更新14.3/1


三角洋一 『岩波セミナーブックス古典購読シリーズ とはずがたり』
(岩波書店.1992年.p3以下)



三角洋一氏の略歴(上掲書より)
1948年生まれ。東京大学文学部卒業。現在、東京大学教養学部教授。中古・中世文学専攻。
著書に『堤中納言物語全注釈』『蜻蛉日記・更級日記・和泉式部日記』など。新日本古典文学大系第50巻『たまきはる・とはずがたり』を校注。



三角洋一氏の見解 私の考え方

1 『とはずがたり』の概略

 『とはずがたり』という作品は、作者のきわめて波潤に富んだ人生体験、恋愛体験を述べた日記文学ですから、ある部分をポッと取り出して鑑賞するというのも、なかなかむずかしいと思いますので、資料1として、作品のごく要点を年表風にまとめてみました。味もそっけもないものですが、ひととおり読んで、そのあとで講読に入りたいと思います。

〈資料1〉「とはずがたり」略年表
文永八年(一二七一) 14歳 後深草院の後宮となる(四歳より御所で育つ)。
  九年 15歳 父を失う。雪の曙と契りをもつ。
  十年           16歳 院の皇子を生む。
  十一年 17歳 雪の曙の子を生む。皇子夭折、出家を思う。
〔巻一〕
建治元年(一二七五)     18歳 粥杖事件。亀山院に知られる。有明の月と逢う。
  三年 20歳 両院の遊宴に奉仕。女楽事件。近衛の大殿と契る。
〔巻二〕
弘安四年(一二八一)   24歳 有明の月と復交、懐妊。両院の大宮院見舞に奉仕。有明の月との第一子を生む。有明の月、病死。 
  五年 25歳 里居がち。亀山院との噂。有明の月の第二子を生む。
  六年 26歳 東二条院の命により、御所を退出。
  八年 28歳 北山准后九十賀に奉仕。
〔巻三〕
正応元年(一二八八) 31歳  (永福門院の伏見帝への入内に奉仕。『増鏡』)
  二年  32歳 すでに出家。東国旅行(鎌倉、川口)。
  三年  33歳 同(善光寺、浅草寺)、帰京。奈良旅行。
  四年        34歳 石清水で後深草院と再会。熱田、伊勢旅行。
永仁元年(一二九三) 36歳 伏見に後深草院を訪問。数年後、二見が浦に旅行。
〔巻四〕
乾元元年(一三〇二) 45歳 西国旅行(厳島、白峰、備後和知)。翌年、帰京。
嘉元二年(一三〇四) 47歳 東二条院崩御。後深草院崩御、葬列を裸足で追う。父の三十三回忌。和歌に精進する。
  三年 48歳 人丸影供を営む。熊野旅行。院の一周忌。           
  四年 49歳 石清水で遊義門院の知遇を得る。院の三回忌。
〔巻五〕


 作者は文永八年(一二七一)十四歳の年に、後深草院の寵愛(ちょうあい)を受けることになりました。作者はじつは、すでに四歳から院のもとに上がっています。童殿上(わらわてんじょう)の女性版で、女(め)の童(わらわ)でいいのでしょうか、そういうかたちでお仕えしていましたが、十四歳になって成人して、いよいよ後深草院の寵幸を得ることになったのです。その翌年、文永九年に作者は父を失ってしまいます。母は、彼女の二歳の年に亡くなっていまして、その意味では現代風に申しますと、結婚してすぐ親を亡くし、世に出ていきなり後ろ楯を失ったわけです。

後深草院(1243〜1304.62歳)についてはこちら(『歴代天皇紀』)。
 父を亡くした同じ年、幼馴染みで、昔から心を通わせていた男性というふうに考えてよいかと思いますが、雪の曙という優雅な愛称−お互いないし限られた人々のあいだでだけ通じる雅称ですね−、その雪の曙という男性と契りを結んでしまいます。翌文永十年に、後深草院の皇子を生みたてまつるのですが、皇子は翌年、数え年わずか二歳で亡くなります。

学者たちは「雪の曙」を西園寺実兼(1249〜1322.74歳)としている。実兼についてはこちら(橋本義彦氏『書の日本史』)。
 文永十一年(一二七四)、後深草院にはいつわって、雪の曙とのあいだに女児を生みますが、これはすぐ雪の曙が引き取って、自分の妻に育てさせることになります。やがて皇子があえなく亡くなったという知らせを聞いて、作者はひそかに出家したいと願うようになりました。ここまでが巻一の内容です。

女児を生む場面の原文はこちら。1274年は元寇(文永の役)のあった年である。学者たちは関東申次という重責を負っていた「雪の曙」こと西園寺実兼が元寇直前の時期に多大の時間を割いて二条の出産を手伝っていたことを歴史的事実と考えているのである。
 巻二に入って、文永十二年(建冶元。一二七五)作者十八歳の正月、粥杖(かゆづえ)事件という、おもしろくもまた、作者の後宮における立場をはっきり思い知らされる事件を、作者みずから巻き起こしてしまいます。この年、後深草院の皇弟亀山院から好意を示されるようになります。さらに御室(おむろ)と申しまして、仁和寺(にんなじ)の門跡で、御修法(みずほう)の阿闍梨(あじゃり)であった有明の月−これも雅称ですね−、この有明の月という高僧からも好意を示され、逢って契りをもってしまいます。

粥杖事件の原文はこちら。この粥杖事件の描写は極めてきびきびした語り口で、場面が次々に意外な方向に展開して行き、とても面白い。この部分のコメディとしてのレベルの高さは驚異的である。

後深草院の同母弟亀山院(1249〜1305.57歳)についてはこちら(『歴代天皇紀』)。亀山院は後深草院より6歳年下で、西園寺実兼と同年の生まれである。
 一年跳んで、建治三年、二十歳の年にあたりますが、作者は後深草院と亀山院の遊宴に奉仕して、そこで、またまた女楽(おんながく)事件という大騒動を引き起こしてしまいます。巻二の最後のところでは、近衛(このえ)の大殿(おおいとの)という男性と契りをもたされてしまいます。これは後深草院が、作者の後見人に大殿を指名して、交換条件として男女の契りを結ばせたのだろうといわれております。

「女楽事件」の原文はこちら。源氏物語の「女楽」という場面に見立てて楽器の演奏をしようとしたところ、二条の祖父の四条隆親が自分の晩年の子どもをえこひいきしたので、怒った二条が御所を飛び出し、雲隠れしてしまったという事件である。二条が非常に勝ち気な女性であったことを如実に示している。
 このように作者は後宮にあって、後深草院の寵愛を受けながら、女房のかたちで院のおそばに仕えているうちに、いろいろな男性から注目され、好意を示され、さらには契りをもってしまうというようなことが度重なっていきます。愛欲の渦に巻き込まれ、翻弄されつつ悩み苦しみ抜いたこの体験を、のちに、わが人生の意義を考え、振り返って自伝にまとめあげようとした時、作者はどのような視点から、どのような位置づけを与えようとしたのでしょうか。『とはずがたり』を理解し、評価していくうえで重要なところであろうと思います。

 巻三に入って、ここですこし跳びますが、弘安四年(一二八一)作者二十四歳の年というlことにしておきます。作品の内部にそれほどひどい矛盾はなく、巻二から巻三へと年次の空白もなくつづいているのですが、史実と重ね合わせて理解しようとすると、年時が噛み合わなくなってしまうのです。さて作者は、再び有明の月と契りをもつにいたって、ついに有明の子を懐妊し、やがて男児を生みます。奇妙なことに、後深草院は有明の愛欲の念を知ると、これを許すだけでなく、作者が有明の子を身籠(みごも)るのを待って、みずから乗り出して引き取り、院の皇子として後宮の女性の一人に育てさせるのです。ところが、有明は流行病にかかって、あっけなく亡くなります。

常識がある人間なら「史実と重ね合わせて理解する」との基本的立場に問題があって、『とはずがたり』は事実の記録ではなく、自伝風の小説ではないか、と疑いを抱くべきところだと思うが、三角教授をはじめとする大多数の国文学者は事実との整合性にあくまでこだわっている。
「有明の月」については後深草院の4歳下の異母弟である性助法親王(1247〜82.36歳.母は太政大臣藤原公房女)と考えるのが通説。これに対して、もともと美学者であり、国文学会にとっては異端的存在の宮内三二郎氏が開田准后法助(1227〜84.58歳.父は関白九条道家で母は西園寺公経女)説を唱えている。
 翌弘安五年には、作者は里居がちとなりますが、折しも亀山院との仲が世の噂となって宮仕えもむずかしい状況になり、おまけに有明とのあいだの第二子を懐妊していたことが分かり、生んでしばらくはわが手で育てます。弘安六年、二十六歳の年に、後深草院の中宮であった東二条院(とうにじょういん)の命令によって、作者は宮仕えを退かされます。

第二子誕生の場面の原文はこちら。この妊娠の事情は極めて奇妙である。二条と「有明の月」が最後に関係を持ったのが第一子出産の7日後であったと書かれているが、「母胎の回復していないこの時期に妊娠することは医学的にあり得ないことは証明されている」(二松学舎大学教授松本寧至『中世宮廷女性の日記』中公新書)。学者たちは「作者二条のケアレスミスか、構想上の誤りに相違ない」(松本寧至)だとか、事実を朧化したのだ、などと言ってあまり気にしないのであるが、二人まで子を産んだ相手の死や我が子の誕生の事情についてケアレスミスをするのは異常としか思えない。まして「構想上の誤り」とまで言うのだったら、それは基本的に『とはずがたり』を事実の記録と考える立場と整合性がとれるのか否かを疑うべきだと思うが、多くの学者たちはあまりこうした疑問を抱かない。
 その翌々年の弘安八年、作者の母方の祖父の姉にあたる北山准后(じゅごう)の九十歳の祝賀があり、作者はこの朝家あげての晴れの儀式に出仕して、ここで巻三は終わります。次田香澄先生の表現を一部お借りすると、九十の賀の席には、作者が後深草院にお仕えしているあいだに知り合ったゆかりある人物が勢揃いしている観があって、彼女自身は臨時の出仕でしたが、その宮仕え生活をしのばせる華やかなフィナーレとなっております。以上の前半三巻が前編で、後宮生活編とか愛欲編とか呼ばれているようです。


 それから三年後の正応元年(一二八八)作者三十一歳の年、西園寺実兼(さいおんじさねかね)の娘※子が伏見天皇のもとに女御として入内(じゅだい)し、のちに永福門院という女院号を賜るのですが、その入内の儀に、作者は三条という召し名で奉仕していることが、歴史物語の『増鏡』の「さしぐし」の記事によって知られます。ですから、作者は三十一歳の六月二日までは、まだ出家していなかったわけです。

北山准后九十賀の場面の原文はこちら
※金へんに「章」

後深草院二条が「三条」という名で『増鏡』に登場する場面はこちら
 ところがその翌年、正応二年の二月から『とはずがたり』の巻四が書き始められていて、そこではもう作者は尼姿となっており、鎌倉のほうに出家修行の旅に出発しています。作者の出家の時期は正応元年六月以降、翌二年二月以前の約半年間に限られるわけです。正応元年八月三日が父の十七回忌の命日にあたっています。十七回忌というと、三十三回忌までのちょうど中間点になりますが、はたしてこのころ、七回忌や十三回忌などより特別視されていたかどうか、よく分からなくて自信ありませんが、あるいは作者は父の命日の折に、父の遺戒の言葉を思い起こして、出家に踏み切ったのかもしれないと、そう想像をめぐらしております。後半の巻四、巻五が後編で、紀行編とか修行編とか呼ばれています。

 作者はたいへん健康に恵まれていて、三十二歳の年に東海道を下って鎌倉に入り、じつは鎌倉で病臥するのですが、年を越してから信濃の善光寺まで参詣の旅をし、八月十五夜には武蔵の国に戻り、浅草の観音堂に詣でます。鎌倉では、親王将軍の交替させられるさまや御家人(ごけにん)の振舞いを見聞して、批判的な感想を書きとめていました。和歌や続歌(つぎうた)をたしなむ風流な御家人との交際もあったようです。

あちこち大旅行を敢行して「たいへん健康に恵まれている」はずの作者が、鎌倉につくといきなり長期間病気になってしまったというのも少し変である。

善光寺参詣の場面の原文はこちら。当該場面の記述が空疎で誤りが多く、実際には行っていないとする説も有力である。また、浅草についても極めて奇妙な地名の混乱がある。

この石清水御幸のときに、作者が後深草院から「御肌に召されたる御小袖三つ」をもらったり、意味深長な歌が出てきたりするところから、後深草院と作者の間に昔のような男女の関係があったのかについて学者たちは真剣に論争している。「関係あり」説の代表として八嶌正治氏『頽廃の魅力』が興味深い。


足摺岬までは日程的に無理が多いなどの理由で実際には行っていないと考えるのが多数説である。ただ、そうすると、作者は宗教的聖地である足摺岬に関して平然とウソをついていることになり、作者が本当に敬虔な尼なのか問題にしなければならないはずであるが、学者たちはそうした根本的な疑問は抱かない。善光寺に関しても同様な問題がある。
 そののち都に戻り、休む暇もなく奈良のほうに修行の旅に出て、翌正応四年の二月の初めに、氏神である石清水八幡宮に参拝したところ、偶然でしょうか、後深草院も石清水御幸ということで、院のほうから作者を呼びとめ、召し入れて、一晩語り明かすという、うれしい院との再会がありました。その後、作者は熱田神宮に参寵し、さらに伊勢神宮に詣でています。

 永仁元年(一二九三)作者三十六歳の年でしょうか、後深草院のお召しにより、伏見離宮に院をお訪ねし、その数年後、再び伊勢の二見が浦に行くというところで、巻四は終わっています。

 そのあとずいぶん間が空いているように見えまして、このあたり正確なところは分かりませんが、逆算すると乾元元年(一三〇二)四十五歳の年かそれ以前、今度は安芸(あき)の厳島(いつくしま)社に参拝し、土佐の足摺岬まで足を延ばしたのでしょうか、はっきりしません、それから讃岐の白峰、坂出市の崇徳院(すとくいん)御陵に詣でて、翌年帰京します。

 嘉元二年(一三〇四)四十七歳の年に、作者をたいへん憎み、最後には宮仕えを退かせた東二条院がお亡くなりになる。その年、やがて後深草院もお亡くなりになり、作者は霊柩車を裸足で追ったという、たいへん印象的な挿話が語られます。この年はまた父の三十三回忌にあたっており、作者は墓参して、『新後撰集(しんごせんしゅう)』に父の歌が洩れたことを報告し、「父の歌が勅撰集に再び入集(にっしゅう)するように、またわたしも勅撰歌人となるように、和歌の道に精進します」と、誓いを立てております。

東二条院(1232〜1304.73歳)についてはこちら(『徒然草』第222段)。

霊柩車を裸足で追った場面は臨場感溢れる大変な名文で描かれているが、前半の宮廷篇で見られた二条の性格からするとかなり不自然で不可解な行動に見える。原文はこちら
 翌年、歌聖柿本人麻呂を讃える人丸影供(ひとまるえいぐ)を営み、歌道精進を志しつつも、熊野に詣でて写経につとめ、後深草院の一周忌には法会(ほうえ)を聴聞(ちょうもん)し、その翌年、嘉元四年(一三〇六)四十九歳の年、石清水八幡宮でまたも偶然に、院の忘れ形見の女院、遊義門院の御幸に出会い、門院の知遇を得ることとなりました。このあと、後深草院の三回忌の仏事の済んだところで、『とはずがたり』は閉じられております。このような作者の、ほぼ五十年間に及ぷ人生のあゆみを振り返って綴ったのが『とはずがたり』という作品であるということになります。



熊野で見た奇妙な夢に父と後深草院、そして遊義門院(1270〜1307.38歳)が出てくる。二条が自分を宮廷から追放した東二条院の娘の遊義門院に対して、何故卑屈なほどへりくだった態度をとるのか、非常に不思議である。原文はこちら
2  作者の周辺

 『とはずがたり』の作者は、亡き母の縁と父の後ろ楯のもと、後深草院の後宮に入ったのでしたが、そこで多くの男性たちとのあいだに複雑な交渉をもつことになり、男女愛欲の苦悩に生きたということを申しました。いったい彼女は、後宮においてどういう立場に立たされ、どう振舞わねばならなかったのか、彼女を取り巻く状況を正しく理解しておく必要があるのではないかと思います。

 そこで次に、作者の家系と後深草院の後宮について、資料2(略)として、簡単な系図を掲げて説明してまいります。作者は四歳の年から後深草院のもとに出仕して、十四歳で後宮に列することになりましたが、その経緯については彼女の両親、とりわけ母と院とのあいだに浅からぬ因縁があったからのようです。

 作者の母親は大納言四条(藤原)隆親の娘で、後嵯峨院にお仕えする大納言典侍(だいなごんのすけ)という女房でした。この四条家という家は院政期になってから、皇族方、宮様の乳母(めのと)をつとめる家として、勢力を伸張していっておりまして、わが妻ないし娘を宮様の乳母にしたり、内侍司の高級女官に出すというだけでなく、院政政権の実務や儀式行事の有職故実(ゆうそくこじつ)に明るい、しかも管弦ほかの公卿の芸能にも秀でているという、有力な家柄でした。隆親も極官の大納言まで昇り詰めますが、娘を典侍(ないしのすけ)という内裏女房として、宮中の中枢に位置を占めさせるということをしているわけです。

院政期には摂関家に代わって天皇の父である上皇(「治天の君」)が権力を掌握することになる。そして側近として院政を支える中下級貴族の中から、官位はさほど高くないけれども強大な権力と富裕を誇る人物が現れてくる。四条家はそのような人物を輩出した家系であり、作者の母方の祖父四条隆親(1203〜79.77歳)も後嵯峨院政下で権勢を誇った人である。隆親は『徒然草』第182段に登場する。
 この大納言典侍は、後深草院が東二条院と結婚するにあたって、あらかじめ後深草院に性生活の手ほどきをしてさしあげたということが、のちに院の口ずから作者に語られています。閏房のことを教えてくれた人として、院はその後もずうっと大納言典侍に憧れていた。ところが、典侍大(すけだい)は−院は大納言典侍のことを、親しみを込めた略称で、こう呼んでいます−、作者の父源雅忠と結婚して、作者を生みました。院は典侍大の忘れ形見である作者を、そばに置いて養育したいということで、四歳の年から仙洞に召して鍾愛(しょうあい)してきたということなのです。

後深草院は『とはずがたり』が発見されるまではごく普通の温厚な人物だと思われていたのだが、『とはずがたり』の発見以後、国文学者たちによって変質者にされてしまった。また、網野善彦氏(『小学館ライブラリ.蒙古襲来』)をはじめとする錚々たる歴史学者も後深草院の言動を歴史的事実として疑っていないのである。しかし、例えば裁判における証拠採用の際の厳密な方法と比較してみると、二条という極めて想像力・表現力に富む特異な性格の女性の一方的な証言だけで、他の客観的証拠や、まして後深草院側の反対尋問もないままに後深草院の言動を真実と認定することはいくら何でもひどいのではないかと私は考える。ちなみに後深草院は、二条が誕生したのと同年の正嘉2年(1258)17歳のときから落飾した正応3年(1290)まで、実に33年間にわたり『水草宸記』と称される百余巻の厖大な量の日記を記していた人物である。これは現在では一部をのぞき残存していない(米田雄介氏『歴代天皇の記録』続群書類従完成会)が、現在残っている部分に限っても『とはずがたり』で書かれているような精神の頽廃の証拠となる記録が全く存在していないことは明らかである。なぜなら、国文学者たちは『とはずがたり』を史実で裏付けることに狂奔し、非常に細かい記録まで精査しているにもかかわらず、どの本を見てもそのような記録について言及がないからである。

「でも心配いりません」と言われても、かなり心配である。そこまで物語に類似しているならば、むしろ作り話ではないか、との可能性が増大するからである。
 このように見てくると、思い合わされることがあります。院の言動は、『源氏物語』の光源氏の君の心理や情動にそっくりだと思うのです。まず「若紫」の巻に描かれる紫の君のことを思い起こしてみましょう。父桐壺帝の妃(ひ)藤壺の宮を慕う源氏は、北山で藤壺そっくりの紫の君を見いだし、わずか十一、二歳の紫の君のお世話をしたいと、祖母の尼君に申し入れます。藤壺と紫の君との間柄は叔母(おば)と姪(めい)でして、血縁関係にあったわけです。祖母君が亡くなると、源氏は誘拐するようにしてわが住まい、二条院に紫の君を迎え入れて、わが趣味と教養を傾けて養育し、自分好みの理想の女性に教育します。のちに北の方である葵(あおい)の上が亡くなると、四十九日を済ませてから、紫の君と契りを込めて妻にすえることになります。

 女の子をわが手で自分好みの女性に教育して、妻としたいという男の一つの願望を物語るモチーフは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』でも採用されていますが、後深草院のほうが一足早く源氏のひそみに倣い、典侍大に面影の通う作者を幼い時から養育し、成人したら妻にしようと考えていたのです。ただし、大納言典侍と作者とは叔母姪の関係ではなくて、母と娘の親子でした。でも心配いりません。母親との縁から娘の世話をつづけるうち、その娘に恋心を抱いてしまい、娘を悩ませるという話も、『源氏物語』には二つあります。

 源氏の通い所の一つであった六条の御息所(みやすどころ)は、「葵」の巻で賀茂の祭りの車争いの時、葵の上のほうの者にたいへんな恥をかかされて、そのため葵の上の出産の場に物の気となってあらわれ、取り殺してしまった。御息所は悩んだすえ、源氏のもとから身を引こうとして、娘が伊勢の斎宮に選ばれた機会に、幼い娘の後見として付き添うということで、都を離れます。御代替わりになって都に戻ると、御息所は思い余ったすえ、源氏に娘の前(さき)の斎宮を託し、「娘の世話をお願いします。でも娘には、わたしを苦しめたような目に遭わせないでください」と、後見を頼む。結局、前の斎宮は冷泉帝のもとに女御として入内し、斎宮の女御と呼ばれ、のちには中宮に昇って秋好(あきこのむ)中宮と称せられます。源氏は御息所の遺言を守って女御のお世話をするのですが、「薄雲」の巻には、恋心を抑えきれずにほのめかしてしまう場面が見られます。

 もう一人の女性は、夕顔の忘れ形見の玉鬘(たまかずら)というヒロインです。彼女は頭(とう)の中将と夕顔とのあいだに生まれた女の子なのですが、二十歳を過ぎてから上京して、思いがけず源氏に引き取られて、そこでお后(きさき)教育を受けている明石の姫君といっしょに琴を習ったりします。源氏の御落胤で、最近見いだされて大切に扱われている年ごろの姫君がいるということで、噂を聞いた若い男たちが求婚するのです。源氏は玉鬘に恋愛指南みたいなこともするのですが、そのうち自分も心ひかれ、真剣にわがものとする手立てまで案じるようになります。『源氏物語』の第二十二帖から第三十一帖までをまとめて「玉鬘十帖」と呼んでおりまして、玉鬘はそのヒロインです。

 というわけで、その母親との恋の思い出を忘れず、娘に恋心を抱くというモチーフも、源氏の君が体現していたわけです。ちなみに、母と娘を犯すことはタブーに触れるという説を、藤井貞和さんが提出しておられますが、ひそかに思いますに、母と娘を同時に愛することはタブーであったかもしれませんが、母の形見として娘を妻とすることまでは罪悪視されなかったのではないか、どうなのでしょう。

 もとに戻って、作者は母大納言典侍の縁から、後深草院のもとで育ち、やがて寵幸を受けるべくさだめられていた、それは源氏の君の愛情のあり方にちなむものであった、ということでした。これは、後深草院の心づもりのあらわれであって、事実であったということなのでしょうか、それとも、作者が院との縁を振り返って語り進めようとした時に、なぞらえうる人間関係のモデルとして浮かび上がってきたことなのでしょうか。おそらくどちらも真実であって、作者も院も、それほど『源氏物語』に通じていたのでしょう。このように『とはずがたり』という日記文学作品は、『源氏物語』や『伊勢物語』などの影響を強く受けておりまして、いたるところ、これらの作品を踏まえた表現が出てまいります。作者は古典文学の深く確かな素養にもとづいて、いわば古典に照らして人間関係や現実世界を見すえているのです。


三角教授をはじめとする殆どの学者は『とはずがたり』は歴史的事実に若干の虚構を交えた日記だと考えているのであるが、そこに含まれる『源氏物語』や『伊勢物語』の引用の夥しさを考慮すると、むしろ若干の歴史的事実を背景とした自伝風の物語ではないか、と見ることも可能である。ごく少数の学者がこのように考えている。
 次に作者の父方についてですが、系図をご覧になるとお分かりのように、父親は中院(なかのいん)大納言源雅忠と申します。名門の村上源氏の家系でして、院政期に、摂関家に対抗する勢力として再び台頭した家です。曾祖父は内大臣土御門(つちみかど)通親、祖父は太政大臣久我通光−どうも「ミチテル」と訓んだようです−と申します。大将を経て、太政大臣にまで昇る家柄で、後世の言葉でいいますと、いわゆる五摂家、摂関家に次ぐ清華の家ということになります。作者の家を「久我」家と呼んでも差し支えないと思うのですが、雅忠の場合には「久我」ではなくて、「中院」と称したようです。

中院雅忠についてはこちら

通親はマキャベリスト・狡猾な陰謀家といったイメージで捉えられることが多いが、この人物について初めて詳細な伝記を書かれた橋本義彦氏の評価はかなり異なる。こちら

雅忠が「久我」ではなく、「中院」と称した背後には久我家の深刻な相続問題があったように思う。
 この久我家は、天皇のもとには女御を入内させるという格式の高い家でして、娘を女房として宮仕えに出すことはいたしません。ところがご承知のように、『とはずがたり』の作者は後深草院二条と呼ばれた女房です。作者の父雅忠の思わくは、次のようなことだったのではないでしょうか。いずれこの娘が男皇子を生んで、その皇子がもし皇太子、天皇になる道が開けるのなら、あまり形式にはこだわらないでいい、この娘の母親が女房であったという経緯もあることだし、娘が家の誉れとなり、家門の栄華のもといを築いてくれるかもしれないのだから、という期待から、後深草院の内意に応じて宮仕えに出したと思うのです。雅忠の作者に対するこまやかな配慮については、またのちにお話することがあろうかと思います。


 作者が後深草院の寵愛人となると、院の中宮であった女院、東二条院という方からたちまち烈しい嫉妬をこうむります。それは結局、作者が実質は上臈女房の待遇に甘んずるほかなかったけれども、肝心なところでは太政大臣の娘として、ということは女御並みに−正確には「御方並みに」というべきかもしれませんが−振舞うことが許されていた、そういうあやふやな立場に由来するのではないかと思われます。女院にしてみれば、女房風情で寵愛をかさにきて、僭越だということだったのでしょう。後深草院の御幸に同車する作者の振舞いが、世に、女院御同車とささやかれたことがあって、東二条院は自分がさしおかれたことと、作者が女院と間違われたこととで、二重にプライドを傷つけられたといいます。
 東二条院は作者の僭上を憎んで、わがお方への出入りを差し止めるだけでなく、後深草院や姉の大宮院に抗議文を送っています。もっとも、作者にしてみれば、これは『源氏物語』の「桐壺」の巻の言葉ですが、「はじめより、おしなべての上宮仕(うへみやづか)へしたまふべき際(きは)にはあらざりき……わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びのをりをり、何事にもゆゑあることのふしぶしには、まづまうのぼらせたまふ……あながちに御前さらずもてなさせたまひしほどに、おのづからかろきかたにも見えしを」と、桐壺の更衣を気取っていたように思われます。ご寵愛の余り、おそばを離れずお仕えするので、まるで奉仕する女房の風情に見えるということです。作者が桐壺の更衣(こうい)、東二条院が弘徽殿(こきでん)の女御という構図になります。


大宮院(1225〜92.68歳)は後嵯峨天皇の中宮。父は西園寺実氏、母は四条貞子(北山准后)。後深草院・亀山院の母であり、東二条院の姉である。後深草院は母の妹と結婚したのであるが、これは当時の宮廷社会では、それほど珍しいことではない。



『とはずがたり』は単に表現のみならず基本的な構造において源氏物語を利用しているとも言える。
 さてここで、作者が後深草院の寵幸を得た十四歳の文永八年(一二七一)という年の後宮の状況を見わたすと、東二条院はすでに皇女を三人生んでいますが、皇子はまだ生まれていません。もうかなりの年配で、四十歳になりました。太政大臣西園寺実氏の娘で、母は北山准后、姉に後嵯峨院の中宮で、後深草、亀山両帝の母后にあたる大宮院がいて、妹の彼女も姉同様、女御から中宮を経て門院号を得ています。

東二条院は1232年生まれで、1243年生まれの後深草院より11歳年上。もともと西園寺家の都合による政略結婚なので無理があった訳である。結婚の時は後深草院(当時は天皇)は14歳、東二条院(こちらも当時は院号宣下前)は25歳。なお、東二条院は1258年生まれの二条より26歳上であり、この当時の人の感覚からいうと親というよりむしろ祖父・祖母に近いと言ってもよいような年齢差である。
「東の御方」、後の玄輝門院(1246〜1329.84歳)は二条より12歳上。『徒然草』第33段に登場する。
伏見天皇(1265〜1317.53歳)についてはこちら(『歴代天皇紀』)。
久明親王は1276年生まれ、深性法親王は1275年生まれなので、いずれも「翌年(1272年)の作者の皇子御産の以前に誕生した皇子」ではない。ただ、『とはずがたり』を素直に読む限り、二条が第一子を妊娠していた1271年6月に「御匣殿」が亡くなっており、三角洋一氏を含めて学者は「御匣殿」を「内大臣三条公親の娘、従二位房子」と考えている(三角洋一氏の場合、『新日本古典体系本』p16、p22にその旨の記載がある。)ので、1271年に死んだはず久明親王の母が1276年に久明親王を生んだという奇妙な話になってしまうのである。
 後宮にはほかに、東の御方と呼ばれる方−この「御方」という呼称はれっきとした後宮の女性のしるしだったようで、作者より重い扱いを受けていました−この東の御方は左大臣洞院実雄(とういんさねお)の娘で、この方がもうすでに二人も皇子を生んでいて、兄の皇子は七歳になっていました。のちの煕仁(ひろひと)親王、伏見天皇です。もう一人、五歳の皇子はのちの性仁法親王(しょうにんほっしんのう)です。ちなみに、翌年の作者の皇子御産の以前に誕生した皇子となると、内大臣三条公親の娘、御匣殿(みくしげどの)の腹の久明親王、算博士三善康衡(やすひら)の娘の腹の深性(しんしょう)法親王もおります。

 それから、西の御方もおられて、太政大臣花山院(かざんいん)通雅の娘です。というわけで、作者は順番からいくと、後深草院の後宮の中では四番目か、もうすこし下位に置かれることになったのではないでしょうか。もちろん女房としてなら、ほぼ筆頭として振舞っているようです。しかし、見てきましたとおり、院の皇子を生みたてまつり、あわよくば皇統を嗣がせるという可能性は、きわめて少なかったようです。


 作者の後宮入りの問題をめぐっては、ぜひもう一人、西園寺実兼の身辺について知っておく必要があると思います。略年表のほうに出てまいりました雪の曙のことです。この西園寺家は、承久の乱以前から鎌倉幕府の信任厚い名門の家で、乱ののちは関東申次(もうしつぎ)という、朝廷と幕府のあいだの連絡役をつとめ、にわかに権勢の中枢に位置づけられることになりました。久我家と同じく、太政大臣に昇る清華の家です。

ただ、実兼のころは支流の洞院家に勢力を奪われるような状況にあったようで、実兼は父親を早く亡くしており、西園寺家をもり立てるために、たいへん苦労した人物です。皇統が亀山帝のほうに傾いていたころ、実兼は後深草院方に接近して、のちに煕仁親王の立太子に成功すると、東宮大夫(とうぐうだいぶ)となります。実兼の子女について調べてみますと、すでに北の方がいまして、その腹に跡取りの公衡(きんひら)が生まれており、もう八歳になっていました。


西園寺家についてはこちら(龍粛氏「西園寺家の興隆とその財力」)。












西園寺公衡(1264〜1315.52歳)についてはこちら(徳仁親王殿下・木村真美子氏「<史料紹介>西園寺家所蔵『公衡公記』」)。
 北の方は内大臣中院通成の娘、のちの称では従一位顕子(じゅいちいけんし)といい、作者の又従兄弟(またいとこ)にあたります。通成は文永六年(一二六九)、内大臣に任ぜられると年内に上表し、翌年出家、作者の父雅忠が通成の跡を襲うかたちで、淳和奨学院別当(じゅんなしょうがくいんべっとう)−のちの源氏の氏の長者の称号です−になっています。実兼も大っぴらに作者に求婚しづらく、雅忠も実兼を婿に選びにくかったのではないでしょうか。そういうわけで、作者は実兼とは早くからお互いに心をかよわす親密な仲で、たいへん好意を寄せていたようですが、実兼と結ばれて、北の方におさまるというぐあいにはいかない、そういうめぐり合わせに生まれついていたといわざるを得ません。

中院通成(1222〜86.65歳)と作者の父雅忠はともに源通親の孫で、従兄弟同士。なお、通成の兄の雅家が北畠家の祖となり、後に北畠家から南朝のイデオローグ北畠親房(1293〜1354.62歳)が出てくる。
 『住吉物語』の上巻を見ると、ヒロインの宮腹の姫君の結婚問題をめぐって、薄情な継母は、「なかなか、おぼえ少なき宮仕(みやづか)へよりも、時めかん上達部(かんだちめ)などに、あはせたま給へかし」と入内に反対しまして、すると親身な父中納言が答えて、「なみなみの人には、見せん事もあたらしさに」と、臣下の者と結婚させるのはもったいないといっております。また『源氏物語』の「紅梅」の巻でも、母親の真木柱(まきばしら)は、「人にまさらむと思ふ女を、宮仕へに思ひ絶えては、何の本意かはあらむ」と考えて、大君を春宮のもとに入内させています。父雅忠が後深草院の意向にしたがって作者をすすめたのも、けっして不本意な決断でもなければ、期待が楽観的に過ぎたということでもなかったのだと思います。

 ちなみに、後深草院は作者より十五歳年長、雪の曙は九歳の年長です。年齢的に見れば、院は親というに近く、曙は頼もしい兄のようであったわけですね。

(以下略)




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