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| 宮内三二郎氏の略歴(上掲書による) |
| 大正7年11月30日 鹿児島市に生まれる 昭和10年3月 鹿児島県立第一鹿児島中学校卒業 昭和13年3月 第七高等学校造士館文科甲類卒業 昭和13年4月 東京帝国大学文学部国文学科入学 昭和14年4月 同大学文学部美学美術史学科へ転科 昭和16年12月 同 卒業 昭和17年2月1日 応召(北満・南方方面を転戦) 昭和21年7月2日 復員 昭和22年4月30日 鹿児島県立第一高等女学校嘱託 昭和23年4月1日 鹿児島県立鶴丸高等学校教諭 昭和26年5月16日 鹿児島大学教育学部講師(美学美術 史担当) 昭和28年4月1日 同助教授 昭和49年5月1日 同教授 昭和50年10月20日 中世文学会へ出席の途上、京都市において死亡 |
| ※宮内三二郎氏は遊義門院を後深草院二条の子としたり、『増鏡』の作者を兼好法師とするなど、その学説は独特です。宮内氏は国文学会にとっては相当に異端的な方であったらしく、水原一氏(『とはずがたり』の虚構性をめぐって」)のように、宮内説に対して強い反発を示す方もいます。 |
| 宮内三二郎氏の見解 |
私の考え方 |
| 第四章 続とはずがたりの作者と遊義門院 二 後宇多天皇と☆子内親王 (中略) (7)史的背景 以上、数項にわたって、とはずがたり巻二・三の第一プロットの諸段に記された出来事の背後には、弘安二年における後宇多天皇と☆子内親王との婚姻問題があったであろう、という点について、主として本作品の内部に見出される諸徴証によって論証につとめてきたが、この、弘安二年に後宇多・☆子の婚姻問題が起ったということ自体が、確実な史料の裏づけを持たない一つの仮説であることはいうまでもない。 |
☆女へんに「令」 |
| しかし、この私の仮説の根拠は、弘安八年(一二八五)以来、永仁二年(一二九四)を経て、永仁六年(一二九八)に至るまで(あるいはさらに正安四年一三〇二に至るまで)の間に、この両者−後宇多天皇(上皇)と☆子内親王(遊義門院)−をめぐって現実に起った出来事や事態にあるのであって、史実として、これらの出来事や事態の意味を分析してみると、これらの出来事・事態の発端は、弘安八年にあったのではなく、それよりももっと以前にあったであろう、そしてそれは、後宇多天皇が元服して后妃を迎えるべき時期に達した建治三年(一二七七。天皇一一歳)以後の或る時点であったろうと思われ、これを本作品のくだんの諸記事の内容およびそれの推定年時と考え合わせると、その時点は、天皇一三歳・☆子一○歳の弘安二年(一二七九)であったろう、ということに落ちつくわけである。
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| そこで、右の弘安八年から永仁六年(あるいは正安四年)にいたる出来事・事態なるものを、本作品の外に出て、あらためて考察してみよう。
すでに繰り返して述べたとおり、後宇多天皇には、建治三年の元服の後も、久しく立后妃のことがなかった。これは当時としてはきわめて異例のことであって、後宇多以前の後鳥羽〜亀山の八代の天皇のうち、一二歳で崩じた四条天皇と、二三歳ではからずも帝位についた後嵯峨天皇とを除くと、他はすべて元服後三年以内に女御を迎えている。 |
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| このことは、言い代えれば、後宇多天皇が元服した建治三年正月以後、第三年目の弘安二年のころまでには、すでに后妃問題が盛んに取り沙汰されていたであろうことを思わせる(先掲の増鏡「老いの波」の記事は、そのことを裏づけている)。 それにもかかわらず、元服後第八年の弘安七年までは立后妃のことがなく、同八年八月に至って、突如として☆子内親王(一六歳)が皇后宮に冊立された。しかも☆子はその後も入内せず、引きつづき後深草・東二条院の御所に居留った。これもまたきわめて異例のことに属する。 |
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| すなわち、皇后宮冊立の近い例としては、嘉禄二年(一二二六)七月、後堀河天皇の女御長子(鷹司院)が中宮にのぼったため、これに押しあげられた形で中宮有子(安喜門院)が皇后にのぼったケースと、弘長元年(一二六一)八月に、同様の事情で亀山天皇中宮嬉子(今出川院)に押し上げられて、同中宮佶子(京極院)が皇后にのぼったケースの二つがあるが(『女院小伝』・増鏡参照)、☆子の場合は、これらとは全く事情を異にしているのであって、後宇多天皇には、この時未だに中宮も女御もそなわっていなかったし、☆子は、皇女とはいえ、女御・中宮の段階を片時も経ずしてー挙に皇后宮となったのであった。 |
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| また、弘安八年といえば、皇位継承問題をめぐって後深草・亀山両院の対立抗争が再び尖鋭化しはじめた時期であるが(後宇多天皇は在位一○年を超え、したがって亀山院の院政も一一年、親政期を加えると一三年の長期に亘っており、他方、後深草院皇子煕仁親王も、東宮立坊後一○年を閲していたわけで、東宮はもともと天皇より二歳年長でもあったから、持明院統側は焦慮の色を濃くしていたであろう)、この時期に亀山院・後宇多帝が後深草院皇女を皇后に立てたということ、また☆子が皇后宮となりながら入内しなかったということ(それでいて、のちに後宇多上皇妃となったということ)は、これについての史家の言説を寡聞にして知らないが、たしかに解明を要する出来事である。 |
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| ☆子立后の直接の動機は、つぎのような点にあったと考えることができよう。 すなわち、弘安八年三月一日(それは、本書の<三−72〜77>にも記されたかの北山准后九十賀の第二日目に当っており、天皇・東宮・両上皇らが一堂に会していた。前日の式には、「遊義門院いまだ姫宮」も出座していて、増鏡「老いの波」には、「姫宮〈遊義門院〉、…常よりもことに美しうぞ見えたまふ。おはしますらむとおもほす間のとほりに、内のうヘ〈後宇多〉、常に御まじりただならず、御心づかひして、御目とどめたまふ」などと記されている)、権大納言堀川具守女基子が、後宇多天皇の皇子(邦治。のちの後二条天皇)を出産した。この基子は、皇子出産後にも、また皇子の立太子(永仁六年一二九八)の後にも、さらには践祚・即位(正安三年一三〇一)の後にも、叙位等のことがなく、ようやく延慶元年(一三〇八、弘安八年から実に二三年の後)の後二条天皇の崩御後に、従三位に叙せられ、准三宮・院号を宣下された(『女院小伝』)。 この処遇は、天皇の皇子(のち天皇)の生母のそれとしては、甚だ薄いもので、彼女は、その出自等の関係で、終始後宇多天皇(上皇)の(嘗ての)一側妾の域を出なかったわけである。 |
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| 思うに、このことが☆子の立后問題の生じた直接の動機であったろう。
というのは、かなり後年のことになるが、永仁六年(一二九八)六月の邦治親王の元服の儀と、八月の立太子の儀には、生母基子に代るものとして、遊義門院☆子がその養母に立てられており(『続史愚抄』)、後述のように、☆子はこの時期にはじめて正式に後宇多上皇の妃となったのであって、むしろ邦治親王の元服・立太子の儀に、立ててその養母とするために、正式の後宇多上皇妃とされたものとみられるからである。 |
| 亀山院は、自分の皇統が代々帝位を継承すべきであることを主張し期待していたのであるから、後宇多天皇の次にはその皇子を帝位につけるか、またはすくなくとも東宮煕仁親王の登極の際には自統の皇子を東宮に立てることをもくろんでいたであろう。そして、そのことを可能にするためには、幕府の了解をとりつけなければならないことは勿論であるが、できれば後深草院側をも納得させることが望ましいし、他方では、皇子のために、うしろだてのはかばかしくない生母に代るしかるべき養母を早く立てておく必要が感ぜられたであろう(もしその後者が皇子を生んだとすれば、それはまたそれなりに好都合でもあったであろう)。 |
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| このようなねらいのもとに、亀山院が白羽の矢を立てたのが、ほかならぬ当の後深草院の皇女、☆子内親王だったのであって、皇子邦治の出生(三月)の半年後(八月)に☆子が突如皇后宮に冊立されたのは、およそこのような含みにおいてではなかったたろうか。
また、この☆子の立后は、幕府の示唆によるものなのか、あるいは事前に幕府の了解を得たものなのか、一切不明であるが、後深草院側(実兼を含めての)は、これに対して積極的な姿勢を示さなかったであろう、ということは言えるだろう。なぜなら、後宇多帝皇子が堀川具守女の腹にすでに生れていたという点で、前述の弘安初年の場合とは事情を異にしていたわけであるからである。 |
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| もちろん後深草院側にとっても、☆子の皇后宮冊立ということ自体は慶賀すべきことであったろうし、立后の当日、後深草院御所で御遊が催されてもいる(『続史愚抄』)。しかし、この御遊が、皇居でなく、後深草院御所で行われたということは、事の実情を物語っているようであり、また事実、後深草院は、☆子を入内させず、自分のもとにとどめおいた。同院にしてみれば、亀山院の意図は容易に見透すことができたであろうし、その虫のいいやり口を快く思わなかったに相違ない。 |
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| さらに、亀山院が☆子の立后にふみ切ったこと、また後深草院が☆子を亀山院側へ渡さなかったことには、或るもう一つの事情があったのではないか、と私は思う。 すなわち、☆子はこのころにはすでに長講堂領の一部を後深草院から伝領していたか、またはすくなくとも伝領予定者と目されていたのではなかろうか。そして亀山院のねらいの一つは、☆子を後宇多天皇の皇后とすることによって、その所領を自統側へ獲得することにあったのであり、また後深草院は、そうさせないために☆子を渡さなかったのではなかろうか。そしてまたこのことが、次に言う永仁二年の事件をひきおこしたのではなかろうか。 |
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| 弘安八年の翌々年の弘安十年(一二八七)十月、幕府の奏請によって、ついに後宇多天皇は東宮(伏見)に譲位し、後深草上皇の院政がはじまった。翌々年(正応二一二八九)には、伏見天皇の皇子胤仁(二歳)が東宮に立ち、亀山院は、後宇多院皇子邦治(五歳)の立坊の希望を絶たれ、東宮立坊の五か月後には出家した(この一連の政局の変動が、関東申次西園寺実兼の幕府へのはたらきかけによるものであったことは、多くの史書の説くところである)。その翌々年の正応四年(一二九一)には、皇后宮☆子は院号を宣下され、遊義門院となった。 |
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| ところが、その三年後の永仁二年(一二九四)六月二十八日、一つの珍事が出来した。後宇多院が、後深草院の御所、常盤井殿から遊義門院(二五歳)を掠め取って、自分の御所、冷泉万里小路殿北殿(同南殿は亀山院御所)へ連れ渡したのである(「廿八日丁未。今夜遊義門院……不知幸所。是新院窃被奉渡于御所冷泉万里小路云。後為妃」〈『続史愚抄』〉。なお、翌永仁三年の正月五日には、南殿の亀山院が、ひそかに北殿に後宇多院・遊義門院を訪い、次に後二者が答礼御幸を行っている〈同上〉)。後深草院が後宇多院のこの挙に深く憤ったことはいうまでもない(『続史愚抄』永仁六年七月三日の条参照)。 |
ここで特に興味深いのは「准后。名字未詳。若平棟子歟。」との記述である。後嵯峨天皇妃、宗尊親王母の平棟子(京極准后.生没年未詳)は「後宇多天皇の後見人となり、その第1皇子邦治親王(後二条天皇)、皇女達智門院をその居宅で養育した」(『朝日日本歴史人物事典』本郷和人氏)人物であり、仮に邦治親王の養育者である京極准后が遊義門院に会いに行ったとすれば、その行動は意味深長である。 |
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| 増鏡「さし櫛」には、後宇多院のこの所行の動機が、女院への恋慕にあったかのように記されているが(「皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍におはしましつるを、中の院いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍び難くおぼされければ、とかくたばかりて、盗み奉らせ給ひて、……」)、事柄自体をみても、また前述のような弘安八年の☆子立后時のいきさつからしても、そのような単純な動機のみによるとは考えられない。 |
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| その動機が奈辺にあったかを推知させるものは、永仁二年から八年後の正安四年(一三〇二)、後宇多院の院政時に、亀山・後宇多両院が再び起した右と甚だよく似た事件である。同年正月二十日、故宗尊親王女瑞子(三○歳)が、突如准三宮・院号(永嘉門院)の宣下を受け、後宇多院の妃とされた。これはその前年(正安三)に、瑞子が父親王の関係で、幕府の裁量によって室町院領を伝領したので、この瑞子を妃とすることによって室町院領を大覚寺統側に獲得しようと企てたものであった。これに対しては持明院統側から異議が申し立てられ、結局室町院領は両統で折半して伝領することになったのであった(黒田俊雄氏先掲書345〜6貢参照)。 |
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宮内氏は永仁2年(1294)の事件について、遊義門院が後宇多院による「掠取」の一方的な被害者のような言い方をするのであるが、25歳の気位が高くて気の強い女を「掠取」することなど絶対に不可能であり、遊義門院が後宇多院と示し合わせて父母のもとから逃げ出しただけである。 |
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| この正安四年の出来事から推すならば、永仁二年に後宇多院が遊義門院を掠取したのも、そのねらいは、同女院の身柄よりはむしろ同女院が伝領していたであろう長講堂領(の一部)を、自統側へ獲得することにあった、と断定してもよいのではなかろうか。事実、次に述べるように、この永仁二年以後は、長講堂領の一部としての伏見殿上御所は、実質的には亀山院の管理するところとなった形跡がある。 |
| 永仁二年のこの事件は、四年後の永仁六年(一二九八)にようやく一応落着する。同年七月二十二日、伏見天皇は皇子東宮胤仁親王(後伏見)に譲位し、院政をとることになったが、『続史愚抄』によればその直前の同月三日、後深草院と妃東二条院は、後宇多院の万里小路殿北殿に幸し、深更に及んで還御した(その時、亀山院は車を路次に立てて、両院を見送ったのち、後宇多院御所に入っている)。後深草院の万里小路殿御幸は、そこが後宇多院の御所となって以来はじめてのことで、『続史愚抄』には、「是依遊義門院御事、有御隔意故歟」と注されている。この御幸は、後宇多院の遊義門院掠取事件以来の、同院に対する後深草院の隔意が解けて、後深草・東二条院が四年ぶりに皇女遊義門院に対面したものであったわけである。 |
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| そして、先述(二の(4))のように、七月二十二日の譲位・践祚の儀の翌々二十四日、亀山法皇は、経営成った(「近曾有経営云」〈『続史愚抄』〉)「遊義門院御所」たる「伏見殿新御所」に幸して逗留し、二十七日の遊義門院の「移徙御幸」(後宇多院同車)と後深草院の御幸を、この御所で待ち受け、後深草院は、一旦「伏見殿下御所」に入ったのち「新御所」に幸し、後深草・亀山両法皇、後宇多上皇、遊義門院の四者が一堂に会して、酒饌が供され、後宇多院から両法皇に牛が牽献された。 |
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| 『継塵記』を引く『続史愚抄』に録されたこの永仁六年七月の四者の会同については、管見では、従来史書にもあまり論及されたことがないようであるが、これは当面の問題にとってもかなり重要な意味を含む史実であると思われる(『続史愚抄』のこの記事中で、後宇多院が「新院」と呼ばれているのは、七月二十二日の伏見天皇の譲位以前における称呼が、二十二日以後の記事に誤って用いられたもので、二十二日以後は、「新院」と呼ばるべきは伏見院であって、後宇多院は「院」と呼ばるべきである)。すなわち、かの建治三年の時(天皇=後宇多、東宮=煕仁)と同様に、幕府の秦請によって、後伏見天皇の践祚に引きつづき、後宇多院皇子邦治親王が東宮に立つことになり(八月十日)、これによって皇位継承問題に一応のかたがつけられたことを機として、後深草・亀山両院の、これまた一応の和解が成り立ち、遊義門院が正式に後宇多院妃となることを、後深草院が承認させられたのであって、酒宴はいわば両者の固めの盃であり、後宇多院が両法皇に牛を引き進めたのも、そのことに関係するものであったろう。 |
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| そして、おそらくここにも皇室領の伝領問題が介在していた。既述のように、伏見殿は全体として長講堂領の一部であり、後深草院の伝領するところであったが、その伏見殿の一部、「伏見殿新御所」は、すくなくともこの永仁六年以前に、すでに遊義門院に譲られていたことが、右の『続史愚抄』の記事によって知られるのであるが(「伏見殿新御所 為遊義門院御所近曽有経営云。」)、両統の会同に当り、亀山院がまず最初に「新御所」に幸して逗留し、三日後の遊義門院の移徙御幸を待ち受けていたこと、また他方後深草院が直接「新御所」に入るのでなく、一旦「下御所」に幸してそこから「新御所」に入ったことは意味深重である。 |
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| この事実から判断するならば、かの四年前の永仁二年の後宇多院の遊義門院掠取は、後深草院が同女院を一向に手放さないことに業を煮やし、実力手段に訴えて女院の身柄をうばいとり、実質的に院妃とすることによって(既成事実を作ることによって)、女院の伝領した皇室領を大覚寺統側の手中に収めようという亀山院らのもくろみから出たもので、その後亀山院は自分の手で女院名儀の伏見殿上御所を修造し、それがあたかも永仁六年の、両院の和議の成るころおいに落成したので、女院の移徙御幸に先立って、新御所の事実上の主(あるじ)として、その検分や会同の準備の指図かたがたこれに幸して、女院や後深草院を待ち受けたのであろう。他方後深草院は、妃東二条院の名儀としておいていた伏見殿下御所にひとまず入ったのち、そこから、今や皇女遊義門院の身柄とともに大覚寺統側にいわば乗っ取られた新御所へ出御したわけであろう。 |
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| ところで、永仁二年と同六年に両統間に起った右のような出来事や事態の背後に、関東申次西園寺実兼があって、この実兼が糸を引いていたのであろう、と推測される。 正応元年(一二八八)の伏見天皇の即位のころ以来、京極為兼が天皇の寵を得て重用されるようになってからは、為兼の台頭を(というよりも伏見天皇が為兼を重用することを)快く思わなかった実兼は、(伏見天皇にその女△子を女御・中宮として入内させ〈正応元年〉、みずからは正応四年には太政大臣に栄進〈翌年辞退〉しながらも)大覚寺統(亀山・後宇多)に接近しはじめたと思われる。 |
△金へんに「章」 |
| 為兼は正応元年以後、官位累進し、ますます勢威を増大させていたが、永仁四年に幕府の奏請によって失脚し、同六年二月には捕われて佐渡に流された。この時の幕府の為兼排斥も、のちの正和四年(一三一五)の再度の配流の場合と同じく、実兼の幕府への申し入れによるものであったろう。為兼の流罪の四か月後には、伏見天皇は、参議経氏女所生の皇子胤仁(後伏見)に譲位し、その翌月には後宇多院皇子邦治(後二条)が東宮に立ったのであったが、他方において実兼の女△子(永福門院)は、入内後年を経ても(永仁二年は六年目、同六年は一○年目)皇子を生むことがなかった。 |
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| このことは、実兼の大いに焦慮するところであったろう。彼がすでに二九歳になっていた二女瑛子(昭訓門院)を亀山法皇宮に入れたのは、正安三年(一三〇一)正月二十一日の後二条天皇践祚二七歳)の直前(十六日)だったのであって、両統間の数度の皇位授受に、そのつど実兼の蔭の介入があったことを恩わせる。そしてまた彼のこのような大覚寺統への接近は、この時突如はじめられたはずはなく、すでにこの時以前にはじまっていたと考えなければならないだろう。 |
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| したがって、永仁六年(正安三年正月の瑛子の亀山法皇宮入りの二年半前。為兼の佐渡配流の半年後)の伏見譲位・後伏見践祚に引きつづく後宇多院皇子邦治の東宮立坊も、当時宮廷随一の実力者、前太政大臣関東申次実兼の、大覚寺統側と気脈を通じての、幕府へのはたらきかけによるものではなかったかと疑われるし、さらに永仁二年のかの後宇多院の遊義門院掠取についても、よく考えてみると、持明院統伏見上皇の院政下に、後宇多院がとったこの図太い、強引な行動は、やはり実兼の暗黙の支持を得てのものだったのではなかろうか。 |
| さて、以上述べてきたように、弘安八年・永仁二年・永仁六年に、遊義門院をめぐって持明院・大覚寺両統の間に生じた一連の出来事は、すべて、皇位継承・東宮立坊の問題にかかわるものであっただけでなく、その根底には皇室領の伝領問題、もっと具体的に言えば、遊義門院が後深草院から伝領した長講堂領の一部(「伏見殿新御所」を含む)の、事実上の帰属問題がひそんでおり、またそれらのすべてに亘って西園寺実兼の蔭の意図と力が大きくはたらいていたとみられる。 |
この事件については、無理に無理を重ねて合理的な理由を探すのではなく、『増鏡』に描かれていることを素直に受け入れて、後宇多院の遊義門院への恋慕という最も「不合理」な理由で説明すべきである。後宇多院は遊義門院が1307年に亡くなった直後に出家してしまうほどの人であり、遊義門院に強烈な愛情を抱いていたのだから、そう考えるのが最も自然なのである。即ち、この事件は恋に血迷った28歳の後宇多院が、政治的な利害などに全く頓着せずに引き起こした突発的事件であり、後深草院のみならず亀山院にとっても意外な出来事だったと考えるべきである。 ただ、こうした突発的事件であっても、それが実際に起こってしまったあとで、政治的に利用しようと考え出す人が出てくるのは別問題である。この事件は浅原事件で溝を深めた持明院・大覚寺両統の関係者にとって、日々の政争を忘れて思わず笑い出してしまいたくなるような「明るい話題」であり、そうした心理的変化を老練な政治家である亀山院は見逃さなかったものと私は想像する。 |
| そこで、このことをふまえて、とはずがたり巻二、三に記された弘安二年の一連の行事・催し事を、あらためて振り返ってみると、それらはまさに右の弘安八年以降の一連の出来事の発端であり、いわば両統(後深草・亀山両院)の対立・抗争の長大劇の第一幕であったと考えられる。 前諸項でみてきたように、とはずがたりに描かれた弘安二年の場合も、両院の交歓の諸行事は、その場所−舞台−として六条殿長講堂や伏見殿がしきりに用いられ、(作者の隠蔽・朧化にもかかわらず)関白兼平の言動等からして遊義門院(「姫宮」)の姿が仄かに隠見し、また実兼の画策の形跡がうかがわれるものであった。 |
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| 本書巻二、三の第一プロットの諸記事の内容の真の理解・解釈は、そこに仄めかされている二条−遊義門院−実兼の間柄の把握をぬきにしては、得られないだろう。 |
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| 最後に、大宮院について書き添えておきたい。後嵯峨院妃大宮院※子は、西園寺実氏の一女で、後深草・亀山両院の生母であり、東二条院の姉、実兼の叔母に当る。 後嵯峨法皇の崩御の折には、幕府は、皇位継承に関する法皇の遺志を、同女院に問い合わせたりしており、法皇崩後の宮廷にあって、同女院は大きい発言力・影響力を持っていたようである(〈1−10〉に、「さても大納言〈雅忠〉、たびたび大宮院、新院〈亀山〉の御かたヘ、出家のいとまを申さるるに、おぼしめすしさいありとて、御ゆるされなし」とあるところによっても、そのことは知られよう)。 |
※女へんに「吉」 |
| 同女院は、後嵯峨院とともに、かねがね後深草院よりも弟の亀山院を偏愛していたといわれるが、しかし法皇崩後の両院の不和には、何か責任のようなものを感じ、心を痛めていたらしく思われる。 かの、建治元年(一二七五)に、後深草院の亀山院に対する憤懣がつのった際には、(煕仁親王の立坊があって、後深草院のその憤懣がやや収まったころを見はからって)前斉宮▲子内親王(同院の異母妹)との対面にかこつけて同院を嵯峨御所へ呼んで何やら説教し、またその折、話に出た妹東二条院の二条排斥について、後深草院に何意して二条の肩を持ったりもした。院還幸ののち、東二条院の使者がきて、院が二条を寵愛することについての非難の言葉を伝えた〈1−27〜30〉。 |
▲りっしんべんに「豈」 |
| 前記弘安二年十月の両院の大宮院病気見舞のための嵯峨御所御幸〈2−62〉の場合も、女院は両院を前にして酒に酔い、愚痴とも説教ともつかぬ口説をならベ、「はてはゑひなきにや、ふるき世々の御物語など出できて、みなうちしほれつつたち給ふに……」という有様であったが、これは両院の和解の行き悩みと、かの両院皇子女の縁組の不首尾を歎いてのことではなかったろうか。そしてこの時も女院は、二条をかまいつけて、なぜ上両院の還御の後も居残らせたが、そこへまたしても女院が二条を優遇したことを非難する東二条院の文がとどけられた。 (この建治元年と弘安二年の両度の後深草院の大宮院御所御幸には、両度とも実兼が参仕していた。) |
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| 弘安八年の春、大宮・東二条両女院の母、北山准后貞子の九十歳の賀が北山の西園寺第で催されたが、久しく里住みしていた二条は、大宮院のとりなしで、同女院女房として出仕し、後深草院や実兼はもとよりのこととして、亀山院の目にもとまった(「……新院、『雅忠卿むすめの歌はなど見え候はぬぞ』と申されけるに……」<3−74>)。東二条院は二条の歌を召さぬようにと准后貞子に釘をさしておいたという(「東二条院より、歌ばし召さるなと准后へ申されけるよし、うけたまはりし」〈74〉)。 |
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| また作者は、「両院、東二条院、遊義門院いまだ姫宮にておはしませしも、かねて入らせ給ひけるなるべし」〈72〉とさりげなく記している。そして先述のように、後宇多天皇の第一皇子邦治親王が、堀川具守女の腹に生れたのは、この賀の第二日目であった。 大宮院が、当然予想される東二条院の反対をかえりみずに(東二条院はすでに五年余も前の弘安二年秋には、二条を院御所から放逐していた)、二条をこの賀宴に特に呼び出したことには、或る必然的理由があったのではなかろうか。 |
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| 同女院は、具守女基子が天皇の皇子を懐妊し、出産の日が迫っていることを知っていたであろうから、天皇と、二条が生んだ後深草院皇女☆子との結びつけを、あらためて思いめぐらし、北山准后九十賀の盛儀を機会に、気の毒な二条をそれとなく☆子に会わせていたわろうという気持を持ったのではなかろうか。 このようにみてくると、本書巻一〜三にとりあげられた文永後期(同七年東二条院の出産、または同九年後嵯峨法皇崩御以来)から弘安八年に至るまでの宮廷におけるさまざまの出来事(それらの発端から一応の結末までの)、いうならば二条をヒロインとするこの一篇の現実のドラマ、の蔭の演出者の一人は、この大宮院※子だったのではないか、という疑いが生ずるのである。 |