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宮内三二郎  「増鏡と西園寺家」
(『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』.明治書院.昭和52年.p642以下)






※宮内三二郎氏の略歴はこちら

※原文の傍点部分を太字に換えました。
※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。




 第三章 増鏡と西園寺家

 

 第一章では、兼好を増鏡の著者として想定するについて、増鏡と、兼好の作品である徒然草および兼好自撰家集との間に見出される題材や、表現の内容・形式両面にわたっての、またそこに表出されている作者の思想・感情の上での、数多くの共通点をとりあげて検討したのであったが、その共通点の一つに、徒然草と増鏡との双方に西園寺・洞院家の諸人物(鎌倉時代の)に関する記事がきわめて多い、という事実があった。

 しかし、あらためて増鏡を通読してみると、増鏡の全篇に亘って西園寺家の人物が数多く、また同一人物がしばしば、登場しているというこの事実は、徒然草あるいはその作者兼好との関係を別にして、そのこと自体、当時の宮廷乃至公家社会における「歴史物語」増鏡のあり方、その社会でこの書が作られた動機・目的、それが担わされていた意義・役割というようなものを示唆しているように思われてきた。

 増鏡という南北朝時代に成立した「歴史物語」の、述作の意図や目的あるいは受容のされ方を考えるに当っては、あたかもこの作品を、現代のいわゆる「歴史小説」などと同様に、或る一人の作者が自己の制作意欲と発想にもとづいて、独自に、独力で述作したものであるかのようにみなしてしまって、この一人の作者の制作の動機や目的をせんさくしたり、現代の読書人が現代作家の歴史小説を読む態度を以て、中世の読者たちの読み方を推しはかったりすることは、真相を把握する所以ではなかろう。

 それでは増鏡の制作・受容事情の実相は、一体どのようなものであったのか。

 増鏡の成立から一世紀近くを経た永享四年(1432)後崇光院(道欽法親王。崇光天皇嫡孫。文安四年太上天皇の尊号を受く)は、後花園天皇の勅命によって、自分の所時していた増鏡一本を、みずから書写して帝に献上した。後崇光院の『看聞御記』には、「万代可伝之間、不顧悪筆自書進了」と記され、また即日禁裏から勅報があって、「真寸鏡早速珠悦思食之由」仰せ下された、とあって、帝の嘉賞にあずかったことが記されている。

 この一事を以てしても、増鏡という一書が、当時の宮廷において、いかに貴重な典籍とみなされていたかがわかるが、これは、今日のような意味での文学作品としての価値を重んぜられたということよりも、むしろ増鏡が、伝統・門閥・故実・先例を何よりも重んじた当時の宮廷において、後鳥羽帝より後醍醐帝にいたる一五○年の宮廷生活の綜合的・系統的な記録として、「宮廷典範」とでも名づくべき公的な典拠とされていたことを物語っているように思われる。

 これはおそらく先行の『栄花物語』『大鏡』以下の「歴史物語」「鏡物」の一般についても言い得ることであろうが、これらを引き継いだ形となっている増鏡の場合は、制作の当初からしてすでに、そのような公的な典拠書たらしめられることが期待されていたのではなかったろうか。序文の末尾の一首、

いまもまたむかしをかけばます鏡
   ふりぬる代々の跡にかさねん

には、作者のそのような抱負がひそめられているように感ぜられる。

 しかし、もしそうだとすれば、この公的な性格を持たされるべき増鏡の記事内容に、かの西園寺関係の記事が際立って多いという事実は、いささか不審である。もとより、増鏡がとり扱っている時代は、清華の家である西園寺家が摂関家をも凌ぐ勢威を宮廷に張った時代であるから、この時代の宮廷史増鏡に、同家関係の記事が他家のそれに比して多くなっていることは怪しむに足りないが、次節以下で具体的に例証するとおり、増鏡は、西園寺の家門史ともみえるほどに徹底した同家偏重の記述の仕方をしているのである。しかもただ単に慢然と同家に関する記事を盛りこむのでなく、後述のように、そこには或る一貫した方針があったかのような系統性が感知され、明確な意図にもとづいて叙述されたことがうかがわれる。

 だがまたその半面増鏡は、あくまでも歴代天皇・上皇の事蹟を中心とする宮廷史を、編年体で記述するという『大鏡』以来の「鏡物」の体裁を継承しており、さらに、後半部分(第十六〈第十三〉「秋のみ山」以下)では、西園寺家とは直接関係のない源氏の久我一流(堀川・六条)の諸人物にもかなりのウェイトを置き、且つ、ほぼ全巻に亘って御子左二条家の家風を中心とする勅撰和歌集撰進史的あるいは歌壇史的な面もそなえている。

 結局、増鏡は、

@表面的には(建て前としては)『大鏡』以来の准正史的な「歴史物語」
A裏面的には(内密には)西園寺家の家門史
B作者の種々の私的関係を反映している宮廷生活史

という三つの局面を持っているのであって(Bを一つの局面として前二者と並立させることには問題があろうが)、この作品を、一人の作者個人の史観や思想的立場・社会的位置というようなものによって統一的にながめようとすると、必ずや説明のつかない部分や予盾撞着する箇所が出てくるであろう。

 そこで私は、増鏡の述作の事情について、つぎのような推測を立ててみた。

 増鏡は、南北両朝の分裂・抗争の時代、新しい国家体制の胎動期に、公家階級の或る家門−西園寺家(もっと厳密に言えばその一流の洞院家)−の何者かが、歴史物語というすでに先例(『大鏡』以下の三鏡)のある宮廷史の叙述形式を利用して、その家門の過去の権勢と繁栄の跡を組織的に編述・記録して喧伝し、それを宮廷における家門の興隆の一助としようとする意図に出たもので、いわば一種のスポンサーとして内密にしかるべき錬達の和文文筆家に執筆を委嘱し、またそのための資料をも提供したものであろう(たとえば、西園寺実兼と深い関係のある、かのとはずがたりも、この関係で作者の手に入り、増鏡の資料として利用されることになったのであろう)。委嘱を受けた作者は、一方ではスポンサーの委嘱目的に従うとともに、他方、自己自身の史観・知見・文才・素材を駆使してかの一篇を物したであろう。

 以下、この推測の根拠を明らかにしたい。



 

 増鏡の記述は、後鳥羽帝の誕生にはじまって、後醍醐帝の建武新政開始に終っている。この後鳥羽帝の時代を記述の発端とする点は、先行の「鏡物」の三鏡のあとを承けようとしたことによるものであって、巻第一「おどろのした」のはじめに、高倉帝の譲位・安徳帝の崩御・後鳥羽帝の即位、の経緯を略述して、『今鏡』(後一条〜高倉)との接続関係を明らかにしている。(以下、増鏡の引用文は、旧版『国史大系』本による。)

 しかし、巻第二「新島もり」は、

 たけきものゝふのおこりをたづぬれば、いにしへ田村などいひけん将軍どもの事は、みゝどをければさしをきぬ。そのかみよりいままで源平の二ながれぞ、時によりおりにしたがひ、大やけの御まもりとはなりにける。……

と書出されていて、他の諸巻とは趣を異にし、この書出しだけを見ると、開巻劈頭とも思えるような形をとっている。これは一体何故であろうか。

 増鏡がとり扱っているいわゆる鎌倉時代は、源頼朝が鎌倉に幕府をひらいてより、形式的には依然天皇乃至朝廷が、しかし実質的には武家の幕府が、天下に君臨し、支配していた時代であり、また公武の提携や対立の時代であった。増鏡は、『今鏡』のあとを承け、後鳥羽帝の隆誕に筆を起して、以後、後醍醐帝の治世にいたるまでの一五○年の、宮廷を中心とする歴史を綴るものであったが、思うに増鏡の作者は、武家が国家を実質的に支配していたこの時代の政治的現実に目を掩うことができなかった。それは作者自身の史観・史眼のしからしめるところというよりは、むしろ作者の背後にあった増境述作の発起者−南北朝対立時代の西園寺・洞院家の暗黙の、または内密の要請によると思われる。

 鎌倉時代を通じて西園寺家は、宮廷にあって「関東申次」として、公武の仲介者的位置(あるいは武家の代弁者的位置)にあり、武家との親密な関係によって権勢をふるうに至った家門である。従って、もし私の推測どおり、増鏡が西園寺家の家門の歴史としての意味を持たせられていたとするならば、巻第二「新島もり」が、あたかも増鏡全篇の第二の発端を思わせるあのような書き出しで、源平二氏の起源と、源頼朝の政権獲得から説き起されたことには、そうあるべき必然性があったのである。

 しかも第二巻に初出する西園寺・洞院両家の「等祖」(『尊卑分脈』)公経は、頼朝の姪を妻としており(公経の室は、頼朝の妹が藤原能保に嫁して生んだ女である−このことは、あとで引用する「新島もり」に記されている。また能保は、頼朝挙兵の後、京鎌倉間を住復して公武の間を斡旋した人物で、のち京都守護となった)、まさにこのことが西園寺家の武家との結びつきと同家の興隆の根源となっているのである。

 増鏡第五「内野の雪」に、西園寺家のことを、

 中比はさのみもおはせざりし御家の、ちかくよりはことのほかに世にもおもくやむごとなうものし給ひつるに……

と述べられているとおり(ただし、この記事は十七巻本では削除されている。これについては第二章で触れた)、同家の遠祖通季(「西園寺一流祖」)、公通はいずれも権中・大納言で終っており、公経の父(公通の子)実宗も、土御門帝の元久二年内大臣にのぼったにとどまる。

 ところが公経は、順徳帝の建保六年(1218)大納言に任じてより、三年後の承久三年(1221)、すなわち承久の乱が収まって後鳥羽院が隠岐に配流されてより四か月後には内大臣となり、翌四年には、左右両大臣をとびこえて太政大臣に栄進している。西園寺家興隆の基盤がこの時確立されたのである。

 以上の諸事実を、ほかならぬ増鏡「新島もり」の記事が端的に説明している。

 まず承久元年、源実朝が公暁に討たれた後、実朝に子がなかったため、前述の縁故によって公経の子を将軍に迎えようとした際の記事に、公経の名が初出する。

……君だち一ところくだし聞えて将軍になしたてまつらせ給へと公経のおとゞ(実は公経は当時はまだ大納言であった)に申のぼせければ、あへなんとおぼすところに、九条左大臣道家どののうへは、このおとど(公経)の御むすめ也、その御はらのわか君(頼経)の二になり給を、くだしきこえんと九条どののたまへば、御むまごならむもおなじこととおぼしさだめ給ぬ。

 さらに承久三年、後鳥羽院の北条氏追討の企てが洩れ(これを幕府に密告したのはほかならぬ公経であった)、関東の軍勢が京に攻め上ってきた時の記事中に、公経がふたたび登場する。

……宮こにもおぼしまうけつる事なれば、もののふどもめしつどへ、うぢせたのはしもひかせてかたきをふせぐべきようい心ことなり。公経の大将一人のみなん御むまご(頼経)のこともさる事にて、北の方一条中納言能保といふ人のむすめなり、その母北のかたはこの大将のはらからなれば、一かたならずあづまを重くおぼしてさしいらへもせず、院の御心のかろき事とあぶながり給。

 さて、このようにして増鏡は、一方では『大鏡』以来の正統的な歴史物語として、鎌倉期の、宮廷(皇室)中心の歴史を、巻第一「おどろのした」で、後鳥羽院の誕生とその治世から書き起すとともに、他方西園寺家の家門史として、同家の興隆に不離の関係のある武家の起源と、また特に源頼朝に関する記事を、巻第二「新島もり」の巻頭に置いた、とみることができる。

 以後、増鏡の叙述は、いわばこの二つの路線を綯い合わせるような形で進められる。西園寺家はもとより公家に属する家門であるから、増鏡の全体の叙述は、この西園寺家々門史を伏線とする宮廷史、といった形となり、鎌倉武家(幕府)の歴史は、その時々の宮廷との交渉関係においてのみ記事にとりあげられる(その場合、多くは西園寺家が仲介したことを記している)。

 そしてこの丙園寺家々門史としての増鏡のクライマックスは、第五「内野の雪」(この巻は、かの公経が創立した西園寺の結構を、御堂関白道長の法成寺も及ばぬとまで讃美する記事によってはじまる)から、第十二(第十)「老のなみ」(この巻は、道長の室鷹司殿倫子になぞらえた公経の子実氏の室、北山准后貞子の九十の賀の詳密な記事と、実氏の弟洞院実雄の一門の繁栄になお障碍がないことを述べた記事とで終る)に至る八(六)巻であるが、この部分については前二章でくわしく論じたし、また次節でもとりあげるので、ここでは省略する。

 しかし、その前後の諸巻においても、西園寺一門の当主たちは、常に中心的な、または重要な人物として登場してくる。

 第三「ふぢ衣」では、摂政関白道家について、

……北のかたは公経のおとゞの御むすめなれば、まして世のおもくなびきたてまつるさま、いとやむごとなし。

と言い、また後にも同じく道家について、

……北の政所の御父はきんつねのおとゞなれば、かの殿(公経)とひとつにて世はいよいよ御心のままなるべし。

と繰り返しており、摂関家と姻戚関係をむすんだ公経の威望のますます高まったことを知らせている。

 第四「三神山」ではその末尾に、

まことや、この比右大臣ときこゆるは実氏のおとどよ、その御むすめ十八になり給を女御にたてまつり給。……

とあって、実氏が女を後嵯峨帝の後宮に入れ、後深草帝の外祖父となって、摂関家をも凌ぎ、父公経にもまさる権力の座に着くに至る次第を叙する第五以下の序としている。

 さらに前述の第五〜第十二を中に置いて、第十三「今日の日影」も、伏見帝の即位・関白の交代就任の記事のつぎには、実雄の女、玄輝門院※子、同じく顕親門院季子、実雄の子公守女(伏見妃)と、いずれも西園寺・洞院家出の新帝の母后、妃のことを記し、さらに実氏の孫実兼の女永福門院△子の入内の模様を数十行に亘って詳述する。
※りっしんべんに「音」 △金へんに「章」

 しかもつぎの浅原為頼の禁裡乱入事件の記事では、中宮△子の兄、権大納言公衡が、後深草院に向って、この事件の背後にあると思われる亀山院を六波羅へ遷せ、と迫ったことを述べ、持明院・大覚寺両統の対立と、その対立において西園寺家が幕府を背景にして果した役割、また外戚の権をかさにきた公衡の僭上ぶりを赤裸々に伝えている。

 第十四「つげのをぐし」以下では同家関係の記事量はかなり少なくなるが(これは同家の権勢が次第に後退して行ったことを反映している)、それでも西園寺実兼・公衡・兼季・実衡らや同家出の后妃たち、洞院実泰・公賢・公泰らの名は、洩れなく、またたびたびあがっている。

 なかでも第十八「むら時雨」の、後醍醐帝中宮禧子(実兼女)の懐妊(実は誤認)の記事は、第五「内野の雪」における後嵯峨帝中宮▲子(実氏女)の皇子(後深草)出産の記事の再現を思わせ、しかも事が不首尾に終ったのは西園寺家の「夢よもう一度」が成就しなかったことを意味するわけで、甚だ興味深い。
▲女へんに「吉」

 同巻の元徳三年春の北山行幸の詳細な記事もまた、第五・第六(「けぶりのすゑ /゛\」の両巻にみられる後嵯峨院の西園寺(北山)・鳥羽殿・吹田山庄御幸(いずれの場合も饗応主は実氏)の記事を彷彿させる。

 さらに、元弘の乱のさなか、西園寺嫡流の公宗が例の「関東申次」として、春宮(光厳)の登位方を奏したことを特記しているのは注目される。

さてれいのあづまより御つかひのぼれり。代々のためしとかやとて……西園寺大納言公宗卿に事のよし申て春宮御位につき給。

 この公宗については、後醍醐帝に従って隠岐島に去った妃内侍二位所生の親王たちを預けられた(幕府の指しがねによることはいうまでもない)記事もあるが(「……とおき国まではうつしたてまつらねど、もとの御後見をばあらためて、西園寺大納言公宗の家にぞわたしたてまつる」〈第十九「久米のさら山」〉)、足利尊氏軍の攻撃によって六波羅が陥落するや、帝・両院の都落ちに供奉せず、自邸の北山へ遁れたことが、第二十「月草の花」に記されている(「……西園寺大納言公宗は北山へおはしにけり」−彼は後に捕えられて誅された)。増鏡は、巻第二で西園寺家の祖公経が北条氏と結んで権力の座にのぼったことを記し、今また巻第二十(最終巻)で公経の直裔公宗が北条氏と結んでついに破滅した顛末を記している。

 一方、後醍醐帝の隠岐遷幸の出発に当って、公宗の弟公重がこれを見送ったこと(「……御車寄に西園寺中納言公重さぶらひ給」)が特記されているが(第十九「久米のさら山」)、公重は後、南朝に参候して内大臣にのぼった(『尊卑分脈』)。

 また洞院公賢の子実世は第十八「むら時雨」に、「別当実世」として、六波羅に召し捕えられた、と記されたが、父公賢が北朝にとどまったのに対して、後、南朝の重臣として活躍する。

 してみると、元弘の変以後は、西園寺・洞院両家の当主たちは、いずれも父子兄弟、南北に相分かれることになったのであった。家門としてみれば、両家とも両朝に二股かけたのである。もっともこれは西園寺家のお家芸であって、かつて洞院実雄はその女を後深草・亀山両帝の後宮に入れ、また西園寺実兼もその女を伏見・亀山・後醍醐三帝の妃として入内させ、持明院・大覚寺両統に二股かけたのであった。

 最後に、第十九の末尾に、公宗の妹、今御方(光厳妃)のことが、

内(光厳)には女御もいまださぶらひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿(実衡)の姫君、広義門院(寧子)の御かたはらに、今御かたとかや聞えてかしづかれたまふを、まいらせたてまつり給へれば、これや后がねと世人もまだきにめでたくおもへれど、いかなるにか御おぼえいとあざやかならぬぞくちおしき。

と記され、幕府との関係と天皇の外戚たることとによって、宮廷に権勢をほしいままにしてきた鎌倉期の西園寺家の盛衰史の叙述に、終止符が打たれた観がある。

 増鏡は、つぎの第二十「月草の花」の、北条氏の滅亡と後醍醐帝の復帰、新政開始の記事を以て完結するが、前述の、第一巻が宮廷史を後鳥羽帝の治世から書き起し、第二巻が西園寺家々門史を源頼朝の幕府創設から書き起した形になっていることを想起すると、右の第十九・二十の終結の仕方は、これにあざやかに照応していると言わなければならない。増鏡は、決して「竜頭蛇尾に終わる失態」(沼沢竜雄氏『日本文学大辞典』「水鏡」項の)に陥ってなどはいない。

……たれにかありけん、そのころきゝし。
すみぞめの色をもかへつうき草のうつればかはるはなのころもに

は、波瀾万丈の鎌倉時代史増鏡の、さりげない、しかしじつに見事なフィナーレではないだろうか。

 以上縷述したところからすれば、増鏡は、表面においては後鳥羽帝から後醍醐帝に至る鎌倉時代一五○年の宮廷史であり、裏面においては公経から実氏・実雄らを経て公宗にいたる西園寺家々門史を形成している、ということにはもはや疑問の余地はないのではなかろうか。

 それではこの、西園寺家々門史という一面をそなえた、歴史物語増鏡の編述の発案者は一体何者であったろうか。



 

 現存の増鏡諸本には、二十(十九)巻本系と十七巻本系の二つの系統があるが、私は第二章で、前者の形態が原本のそれにより近く、後者は前者を部分的に削除・改修したものであることを論証した。

 そこで増鏡には、作者の問題(1)のほかに、作者への執筆の委嘱者(編述の発案者)の問題(2)と、十七巻本への改修者の問題(3)とがあることになる。これらは相互に関連していて、切りはなすことはできないが、まず(3)の問題からはじめて、逆に(2)と(1)へ考察を進めることにする。

 (3)については、すでに第二章で一つの結論に到達したのであるけれども、その際は主として改修箇所の検討に意をそそぎ、削除箇所に関しては略述にとどめたので、ここではこの削除箇所、すなわち二十巻本に有って十七巻本には無い記事の分析を手がかりにして、改修者の問題を考えてみよう。

 削除は二十巻本の第五・第七・第九の三巻に亘ってなされているが、これを通し番号で列挙するとつぎの通りである (*印は、前章で取り扱ったものを示す)。

 1、寛元元年五月、禁中の最勝講。
 2、同右、久我通光邸での法華八講。
 3、同右、普賢寺殿(基通)の忌日の法事。
*4、同年六月、後嵯峨帝中宮▲子の皇子出産に関する記事中、御湯殿の儀の記事の大半と、五夜・七夜・九夜の儀の記事。
 5、同右、承明門院への行幸。正親町院の院号宣下。
*6、同右、宗尊親王御五十日の儀。
 7、同年七月、中宮、皇子の参内。
 8、同閏七月、皇子御五十日の儀。
*9、同十月、西園寺公経の熊野参詣。
 10、同十一月、土御門院十三年忌法事。
 11、同十二月、石清水行幸。
 12、同右、賀茂行幸。
*13、同右、法助法親王灌頂。
*14、寛元四年、西園寺実氏、太政大臣に昇進。実氏、北山の花につけて後嵯峨院に歌を奏上。
*15、宝治元年、後嵯峨院の北山初度御幸。
*16同右、宝治二年、後嵯峨院の宇治御幸の記事の大半。
 17、同右、閑院内裏内膳屋火災。
 18、同右、宗尊親王御書始。
 19、同三年、年頭の拝礼。承明門院御幸はじめ、およびその他。
*20、同右、円助法親王出家。省仁親王御魚名。
 21、同二月、閑院内裏炎上。内裏移転。
 22、同三月(建長に改元)、京師大火。蓮華王院等焼亡。
*23、宝治二年八月、鳥羽院御幸の記事中、和歌の披講の際の西園寺実氏の書いた序の本文。
 24、文永三年四月、蓮華王院御幸。
 25、同四年二月、浄金剛院涅槃会。法華八講。
 26、同四月、後嵯峨院・大宮院の如法経書写。
 27、同五月、斎宮伊勢下向。
 28、同九月、左大臣基平の日野山庄へ両院・大宮院の御幸。安嘉門院の天橋立御覧。

 以上の記事内容を検討するに当っては、これらの記事を収めている第五〜第九の五巻(二十巻本)のうち、前三巻は西園寺実氏・公相が、また後二巻は実氏の弟洞院実雄が、それぞれ皇室の外戚として絶大の権力を手中にして行った過程を叙述の主軸としている、ということを念頭に置く必要がある。

 そこで前掲各項目を比較通覧すると、そこには明らかに或る一つの一貫した意図あるいは方針のようなものがあって、その方針のもとに削除や改修が行われたことがわかる。

@まず、五摂家の諸卿が、儀式や行事や出来事の主役として登場し、またそれほどでなくても話題にのぼせられているような記事−それはまた同時に、西園寺一門の人々がほとんど姿を見せない記事であるが−は、十七巻本ではほとんどすべて削除されている。1・2・9・11・12・16・19・21・22・24・25・26・28などがそれである。

A摂関家以外でも、西園寺家以外の家門や西園寺家と外戚関係にない皇族に関する記事が削られている。2・5・6・13・18・20・27。

B西園寺一門であっても、むしろ嫡流の実氏とその一統(父公経をふくめて)に関する記事が削られたり、改竄されている。9・13・14・15・17・21・23。

 この顕著な事実は、二十巻本(原本)の作者が、第五〜第九を、西園寺家中心に書いてはいながら、宮廷史としての客観性と、史実・資料への忠実さを守って、同家関係以外の事項にも筆を省かなかったが、十七巻本への改修者は、歴然たる党派性・偏向性を宮廷史に持ちこんで、改竄の手を加えている、ということを示している。

(これらの記事は、第五〜第九の記事全体の叙述の有機的な関連−年紀に多少の倒錯はあるが−からみても、原本たる十七巻本にあとから増補したものとはとうてい考えることができない。)

 私は第二章の中で、二十巻本第九巻(「北野の雪」)における西園寺太政大臣公相の述懐、大風による諸堂宇の倒壊、公相の急死、死後に首を盗まれた事件、皇后佶子(実雄女)の皇子出産、の一連の記事が、亀山帝皇后佶子と中宮嬉子(公相女)との皇男子出産競争とでもいうべき、実雄と公相との間の、外戚の地位をめぐっての対立・反目を背景としており、また実雄の側からの公相と嬉子とに対する呪詛の事実があったことを暗示している点、またこの二十巻本の一連の記事に対する十七巻本の削除と改修の仕方は、十七巻本の作者が、実雄・佶子にとって不利となるような記事、時に呪咀の事実を暗示する記事を隠蔽または抹殺することに異常なほどの苦心を払ったと思われる点を指摘した。

 いま、それを、上述の削除記事全般の諸特徴と考え合わせるならば、十七巻本の作者は、二十巻本増鏡の成立した南北朝対立時代の初期に、家門(洞院家)の歴史とその父祖の事蹟を顕揚することに強い関心を拝っていた何者か、またはその者の委嘱を受けた何者か、であったろうと考えざるを得ない。

 右の時期の洞院家といえば、すぐ思い浮ぶのは、かの『園太暦』の著者洞院公賢である。公賢は正応四年(1291)、左大臣実泰の子として生れた洞院家の嫡流で、鎌倉末期から南北朝時代にかけて内・右・左・太政大臣として歴朝に仕え、延文五年(1360)、七○歳で薨じた。私は、増鏡原本の改修(十七巻本への)者は公賢その人ではなかったにしても、公賢の身辺にあって祐筆的な役割をつとめていた人物ではなかったか、と推測する。

 しかし、なお進んで考えるならば、公賢は十七巻本への改修だけでなく、ほかならぬ増鏡原本の編述の発案者だったのではないか、という推測も成り立ってくる。

 かの時期における西園寺家では、当主公宗は、元弘三年公賢が内大臣に還任されたのと前後して権大納言に還任されたが、建武二年(1335)六月には、後伏見法皇を擁しての政府顛覆の陰謀が露顕して捕えられ、同年八月には処刑された。 またこの陰謀を密告した公宗の弟公重は、恩賞として西園寺家の家督相続を許され(この時官は権中納言)、北朝の暦応元年(1338)に権大納言、貞和二年(1346)には正に転じ(当時公賢は左大臣)、貞和五年に内大臣に進んだが、当時公賢は太政大臣として、関白二条良基を凌ぐ北朝の柱石的存在であった。なお、公守ママの嗣子実俊は、この年ようやく権中納言に任ぜられた(一五歳)にすぎない。

 そこで、もし私の推側どおりに、増鏡の編述が、その記事の最終年である元弘三年(1333)以後の数年間の或る時点において企画されたものであり、またそれが、はじめて西園寺を号し、同家興隆の基礎を築いた太政大臣公経以下、後深草帝の外祖父実氏、亀山帝の外祖父実雄ら父祖の事蹟を顕彰し、西園寺家または洞院家の、宮廷における地位の向上(恢復)に資しようという、両家関係の何びとかの意図あるいは希望にもとづいているものであったとすれば、その意図ないし希望の主体者は、西園寺公重と洞院公賢とのいずれかではなかったかと想像される。

 しかし、増鏡の編述の企画された時期の最上限である建武元年(1334)には、内大臣公賢はすでに威望重きを加えた四四歳の壮年であったのに対して、公重はこの年権中納言に任じたが、まだようやく一八歳の若年にすぎなかった。また私の推定する増鏡の成立年代である暦応年間(1338〜41)には、公賢は四八−五一歳、公重は二二〜二五歳であった。従って歴史物語増鏡の述作に想到し、また稿成って後これを閲して改修を思い立ったのは、やはりそのころすでに分別盛りの年輩で、廟堂に重きをなし、また識見高く、朝儀に深い関心を有していた『園太暦』の著者洞院公賢であった公算が大きいのである。

 公賢は、後醍醐帝が吉野に遷幸して南北両朝の対立期に入った建武三年十二月から半年後の同四年(1337)六月、右大臣を辞したが、七年後の康永二年、左大臣として再び廟堂に立つに至った。翌三年、翌々貞和元年の二回に亘って上表、よくよく三回目の貞和二年に聴許された(しかしさらに同四年には太政大臣の重責を担っている)。両朝分裂後のこの閲歴をみても、彼がこの杭争と混乱の時期にあって北朝の柱石的存在であった半面、自己の立場や進退に種々苦慮していたであろうことが推察される。

 しかも彼の長子実世は、両朝分裂と同時に権中納言を解任され、後醍醐帝に従って吉野にはしり、有力な廷臣として活躍していた。次子実夏は建武四年、父の右大臣辞任後参議となり、暦応三年(1340)に権中納言に進んだ(二六歳)。

 これらを彼比考え合わせると、公賢がこのころ、自己の一身の上だけでなく、家門の過去をかえりみ、将来を案ずるところがあったであろうとの臆測も、十分成り立つような気がする。 そしてこの時期(1335・6・7年ごろから40年、41・2年ごろまでの数年間)は、まさに私が増鏡の執筆期間、成立時期と推定している時期に当っている(第二章参照)。

 それではこの公賢と、私が増鏡の作者と推定している兼好法師とはどのような関係にあっただろうか。

 徒然草第一○二段には、

尹大納言光忠卿、追儺の上卿をつとめられけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ……

という一節がある。この「洞院右大臣殿」には疑義があるとされているが、公賢を指すとみるのがほぼ最近の定説であり、私もまたそれを肯定したい。しかしこの一節から作者と公賢との私的関係を探り出すことは不可能である。

 だが兼好は、西園寺家との縁故関係のあったことを証する資料が見当らないのに対して、洞院家関係の人物とはたしかに交渉があった。彼は、おそらく歌道の上でのことであろうが、洞院一流の小倉大納言実教(公賢の大伯父にあたる)とかなり泥懇の間柄であったし(『兼好家集』参照)、またどのような縁故によるものか明らかでないが、賢助僧正(東寺一長者・醍醐三宝院座主、公賢の叔父)にも接近していて、賢助に伴われて禁中の加持香水を見学している(徒然草第二三八段参照−これらの点については第一章で詳述した)。

 また冷泉大納言公泰(公賢の弟)の邸での歌合に出席して詠んだ歌三首が、家集にみえている(二六二〜二六四)。

 さらに彼は、貞和二年(1346)にほかならぬ公賢を訪問している。これは『園太暦』に、

……兼好法師来。和歌数寄者也。召簾前謁之。

とあって、文面からはこれが両者の初度の対面であったような感じを受けるし、「和歌数寄者也」という紹介の仕方も、上述の私の推定と齟齬するようにも思われる。

 しかし、「召簾前謁之」と書かれているところからでも推察がつくように、歴朝有数の顕門、右(左)大臣公賢と一介の遁世者兼好との間には身分上の甚だしい隔たりがあって、普通の場合(主従関係とか歌会の席とかでなく)であったならば、親しく面接する機会はめったになかったであろうから、両者の間に私が推測するような増鏡の執筆委嘱や稿本提出が行われたにしても、それはおそらく人を介して間接になされたに相違ない。

 また、増鏡編述の発起者とその意図が、前述のような私の推測どおりのものであったとすれば、おそらく事は内密に運ばれたであろうし、完成後も発起者や執筆者の名は秘せられていたであろう。そしてまたこの見方をとるならば公賢はすでに増鏡以来兼好を知っており(単に「和歌数寄者」としてだけでなく)、その縁故で兼好は公賢を訪ねることができたのであって、かの『園太暦』の記事は、むしろ公賢がしらばくれて書いたのだ、と解釈することもできよう。その時の兼好の用件が何であったにせよ(冨倉徳次郎氏は、その四日後に催された持明院殿百首披講に関する用件であったかと推測しておられる。〈『ト部兼好』八二頁〉)、左大臣を辞任した直後の公賢を、一介の「和歌数寄者」にすぎない兼好がのこのこと訪ねて行って会うことができたのは、初度の面接ではなく、それ以前に両者の間に何らかの交渉があったからこそのことではなかろか。

 増鏡は、建武年間(1334〜37)ごろに、洞院公賢が内密に兼好法師に執筆を委嘱し、その意を承けた兼好が数か年を費やして暦応年間(1338〜41)のころに完成したものであり、そしてかの十七巻本は、兼好の提出した稿本を閲読した公賢が、おそらく身辺の何者かに命じて、特に必要と思われる箇所を改修せしめて成ったものであろう−これが本章の主旨であり、結論である。

 かの貞和二年(1346)閏九月六日の兼好の公賢訪問の真の用件は、増鏡の完成の報告と、稿本の提出にあったという推測も可能であり、私の成立年代推定もこれを許容し得るものであるが、今はこれを言うだけにとどめておく。

 なお、かの公賢の『園太暦』は、現存のもので言って応長元年(1311)二月から、延文四年(1359)十二月までの詳密な日記であって、もし増鏡が私の推測どおりに公賢が兼好に執筆を委嘱したものであるとすれば、『園太暦』の初巻から委嘱時までの分は、資料として兼好に貸与され、兼好はこれを大いに活用したであろう、ということが考えられる。今日、その大半(応長元年夏の部から康永元年〈1342〉までの分)が失われていてみることができないのは、一般中世史家だけでなく、増鏡の研究者にとっても痛恨事である。またその欠落部分には、増鏡の執筆・成立期間(推定)である建武・暦応年間(1334〜41)の分も含まれているのであるから、私の成立事情推定説の当否を検するための最も有力な資料も失われているわけである。



(注)
 私は第一章で、兼好を増鏡の作者とする推定の根拠の一つとして、徒然草に西園寺家の諸人物に関する記事がきわめて多く、またそれが増鏡の記事によく対応していることを挙げた。今、その点について若干の補足を行っておく。

 徒然草の全章段(序段を含めて二四四箇段)中には、人名・称号・官位名の挙げられている章段が八七箇段ある(中国人名・伝説人物名をのぞく)。これらの諸段にみえる人名の総数は一五五名である(重出名を除く)。つぎにこれらのうち、公卿(三位・参議以上)および公卿の家の出身の后妃、僧侶の名が挙がっている章段は四六箇段、人員総数六五名である。そしてこのうち西園寺・洞院家は一二箇段、一四名をかぞえる(「公世の二位」は『尊卑分脈』に洞院実雄子と記されているのでここにかぞえた)。これに次ぐものとしては久我氏の堀川家の六名(六条家を入れて八名)、六箇(八箇)段がある。

 これは、これだけではさほど目立つ数字ではないようであるが、五摂家のすべてを合わせても八名(八箇段)にすぎないことを考えると、公家関係記事としては、西園寺家関係が他をぬきんでて多いことがわかる。 しかも五摂家関係のものは、第二段の「……とぞ九条殿の遺誡にも……」をはじめとして、事の先例を示すために名を挙げたり、話を引き出す序として名を出した、といった程度のものばかりで、記事内容の主題人物としてとりあげられることはほとんどない。念のため二、三の例をあげると、

第六六段岡本関白殿(近衛家平)、盛りなる紅梅の枝に鳥一双を添へて……。(この段の内容は、鷹匠の下毛野武勝の語った付け物の話であって、家平はただ武勝に付け物を命じたというだけである。)

第一五六段−大臣の大饗はさるべき所を申しうけて行ふ、常の事なり。宇治左大臣殿(頼長)は東三条殿にておこなはる……

第二二三段−田鶴の大臣殿は童名たづ君なり。鶴をかひ給ひけるゆゑにと申すは僻事なり。(これはこの段の全文である。)

第二二八段−千本の釈迦念仏は、文永の比、如輪上人(摂政師家の子)これをはじめられけり。(これもこの段の全文である。)

というような按配であって、要するに徒然草では、摂関家の諸人物は、たとえ名が挙げられていても、とるに足らぬとりあげられ方しかされていない。

 ところが西園寺一門の人々に関する記事は、これとはまったく対照的である。

第三三段−今の内裏作り出されて……玄輝門院(実雄女、後深草院帝妃)の御覧じて「閑院殿の櫛形の穴は……」と仰せられける、いみじかりけり。……

第七○段−元応の清暑堂の御遊に、……菊亭大臣(兼季)、牧馬を弾じ給ひけるに……。

第八三段竹林院入道左大臣殿(公衡)、太政大臣にあがり給んに何の滞りかおはせんなれども……。洞院左大臣殿(実泰)この事を甘心し給ひて……。

第九四段常磐井相国(実氏)、出仕し給ひけるに……。

第一一四段今出川のおほい殿(公相)、嵯峨へおはしけるに……。

 これらの例をみてもわかるように、挙げられた西園寺の諸卿はほとんどすべて、一段の主題人物かまたは副主題人物となっている。

 しかも、もっと重要なことには、徒然草にとりあげられている西園寺家の諸人物は、増鏡の第五〜第十二(二十巻本の)の八巻に亘って、記事内容の主役として登場する西園寺一門の諸人物−言いかえると、西園寺・洞院両家が、それぞれ皇室の外戚となって、権勢の最も盛んであった時代の当主たち−とまったく一致しているのである。

 すなわち西園寺家では、実氏(第九四段)・公相(第一一四段)−実兼(第一一八二三一段)−公衡(第八三段)(兼季〈第七○段〉)−実衡(第一五二段)と五代の当主六名が、一人余さずとりあげられ、洞院家では実雄(第一○七段)、玄輝門院(第三三段)、実泰(第八三段)、賢助(第二三八段)、公賢(第一○二段)らが登場している。

 徒然草におけるこのいちじるしい事実は、何に由来するものであろうか。西園寺家に次いでとりあげられることの多い久我・堀川家の人々については、作者兼好の伝記・閲歴からして十分説明をつけることができるけれども、西園寺家に関してはそう行かない。下級貴族卜部氏の出で、おそらくは堀川家の家司をつとめたことがあり、宮廷では六位蔵人または左兵衛佐で終わり、若くして遁世した一介の「和歌数寄者」にすぎなかった兼好が、右のように西園寺家諸卿の言動・事蹟をしきりに題材としてとりあげるほど西園寺家に深い縁故を持っていたとは思われないし、そのような縁故を証する資料も見当らない。

 思うにこれは、徒然草の公家関係記事の章段の取材傾向が、増鏡のそれに対応し、合致しているという事実からのみ明快に説明される。つまり、徒然草のそれらの章段は、兼好が増鏡を執筆する際に利用した資料から取材して書いたものであるために、あのような取材傾向となったものであろう。徒然草の公家関係記事は、まさに増鏡の余録といった性格のものであったと思われる。



☆西園寺家については龍粛氏「西園寺家の興隆とその財力」と網野善彦氏「西園寺家とその所領」が参考となる。

☆西園寺家・洞院家系図はこちら



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