−見解並立・利益配当型辞典−



 (はじめに)
 無茶苦茶なタイトルであるが、私はあくまで真面目である。
私は『とはずがたり』を研究しはじめてから、いろいろな辞書・辞典類を調べる機会が増えたのだが、私のように会社員としての仕事をもっていて、学生などに較べたら時間的余裕が少なく、必要な情報に迅速にアクセスしたいという切実な願望を抱いている人間にとって、現在の辞書・辞典類は非常に不便である。自分にとって有益な情報にアクセスするまでに手間と時間がかかってしょうがないのである。
 しかし、ぶーたらぶーたら不平不満を言っていても仕方ないので、みんなが当たり前だと考えていることを再検討して、こんな辞典があったら便利だ、そのためにはこんなシステムが必要だ、と考えてみた。



1.現在の辞典の問題点(『広辞苑』の場合)

 まず、現在の辞典の問題点を整理したい。そのための素材として、岩波書店の『広辞苑』をとりあげてみる。『広辞苑』を素材とするのは、同書が権威ある岩波書店の金看板、誰しも一目置く辞典の王様であり、それだけに現在の辞典の問題点も鮮明に現れているからである。同書の第2版「後記」には以下のような記述がある。かなり長いが、興味深いところが多いので全文引用してみる。
 
後記

 昭和十年に刊行された新村出先生の『辞苑』は、その直後から改訂の作業が進められていたのであるが、昭和二十年四月戦火に見舞われ、上梓に至らなかった。敗戦後、新村先生の手許に残された一通の校正刷をたよりに、市村宏氏を主任としてあらためて編纂の業が開始され、さらに十年の歳月を要して昭和三十年五月ようやく完成を見たのが、すなわち『広辞苑』である。その後十余年、古語・現代語を包括する国語辞典として、また、学術その他万般にわたる語彙・事項をも含む小百科事典として、その規範性と実用性とは広く世間に認められて今日に至った。

 その間、機会あるごとに補修を加え、つねに誤りなきを期して来たのであるが、最近の国語学の進歩、科学技術の発達、社会生活の変動はまことに驚くぺきものがあり、それらの成果と言語生活への影響とを辞典に反映させるには、根本的な改訂を施す必要が生じてきた。たまたま新村先生もまた同じ御見解に達し、昭和三十九年、改訂版の編纂に着手することとなった。語源・語誌および外来語に関しては直接編者の側において担当し、その他の算目ならびに全体の整理編集および製作は岩波書店がこれを担当することとなった。

 今回の改訂の眼目を、まず第一に、国語・国文学の最新の業績にもとづいて語法・語義の解説を刷新し、また、近来刊行された文献資料を渉猟して用例・典拠を豊富に掲げることに置いた。ついで、人文・自然等諸科学の最近の研究成果の反映、言語生活の変化に伴って生じた新しい語彙の採録に意を用いた。同時に、本辞典の特色の一たる語源説についてこれを一層充実し、また、現代かなづかいなど現代的な表記法の普及に対応して見出し語その他の表記についても改訂を加えた。

 しかし、机上辞典としてはおのずから紙幅の限界があり、その範囲内でこれらのすべてを実現することは不可能に近い。やむなく第一版の項目および解説を統合し、単純な複合語や方言、時事用語・流行語などの類を整理した。その結果、見出し語において約二万項目を増補することができたが、しかもなお採集した語彙の三割は割愛せざるを得なかった。旧版の改修とはいえ、結局、殆ど全面的に書き直すこととなった。

 かくて五年の日子を費したのであるが、今ここに面目を一新した第二版をいささかの自負をもって世に問うことができるのは、これひとえに各界各方面多数の方々の惜しみない御協力によるものに他ならず、衷心から感謝の意を表する次第である。編者側において担当されたところに関しては、巻頭の「第二版の序」にその経緯が詳しく述べられているのでここでは重ねて触れないが、そのほか、小社の求めに応じて快く御助力を賜わった学者・専門家諸先生の数は優に二百名を越える。左にその主な方々の芳名を記す。(五十音順( )内は主な担当分野)

青木和夫(古代史) 青木淳一(動物) 秋山光和(美術) 阿部正昭(林業) 有野健二(経済) 粟田賢三(哲学) 石井素介(地理) 石田薫一(天文) 稲谷祐宣(仏教) 井上和夫(漁業) 今泉吉典(動物) 今道友信(美学) 宇野脩平(飲食民具) 浦山政雄(近世芸能) 江口圭一(近代史) 太田博太郎(逮築) 大野普(国語) 大野盛雄(地理) 大森志郎(習俗行事) 大矢真一(数学史) 岡村総吾(電気) 長田泰公(医学) 小野晃(地球物理) 小野幹雄(植物) 笠松宏至(中世史) 加藤房之助(化学) 神谷栄子(工芸) 蒲生正男(文化人類学) 吉川英史(古代芸能) 木村正中(国語) 久保田淳(国語) 郡司正勝(民間芸能) 小泉文夫(音楽) 越田稜(政治) 斎藤忠(考古学) 阪口豊(自然地理) 桜田勝徳(漁業史) 志田延義(国文学) 清水茂夫(近世文学) 進士慶幹(武家故実) 杉山茂雄(国際法) 鈴木一雄(国語) 鈴木敬三(服飾故実) 鈴木重武(法律)関野雄(考古学) 武田政一(神道) 土田直鎮(公家故実) 道家忠道(外国文学) 道家達将(生物) 富永五郎(物理) 仲新(教育) 中川千咲 (工芸) 中口博(航空〉 永原慶二(中世史) 中村英勝(西洋史) 中村義雄(調度風俗) 西川大二郎(地理) 沼辺武捷(鉱山冶金) 野白喜久雄(醸造) 波木居斉二(神学) 早川庄八(古代史) 林茂(政治) 林勉(国語) 原正敏(機械) 春名好重(書道) 兵藤申一(物理) 福田秀一(国語) 星野朗(地理) 保志恂(農業) 前田金五郎(近世語) 松尾尊充(近代史) 松尾幹之(畜産) 水谷静夫(国語) 水野稔(近世文学) 水野弥穂子(国語) 峰岸明〈国語〉 宮城音弥(心理) 宮坂宥勝(仏教) 三好行雄(近代文学) 森末義彰(日本史) 森田武(日葡辞書) 諸星静次郎(養蚕) 八杉竜一(生物) 八十島義之助(土木) 柳沢孝(仏教美術) 山岸徳平(書誌) 山口啓二(近世史) 山崎三郎(数学) 山根幸夫(東洋史) 山本武夫(近世史) 湯川制(生花茶道) 横道万里雄(中世芸能) 渡辺照宏(仏教)

 なかでも、鈴木一雄・木村正中・水野弥穂子・林勉・福田秀一・久保田淳・峰岸明の諸氏は、国語項目の全般にわたって執筆の労をとられ、三年から五年の長きにわたり編修室において直接御指導を賜わった。また、大野晋・水谷静夫の両氏からは語法ならびに基本語彙に関して格別の御教示をいただいた。挿図は第一版に引きつづいて牧野四子吉・佐伯義郎の両氏に依嘱したが、武具・服飾に関するものは特に羽石光志氏をわずらわした。このほか数え切れぬほど多くの専門諸家あるいは読者から直接間接に好意ある御教示を頂戴した。

 最後に、この新版の基礎となった第一版のために御協力いただいた方々の芳名を併せ掲げて永く銘記したい。

会津晃・青山秀夫・浅山哲二・有賀鉄太郎・粟田賢三・飯島篤信・池上禎造・市古貞次・稲沼瑞穂・今西錦司・大築邦雄・岡山泰四・小野和・河鰭実英・岸春雄・木下法也・小島六郎・小林恵之助・小林行雄・駒井卓・斎藤秋男・阪倉篤義・坂田昌一・佐藤芳彦・鎮目和夫・島村福太郎・新村猛・末永雅雄・高木公明・高木貞二・棚橋諒・千野光茂・塚本洋太郎・都留重人・暉峻衆三・徳田御稔・朝永振一郎・長尾雅人・仲新・中村誠太郎・中村幸彦・南条正明・橋浦泰雄・林雄次郎・原光雄・土方克法・日高敏隆・平野宣紀・福田正・藤谷俊雄・藤原義一・古川久・堀喜望・本城市次郎・牧野亥之助・真下信一・松平千秋・松山貞夫・三ケ尻浩・宮地伝三郎・都城秋穂・宮原誠一・森鹿三・森竜吉・大和一夫・山内太郎・湯浅明・湯川秀樹・依田新


 編者新村出先生が業半ばにして不帰の客となられたことは痛恨の極みであるが、謹んでここに本書をその霊前に献げ、先生の御遺業の今後なお永く生きつづけることを証し得ることは、私どものせめてもの喜びである。
昭和四十四年五月
岩波書店編集部

 この極めて荘重な文体で記述された「後記」は、列挙された93名+70名=163名の錚々たる学者の名前とともに、岩波書店の圧倒的な権威を感じさせるものであるが、それにしても、辞書作りというのは随分大仰な仕事だった訳である。そして、この大仰な『広辞苑』には以下のような特徴がある。

@印刷物の宿命として、容積・重量の物理的制約が大きく、そのため関係者が入れたいと希望する情報を大幅に割愛せざるをえない。

A時代の変化に対応して改訂しようとしても、改訂に極めて長い時間がかかる。それは「編者新村出先生が業半ばにして不帰の客となられた」ことに示されているように、途中で関係者がどんどん死んでしまうくらいの長さである。

B全体の整合性・一貫性を非常に重視しているため、執筆者個人の見解が犠牲にされることが多い。反面、各項目について執筆責任者の氏名は明記されず、責任の主体は極めて曖昧・不明確である。

C錚々たる学者の協力は得ているが、口上を述べるのが「岩波書店編集部」であるように、前面に出てくるのは構成員の具体的な氏名すら明らかでない編集部という組織であり、協力者である学者は、その経歴も剥ぎ取られて、かろうじて名前と専門分野を、数十人・数百人のメンバーとともに列挙してもらえるだけである。見方によっては随分学者をバカにした話である。

D結局、『広辞苑』が売れる理由は、「岩波書店」という高級ブランドの持つ顧客吸引力である。それ故に、編集部の人間は、外部の者から見れば奇妙なほど『広辞苑』に対する思い入れが深く、極めてプライドが高い。それは見方によっては、なんでこんなに威張っているんだろうという印象を与える程である。


 ま、何だかんだいってもそれなりに便利だったし、昔は他にろくな辞典がなかったから、多くの人が『広辞苑』を使っていたのである。しかし、いろいろな情報源、様々な媒体を使える現代においては、『広辞苑』も、錚々たる学者をそろえた割には各項目の内容は貧弱すぎて、実際上「小百科事典」としての役割を果たすのは無理が多い。特に時代の変化への対応が遅すぎて、物事を詳しく調べたいと切実に願う人間にとって有益な情報を与えてくれる機能は殆ど期待できないのである。



2.新しいタイプの辞典の問題点(『イミダス』の場合)

 これに対し、広辞苑の有する「小百科事典」としての特色を前面に出し、しかも時代の変化に迅速に対応しようとする姿勢を鮮明にしている辞典類に、『現代用語の基礎知識』(自由国民社)、『知恵蔵』(朝日新聞社)、『イミダス』(集英社)があるが、これらは、『広辞苑』と比較してみると、いずれも権威臭は乏しく、『広辞苑』のような編集者の深い思い入れを感じさせるような記述は見あたらない。「後記」などそもそもなく、代わりに執筆者リストが載っているのみである。また、全体の説明も極めて乾いたタッチでなされており、例えば『イミダス』には、次のような機能的な説明がなされているだけである。

編集ノート

●情報、事実(ファクツ)に密着したナマの情報(データ)から、データを取捨選択して得られる有意味情報(インフォメーション)ヘ、さらにインフォメーションを高度組織化して得られる知識(ナレッジ)の体糸へと、階層的に精錬されていく。

●イミダスが取り扱う最新情報・知識は、完成度の高い既に体系化された知識よりも、今まさに生成過程にある動態的な情報・知識が圧倒的に多い。そこで編集上、つぎの諸点を工夫し、立項された個々の項目がその分野全体との関連の中で理解できるように努めた。

●まずデータ・レベルの情報は、図版(図表、図解、写真など)を積極的に活用して視覚的にワンタッチで把握できるよう工夫し、項目解説をより早くより正確に理解するための手助けとした。

●項目の解説は、単なる語義説明やデータの羅列を越えて、一般の人々の実生活に有益なインフォメーションレベルでまとめるよう心がけた。必要な場合は→印で関連情報項目を示し、より深い情報・知識を得られるよう配慮した。(1455ページ索引検索ガイド参照)。

●ひとつの項目の解説の中で関連諸項目をまとめて扱うほうが効果的なケースが多く、その場合は解説の文中にゴシック太字体で示す立項方式をとった。

●各項目の配列を工夫して、その分野全体を通読するとナレッジ・レベルとしてのまとまりをもつよう努めた。従って、ひとつの項目はその周辺の他の項目と互いに強い関連性があり、併せ読むことでより広い情報・知識を得られる。

●現代の最新情報・知識は主として日米欧などの先進諸国で、国際的背景を強くもって創出される機会が多い。各項目にできる限り世界共通語としての英語表記を添えたのは、そのためである(必要な場合は他の外国語も)。

●英語表記は解説執筆者自身が、国際的な場で、実際に現在使用されている表現・用語として選定たものを原則としている。

●『イミダス』の分野区分は、従来の伝統的分野の枠組みにとらわれず、時代の最新情報をストレートに反映できる区分をねらった。今後も状況の変化に連動して新しい区分を積極的に試みる方針である。


 さて、『イミダス』を『広辞苑』と比較してみると、『イミダス』には次のような特徴がある。

@『広辞苑』と同じく、印刷物の宿命として、容積・重量の物理的制約を免れない。重量は約2キロであり、これも『広辞苑』とほぼ同じである。日常の使用に耐える印刷物であることを前提とする限り、いずれも型としてはほぼ完成に近づいている感じである。

A毎年改訂しており、時代の変化に迅速に対応しようとの姿勢を明確にしている。

B本文に執筆者の生年・経歴・主要著書・論文が数行ほど書かれており、充分な量ではないが、執筆者がどんな人かが、読者に確認できるようになっている。つまり、各項目の責任の所在が、『広辞苑』より遙かに明確である。

C執筆者が前面に出ることに対応して、編集者の存在感が稀薄である。

D『広辞苑』の場合、岩波書店及びそれを支える学者群の持つ集団としての権威が内容の真実性の担保となっているのに対し、『イミダス』の場合は、集英社の持つブランド力は岩波書店より相当劣り、むしろ個々の学者・研究者の肩書きが権威の源であり、内容の真実性の担保となっている。


 『広辞苑』と『イミダス』は、その用途が異なるので、単純に優劣を比較する訳にはいかないが、小百科としての機能に関しては、『イミダス』の方向性が時代に適合していると思われる。




3.提案(基本的考え方)

 『広辞苑』と『イミダス』の相違点について簡単に述べてみたが、もちろん両者には共通点も多い。その共通点の中で、あまりに当たり前のこととして誰も問題にしていないのは、権威の所在は異なるとはいえ、両者とも一つの項目について、「客観的・中立的」立場からの一つの説明しかない、ということである。この点は『広辞苑』『イミダス』に限らず、世の中に存在する辞書・辞典全ての特徴なのである。

 私が疑問に思うのは、ひとつの項目につき、「客観的・中立的」な立場からのひとつの説明しかないことが、辞書・辞典の普遍的な原則、変えるべからざる前提なのか、ということである。

 我々が本格的に調べものをするときには、最初に簡単な辞典を見て、それでは全然足りない、ということでもっと専門的な辞典を見る、また雑誌や本を見る、といった具合に、いろいろな媒体から、いろいろな人の見解を探し出してくる。そしてその複数の見解を照らし合わせることによって、それぞれ独自の判断基準を有する読者が、自分にとってはこれが正しい考え方のように思える、という形で何とかまとめるのである。これは実際上、本当に手間のかかる仕事であって、この認識の過程には膨大な時間がかかるのである。

 そこで、私は、印刷物のように、データ量とそのデータを集積した媒体の重量・体積が比例するといった制約がなく、文字データに限れば、実際上無限の容量を有する電子媒体が登場した現在では、従来の辞典とは発想の異なる辞典を創り出すべきだと考える。

 それは、一つの項目について、複数の研究者が、それぞれ別個独立に自分の見解を述べ、内容はもちろん、用語や誤字・脱字の修正に至るまで、全て執筆者自身が責任を負い、編集者は全体のとりまとめを行うだけで、内容については一切容喙しないとのシステムのもとで作られる辞典である。

 利用者から見れば、例えば、ある歴史的な人物について知りたいと思った場合、その人名を検索すると、歴史学者・国文学者あるいは宗教学者など、また専攻が同じでも、基本的な立場や世代が異なる複数の執筆者が、それぞれ独自に書いた見解を参照することが可能となる辞典である。

 これは、本当に物事を深く調べる必要があって、いろいろ苦労しながら調査を進めている人が、現在、実際に行っている作業を、ひとつのCD−ROMなどの電子媒体だけで簡単に行えるようにするシステムである。




4.具体的運営システム
 
 以上に述べた新しい辞典のシステムを、時系列に従い、関係者の役割に即して、もう少し具体的に検討してみる。

@まず、出版社が、あるテーマに関する辞典をつくろう、そのためには、これこれこういう資格要件を満たす人を執筆者として募集しよう、と決める。そしていついつまでに、こういうフォーマットで書いた原稿を電子メールでくれ、といったスケジュールを組む。執筆の分量は、辞典の性質により自ずと常識的な線に決まるはずであり、無理に字数制限などしない。また印刷物と異なり、制限の必要もない。詳しく書きたい執筆者にはどんどん書かせる。

 執筆者は、別にその分野の権威である必要は全くない。一項目をたった一人が担当するならば、読者に誤解を与えてはならないから、執筆者は、その専門分野の全体を見渡し、学説の対立を踏まえた上で、公平で穏当な見解を述べられる力量と権威をもった人でなければならない。つまり、かなり年上の有名大学教授クラスである。

 しかし、複数の執筆者が自分の見解を自由に述べ、読者はいろいろな考え方の中から自分に必要なもの、自分に合ったものを選択すればよい、というあっさりした約束事を関係者みんなが了解すれば、執筆者は別に権威のある存在に限る必要はなく、地位はなくとも元気がある若手研究者をどんどん参加させればよい。

 また、現在の辞典類の執筆者からは、個性が強いウルサ型の研究者は排除されてしまうが、むしろそういう人にこそ参加してもらう。功なり名を遂げた有名大学教授の穏当な意見など、毒にも薬にもならない退屈な話のことも多く、そんなのよりは、たとえ異端的であっても、知的刺激を与えてくれる鋭い学者の方が読者にとってよっぽど役に立つからである。

 更に、執筆者は別に個人である必要もない。分野によっては、学者よりも企業に情報が集中していることはたくさんあるのであり、例えば、東京三菱銀行や野村証券などの有力金融機関が、それぞれに蓄積された知識・情報を集めた金融用語辞典を作れば、学者が作るのよりもよっぽど実務に役立つ立派な辞典がつくれるはずである。

 これを企業が共同で作業を行うような形態をとれば、メンツの問題があったりして、なかなかうまく行かないのであるが、そもそも共同作業や根回しもなく各社が勝手にやるのだ、というすっきりした仕組みであれば、競争原理が働いて、結果的に、共同作業で行うよりも遙かに豊かな情報・知識が集まるようになるはずである。

A原稿が集まったら、基本的に編集者が行うのは、相互の強力なリンクなどの調整作業のみである。執筆者は、内容はもちろん、用語や誤字・脱字の修正に至るまで、全て責任を負い、編集者は全体のとりまとめを行うだけで、内容については一切容喙しない。執筆者によって、用語が違うなどのことがあっても、無理に統一しない。ただ、検索するときに使用者に不便がないように工夫すれば充分である。当然のことながら、編集者その他の出版社側の人員は最低限に抑え、従来の辞書に較べて人件費を極端に圧縮する。

Bある程度のものができたら、ベータ版として提供し、利用者の意見を聞く。そして誤字やリンク漏れ、分かりにくいところなどのバグを修正する。編集者は苦情・意見の窓口になるだけで、修正の最終的な責任は全て執筆者が持つ。素人が見て誤字だと思っても、それが専門的知識の欠如によることだってあるからである。

C一定期間、最低でも1年毎にバージョンアップを行い、時代の変化に迅速に対応するとともに、新しい参加者を募るなどして、同種の記事を書いている執筆者の間で競争原理を働かせ、内容の不断の充実を図る。

D関係者間のやりとりは、最初から最後まで電子メディアを利用し、計画立案から執筆、編集、出版、アフターサービスまでの全過程を迅速に行う。また、例えば執筆者の一部が期限に間に合わなくても放っておくだけとし、一部の遅れを全体のスケジュールに影響させない。

E執筆者には自己の担当分野に関して全責任を負担させ、一応の完成後も、アフターサービスを行い、また、時代の変化に対応した修正など、よりよい商品となるように継続的に努力してもらう。その代わり、そうした責任と負担に対応した利益配当を継続的に行う。




5.まとめ
 
 従来のシステムによる辞典作りは、巨大組織により、全体として統一性・整合性が厳格に維持され、厳密に品質管理された精密機器を、工場で創り出すような仕事である。ここではシステマティックな思考に優れている官僚的体質の組織運営者が全体を強力に統括し、研究者はその商品の生産過程にのみ関与し、販売・アフターサービスには関わらない。

 全体としての統一性・整合性を重視するために品質管理工程に関わる人間が肥大化し、従って迅速な対応ができなくなる。執筆者は組織のために自分の考え方を殺さざるをえず、また報酬も固定額を得られるのみである。販売により生まれた利益は、この精密機器工場の運営主体であり、販売を全面的に支配する出版社が独占することになる。

 これに対し、私が考える新しい辞典の場合、生産工程は全くの家内工業、ないしそれ以下の職人レベルである。必要な道具はパソコン一台である。そして特定範囲の語彙の専門家が、CD−ROMなどの電子媒体に、いわば自作を出品するのである。

 それは例えばブランド商品の販売会社が『パルコ』のような専門店街に出店するのと同じである。そこには、服や靴、化粧品や宝飾品と同じく、同種の店を出店している人が大勢いて、顧客は、商品をそれぞれ見比べた上で、自分の気に入った商品を手に取るのである。

 ここにあるのは、厳密に管理された組織ではなく、単なる「場」である。組織の構成員ではなく、独立した個人が、参加資格をクリアーしたうえで、たまたまそこに参加しているだけである。誰も組織のために自分の主張を殺しはしない。出版社はパルコと同じく単なる「場」の運営者、建物管理会社であり、専門店街を維持するために最低限必要な約束事だけを定め、靴屋さんが少なければ靴屋さんを募集するような感じで調整的業務を行い、また宣伝など執筆者みんなの利益になる活動を行うだけである。

 パルコが各店の品揃えに口出ししないように、それぞれの商品の内容は、提供者(執筆者)が全責任を負い、用語の細かな相違や誤字・脱字などの欠陥を含めて、他の者は一切容喙しない。そして、執筆者が全ての責任を負うことに対応して、執筆者は、固定額ではなく、販売利益に応じた配当を受け取るべきである。これが優れた参加者を募って、全体の売り上げを伸ばすためのインセンティブになる訳である。

 現在の辞典、特に『広辞苑』のような、執筆責任者が明確でない辞典は、研究者をあたかも工場労働者の如き代替性のある存在として捉えている。それは研究者に対する侮辱である。研究者には、たとえ「公平性・中立性」などといった耳障りのよい名目であっても拘束を加えるべきではない。研究者に自由にその見解を発表させることが、選択の幅を広げ、読者にとっても最良の結果を生むのである。

 また、研究者はその社会的重要性に対応した報酬を受けるべきであり、それがインセンティブになって、より学問を発展させていくようなシステムを作り上げるべきである。『見解並立・利益配当型辞典』は、このようなシステムの一環として考えたものである。


※なお、ひとつの項目をひとりの学者のみが担当することが、読者の認識を誤らせる危険性を多分に有することについては、小沢開作についての東京女子大学教授松沢哲成氏の記述を具体例として、別途述べた。



後記

 私の記述について、『広辞苑』に対する評価が厳しすぎるのではないかという感想を抱かれた人もいると思うが、確かにそうした面がある。これは単なる私怨によるものである。
 本に関する金銭感覚がまともだった頃、私は神保町の岩波書店アネックスで、岩波書店が出している三浦周行博士の著作集を買おうと思って値段を聞いたら、5万円を超えていたため、暫くためらったあげく、あきらめたことがある。その時、いかにもインテリ風の小生意気な店員に鼻で笑われたので、それ以来、私は岩波書店に良い印象を持っていないのである。
 最近の岩波書店の経営陣は、『広辞苑』をCD−ROM化するときに、鳥の声が聞こえることを目玉にするなど、およそマルチメディアについての洞察を欠いた行動をとっており、ニワトリ並みの知恵しかないようであるが、それは先祖の遺産で食べている会社には普遍的に見られることであり、やむをえない。

  1998年2月23日(月)

 モスバーガー武蔵浦和店にて、『モスライスバーガーきんぴら』と『玄米餅のおしるこ』を食べながら記す。
鈴木小太郎

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