更新14.3/13

上横手雅敬 「晩年の頼朝」
(『源平の盛衰』.講談社学術文庫.p.261以下)



引用の趣旨
 『とはずがたり』第5巻で、作者は厳島を訪問しているが、この記述は明らかに曾祖父通親の『高倉院厳島御幸記』を意識したものである。
 作者はこの曾祖父に強い影響を受けていると思われるので、通親の政治家としての側面を把握するために本書を引用した。
 著者の京都大学名誉教授上横手雅敬氏は、「退廃した貴族」と「躍動的な武士」を対置し、後者のみを歴史の推進力と見てきた従来の武家中心史観にかなり批判的な見方をしてこられた方であるが、その上横手氏にしても、通親について用いる言葉が「暗躍」「如才ない」「巧妙」「陰謀」「手練手管」など、かなり悪意に満ちていることが興味深い。 なお、本書は1969年に刊行され、1975年加筆・再刊、1997年文庫化されたもの。


※上横手雅敬氏の略歴はこちら



上横手雅敬氏の見解


私の立場からの補足


長女大姫をめぐる頼朝の奇妙な行動

 法皇がなくなって三年。公武関係も円滑で、幕府も安定していた一一九五(建久六)年、頼朝はふたたび上洛する。平家に焼かれた東大寺(奈良市)が再建され、その供養に列席するためで、このたびは妻子も同伴していた。それは、太平ムードの中の、家族ぐるみのレジャーとさえ見えた。にもかかわらず、頼朝の行動には奇妙な点があった。



後白河法皇(1127〜92.66歳)
源頼朝(1147〜1199.53歳)は後白河法皇より20歳下、源通親・九条兼実より2歳上。

 頼朝の京の屋敷には、故後白河法皇の寵愛した丹後局が何回か招かれ、頼朝の妻子にも引き合わされた。そのうえ局は、銀蒔絵(ぎんまきえ)の箱に砂金三百両を納め、白綾(しらあや)三十端(たん)を敷いた豪華な贈り物をおくられた。また頼朝は、再度宣陽門院の御所をたずね、七か所の荘園を、宣陽門院が領有する長講堂領として再興することに賛成だ、という意見を公表した。

 宣陽門院は、後白河法皇と丹後局との子であり、法皇の死後も、百余ヵ所の荘園を長講堂領として相続しており、経済的にも裕福だった。宣陽門院庁の別当は源通親で、頼朝が宣陽門院御所をおとずれたのも、実際には、この通親に会うためであった。そして宣陽門院をめぐる丹後局・通親の一派は、故法皇の近臣グループで、兼実に対する強い敵対勢力だったのである。

丹後局(たんごのつぼね.高階栄子.?〜1216)は後白河法皇の近臣平業房の妻であったが、1180年、夫が平氏に殺された後、鳥羽殿に幽閉された後白河の寵を得て宣陽門院を生んだ。詳しくはこちら(三浦周行「丹後局と卿局」)。


宣陽門院(1181〜1252.72歳)
源通親(1149〜1202.54歳)

長講堂領は後に後深草院に渡り、持明院統の主要財源となる。詳しくはこちら
 一方、頼朝は兼実とはほとんどうちとけた話をしなかった。丹後局への目を見はるような贈り物に対して、兼実には馬二頭をおくっただけである。かつては兼実と結んで法皇派と対立したこともある頼朝の態度としては、明らかに奇妙である。

 長講堂領七ヵ荘には因縁がある。法皇が危篤になると、その死後をうれえた丹後局らは、法皇の知行国(ちぎょうこく)の国衙領を、あわてて荘園にしてしまった。ところが法皇がなくなると、兼実はこれらの荘園を廃止したのである。それを頼朝が、もとどおり長講堂領にすることに賛成したのは、兼実の処置に反対の態度を示したことになるから、兼実には、大きな打撃であった。

 頼朝のこの奇妙な態度は、なにを意味するのだろうか。


九条兼実(1149〜1207.59歳)
大姫入内問題でで反兼実派に接近

 いまはなに一つ欠けることのない頼朝ではあったが、ただ一つ家庭的な心配があった。再度の上洛に同伴し、丹後局にも引き合わせた長女大姫のことである。

 一一八三(寿永二)年、義仲の上洛に先立ち、頼朝・義仲のあいだに妥協が成立したとき、義仲の子義高が人質として鎌倉に送られた。その条件として、義高と大姫との婚約が成立した。ところがその翌年、義仲を滅ぼした頼朝は、義高をも暗殺したのである。

 当時、義高は十二歳、大姫は六、七歳と、いわばままごとの夫婦のようなものではあったが、義高の死を知った大姫の幼心には、深い傷が残った。十数年をへてなお、少女の胸から義高のおもかげは消えなかった。大姫の気鬱は増すばかりで、頼朝を困らせていた。





大姫(?〜1197)


源義仲(1154〜84.31歳)
源義高(1173〜84.12歳)
 ところが、この大姫を後鳥羽天皇に入内(じゅだい)させてはという計画が、さきに頼朝が上洛した翌年、一一九一年にすでにおこっている(二五四ページ参照)。それがこれまでそのままになっていたのは、大姫の病状が思わしくなかったからであろう。 

 さて、大姫入内にあたって、頼朝が手づるとして求めたのは、兼実ではなくて、通親や丹後局であった。丹後局や通親は、兼実の全盛をくつがえそうとする敵対勢カであっても、頼朝からすれば、かれらを嫌う理由はない。以前から品物を贈答したりしているし、如才のない通親などは、頼朝の機嫌をとることを怠ってはいなかった。故法皇と和解した頼朝にとって、兼実だけと同盟しなければならない理由は失なわれていた。それに娘の任子を入内させている兼実にとって、大姫の入内を望む頼朝はライバルであり、兼実に頼っても、いい顔をされないことは予想されていた。

後鳥羽天皇(1180〜1239.60歳)













仁子(宜秋門院.1173〜1238.65歳)
 通親を通じて娘の入内を進めようとした頼朝は、一一九四年十月、征夷大将軍を辞退した。征夷大将軍は実質上たいした意味はない。しかし、はじめ頼朝が切望したのに、後白河法皇が許さず、法皇がなくなるやいなや、兼実が頼朝にあたえた心のプレゼントだった。それを返上するということは、兼実と決別して、故法皇の側近と提携しようという意思表示にほかならない。こうして頼朝は、丹後局や通親の歓心を買ったのである。こういういきさつの後に、翌年頼朝は妻の政子や大姫をともなって上洛したのだった。










北条政子(1157〜1225.69歳)
源通親の暗躍、兼実一門の失脚

 頼朝が鎌倉に帰ってまもなく、一一九五年八月、任子は出産したが、それは不幸にして皇女だった。そして十一月には為仁親王が生まれるが、その生母は通親の後妻範子(はんし)のつれ子であった在子(ざいし)である。通親は在子を養女とし、為仁親王を養育し、天皇の外戚の地位をねらっていた。

 後鳥羽天皇の皇子を産む兼実・通親の競争は、通親の勝利となった。しかし二人は、別に入内競争をしたのではなかった。任子は中宮(ちゅうぐう)だが、在子は単なる女官であり、皇子を産んで後に、はじめて重んじられたのである。したがって、もしそのあとでも任子が皇子を産めば、家柄の違いからいっても、どちらが天皇になるか知れたものではない。勝利を確実にするための、通親の暗躍はつづいた。





為仁親王(土御門天皇.1195〜1231.在位1198〜1210)

在子(承明門院.1171〜1257.87歳)
 翌一一九六年、任子は内裏を追われ、兼実は関白を、弟の慈円は天台座主を解任され、さきに一一八六(文治二)年頼朝の圧力で退ぞけられていた基通が関白・氏長者に返り咲いた。九条家の一門が独占していた政治・宗教上の最高の地位、天皇の后妃(こうひ)の地位は、一夜にして失われたのだ。そのうえ、兼実に近づくと、頼朝のとがめを受けるといううわさまで立った。この政変劇の演出者は通親であるが、通親に入内問題で弱みをにぎられている頼朝は、少なくとも兼実の失脚を黙認していた。通親は、後鳥羽天皇と頼朝とに兼実を中傷し、兼実失脚のレールを敷いていたのである。


慈円(1155〜1225.71歳)は兼実の同母弟。四度にわたって天台座主となった。『愚管抄』の著者。『愚管抄』は決して中立的な歴史書ではなく、いわば摂関家史観に基づく書物であり、そこでは通親は完全な悪者である。

近衛基通(1160〜1233.74歳)
 実際通親は巧妙だった。兼実一門を追放する一方、頼朝の妹婿としてはぶりをきかせていた一条能保(よしやす)の子の高能を参議に、能保の婿西園寺公経(きんつね)を蔵人頭に任命した。このように九条家を退けるだけであって、親幕派を軽んじるのではないというゼスチュアを示したから、頼朝は、手をこまぬいて見送るほかなかった。



一条能保(1147〜97.51歳)

西園寺公経(1171〜1244.74歳)
頼朝と東国武士とのへだたり

 大姫入内問題は、哀れな娘に対する父の愛情からだけ出たものではない。頼朝は天皇の外戚の座を狙ったのである。

 頼朝は平氏の轍(てつ)をさけて、鎌倉に幕府を開いた。武士たちが朝廷へ接近するのをきらって、質実剛健の気風を維持しようとした。しかし清和源氏の嫡流という貴族的な武門の血をひく彼だけは、例外だと考えていた。実際彼はその血統からいって、一介の田舎侍と異なっていた。かれの心中には王朝憧憬の念が強かったし、その貴族的な武門の血は、功成り名遂げたいま、その最後の仕上げを、天皇の外戚という地位に求めたのである。

 頼朝の血からすれば、外戚を望むのは当然の帰結であり、東国武士を裏切ったことにはなるまい。しかし武士の立場から見れば、どうであろうか。富士川の合戦で勝利を得たのち、あとを追って上洛することをやめ、東国に独立国家を作った点については、千葉常胤や上総介広常の意見によるところが大きい。かれらは平氏を討つことよりも、都にのぼることよりも、まず東国における安定した体制を望んだのである。その広常は、頼朝が東国の独立を棄てて、朝廷と講和することに反対したため、頼朝の密命をうけた梶原景時に暗殺された。

 奥州征服ののち、頼朝は法皇に対する恭順を示し、諸国守護権を獲得した。いままた頼朝は娘を入内させようとした。こんなことはすべて、武士たちの全然希望しなかったことである。そしてこうして頼朝は、朝廷との関係を密にし、御家人との格差をひろげ、それによって御家人に対する独裁を、そのつど強めてきたのである。それは御家人の利益に反するものであった。

 しかし、幕府はこれらの武士の血によってこそきずかれたのである。大姫入内の計画は、これらの武士からすれば、裏切り行為にほかならなかった。東大寺再建供養のため上洛する頼朝の真の心中を、もし随従する武士がさぐりあてていたとすれば、かれらはどう考えたろうか。記録はなにも語らない。しかし頼朝の死後急速におとずれる源氏の悲惨な末路に、この入内問題もからんでいるように思えてならない。大姫入内計画は頼朝生涯の大失策であった。






千葉常胤(1118〜1201.84歳)
上総介広常(?〜1883)


梶原景時(?〜1200)
不本意の中に頼朝死す

 大姫入内計画がもたらす影響は、頼朝が計算したよりも大きかった。兼実が関白を罷免されるというような結末は、頼朝の予想外であった。事実は一層深刻で、兼実は流罪にさえなりかけたのである。

 兼実との間に亀裂が生じても、大したことはあるまいというのも、頼朝の誤算であった。兼実の失脚によって、頼朝は京都に対する発言の窓口を失い、朝政に対する発言ができなくなってしまったのである。

 冷徹な頼朝らしからぬ誤算の連続だが、こうなったのは、丹後局や通親の方が役者が上だったからである。手練手管(てれんてくだ)と陰謀にみがきをかけてきた宮廷政治のまえには、さすがの頼朝さえ、いなか侍にすぎなかったのである。

 これほどの犠牲をはらって、計画された大姫入内問題はどうなったか。兼実失脚の翌年、この薄幸の女性の病死によって結末を告げた。頼朝は、まったくなにも得ることができなかったのである。

 通親の最後の勝利はおとずれた。一一九八(建久九)年正月、後鳥羽天皇は為仁親王(土御門天皇)に譲位した。通親は新帝の外祖父の地位とともに、後鳥羽院庁別当として、院政の実権をも掌握し、権大納言でありながら、源博陸(はくりく)(関白)とあだ名される権勢をふるった。大姫の死の悲しみの癒えぬ頼朝は、ただ土御門天皇の即位に反対の意思表示をするにとどまった。朝政への発言の窓口をみずからこわしたいま、かれにはなすすべもなかったのである。

 頼朝は、任子の再入内を進めて、兼実との和解をはかり、さらに、次女乙姫をともなって三度めの上洛を考えていた。大姫にかえて、この娘を宮廷に送るつもりだったのだろう。しかし、これらのことが実現する可能性はとぼしかった。

 それから一年たった一一九九(正治元)年正月、頼朝は急死した。その死はなぞにつつまれ、いくつかの憶説もあるが、相模川の橋供養の帰途、落馬したのが原因というのが真相であろう。いかにも頼朝にふさわしくない最期だった。

 さて、与えられた紙数も、残り少なくなった。わたしは、武士興隆の変革期を描くにあたって、種々の人物像にふれてきたが、この頼朝の生涯にも一種の魅力を感じる。それは、かれの人間的成長のあとを示しているからである。



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