討滅の挙と、それにつづく建武の新政府樹立の事業とが、王朝文化を復興する壮挙」を意図していたことであるが、実際の結果はおよそ壮挙でも何でもなかったのである。この落差が、1331年の北山御幸における後醍醐帝の歌についての、『増鏡』での極めて奇妙な取り扱いにつながるものと私は考えている。北山御幸の原文と、この点についての私の解釈はこちら
 したがって、宮廷を中心とする多くの儀式や行事を、うむことなく書き続けた精神は、疾風怒濤の勢いで六波羅目がけて進撃した足利尊氏の軍勢の活躍ぶりを描くのに、何らの矛盾を感じなかったのである。むしろ、優艶な王朝の伝統に深い愛着をもっていたからこそ、後醍醐帝による元弘の計幕事業が、光輝ある歴史的事件として、いきいきと叙述できたと思うのである。

足利尊氏(1305〜1358.54歳)が六波羅を攻撃する場面の原文はこちら


 その点で極めて印象的なのは、元弘元年三月、後醍醐帝が北山の西園寺邸に行幸になった時のことをしるした「むら時雨」の記述である。そこには源氏物語の一場面を髣髴させる、次のような記述も見られる。

暮れかゝる程、花の木の間に夕日花やかにうつろひて、山の鳥も声惜しまぬ程に、竜王のかゝやき出でたるは、えもいはずおもしろし。その程、上(後醍醐)も御引直衣にて、倚子に著かせ給て、御笛吹かせ給。つねよりことに雲井をひゞかすさま也。宰相中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前関白殿(道平)御衣とりてかづけ給。紅梅の表着・二色の衣なり。左の一肩にかけていさゝか一曲舞いてまかでぬ。右の大臣大鼓打ち給。その後、源中納言具行採桑老を舞ふ。これも紅のうちたる、かづけたまふ。

元弘元年(1331)の北山御幸に関する記述は明らかに『舞御覧記』を「引用」したものである。『舞御覧記』の原文はこちら

北畠顕家(1318〜1338.21歳)
北畠家も村上源氏。北畠家の祖である雅家(1215〜1275.61歳)は通方の子、通親には孫にあたり、二条の父雅忠(1228〜1272.45歳)の従兄弟である。雅家の曾孫に、南朝のイデオローグ親房(1293〜1354.62歳)が出て、その息子が顕家である。1338年、顕家が後醍醐天皇に提出した北畠顕家卿諫奏文は、とても21歳で書いたとは信じられないほどの畏るべき名文で、後醍醐の周辺に結集した貴族の知的水準の高さを感じさせる。これが顕家の遺書となった。
 ここでは、元弘二年六月、柏原で斬首された源中納言具行が採桑老を舞い、延元三年に、和泉の石津で戦死した鎮守府将軍北畠顕家が陵王を舞っている。後醍醐帝による討幕計画は、その頃、源具行等を中心にして、密々に進められていたであろうが、舞御覧を初めとする典雅な行事は、風流の限りをつくした北山の山荘を舞台にして展開されていた。

北畠具行(1290〜1332.43歳)は北畠家の祖、雅家の孫。具行と佐々木道誉(1296〜1373.78歳)が登場する柏原の場は、古来、『増鏡』屈指の名文とされているところであるが、これに言及した殆どの文献は、バサラ大名として強烈な個性を発揮した佐々木道誉を主役と見ている。そして二条良基が佐々木道誉と親しかったことから、佐々木道誉を高く評価するこの部分が、『増鏡』の作者を二条良基とする説の根拠のひとつとされているのである。
 しかし私は、この場面の原文を素直に読めば、主役はあくまで村上源氏北畠具行であって、佐々木道誉は具行の立派さを引き立てるための脇役に過ぎないと考えている。原文と私の考え方の詳細はこちら
 それからわずか六か月後の九月二十四日、北条氏追討の計画は事前に六波羅方の察知するところとなり、帝は夜半、にわかに奈良を目ざして皇居を脱出される。皇居には、常陸守時知の率いる六波羅勢が乱入して、殿中をくまなくあさり歩く。こうして、元弘の乱の幕が切って落とされるのであるが、風流な儀式や行事の叙述が長々とくりひろげられてきた後だけに、事態の急変は読む者の目を驚かし、それ以後の合戦に関しても、極めて控え目な叙述がなされているにもかかわらず、それは強い印象を与えずにはおかないのである。

 このように見てくると、増鏡が文学書として、まことに見事な構成のもとに書かれているという事は否定できないように思う。この時代に一般的であった序破急三段の構成法によれば、後鳥羽院の降誕から承久の変における敗退を経て、隠岐の島における悲哀に満ちたその晩年までの事を述べてある、おどろのした・新島守・藤衣の三巻は序の段、元弘元年八月二十四日、後醍醐帝が夜半に皇居を脱出されて以後、騒乱の日が続き、数々の激戦を経て、北条氏が滅亡し、帝が隠岐の島から還幸になるまでの事をしるした、むら時雨・久米のさら山・月草の花の三巻は急の段、その中ほどの十一巻を、破の段にあてることも可能であろう。

 世阿弥は花鏡で、能楽の序破急について、脇の申楽は序であり、二番自の申楽も、まだ序の名残の風体であり、三番目から破になることを述べた上で、「三番目より、能は、細かに手を入て、物まねのあらん風体なるべし。其日の肝要の能なるべし。かくて、四・五番までは破の分なれば、色々を尽くして事をなすべし。急と申は、揚句の義なり。その日の名残なれば、限りの風なり。破と申は、序を破りて、細やけて、色々を尽くす姿なり。急と申は、又その破を尽くす所の、名残の一体也。さる程に、急は、揉み寄せて、乱舞・はたらき、目を驚かす気色なり」と述べている。増鏡の作者の心のうちにも、こうした構成意識が暗々のうちに働いていたように思うのである。 世阿弥(1363〜1443.81歳)


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