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水戸部正男 「第82代 後鳥羽天皇」
(『歴代天皇紀』.秋田書店.昭和47年.p351以下)





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公武の対立
 鎌倉時代初期およそ四十年間は、わが国政治史上の変革期で、武家政治の出現によって公武両政権の対立抗争のはげしい時代であった。その抗争に二つの頂点があり、一つは後白河法皇1127〜92.66歳〕と源頼朝1147〜99.53歳〕、一つは後鳥羽上皇と北条義時1163〜1224.62歳〕によって代表される。

 後鳥羽天皇は後白河法皇の孫で高倉天皇1161〜81.21歳〕第四皇子。母は七条院殖子(しょくし.贈左大臣坊門信隆の女)1157〜1228.72歳〕である。治承四年(1180)七月十四日の誕生だが、この治承四年は源頼朝ら諸源氏蜂起の年である。寿永二年(1183)平宗盛1147〜85.39歳〕が第八一代安徳天皇1178〜85.8歳〕を奉じて西走し、京都は天皇不在になった。後白河法皇は諸臣と議して新天皇を立てることに決した。時に、京都に駐在していた源(木曾)義仲(頼朝の従弟)1154〜84.31歳〕は、以仁(もちひと)王1151〜80.30歳〕の功を称えて、その皇子北陸宮を推薦したが、法皇は高倉天皇の皇子の中から立てようとした。二宮(守貞親王)後高倉院.1179〜1223.45歳〕は当時平氏と行を共にして西海にあったため、三宮(惟昭王)と四宮(尊成王)の二人の中から選定することに決定、神前で抽せんの結果、尊成王(四歳)に決定。八月二十日、後白河法皇御所で親王宣下、皇太子に立て、即日践祚の儀を行なった。時に剣と璽は安徳天皇と共に西海にあったから、神器ないままに後白河法皇の詔による践祚となったのである。

 日本に二天皇が同時にあったことは否定すべくもない事実であった。翌寿永三年(元暦元年=1184)七月二十八日、太政官庁において即位式が行なわれた。後白河法皇の院政が継続した。寿永三年正月には義仲が近江粟津で敗死、翌文治元年(寿永四、元暦二年=1185)三月、平氏一門は壇ノ浦に滅亡し、安徳天皇も崩御となったから、二天皇並立の形が解消し、後鳥羽天皇が第八二代の天皇となったのである。

 後白河法皇は、かつて平清盛のために鳥羽殿に幽閉され、義仲のためには御所(法住寺殿)を破壊されるなど、武家の暴力を身をもって体験し、武家に対する憎悪の感情をつよくもっていた。法皇は院政に対する武家勢力を抑庄するため夷(い)をもって夷を制する策をとり、平家を追うために義仲や頼朝を利用し、義仲を討つためには頼朝の入洛(じゅらく)を促し、頼朝に対抗するためには、はじめ義経1159〜89.31歳〕を、後に奥州の藤原氏を利用しようと画策し、頼朝をして「日本一の大天狗」といって暗に法皇の黒幕ぶりを憤慨せしめたのも無理からぬことである。しかしその後白河法皇も建久三年(1192)三月十三日に崩御、後鳥羽天皇の親政時代に入った。頼朝は奥州藤原泰衡1155〜89.35歳〕征伐(文治五年)に際し、征夷大将軍を望んだが、後白河法皇は許さなかったのを、法皇崩後、同年七月十二日突如朝廷は頼朝を征夷大将軍に任命した。当時、頼朝は自己の推せんした摂政藤原兼実(かねざね)1149〜1207.59歳〕と協調し、一時的ながら、公武の間は平穏であったのである。しかるにその間、中納言源通親源通親(みちちか)〔1149〜1202.54歳〕が天皇の乳母であった高倉範子(はんし)を妻とし、また養女在子(ざいし.範子先夫法師能円〔1140〜99.60歳〕との間に生まれた子で、通親の養女となっていた)承明門院1171〜1257.87歳〕を天皇の後宮に納れて第一皇子為仁親王(土御門天皇)〔1195〜1231.37歳〕の降誕をみたため、その宮廷における勢力は他を圧し、建久七年(1196)には政変をおこして兼実一派を宮廷から追い、建久九年(1198)一月十一日には為仁親王の践祚、後鳥羽上皇の院政を開始することに成功した。

 しかも通親は上皇の院別当に任じられ、十九歳の上皇の院政の最高顧問役となって、上皇を援け対幕府政策を推進した。頼朝は建久七年の政変以来の情勢をみて、建久十年〔1199〕大兵をひきいて上洛し、通親一派に打撃を与えようと考えて準備していたが、その年正月病のため急死し、かえって通親の反武家の態度を大胆かつ露骨にするようになった。頼朝の急死は京都政界に大きなショックを与えたが、通親はこれを秘し、正月二十日(頼朝死後一週間)自ら右大将に任じ、頼朝の長子頼家〔1182〜1204.23歳〕を左中将に任じ、しかも自らは哀悼の意を表して門を閉じるという奇策をもてあそんだ。通親の抑圧を受けていた九条家(兼実)関係者は通親の打倒を企てたので京都は不穏な情勢となった。通親は院御所に隠れて身辺を警固せしめるとともに、陰謀者の探索に在京の幕府兵力を動かした。通親はたくみに幕府と連絡をとりながら、その勢力を利用して反対勢力と京都における幕府の弱体化をはかった。二月十四日、中原政経・後藤基清〔?〜1221〕・小野義成〔?〜1207〕の三人の左衛門を武士が逮捕し、院中に拘引した。ついで西園寺公経〔1171〜1244.74歳〕・藤原保家・源隆保の出仕をやめ、幕府の帰依あつかった僧文覚(もんがく)を検非違使(けびいし)の庁に拘禁した。これらの処分には幕府と連絡をとり、上洛した奉行人中原親能〔1143〜1208.66歳〕と協議し、三人の左衛門を鎌倉に護送し、三月五日、後藤基清は讃岐守護の地位をうばわれ、同月十九日には僧文覚を佐渡に流し、逮捕者の所領を没収した。通親のたくみな陰謀は成功し在京幕府勢力を弱体ならしめた。

 この時、幕府の最高智能であった大江広元(おおえのひろもと)〔1148〜1225.78歳〕までも、通親は利用したといわれるから、そのたくみさは驚くばかりであった。守護のごとき重職が、京都の要求により罷免されたということは、幕府の基本政策にもとる処置であったということになるのである。

 頼朝の死んだ翌年(正治二年=1200)正月梶原景時〔?〜1200〕は諸将の一致した訴えによって鎌倉から追放され、駿河一宮に達し、それから京都におもむこうとしたが、幕府は三浦義村〔?〜1239〕らをもって追撃せしめた。景時は駿河清見関にいたった時、土着武士におそわれ、狐崎で敗死した。しかし景時は朝廷から鎮西管領(ちんぜいかんれい)の院宣を賜わったと揚言し、己れに味方する者の京都に集会すべきを命じていたのである。このことは京都側の魔手が御家人の中にも入って、反幕的の動きが多少あったことを想像せしめる。

 この年七月には、淡路、阿波、土佐三国の守護佐々木経高〔?〜1221〕が淡路の国務を妨げ、かつ兵を京都に集めたという理由で、朝廷からきびしくその罷免を要求したため、幕府もこれに応ぜざるをえなかった。これより先、この年四月十五日、後鳥羽上皇は第三皇子守成親王を土御門天皇の皇太弟に立てたが、幕府には一言も通知しなかった。幕府軽視が露骨になったことを示すものといえよう。

 正治二年(1200)十一月二十六日、近江の住人柏原弥三郎が乱をおこした。朝廷は宣旨(せんじ)を下して追討せしめ、幕府(頼家)も渋谷高重、土肥惟平(これひら)を遣わして伐たしめんとしたが、幕府軍到着以前に官軍は柏原荘を攻めて、弥三郎を敗走せしめた。兵馬の権が朝廷にあることを事実をもって示そうとしたのであろう。建仁元年(1201)正月、越後の城長茂(じょうながもち)が兵をひきいて二条殿に至り、宣旨を賜わって関東を討たんことを請うたが許されなかった。長茂は退去したが幕府軍の追討を受け大和吉野で殺された。この事件の背後に京都側の手が入っていたと想像されるが、長茂が短兵急に事をあげようとしたのを、朝廷は時期尚早とみて抑えたのであろう。なお長茂の甥資盛(すけもり)らは四月、越後に叛旗をあげたが、佐々木盛綱(もりつな)〔1151〜?〕が幕命を受けて討伐した。この時叔母板額(はんがく)という勇婦の奮戦が話題となった。

 建仁二年(1202)十月二十一日、内大臣源通親が卒したので、これより、後鳥羽上皇の親裁時代が始まった。上皇の政治は終始一貫、幕府の倒壊に向けられたといってよい。祖父後白河法皇〔1127〜92.66歳〕や源通親の補導のもとに成長した上皇が反幕精神を強くもたれたことも自然の成り行きであったと思われる。上皇の名尊成(たかひら)は、後三条天皇〔1034〜73.40歳〕の名尊仁(たかひと)の一字と村上天皇〔926〜67.42歳〕の名成明(ひらあき)の一字からとられたもので、両天皇は律令的天皇親政を行なった。その両天皇の名にあやかって命名されたことは、やがて後鳥羽上皇の生涯を暗示するものであった。よく知られている御製「奥山のおどろの下もふみわけて道ある世ぞと人にしらせむ」の精神もまた上皇の一生を貫いた。後白河法皇や通親の対武家策には自己の政権欲がふんぷんとにおうが、後鳥羽上皇の行動には律令的天皇親政を樹立しようとするひたむきな精神が存したことを認めなければならない。

討幕への傾斜
 後鳥羽上皇は機会あるごとに幕府の勢力を弱めて困難な事態においこもうと策されたようである。元久元年(1204)将軍実朝〔1192〜1219.28歳〕が京都の公卿から夫人を迎えようと申出たとき上皇は卿二位藤原兼子〔1155〜1229.75歳〕とはかって坊門前大納言信清七条院の弟.1159〜1216.58歳〕の女を選定した。その婚儀の調度品は在京の廷臣全部に命じてととのえさせ、「天下の経営ただこの事に在り」(明月記−藤原定家〔1162〜1241.80歳〕の日記)と評されるほど熱心であった。これをもって、幕府内部にできるだけ公家勢力浸透の機会たらしめようと考えたからであろう。

 実朝の婚姻によって、公家社会の風は鎌倉へ入り、実朝は周知のように武芸よりは、和歌と蹴鞠(けまり)の二つを好んだ。承元三年(1209)十一月、大江広元(政所別当)1148〜1225.78歳〕、北条義時(政子の弟)1163〜1224.62歳〕は実朝に弓馬の道を棄ててはならないと進言し、建保元年(1213)九月に長沼宗政1162〜1240.79歳〕は、当代(実朝のことをさす)は歌鞠(うたまり)をもって業となし、武芸は廃せられたと放言したことがあり、御家人の実朝に対する信頼はうすかった。

 実朝には子がなかったから、北条義時、平政子(頼朝の妻)1156〜1225.70歳〕らは協議し、将来は皇族将軍をたて、その下で執権政治を行なおうと考えた。建保六年(1218)夏、政子が京都に上り、卿二位藤原兼子〔1155〜1229.75歳〕と秘密裡に後継問題について交渉した。このとき兼子は協力的態度を示し、自分の養育している後鳥羽上皇の皇子冷泉宮(れいぜいのみや)頼仁親王.1201〜64.64歳〕をその候補に擬し、なおすでに出家していた政子に破格をもって従三位(さらに同年中従二位)に叙し、後鳥羽上皇との対面もとりはからったほどであるが、そのことは政子の辞退で実現しなかった。

 ところが承久元年(1219)正月実朝が、甥公暁〔1200〜19.20歳〕の凶刃にたおれるという大事がおこった。これより先、朝廷は幕府との間に皇族将軍設置の協定ができたので、できるだけ早くその実現をはかるべく、実朝の官位をすすめて官打ちをはかった。官打ちとは、身分不相応に官位が昇進すると果報負けして早くほろびるという思想で、すでに平安時代の公家の間にもたれていた独善的思想であるが、幕府では実朝の死を官打ちにあったと認めていた。また朝廷は京都三条白河に最勝四天王院を建立して実朝の調伏(仏教的呪詛)を行ない、南都、北嶺の大寺には北条義時の呪詛を行なわしめたという風聞もあった。朝廷は、実朝の死去のときすなわち幕府の危機と判断していたのである。

 実朝自身も源氏の正統が三代で滅びることを予想し、せめて官位の昇進をはやくし、家名をあげたいと大江広元に語ったこともあった。実朝が殺された背後に義時が公暁をあやつったという想像は充分に可能である。義時はつづいて同年二月頼朝の異母弟阿野時元〔頼朝異母弟阿野全成の子の誤り〕を駿河で殺し、翌年には頼家の子禅暁を京都で殺さしめ、源氏血統の断絶を行なった。北条氏も皇族将軍の実現を早期に欲しての処置であった。実朝死後、幕府は政子が簾中(れんちゅう)で政を聴き、義時が執権として当面を乗切ることにするとともに二月、京都に政所執事二階堂行光〔1164〜1219.56歳〕を派遣し(十三日到着)、宿老・御家人連署の奏状を持参せしめ、後鳥羽上皇の皇子六条宮(雅成)〔1200〜55.56歳〕と冷泉宮(頼仁)1201〜64.64歳〕の内一人を鎌倉の将軍として迎えたき旨を申入れたのである。これに対し上皇は、表向きこれを許しながら、その実行をしばらく控えるという態度をとり、かえって三月八日、内蔵頭(くらのかみ)藤原忠綱を鎌倉に派遣して実朝の死去をとむらうとともに、別に摂津の長江・倉橋両庄地頭職改補等の事を要求したのである。二つの庄は上皇の寵妃亀菊(かめぎく)の所領であり、地頭(姓名不明)が年貢抑留など不法行為をしたので、亀菊から上皇に訴え、ここに改補の要求となったのである。

 三月十五日、幕府は義時の弟北条時房1175〜1240.66歳〕に一千騎をひきいて上洛させ、朝廷へ返答をもたらし、地頭改補に断固反対の意を明らかにしたのである。それとともに幕府は上皇が皇族将軍に同意でないことを看破して、御家人の動揺を防ぐためにも早急に将軍の後継者を定める必要を感じて、宿老三浦義村の建議にもとづき、左大臣九条道家(兼実の子〔孫の誤り〕〔1193〜1252.60歳〕の子三寅(みとら.時に二歳)が頼朝の遠い血縁者に当ることを口実に、後継者となすことに定めて朝廷へ奏請した。上皇は不満であったが、これを拒否する理由もなかったので六月三日(承久元年)、宣旨を下して、三寅(後の頼経〔1218〜56.39歳〕)の鎌倉下向を認められたから、七月鎌倉に下った。三寅は幼少であったから依然として政子が政を聴き、義時が将軍家の事を奉行することとした。かくて鎌倉は上皇の期待とは違って、新しい体制ができて、なんらの動揺も起こさなかった。

承久の変
 ここに至って、上皇は武力による幕府の討伐を実行することになった。上皇の意に賛成したのは、順徳天皇〔1197〜1242.46歳〕、六条宮、冷泉宮と藤原忠信・信成・光親1176〜1221.46歳〕・宗行・範茂・信能・源有雅〔1176〜1221.46歳〕らの朝臣、僧正長厳・法印尊長・賀茂神社の祐綱・能久・法琳寺別当蔵有・醍醐寺の光宝・熊野の快実・堪全らの僧侶・神主、藤原秀康・秀澄ら北面武士であった。九条道家(みちいえ)〔1193〜1252.60歳〕・西園寺公経(きんつね)〔1171〜1244.74歳〕ら幕府の縁故者と土御門上皇〔1195〜1231.37歳〕は全く局外者であった。

 後鳥羽上皇は院御門の警固のために北面の他新たに西面の武士を置かれた。刀剣を鍛えて侍臣にたまい、宇治で水練を習練し、城南寺に臨幸して流鏑馬(やぶさめ)を行ない、また競馬・笠懸・狩猟等、武芸の習得に熱心であった。承久三年(1221)四月になり、順徳天皇が皇太子(仲恭天皇)〔1218〜34.17歳〕に譲位したのは、後鳥羽上皇の討幕計画推進のためであった。同月二十四日天台座主を交代し、入道尊快親王後鳥羽院皇子.1204〜46.43歳〕を補されたことは、延暦寺僧兵を味方にいれようとする考えであったと想像される。五月十一日入道道助親王後鳥羽院皇子.1196〜1249.54歳〕、僧正良快九条兼実の子.1185〜1242.58歳〕をして、高陽院(かやいん)(上皇の御所)において、如法愛染王法を修せしめ、また最勝寺においては鎮護国家の灌頂を修せしめられた。もちろん幕府調伏の祈祷であった。その他延暦寺、東寺、仁和寺にも上皇は祈祷を行なわしめた。

 後鳥羽上皇の計画は、義時追討の宣旨を諸国に下して、幕府の御家人らのカで義時をたおすことにあった。北面武士藤原秀康〔?〜1221〕に命じ、ちょうど在京中の三浦胤義〔?〜1221〕をさそい、胤義からその兄で鎌倉におる豪族三浦義村〔?〜1239〕にすすめて、義時追討に立ちあがらせようと考えて、密使を派遣させた。しかしこの密使のもたらした内容はすべて幕府側に伝わり義村自身も北条氏に忠誠を誓ったので、上皇の計画はその点で水泡に帰した。また京都守護伊賀光季〔?〜1221〕と親広大江.?〜1241〕を味方にしようとしたが、親広は応じ、光季は応じなかった。

 かくて五月十四日、後鳥羽上皇〔1180〜1239.60歳〕は城南寺の流鏑馬と称して近畿の兵と諸寺の僧兵を徴集し、翌十五日、仲恭天皇と土御門、順徳の両上皇は高陽院に幸し、京都守護伊賀光季を誅した。この日、諸国に宣旨ならびに院宣を下して義時〔1163〜1224.62歳〕の追討を命じた。十九日になって、この報が鎌倉に達すると幕府は遠江以東の御家人に動員令を発し、時房〔1175〜1240.66歳〕、泰時〔1183〜1242.60歳〕を総大将として上京せしむることにした。上皇は院の北面や西面の武士に期待をかけ、また院宣の威カを過信して、院宣一度び下れば、たちまち大軍が集まるであろうと信ぜられたが、しかしすべては完全な誤算であった。武士社会の強い結合に対する認識を欠いた判断に立っていたといわなければならない。武士は頼朝〔1147〜99.53歳〕ならびにその後継者を鎌倉殿と尊称し、これを主人と仰ぎ、恩義の観念のもとに固く結合し、「軍中には将軍の令を聞きて天子の詔を聞かず」という考えがゆきわたっていた。従って、後鳥羽上皇が律令的君臣関係の思想をもって、関東武士を誘引しようとしたことは根本的に実情にあわないことであった。政子〔1156〜1225.70歳〕が西上する将士を激励した言葉にはとくに歴代将軍の御恩を強調し、これに報謝することをもってし、聞く者をして感激の涙を催さしめたと伝えている。御恩とは封建的な主従関係の精神的紐帯となるもので、所領の安堵、給与および官位の推薦などを具体的には意味した。関東武士にとって、京都の政府に従う理由を見出せなかったのである。

 京都周辺の合戦は短期に勝負がつき、六月十五日、泰時軍は入京した。後鳥羽上皇は、小槻国宗(おづきくにむね)を泰時のもとに派遣して、義時追討の宣旨を撤回すること、兵士の狼藉を止めることを申入れるとともに、とくに「大小の事、申請に任(ま)かせて聖断あるべき」旨を伝えたのである。このことは、上皇が自ら完全に敗北を認め、幕府の公家政治に対する申請権(干渉あるいは容喙といってもよい)を承認したことを意味した。これより、重要政務は関東の申請を俟って行なれることになり、公・武所を代え、公家は武家の鼻息をうかがわねばならなくなって行くのである。

 幕府の戦後処置はきびしかった。仲恭天皇〔1218〜34.17歳〕を廃して、後堀河天皇(八六代)〔1212〜34.23歳〕を即位せしめ、その父後高倉院(ごたかくらいん)〔1179〜1223.45歳〕の院政を奏し、摂政を交代し、後鳥羽、順徳の両上皇を(後に土御門上皇も)遠島に処した。謀議に参じた公卿で斬られた者、流された者が多かった。戦勝者の立場とはいえ、もってのほかのきびしさで、承久以前の公武間の関係を考えると思いも及ばないほどである。幕府は形式的には公家政権の下につくものであったが、これより実質的には国政の最高責任者たる地位についたのである。以後、鎌倉時代を通じ、皇位継承、有力公卿の任官等については幕府の意向が重きをなした。幕府は京都方に味方した廷臣や僧侶らの所領三千余ヵ所を没収し、有功御家人に恩給し、しかもそれが近国、西国に多かったので、幕府の威令は関西以西に浸透することとなり、御家人掌握に大きなプラスとなった。

 後鳥羽上皇は隠岐遷幸に先立ち、七月八日鳥羽殿で薙髪(ちはつ)、出家し、法名を良然(りょうねん)と号した。またこの日、藤原信実(のぶざね)に命じて、宸影を画かせこれを母七条院〔1157〜1228.72歳〕に贈った。修明門院(すめいもんいん)(順徳天皇母)〔1182〜1264.83歳〕も出家した。七月十三日、法皇は鳥羽殿を出発、西御方(にしのおんかた)、伊賀局(いがのつぼね)、内蔵頭藤原清範らが供奉(ぐぶ)して隠岐に向かった。到着の日時不明であるが、海部(あま)郡苅田郷の行宮(あんぐう)といわれる。ここにおられること十九年、延応元年(1239)二月二十二日崩御。宝算六十。同所で火葬し(火葬塚は海士村にあり)、側近の藤原能茂(よししげ)が遺骨を納めて京都に帰り、(五月十六日)一旦、大原西林院に安置、仁治二年(1241)二月、法華堂(平安末期以来の貴族墓所の形式)を大原に営み、そこに納めた。ここが陵で、京都市大原の勝林院に在り、大原陵(おおはらのみささぎ)(十三重塔)という。崩御後、延応元年(1239)五月二十九日、四条天皇〔1231〜42.12歳〕は法皇に顕徳院と諡号(しごう)をおくられたが、三年後の仁治三年(1242)七月八日、御在所の名に因んで後鳥羽院と追号された。(なお中世の文献には、遷幸の国名により隠岐院と記したのもある)

多芸多能の天皇
 後鳥羽上皇は、まれに見る多芸多能の方であって、歌道、書画、管弦、蹴鞠など宮廷伝統の学芸に達していた他、刀剣製作なども行なった。中でも歌道における天皇の業績は高く評価されている。建久九年(1198)の譲位から承久三年(1221)までの二十余年は歌壇の盛時であった。建仁元年(1201)七月には和歌所(和歌の撰集を行なう所、村上天皇天暦五年=951設置)を再興し(二条殿に置き、九条良経・源通親・同通具・僧慈円・藤原俊盛・同有家・同定家定家・同家隆・同雅経・源具親・沙弥寂蓮を寄人とす。後、藤原清範・同隆信・鴨長明・藤原秀能を寄人に加え、源家長を開闔(かいごう)=書記役とした)、ここでしばしば和歌御会を開かれた。元久二年(1205)三月二十六日にはかねて源通具〔1171〜1227.57歳〕・藤原有家〔1155〜1216.62歳〕・同定家〔1162〜1241.80歳〕・同家隆〔1158〜1237.80歳〕らに『新古今和歌集』を撰ばせていたが、この日奏進された。翌日春日井殿で和歌撰集の竟宴(きょうえん)が行なわれた。この二つは中世和歌史を飾る二大事とされている。上皇自身、歌会に参加されたが、御製はおびただしい数にのぼり、歌集となって伝わるものも多数である。正治二年(1200)院御百首歌、正治二年二度目の百首歌、正治二年三百六十番歌合、仙洞十人歌合(正治二年)、老幼五十首歌合(建仁元年=1201)、新宮撰歌合三十六番(建仁元年)、影供歌合十八番(同上)、撰歌合五十番(同上)、内宮御百首・外宮御百首(同上)、千五百番歌合(同上)、五十首歌合(同上)、水無瀬釣殿当座六首歌合(同年)、水無瀬殿恋十五首歌合七十五番(同年)、水無瀬桜宮十五番歌合(同年)、八幡若宮撰歌合十五番(建仁三年)、釈阿九十賀御会歌(同上)、北野社歌合十五番(元久元年)、八幡上賀茂下賀茂住吉各三十首御会集(同上)、元久詩歌合三十八番(同上)、日吉三十首御会集(元久二年)、新古今和歌集竟宴和歌(同上)、卿相侍臣歌合三十番(建永元年=1206)、内宮外宮各三十首御歌(承元元年=1207)、鴨御祖社歌合十四番(同上)、賀茂別雷社歌合十八番(同上)、最勝四天王院障子和歌集(承元二年=1208)、五人百首集(建暦二年=1211)、建保御百首集(建保四年=1216)、詠五百首 和歌(同上)、撰歌合十番家隆判集(嘉禄二年=1226)、遠島御歌合同八十番(嘉禎二年=1236)等。この他、後鳥羽院御集がある。新古今和歌集には三十五首、続後撰集二十五首、続古今集四十九首、続拾遺集十九首、新後撰集十首、玉葉集十七首、風雅集二十四首、続千載集十四首、その他続後捨遺集、新後拾遺集、新続古今集等にも十首以上ずつのっている。詞藻きわめて豊かであったことを物語るものであることはいうまでもない。

 『後鳥羽院御口伝(ごくでん)』は歌学概論的の著作で、当時の歌人=西行〔1118〜90.73歳〕・俊成〔1114〜1204.91歳〕・定家〔1162〜1241.80歳〕らの歌風を批評したもの、かつ歌についての上皇の見解を示されている点で大切な書物である。

 また、『後鳥羽院宸記(しんき』』という日記があり、また『世俗深浅秘抄』(二巻)があり、前者と合せて宮廷年中行事研究の必読書となっている。その他『無常講式』(仏教)、『御琵琶合』、『後鳥羽院御鞠(おんまり)』と名づけられる著作もあり、上皇の多芸多能を証するものとなっている。


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