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| 増淵勝一氏の略歴( 上掲書による) |
| 早稲田大学大学院終了 文京女子短期大学部助教授 |
※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。
『増鏡』の研究は、歴史物語の中では『大鏡』のそれと共に最も進展しているが、その史的展望と最近の動向については、金子大麓氏の「増鏡を研究する人のために」(『国文学』昭和三十二年十二月)が明瞭かつ詳細に果されている。また昭和四十八年三月に第十二刷発行がなされた岡一男博士の日本古典全書『増鏡』解説にも簡潔で厳正な研究史の鳥瞰がなされており、これらによって『増鏡』研究の大勢は容易に把握できるであろう。そこで、ここでは本書収録の『増鏡』論を中心に、簡単に研究の推移を概論して、私の『増鏡』研究史素描に代えたいと思う。なお、ごく近時の動向については、後載の「参考文献」をできるだけ詳しく作成したので、これによっておおよその趨勢を掌握していただけるとさいわいである。 〈1 明治以前〉 『増鏡』に対する学究的関心も、他の歴史物語の例に違わず、江戸時代に入ってから盛りあがりを見せている。これは『大鏡』や『水鏡』と同じく慶長・元和頃(1596−1623)ないしは寛永頃(1624−43)に古活字本『増鏡』六冊(二十巻本系)が刊行され、その後これをもとにして刻板したらしい無刊記整版本(古印本)十冊(『水鏡』『大鏡』とセットをなす)が刊行されて、『増鏡』本文が広く行きわたったからである。 その代表的な業績を列挙すると、土肥経平(1707−82)の『増鏡系図目録』、一条冬良作説に不審を示し、成立論に新見を表明した伴信友(1773−1846)の「増鏡考」(『比古婆衣』巻六)、有職故実に関する語に評注を加えた伊勢貞丈の「増鏡問答」(安永九年〈1780〉成稿。『安斎小説』第十巻所収、『大八州雑誌』明治二十九年九月号所載)や「増鏡抜書」(『武器考証』)、応永本に接しかつ一条経嗣作を説いた慈延の『鄰女晤言』(享和二年〈1802〉刊。『日本随筆全集』所収)、狩谷※斎本・前田夏蔭本について考究すると共に、語釈・考証をも記す岡本保孝の『増鏡考』(天保四年〈1833〉成稿。『未刊国文古注釈大系』第十四冊所収)等が数えられる。 ※木へんに「夜」 〈2 明治・大正期〉 明治期は、まず十四年(1881)の『史籍集覧』本『増鏡』(底本=屋代弘賢校本)四冊や二十五年(1892)の『日本文学全書・増鏡』(底本=流布刊本)以下の発市で、本文がいっそう流布する一方、その作者・成立年代・内容等につき啓蒙的な解題・評論類がつぎつぎと発表された。たとえば小中村義象博土の「古文学書解題及び評論」(『国学院雑誌』明治二十七年十一月)の第一回には『増鏡』が取りあげられ、書名・組立・巻名・文章・作者等につき簡単にふれ、かつ「新島守」や「村時雨」の一節を評論されるという風であった。 その中で注目すべきは、すでに幕末に大沢清臣が論じていたが(塙本奥書)、松本愛重博士の二条良基作者説で、その根拠とするところは、「増鏡の筆つきと、その有職故実等を詳にかきつけしとをみるに、かいなでのものゝなし得べきわざにあらず」というところにあった(某生「増鏡の著者につきて」〈『新国学』二十九年十月〉)。この良基作説に対して、関根正直博士は全面的な賛意を表され、良基の閲歴・学識・文才・操行等につき概叙されつつ、さらに今後良基の歴史上・文学上における事蹟を調査することを期待された(「二条良基公の御事」〈同誌三十年1月〉。 明治三十年(1897)五月、萩野由之・松井簡治・関根正直三博士は烏丸光広本(二十巻本)を底本として石橋真国校本・古活字本以下で校定した『校定 増鏡』を刊行、その巻末の「増鏡編次の異同」で、陽明文庫本(十七巻本)の編次を紹介された。ついで同年十月、和田英松博士・佐藤球氏によってはじめて本格的注釈書たる『増鏡詳解』が著わされ、語釈・本文校定・出典考証・有職故実の説明等に委曲をつくし、年表・系図等も付載された。この前後から『増鏡』の文章が中学の国語読本に引かれ、専門学校の入学試験や文検の必読書とされたところから、各種の注釈書が続出したが、いずれも『詳解』に負うところが大きく、大正十四年(1925)には重修版が出た。 大正年代では、六年から七年にかけて発市された永井一孝・竹野長次両氏の『増鏡新釈』二冊、七年刊行の佐野保太郎氏『増鏡新釈』、八年発行の高木武氏『新釈増鏡』、同年刊行の内海弘蔵氏『国文口訳叢書・増鏡』など、どれもそれぞれ特色をもっている。なお、十五年(1916)に著わされた『校註 日本文学大系』本の解題で、尾上八郎博士は詳細な内容紹介を試みられ、大覚寺統(南朝)びいきの作者が「後醍醐天皇の御上を描かうとして、歴代の天皇の御事蹟を、序の如く記したかのやうにも見える」と説き、『源氏物語』の模倣が諸所に見える事実をも指摘された。 〈3 昭和期 T〉 昭和に入ってからも、小林好日氏の『参考 増鏡新釈』(三年)、塚本哲三氏の『増鏡解釈』(七年刊)、倉園好文氏の『新修 増鏡評釈』(八年)、久松潜一博士の『物語日本文学・増鏡』(十一年刊)等注釈書・口語訳の好著が続出したが、これらは主として二十巻本系統の『増鏡』本文をもとにしている。昭和六年(1931)和田英松博士校訂の『岩波文庫・増鏡』がはじめて尾州家本(蓬左文庫本)三冊の模写本(史料編纂所所蔵)を覆刻、ここに永和二年(1376)卯月書写の奥書を持つ応永(1394−1427)の古写本に全面的に接しうるようになった。ついで同九年刊行の佐成謙太郎氏『新訂要註 増鏡』も、書陵部蔵応永本(尾州家本写本)を底本として、これに同部蔵永正本(永正十八年〈1521〉中御門宣胤書写)を以って校合、応永本の誤脱を補訂して、古本の実体がほぼ明らかにされた。 他方、作者・成立論は、松本・関根両博士説の後あまり進展が見られなかったが、昭和六年、岡一男博士が「増鏡についての私説」(『月刊日本文学』同年九月)を発表されて、作者を公家と説き、巻末の「墨染の」の歌の詞書から、南朝の長慶天皇時代あたり(1368−83)に『増鏡』ができたものとされ、さらに本物語の形式・内容等を詳しく論述して、『増鏡』の中心興味は、「鎌倉時代の貴族のアナクロニズム的な生活を、それにつきづきしいアナクロニズム的な『源氏』式の擬古文で、さながらに表現したところにある」と評された。 爾後、再び『増鏡』の基礎的研究が活況をとりもどし、中村直勝博士は作者に四条隆資を考えられ(「増鏡」〈『岩波講座日本文学』昭和七年六月〉)、また和田英松博士は「久米のさら山」に光厳天皇の皇子たちが陽禄門院三条の御腹に生まれられたことを記しているのを延元三年(1338)以降のことと考証して、本物語の成立をこれ以後永和二年(1376)以前のことと説き、作者には二条為明をあげ、なお十七巻本(甲本)と二十巻本(乙本)の本文検討も行なって、『増鏡』の書誌的研究をほぼ完成された(「「増鏡の研究」〈『日本文学講座』改造社.同九年二月〉)。つづいて荒木良雄氏の「増鏡作者異説」(『文学』十年二月)が、大覚寺統(南朝)・二条流を宗としながら持明院流(北朝)・京極家をはなれていない立場の丹波忠守作者説を提唱、さらに関東四郎氏は御子左為定を著者として、その成立を延元三年(1338)以降正平十三年(1358)以前と説かれた(「増鏡の作者について」〈『国学』十二年1月〉)。 なお、和田博士の「増鏡の研究」(前掲)では、『増鏡』が『五代帝王物語』以下の諸書に材料を得ていることも注意されているが、沼沢龍雄氏の「吉野拾遺と増鏡」(『国語と国文学』九年六月)や多屋頼俊博士「増鏡に現はれた源氏物語」(『国語国文』九年十月)等も、この物語の出典研究の嚆矢として意義がある。 昭和十一年(1936)五月、伊豆公夫氏の『日本史学史』が発市されて、唯物史観に基づく『増鏡』論が展開され、『増鏡』の豪奢な生活描写は、「荘園所有者=貴族の物質的基礎が、依然覆えされないであったことを意味するのである」と説かれた(本書所収論文)。同年十一月発行の『解釈と観賞』は「大鏡と増鏡の研究」を特集して三編の『増鏡』論考を収録したが、その中で手島靖生氏はこの物語の本質は、「公武の衝突史でも、神皇正統記の亜流でもなく、鎌倉時代に於ける皇室の御生活史」たるところにあると述べられた(「増鏡の本質」)。またこの前後には、研究史や研究方法の手引なども続出して、『増鏡』の研究が最も隆盛となった時期であった。 こうした中で、昭和十二年十二月、岡一男博士は十七巻本による最初の口語完訳である『現代語訳国文学全集・増鏡』を上梓され、かつ巻末に詳細な解説(本書所収)を付載された。当稿は前記「増鏡についての私説」をさらに発展されたもので、翁の昔話という形式をうけた『増鏡』の文学史的位置を闡明し、公家本位の史観に立脚した作品であることを詳述されたほか、著者の立場は南北両朝のいずれにも片寄らず、教養・年代・文章等から推して二条良基が作者に最もふさわしいことを強調、さらに「さし櫛」の老尼の后妃の不行跡を語ったことばから、それが後光厳院の二品局を指していると考証して、『増鏡』の成立を応安(1368−74)末年とされた。この岡博士の作者・成立論は、後に石田吉貞博士・木藤才蔵氏らによって高く評価・継承されているが、岡博士の『増鏡』研究は常に問答文学としての歴史文学史上からの形態的把握と、作品内部からあらゆる文学的味わいを見出だそうとする純粋支芸批評との両面からなされているのである。 昭和十四年七月、平田俊春氏は「増鏡の成立に関する一考察」(本書所収)で、「むら時雨」の一部が『舞御覧記』を素材としつつも、その立場にとらわれていないのは、元弘元年(1331)三月の舞御覧当日に作者が供奉していなかったからであり、この物語の著作年代もこれを去ること遠くない事実を表わすものと断言された。この見解は同氏「増鏡研究序説」(『古典研究』同年九月)でも再説されている。同年九月、湯沢幸吉郎博士は「増鏡の中の三疑義」(『国語解釈』)を発表、「めりしかど」「聞え給ひけむ」「歎かせ奉り」等の語句の文法的な注解を試みられたが、これは『増鏡』の本格的な文法研究としてはほとんど唯一の例といってよい。翌十五年二月には、尾張徳川家本三冊を底本として、尊経閣文庫本三冊ほか一本等で校合した『新訂増補 国史大系・増鏡』が発行されて精確な本文がひととおり出揃ったが、さらに同年九月には、山岸徳平博士が書陵部蔵の『とはずがたり』を紹介、あわせてこの書と『増鏡』との密接な影響関係を説いて(「とはずがたり覚書」(『国語と国文学』)、出典研究に発展をもたらされた。 〈4 昭和期 U〉 戦後いちはやく『増鏡』研究に従事されたのは岡一男博士であった。岡博士は昭和二十三年(1948)に『日本古典全書・増鏡』を刊行され、新見に満ちた注解を試みられて、原作の複雑微妙な匂いや陰影を鑑賞できるように配慮され、あわせて『増鏡』の文学史的地位・書名・作者・著作年代・諸本・形式・研究史等につき六十頁に及ぶ詳細な解説を試みられ、かつその付録の「増鏡談義」では話説の場所を清涼寺にしたのは、『宝物集』の影響であることを指摘された。ついで二十五年には「女西行記『問わずがたり』現代語釈」(『月刊読売』同年十月で、増鏡本文との比較を試みられ、さらに三十一年には『学燈文庫・増鏡』を刊行、語法・文脈研究や評釈に新見を示された。 昭和二十八年(1953)四月、石田吉貞博士は『増鏡評解』を上梓され、同年九月には「増鏡作者論」(本書所収)を発表、『増鏡』の著作年代・作者としてそなうべき条件・一条冬良以下の旧作者説を検討された後に良基説に及び、その年代・教養・文才が条件に合致するばかりでなく、特に良基の擬古調の文が『増鏡』のそれに酷似すること等を以って、『増鏡』作者としておかしくなく、おそらく連歌の仕事もだいたい終った良基五十七歳の永和二年(1376)の作であろうと結ばれた。石田博士には別に「増鏡の成立と時代」(『国文学』昭和三十二年十二月)や「増鏡作者の検討」(『大鏡増鏡』〈三十七年刊〉)等もあって、叙上の見解が再提案されているが、岡・石田両博士の研究によって『増鏡』の二条良基作説は、ほぼ確定したといっても過言はなかろう。ついで二十九年には山田孝雄博士が「常在霊鷲山」「三昧科」「御前の池なる亀岡」以下の語句について精細な注解を試みられ、注釈研究が一歩前進した(「増鏡の注釈数則」〈『語文』同年九月〉。 昭和三十年(1955)、手島靖生氏は『日本文学史』第三巻所収の「増鏡」で諸本・編成・内容・手法・成立年代・作者等について旧説を総収・批評されつつ、『増鏡』の本質を「史論ではなくて、小説風に、政治よりもに人間としての生活を中心として、宮廷の生活史を書いたもの」と見ておられる。さらに翌三十一年の「一知識人としての『増鏡』作者のあり方」(本書所収)では、「作者が誰かということではなくて、どういう人物かという」ことを追求され、それは「自らは安定した境遇にあればこそ高い見識を示しうる、そういう型の、非行動的(北畠親房とはまさに対蹠的)知識人であ」ると断じられ た。 ついで昭和三十二年には、石井順子氏が「増鏡の性格」(本書所収)で、『増鏡』の特質は、史料的価値・記事の採録・文章等にあるのではなく、「各記事の統合に当っての独得の処置にあっ」て、その繁げ方に連想による巧みなつながりがあると論断された。この考察は、連歌的発想ということで二条良基作者説に結びついて来るものであ り、後の木藤才蔵氏らの研究に継承されて行った。同年十二月刊の『国文学』は「大鏡・増鏡の総合探求」を特集して、岡崎義恵博士の「歴史文学の本質」・岡一男博士の「歴史文学の発生と展開」を巻頭に、『増鏡』関係は六論文を収録。昭和十年前後の『増鏡』ブームが再現したかの如き印象をもたらした。そのうち中村直勝博士「増鏡の史実性について」(本書所収)は、史学者の立場から『増鏡』が『吾妻鏡』と共に鎌倉時代の通史の双璧であることを強調されると共に、その史実性も他の類書の中では抜きんでてすぐれていることを例証されたもので、文学的な視点からだけの『増鏡』研究に反省を与えられた。翌三十四年四月には同じく史学者の松本新八郎氏の「歴史物語と史論」(『岩波講座日本文学史』第六巻)が出て、『増鏡』の感性的な歴史認識の方法を追求、その限界は過少に評価してはならず、「ある意味では頽廃的なものの美しさである」と論述された。 昭和三十五年(1960)には、鈴木知太郎博士が岩瀬文庫蔵の応永九年奥書本(三冊。江戸末期写)を紹介、尾張徳川家本特有の誤脱が当本には見られぬ点で、「最も有力な標準的写本」と言われた(「岩瀬文庫蔵応永九年奥書本『ますかゝみ』について」〈『中世文学』同年六月〉)。 翌三十六年、木藤才蔵氏は「増鏡の構想と叙述」(本書所収)を発表して、『増鏡』作者の執筆意図を追求、王朝文化の伝統を鎌倉期の宮廷生活に確認したいという念願と、現実の後醍醐帝の治政および元弘の乱への関心とが作者の心中に共存しているが、彼一流の芸術観によって、現実世界をも美文調で叙述したと結論された。木藤氏はこの論稿の前提として岡・石田両博士の良基作者説への賛同があることを断わっておられるが、その根拠とするところは昭和三十七年の「増鏡の作者」(『国語とこくぶんがく』同年十一月・十二月)および翌三十八年の「二条良基の研究」(『日本学士院紀要』同年三月)の二論文で精細に開陳され、かつこの物語執筆の直接的動機として貞治六年(1367)の細川頼之の執事就任をあげ、結局応安元年(1368)頃から永和二年(1376)四月に至る間をその成立年代と推測された。 木藤氏はついで四十年(1965)には、時枝誠記博士と共著で、永正本の原本にあたると言われる学習院大学図書館本三冊(室町中期写)を底本として尾張徳川家本・平松家旧蔵本以下で校合した『日本古典文学大系・増鏡』を刊行、特に有職故実・出典・史実考証等に意をそそがれたが、その後の「五代帝王物語と増鏡」(『日本女子大紀要・文学部』四十一年三月)や「増鏡に及ぼした平家物語の影響」(『国文目白』四十二年二月)等では典拠研究に従事され、また四十七年刊の『校注古典叢書・増鏡』では岩瀬文庫本三冊を底本として平松家旧蔵本以下で校合、頭注・解説されるなど、活発な研究を統けておられる。 昭和三十六年には荒木良雄博士の『中世文学事典』や松村博司博士の『歴史物語』が刊行されて、これまでの諸説が総収・紹介され、益するところ少なくなかった。翌三十七年岡一男博士の『古典日本文学全集・大鏡増鏡』が刊行され、平明で精確な口語訳で評判を呼んだが、その解説(本書所収)では『古事記』から『増鏡』ヘ至る歴史物語の生成・発展の諸相が、文学史的にビビッドに解明され、そのスケールの大きい視点での把握方法は異彩を放っている。またこの年発表された矢花祐子氏の「増鏡作者についての一資料」(『学習院大学国語国文学会誌』同年五月)は、『実隆公記』大永七年(1527)春の紙背文書に「ま春ママ鏡之作者(承)度侯」の句があることを発見・紹介して、『増鏡』の作者は相当早くからわからなくなっていた実情を説かれた。 以下、昭和四十年以降の研究を概観すると、〈本文研究〉としては、佐藤敏彦氏が尾張徳川家本の透写である日本大学図書館蔵『増鏡』二冊(中巻欠)を紹介、徳川家本の伝来とその地位を考える上での一資料を提供された(「日本大学図書館蔵『増鏡』の本文について」〈『語文』四十四年十二月〉)。つぎに〈口語訳〉には青山直治氏の『全訳増鏡』(昭和四十五年刊)があり、氏が全訳を思い立たれてから二十余年も経っていると言われるだけあって、丁寧な訳文をつづられている。なお、基礎的作業の一端をになう〈総索引〉はまだ作成されていないが、鈴木茂美氏に「『増鏡』人名索引」(立教大学『日本文学』四十三年六月)がある。 〈典拠研究〉には、杉本圭三郎氏の「『増鏡』と『承久記』」(『文学研究』四十年十一月)・塚本康彦氏「『とはずがたり』と『増鏡』」(『日本文学』四十三年一月)のほか、高橋田鶴子氏の「増鏡序」(『史海』四十一年三月)があり、『増鏡』序は『とはずがたり』の影響をうけ、由緒ある老尼とその年を設定し、『舞御覧記』にはその表現を借りたと論ぜられている。また田尻幹子氏も、『増鏡』執筆の動機としては、『とはずがたり』が一つの大きなヒントになったものと想定、あわせて性格の複雑性を述べられた(「典拠から見た増鏡の性格」〈『名古屋大学国語国文学』四十二年六月〉。 その〈性格論〉および〈本質論〉では、南波敦子氏の「増鏡の史観」(『史海』四十一年三月)のほか、西沢正二氏「『増鏡』に描かれた後鳥羽院」(『日本文芸論稿』四十二年六月)は、後鳥羽院の描写を追求することによって、没落公家を弱いながらも一貫した歴史意識によって描き出す『増鏡』の特質を究明、西沢氏には別に「『増鏡』に関する一考察」(同誌四十五年六月)もあって、この物語に公武交渉的要素と宮廷生活史的要素の二面的性格のあることを説かれている。また時下米太郎氏は『増鏡』の誕生性・成長性・円満性・真実性・遊楽性・幽艶性・歌文性・近代性等を順次略説して面白く(「増鏡の性格論」〈『都留文科大学研究紀要』四十二年七月〉)、また鈴木孝枝氏「増鏡の文芸性」(『東京女子大学日本文学』四十三年十月)では、歴史を科学的に捉えるのではなくて、美的に捉える『増鏡』のあり方が検討されている。 〈構想・構成論〉では、吉岡(田尻)幹子氏が「増鏡の最終部分に関する疑問」(『名古屋大学国語国文学』四十四年十二月)で、「増鏡は未完のままで中断されたのではないかと考え」て、かつて岡博士が『日本古典全書』本解説で説かれたところに賛意を表され、また武井啓子氏は和歌と地の文の量の増減を比較・検討されて、作者の最も力を入れて記述した箇所が、「おどろの下」「新島守」「久米のさら山」等にあることを論証され、これによって作者の意識の中に武家政治への反感の少なくないもののあることを説かれた(「増鏡作者の創作意識に関する考察」(本書所収)。ついで金子大麓氏は「増鏡における王朝的なるもの」(本書所収)で、『増鏡』の昂揚と頽廃の実情を分析されて、『増鏡』の歴史意識の基盤をなすものが作者の思慕・憧憬する王朝貴族文化、特に『源氏物語』にあることを強調され、『源氏物語』の三部構成説によって『増鏡』のそれも考えられると説いて、木藤氏の序破急三部に擬した三部構成説に異論をさしはさまれたのであった。 こうして見て来ると、『増鏡』の研究は、かなり多彩であり、作者・成立論や本文研究も一応の結論が出ている。しかもその考究も確実に質的な高まりを見せていることは、昭和十年前後の『増鏡』ブームと戦後の三十年前後のそれとにおける論稿内容を比較してみれば、一目瞭然である。もっとも『源氏物語』に関する論考が年間百編前後も発表されている現状には較らべられずとも、『大鏡』のそれに比照しても、『増鏡』の論文はもっと出てよいはずである。叙述・手法・人物・美・背景等に関する論考はむろんのこと、特に語法面の研究や総索引作成の試みが、今後の課題として、その進展が期待される。 |