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三浦周行 『鎌倉時代史』 第48章〜第50章






 第四十八章 幕府の内訌


第百七十三節 関東申次の更迭

関東申次の変遷
 天皇後深草1243〜1304.62歳〕尚ほ御幼冲なりしかば、上皇後嵯峨.1220〜72.53歳〕、院中におはして政務を視給ふ。是より先き後鳥羽上皇1180〜1239.60歳〕の院政時代には、坊門信清1159〜1216.58歳〕、西園寺公経1171〜1244.74歳〕の両卿、関東の申次たりしが、後、道家1193〜1252.60歳〕専らこれに当り、事態の重大なるものは親しくこれを幕府に示し、然らざるものは修理大夫高階経雅(初名経時、仁治三年1242〕、北条経時1224〜46.23歳〕と同名を諱んで名を改めたりしこと、公卿補任に見えたり)彼れの旨を承けてこれを幕府に伝へたりしが、上皇の院政を開始し給ふに及び、寛元四年1246〕、道家は更にこれを頼経第4代将軍.1218〜56.39歳〕に謀り、三月三日附の彼れの回答を得て、上皇に奏し、自後秘事重事は猶ほ旧の如く道家よりこれを示すべく、僧俗の官爵等は摂政に達すべく、雑務は奉行院司、申次を経ずして直に院宣を下すべきことゝなれり(葉黄記寛元四年三月十五日の条)。

道家と頼経との関係
 これを以て既往の制に対照すれば、其手続上、多少の変更を認むべきも道家は依然として朝幕間の関鍵を握れるなり。道家既に官を辞し、仏門に帰して、復、世事に意なきが如きも、其敢へて関東申次を辞せざるを見れば、未だ政治上の野心を絶たざりしを知るべし。又頼経も将軍職を罷めて出家し、幾たびか帰京の期日の発表せられし後に於ても、尚ほ幕府の機務を主宰せること此くの如し。故に頼経の帰京を望みたりしは、其真意に出でしや、将た他に営求するところありしやは姑(しばら)くこれを措き、若し道家の立脚地よりこれを観れば、幕府の主権の、永く頼経の手に帰せんこと、寧ろ其期侍すべきところなりしが如し。而して一部の幕僚中にも、彼れの帰京を懌(よろこ)ばざるものありて、極力斡旋しつありしは事実たり。


第百七十四節 北条経時の卒去

執権の後継者協定
 然るに幕府の暗流を激動し漲溢せしむべき一動機は生ぜり。執権北条経時の卒去即ちこれなり。経時は去年六月以来疾に罹りつゝありしに、寛元四年1246〕三月、危篤に陥いりしかば、彼れの亭に於て執権の後継者に関する秘密会議は開かれたり。是時彼れの二子尚ほ幼なりしを以て、彼れは弟時頼1227〜63.37歳〕に執権職を譲らんことを望み、時頼亦これを諾せり。頼経、頼嗣第5代将軍.1239〜56.18歳〕、使を遣してこれを賀せり。是に於て経時は頼経に請ひ、出家して安楽と号せしが、閏四月終に卒せり。年卅三。〔二十三の誤り


第百七十五節 名越光時等の処分

経時卒去後の事変
 経時の卒去後、名越一流を始め、前将軍頼経に昵近せるもの、相誓つて頼経を奉じ、時頼を伐たんことを図ると聞え、近国の御家人武装して或は幕府に赴き、或は時頼の亭に会し、人民亦資財を運んで難を避くるに忙はしく、危機日を逐うて迫れり。

 時頼は機先を制して、兵を集め自ら衛り、又鎌倉の要路を扼して、行人を誰何し、以て不慮に備へしめたり。五月二十五日、頼経、使を時頼の第に遣して陳謝せしめんとせしに、時頼其引見を許さず。是に於て、頼経を勧めて兵を挙げしめんとせりとの説ありし名越光時も、髪を削りて時頼に致し、弟修理亮時幸は自殺せり(葉黄記六月六日の条に拠る。吾事鏡は病死に作れり)。弟尾張守時章1215〜72.58歳〕、備前守時長、右近大夫将監時兼等はこれに先きだつて異図なきを陳謝したりしかば、事なきを得たり。

名越一党の処分
 時頼は実時金沢.1224〜76.53歳〕等と共に与党の処分を議し、光時を伊賀国に流し、其越後の国務及び所領を収めたり。是より先き、後藤基綱1181〜1256.76歳〕、藤原為佐、千葉貞胤秀胤の誤り.?〜1247〕、三善康持1206〜57.52歳〕等、此事に坐して評定衆を罷められ、康持は又問注所執事を罷められたりしが、是に至りて、貞胤は又上総国に逐はれたり。


第百七十六節 頼経の帰京

頼経の異図に関する流言
 光時等の処分は此に一段落を告げたり。次ぎに来るべき問題は、前将軍頼経〔1218〜56.39歳〕の進退如何にあり。是時に当りて、頼経の異図に関する流言は、盛んに喧伝せられ、六月の初、既に京都に達せり。これに拠れば、頼経は一方に於て、武士を誘うて時頼を除かんとせると共に、他方には又祈祷を修して調伏を行へりといふにあり。 而して後者に向つては、彼れが常に勇士を愛し、又祈祷の効験ある高僧、陰陽師の輩を用ゐたるを怪み、其嘗て鎌倉の鬼門に当りて五大明王院を建てしことをさへ疑へり。尋で又彼れの異図が、父道家〔1193〜1252.60歳〕と通謀の結果なりと流伝せられ、経時〔1224〜46.23歳〕の夭折も亦其呪咀に依れりとの風聞あり。六波羅はこれが為めに警戒を厳にせしかば、上下例に依つて驚擾せり。

頼経の出発
 六月十四日、東使安達景盛〔義景の誤り〕入京し、来月を以て頼経の帰京すべきを告げたり。二十七日、時頼、頼経を越後守北条時盛1197〜1277.81歳〕の佐介邸に移し、七月十一日、近臣をして京都に発送せしめたり。二十八日、頼経入京し、六波羅北方重時1198〜1261.64歳〕の若松亭に入れり。

 幕府は頼経の帰京を以て其宿志に依ると宣言し、彼れの佐介邸にありし時、時頼は酒饌を進めて其他なきを装へりと雖ども、実は放逐の意味に於けるものと信ぜらる。内訌は此に其結末を告げたり。世にこれを呼んで宮騒動といふ。

頼経に関する世説の根拠
 頼経に関する世説の誇大に失するものありしは掩ふべからず。所謂五大明王院は即ち五大堂にして、嘉禎元年1235〕正月、頼経これを剏建(そうけん)せり。是より先き、寛喜元年1229〕十月以来、幕府は彼れの祈願寺を鎌倉に建てんとし、泰時1183〜1242.60歳〕、時房1175〜1240.66歳〕等、幾たびかこれに充つべき侯補地を踏査し、一時甘縄に決したりしも、後、終に二階堂の地に定めしものなり。其幕府の鬼門に当れるは、当時に於て既に明白なりしも、祈祷相応の地として選に入りしものなれば、今其建立に溯りて調伏を云々するは妄も亦甚し。然れども幕府をして此疑を生ぜしめたりしは、独り疑心暗鬼を生ずるの類に止らずして、有力なる根拠を有するに依りしこと疑ふべからず。伝ふるところに拠れば、時頼は頼経の近臣前兵庫頭定員を捕へて推鞫其実を得たりしも、定員の子は密書を焼いて自殺せりといふ(岡屋関白記六月九日の条)。頼経の鎌倉にありし日、使を遣して陳謝せしめんとせる時も、又京都に還りて書を遣りし時も、時頼が断じてこれを卻(しりぞ)けしが如き、弥々其然るを見るなり。


第百七十七節 三浦氏の乱

三浦泰村に対する嫉視
 三浦泰村1204〜47.44歳〕は父義村?〜1239〕の後を承けて、北条氏の外戚を以て一門の官爵他門に超え、数国の守護を兼ね、数万町の荘園を領し、他の儕輩を凌駕せり。佐々木義清の子政義、幕府の近習たり。泰村が御家人の上首に似たるを見て、平ならず、屡々これと着座の上下を争ひしも、終に勝つこと能はざりしかば、憤怨の余、告げずして出家せり。幕府其法に違へるを責め、所領を没収して弟泰清〔?〜1287〕に給へり。これ適々泰村が、他の嫉視を買ひつゝありしを証すべし。

頼経と三浦氏
 頼経の事あるや、三浦氏亦与同の嫌疑を受けたり。然れども泰村は後、許されて幕府の謀議に参画せり。泰村の弟光村1205〜47.43歳〕の自白として伝へらるゝところに拠れば、初め道家1193〜1252.60歳〕、三浦氏を誘ひし時、光村は直に起つて事を挙げんとせしも、泰村逡巡決せざりしといふ。此内訌に於ける泰村の態度に徴するも、又彼れの知己小山朝光の言に照すも、泰村の初より之れに熱中せざりしは事実に近かるべく思はる。光村は幼より頼経に近侍して寵を得、頼経の京都に帰りし時も護送の員中にあり。後其鎌倉に帰るに当りて、流涕滂沱辞去するに忍びず、異日再び旧主を鎌倉に迎へんと欲するの意を洩らせりといふ

安達景盛、三浦氏を倒さんと謀る
 時頼の外祖安達景盛(覚地)〔?〜1248〕深く三浦氏の跋扈を悪み、宝治元年〔1247高野山より帰りて時頼と密議を凝らし、又其子義景〔1210〜53.44歳〕、孫泰盛〔1231〜85.55歳〕の武備なきを見てこれを戒飭せり。皇代暦に三浦氏の乱源を説きて、「事濫觴泰村与義景争権之故云々」といへるに拠れば、これ実に三浦乱の序幕たるなリ。思ふに、三浦氏は常に衆怨の府たりしのみならず、頼経の事ありてより、北条氏の憤怨を買ひ、早晩滅亡を取るべき運命を有せり。景盛は頼経の外祖として、其幸運を祈るの情に切なるもの、彼れの鎌倉に帰りしは、其本意に出でしや、将た時頼の招引に依りしやは姑くこれを措き、彼れが全力を傾けて三浦氏の撃滅に尽くしゝこと、疑ふべくもあらず。

北条氏の挑発運動
 五月、泰村の第二子駒石丸は、時頼の養子となるの約成れり。四月〔五月十三日の誤り、将軍頼嗣の夫人北条氏檜皮姫.1230〜47.18歳〕病んで没せり。夫人は時頼の妹なるを以て、時頼は其忌に服せんが為め、泰村の邸に移れり。此くの如く一方に於ては、三浦氏に対して、執権の他意なきを装ひつゝありし間に、幕府の三浦氏を誅戮せんとするの意味は或は鶴岡八幡宮社頭の※示(ぼうし)に依り、或は泰村の私第の落書に依りて、一般に告示せられ、挑発煽動至らざるところなし。是を以て人心恟々として其堵に安んぜず、互に兵備をなして、不慮に備へたり。
※片へんに「旁」

三浦氏の滅亡
 既にして時頼は三浦氏の戦備を修するを見届けて遁れ帰り、近国の御家人来つて其邸を警衛せり。六月五日、時頼、手書を泰村に与へて兵を撤せんことを求めしに、泰村喜んでこれに応ぜり。景盛これを懌(よろこ)ばず。旨を義景、泰盛に授けて急に泰村を伐たしめたり。時頼交戦已に始まれるを以て実時に命じて幕府を守らしめ、時定時頼の同母弟.〜1290〕をして赴き戦はしむ。泰村等又邀へ撃ち、両軍殊死して戦ふ。時定等火を放つて泰村の邸を焼く。泰村等退いて頼朝の法華堂に保ち、光村等亦永福寺より来り会せり。両軍激戦巳より未に至る。泰村等事の成すべからざるを見て自殺す。一族郎従の死を共にするもの三百余人(葉黄記に拠る。吾妻鏡には五百余人に作る)。毛利季光(西阿)〔1202〜47.46歳〕の妻は泰村の妹なり。季光初め時頼の邸に会せんとせしが、其諫に依りて終に三浦氏の軍に投ぜり。彼れ平生念仏に帰依す。故に法華堂にあるや、諸人を勧めて徐に法事讃を行ひ、光村其調声たりしといふ。

三浦氏余党の処分
 三浦氏の乱京都に聞えしかば、朝廷は事の重大なるを認めて、御祈を行はれたり。三浦氏の軍敗れて後、時頼は即日、書を六波羅重時に送りてこれを報じ、実氏〔1194〜1269.76歳〕を経て奏聞せしむると共に、普く西国の御家人に告示せしめ、左の事書を示せり。

一、謀叛輩事、
為宗親類兄弟等者、不及子細、可被召取、其外京都雑掌、国々代官等事者、雖不及御沙汰、委尋明、随注申、追可有御計者、

 これより後、幕府は一方に於て諸国に於ける三浦氏の余党を処分し、他方には鶴岡八幡宮、及び法華堂に領地を寄附し、又将士の戦功を録賞せり。斯くて景盛は其目的を達せしかば、高野山に還りて退隠せり。


第百七十八節 六波羅の更迭

時頼、重時の帰還を求む
 頼経の京都に還りし後、時頼は泰村に諮るに、六波羅北方重時〔1198〜1261.64歳〕を召還して軍務を補佐せしめんとするの意を以てせしに、泰村は其不可を陳じてこれを止めたり。六月泰村誅に伏せし後、時頼は彼れと戦後の経営を共にするの必要を感じ、急使を京都に遣して、其速に帰還せんことを求めたり。時に上皇、法勝寺御八講に臨み給はんとせしも、重時の東下に憚りてこれを停め給へり。七月、重時、鎌倉に還り、尋で連署となれり。幕府、重時の第二子長時〔1230〜64.35歳〕を京都に遣して、六波羅の北方に居らしめたり。





 第四十九章 後嵯峨上皇の院政


第百七十九節 道家の失意

道家、頼経父子の会見
 頼経1218〜56.39歳〕の帰京は、京都の政況に向つて一大激変を来せり。頼経は帰京前既に其事情が世間に知れ渡りたれば、名声頓に地を払へり。事、彼れの父道家1193〜1252.60歳〕に関連し、一時幕府は彼れに向つて報復を図るとさへ伝へられたり。葉黄記寛元四年1246〕六月十日の条に、「世間物※、衆口追日嗷々、今朝東山殿御所辺有怖畏之由有其説、仍尋申之処無別事、皆以天狗之所為歟」といへるが如き、如何に形勢の危殆に瀕すべく思考せられつゝありしを想ふべし。頼経は帰京の後、道家を東山殿に訪へり。葉黄記には此悲惨なる父子の会見を叙して、「密々儀」といへり。彼れの第一回上京の盛事に比すれば、其末路豈に憐むべからずや。
※「総」の旁のみの字

時頼の奏聞
 寛元四年1246〕八月、時頼〔1227〜63.37歳〕は重時に旨を授けて内奏せしむるところあり。重時は奉行院司葉室定嗣1208〜72.65歳〕を六波羅に招きて時頼の書を示し、定嗣をして其要点を編目に書せしめ、これを上皇に奏せしめたり。円満院宮仁助法親王後嵯峨院の兄.1214〜62.49歳〕西園寺実氏1194〜1269.76歳〕土御門定通1188〜1247.60歳〕、これを聞きて院に詣り御前に祗候せり。時頼は其書に於て、頼経の上洛が、遁世の為めなるを説き、将軍頼嗣は御家人等とこれを守護すること旧の如きを弁じ、異図を抱けるもの、皆刑に就きて、関東既に静謐に帰したれば、朝廷が此際殊に徳政を行はれんことを望み、従来は叙位除目の、或は叡慮の如くならざりしものあらんも、自後は正道に依りて人材を登用せらるべしといひ、関東申次は追つて選任せんことを奏せり。これ明らかに幕府改革の経過を説明せるものにして、殊に其末段の如きは、最も注意を値するものあれば、今葉黄記八月廿七日の条に見えたる全文を左に掲げん。

大納言入道上洛遁世之儀也、将軍頼嗣、家人等守之、如日来、謀略之輩少々行罪科了、関東静謐也、天下事、公家殊被行徳政之条所仰也、叙位除目以下、此奥在裏、万事可被行正道、或不任叡慮事等有之歟、自今以後不可然、可被抽賞器量之者、又関東申次之仁追可計申之由也、


朝幕関係の刷新
 これに拠れば、時頼は深く道家に銜(ふく)むところありて、其関東申次を罷めたるなり。叙位除目の叡慮に任せざりしことあらんとは亦道家が、天皇の聡明を蔽ひ奉りしことあるを諷示せるなり。十月十三日に至りて、時頼は又安藤光成を遣して上京せしめ、西園寺実氏〔1194〜1269.76歳〕を関東申次となしゝことを奏し、重ねて徳政を行はれんことを請へり。十二月二十四日、実氏の使者、幕府の回答を齎して鎌倉より帰れり。上皇御尋ねあらせらる。葉黄記(十二月廿五日の条)に、「有秘事等歟」ともあるも、其内容はこれを詳らかにせず。これより道家の威望は地に墜ちて、実氏これに代り、朝廷の幕府に示さるべきことは、皆実氏を経由することゝし、且つ道家の関東申次たりし日は、事、細大となく皆道家より伝奏せしも、自後瑣事に至つては院司より直に奏聞せしむることゝ改められたり。


第百八十節 院評定の開始

院政の刷新
 頼経の事ありし後、幕府は今更の如く承久の苦き経験を回想して、転々恐怖の念に襲はれしが如く、関東申次の更迭を行ふと共に、進んで朝政の刷新を図り、徳政の奏請に及べり。十一月三日、院庁に於て雑訴評定を行はれ、訴訟を審議せしめられたり。これより毎月六回、日を定めてこれを行ふことゝし、太政大臣西園寺実氏、前内大臣土御門定通、内大臣徳大寺実基1201〜73.73歳〕、中納言吉田為経経任・経長の父.1210〜56.47歳〕、参議葉室定嗣〔1208〜72.65歳〕を評定衆とし、為経を奉行とせられ、後、大納言堀河其実基具の父.1203〜77.75歳〕を評定衆に加へられたり。

院評定と記録所
 此制始まりし後、朝廷は訴訟の提起せられしものある毎に、記録所の審議を経てこれを院評定の議題に上せ、評定衆の意見即ち定詞(サダメコトバ)を徴して、多数決に依りて裁決を与ヘ、事の疑似に亘れるものは、更に記録所の再議に附せられたり。これより記録所の事務は移つて院評定に帰し、記録所は唯其調査審理の事に当るのみとなれり。これ言ふ迄もなく上皇の幕府の申請を嘉納あらせられて改善の実を挙げ給ひしものにて、後世に至る迄院政の準拠となすところなり。


第百八十一節 近衛兼経の摂政

近衛、九条両家の疎隔
 前摂政近衛兼経鷹司兼平の兄.1210〜59.50歳〕は九条家と婚を通ぜしも、其先天的疎隔は到底両者の融和を望むべからず。寛元四年1246〕四月、彼れは春日社に告文を納めて、其男子を得んことを祈れり。今其文の彼れの日録岡屋関白記四月廿三日の条に載れるものを見るに、其中自ら一家の嫡流たることを説きて、暗に九条家を貶し、「第三之流乃見抜群満朝天利、姫霍之業継踵、将相之栄累輝、仙院爾波並芝砌之号、諸家爾波多棟梁之材、見賢弖波思斉、孔聖貽訓勢里、恭依尊神之霊徳宜煽正嫡之芳塵」といへり。所謂第三之流は即ち九条家を指せるなり。されば頼経の事ありてより愁雲九条家を掩ふも、冷然として形勢を観望し、栄枯地を換ふるを見て、寧ろ自ら快とするの状なかりしにあらず。

摂政の更迭
 道家既に幕府の歓心を失へり。実経一条.1223〜84.62歳〕の地位豈に独り安全なるを得べけんや。政海の奔馬燈は、九条家の失意を転じて近衛家の得意とならしむ。宝治元年1247〕正月に至り、幕府の奏請に依りて、摂政の更迭は行はれ、実経は上表を待たずして其職を罷められ、兼経これに代りて摂政に還補せられ、同時に氏長者となり、随身兵仗を賜ふ。牛車を聴さるゝこと元の如し。彼れ摂政の詔を蒙りて後、一夜月明らかなる頃、直廬に臨んで和歌を詠じて曰く、

思ひきや露の命のきへぬまに又も雲井の月を見んとは

 実経は家門閉ぢて籠居し、天台座主慈源九条道家の子.1219〜55.37歳〕も亦其職を罷めたり。尋で上皇、実経の閉門を不可なりとし給ひ、諭してこれを開かしめ給へり。

 上皇御践祚の日より年を閲すること僅に六年にして、摂関を易へらるゝこと四回、人其異例を称す。


第百八十二節 忠成王の御元服

世の注意を避く
 順徳院の宮忠成王〔1221〜79.59歳〕は御年二十六歳に至るも、幕府に憚りて御元服の事なかりしが、宝治元年1247〕二月、如何に思はれけん、首服を加へ給へり。葉黄記には民部卿平経高1180〜1255.76歳〕の斡旋に依りて、王が御手づから密に首服を加へられたりといふも、百練抄の「加冠前内大臣基家公、理髪中将顕基朝臣」の文に拠れば、必ずしも然らざりしを知るべし。然れども幕府の忌諱に触れ給へる王の御元服は世人の耳目を聳動せり。五代帝王物語に、「関東かゝるひしめきのまぎれに思食様や有けん、順徳院の宮御元服ありしをば人も何とやらん思たりき」といへるは其消息を洩せるものなり。珠に頼経の事に依りて道家の心事を疑ひつゝありし幕府が、道家の尊奉せる王の御元服を如何に視たりしかは推知するに難からず。


第百八十三節 幕府の態度

院改に対する幕府の信任
 上皇はもとより謙徳に富ませ給へるに、御践祚の際の苦き経験は、益々幕府の擁立を徳となし給ひ、事毎に其意向を問うて後聖断を下し給へり。頼経の事ありてより、幕府は道家に対してこそ反感を抱きたれ、毫も上皇を怨み奉ることなく、却つて其御親裁を望み、又屡々徳政を行はれんことを奏請せり。上皇はこれを嘉して鋭意院政の更張を図り、幕府の意に副はんとし給ひしが、宝治元年1247〕六月、更に幕府と徳政の事を協議せしめんが為め、奉行院司葉室定嗣1208〜72.65歳〕を鎌倉に遣さんとの内命を下され、定嗣の拝辞するに及んでは、実氏以下卿相東下の先例あることゝ、此使命を全うするの名誉なることゝを挙げて、親しくこれを諭し給へり。されば幕府の信頼も亦頗る厚く、権僧正慈源の罷められし後、上皇は無品覚法親王(西山宮)の、一門の宿老にして、知法の名望あるを思召されて、天台座主の後任に擬し給ひ、幕府は其後鳥羽院〔1180〜1239.60歳〕の皇子におはすにも拘らずして、聖断に任せ奉り、又三浦氏の乱平らぎし後、幕府は秘密会議を開きて、此際特に朝廷を尊奉すべきことを議決せり。是等の事実は如何に幕府が意を傾けて上皇に敬事し奉れるかを語るものなり。朝幕関係の円滑を保ちしこと、上皇の院政の時の如きは多く其比を見ず。

幕府の抗奏と院御領の進献
 八月、幕府の使者大曾禰長泰1211〜62.52歳〕、兵凡そ四五百騎を率ゐて入京せり。彼れは先づ院に詣りて実氏を経て奏聞する所あり、次に摂政兼経1210〜59.50歳〕兼経に見え、最後に円満院宮仁助法親王後嵯峨院の兄.1214〜62.49歳〕に謁せり。東使の入京に多数の兵士を伴ふ場合は、一種の示威的目的に出づるを例とす。果然幕府は彼れをして先づ忠成王〔1221〜79.59歳〕の御元服につきて抗奏するところあらしめたり。九条家側の卿相為めに顔色を失ひしならん。さればにや、王は御元服の後も、終に立親王の御事なく、その御子三郎宮は源姓を賜はりて彦仁〔?〜1298〕と申す。而かもこれと同時に、幕府は又、院御領の進献を奏せしめたり。神崎荘は承久に地頭を補してより殆んど没収に同じく、僅に少額の年貢を納むるに過ぎざりしかば、幕府は其地頭を廃して、全く院御領となせり。又修明門院御領たりし筑前国宗像社も是時これを改めて上皇に進めたり。此両所は並びに三浦泰村〔1204〜47.44歳〕の知行せるところにして、幕府の新に没収せしものに係る。思ふにこれ幕府が前日の朝廷尊奉の決議を実行せるものと看て可なるべし。


第百八十四節 後嵯峨上皇の院司

西園寺実氏と土御門定通
 上皇の院に於て、西園寺実氏〔1194〜1269.76歳〕が其首脳の一人たりしこと言ふを俟たず。彼れは皇室の外戚たるの外、関東申次として道家の失脚後は、其勢力、何人も頡頏(けっこう)すべきものなかりき。彼れに亜(つ)ぐものを土御門定通1188〜1247.60歳〕となす。彼れは後嵯峨天皇の擁立に当つて偉功あり通親1149〜1202.54歳〕の子なるも、父程の智略ありしとは見えず。天皇の御践祚に当りて、彼れの政敵は、専横自ら用ゐるに至らんことを憂ヘ、悪感を以てこれを迎へたりしに拘らず、其実、何等の指摘すべき失政あることなくして、輔弼の大任を全うせり。宝治元年1247〕九月、定通は病を以て薨ぜり。葉黄記九月廿八日の条に、彼れの人格を称揚して其死を悼み、「年六十、高林博覧之人也、院中執権也、為世可惜」といへり。

棄室定嗣
 葉室定嗣〔1208〜72.65歳〕も亦重もなる院司の一人なり。彼れは承久討幕の宣旨を草せる光親1176〜1221.46歳〕の子なり。故に其登庸に遭うて感激に堪へず、先きに奉行院司として院宣を下すべきの命を拝するや、其日録に書して曰く、「凡院中執権以孤露不肖之身奉人々嫉妬之余、種々事等有讒言之疑、然而叡慮深思食入畢、予謬応知人之鑒試〔誠カ〕家之余慶歟、承久乱逆、故殿令書追討之院宣給、仍或人以之為予難歟、然而更不可及子細之由別被申入道殿下云々、且先度有被仰遣之趣於事為予過分之面目歟、此事且起於叡慮被仰合也、日来之沙汰如此」と。故に亦意を傾けて奉公の誠を致せり。

 古今著聞集に、彼れの人物を叙して、「前中納言定嗣卿、和漢の才、先祖にもはぢざりければ、寛元四年〔1246〕の脱履のはじめより、仙洞の執権を承て、殊に清廉のきこへ有ける程に、菩提の道心の底にや催けん、建長元年〔1249〕の頃、棄室大納言のむかしの栖の辺に山庄を構へられけり。二年〔1250〕八月十三日に、殊にひきつくろひて、摂政、前摂政殿などへ参られたりけるに、上皇御すい〔推〕や有けん、女房してとゞめ仰られければ、一切に其儀なきよしを申て、同十四日のあかつき、詣の体にて夜に入てかしらおろしける」云々といへり。其出家の如何に痛惜せられしかを推知すべし。

院政に対する非難
 されば上皇の院司は敢へて其人に乏しと謂ふべからず。然るに世、往々彼等の人格性行に対して非難の声を揚ぐるものあり、摂政兼経1210〜59.50歳〕の如きも亦其一人なり。彼れは自ら其日記、岡屋関白記建長三年1251〕八月十四日の条に書して、「老臣今年四十二、耳目見聞世情漸浅、朝無忠臣、又無賢才、就中仙洞近臣蝮蛇与鵝鳥也、為国土不便々々、雖非善人定嗣卿遁世之後、弥如此」といへり。彼れの日記中任叙の当を失せるものあるを指摘せるを観れば、其論拠も略々これを知るに苦まず。然れども権力の下、自ら怨瑳の声を生ず。片言を以て直に邪正を判ずるは余りに酷なり。唯上皇の寛宏なる、時に権臣をして其聡明を蔽はしめ給ひ、院旨の反覆を来たしゝことなかりしにあらず。建長二年1250〕六月、霖雨止まざりし為め、摂政兼経は、止雨奉幣あるべきことを奏し、上皇もこれを嘉納あらせられしに、後、定嗣、六月に此奉幣を行ふの不可を奏するに及んで、これを停めしめ給へり。然るに実氏は又兼経と謀りて、六月奉幣の先例に徴し、其これを行はるべきを奏せしかば、上皇は更に命じて奉幣使を発遣せしめ給へり。兼経これを評し奉りて曰く、「日々勅言頗変々、依権臣之所奏如此歟(○中略)他事只以之可察也、莫言々々」と、此一事、上皇の重厚円満にまし/\し御本性の反面を語るものにして、御聖徳の一微瑕なりといはゞいはるべきか。

上皇と円助法親王
 上皇の院政を説くに当りて一の特筆を禁ぜざるものあり。そは上皇と皇兄円助法親王仁助の誤り.1214〜62.49歳〕との御間柄これなり。八月、東使大曾禰長泰の、実氏、兼経を歴訪して後、法親王の御坊を訪ひ奉りしかば、葉室定嗣これを怪みて、「前相国(○実氏)は院参料也、勿論、殿下(○兼経)又時之執柄不及左右、参円満院宮有深義歟」といへり。これ実は深く政局の内情に通暁せざるの言なり。五代帝王物語の、法親王の御事を記して、「円満院宮は御一腹の上、承明門院の御所にて、一所にわたらせ給て、互の御志もふかくたのみ申されたれば、政道何事も申合せらる。関東にも、宮の計申さるゝむね賢明なりと申ければ、まして僧中の事は、一向に計ひ御沙汰ありけり」といへるに拠るも、法親王が、上皇の御信任と、併せて幕府の信頼を得られつゝありしは明白の事実なり。故に法親王は、常に院中に出入し給ひて、内外の機密に参与せられ、献替せられしこと、亦多かりしより、東使の旨を承けて謁を修せるもの、又何ぞ怪まんや。




 第五十章 近衛兼経の摂政


第百八十五節 閑院の焼失

冷泉富小路亭に遷幸
 宝治三年1249〕二月一日の夜、閑院、火を失せしかば、天皇は皇后※子内親王仙華門院.土御門天皇皇女.尊称皇后.?〜1262〕と御同車にて、御所を出でさせられ、途より御輿に移り給ひ、剣璽を奉じて西園寺実氏の冷泉富小路亭に遷幸あらせらる。上皇亦御幸あり、内侍所を始め玄象、鈴鹿、御笛筥(水竜を入る)、大刀契、鈴印、御倚子、時簡以下累代の重宝皆免れたり。廃朝三日。三月十八日、天変、及び皇居の焼失に依りて、宝治三年を改めて建長元年といふ。内裏の焼くるや、実氏これを幕府に報ぜしに、四月、幕府の使、入京して自ら造営し奉らんことを奏聞せり。
※日へんに「羲」

京都の大火
 内裏の焼亡は、当時既に放火の説ありしが、三月二十三日午刻、姉小路室町より出火せしに、偶々風大に吹き、北は三条坊門より、南は八条に至り、西は西洞院に至り、東は河原に至りて、六角堂を焼き、余焔河を越えて蓮華王院の塔に災し、三十三間の堂舎に遷り、千体の観音中、類焼を免れしもの僅に二百余体(五代帝王物語に拠る。一代要記には「千体之中百五十六体二十八部衆取出之」に作る)。上皇御幸あらせられしが、後白河院の法華堂は、幸ひにして類焼を免れたり。此大火に於て新熊野社の鐘楼宝蔵焼け、大外記師兼の文書亦焼失せり。

 これより後、京都屡々火あり、京中三分の二は其災に罹れり。(増鏡に拠る。五代帝王物語には、「京中半に過て焼たり」とあり。)

洛中三分の二焼く
 依て陰陽師を院御所に召して御占ありしに、御慎みの重きを告げたりしかば、上皇は宸筆告文を白河1053〜1129.77歳〕、後白河1127〜92.66歳〕後鳥羽〔1180〜1239.60歳〕後鳥羽の三帝陵に奉りて、天変火災を謝し給ひ(四月廿三日)、又東大、興福、元興、法華、大安、薬師、西大、法隆、新薬師、大后京、法華、超証、招提、宗鏡、弘福、法勝、尊勝、最勝、成勝、延勝、円勝等の諸寺、及び五畿七道諸国の寺院に最勝王経を、延暦、園城等の諸寺に、大般若経を転読せしめ、並びに災を禳はしめられ(四月廿六日)、又詔して服御常膳を減じ給へり(五月廿三日)。

閑院内裏成る
 二年1250〕三月、幕府造閑院殿雑掌を定め、執権時頼1227〜63.37歳〕以下二百余人に課して、殿舎、築地等の修造を分担せしむることゝし、これを奏聞せり。四月、朝廷亦造閑院行事を定めらる。七月、造営事始あり。十二月、造閑院次第日時上棟を勘へられしが、三年1251〕正月、造閑院棟上あり。紫宸殿以下、大内の制を模し、規模宏壮なり。六月、天皇富小路殿よりこゝに遷幸し給ふ。是日、勧賞除目を行ひ、将軍頼嗣1239〜56.18歳〕は造閑院の賞に依りて従三位に、北条時頼は造国司の賞に依りて正五位下に叙せられたり。


第百八十六節 摂政兼経の辞意

兼経、兼平に譲らんとす
 兼経1210〜59.50歳〕の夫人九条氏は、寛元四年1246〕、始めて男子を生めり、これを基平1246〜68.23歳〕となす。兼経は中心其宿祷の報いられしを喜びしならん。然るに是より先き、彼れの父家実1179〜1242.64歳〕は、彼れをして弟兼平鷹司.1228〜94.67歳〕を養つて子となさしめたり。 宝治二年1248〕、兼経、摂録の重職に居ること前後九年に及び、年亦四十に垂んとせしかば、顧みて其盈損を恐れ、一は賢良の進路を開き、一は先人の遺訓に酬いんが為め、是歳十二月、使を鎌倉に遣して、左の書を将軍頼嗣に送りて、摂政を兼平に譲るの同意を求めたり。

指事不候之間、常不申案内非疎略候、抑以事次欲申侯之処、不指日事候之間、于今不申候、以不肖之身再贖大名、雖知家門之余慶、其恐猶不休、重載之舟易覆、再実之木易折云々、為攘※延齢、欲譲補左大臣候也、彼丞相依先公之教命致猶子之儀、且測曩意可為孝行之基歟、随御計、便宜之時可奏聞候、仍内々先申合候也、雖去職致拝趨随公事之条、不可違日来侯、譲補之時、先例皆如此候也、褻晴出仕只如当職侯、事々無隔心可令相計給上之状如件、
  十二月二日              摂政判
    鎌倉少将殿
※うかんむりに「火」

春日社の告文
 尋で又彼れは告文を春日社に納めて其目的を達せんことを祈れり。文中自ら其過去に於ける公生涯を叙して、

頻歴文武内外之任遂亜家門賢哲之跡、博陸雖為一旦之栄、惣麓已執二代之権礼利、若年爾之※超老年、天鑒可恐、庸才爾之※先高才、人望有慙、寐天毛※毛、春過秋過幾奴、顧此重寄、前後欲及九箇廻寿、計我行年、春秋欲満四十齢、年齢強壮奈礼波専可励勤王之忠、柄権栄過奈礼波何欲擺惣已之仁、但大権、不可久執、高位不可久叨、先言不忘寿、後愚為師
※「低」の旁のみの字

といひ、次に其弟兼平に推譲するの理由を述べて、

於是左丞相微臣奈利、依先公之委記、有猶子之芳契、早歴将相崇班、足継祖宗之大任礼里、然間蓄元之才、待啓沃之任、家々非一寿、済々相競徒塞賢路、可有畏途、仍且為答先父之素意、且為遂傍人之栄進免爾、忽跂推譲、必垂感応、偸守知止之訓、専廻攘◆之謀奈利、況得寿算之長遠古登波在盈満之遁避、深凝此信、今成此企、云天愍之鑒之永払病根於万里之外、令保命葉於百年之間、意趣雖区、簡要在
※りっしんべんに「豈」
◆うかんむりに「火」

といひ、又これが先例と自家の希望とを述べて

蓋是宇治相府、二条博陸譲補勢志奈里、任其佳例、無誤蓄懐、千子万孫満弖爾百官惣已、仁風長被、恵露遙潤佐牟、中台必預恩化、後年遂致報酬、孔懐弥昵、心中不違良牟

といヘり。これに拠れば、其の職を兼平に譲るを以て頼通992〜1074.83歳〕が弟教通996〜1075.80歳〕に譲補せる佳例に倣ふものといふ。而かも将来復其嫡子に譲るに至らんことを望むや切なり。此種の相続法は当時嫡子なきか、然らざるも其年尚ほ幼にして、直に重きを承くること能はざる場合に採用せられ、弟は更に被相続人の嫡子を養ひ、其成長を侍つてこれに譲るを例とせり。これ適当の嫡子なきが為めに、重職の他家に行くを防ぐの手段に出でたるもの、家実の兼経に求むるところ、兼経の兼平に望むところ、並びに此意に外ならざりしなるべし。

 尋で兼経の鎌倉に遣せる使者は、左の如き将軍の回答を齎らして復命せり。

御譲与事、難計申候、抑御政務事、度々言上侯了、相構可然之様令申行給侯者、尤所仰候、依為事次重令言上候、以此趣可令申給候歟、恐惶謹言、
  十二月廿日              右少将 在判


幕府の不同意
 これに拠れば幕府は兼経が辞を尽くして其同意を求めしにも拘らず、計ひ申し難しとの一語の下に、摂政の譲与を否認し、却て彼れが其職に留りて、幕府の為めに朝政の刷新に当らんことを望めるなり。幕府の意向にして既に然りとせば、上皇もこれに向つて院裁を与へ給ふべき謂れあるべからず。兼経は終に其留任を余儀なくせられたり。建長二年1250〕、彼れの春日社に納めし告文に、

爾毛、君爾毛、神幽冥不測寿、君恩容猶拘、仍履氷尾仕朝、櫛霜鬢扶老

といへるは、彼れが当時の心事を吐露せるものなり。

兼経と幕府
 兼経の九条家を排して現職に就けるは、幕府の推薦に依れるを知るもの、誰れか彼れの幕府に対する態度をト知するに苦しまんや。彼れの日記に徴するも、彼れが屡々参院して、仁助法親王等と枢機に参画するところありしを見る。頼経の事ありてより、幕府の朝政に関する干渉は頓に加れり。其兼経に求めし事の内容如何は之を詳かにせずと雖ども、所謂徳政の興行の如き亦実に其一に居らざるべからず。岡屋関白記に見えたる左の記事の如きは、幕府が如何に彼れを利用するにつとめたりしかを知ると共に、又彼れが如何に之を好遇したりしかを知るべき好箇の資料とす。

宝治二年閏十二月廿ー日、関東使来、政道事珠可申行之由示之、以使者令申之由時頼状相具之也、件状内々遣行貞許(○行貞は兼経の侍の子にして、先きに鎌倉に使せしものなり)表書如此、使者来此第、条々示之、則余参院奏之、法親王(○仁助)被参也、関東使向彼房云々、為申此事今参之由被語之、
廿七日、今朝武家使者来、去廿一日所申之事等沙汰之趣仰之、召砌下直仰之、政道肝心伝仰祗候者之条可有用意之故也、件使明日帰関東、未時許向武州許、入夜帰家


兼経の小心
 建長二年1250〕四月、春日社第三殿の千木風なくして墜落したりしが、小心なる兼経は之を聞きて恐懼に堪へず、再び告文を同社に納めて、其兼平に推譲せんとする宿志の達せざるを傷み、且つ禍難を未然に禳はんことを祈れり。





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