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三浦周行 「丹後局と卿局」
(『新編 歴史と人物』.岩波文庫.1990年.p138以下)

※執筆は明治45年。





三浦周行氏の略歴

みうらひろゆき(1871〜1931)
 明治から昭和時代前期にかけての歴史学者。明治四年(1871)六月四日出雲国島根郡内中原町(松江市)に、父正祐・母タマの長男として生まれる。幼名は禄之助、長じて周行と称した。島根県尋常中学校・私立東京英和学校を経て、帝国大学文科大学選科に入学、明治二十六年終了。二十八年史料編纂助員、三十八年史料編纂官となり、この間『大日本史料』第四編鎌倉時代の編纂に従事、三十五年その一が刊行され、第四編は各編に先んじ早く完了した。三十四年東京帝国大学法科大学より法制類聚編纂を嘱託され、また国学院大学に日本法制史を講じ、以後東京帝国大学法科大学授業担当、同文科大学講師を嘱託された。
 四十年京都帝国大学文科大学に史学科が開設され国史学講座がおかれて、国史材料の蒐集を嘱託され、ついで講師となり、四十二年教授に任じ、文学博士の学位を受けた。はじめ、日本法制史・同中世史・古文書学などを講じ、大正に入り日本社会史さらに大正八年(1919)教授内田銀蔵没後は都市・港湾など経済史関係の講義もあり、昭和になると文化史の講義も多い。また大正四年以来京都帝国大学法科大学で法制史を講じた。十一年欧米へ出張し、昭和五年(1930)に中国広東の中山・嶺南の両大学で明治維新史 を講じ、翌年北京その他の大学で明治維新史・明治法制史などを講演した。この間、臨時御歴代史実考査委員を勤め、また宮中の講書始に進講した。
 昭和六年七月京都帝国大学を退官、ついで同大学名誉教授の称号をうけたが、九月六日胃を病んで没した。六十一歳。法名は、文格院殿嵩山周行居士。墓は、松江市外中原町の法眼寺にある。
 京都大学国史研究室草創期の功労者で内田銀蔵とともにその基礎を固め、特に史料蒐集に努め、文書・記録を調査謄写するとともに古文書原本を蒐集し、大正末年に二万通に及ぶといわれる。史料に広く精通し、さらに新史料を探求して新史実の究明にめざましい業績をあげた。『近衛家文書』によって南北朝合体条件を解明し、青蓮院の文書・記録により『愚管抄』の著者が慈円なることを確認し著作年代の承久二年(1220)説を補足したごとき、その例である。
 その史論は該博にして鋭利、精緻にして的確と評せられる。早くより日本法制史の権威、日本中世史の専門家として知られたが、その研究分野は諸方面にわたり、時代も古代より近現代に至っている。研究・教育に精励恪勤倦むことなく、学生指導もきわめて厳格であった。
 著書に明治四十年『鎌倉時代史』(『日本時代史』五)、大正五年『歴史と人物』あり、八年『法制史の研究』がある。『法制史の研究』により帝国学士院恩賜賞を受賞、九年『国史上の社会問題』、十一年『日本史の研究』、十四年『続法制史の研究』、昭和五年『日本史の研究』第二輯をそれぞれ刊行。『法制史の研究』『日本史の研究』は続編を併わせ主著をなしている。なお、『堺市史』編纂監修とし、市史第一・二巻の大部分はみずから執筆した。市史八巻は昭和六年成ったが、市史編纂の一典型と評価された。
 国史学が近代史学として開花した時期に、卓越し、基礎となった業績をあげた史家の一人である。

〔参考文献〕勝田勝年『三浦周行の歴史学』

(吉川弘文館『国史大辞典』小葉田淳氏)



三浦周行氏の見解

私の立場からの補足


公家の女流政治家

 すべて歴史上の出来事は、種々錯綜した事情や社会人事の微妙な関係に基づくものである。殊に政治組織の幼稚な時代には、たいてい首脳となるべき少数者の意見が直ちに事実となって現われる場合の多いために、種々の忌わしい秘密運動が行われ、それがまた非常の効力をもつ習いであったから、篤(とく)と裏面の事情も究(きわ)めて見なければ、表面に現われた出来事の真相を捉える事はむずかしい。

 ところがこの方面の研究のこれまで割合に閑却せられているのは、勿論表面の事実ほど、史料をととのえることの困難な訳もあろうが、また初めから真面目な歴史家の間に社会の闇黒面の穿鑿(せんさく)の好まれぬ風があって、自然と伝奇小説家の手に放任せられるようになったものであろう。

 しかし真面目・不真面目は畢竟(ひっきょう)史的事実を取り扱う方法如何(いかん)にあって、事実その者にある訳ではなかろうから、将来はこの分野の開拓も、やはり歴史家の手でやってほしいと思う。余のこれから試みようとする鎌倉時代政治史の裏面観にわたった研究もまた同一の微意にほかならぬのである。

 秘密な政治運動にいつも使われる誘惑手段としては、賄賂の行使・利益の交換など、今も昔も大差はなかろうと思われるが、ただ昔にあっては婦人の関係する場合が殊に多く、いわゆる苞苴(ほうしょ)と女謁(じょえつ)の並行している実例に乏しくない事であろう。

苞苴(ほうしょ)「@つと。あらまき。Aみやげもの。土産。Bまいないに用いるもの。賄賂。音物(いんもつ)。」(『広辞苑』)

女謁(じょえつ)「@女が君主の愛をもとにして請い求める願い。A婦人にこび頼んで君主に近づく。」(『角川漢和中辞典』)

 政治思想の発達した西洋でも婦人の参政運動は近年になってやかましくなり出した位であるから、男尊女卑の東洋流ではなおさら婦人の政治に容喙(ようかい)することは喜ばれない。鎌倉幕府も法制の上では婦人は僧侶と共にこの種の口入(くにゅう)を禁止せられている。弘安七(1284)年の新式目の中に「僧女の口入を止めらるべき事」とあるが如きはその一例として見られよう。

「近年」というのは明治45年(1912)から見てのこと。
 しかし制度と実際とは必ずしも一致せないもので、初期の鎌倉幕府、殊に頼朝の薨去(こうきょ)後に、二位尼(にいのあま)が将軍以上の仕事をしていた事、さては北条時政の執権にその室(しつ)牧氏、義時の執権に同じく伊賀氏の内助の力多かった事などを思い合わせては、何人も婦人の偉大な勢力を認めずにはおられまい。

 これらは既に世に知れ渡っている事であるが、さらに公家側について同様の女流政治家を物色して見ると、鎌倉時代を通じておよそ二人の代表的婦人が見出される。後白河法皇院政時代の丹後局(たんごのつぼね)と後鳥羽上皇院政時代の卿局(きょうのつぼね)とが即ちそれである。



源頼朝(1147〜1199.53歳)は1149年生まれの源通親・九条兼実より2歳上。
「二位尼」とは北条政子(1156〜1225.70歳)のこと。頼朝より9歳下。

北条時政(1138〜1215.78歳)は1205年、後妻牧の方と謀り実朝を除いて女婿平賀朝雅を将軍にしようとしたが、政子・義時に反対され失敗、以後死ぬまで伊豆北条で隠遁生活を余儀なくされた。

北条義時(1163〜1224.62歳)は政子の7歳下の弟。鎌倉幕府第2代執権。

丹後局と卿局とを出した時代

 後白河・後鳥羽両院の院政は鎌倉時代の初期に当たって、幕府の創立から、源家三代の跡が絶え新たに摂家の将軍を迎えるに至った事など、いずれも皆この時期の出来事であり、その最後に起こった承久の戦役は後鳥羽上皇院政の終結となったと同時に、またこの時期の終結ともなっている。

 頼朝一生の努力は幕府百五十年の基(もとい)を開くに至ったとはいえ、初めから平氏や義仲に反対を標傍して起(た)っただけに、朝廷に対しても、つとめて恭順の態度に出るを余儀なくせられたため、各種の経綸(けいりん)を行おうとしては、保守的な法皇に憚(はばか)って断乎たる処置に出でないばかりか、その御気色(みけしき)に触れて予定の計画を修正変更した事さえもあった。鎌倉時代史の初ページは実に幕府と院の庁との交渉やら妥協やらで満たされている。




後白河院(1127〜1192.66歳)

後鳥羽院(1180〜1239.60歳)についてはこちら。(水戸部正男『歴代天皇紀』)



源義仲(1154〜1184.31歳)は1183年7月に平氏を都から追い落としたが、後白河院と対立し、翌年1月、頼朝の派遣した範頼・義経軍に破れ、近江粟津で討たれた。
 頼朝は初めから平家に縁のある摂政藤原基通(もとみち)を罷(や)めて、その意中の人藤原兼実(かねざね)に代えようと思ったが、後白河法皇は基通と同性間の御情交さえあらせられたとかで、特別の御贔屓(ごひいき)であったから、頼朝も露骨に申し上げかね、最初はまず兼実に文書(もんじょ)内覧の宣下(せんげ)を奏請して婉曲に更迭を望むの意をほのめかして見たものの、とんと利目(ききめ)がないので、今度は手をかえて、摂政の更迭を春日の神前で取り極(き)めたいとの破天荒の奏請に及んだが、それでもまだ法皇の御思い切りがないから、余儀なく断然と兼実に摂政の宣下を奏請して、ようやくの事、その目的を達した次第である。

近衛基通(1160〜1233.74歳)は近衛家の祖基実(もとざね)の子で、九条兼実(1149〜1207.59歳)にとっては11歳下の甥になる。

九条兼実が内覧となったのは1185年12月で、摂政となったのは翌1186年3月のこと。
 ところが引き続いて試みた摂政家領を基通から兼実に譲らせようとの奏請については法皇は極力基通を保護あそばされて幕府の京都守護一条能保(よしやす)に「前摂政は珠にいとおしく思(おぼ)しめす人なり」と手放しの御惚気(おのろけ)を聞くかせ給うかと見れば、頼朝の使に立った大江広元(おおえのひろもと)に「朕が今生に思い量る事、ただこの一事なり」との恐れ多い仰せさえあったので、さすがの頼朝もついに要領を得ず手を引き申した。兵力のない院に対して、さりとは余りに慎重に過ぎるとも思われもしよう。そこが幕府の政略上、いわゆる自縄自縛に陥った訳で是非ない次第といわずばなるまい。



一条能保(1147〜1197.51歳)は妻が源頼朝の同母妹。

大江広元(1148〜1225.78歳)は実務官僚の家柄に生まれ、頼朝に招かれて鎌倉に下向し、幕府機構の整備や朝廷との折衝に活躍した人物。



頼朝を絡めた通親と九条兼実との対立関係についてはこちら。(上横手雅敬氏「晩年の頼朝」)
 この弱味は公家側の野心家に最好の武器となって、建久七(1196)年には土御門通親(つちみかどみちちか)等の陰謀成就と共に、兼実一味の僧俗男女にクーデターの憂目(うきめ)を見せ、朝廷の武家の地盤を転覆させたが、引き続いて英邁なる後鳥羽上皇の院政となり、また悲惨なる頼朝の最期となって、傾きかけた幕府の運命は急転直下止処(とめど)もなく見えたから、在朝の君臣いずれも笑壺(えつぼ)に入られるにつれて、公家政治には附物の宮廷の腐敗や朝臣の堕落などと申す政界のバチルス〔細菌〕が、時を得顔(えがお)にはびこった。

 承久の戦役は畢竟(ひっきょう)院政の黄金時代に眩惑して武家の潜勢力を無視せられた結果、得意と失意との両極端の衝突となったものにほかならぬ。

 この苦い経験に懲りた幕府が態度一変、高圧手段を以て善後の始末を附けたはいうまでもなく、有効な仲介機関や代表機関を設けて、公武の聯絡(れんらく)を取りながら、猜疑の眼(まなこ)を以て不断の監視を続け、些(さ)の異状もあらばひともみに揉(も)みつぶそうとの態度を示したがため、戦後の朝廷は、宮中も府中も全く萎縮して幕府の鼻息を窺われるほか、手も足も出ない始未、なかなか以て生優(なまやさ)しい女流などの出られる幕ではなかった。丹後局や卿局の鎌倉時代の初期に現われて幅を利かせたのも、またそれから後に、第二の丹後局や卿局の出でなかったのも、政界の大勢から割り出して少しも不思議はないのである。



丹後局の権勢

 丹後局は澄雲(ちょううん)と申す山法師の女(むすめ)で、高階栄子(たかしなえいし)といった。相模守平業房(たいらのなりふさ)に嫁して、業兼・教成(のりなり)の二子を生んだが、治承三(1179)年に、夫業房が平清盛のため、伊豆に流されてから、法皇の御召に預かって院御所に宮仕えの身となり、ほどなく懐胎して皇女覲子(きんし)を生み奉った。



丹後局(高階栄子)の生年は不明。没年は1216年。

平業房(なりふさ.?〜1179)は後白河法皇の近臣。「(1179年)平清盛のクーデターで解官され、捕えられ伊豆国に流される途中で逃亡した。しかし、同年12月、清水寺付近で兵衛尉知綱に捕えられ、平宗盛のところで拷問を受け、やがて殺された。文治2年(1186)7月には業房の建立した浄土寺付近の堂で供養が行われた。」(菊池紳一氏『鎌倉・室町人名事典』)

平清盛(1118〜1181.64歳)


『玉葉』は九条兼実の日記。その記述が『大日本史』を通して源通親の評価に決定的な影響を与えている点についてはこちら。(橋本義彦氏『源通親』)
 同年十一月清盛が法皇を鳥羽殿に幽閉し奉った時にも局だけは御附け申した(『愚管抄』)。養和元(1181)年七月に局は業房の供養を行なっているが、法皇から殿上人らを御遣わしになったので、世人の奇異の思いをなした事が『玉葉』に見えている。十月の出産であるから、その頃は既に身重(みおも)になっていたのである。よほど寝覚(ねざめ)がわるかったものと察する。

 法皇にも至極御同感と相見え、文治二(1186)年には浄士寺の堂に御幸になって局諸共(もろとも)業房の供養を行わせられている。『源平盛衰記』『平家物語』(長門本)を見ると、後鳥羽上皇の践祚(せんそ)は局が法皇に勧め奉ったがために定まったとあるが、それは『玉葉』に見えた丹波局(たんばのつぼね)の夢想と混じた誤伝ではあるまいか。

 法皇の局に対する御愛情はますます濃(こまや)かで寿永元(1182)年十二月にはその浄士寺の堂に浄金剛院との額を書き進(まい)らするようと兼実に仰せられ、元暦元(1184)年には光明院から法皇に進めた六条坊門東洞院の地を局に賜い、局の女婿兼光は隆房(たかふさ)を超えて従三位に叙せられている(『玉葉』)。

四条隆房(1148〜1209.62歳)は隆親の祖父。歌人としても著名。四条家についてはこちら。(角田文衛氏『平家後抄』)
 文治三年に局は従三位に叙せられた。局の生み申した皇女は法皇最愛の姫宮とあって、同じく五年に御年九歳で内親王・准三宮(じゅさんぐう)にならせられたが、建久二(1191)年に院号宣下があって宣陽門院とならせられ、生母の局は従二位に陞叙(しょうじょ)せられた。

覲子内親王(宣陽門院.1181〜1252.72歳)が若干11歳で女院号を宣下されたのは極めて異例であるが、これは翌1192年、後白河法皇から長講堂領などの所領を譲り受けるための準備といえる。長講堂領をはじめとする莫大な所領は丹後局の権勢を支えとなった。後鳥羽院政期には長講堂領は実質的に後鳥羽院が管領したが、承久の乱後に宣陽門院が回復し、1251年後嵯峨院の要請で後深草天皇に譲与された。そして後に持明院統の重要な財産となった。

山科教成(のりしげ.1177〜1239.63歳)は山科家の祖。父は平業房。「後白河法皇の山科新御所の地が丹後局に与られ、さらにそれが教成が伝領し、名字地となった。」(井上満郎氏『鎌倉・室町人名事典』)

藤原実教(1151〜1227.77歳)は家成の子で、四条隆親の曾祖父隆季(たかすえ.?〜1185)の弟。「実教は建久元年(1190)、後鳥羽天皇の御笛師を仰せつけられるなど糸竹音曲にすぐれ、勅命で平業房の子教成を猶子とし、その子孫は笙・装束などの故実を伝える山科家となった。」(菊池紳一氏『鎌倉・室町人名事典』)
 それから丹後二品(ほん)とも、また浄士寺に山荘があったので浄土寺二位とも申した。縁につながる教成も法皇の近臣として御覚えめでたく、特別の思召(おぼしめし)で藤原実教の猶子(ゆうし)になされ、文治四年に昇殿を聴(ゆる)され、建久二年に左近衛少将に任ぜられたのも偏(ひとえ)にありがたい院宣に依ったという。

 局が法皇の御寵愛を専らにして朝な夕なに御側を離れなかった趣は局嫌いの兼実が自らその日記『玉葉』の中に、(ア)「殊寵無双、李夫人・楊妃に異ならざるか」といっているのでも分かる。

 局はその羽振りのよさに院の政治にも容喙(ようかい)することとなったから、兼実はまたその日記『玉葉』に(イ)「近日の朝務、ひとえに彼の唇吻にあり」(ウ)「近日ひとえに彼の女房の最なり」などと書いており、頼朝の深厚な信任を以て朝(ちょう)に立った彼も、局には少なからず悩まされた。

 文治の初め、頼朝は摂政の更迭を行おうとして、端(はし)なくも法皇の御気色を損したが、兼実はまた頼朝に媚(こ)びて法皇が天下を知食(しろしめ)されぬよう悪(あ)しざまに申し遣わすとの御疑念を蒙り、痛くもない腹をさぐられてすこぶる恐縮いたした事である。

 当時局は法皇と御同居申し上げて関東へ御沙汰の密議にも預かれば、旨を奉じて頼朝腹心の臣大江広元と折衝するなど、目ざましい活動を続けて、極力院旨の貫徹を図った。局が参院した広元に応接した折には、実は法皇が局の傍(そば)におわしてその詞(ことば)を授け給うたので、中には兼実不忠との意味合いもあったやに(エ)『玉棄』には書いている。


(ア)『玉葉』文治三年二月十九日の条。
(イ)同、文治元年十二月二十八日の条。
(ウ)同、文治二年閏七月六日の条。
(エ)同八文治二年七月十七日の条。





丹後局と兼実・通親および頼朝

 多年失意を歎いておった兼実も、頼朝の推薦で、登竜門にありついてからは、常は業房の旧妻・卑賎の者などとおとしめるくせに、局を向こうに立たせては不利益と思ったか、文治元(1185)年には法皇の逆鱗を申し宥(なだ)めようと局に面謁を申し込んだところ、すげなく拒絶せられて器量を下げ、悔しさ恥かしさが込み上げて、(ア)堂々と数百言の繰言(くりごと)を陳(の)べている。

 その後建久二(1191)年に兼実の家司どもが、法皇の御※惜(ごりんせき)に依って摂政家領の主家に渡らぬを根にもって法皇を呪詛(じゅそ)し奉るとの落書に、嫌味の手紙を添えて局から兼実の許(もと)まで送り越した時には、さすがの兼実も宿運の尽きと少なからず周章狼狽したが、人を以て陳疏(ちんそ)させたに対して局の挨拶がよかったとて安堵の胸を撫でおろし、自身で親しく局に遭(あ)って意中を述べたあげく、「貴妃理に伏すの色あり。鄙生過なぎの験を顕わすか」といつもに似ぬ謙遜の辞を(イ)その日記に陳(つら)ねている。

 されば摂政として取り扱う除目(じもく)の如きも、常に局の旨に合うようにと心を用いたが、建久二年に教成が右近衛少将になって摂政に拝賀のため参邸した折には、特に呼びとめて言葉をかけた事を日記に臆面もなく「追従(ついしょう)のためなり」と書いている。とかく高くとまっていた彼もこの頃は追従も世渡りと悟ったと見える。

 しかし同じ年に、局から覲子内親王の院号宣下について自分よりの奏聞は憚り多い故、兼実に発言するようとの依頼を受けた時は、局が寵を恃(たの)んで、兼実の女の後鳥羽天皇の中宮であった任子(にんし.正治二〈1200〉年に院号があって宜秋門院(ぎしゅうもんいん)という)の后位を妨げ、内親王の入内(じゅだい)を図るとの風聞があった折とて(同時に頼朝が女子入内の希望を抱くとの風説も行われた)、挨拶を濁したのを、全くそういう次第ではなく、局はただ院号を望むに止まるとの事に、それでは「天の助なり、中宮の御運なり」と早呑込(はやのみこみ)に執奏に及んだ。

宜秋門院(1173〜1238.66歳)「後鳥羽天皇の中宮。名は任子。承安3年(1173)9月生れる。父は関白太政大臣藤原兼実。母は従三位藤原季行の女兼子。文治5年(1189)11月、従三位に叙され、翌建久元年(1190)正月、入内して女御。同年4月、立后宣下、中宮となる。同6年8月、皇女(春華門院昇子)を生む。同7年11月、父兼実の関白罷免にともない内裏を退出。正冶2年(1200)6月、院号宣下、宜秋門院と号す。建仁元年(1201)10月、法然のもとで出家、法名は清浄智。建暦2年(1212)正月、院号および年官年爵を辞退した。元久元年(1204)、父兼実から最勝金剛院とそれに付属する荘園十数ヵ所と女院庁分として荘園三十数ヵ所を譲られ、のちにこれらの荘園を甥道家の女(田中殿)を猶子として譲与した。また御願寺として仁和寺真乗院、高野山平等心院がある。暦仁元年(1238)12月、六十五歳で崩ず。」(菊池紳一氏『鎌倉・室町人名事典』)
 この見え透いた素振りはむしろ局に不快の感情を与えたに過ぎまい。兼ねて兼実排斥の野心を抱いていた土御門通親は自ら宣陽門院の執事となって局の権勢を利用するに努めていたらしいから、これらの機会にますます局に接近してその秘密の計画を進めたであろうと思われる。

 しからば兼実の推薦者たる頼朝と局との間柄は如何(いかが)かというに、抜目のない局はもとより権臣の機嫌をそらすようのぶざまはせぬ。頼朝が亡母の菩提を弔おうと鶴岡八幡宮の側に塔婆を建てた時には、法皇より御使を以て御馬および錦の被物(かずけもの)を賜わったが、局からもまた扇二十本を銀の筥(はこ)に納めて贈った。

 頼朝の始めて局に謁したのは建久元年、初度上洛の折であったが、当時彼は桑糸二百疋・紺絹百疋を鶴の蒔絵(まきえ)のした唐櫃(からびつ)二合に納めて局への進物としたので、頼朝下向(げこう)の時には局からも餞別を贈ったが、その中の扇百本は法皇の内々の御気色を承けたものであるという。




1127年生まれの後白河法皇は頼朝より20歳年上。


建久元年は1190年。頼朝は1189年に奥州藤原氏を平定して、翌1190年やっと上洛した。平治の乱後の処分で伊豆に流されて以来、実に30年ぶりである。
 翌年には頼朝が院宣を奉じて修理した法住寺殿ができあがって、法皇は局を随えて渡御(とぎょ)あそばされた。頼朝は御祝儀として局に白綾(しらあや)・帖絹(ちょうぎぬ)・綿(わた)・紺絹を献上したが、局は後に修理の善美を尽くした事を喜んだ消息を寄越(よこ)した。

 建久六年に頼朝二度目の上洛は法皇崩御の後であったが、頼朝は滞在中、宣陽門院の御所に祗候(しこう)し、また局を六波羅の亭に招待して、夫人の政子や娘を引き合わせ、打ち解けての物語の後に、銀で作った蒔筥(まきばこ)に砂金四百両を納(い)れて、白綾三十端で地盤を飾ったものを贈り、扈従(こしょう)の諸大夫(だいぶ)・侍等にもそれぞれ引出物を取らせたが、その後局は自分と六波羅を尋ね、また頼朝一行の天王寺参詣の折には鳥羽からの乗船に自用の船を貸しなどした。謹厳な頼朝と、如才ない局との間に交わって、政子の振り蒔く愛矯など、思い遣るさえ床(ゆか)しい心地がするではないか。

(ア)『玉葉』文治元年十二月二十八日の条。
(イ)同、建久二年九月七日の条。









建久6年は1195年。東大寺再建供養会への出席が主な目的であったが、娘の大姫(?〜1197)を入内させるための準備工作も兼ねていた。大姫入内は大姫自身の病弱もあって、結局実現しなかった。

丹後局の末路

 建久三(1192)年の春、法皇の御悩み日に増させられたが、法皇は御見舞に成らせられた後鳥羽天皇に向かわせられて、宣陽門院の御事、教成の事ども申し置かせられたという。崩御の前、遺領の御処分があって、宣陽門院には六条殿・長講堂以下の荘園を譲り給うた。局にも山科(やましな)をその所領となされ、かつ特別の思召を以て将来違乱なきようとの御起請符をさえ下された。

 この歳(とし)三月に法皇崩御の後、局は落飾して御仏事を修し御冥福を薦(すす)めまいらせた。局の山科の所領の中(うち)山科御所などは後に教成に譲られたので、彼は多年の御恩顧に報いまいらせんため、御所の傍(かたわら)に法皇の御影(みえい)を安置したのが、山科の御影堂である。




1192年の時点で後鳥羽天皇は13歳、宣陽門院は12歳。
 局の二位尼は世に望みを絶って仏いじりに日を過ごしたかと思いのほか、梶井宮承仁法親王と申すお若い宮様との間に浮名が立った。法皇の崩御後、兼実と頼朝と申し合わせて鋭意朝政の刷新を図ったのがその中に法皇崩御の際、俄(にわか)に置かれた播磨・備前等の荘園を停廃し、教成の養父であった実教らを罷免した事など、少なからず局に不快の感を与えたから、局は梶井宮や通親らと牒(しめ)し合わせて秘密の間に兼実排斥の謀議を重ねたらしい。


承仁法親王(1169〜1197.29歳)「後白河天皇の皇子。母は江口の遊女で丹波局と称し、一説に大僧都仁操の女、また内膳司紀孝資の女ともいわれている。(中略)(建久)6年11月、後鳥羽天皇の護持僧となった。同7年11月には天台座主に補せられたが、三十歳未満で座主となったのはこれが初例である。翌建久8年4月、重病のため座主を辞し、同月27日、白河房で入寂。二十九歳。梶井宮・建久宮と号した。」(宮崎康充氏『鎌倉・室町人名事典』)

『愚管抄』の著者慈円(慈鎮和尚.1155〜1225.71歳)は九条兼実の6歳下の同母弟で、兼実とともに建久7年の政変の直接の被害者であって、源通親や丹後局に対する視線は兼実と全く共通である。
 『愚管抄』に「かようの事を浄土寺の二位もとがめて、梶井の宮にささやきつつ、通親をもいいすすむるなりけり」云々とあるを見ると、まるで局がこの運動の中心であって、通親はむしろ従たるようにも思われる。建久七年に機熟して首尾能(よ)く陰謀の目的を達してからは、梶井宮は慈鎮和尚(じちんかしょう)に代わって天台座主(ざす)に補せられ、護持僧にもなりすまされたが、ほどなく入滅(じゅめつ)せられて、局が再び世に時めく機会は永く来なかった。

 局のその後の消息については、建久八年に藤原公時(きみとき)の家人に橘兼仲(たちばなのかねなか)と申すものの妻が、後白河法皇の、社(やしろ)を造って我を崇(あが)めよとの御託宣があったと言いふらし、局もこれを信じていたと伝えられるが、これは妖言(ようげん)ときまって兼仲夫婦共に処分を受けた。

 ところが今度はまた法皇の近習(きんじゅ)であった刑部権大輔(ぎょうぶごんだいふ)源仲国(なかくに)の妻に、同様御廟(ごびょう)を立てて石清水以上の尊崇を払われ、あまつさえ常に御好みの田楽猿楽を廟庭で演ずるようとの御託宣があったと申しふらした。

 七、八年も根強く吹聴したのと局が懐旧の涙に咽(むせ)んで上皇に御採用を願ったりしたので、上皇にも殊のほか御軫念(ごしんねん)あらせられて、神宮を始め諸社に御祈祷あそばされ、建永元(1206)年には朝廷でも諸卿の議定が行われて、多数は御廟建立に賛成したが、藤原公継(きみつぐ)が独り反対の議を主張し、また慈鎮も卿局の夫藤原頼実(よりざね)に書を贈ってその不可を痛論し、上皇の御嘉納に預かって、仲国は解官(げかん)せられ、夫婦諸共(もろとも)洛中を追放せられた。











徳大寺公継(1175〜1227.53歳)は、承久の乱に際して後鳥羽院が親幕派の西園寺公経を誅殺しようとしたのを諫止したことでも有名。本郷恵子氏は『中世公家政権の研究』(東京大学出版会.1998)p122において「公継がすぐれた才能の持ち主であったことは間違いないところだろうが、同時に彼は一種の合理主義者であって、先例や他人の反応にとらわれない態度のために、敵をつくることも多かったのであろう。」と述べられているが、この性格は息子の徳大寺実基(1201〜1273.73歳)にもしっかり受け継がれたようで、『徒然草』第206・207段には実基の徹底した合理主義者ぶりがユーモラスに描かれている。
 この仲国の妻というは局の縁者で、法皇の御託宣と申すも、その実、局の内々たくんだ妖言と知れ渡ったのである。恥を思わば穴にも入りたい思いをなすが定(じょう)であるに、「浄土寺の二位も、しらけしらけとしてやみにけり」と『愚管抄』に見えた通りならば、案外すましたものであったらしい。

 それにしても、長い間、飛ぶ鳥も落とさんばかりの女傑の末路としては振るわぬこと夥(おびただ)しい。ところがこの仲国と申す男が、後に赦(ゆる)されて卿局の後見になっていたのを見ると、この両女豪の間には一種の腐れ縁が成り立っていたのでなかろうかと想われる。



卿局の出身

 もし『吾妻鏡』に見えるように丹後局を後白河法皇の執権の女房といえるならば、卿局は後鳥羽上皇の執権の女房といえよう。しかしこの両人は全くその出身・経歴を異にしている。丹後局の権勢は法皇がその殊色をめで給うたからであるが、卿局はただ宮仕えの一老女で、正治元(1199)年、年四十五の時、典侍(てんじ)に任ぜられたまでは毫(ごう)もその名が聞こえなかった。




後鳥羽上皇(1180〜1239.60歳)についてはこちら。(水戸部正男『歴代天皇紀』)

卿局(藤原兼子.1155〜1229.75歳)は後鳥羽上皇より25歳上。
 局は刑部卿藤原範兼(のりかね)の女で名を兼子(かねこ)と申し、その叔父で義理の兄に当たる高倉範季(のりすえ)は後鳥羽上皇を養いまいらせて、践祚の時も専ら御世話申し上げた上、その女重子(しげこ.後に院号があって修明門院という)に宮仕えさせ、また局の姉範子(のりこ)はもと法勝寺執行(しゅぎょう)能円(のうえん)の妻で、上皇の御乳母(おんめのと)をも勤めたが、能円が平家に従って没落の後、通親に思われてその夫人となりすまし、連子(つれこ)の在子(ありこ)は通親の養女として上皇の妃となった。承明門院と申すがそれである。

 かくまでに上皇と深い関係があったにもかかわらず、一門久しく沈淪(ちんりん)してあらわれなかったのは、種々の事情もあったであろうが、中にも範季が平氏と親しく内々で義経を助けて頼朝に睨(にら)まれたのは、その最も有力な原因であった事と推測する。


高倉範季(1130〜1205.76歳)

修明門院(1182〜1264.83歳)は順徳天皇の母。女院号宣下は1207年、26歳の時。
能円(1140〜1199.60歳)「平安後期の法勝寺僧。通称中納言法印。左少弁藤原顕憲の息。母は藤原家範の女。大納言平時忠・平時子と同母。隆盛にある平家を後楯に、治承3年(1179)、法勝寺上座・執行に補された。平家の滅亡後、文冶元年(1185)から同5年の間、備中国に流される。息女在子は土御門通親の猶子として後鳥羽院の妃に入り、建久6年(1195)、土御門院を出生、外祖父となるが、通親の権勢のうしろに隠れたまま、正治元年(1199)に病没。」(永村真氏『鎌倉・室町人名事典』)

承明門院(在子.1171〜1257.87歳)は土御門天皇(1195〜1231.37歳)の遺児邦仁(後嵯峨天皇.1220〜1272.53歳)を養育した人でもある。
 なお、承明門院は後鳥羽院より9歳上、兼実女の宜秋門院は7歳上であるのに対し、修明門院は2歳下。

順徳天皇(1197〜1242.46歳)
 ところが上皇は建久九(1198)年に承明門院の生まれた土御門天皇に御譲位になって院政を御主宰あそばされ、通親の陰謀功を奏して在朝の武家党は一掃せられ、頼朝は薨(こう)ずる、あまつさえ修明門院は上皇の御寵愛を専らにせられて、その御腹の順徳天皇は皇太弟に立たせられるという風で、ようやく一門栄達の曙光(しょこう)も見えた。七十歳近くの範季が三位に叙せられ、兼子が典侍に任ぜられたのもこの際の事である。

 『愚管抄』に、「故卿の二位(兼子)は刑部卿三位(範子)が弟にて、ひしと君(上皇)につき参らせてかかる果報の人になりたるなり」と見えるから、浮気な読者は上皇との御関係を疑いもしようが、第一、人もあろうに二十五も年上の老女では、問題にもなるまい。

 『承久軍(じょうきゅういくさ)物語』には、承久三(1221)年、上皇が隠岐へ遷幸になる前、局のあわてて参った事を叙して、御めのとの卿の二位殿と書いている。それに拠ると、姉妹共に御乳母であった事になる。当時姉の範子(のりこ)は能円法印の妻で、子もあったが、局にはまだ定まった夫もなければ、子もあったとは見えぬ。ところが(ア)宝幢寺鹿王院((ほうどうじろくおういん)雑掌の申状に副(そ)えた院領備前国軽部(かるべ)荘内山手(やまのて)村の相伝系図にも、「卿二品、後鳥羽院御乳母」と見えて、御乳母たる事はますますたしかめられた。




文脈から見て、「当時」というのは後鳥羽院が生まれた1280年当時のこと。
 元来御乳母を御乳を上げまいらせるものとばかりに思うが間違いである。文治三(1187)年に頼朝は一条能保(よしやす)の女大納言三位というを上皇の御乳母に薦めて参内させているが、この時上皇は既に宝算(ほうさん)八歳にならせられ、かつこの御乳母も(イ)『玉葉』に拠ると「いまだ嫁がざるの人なり」とあって御乳の出でようはずがない。卿局の御乳母もおそらくこの格であったろうと思う。爾来(じらい)局は御在位中は禁裏の女房として、また御譲位後は院の女房として、多年宮仕えを続け、栄華の素地をつくったものと見える。

(ア)『鹿王院文書』。
(イ)『玉葉』建久二年十一月九日の条。




源頼朝(1147〜1199.53歳)
一条能保((1147〜1197.51歳)「頼朝の要請を受け京都守護の任にあたるほか、妻を後鳥羽天皇の乳母として(実際には女が出仕)、能保自身も天皇に近侍し、そのうえ後白河法皇にも重用され院御厩司となるなど、公武間にあってその仲介者的役割を果たした。さらに九条兼実の子良経や、西園寺公経を女婿とし、土御門通親・花山院兼雅ら後白河法皇の近臣とも姻戚関係を結び、朝廷内にも勢力を伸ばした」(菊池紳一氏『鎌倉・室町人名事典』)
奇怪なる結婚風俗

 昔から貴人は大概乳母に育てられるから、成人の後までも、乳母は勿論、その夫や子女との関係が意外に親密であったが、乳母の中にはその勢力往々生母を凌ぐものもあって、夫人の如きはたいてい頭の上らなかったものである。これが天皇や上皇の御乳母となると、栄耀栄華の数をつくして、果報の身を羨まるる習いであった。通親が能円法印の旧妻であった範子を娶(めと)ったのも、後鳥羽天皇の御乳母を利用して自家の政治上の野心を遂げようとの底意に出でたものと思われる。

 立身出世の捷径(ちかみち)として閨閥にあこがれるは古今人情の常とは申しながら、この時代の才人は思いのほかに猛烈なものであった。その代表的人物ともいえるのが藤原実宣(さねのぶ)であろう。彼は少年の時代からこれがために数回その妻を代えている。

 中にも壮年の頃は武家の威力を恃(たの)んで北条時政の女を娶ったが、その妻を喪った後はさらに藤原有雅(ありまさ)の女で、卿局の養女であった妙齢の妻を迎えた。ところが承久の戦役後、有雅が後鳥羽上皇の討幕の御計画に参与したため、幕府に召捕られて殺されたから、惶(あわ)ててこの若妻を逐い出した。するとその前妻が新帝後堀河天皇の御乳母であったので、実宣も御蔭で運を持ち直し、中納言から大納言まで昇進して相応の権勢家となり済ました。藤原定家はその『明月記』に皮肉の評言を下して、(ア)「実にこれ天下第一の賢慮か」と申している。

 北条氏との結婚は当時若公達(わかきんだち)らの最も望みをかけたところと見えて、義時の妻伊賀氏がその娘の婿がねを探し当てるために上洛した時は、公卿の間に激烈なる競争を惹き起こし、就中(なかんずく)最も熱心な中納言藤原家嗣(いえつぐ)はその妻を離別するに至った甲斐もなく、年若い三位中将藤原実有(さねあり)に取られて馬鹿を見、実有は(イ)「羽林に幸運の来たる時か」と羨まれた。

藤原(滋野井)実宣(1177〜1228.52歳)

北条時政((1138〜1215.78歳)

「藤原」有雅とあるが、これは源の誤り。源有雅(1176〜1221.46歳)は宇多源氏。「妻の従三位藤原憲子は順徳天皇の乳母となり、女子は土御門天皇の後宮に入り、仙華門院の母となる。神楽・和琴・催馬楽に巧みであった。承久3年(1221)6月12日に官軍を率いて宇治に向かった咎により出家したが、同月24日に六波羅に囚われの身となり、7月1日には鎌倉へ護送される。途中、平政子に助命を迄うが、その許可の到着する直前に、同月29日、甲斐国の稲積荘内の小瀬村で小笠原長清に斬られる。時に四十六歳。墳墓は駿河国駿東郡新橋村字向田にある。」(槇道雄氏『鎌倉・室町人名事典』)

後堀河天皇(1212〜1234.23歳)
藤原(大炊御門)家嗣(1197〜1271.75歳)は『とはずがたり』で後深草院二条の母大納言典侍の愛人だったとされている大炊御門冬忠(1218〜1268.51歳)の父。
 通親の子通具(みちとも)は、有名な歌仙俊成の女でこれも歌人として聞こえた婦人を妻としていたが、後に能円法印の女で後鳥羽上皇の宮女であった俊成の女按察局(あぜちのつぼね)の権勢にあこがれて同棲し本妻を構え附けぬところから(ウ)上皇の御召のあったを幸いに、院へ上って宮仕えの身となった。

 通具は前妻の同胞定家に面会の折、打ち解けて新妻の話をしながら、誠に当初の本意に背いて相済まぬが、決して離別はせぬからそのつもりでとの挨拶をした。これには定家も酷(ひど)くあてられたらしく、「もし実議(儀)たらば、また内府の例なり。恨みとなすべからざるか。近代の法、ただ権勢を先となす。いかんせんや」とその日記に書いている。

藤原(清水谷)実有(1203〜1260.58歳)は西園寺公経の次男。清水谷家の祖。

堀川通具(1171〜1227.57歳)は掘河家の祖。母は平教盛女(あるいは平通盛女とも)。歌人として著名で和歌所寄人・新古今集撰者に任命されるが、新古今入集歌は一七首で、撰者の中では最も少ない。定家は『明月記』で通具の新古今集選歌が杜撰だと非難している。なお定家は1162年生まれなので、通具より9歳上。

俊成女(しゅんぜいのむすめ.1171?〜?)は実際には俊成娘の八条院三条の子で、俊成の孫。通具との間に具定(1200〜1237.38歳)をもうけたが、堀河家は承明門院の妹である按察局が生んだ具実(1203〜?)から基具(1232〜?)・具守(1249〜1316.68歳)と継承された。

源通親(1149〜1202.54歳)
 内府とは通親のことであるから、彼も範子を娶った折には同様その旧妻を棄てたものと見える。しかし一旦棄てはしても強(あなが)ち離別をしたでもなく、都合好くば復(ま)た逢い戻りをする、といった風で、遊冶郎(ゆうやろう)が娼婦を取り替えるような話であるが、こうした時代の風潮であって見ると、当人同志も案外諦(あきら)めが善かったらしいのである。一向専修に入って念仏を信ずると、女犯肉食(にょぼんにくじき)も往生を妨げず、結句弥陀(みだ)の来迎(らいごう)を受けられるとの念仏宗の宗義が、貴賤男女に喜ばれて、一世を風靡したのもなるほどと頷(うなず)かれよう。

 通親が承明門院を後鳥羽天皇の妃としてその御腹の土御門天皇を皇位に即け奉り自身外戚の地位に上ったのは、全く範子を娶った御蔭であった。さればその家庭でも自然と範子に勢力があったものと見えて、範子が通親に嫁して通光・定通・通方を生む前に、通親には通宗・通具という歴とした子があって、その中通宗は建久九(1198)年に早世したが、通光は兄の通具をおいて嫡子に立てられ、建仁元(1201)年、年十五で三十一の通具よりも一年前に従三位に叙せられた。その弟の定通はまた死んだ通宗の子となって、同じく二年通具と同日に従三位に叙せられている。しかし範子は至極温順の質であったらしく、一生を承明門院三位で終わっているが、それに比べると、妹の卿局は婦人ながらも非凡の辣腕家であった。


(ア)『明月記』嘉禄二年六月三日の条。
(イ)同、安貞元年二月八日の条。
(ウ)同、建仁六年七月十三日の条。

承明門院(1171〜1257.87歳)
土御門天皇(1195〜1231.37歳)

通宗(1168〜1198.31歳)の母は太政大臣藤原忠雅女。

久我通光(1187〜1248.62歳)
土御門定通(1188〜1247.60歳)
中院通方(1189〜1238.50歳)



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