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| 三山進氏の略歴(上掲書による) |
| (みやま すすむ) 跡見学院女子大学教授 ※後日、補充します。 |
| 第六代 宗尊親王 幼将軍鎌倉入り 四条天皇〔1231〜42.12歳〕・北条泰時〔1183〜42.60歳〕などの没した仁治三年(1242)、後嵯峨天皇〔1220〜72.53歳〕に第一皇子が誕生した。中書王(ちゅうしょおう)、のちの宗尊(むねたか)親王である。母は蔵人木工頭平棟基の女(むすめ)、棟子〔?〜1308〕であったが、後鳥羽院〔1180〜39.60歳〕の寵愛が深かった承明門院〔1171〜1257.87歳〕のもとで養われた。親王宣下は寛元二年(1244)正月。その二年後、後嵯峨天皇が位を後深草帝〔1243〜1304.62歳〕にゆずり、上皇として院政をおこないはじめる。翌年、宗尊親王は後高倉院〔1179〜1223.45歳〕の皇女式乾門院利子〔1197〜1251.55歳〕の猶子(ゆうし)となった。おびただしい荘園を所有していた門院は、みずからの死後、親王にすべてを譲与するつもりであったという。 無意味な仮定にしろ、もしそのまま都での日々がつづいていたならば、たとえ皇位につけなかったにしろ、宗尊親王は門院の荘園を相続、ゆたかで穏やかな生涯を終えたのかもしれない。だが、元服した建長四年(1252)の春、親王の運命は大きく変った。親王を征夷大将軍に迎えたい、との使者が鎌倉から上ってきたのである。 皇族将軍をいただくことは、幕府の久しい念願であった。頼嗣〔1239〜56.18歳〕を廃した執権時頼〔1227〜63.37歳〕や重時〔1198〜61.64歳〕たちは、その念願実現に熱意をかたむけた。事の運びはすみやかであり、朝廷は親王の下向を承諾した。かつて泰時が強硬な態度をつらぬき、競争相手の順徳院〔1197〜42.46歳〕の皇子を抑えて即位させた天皇が後嵯峨帝であったことも、この成功を導いた一因と思える。 「まことに大やけ(天皇)になり給はずば、これよりまさる事、なに事かあらん」(『増鏡』)と、京都側の人びとにも、鎌倉下りを祝す者が多かった。といっても、政治の実権は時頼たちにあり、頼経〔1218〜56.39歳〕・頼嗣などの場合と同様、親王将軍も傀儡(かいらい)でしかなかった。ただ、皇族将軍は幕府の権威付けに役立つとともに、公武関係をより円滑化するのにも有効となるはずであった。 親王一行が都を発ったのは同年三月十九日、鎌倉には四月一日に到着。稲村ヶ崎・由比ヶ浜の鳥居をへて、親王はひとまず時頼邸に落ち着いた。同月三日、前将軍頼嗣が入れかわるように帰洛、五日には早くも親王を征夷大将軍に任ずる旨の一 日付の宣旨がとどいた。「かかる例(ためし)はいまだ侍(はべ)らぬ」(『増鏡』)皇族将軍が誕生したわけである。時に親王は満一○歳。 鎌倉側は親王の待遇には神経を使い、間もなく御所の新造に着手、病いにかかれば治療祈願などに誠意を示したりするが、それはともあれ、少年将軍の公式の生活は、四月十四日の鶴岡八幡宮参詣と政所始とを皮切りに、幕府の敷いた軌道に従 ってはじまってゆく。 将軍の日々 当時、鎌倉の地には活気が溢れ、独自の文化もしだいに育ちだしていた。仏師幸有(こうゆう)が特殊な作風をそなえた新居閻魔堂(現円応寺)の木造初工王(しょこうおう)坐像を造立したのが建長三年〔1251〕、翌年には大仏−現在の高徳院銅造阿弥陀如来坐像の鋳造が開始される。宋風の大伽藍をもつわが国最初の禅宗専門道場巨福山建長寺の落慶供養のおこなわれるのが同五年〔1253〕十一月。そして、宋僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)〔1213〜78.66歳〕による臨済禅の弘布と並行し、日蓮〔1222〜82.61歳〕の果敢な辻説法も、おなじ年の四月ごろから人びとの耳をとらえだすのである。 もちろん、こうした活気は、まだ少年将軍には感じとれなかったかもしれない。見聞するすべては珍しく、また新鮮ではあったろうが、むしろ環境の激変にとまどい、疲れを覚えることが多かったのではないかと思える。『吾妻鏡』は、五月中旬と八月、親王が病床についた、と記しているのである。 御所が完成し、移り住んだのは十一月十一日。以後、八幡宮参詣・的始・蹴鞠・流鏑馬……、恒例の行事のたびに定められた役割を演じ、時折の地震や火事のもたらす騒ぎを除けば、親王の生活にはさしたる変化もなく、平穏につづいてゆく。 建長六年(1254)閏五月一日、御所を訪れて酒宴を催した時頼は、近習に命じて六番の角力を親王の前でとらせた。武芸が近年すたれてゆく傾向があるが、弓馬などはいずれご覧いただくとして、今日は角力を……と、酔いに乗じての思いつきであった由『吾妻鏡』は伝えている。 親王を慰めると同時に、東国武士の在り様を認識させる狙いもこめられていたのであろう。その時頼がかねて開いていた山ノ内の最明寺に、親王が一夜を過ごしたのは康元元年(1256)七月。礼仏のあと和歌会もあった。 この年には、ほかにいくつかの出来事がおこっている。八月には頼経が、九月には頼嗣がそれぞれ京都で死去し、十一月には時頼が出家して長時〔1230〜64.35歳〕が執権職を継いだのである。前将軍たちの相つぐ死を、どんな思いで親王が耳にしたかは明らかでない。しかし、すでに一四歳、自身の置かれている立場を自覚し、頼経たちのたどった運命に関する知識もある程度もっていただろう。不遇のうちの二人の死に深い同情をおぼえ、みずからの未来をもふと想い描いたかもしれない。 親王の暮しに色どりが生じたのは文応元年(1260)三月であった。その月の十八日、先に下向し、時頼の猶子になっていた近衛兼経〔1210〜59.50歳〕の女(むすめ)宰子〔1241〜?〕との婚儀がおこなわれたのである。 それまでにも、大慈寺供養(正嘉元年=1257)、五泊六日の二所詣や勝長寿院供養(正嘉二年)などが日常の単調さを破り、正嘉二年〔1258〕三月には翌年正月上洛のことが決定され、親王を喜ばせた。だが、八月になると、大暴風による諸国損亡を理由に、上洛は延期されてしまった。失望は激しかったはずである。それだけに、妻を迎えてからの、新鮮な日々にかけた親王の期待は大きかったに違いない。 想像は別として、鎌倉での年月が積み重ねられてゆくにつれ、親王もしだいに自分自身の世界を築きあげることにつとめだす。えらんだのは学問や和歌であった。 和歌への耽溺 早く建長六年(1254)十二月には源親行から『源氏物語』の講義をきき、文応元年〔1260〕正月には御所に昼番衆を設置した。歌道・蹴鞠・管弦・右筆等々、一芸に秀でた者を、順次祗候させる制度である。はばひろい学問・遊芸を身につけようとしたことがわかるが、親王がとくに関心を抱いたのは和歌に対してであった。 その頃、三代将軍実朝〔1192〜1219.28歳〕ほどではないにしろ、鎌倉にも和歌の愛好家はすくなくなかった。北条一族では政村〔1205〜73.69歳〕や長時〔1230〜64.35歳〕がめだち、入道真観〔葉室光俊.1203〜76.74歳〕・藤原顕氏〔紙屋河.1207〜74.68歳〕・同教定〔飛鳥井.1210〜66.57歳〕あるいは仙覚〔1203〜?〕といった京都歌人の往来も繁(しげ)かった。親王はひとり作品に想をこらすとともに、そうした人びとを集めて和歌会を開くことに熱中してゆくのである(山岸徳平「宗尊親王とその和歌」)。『吾妻鏡』から関係記事をいくつかひろってみよう。 たとえば弘長元年(1261)。まず正月二十七日には藤原顕氏・真観・北条長時等々がつどって和歌会始が盛大におこなわれ、三月二十五日には歌仙結番の制が設けられた。近習の中から和歌に堪能な者をえらび、順次当番を定めて一日五首の詠歌を提出させる、という制度である。関東近古の秀歌撰出を後藤基政〔1214〜67.54歳〕に命じたのが七月二十二日。 弘長二年〔1262〕にも和歌会を催しているが、この年に詠じたおびただしい作品が、のち『柳葉和歌集』の巻二を形づくる。翌年にはいると、二月二日が御所での臨時和歌会、同月八日が北条時宗邸での一日一○○○首の続(つ)ぎ歌をつくる会と相つぎ、六月二十四日からあくる日にかけては親王ひとりで一○○首をつくった。そして、それらを入道真観に批評させたのが同月三十日。真観は去年の一○○首よりすぐれていると評した。しかし、親王には逆のように思え、不満であったらしい。 七月一日、ここ半年間の作品中三六○首を抄出し、清書の上、京都の冷泉為家〔1198〜1275.78歳〕のもとに送る。批評を請うためである。建長五年〔1253〕から正嘉元年〔1257〕にいたる詠草で、歌集『初心愚草』を編んだのが七月十九日……。 これらはほんの一部にしかすぎない。記録に残されていない分をも含めれば、弘長年間だけでも、創作活動はもっと活発であったろう。 では、なぜ、このように和歌づくりに熱中、いや耽溺したのか。むろん、好きな世界であったからこその熱中だったには違いない。だが、たんにそれにとどまらず、他にもなんらかの理由があったように思えてならない なげきわびもの思う比(ころ)は郭公 わがためにのみなくかとぞきく 淋しさはながめなれぬる影とだに おもひなされぬ秋の夜の月 こうした歌に、親王が味わっていたであろう孤独感を読み取るのは想像のしすぎであろうか。都から下ってきた妻はいる。が、周囲のほとんどは、心の許せない幕府関係者たちである。思ったこと、感じたことをあらわに口にするのもはばからねばならない。ところが、和歌ならば四季折々の風物に仮託しながら、心情を素直に吐きだせるのである。 しかも、親王を襲っていたのは孤独感だけではなかったろう。傀儡将軍の立場を自覚すればするほど、未来への暗い予感も深まっていったのではないか。実朝のそれと匹敵するまでの絶望感を抱いたかどうかは別として、すくなくともかなり強い・厭世感をもつにいたったらしいことが、次のような作品から感じとれる。 うくてのみ過(すぎこ)し方にこりもせで はかなくなにと末を待つらむ 見ずしらぬさきの世までもつらき哉と 物思う身と生れけむ 今もよはやすく捨てむ年ふとも 身の思出のあらしとおもへば いずれも弘長元年〔1261〕につくられている。そして、さらに想像をすすめれば、和歌への耽溺は保身のすべのひとつであったかもしれないのである。親王の最大関心事は和歌であり、政治的野望はまったくないのだ……と、幕府首脳部を安心させる効果があったであろうから。 ともあれ、型にはまった征夷大将軍としての任務と和歌とを軸に、親王の生活は静かに過ぎていった。再度上洛のことが決定したのは弘長三年〔1263〕八月九日。しかし、同月中旬におこった大風の被害が大きかったため、事はまたも中止された。親王は詠じた。 今ぞしる浦こぐ舟の道ならぬ 旅さへ風の心なりとは 今更になれし都ぞ忍ばるる またいつとだに頼みなければ 京への思慕は強かったわけである。だが、その年の十月二十八日には、待ち望んでいた冷泉為家から返信がとどいた。こまかな心くばりの認められる加点に、「奥旨、猶ご沈思をこらすべし」と記した一巻もそえてあった(『吾妻鏡』)。 この弘長三年、鎌倉は沈んだ暮を迎えた。十一月二十二日、時頼が病死したのである。重時はすでに二年前世を去っていた。宗尊親王の下向を実現させた二人とも姿を消したわけである。 嗣子惟康王〔1264〜1326.63歳〕の生まれたのは文永元年(1264)四月。おなじ年の八月には北条長時が死去、政村が執権となった。翌年九月、女子※子〔1265〜?〕誕生。この年には、『続古今和歌集』に詠歌がとられるという喜びも重なった。しかも、他の歌人たちを抑え、親王の作品がもっとも多く、六七首を数えた。同集は正元元年(1259)、後嵯峨上皇の院宣で撰集に着手されたものの、撰者間の対立で遅延、ようやく文永二年〔1265〕に成立した勅撰和歌集であった。撰者は為家・基家〔九条良経の子.鶴殿.1203〜80.78歳〕・家良〔九条.1192〜1264.73歳〕・光俊〔真観〕たち。東国にある親王への同情心、あるいは下命者の上皇への配慮なども働いていたかもしれないが(山岸徳平「宗尊親王とその和歌」)、採用作品の多量さに、当時の歌壇での親王の位置がうかがえる。 ※てへんに「侖」 鎌倉追放 文永三年(1266)も静かに明けた。十七日の鶴岡参詣は将軍である親王の病いで三十日に延期されたが、正月の行事は例年通りおこなわれた。四月には親王がふたたび病床につき、松殿僧正が身近につめて加持祈祷にあたった。その僧正が御所から逐電したのが六月二十日。鎌倉中はしだいに不穏な空気に包まれてゆく。 『吾妻鏡』によれば─。 おなじ二十日、時宗邸に執権政村をはじめ北条実時〔1224〜76.53歳〕・安達泰盛〔1231〜85.55歳〕たちが集まり、余人をまじえず、ひそかに話し合いをもった。二十三日、親王の室と女子、さらに惟康王も御所から別の場所に移された。二十四日、大地震。二十六日、近国の御家人たちが蜂のように競いつどい、鎌倉の町々に溢れた。 そして七月にはいると、鎌倉に参集した者たちはみな武具を帯び、あるいは奔走、あるいは民屋に隠れ、町の住民たちも戦場と化すのを恐れてか、家をこわしたり財産を運びだしたりしはじめた。 こうした中で、親王はいったん執権邸に移されたが、翌月には越後入道勝円の佐介(さすけ)の邸へと転じさせられ、そこから帰洛の途につかされた。七月四日のことである。 記事を追っている限りでは、なぜ鎌倉中が騒然とし、追放とも解釈できるような形で宗尊親王が京へ出発させられたのか、はっきり原因はわからない。しかし、すべては親王謀叛の噂から生じたのである。俗書ではあろうが、『鎌倉北条九代記』は書いている。 「(親王は)をりふしにつけては和歌の御会に事をよせられ、近習の者どもを召集め、密々に秘計をくはだてて、北条時宗を討ちて将軍家思召すままに天下を領じたまはんとの謀をめぐらしたまふと、世に専ら沙汰あり、かれこれたがひに語りけるほどに風聞かくれなく、時宗に告知するもの多かりければ、北条家これより物事に遠慮あり、疑殆おこりて用心に隙なく云々」 いかにももっともらしいが、もちろんそのままには信じられない。親王の生き方を眺める時、その性格はおよそ謀叛とは縁が遠そうである。やはり、成人となった将軍を追いはらうべく、北条一族が仕組んだ芝居だったのであろう。 帰り来てまた見んことも固瀬川(かたせがは) 濁れる水のすまぬ世なれば めぐり逢う秋はたのまず七夕の 同じ別れに袖はしぼれど 鎌倉を去ってゆくのに際し、宗尊親王はこう詠じたという。“濁れる水”とは、北条氏の謀計をさすとも、親王にかぶせられた謀叛の疑いを意味するともとれる。いずれにせよ、張りめぐされた網の醜さを誰よりもよく知っていたのは親王だったはずである。が、妻や子ともひき離された親王には、自身の潔白を訴える相手も見つけ難かったに違いない。 穴の中の鼠 京都到着は七月二十日。時に親王は二四歳。一四年ぶりに見る都であった。“またいつとだに”とうたったのは三年前のことである。 たしかに京の町はなつかしかったに違いない。しかし、親王を迎えた空気は冷えていた。落ち着かされたのは六波羅の北条時持〔時茂の誤り〕邸。まだ幕府の目は光っており、親王謀叛云々の報を鎌倉から受け取った後嵯峨院〔1220〜72.53歳〕も、北条氏へのきこえをはばかってか、対面を許さない。 たとえ名目上の存在にすぎなかったにしろ、征夷大将軍職にあった日々は物質的にめぐまれ、多くの人びとにかしずかれ、慰みもさまざまな催しから得やすかった。 それにひきかえ、京都での生活は「いとしめやか」(『増鏡』)であった。嗣子惟康王が次の将軍となったことも、親王にはさして嬉しくはなかったであろう。似たような運命がわが子をもみまうだろう、と見通せたはずであるから。 虎とのみ用ゐられしは昔にて 今は鼠のあなう世の中 虎のごとくに畏怖されていた将軍の地位から転落、穴の中の鼠のような存在になってしまった−。『増鏡』の伝えるこの一首には、帰洛間もない頃の親王の心情がなまなましく反映しているのではなかろうか。 だが、やがて幕府の強硬な態度も溶け、親王はいまは亡き承明門院〔1171〜1257.87歳〕の万里小路の邸へ移住し、後嵯峨院とのひさびさの対面もおこなわれた。そして、後味が悪かったのであろう、幕府は親王に領地をも贈っている。 ようやく「院へも御参りなどありて、人びとも仕うまつり、御遊びなどもし給ふ」(『増鏡』)平穏な生活がはじまったのは、文永三年(1266)も暮近くになってからである。 しかし、親王のうけた傷は容易には癒えなかった。 猶たのむ北野の雪の朝ぼらけ 跡なき事に埋もるる身は 誰か又神のちかひを頼むべき われ無き名にてしづみ果てなば 無実の罪で都を追われ、大宰府で失意のうちに世を去った菅原道真〔845〜903.59歳〕をまつる北野神社での詠草である。訴えるような哀調を帯びたこれらの歌に、傷痕の深さがしのばれる。 ふつうなら、二○代半ばといえば、人生の盛りは将来に属している。だが、宗尊親王の場合、果すべき役割はすでに終っていた。 都びとたちとの交りをつづけながらも、親王が生き甲斐をみいだしてゆくのは、依然として和歌の世界であった、と思われる。 文永四年(1267)二年余のあいだの作品を集め、『中書王御詠』を編んだ。一首を引いておこう。 かかる身を誰かあはれといひもせん 世に従はぬ人しなければ もちろん、心楽しませてくれる催しもあった。文永五年〔1268〕正月二十四日におこなわれた後嵯峨院の長寿を祝う舞楽会が、その代表的なものだったろう。 当日、院の御所冷泉殿には多くの公卿たちがつめかけ、暮れて「何のあやめも見え」(『増鏡』)なくなるまで舞楽に興じたが、聖護院覚助法親王〔1247〜1336.90歳〕・梶井門跡最助法親王〔1253〜93.41歳〕・綜子内親王〔月華門院.1247〜69.23歳〕など、後嵯峨院の他の皇子・皇女ともども、宗尊親王も参列したのである。 蒙古からの国書を幕府が奏上してきたのは、おなじ年の二月七日。 幕府は蒙古来襲にそなえ、讃岐などの御家人たちに防備を固めるように命じ、全国にかつてない緊張感がみなぎった。神社寺院での祈祷もさかんにおこなわれた。文永七年(1270)、朝廷は蒙古への返牒を作成した。が、幕府は敢えてこれを送らなかった。 このあわただしい動きの中で、宗尊親王がどんな日々を過ごしていたのか、具体的には定かでない。後嵯峨院の崩御したのは文永九年(1272)二月十七日。『北条九代記』によれば、同年十二月三十日、宗尊親王は出家する。そして、いわゆる文永の役のおこるすこし前、文永十一年(1274)七月三十日、その生涯を閉じた。かつて約束されていた式乾門院の荘園も、ついに親王の有には帰さなかった。 門院は自分が死んだら、宗尊親王に譲与するとの条件で遺領を室町院疇子(ちゅうし)〔1228〜1300.73歳〕に与えていたが、親王の方が先に世を去ってしまったのである(黒田俊雄『日本の歴史8』)。この点でも不運だったといえよう。 |
| ☆当時の社会では、和歌は個人的な感情をひたすら素直に詠むものではないので、三山氏が宗尊親王の寂しそうな歌をただちに政治に結び付けるのは疑問であり、「こうした歌に、親王が味わっていたであろう孤独感を読み取るのは想像のしすぎ」であると私は考える。 和歌、あるいは広く宮廷文化は鎌倉においても積極的な政治的意味を持っていたのであって、宗尊親王の和歌への取り組み方を「耽溺」と評価するのも疑問である。 ☆宗尊親王の文化・芸術面についてはこちら(三田村雅子氏「鎌倉宮将軍の源氏物語絵−宗尊親王の源氏物語色紙絵屏風 」)。また、武家社会での和歌の位置づけについてはこちら(田渕句美子氏「関東の文学と文芸」)。 ☆惟康王の同母妹りん子女王(1265〜?)は後に亀山院の後宮に入るが、『増鏡』にはりん子と六条有房の関係についての奇妙な記述がある。こちら。 ☆宗尊親王が京都に戻ってから、堀河通具孫女を母として生まれた瑞子(永嘉門院.1272〜1329.58歳)は、後に後宇多院の後宮に入り、それなりに厚遇されたが、その背景には室町院領伝領問題があった。『増鏡』に瑞子が登場する場面はこちら。室町院領問題についてはこちら(黒田俊雄氏『蒙古襲来』)。 ☆宗尊親王とその子孫については、最近、菊地大樹氏が詳細な検討を加え、研究水準が飛躍的に向上した。こちら(「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」)。 |

虎とのみ用ゐられしは昔にて
今は鼠のあなう世の中