| (はじめに) 無茶苦茶なタイトルであるが、私はあくまで真面目である。 私は『とはずがたり』を研究しはじめてから、いろいろな辞書・辞典類を調べる機会が増えたのだが、私のように会社員としての仕事をもっていて、学生などに較べたら時間的余裕が少なく、必要な情報に迅速にアクセスしたいという切実な願望を抱いている人間にとって、現在の辞書・辞典類は非常に不便である。自分にとって有益な情報にアクセスするまでに手間と時間がかかってしょうがないのである。 しかし、ぶーたらぶーたら不平不満を言っていても仕方ないので、みんなが当たり前だと考えていることを再検討して、こんな辞典があったら便利だ、そのためにはこんなシステムが必要だ、と考えてみた。 1.現在の辞典の問題点(『広辞苑』の場合) まず、現在の辞典の問題点を整理したい。そのための素材として、岩波書店の『広辞苑』をとりあげてみる。『広辞苑』を素材とするのは、同書が権威ある岩波書店の金看板、誰しも一目置く辞典の王様であり、それだけに現在の辞典の問題点も鮮明に現れているからである。同書の第2版「後記」には以下のような記述がある。かなり長いが、興味深いところが多いので全文引用してみる。
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この極めて荘重な文体で記述された「後記」は、列挙された93名+70名=163名の錚々たる学者の名前とともに、岩波書店の圧倒的な権威を感じさせるものであるが、それにしても、辞書作りというのは随分大仰な仕事だった訳である。そして、この大仰な『広辞苑』には以下のような特徴がある。
ま、何だかんだいってもそれなりに便利だったし、昔は他にろくな辞典がなかったから、多くの人が『広辞苑』を使っていたのである。しかし、いろいろな情報源、様々な媒体を使える現代においては、『広辞苑』も、錚々たる学者をそろえた割には各項目の内容は貧弱すぎて、実際上「小百科事典」としての役割を果たすのは無理が多い。特に時代の変化への対応が遅すぎて、物事を詳しく調べたいと切実に願う人間にとって有益な情報を与えてくれる機能は殆ど期待できないのである。 2.新しいタイプの辞典の問題点(『イミダス』の場合) これに対し、広辞苑の有する「小百科事典」としての特色を前面に出し、しかも時代の変化に迅速に対応しようとする姿勢を鮮明にしている辞典類に、『現代用語の基礎知識』(自由国民社)、『知恵蔵』(朝日新聞社)、『イミダス』(集英社)があるが、これらは、『広辞苑』と比較してみると、いずれも権威臭は乏しく、『広辞苑』のような編集者の深い思い入れを感じさせるような記述は見あたらない。「後記」などそもそもなく、代わりに執筆者リストが載っているのみである。また、全体の説明も極めて乾いたタッチでなされており、例えば『イミダス』には、次のような機能的な説明がなされているだけである。
さて、『イミダス』を『広辞苑』と比較してみると、『イミダス』には次のような特徴がある。
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| 『広辞苑』と『イミダス』は、その用途が異なるので、単純に優劣を比較する訳にはいかないが、小百科としての機能に関しては、『イミダス』の方向性が時代に適合していると思われる。 3.提案(基本的考え方) 『広辞苑』と『イミダス』の相違点について簡単に述べてみたが、もちろん両者には共通点も多い。その共通点の中で、あまりに当たり前のこととして誰も問題にしていないのは、権威の所在は異なるとはいえ、両者とも一つの項目について、「客観的・中立的」立場からの一つの説明しかない、ということである。この点は『広辞苑』『イミダス』に限らず、世の中に存在する辞書・辞典全ての特徴なのである。 私が疑問に思うのは、ひとつの項目につき、「客観的・中立的」な立場からのひとつの説明しかないことが、辞書・辞典の普遍的な原則、変えるべからざる前提なのか、ということである。 我々が本格的に調べものをするときには、最初に簡単な辞典を見て、それでは全然足りない、ということでもっと専門的な辞典を見る、また雑誌や本を見る、といった具合に、いろいろな媒体から、いろいろな人の見解を探し出してくる。そしてその複数の見解を照らし合わせることによって、それぞれ独自の判断基準を有する読者が、自分にとってはこれが正しい考え方のように思える、という形で何とかまとめるのである。これは実際上、本当に手間のかかる仕事であって、この認識の過程には膨大な時間がかかるのである。 そこで、私は、印刷物のように、データ量とそのデータを集積した媒体の重量・体積が比例するといった制約がなく、文字データに限れば、実際上無限の容量を有する電子媒体が登場した現在では、従来の辞典とは発想の異なる辞典を創り出すべきだと考える。 それは、一つの項目について、複数の研究者が、それぞれ別個独立に自分の見解を述べ、内容はもちろん、用語や誤字・脱字の修正に至るまで、全て執筆者自身が責任を負い、編集者は全体のとりまとめを行うだけで、内容については一切容喙しないとのシステムのもとで作られる辞典である。 利用者から見れば、例えば、ある歴史的な人物について知りたいと思った場合、その人名を検索すると、歴史学者・国文学者あるいは宗教学者など、また専攻が同じでも、基本的な立場や世代が異なる複数の執筆者が、それぞれ独自に書いた見解を参照することが可能となる辞典である。 これは、本当に物事を深く調べる必要があって、いろいろ苦労しながら調査を進めている人が、現在、実際に行っている作業を、ひとつのCD−ROMなどの電子媒体だけで簡単に行えるようにするシステムである。 4.具体的運営システム 以上に述べた新しい辞典のシステムを、時系列に従い、関係者の役割に即して、もう少し具体的に検討してみる。 @まず、出版社が、あるテーマに関する辞典をつくろう、そのためには、これこれこういう資格要件を満たす人を執筆者として募集しよう、と決める。そしていついつまでに、こういうフォーマットで書いた原稿を電子メールでくれ、といったスケジュールを組む。執筆の分量は、辞典の性質により自ずと常識的な線に決まるはずであり、無理に字数制限などしない。また印刷物と異なり、制限の必要もない。詳しく書きたい執筆者にはどんどん書かせる。 執筆者は、別にその分野の権威である必要は全くない。一項目をたった一人が担当するならば、読者に誤解を与えてはならないから、執筆者は、その専門分野の全体を見渡し、学説の対立を踏まえた上で、公平で穏当な見解を述べられる力量と権威をもった人でなければならない。つまり、かなり年上の有名大学教授クラスである。 しかし、複数の執筆者が自分の見解を自由に述べ、読者はいろいろな考え方の中から自分に必要なもの、自分に合ったものを選択すればよい、というあっさりした約束事を関係者みんなが了解すれば、執筆者は別に権威のある存在に限る必要はなく、地位はなくとも元気がある若手研究者をどんどん参加させればよい。 また、現在の辞典類の執筆者からは、個性が強いウルサ型の研究者は排除されてしまうが、むしろそういう人にこそ参加してもらう。功なり名を遂げた有名大学教授の穏当な意見など、毒にも薬にもならない退屈な話のことも多く、そんなのよりは、たとえ異端的であっても、知的刺激を与えてくれる鋭い学者の方が読者にとってよっぽど役に立つからである。 更に、執筆者は別に個人である必要もない。分野によっては、学者よりも企業に情報が集中していることはたくさんあるのであり、例えば、東京三菱銀行や野村証券などの有力金融機関が、それぞれに蓄積された知識・情報を集めた金融用語辞典を作れば、学者が作るのよりもよっぽど実務に役立つ立派な辞典がつくれるはずである。 これを企業が共同で作業を行うような形態をとれば、メンツの問題があったりして、なかなかうまく行かないのであるが、そもそも共同作業や根回しもなく各社が勝手にやるのだ、というすっきりした仕組みであれば、競争原理が働いて、結果的に、共同作業で行うよりも遙かに豊かな情報・知識が集まるようになるはずである。 A原稿が集まったら、基本的に編集者が行うのは、相互の強力なリンクなどの調整作業のみである。執筆者は、内容はもちろん、用語や誤字・脱字の修正に至るまで、全て責任を負い、編集者は全体のとりまとめを行うだけで、内容については一切容喙しない。執筆者によって、用語が違うなどのことがあっても、無理に統一しない。ただ、検索するときに使用者に不便がないように工夫すれば充分である。当然のことながら、編集者その他の出版社側の人員は最低限に抑え、従来の辞書に較べて人件費を極端に圧縮する。 Bある程度のものができたら、ベータ版として提供し、利用者の意見を聞く。そして誤字やリンク漏れ、分かりにくいところなどのバグを修正する。編集者は苦情・意見の窓口になるだけで、修正の最終的な責任は全て執筆者が持つ。素人が見て誤字だと思っても、それが専門的知識の欠如によることだってあるからである。 C一定期間、最低でも1年毎にバージョンアップを行い、時代の変化に迅速に対応するとともに、新しい参加者を募るなどして、同種の記事を書いている執筆者の間で競争原理を働かせ、内容の不断の充実を図る。 D関係者間のやりとりは、最初から最後まで電子メディアを利用し、計画立案から執筆、編集、出版、アフターサービスまでの全過程を迅速に行う。また、例えば執筆者の一部が期限に間に合わなくても放っておくだけとし、一部の遅れを全体のスケジュールに影響させない。 E執筆者には自己の担当分野に関して全責任を負担させ、一応の完成後も、アフターサービスを行い、また、時代の変化に対応した修正など、よりよい商品となるように継続的に努力してもらう。その代わり、そうした責任と負担に対応した利益配当を継続的に行う。 5.まとめ 従来のシステムによる辞典作りは、巨大組織により、全体として統一性・整合性が厳格に維持され、厳密に品質管理された精密機器を、工場で創り出すような仕事である。ここではシステマティックな思考に優れている官僚的体質の組織運営者が全体を強力に統括し、研究者はその商品の生産過程にのみ関与し、販売・アフターサービスには関わらない。 全体としての統一性・整合性を重視するために品質管理工程に関わる人間が肥大化し、従って迅速な対応ができなくなる。執筆者は組織のために自分の考え方を殺さざるをえず、また報酬も固定額を得られるのみである。販売により生まれた利益は、この精密機器工場の運営主体であり、販売を全面的に支配する出版社が独占することになる。 これに対し、私が考える新しい辞典の場合、生産工程は全くの家内工業、ないしそれ以下の職人レベルである。必要な道具はパソコン一台である。そして特定範囲の語彙の専門家が、CD−ROMなどの電子媒体に、いわば自作を出品するのである。 それは例えばブランド商品の販売会社が『パルコ』のような専門店街に出店するのと同じである。そこには、服や靴、化粧品や宝飾品と同じく、同種の店を出店している人が大勢いて、顧客は、商品をそれぞれ見比べた上で、自分の気に入った商品を手に取るのである。 ここにあるのは、厳密に管理された組織ではなく、単なる「場」である。組織の構成員ではなく、独立した個人が、参加資格をクリアーしたうえで、たまたまそこに参加しているだけである。誰も組織のために自分の主張を殺しはしない。出版社はパルコと同じく単なる「場」の運営者、建物管理会社であり、専門店街を維持するために最低限必要な約束事だけを定め、靴屋さんが少なければ靴屋さんを募集するような感じで調整的業務を行い、また宣伝など執筆者みんなの利益になる活動を行うだけである。 パルコが各店の品揃えに口出ししないように、それぞれの商品の内容は、提供者(執筆者)が全責任を負い、用語の細かな相違や誤字・脱字などの欠陥を含めて、他の者は一切容喙しない。そして、執筆者が全ての責任を負うことに対応して、執筆者は、固定額ではなく、販売利益に応じた配当を受け取るべきである。これが優れた参加者を募って、全体の売り上げを伸ばすためのインセンティブになる訳である。 現在の辞典、特に『広辞苑』のような、執筆責任者が明確でない辞典は、研究者をあたかも工場労働者の如き代替性のある存在として捉えている。それは研究者に対する侮辱である。研究者には、たとえ「公平性・中立性」などといった耳障りのよい名目であっても拘束を加えるべきではない。研究者に自由にその見解を発表させることが、選択の幅を広げ、読者にとっても最良の結果を生むのである。 また、研究者はその社会的重要性に対応した報酬を受けるべきであり、それがインセンティブになって、より学問を発展させていくようなシステムを作り上げるべきである。『見解並立・利益配当型辞典』は、このようなシステムの一環として考えたものである。
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| 後記 私の記述について、『広辞苑』に対する評価が厳しすぎるのではないかという感想を抱かれた人もいると思うが、確かにそうした面がある。これは単なる私怨によるものである。 本に関する金銭感覚がまともだった頃、私は神保町の岩波書店アネックスで、岩波書店が出している三浦周行博士の著作集を買おうと思って値段を聞いたら、5万円を超えていたため、暫くためらったあげく、あきらめたことがある。その時、いかにもインテリ風の小生意気な店員に鼻で笑われたので、それ以来、私は岩波書店に良い印象を持っていないのである。 最近の岩波書店の経営陣は、『広辞苑』をCD−ROM化するときに、鳥の声が聞こえることを目玉にするなど、およそマルチメディアについての洞察を欠いた行動をとっており、ニワトリ並みの知恵しかないようであるが、それは先祖の遺産で食べている会社には普遍的に見られることであり、やむをえない。
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