更新12.9/6 up11.11/25


水戸部正男 「第八八代後嵯峨天皇」
(『歴代天皇紀』.秋田書店.昭和47年.p375以下)






※水戸部正男氏の略歴はこちら



第八八代後嵯峨天皇


十日余の空位

 四条天皇はわずか十二歳で崩御のため、皇子女もなく、また皇兄弟もなかったから、 皇嗣を誰にするかという大問題がおこった。関白近衛兼経は天皇の大喪(たいそう)を秘し、まず崩御を幕府に伝え、皇嗣をはかった。

 当時、候補者としては、土御門天皇の皇子邦仁王(くにひとおう.二十二歳)と順徳天皇皇子忠成王(ただなりおう)があり、朝廷の実力者であった九条道家は忠成王が道家の姉にあたる東一条院の所生であるため、王の登極を望み、幕府にも運動した。

 一方邦仁王には有力な後見者もなく、近く僧籍に入る予定であったが、外戚の土御門家の前内大臣定通(邦仁王母通子の叔父にあたる)が北条泰時の姉を妻としていた関係から、泰時弟で当時六波羅探題であった重時を通じひそかに幕府に運動した。

 幕府(執権泰時)は承久の乱の再発をおそれ、忠成王の即位には賛成しなかった。さらに忠成王の即位は佐渡に存命中の順徳上皇の還京、ひいては反幕府的院政の再現につながりかねなかったということもあって、鶴岡八幡宮の神慮と称し(若宮でくじをひいたと伝えている)、邦仁王を推したのである。なお幕府は朝廷が忠成王の即位を行なうなら、廃位を強行する決意をもっていたといわれる。

 かくて邦仁王は仁治三年一月二十日権大納言藤原隆通の冷泉万里小路殿(れいぜいまでのこうじどの)において践祚した。後嵯蛾天皇である。なお、宮廷には、幕府が皇位を計るがため、四条天皇崩御から新帝践祚まで十日余空位となったことを憤慨する声もあった。


日陰から皇位へ

 さて後嵯峨天皇は、承久二年(1220)二月二十六日の降誕で、母は贈皇太后源通子(左大臣土御門通宗女)である。承久の乱の時は二歳。父士御門上皇が承久三年冬土佐におもむいた後は外戚の大納言源通方(源通親四男)第に身を寄せ、通方没後は承明門院在子(邦仁王祖母に当る)の土御門殿に寄寓するという日陰の身で成人し二十二歳になっても元服の儀式をあげないまま、やがて僧籍に入る予定であった。

 ところが四条天皇崩御とともにわかに幸運がまいこんだのである。仁治三年正月十九日、関東の使者城介義景(よしかげ)(安達氏)が入京し、邦仁王を皇嗣に奏請すると、翌日(一月二十日)早速、親王宣下と元服の儀式が土御門殿において行なわれ、ついで践祚となった。

 つづいて三月十八日、太政官庁で即位式、近衛兼経が関白となったが、一週間後左大臣二条良実に代った。天皇は在位四年で、寛元四年(1246)一月二十九日、位を四歳の皇太子久仁(ひさひと)親王に譲り、院政を開始した。

 後嵯峨天皇登極の年(仁治三年=1242)には六月に北条泰時が没し、孫経時が執権となり、九月には佐渡の順徳上量が崩じた(四十六歳)。寛元二年(1244)には鎌倉の将軍藤原(九条家出身)頼経が隠退し、子頼嗣が代わった。このことは朝廷における九条家勢力の後退と関連するものであった。

 頼経は承久元年(1219)以来鎌倉殿となり、ここまで二十五年の在職であったから、幕府の一部の御家人や側近との間に緊密な主従的関係が生じ、執権の御家人統制上次第に障害となっていた。ことに北条氏の一族である名越光時(なごえみつとき)、評定衆後藤基綱(もとつな)、藤原為佐(ためすけ)、千葉秀胤(ひでたね)、問注所執事三善康持(やすもち)らは将軍と親近な関係にあった。

 このような情況に対し、北条氏は寛元二年(1244)二月、六歳の頼嗣を元服させ、将軍の宣下を申請し、頼経から譲与の形で将軍の交替を断行したのである。このことは、朝廷における九条家の後退、西園寺・土御門両家の台頭と関連するものであった。

 前将軍頼経はなお鎌倉に留っていたが、寛元四年(1246)執権時頼が病弱の兄に代わるとともに、時頼は名越光時を伊豆に移し、頼経を京都に送還したのである。この時豪族三浦泰村は京都で頼経と別れる時、再び頼経を鎌倉の主になす日のあることを約束しているが、以来時頼との間に疎隔を生じ、翌宝治元年(1247)六月の合戦により、さしもの三浦氏も滅亡の要因となったのである。


幸福な帝王

 後嵯峨天皇は幕府の意向で即位したこともあって、幕府との関係はすこぶる円満であった。両者の媒介をしたのは西園寺家の実氏(さねうじ)で、寛元四年(1246)十月には、九条道家に代わって実氏が関東申次(もうしつぎ)となり、朝幕間の重事、秘事は西園寺家を経過することとなった。

 建長四年(1252)二月、北条時頼は特使を京都に送って、将軍頼嗣に代えて皇族将軍の東下を要請した。後嵯峨上皇は直ちに同意し、皇子宗尊(むねたか)親王を征夷大将軍に任じられ、親王は四月一日鎌倉に下り、前将軍は京都にかえされた。幕府は親王のためにつくし、文応元年(1260)には近衛兼経の女宰子〔1241〜?〕を時頼の猶子とした上で、親王の御息所(みやすどころ)に納れたから公武間の親交は一段と深くなった。

 後嵯峨上皇は後深草・亀山両天皇期に二十六年にわたって院政を行なったが、治天の君としてただその地位にあったにすぎない。嵯峨殿、吉田泉殿、鳥羽殿、その他各地に御殿を造営し、遊宴、歌合せ、管弦、蹴鞠(けまり)、仏事等の行事を好み、高野山をはじめ各地に美々しい行列をつくって行幸し、一方、数多の皇子女の父として過ごすなど、まことに幸運な帝王であった。

 文永五年(1268)出家、法皇となり、同九年(1272)二月十七日、嵯峨如来寿院で崩御、宝算、五十三、浄金剛院に遺骨を納めたが、これが嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)(京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町)である。

 後嵯峨院の追号は、嵯峨天皇の追号に後の字を冠したもので、崩後直ちに、決定した。天皇の御所が嵯峨殿御門あるいは亀山殿といわれたことに因(ちな)んだものである。

 天皇の著作には、『後嵯峨院御記』、『朝覲(ちょうきん)行幸次弟』『後嵯峨院御集』、『後嵯峨院御三百首』、『後嵯峨院御百首』、『後嵯峨院御五十首』等が伝わっている。


☆「邦仁王は仁治三年一月二十日権大納言藤原隆通の冷泉万里小路殿において践祚した」とあるが、これは藤原隆親の誤り。後深草院二条の母方の祖父、四条隆親(1203〜1279.77歳)のことである。この後嵯峨院践祚に関する『増鏡』の原文はこちら。また、四条家と四条隆親についてはこちら。(角田文衛氏『平家後抄』)

☆『増鏡』には後嵯峨院関係の記事が極めて多いが、その例はこちら。(「土御門院皇子(後嵯峨天皇)の生い立ち」「北条泰時の対処」「東使上洛」「後嵯峨上皇高野御幸」)。

☆「後嵯峨上皇は後深草・亀山両天皇期に二十六年にわたって院政を行なったが、治天の君としてただその地位にあったにすぎない」という認識は、近時の中世公家社会に関する研究の進展により、もはやかなり古めかしいものとなっている。




トップページ 参考文献