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三浦周行 『鎌倉時代史』 第61章〜第64章







 第六十一章 蒙古及び高麗第一回の来牒


第二百二十一節 辺民の高麗侵入

我国と高麗との国際関係
 此時期に於ては、我船舶の高麗に赴くを約せしもの、一回二艘を限り、他船の濫りに其沿海を騒がすを禁ぜり。弘長三年〔1263〕、高麗牒文中に、「自両国交通以来、歳常進奉、一度船不過二艘、設有他船、枉憑他事、濫擾我沿海村里、厳加懲禁以為定約」とあるものこれなり。然るに辺民の交易に託して此制を破り、高麗の沿海を侵すこと、歴世絶えず。弘長三年春、我対馬の民、金州管内なる熊神県勿島を侵して貢船を掠め、又椽島に財物を掠めて去りしかば、四月、高麗は使を我国に致して禁察を厳にせんことを請ひ、併せて掠奪品を還付して和親を固くせんことを求めしかば、我れは其請に応じて、米、烏麦及び牛皮を還せり(高麗史)。是等の襲撃は、辺民の一時的暴動に過ぎずとはいへ、高麗は彼等の慓悍にして当り難きを視、常に其勢力を誇大視して、恐怖の念に撃たれ、其侵害を防止するに急なりしなり。


第二百二十二節 蒙古の使節と高麗の嚮導

高麗人趙彝の進言と忽必烈の遣使
 是時に当りて、蒙古の版図は欧亜に跨り、宋の如きも其侵略を受けて、僅に余喘を保つに過ぎず。高麗はこれに臣従して、方物を進めつゝありたり。

 然るに高麗人趙彝なるもの、蒙古にありて、国王忽必烈〔1215〜94.80歳〕に謁し、我国の漢唐以来支那と交通し、典章政治の観るべきものあるを告げて、其使節を送らんことを勧めしかば、此に端なくも四海を一家とせんとする彼れの虚栄心を刺激して、直に使節を我国に発遣するに決し、高麗が我れと隣接し、且つ其国情に通暁せるを以て、国使の嚮導に当らしめんとせり。東国通鑑に拠るに、趙彝は高麗に叛いて蒙古に入り、帝の所に出入して本国を讒毀するを事とせりといへば、其人格の劣悪なること知るべし。彼れの此言をなせるものも亦難きを責めて、其本国を苦しめんとするの意に出でしやも測り知るべからず。而かも忽必烈其人をして、使節を我国に送らしめ、終に征日本の師を出ださしむるに至りし動機が、彼れの此献策に基けるを知らば、其影響するところの至大なるを知らん。当時忽必烈の朝にありし以太利人マルコポーロ〔1254〜1324.71歳〕は、遣使の動機を忽必烈の我富に対する欲望に帰しつゝありしも、これ恐らくは其素因にてはあらざりしなるべし。

元使の渡航中止
 文永三年〔1266〕十一月、蒙古は兵部侍郎黒的を国信使となし、礼部侍郎殷弘を国信副使として、我国に派遣せんとし、先づ高麗に抵りて国王李禎に旨を諭し、嚮導の労を執らしめたり。高麗は其枢密院宋君斐、礼部侍郎金賛をして、共に蒙古の使節を導かしめたりしが、終に風濤に妨げられて巨済松辺浦より引返せり。

 高麗は固とより我国が蒙古の藩属を甘んずるものにあらざるを知ると共に、これに依りて我怨を買ひ難を構へんことは、其苦き経験を有する丈最も苦痛を感ずるところなりしなり。故に若し能ふべくんば、此使命を辞したるべしとはいへ、蒙古の厳命はこれを許さゞるを以て、一たび其嚮導を出だせる後も、口を海上の険難に藉りて、故らに時日を遷延し、航海に馴れざる蒙古の使節に風濤の難を示し、我国人の頑強を説きて、其帰心を促し、終に渡航中止の目的を達せるなり。高麗国信使潘阜及び李仁挺の啓書、武家年代記等、是歳蒙古及び高麗使節の大船三艘に乗じて来朝せしことをいふも信ずべからず。

忽必烈、再び高麗をして使節を送らしむ
 是に於て高麗王は翌年正月、君斐をして、黒的に随うて蒙古に赴き、奏せしめて曰く、

詔旨所諭、導達使臣、通好日本事、謹遣陪臣宋君斐等伴使臣以往、至巨済県、遙望対馬島、見大洋万里風濤蹴天意謂、危険若此、安可奉上国使臣冒険軽進、雖至対馬島、彼俗頑※無礼義、設有不軌、将如之何、是以与倶而還、且日本素与小邦未嘗通好、但対馬島人時因貿易往来金州耳、小邦自陛下即祚以来、深蒙仁恤三十年、兵革之余稍得蘇息、緜々存喘、聖恩天大、誓欲報効、如有可為之勢、而不尽心力、有如天日
※「狼」の「良」を「廣」に換えた字。コウ。

と(高麗史)、其外交的措辞の巧妙を窮むるを見ると共に、嚮導の一事が、初めより阻止の目的に出で、毫も真面目に履行せられしものにあらざるを証すべし。

 忽必烈たるもの豈これが為めに欺瞞せらるゝものならんや。彼れは再び黒的、殷弘を高麗に遣して其不信を責め、厳に令して我国に導達せしめたり。されば高麗国王は文永四年〔1267〕九月(二十三日)、起居舎人潘阜を国信使となし、蒙古及び高麗の国書を我国に賚さしめたり。其豪古の使節を送らざりしは、潘阜、李仁挺の啓書に、「与殊形異服之人航海遽至則貴国不能無嫌疑」ことあるに拠るも、我嫌疑を避けんとする高麗の用意に出でしものと推測せらる。


第二百二十三節 高麗使節の来朝

高麗使節、蒙古国書と高麗副書とを致す
 此使節の来朝せし時日は、記録の明記を闕くも、此冬にありしことゝ察せらる。外記日記十一月二十一日の条に、「蒙古国」云々の文あり。前後の文字を闕くと雖も、彼等は先づ対馬に着したるべければ、太宰府は同国守護の報告を得て先づこれを六波羅に急報したりしもの、稍々外間に漏聞して此日記の文となりたるにあらざるなきか。

 明五年〔1268〕正月一日(五代帝王物語)、潘阜等太宰府に着し、蒙古国書、及び高麗国副書の案を致して方物を呈し、且つ其啓書に於て、親しく国書を伝へんが為め闕下に導かんことを求めたり。太宰少弐資能〔1198〜1281.84歳〕急使を以てこれを幕府に致せり。

蒙古国書
 蒙古国書は至元三年(我文永三年〔1266〕)八月附のものにして、其全文左の如し。

上天眷命
大蒙古国皇帝、奉書
 日本国王、朕惟自古小国之君、
 境土相接、尚務講信修睦、況我
祖宗、受天明命、奄有区夏、遐方異
 域、畏威懐徳者、不可悉数、朕即
 位之初、以高麗※辜之民、久瘁
 鋒鏑、即令罷兵、還其彊域、反其
 旄倪、高麗君臣感戴来朝、義雖
 君臣、而歓若父子、計
 王之君臣、亦已知之、高麗朕之
 東藩也、日本密邇高麗、開国以
 来、亦時通中国、至於朕躬、而無
 一乗之使以通和好、尚恐
 王国知之未審、故特遣使持書、
 布告朕志、冀自今以往、通問結
 好、以相親睦、且聖人以四海為
 家、不相通好、豈一家之理哉、至
 用兵、夫執所好、
 王其図之、不宣、
  至元三年八月日
※「尤」の「、」を取り、上に「一」を載せた字。ム。意味は「無」と同じ。

高麗の苦衷
 其書通好和親を求むといふも、国威の宣揚を説いて、高麗の征服に及び、通好を強ふるに兵力を以てするを辞せざるの意を示すが如きは、縦し其小国に臨むの慣用手段たる虚喝に過ぎずとせんも、これを国民的自覚に富める我国に擬するに於ては上下の悪感を挑発するの外、何の得るところなきを知らざるべからず。高麗能くこれを知る。故に其国書中、蒙古の為めに他意なきを弁じて、我感情を融和するに努めたりしは、「貴国之通好中国無代無之、況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献、但以無外之名高於天下耳、若得貴国之報音、則心厚待之、其実与否既通而後、当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也」との一節を見るも自ら明らかなるべし。潘阜等の啓書に至つては、最も露骨に嚮導の苦衷を訴へて、我国の諒恕を望めるもの、一読同情を禁ぜざらしむ。

 然れども、是等の弁解は、毫も我れを以て蒙古の野心に対する疑惑を消散せしむるの効なかりしのみならず、却つて高麗に対する嫌疑を深からしめんとす。今左に五代帝王物語の蒙古に関する記事を抄出して、当時我国人の如何に蒙古を観察したりしかを徴せんとす。

蒙古国、もとは契丹の所属韃靼国也。年比契丹国以下の近辺の諸国を打とる。太宋国も三百余州のうち、大略みな討とられて、僅に六十余州残れり。高麗も同せめ落されて、臣として蒙古の朝につかふるよし、牒状にも載たり。



第二百二十四節 蒙古国書の拒絶

幕府の方針
 蒙古、及び高麗の国書の幕府に達せしは、閏正月にあり(一代要記には五日に、師守記には八日、高祖遺文録には十日に係く)。吾妻鏡の記事は、文永三年〔1266〕に終り、これより以降幕府の記録存するもの多からず、故に其これに対する幕府の措置の如きも、頗る詳明を闕けり。然れども幕府は一方に於て、其事態の重大なるものあるを察して審議を尽くすと共に、他方には其独擅専行すべきものにあらざるを思うて朝裁を仰ぎしと見ゆ。

返牒の有無に関する院評定
 蒙古の来牒の事は、何日しか外間に漏れて、京都に於ては閏正月の初、異国来寇の風説あり、深心院関白記閏正月十日の条に、「異国賊徒可来我朝由風聞、実否未詳歟」と見えたり。二月に入りて此風説は益々盛んなりしが、同月五日、東使其使命を帯びて入京すと聞えたり。後嵯峨上皇〔1220〜72.53歳〕は、本年宝算五十に達し給ふを以て、朝廷盛んに御賀の礼を挙げられんとし、去年よりこれが準備に忙はしく、是時も亀山殿に御して、御賀の舞楽の習礼等ありしが、斯くと聞召されて、俄に白河殿に還御遊ばされたり。六日、東使二人入京し、実氏〔1194〜1269.76歳〕の北山の第に赴きて蒙古来牒の伝奏を請へり。実氏即ち右兵衛督藤原為教〔1227〜79.53歳〕を以てこれを仙洞に進めたり(深心院関白記、歴代帝王編年集成に拠る。五代帝王物語には幕府の牒状を上れるを六日に係く)。八日より以後、前関白二条良実〔1216〜70.55歳〕、同一条実経〔1223〜84.62歳〕、関白近衛基平〔1246〜68.23歳〕、前太政大臣徳大寺実基〔1201〜73.73歳〕、前左大臣洞院実雄〔1219〜73.55歳〕等を御前に召され、返牒の有無に関して、連日、院評定を行はせられ、且つ其意見封事を徴せられ、併せて此事に依りて徳政を行ふを議せしめられたり。深心院関白記二月五日の条に、「近日前官人々競出仕、頗無先規歟、然而不可守株歟如何」と見ゆ。即ち一種の元老会議なり。

 院評定数日に亘りて、衆議一揆せずと伝へらる(師守記貞治六年〔1367〕五月九日の条)。其間(二月十四日)東使参院して奏聞するところあり、尋で諸道の勘文を徴し、三月、仗議を行はれしが、其結果、終に書辞の無礼に依りて、返牒を与へざるに決し(蒙古国牒状宗性奥書)、四月、中御門経任〔1233〜97.65歳〕は院旨を承けて幕府に使せり(五月十三日帰京せり)。

 五代帝王物語には、廟議返牒を与へらるゝに決し、藤原長成菅原長成の誤り。1205〜81.77歳〕の起草せる牒状の案を幕府に下議せしめられしに、幕府遮つてこれを遣らずといふも、そは文永七年〔1270〕の史実の混訛なり。然れども幕府の態度は既に決し、二月、早くも讃岐の御家人に命じて不虞に備へしめたり(新式目)。思ふに此令は同時に西国の御家人にも発せられしならん。これ幕府が蒙古の牒状を送れるを見て、凶心を挿み、本朝を伺ふものと信じたればなり。されば幕府は初より高麗の使を太宰府に留め置きて入京を許さず、是に至りて旨を少弐に伝へて、我返牒を与へざるを告げて遣帰せしめ、同時に其贈れる方物をも返付せり。潘阜は七月帰国して上書復命せり。


第二百二十五節 朝廷及び幕府の態度

天変疾疫と徳政
 文永元年〔1264〕以来、天変頻りに見はる。同年七月(外記日記、師守記に拠る。五代帝王物語には六月よりとす)、大彗星、東北に見はれ、九月に至るも滅せず。これと略々時を同じくして咳病も亦流行せしかば、朝廷にても種々の修法を行ひ、軽囚を赦し、山陵使を諸国に遣はしてこれを禳はんとせられしが、明二年〔1265〕十二月に至りて、彗星復た東方に見はれ、尋で西方に見はれしが、朝廷は(幕府も)これを祈禳するに力められし外、院評定に於ては、徳政を修めて其災異を消せんが為め、撫民倹約に関する異見を徴せられたり(外記日記)。翌年正月に至りて、彗星は又西方に見はれ、院評定に於ては重ねて徳政の事を議せられたり。

宸筆宣命と神宮上卿
 五年〔1268〕七月、彗星又北方に見はれたり。是に至つて蒙古の事ありしかば、上下驚擾し、国論沸騰せり。朝廷依つて後嵯峨上皇の五十の御賀を停められ、二月、世仁〔後宇多天皇〕百日の御養産を院に行はれし時の如きも、上皇は出御あらせられず、御遊をも略せられ、爾来祈禳に、奉幣に国難を攘ひ、敵国を調伏するに忙はしかりき。是時又公卿勅使を神宮に発遣して宸筆宣命を奉らしめられ、大和国楯列池上(神功皇后)以下の七陵に告文使を発遣せられたりしが、五代帝王物語に拠れば、宣命は起草浄写共に天皇の親らし給ひしものなりといふ(但告文の案には、「仏国也、異国事奇怪至極」とありて識者の非難を受けられしこと、吉続記に見えたり)。朝廷は又徳政を施して国難を除かんことを図り給ひ、一条実経、徳大寺実基、花山院師継〔1222〜81.60歳〕等を院御所に召して、屡々徳政の事を議せられしが、其中、神事興行の如きは最も重きを置かれしことにてありき。六月以後、二条良実、一条実経、近衛基平、洞院実雄等を院御所に召され、上皇、及び主上の御前に於て、諸卿の答申せる十二箇条の意見を附議せられ、其決議に基いて、神宮上卿を置き、内大臣一条家経〔1248〜93.46歳〕を以てこれに任ぜられたり。

執権、連署の更迭
 三月、執権、連署の更迭は行はれ、連署時宗〔1251〜84.34歳〕執権に転ずると共に、執権政村〔1205〜73.69歳〕は連署となれり。是歳時宗年十八にして、始めて評定に臨むに至りしより、政村は其地位を時宗に譲りて、前職に復せしなり。これ予定の更迭に過ぎざりしとはいへ、幕府が其対外方針を確立せると共に、此更迭を断行せるは、士心を統一して国難に当るの大覚悟に出でたりしものと思考せらる。





 第六十二章 後嵯峨上皇と亀山天皇


第二百二十六節 皇子の御誕生

後深草上皇、亀山天皇の第一皇子御誕生
 亀山天皇〔1249〜1305.57歳〕は天資英明にして、学を好み給ひ、屡々侍読をして尚書、古文孝経、論語等を講ぜしめられ、又管絃の秘曲をも極め給へり。されば後嵯峨上皇〔1220〜72.53歳〕大宮院〔1225〜92.68歳〕の御覚えも殊に目出度おはします。後深草上皇〔1243〜1304.62歳〕の中宮東二条院〔1232〜1304.73歳〕には皇女のみ御分娩あらせられしに、文永二年〔1265〕四月、始めて皇子御誕生あらせらる、即ち煕仁親王〔1265〜1317.53歳〕にまします。御母は洞院実雄の女◆子〔1246〜1329.84歳〕東御方と申す)なり。中納言源有資〔1204〜72.69歳〕これを鞠養し奉る(五代帝王物語)。外記日記、一代要記に拠れば、弘長三年〔1263〕、東御方、皇子を御分娩あらせられしに、文永二年薨じ給ふとあれど、此事他に見るところなし。然るに其後七月、天皇の皇后佶子〔1245〜72.28歳〕も第一皇子を御産あらせられ、是より先きに御誕生ありし上皇の皇子に先きだつて、翌月には早くも親王に立てられ給へり、これを知仁親王となす。同四年〔1267〕八月、親王御病ありて、外祖洞院実雄の第にて薨御あらせられたり、御年纔に三歳。
◆りっしんべんに「音」。

同じく第二皇子御誕生
 十月には又、後深草上皇の皇子御誕生あらせられたり。満仁と申す、後の性仁法親王〔1267〜1304.38歳〕なり。御母は同じく佶子(◆子の誤り)にまします。これを見給ふにつけても、天皇の御歎きはさこそと想像し奉られしに、佶子も亦御懐妊あらせられしかば、御平産の御祈盛んに行はる。当時佶子の親ら筆を染め給うて、賀茂社に納め給へる御願文には、「たとひ御すゑ迄はなくとも、皇子一人」と書かせ給へりとかや(増鏡)。然るに十二月、皇子は御誕生あらせられたり。天皇を始め奉り、後嵯峨上皇、大宮院にも殊の外御満足に思召して修法の賞を行ひ、軽囚を赦し給へり。五十日の御養産は、後嵯峨上皇の富小路殿に於て行はせらる。増鏡は当時の情況を叙して曰く、

うへも、かぎりなき御志にそへて、いよ/\おぼすさまに嬉しと聞し召す。大臣も、今ぞ御胸あきて心おちゐ給ひける。新院の若宮もこの殿の御孫ながら、それは、東二条院の御心の中おしはかられ、大かたも又、うけばりやむごとなき方にはあらねば、万聞し召しけつさまなりつれど、この今宮をば、本院も、大宮院も、きはことに、もてはやしかしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ためいとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらむと、西園寺ざまには、一方ならずおぼしむすぼゝれ、すさまじう聞き給ひける。

後嵯峨上皇、大宮院の御愛情
 天皇、皇后の、皇子を望み給へること彼れの如く切なりしは、後深草上皇の皇子おはしますが為めなりしならん。而かも後深草上皇に二皇子のまし/\乍ら、後嵯峨上皇、及び大宮院の御寵愛を得給ふこと能はざりしは、これ御愛情の益々天皇に移り給ひつゝありしを証するものにあらずや。


第二百二十七節 世仁親王の立太子と後嵯峨上皇の御出家

立太子と幕府の協賛
 五年〔1268〕六月、第二皇子を立てゝ親王となし、世仁後宇多天皇.1267〜1324.58歳〕と申す。後嵯峨上皇は親王を立てゝ皇太子となさんとせられ、幕府に諮りて其協賛を得給ひ、八月、立太子の儀を行はれ、右大臣鷹司基忠〔1247〜1313.67歳〕を以て皇太子傅となし給ふ。 此くの如くにして天皇唯一の皇子にまします世仁親王は、後深草上皇の第一皇子たる煕仁の四歳にまし/\、第二皇子たる満仁の二歳にましますに先きだゝせられ、御年甫めて二歳にして皇太子に立てられ給へるなり。されど中宮〔1253〜1318.66歳〕は天皇の御覚え目出度からざりしかば、父公相〔1223〜67.45歳〕の薨去後は、御入内なく、十二月、今出河院の号を賜はれり。

後嵯峨法皇の院政
 十月、後嵯峨上皇は、亀山殿に於て天台座主尊助法親王〔1216〜90.75歳〕を御戒師として御出家あらせらる、御法諱を素覚と申す。当時亀山殿の御逆修の願文には、

然猶陛下(○亀山天皇)之為中子当訪漢文節倹之蹤、太上(○後深草上皇)之為長嫡専守天経孝行之儀、青※儲皇(○世仁親王)者順孫也、翠帳仙院(○後嵯峨上皇第一皇女月華門院)者息女也、万機之縡、雖決一月二月之急務、諸善之謀、偏欲蓄今世後世之余資、(○中略)於是謬居九五位雖歴両三廻、幸遇天然之師遂受虚謙之道正嫡脱履、同胞受因、面見徳挙之相並、万機巨細、二代諮詢、心決政季之匪一、金子各伴均一之秀色、玉孫忽耀明両之重光、
※門がまえに「韋」

と宣へり。明年〔1269〕四年〔月の誤り〕、東大寺に幸して御受戒あらせらる。御出家後の上皇につきては増鏡に左の記事あり、

今はいよ/\法の道をのみもてなさせ給ひつゝ、或時は止観の談義、或時は真言のふかきさた、浄土の宗旨などをも尋ねさせ給ひつゝ、よろづに御心通ひくらからず物し給へば、何事も前の世よりかしこくおはしましける程顕れて、今行末もげにたのもしくめでたき御ありさまなり。

而かも院評定に臨み、政務を視給ふこと、猶ほ旧の如し。


第二百二十八節 関白近衛基平の薨去と二条良実の内覧辞退

関白の後任と幕府の諮詢
 十二月、関白左大臣近衛基平〔1246〜68.23歳〕、左大臣を罷めしが、尋で病んで薨ず、年二十三。是時右大臣鷹司基忠〔1247〜1313.67歳〕、右大臣たりしも、年纔に二十二。而して前関白には基平〔基忠の誤り〕の父兼平〔1228〜94.67歳〕あり、良実〔1216〜70.55歳〕あり、実経〔1223〜84.62歳〕あり。故に朝廷は関白の後任を幕府に諮詢し給ひしに、十二月、幕府復答するところあり、朝廷依つて基忠を関白とせられたり。

 文永二年〔1265〕関白を罷めてより後三年余、内覧旧の如くなりし前関白二条良実は、是に至りて其内覧と兵仗とを辞せり(公卿補任)。
☆摂関家系図はこちら


第二百二十九節 延暦寺と園城寺との争

山門、寺門の反感爆発
 山門と寺門との反感は久しく結んで解けず。事に当つて爆発せり。今其著しきものを左に列挙せん。弘長元年〔1261〕十月、園城寺僧綱仙朝等、鎌倉に至り、評定所に出頭して訴ふるところありしが、彼等は幕府の調停を容れしか、翌二年閏七月、嘗て離散せる衆徒と共に、本寺に帰住せり(興福寺略年代記、皇代暦)。

 文永三年〔1266〕七月、法勝寺の法華八講に際して、延暦寺衆徒は園城寺の聴衆が私に戒を授けて法臈に用ゐ、公請に応ずるの非を鳴らしゝに、園城寺衆徒は其東大寺に於て受戒せることを奏してこれに答へたり(華頂要略所収天台座主記)。

 皇代暦に拠るに、文永四年〔1267〕正月、四天王寺は、其別当職を永く園城寺に付せられしを以て寺門を開けりといふ。然れば文永元年、朝廷が延暦寺衆徒の蜂起に依りて、園城寺に給はりし宣旨を召返されし後、更に四天王寺の別当職を同寺に付せられしならんか。而かも延暦寺のこれに対する抗奏なく、又外記日記等に見えざるは疑ふべし。

 然るに五年〔1268〕八月、園城寺衆徒私に三摩耶戒を執行したりしかば、延暦寺衆徒例に依つて蜂起し、神輿を擁して入京せんとせしより、朝廷は先づ其戒師たりし大阿闍梨実乗の本位を解き、又円満院、聖護院の両門跡を戒飭し、六波羅をして衆徒の巨魁を捕致せしめられたり。延暦寺衆徒更に園城寺三摩耶戒の前後の戒師たる仙朝、寛乗を遠流に処し、説戒所に官使を遣してこれを破却せられんことを請ひしが、寛乗の処刑は其申請に任せられしも、仙朝は既に相当の処分を受け、且つ延暦寺衆徒此事に依りて園城寺を焼きしを以て聴されず。

☆山門寺門の抗争について、より詳しくはこちら。(辻善之助『日本仏教史』)


第二百三十節 南都北嶺の内訌

興福寺別当、天台座主の排斥
 南都北嶺の内訌も、亦常に其跡を絶たず。是歳興福寺亦別当、衆徒の争あり。別当大僧正円実〔1214〜72.59歳〕(兼実の子〔九条道家の子の誤り〕)は、文永元年〔1264〕九月、衆徒の為めに逐はれて寺務を罷められしに、是歳、円実復帰を図りしかば、衆徒蜂起して円実を流に処せんことを請ひ、春日神木を移殿に移すに至れり。七月、幕府は奏請して、円実をして屏居せしめたり。五年〔1268〕八月、興福寺衆徒又円実の流罪を迫れり。

 四年六月、延暦寺一部の衆徒にして、現天台座主澄覚後鳥羽天皇皇子雅成親王の子.1218〜89.72歳〕に快からざるもの、武装して根本中堂に拠り、又北野社の門を鎖して澄覚を訴へ、彼れをして其職を辞するの已むを得ざるに至らしめ、尋で尊助法親王後嵯峨院の異母兄.1216〜90.75歳〕は座主に還補せられ給へり。

 是時に当りて、延暦寺衆徒は、座主側なる青蓮院門徒と、其反対なる梶井門徒とに分裂し、五年九月、後者は根本中堂に拠りて座主を訴へ、前者は日吉社頭を警固して後者の襲撃に備へ、宿老等、後嵯峨上皇の御出家近きにあるを以て謹慎の意を表し、嗷訴を撤せんことを諭しゝかども肯んぜず、秋季授戒会は彼等の妨害の為めに停止せられたり。朝廷依りて荘園十箇所を寄せて三塔の興隆に資せしめらる。而かも彼等は猶ほ以て足れりとせず。日吉の社頭に青蓮院の門徒を攻めてこれと闘ひ其神輿を奪へり。日吉臨時祭も亦停止せらる。

 朝廷例に依りて其処分を幕府に諮詢し給へり。尋で幕府の復答に依りて座主の更迭を行ひ、尊助法親王の天台座主を罷め、前大僧正慈禅近衛家実の子.1231〜76.46歳〕を以てこれに代らしめ、且つこれに梶井、青蓮院の両門跡を管領せしめられたり。東西両塔の衆徒これを見て平かならず。翌六年〔1269〕正月、蜂起して復旧を請ひ、神輿を擁して入京せしも、武士の為めに遮られて、途に棄て去れり。是を以て朝廷は更に幕府に諮詢あらせられ、二月、幕府の梶井、青蓮院両門跡の復旧を奏するに及び、院宣を下して梶井門跡を前大僧正澄覚に、青蓮院門跡を同道玄二条良実の子.1236〜1304.69歳〕に管領せしめられ、神輿始めて帰座せり。九月幕府は使を京都に遣し、此両年間、中堂に拠りて暴行を演ぜる衆徒の巨魁を処罰せんことを求めて已まず、十二月、終に両門徒をして、自後中堂に拠る勿らんことを幕府に誓はしめたり。

高野山検校、衆徒を煽動す
 諸寺も亦これに准じ、五年五月には、高野山、其寺領名手荘官と寺領の境界を争ひ検校覚伝、衆徒をして蜂起闘諍せしめたりしより、六波羅は兵を遣してこれを制止し、覚伝は其職を罷められたり。




 第六十三章 蒙古及び高麗第二回の来牒


第二百三十一節 蒙古、高麗使節の対馬到着

蒙古、高麗に戦艦を造らしむ
 初め元帝忽必烈〔1215〜94.80歳〕の嚮導の命を高麗に伝ふるや、予め我国が其命に順はずして、使を阻むあらんことを慮りて旨を諭すところあり。五月、彼れは高麗王に命ずるに、新に船一千艘を造らんことを以てしたりしが、七月、高麗は兵一万を備へ、船一千艘を造りしことを奏せしを以て、都統領脱朶児等を高麗に遣して検閲せしめたり。彼等は高麗に至りて、日本水道黒山島を視察し、又別に耽羅に命じて船百艘を造らしめたり。

 既にして高麗国使其使命を果たさずして還りしかば、忽必烈は高麗遣使の事実にあらざるを疑ひ、十一月更に黒的、殷弘を高麗に遣し、其重臣をして重ねて我国に嚮導せしめたり。十二月、高麗王乃ち知門下省事申思※、礼部侍郎陳子厚、及び潘阜をして蒙古国使に随つて出発せしむ。(師守記貞治六年〔1367〕五月九日の条に拠る。歴代編年集成には「蒙古国使八人、高麗使四人、従類七十余人」に作る。)
※にんべんに「全」

対馬島民を補へ去る
 六年〔1269〕三月、彼等は船に乗じて対馬に着せしに、国人拒んで入れざりしかば、塔二郎及び弥二郎の二人を捕へて其国に還り、忽必烈に謁せしに、彼れは物を給うて厚くこれを賞し、且つ我捕虜を見てこれに告げて曰く、「今朕欲爾国之来朝、非以逼汝也、但欲垂名於後耳」と。


第二百三十二節 蒙古中書省牒と答書

捕虜を送還して通好を求む
 六月、蒙古は又高麗に命じて、我捕虜二人を送還せしめ、且つ其中書省の牒を賚して通好を求めしめたり。九月高麗の使金有成、高柔の二人は、一隻の船に乗じ対馬伊奈浦に着して我捕虜を還し、蒙古中書省の牒及び高麗の国書を致せり。

幕府、返牒の議を阻む
 是時朝議返牒に決し、菅原長成1205〜81.77歳〕をして蒙古及び高麗に贈るべき返牒案を幕府に下して附議せしめられたり。此返牒案は並びに本朝文集に載す。其蒙古に擬せられしものは、中書省に贈らるべき太政官牒にして、先づ我国が未だ蒙古の国号を聞きしことなく、又支那と国交を絶ちつゝあることを告げ、故なくして凶器を用ゐんとするの謂れなきを弁じ、我が神国の智を以て競ふべからず、力を以て争ふべからざるを声明して、其反省を望めるものなり。而して其高麗国に擬せられしものは、太宰府守護所より高麗の慶尚晋安東道按察使に与ふべきものにして、対馬漁民の暴行と送還の好意とを謝し、我太政官牒を蒙古の中書省に伝へんことを嘱せり。然るに幕府は返牒を不可なりとして、抑へて遣らず。高麗国使は太宰府守護所に留ること久しかりしも、空しく本国に帰るの已むなきに至れり。




 第六十四章 蒙古及び高麗第三回の来牒


第二百三十三節 蒙古使節の来朝

幕府の上奏と防備
 七年〔1270〕十二月、忽必烈、又秘書監趙良弼を国信使となし、高麗王※に命じて我国に送らしむ。八年〔1271〕九月、高麗王は其臣康允紹、徐称をして、良弼に随つて我国に赴かしめたり。八年の秋、高麗更に牒状を送れり。蓋し康允紹等の先容をなすものならんか。書中、蒙古の兵我国を来り攻めんとすることを載せたりしかば、九月、幕府は使を上つれり。
※示へんに「直」

 是より先き西園寺公相〔1223〜1267.45歳〕は文永四年十月、父実氏〔1194〜1269.76歳〕に先きだつて薨じ、さしも久しく栄華を極めたりし実氏も、同六年六月、病んで薨ぜしかば公相の子実兼〔1249〜1322.74歳〕は代つて幕府の申次となれり。されば東使は彼れを経て高麗の牒状を院に呈覧せしむると共に、兵を鎮西に出して、蒙古の来襲に備へ、鎮西に所領を有するものをして守護に随ひ、自身若しくは代官を以て、要地を警備せしめ、併せて各部内の、命に従はざるものを伐たしめたり(小代文書、薩藩旧記)。

幕府再び返牒の議を阻む
 尋で趙良弼等百余人、筑前国今津より上陸して、太宰府に至り、自ら国王、及び大将軍に見えて国書を捧呈せんことを求め、太宰府のこれを争ふに及び、国書の副本を少弐資能〔1198〜1281.84歳〕に交付し、資能はこれを幕府に致せり。其書は十一月を期して我返牒を迫り、期を過ぐれば兵船を艤せんことを告げたるものなり。十月、幕府は使を上つりて実兼の執奏を請ひ、院に於ては直に評定を行はれしが、是時にも長成の返牒案を修正して、これに与へんとするの議あり、(吉続記十月二十四日の条、歴代編年集成)而かも幕府はこれを与へずして遣帰せり。元史、東国通鑑、並びに是時良弼、我使二十六人を本国に送りしことを載せたれども、我記録の載せざるところにして信を取るべからず。

石清水御幸、伊勢勅使発遣
 十月、後嵯峨上皇は石清水宮に詣で給うて、親ら国難を除かんことを祷り給ひ、十二月、又公卿勅使を伊勢に発遣して、異国降伏を祷らしめたり。

 十一月、蒙古は国号を元に改めたり。これ易の乾元の義に取れるものなりといふ。


第二百三十四節 日蓮と外寇

立正安国論
 日蓮宗記録の伝ふるところに拠れば、日蓮〔1222〜82.61歳〕は頃年の天変飢疫を見て、文応元年〔1260〕七月、幕吏宿屋光則(法名西信、○吾妻鏡弘長三年〔1263〕十一月十九日の条に宿屋左衛門尉最信あり、時頼の近臣なり。本化別頭仏祖統記に、「光則者時之寺社職也」と見えたり、)に付して立正安国論を時頼〔1227〜63.37歳〕に上つり、禅宗、念仏等諸宗の蠧害を説きて、其禁止すベきを論じ、若し此諫に従はざれば、将来必ず内患外寇に苦しめらるべきを予言し、時頼の怒に触れ、僧俗の怨を買うて其迫害を受け、尋で伊豆伊東に流されたり。同三年二月、赦されて鎌倉に帰り、常葉谷に居る。

日蓮の配流
 然るに蒙古来牒の事ありしより、彼れは其予言の適中せるものとなし、書を幕府に上つりて、念仏、真言、禅、律、諸宗の帰依を停め、速に蒙古を調伏して国難を除かんことを進言し、幕府の帰依せる諸宗の高僧を誹謗せしかば、文永八年〔1271〕彼れは罪を得て大仏宣時〔1238〜1323.86歳〕に預けられ、尋で佐渡に流されたり(本満寺文書九月十九日日蓮書状)。是時彼れは死罪の宣告を受け竜口の刑場に臨みしも、俄に一等を減じて流罪に改められしといふ。然れども確拠なきを以て、学者或は其徒の作為せるところなりとなすものあり。日蓮の筆蹟は豪宕不羈其人となりを思ふべく、空海〔774〜835.62歳〕以来の能書なりと称せらる。


第二百三十五節 北条時輔の誅殺

二月騒動
 執権の襲職前後に免るべからざりし内訌は、時宗〔1251〜84.34歳〕の時は、稍々其期を緩うして、文永九年〔1272〕に至りて破裂を見たり。是時六波羅南方には時宗の庶兄時輔〔1248〜72.25歳〕あり。北方時茂〔1240〜70.31歳〕は七年正月病んで卒せしかば、八年十二月、長時〔1229〜64.36歳〕の子義宗〔1253〜77.25歳〕これに代れり。九年二月、時輔反謀あり、朝時の子名越時章〔1215〜72.58歳〕、弟教時〔1235〜72.38歳〕等、鎌倉にありてこれに与みすと聞えしかば、幕府は大蔵頼季等を遣して、先づ二人を誅せしめたり。中御門実隆を始め、此事に坐して処罰せられしもの少からず。而かも幕府は時章を冤なりとして、却て頼季等を斬に処し教時を伐ちしものゝ功を録せざりしといふ。幕府は又義宗に命じて、時輔を伐たしめたりしかば、義宗は在京の武士を督して急に六波羅を攻めたり。時輔戦つてこれに死す。これを二月騒動といふ(保暦間記)。正応三年〔1290〕十一月、時輔の子二郎、乱を図り、事露はれて誅せらる。

☆『とはずがたり』に描かれた二月騒動の様子はこちら




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