小太郎メディア論−「新しい本」−



(不十分な内容であり、未完成ですが、とりあえずアップしてみました。
御意見・疑問・批判等がありましたら、メールにてお願いします。)


(はじめに)

 私が『とはずがたり』に興味をもって調べ始めた平成8年4月末から、現在までの約21か月間に、購入した本や雑誌は約300万円で、そのうち国文学・中世史関係が約200万円です。
 知りたいことが次々に出てくるし、図書館などでコピーしていると時間ばかりかかってしまうので、参考になる部分が少ない本でもどんどん買っていたのですが、それでもある程度まで進むと、本当に欲しい資料はなかなか手に入りません。特に学術雑誌に掲載された後、単行本となっていない論文の入手については大変苦労しています。
 私の場合、近所に埼玉県立浦和図書館があるので、(というか引っ越す時に、会社まで電車一本で行けて、それなりの図書館のある場所に決めたので)、土日に、この図書館の雑誌コーナーに行ったりしますが、質量とも貧弱で、読みたい学術雑誌はほんの少ししかありません。
 要するに私は極めて劣悪な知的環境に置かれている訳です。情報プロレタリアートといってもいいかもしれません。この情報プロレタリアートの私が、知りたい情報を入手するために演じた幾つかの悲喜劇を経て、こんなメディアがあったら便利だと思って考えたのが、以下の提案です。



1.情報プロレタリアートは大変だ。

 具体例から始めたい。素材は何でもいいのであるが、最近、私が読んだ坂本多加雄氏の『山路愛山』(吉川弘文館.人物叢書)を例にとってみる。同書95ページ以下には次のような記述がある。

 愛山の名が、わが国の文学史上において記憶されているのは、主として、近代文学の萌芽期において「純文学」の理念を掲げながらも倒れざるを得なかった北村透谷(1868〜1894)との論争上の敵役としてであった。このことから、愛山には、終始、「反文学的」なるもの、「非文学的」なるものとしての悪名がつきまとっていたといってよい。しかしながら、こうした愛山のイメージについては、その後、さまざまな見地からの修正の動きが出ており、いずれ、透谷との関連でも、妥当な形で愛山像が整えられていくものと見られる。

 本書では、すでに、愛山において、「文章」を記すということが如何なる意味を有していたかについておよそのところを明らかにしてきたので、ここでは、その整理と補足を行い、また、透谷と愛山との精神的資質の相違といったことを中心として若干の考察をしたいと考えるが、その前に愛山と透谷との個人的交渉について、少し触れておこう。

 愛山が透谷と知り合ったのは、桜井成明という人物を介してであった。愛山は、桜井とはメソジスト教会を通して面識を持った。明治二十二年、静岡から上京した際、愛山は銀座で、たまたま、透谷の『楚囚之詩』を見つけて購読、「其言の鬱蒼たるを奇」としたという。その後、袋井から再び上京した折り、本郷の桜井の宅で、透谷を紹介されて交際がはじまったのである。とくに両者が論争した頃は、ともに麻布区霞町に住んで始終往来していた。愛山が、夏の日中、「行儀悪」く裸体で眠っていると、透谷が黙って上がりこんでいるといったこともあった。ために、愛山は、「恐縮し昼寝に些(すこし)く行儀善くするやうに」なった。

 ふたりは親しく交際しながら、しばしば激しく議論した。透谷が愛山を「足下は唯物論者なり」と罵ると、愛山は透谷に「卿は空想家なり」といい返した。もっとも、こうした議論は、愛山が、例の大声で、「直情径行」、熱して語るのに対して、透谷は、穏和で、静かに「少さき声」で受け答えをするといった風であった。

 ある時、散歩の最中に議論がはじまり、愛山が興奮して、持っていた杖を意識せずに振回しながら話をするので、透谷は、「それを危ぶながりてクスクス笑ひながら路傍へ避け去」ったことがあった。「透谷は毫も予の議論を恐れざりしかども、予の杖を恐れたるが如し」。ふたりの姿が、その性格の対照を鮮やかに示しながら彷彿としてくるようである。

 愛山は言う。「予は文壇に於て最も多く君に攻撃せられたり、私交に於て最も多く君に親しまれたり」(以上「夷隅河畔より」、「北村透谷君」、「透谷全集を読む」愛山集)と。

 さて、それでは、この両者における「文学論争」とは何であったのか。周知のように、この「論争」は、愛山が、頼山陽を論じた文章で、その冒頭に次のように記したことが、その契機となった。

文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶ほ英雄剣を揮ふが如し。共に空を撃つが為めに非ず為す所あるが為也。万の弾丸、千の剣芒、若し世を益せずんば空の空なるのみ。華麗の辞、美妙の文、幾百巻を遺して天地間に止るも、人生に相渉らずんば是も亦空の空なるのみ。文章は事業なるが故に崇むべし(「頼襄を論ず」明治二十六年、愛山集)。

 この一節に刺激された透谷が、これを批判する「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という文章を記したことから、「論争」が開始されたのである。透谷は、愛山が、「文学」を「事業」と見ている点に、「文学」についての「ユチリチー論」を見出した。すなわち、透谷は、愛山が、「文学」の価値をもっぱらその現実的効用において測る立場に立っているのだと看倣したのである。これ以後、この透谷の愛山理解が、当の透谷における以上に一面化された形で継承され、愛山は、「小ぎたない実証主義をかつぎまわった一個の俗学者」(中野重治)とか、「卑俗な実利主義者」(小田切秀雄)といった評価を受けるに至ったのである。


 ここで、ふと北村透谷が何年生まれで、山路愛山と何歳違いで、何歳の時に二人の間の論争が起きたのか、ということが知りたくなったとする。で、ちょっとした日本文学辞典などを引いてみる。しかし、内容がものたりないことが多い。すると結局この程度のことでも図書館に行ったりする羽目になり、結構時間がかかってしまう。

 また、山路愛山と北村透谷とのやりとりが面白いので、「愛山集」の『透谷全集を読む』を実際に確認してみたいと思ったとする。この坂本多加雄氏の本では、288ページを見れば「愛山集」というのは岡利郎編『民友社思想文学叢書第二第三巻 山路愛山集』(三一書房)のことだと分かるのであるが、ちょっと調べてみると、この本は昭和58・60年に出されていて、第二巻が9800円、第三巻が12000円もするから、おそらく絶版になっているものと思われる。

 仮に絶版でないとしても、極めて専門的な本であるから、よほど大きな書店に行かなければ入手できないはずであり、古書店でも、専門的な品揃えをしている店でなければ、まず無理である。また、値段が高いので、買うのはあきらめて借りようとしても、それなりの規模の図書館に行かなければ蔵書に含まれていないはずである。買うにしても、借りるにしても、移動時間を含めれば半日くらいつぶれるのが普通であり、それでも空振りに終わる可能性は相当高い。

 このように、一人の知的好奇心のある人間が、ある本に触発されて、より知識を深めたいと思った場合に、そう思ってから実際に必要な情報に到達するまでは、とんでもない時間がかかる。費用や手間がかかりすぎて、あきらめなければならないことも多い。資格や地理的条件などで、大学図書館などの整備された図書館を利用できない人は実際上あきらめざるをえない。

 また、それなりに恵まれた環境にいる人でも、資料を探す作業自体は全然知的な才能を必要としない単純労働であり、そのために思考が中断されて、再開まで大切な時間を無駄にしてしまうことがあるはずである。研究に集中して、頭が猛烈に動いているときに、こうしたつまらない作業に時間をとられてしまうのは、本当に腹立たしいことで、時間の質を考えれば、決して軽視できない問題である。



2. 提案−こんなメディアがあれば便利だ。

 そこで、私は、こんなメディアがあれば便利だ、と思うのである。それはCD−ROMなどの電子媒体で、次のような三つの部分から構成された「新しい本」である。まず第1が従来の本の部分であり、ここが情報の核となる。第2は従来の本で引用されていた論文等、核の部分に直接関連する情報である。従来の本では、その情報の所在(何という本、何という雑誌の何号の何ページにあるという情報)しか提供されていなかったが、その情報(論文)自体を掲載し、瞬時に参照することを可能にするのである。そして第3は、基礎的なデータべースから抽出した、第1の核の部分および第2の直接関連情報に関係する間接的な情報である。

 先ほどの坂本多加雄氏の本の例だと、第1の核となる部分が『山路愛山』であり、第2の部分が、岡利郎編『民友社思想文学叢書第二第三巻 山路愛山集』や中野重治『芸術に関する走書き的覚書き』(岩波文庫.昭和53年)、小田切秀雄『増補北村透谷論』(八木書店.昭和54年)など、「参考文献」とされている情報である。そして、第3の部分が、例えば「北村透谷」や「桜井成昭」などの人名、あるいは「メソジスト教会」などについての辞書・辞典の説明を引用した情報である。もちろん、この第3の部分は、この本のためにつくるのではなく、既に存在しているデータベースから、必要な分だけ利用するのである。

 そしてこれらの情報を相互に強力にリンクさせ、上記の例で言えば、「頼襄を論ず」をクリックすると、愛山集の該当論文が全文参照でき、「卑俗な実利主義者」という部分をクリックすれば、小田切秀雄氏の該当論文がズラズラと出てきて、また、「メソジスト教会」をクリックすれば、キリスト教の用語辞典からの情報が直ちに出てくる、といった具合にするのである。

 つまり、従来の本を情報の核とし、その核の周辺に、引用論文・引用資料などの直接に関連する情報が集め、さらにその周辺を、さまざまなデータベースからの情報が取り巻き、全体として、一つのテーマに関する膨大な、相互に緊密にリンクされた情報が密集した巨大な知的世界をたった一枚のCD−ROMに凝縮するのである。

 ここで、ひとつのポイントとなるのは参考文献を引用する際の対価であるが、勿論きちんと許諾に対する対価を支払うものの、その価格は、1回あたりではさほど高価には設定しない。優れた内容としていろいろな「新しい本」に引用されるたびに対価を回収するものとし、結果的に優れた内容の著作については、充分な報酬になるような水準の価格とするのである。

 ある情報(論文)を、たった一つの媒体に収蔵したままにしておくのではなく、あちこちの媒体に存在するようにし、知的才能・知的努力に対する成果を、一回限りで単体で回収するのではなく、長期にわたって複数の媒体ごとに少しずつ少しずつ回収して行く、広く薄く回収するという発想である。

 関連情報に強力なリンクの網の目を張り巡らし、ひとつの情報から他の情報へのアクセス時間を極小化し、読者を資料調査のわずらわしさから解放して、思考に集中できるようにする。全体としての情報量は膨大であり、全部が読まれるであろうことを全く想定していない。著者が設定したルートを最初から最後まで直線的にたどるという、従来の本の読み方とは全く異なり、それぞれ個性をもった読者が、自分の関心に従ってルートを選択し、より詳細に調査し、疑問を究明し、着想を発展させ、新たな知的生産をすることを可能にする。つまり受動的に読むだけではなく、積極的に思考を支援するためのツールとするのである。

 従来の本の個性は核の部分だけであるが、「新しい本」の個性は、その核の部分をとりまく情報の宇宙全体によって形成される。知の世界は、多くの情報の集積・相互の関連づけによって形成されているのであり、その構造をもっとも素直に反映した小宇宙を、数限りなくつくるのである。



3.現状の問題点
 
 以上は、主として読者の側から、こんなメディアがあれば便利だと論じたのであるが、少し視点を変えて、著作者側、出版社側における問題点を簡単に整理し、従来の本だけでは行き詰まりが明らかであること、そして新たな情報媒体が必要となっていることを検討したい。


@著者側の事情について

 ひとりの学者が論文を書くためには、才能・資質に加えて大変な努力と費用が必要である。特に、学問的な基盤を構築するまでの長期にわたる準備期間中の学費・生活費負担は相当なものであり、資質が優れていても、そうした負担に耐えられずに別の道に進む人も多い。

 そして、学者が、執筆活動によって、その才能や努力に見合う対価を得ているかというと、そういうことは全くない。優れた論文を書いて学会誌に掲載しても、もらえるのは雀の涙のような謝礼であり、知的な才能・努力に対する正当な対価とはほど遠い。それは「報酬」というようなレベルではなく、「金一封」ないし「見舞金」というのがふさわしい金額である。また、辞書・辞典類なども、執筆の時間と手間ばかりかかる割には、その報酬は学生のアルバイトにすら劣るレベルである。

 いくつかの論文をまとめて本にしようと思っても、それが商品として売れるか否かが問題となり、専門書の場合、実際上、出版は相当困難である。仮に実力と運のおかげで出版に漕ぎ着けたとしても、現在の書籍の販売システムでは、極めて短期間に書店の棚から消えてしまう。しかも学術的な本の販売数は極めて限定され、価格も高くなる。従って買いたくても買えない、コピーで済ませようという人が大勢出てくることにもなる。ちゃんと現実の需要があって、本来だったら著者が印税を回収できるはずの分まで売り上げにつながらず、著者が受け取るべき報酬を、コピー業者が簒奪することになるのである。悪循環である。

 それでも本になればマシな方であって、重要な内容でありながら、本になっていない論文は膨大な量になっている。重要な知的財産が利用されず、図書館のカビ臭い書庫で、ごく稀に訪れる訪問者を待ち続けているのである。



Aデータベース作成者(出版社)の事情

 データベースの構築には大変な手間と時間がかかる。それを一体として売ろうとすれば当然価格も高くなる。例えば吉川弘文館の『国史大辞典』は1冊12、000円〜16000円、全17巻セットでは26万円(税別)もするのである。執筆者のみならず、編集者、出版社が注ぐ努力は大変なものであり、非常に学問的価値ある仕事であるが、しかしこの値段でいったい誰が買うだろうか。公共図書館を除けば、個人的に買おうとまで思う人は極めて少数に限られてしまう。専門書と同じく、最初から売れないことが分かっているから値段は高くなる。高いから売れない。これまた悪循環である。

 これは読者にとっても不幸なのであって、例えば自分の住んでいる地方、あるいは明治維新や戦国時代などの特定の時代などについて強い関心があって、その特定範囲の分なら、対価を払っても欲しい、と思ったとしても、出版社が予定していない分売は不可能であり、結局自分にとって必要ではない情報も、一体として買わざるをえないのである。これは抱き合わせ販売である。


B要するに

 結局、現状では、読者側、執筆者側、出版社側のいろいろな事情がからんで、膨大な知的財産がアクセス不能、ないし極めて困難な状況に置かれている。一方で情報を売りたい人がいて、他方でそれを買いたい人がいるのに、その間で取引が成立していない。そのため知的生産に携わる人に、その社会的重要性に応じた報酬が支払われていないのである。

 煎じ詰めれば、従来の本に重量と体積という物理的な、絶対的な障害があったがために、情報流通が阻害され、膨大な知的資源がムダになっていたのである。




4. 優れていると思われる点。

 以上のような現状の問題点に照らしてみると、「新しい本」には、以下のような優れた点があると思われる。

@ 技術的な難点がひとつもない。

 CD−ROMができた時点で、我々は文字情報に関しては既に無限を手に入れているのである。それにもかかわらず、今発売されているデジタル書籍は、基本的には従来の本の内容を移植して、ただ検索を便利にした程度のことしかやっていない。もっと根本的な発想を変えるべきである。従来の本と異なり、物理的な制約は存在していないのであって、もはやひとつの情報をひとつの媒体に閉じこめておく理由は全くない。数多くの媒体にあまねく存在させるべきであり、それは情報のデジタル化・複製技術の発達により、極めて容易なのである。


A 膨大な情報を安い価格で提供できる。

 デジタル情報の場合、最初の作成時に多少の手間がかかるものの、いったんデジタル化してしまえば、後は重くもなく嵩張りもしない無形の情報として扱えるので、管理が極めて楽である。有体物で複製しようとする場合には、制作費・倉庫代・運搬費など多種多様な費用、そして何よりそれらに関わる多額の人件費がかかるが、電子メディアでの保管・複製は極めて簡単であり、従って複製物を安く提供できるはずである。
 
 価格が安ければ、当然需要が増えるのである。現在のCD−ROMは相当高価であるが、これは画像がどうの動画がどうの音声がどうのとやっているから高くなるのであって、文字データをベースにしていれば、極めて安く作ることが可能である。


B 学者にその才能・努力に応じた適切な報酬を与えることができる。

 学術雑誌の掲載料は、優れた論文でも、それほどでもない論文でも同じである。もちろん掲載時点では区別のしようがないから仕方ないのであるが、これではインセンティブが働かない。学者は金儲けのために論文を書いている訳ではないが、そうは言っても、学問には金がかかる。資料代、通信費、研究旅行費用など、自由に使える金があった方がいいに決まっているのである。

 優れた論文を書いた人には、その論文自体で、適切な対価を取得できるようなシステムが構築できれば、よりよい論文を書くためのインセンティブがひとつ増えることになって、インセンティブが全く働かないことよりはずっと望ましいのである。

 ある論文が優れた内容か否かを判断する客観的な尺度として最も公正なのは、おそらくその引用回数である。優れた論文であればあるほど、他の学者を刺激して、多くの学者の著書・論文で引用されることになるはずである。

 「新しい本」の場合には、その引用を許諾する度に少しずつ対価を入手する形とすることが可能である。1回あたりの許諾の対価は少額でも、多くの学者に刺激を与えるような優れた論文を書いて、何度も引用されれば、相当の利益が得られるようにすべきである。

 一時に多額の出費が必要となったら、どうしたって躊躇してしまうはずである。数千円、数万円を財布から出すときは、誰だって何度も考えてしまうのが当然なのに、現在はそうした金集めを行おうとしているのである。発想を変えるべきである。消費税と同じように、殆ど気にならない程度の金額を少しずつ回収するのが金集めのコツである。また、無断複製を防ぐもっとも良い方法は、正当な使用許諾を受けた純正商品を安価に提供することなのである。


Cデータベース作成者に正当な報酬を与えることができる。

 データベースは、情報の集積・編集に膨大な手間と費用がかかる。そして従来は重くて嵩張る本の形で対価を回収せざるをえなかったので高価なものになってしまう。有体物である従来の本の場合は、ここにどうしても越えられないネックがあり、高価なので売れない、売れないから高価になってしまうという悪循環が生じたのである。

 従来はデータを本の形で一括して売るしかなかったのであるが、デジタル化が可能となった以上は、分売すべきである。せこく分売しようとすると管理が大変なので、特定の分野ごとにパックにしておいて、どかんと安く提供すべきである。

 もともと個別のデータはそれ自体が意味を持つものではなく、あくまでより統合化された知識のための手段であるから、データのみを集めておくこと自体にはそれほど意味がない。データはデータだけで孤立させるのではなく、より統合化された知識にリンクさせて、その本来の手段たる役目にふさわしい場所に置いておくべきである。

 そしてデータベース作成者は一種の素材産業・基盤産業となること、いわば「知的産業のコメ」の供給者たることを志向すべきである。あちこちに安く大量に素材を提供することによって、広く薄く対価を回収すべきである。


D著作者の心理的抵抗を少なくできる。
 
 現時点でも、書籍の内容をデジタル化することには、技術的制約はもちろん、法律的制約もまったくない。実際にも、小説をインターネットで販売するようなことが行われている。しかし、その数は無視できるほど少数である。

 なぜ少数にとどまるかと言えば、その最大の理由は、著作者が自分の権利を守ることができるか極めて不安で、心理的障害が大きいからである。まったくの無形の状態で流通させたら、どこにどんな形で流れるか分からない。本なら数千円で売れるものが、勝手に複製されてしまう可能性が大きければ、誰もそんな形で出版しようとはしない。

 今まで便宜上無形の形で流通させるという表現を使ってきたが、完全に無形の形で流通させることは無理が多い。無限の情報を有しながらも、CD−ROMなどの形で、文字通り薄皮一枚で有体物との間に接点を残しておくのが実際的である。そうすれば、違法な複製を防ぐことが(完全ではないが)より確実に可能となり、また流通状態を物理的に確認できて、著作者が安心できるからである。


E 一定レベル以上の品質が保証された、相互に関連する情報を密集させること自体、新しい知的収穫をもたらす可能性を生む。

 ひとりひとりの読者にとって、思いがけない情報とのリンクが、新しい知的刺激となり、豊かな知的収穫を生む可能性がある。この点、例えばインターネットでは確かに膨大な情報が存在するのであるが、本当に欲しい情報にアクセスするまでに時間がかかりすぎ、また、情報の品質が保証されていない。従ってどんなに情報量が膨大であっても、実際上、そうした機能を期待できない。

 専門的訓練を受けた編集者が、関連情報を強力にリンクさせておいて、関連情報へのアクセスの時間を極限まで短縮しておけば、より新しい知的収穫を生む可能性を増大させる。。
 

F 潜在的な需要を開拓できる。

 知りたいと思っても、手間や費用がかかるのであきらめていることはたくさんある。そこで、膨大な情報を密集させて、アクセスを容易にすれば、それだけで、より好奇心を刺激することができる。穴があれば覗いて見たくなるのが人情であり、クリックできる場所が多ければ多いほど、読者の好奇心を次から次へと刺激して、新たな知的需要を生み出すことが可能となる。


G 既に絶版となっている優れた本を再生することができる。
 
 ある程度の期間を過ぎれば、従来の本の形では在庫の維持は不可能となるのが通常であり、絶版はそれはやむを得ない。しかし、重要な本が、そのまま消えてしまうのは本当にもったいない。
 発売されて一定期間たち、単体では売れない、いわば主役として客を呼べない本であっても、脇役として登場してもらって、脇役にふさわしい額の報酬を支払うべきである。



5. その他

@著作者が複製を許諾するにあたって、文字のフォントをどうするか、どういうレイアウトにするか、など内容以外の要素について細かい指示をすることは、現時点でも充分可能である。もちろん数百年の伝統のある書籍ほどではないが、例えばボイジャー社のエキスパンドブックなどを使えば、相当なレベルの電子出版物ができるのであり、電子出版物だからといって、著者が不快な思いをすることは殆どない。


A従来の本との関係。
(棲み分けを図る。)
以下、準備中。



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