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| 序 目次 「遙かなる阿修羅」(濱田啓介氏)p784 宮内三二郎略歴 p789 宮内三二郎論文目録 p790 あとがき(伊牟田経久氏) p792 |
序
宮内三二郎先生の訃報を聞いたとき、まさかと耳を疑った。先生はいつも満身、元気いっぱいに見えていた。死が本当とわかると、中世文学会の研究発表の後の酒の飲みすぎでなかろうかと想像した。が、勉強のしすぎの過労のためらしいと知って、暗然となって、この好漢の死を悼んだ。その夕べは、一杯の焼酎を故人のために供えたのだった。 宮内三二郎先生から徒然草の成立年代についての論考をお聞きしたのは十年くらいも前だったろうか。その時の先生のにこやかで楽しげな話しぶりは今でも忘れがたい。結論が正しいかどうかは私にはわからなかったが、当時の政治情勢、公卿社会、特に西園寺家の動静などの具体的で詳細な知識に基づいた徒然草の考察には、ただ感服するばかりだった。 それで、そのような徒然草の講話を学生にもして下さるようお願いした。先生が大学の国文学科の卒業でないという形式上の壁のために、正規の授業を受け持つことはどうしても無理であった。謝金さえも都合がつかなかった。が無欲てんたんな先生は、無報酬で快く引き受けて下さった。半年ほど続いた。 その後先生の研究は、増鏡・とはずがたりへと展開して行った。増鏡の作者が兼好であるという発見は得意そうであった。実際、もしそうなら、大発見ではないか。二条良基が作者でないという論だけでも大したものではないか、と私は思った。 とはずがたりの、遊義門院が作者の秘密の子であるという説は奇想天外で、お話を聞いても、論文で読んでも、面白かった。まるで推理小説のようであった。 もともと先生は推理の才能に恵まれた人であった。現実生活においても、われわれがうっかり見のがすような微細な事実を手がかりとして、その奥の隠れた事実を推理して指摘されると、なるほどと合点が行く、というようなことがしばしばあった。中世社会に対しても同様であった。園太暦その他、さして珍奇ではない資料から、推理小説的慧眼によって、隠れた事実を構成されたのである。 先生の結論が正しいかどうか、私にはわからない。ただ、今後徒然草や増鏡・とはずがたりを研究するには、先生の論説を看過することはできない、と言えそうである。 先生は反骨の人であった。権力・権威に対して抵抗の精神の強い人であった。先生の論考の根底に、権威・通説に対する抵抗の精神が脈打っているのを感ぜずにはいられない。現実の生活においても、大学の運営や組合活動に努力された。が、生涯の仕事としては中世文学の研究ときめていられた。特に晩年はそれに没頭された。大学の委員をいくつも引き受けて多忙であり、また、在学生や卒業生もよくかわいがられたので、研究は夜ふけまでしなければならなかった。焼酎を少し飲んでからの方がよく書ける、というように言われた。が、そうした生活が健康に悪かったのではなかろうかと、今では悔まれる。 先生があんなに徒然草にひかれたのは、どんな魅力を感じられたからであろうか。ついに聞かずじまいになったのは残念である。徒然草に表われた美感・人生観が、美学者としての先生と共鳴するものがあったのであろうか。が、この十年ほどは、兼好の事実や徒然草の成立事惰などの考証に熱中された。更に、きびしい中世社会を生きた人々が先生の心をとらえたもののようである。いつだったか、とはずがたりを、「あんな面白い本はないですよ」と言われたが、その「面白さ」は、乱世の、取りつくろわない、なまなましい社会と生き方とが記述されていたからだと思われる。徒然草の思惟の世界と、兼好の現実の生きざまと、とはずがたりの世界と、この三つの事実にどのような解明をされるか、今後のご研究に大きな期待を寄せていたのだった。その期待はかなえられなかった。学界にとってもまことに惜しいことだった。 が、先生の論考が中世文学の研究を推進した功績は高く評価されるであろう。そして先生の論考を踏み台として次々と研究がなされるであろうことが期待される。 先生の論文集が諸先生の尽力によって出版されることになって、心からうれしく思う。先生も、例のにこやかな笑顔でよろこんでいられるにちがいない。 |
目次 序 木之下正雄 第一篇 とはずがたり 第一章 とはずがたり年立の再編成 第二章 とはずがたりの作者と遊義門院 第三章 とはずがたりの作者と「有明の月」 第四章 続とはずがたりの作者と遊義門院 第二篇 徒然草 第一章 徒然草の作品形態 第二章 徒然草(序〜第三○段)の成立 第三章 徒然草第三一〜一七五段の執筆年代 第四章 徒然草第一七六〜二四三段の執筆年代 第五章 徒然草諸段執筆年時考証 第六章 徒然草「常縁本」の章段配列 第七章 兼好と名子−徒然草と『竹むきが記』 第三篇 増鏡 第一章 兼好法師と増鏡 第二章 増鏡の原形態 第三章 増鏡と西園寺家 第四章 徒然草と増鏡 第五章 増鏡と『思ひのまゝの日記』 第六章 増鏡の成立年代 第七章 増鏡の成立
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遙かなる阿修羅
極めて私的な書き方をするのを御許し願いたい。 私は昭和三十二年の秋、鹿児島大学の教育学部に赴任し、そこの教授会で宮内氏の存在を知った−当時氏は助教授、私は講師だったが、教授会は講師以上を以て成立していた。当時の教授会で、氏は二三の同志と孤軍奮闘して居られたのである。旧制師範から新制大学に移行して来た創成期の教育学部であったから、二三の有志が奮闘すべき事情は大いにあったのであるが、それはさて措き、その席の宮内氏は誰よりも印象深く、且つ好もしいものに映った。氏は白皙の好男子といってよろしかったし、着こなしも整っていて、教授会を代表する紳士(ゼントルマン)であった。しかし、この人の口からは、純粋な鹿児島言葉が、それも暖かい人間的な感情をのせて、会議室に鳴っていたのである。 私が宮内氏と懇友−私は氏に対し先輩としての敬意を失った事は無いが、友人知己という表現を氏は許容してくださると信じる−となったのは、前述の孤軍奮闘の人達に少しずつ私も参入するようになっていったからである。具体的には、これも私が鹿児島で知った先輩であり隣人でもあったT氏から誘われて、宮内氏とも同席してメートルをあげるという事があったりしたのだと記憶する。 「濱田さん、私の部屋でちょっとやりませんか」などと声をかけられるようになって、美学の研究室でグラスを傾けるという事になる。宮内氏も、始めは私の反応が不安だったから、恐る恐る声をかけて来たのだが、その中に、こちらが決して左様な招待を辞退する人間では無いのだという事が分ってくれて、お互い大いに心安くなった。例えば教授会での発言が同志的であるという事の外に、私にとっては、芸術の牙城である氏の研究室は憧憬の対象であったし、一方氏にとっては、国文学者である私になつかしさを感じた面があったのだと思う。そんなわけで私は宮内氏の人間味に近づくことのできる立場に立ったのである。 氏は先ず大いに潔癖であった。然して極めて犀利な眼力で人々の俗物性を観察していた。氏に言わせれば、教授会は愚物俗物の取るに足らざる集団であるという事になる。氏は大よそはスペクテーターだったが、持前の潔癖から、いつでも行動へと転化する可能性を持っていた。その行動の形というのも、これも氏の潔癖からくるのであろうが、アジったりデモったりというのではなく、単身で説得したり奔走したり拒否したりという形である。 氏はある日、井伏鱒二のファンであると言った。そして、「どうです、『白毛』のあの気持は。本当に何とも言えない、ムカムカとしてやり切れない気持をまざまざと感じる」と言って絶讃した、というよりも共鳴の至りであるようにその事を語ったのである。私も「川釣り」に収録されたその作品を読み且つ記憶していたが、軽率に見過したにすぎないので、その作品がそれ程までに人の胸臆に刻印を遺すものとは思いかけなかったのである。私は氏の感受性の鋭敏さに驚くと共に、井伏氏の作品からその一篇を抽出した氏自身の潔癖さ、換言すれば正義感に感銘した。 宮内氏は同僚を俗物視し到る所で抵抗を試みたのであるが、しかし、氏は決して同僚から憎まれてはいなかった。それは一には氏の清雅なマナーと人間的な表現力のせいでもあったと思う。特に氏の優雅な鹿児島弁の持つ雰囲気は、私のような外来者には表わす事のできない親しみを論敵に向っても表わす事ができた。紳士で、スタイリストでさえある氏が(氏はパイプを常用した)、「アタヤ」という愛すべき第一人称を連発するのであるから、私の家内なども、氏の物言いを忘れ得ずなつかしむのである。 私の処へ寄せられた氏の書簡は時に長文に亘ったが、それはたしなみのある筆跡で最初から最後まで決して放恣にならない字体と表現とで書かれている。氏は面談の時であろうと、文面の上であろうと、仲間同士であろうと、会議の席であろうと、論敵を前にしてスッパリと物を言う時でも、氏と同席している人を不快にしたり、いらいらさせるようなマナーを全く持っていなかった。それには氏の生れのよさが投影しているのかもしれない。 宮内家は薩摩士族の家で、父君は軍人であられたという。氏の居宅は山の手の屋敷町にあって、繁茂した庭園のある奥深い構えで、そのような階層の床しさを今にとどめていた。本来の出身地は加世田とかうかがっていたが、氏自身は鹿児島人で、その家で少年時代を過して来られた。だから同僚の中にも氏の少年期からの友人も多く、鹿児島という土地の雰囲気の中では、私のような外来者にとって、氏がその家に住み、その職に就いて居られる人生は、羨やむに耐えた境涯と思われた。 私は人の人生の過去に関わる事を好まない性分なので、氏の伝記を語る資格は持っていない。氏が一度び東京帝国大学の国文科に入学し、後、美学に転じたという事情についても、私は深く尋ねる事を怠った。氏が国文学にUターンしたのは私が鹿児島を去る頃であったので、それらの点を話題にする時機を失したのである。氏もその事よりも、否応なしに軍隊生活を経験させられた回顧談の方を好まれた。 私は氏と、所謂飲みに歩いた経験は無い。私が飲む方でなかったせいもあろうが、第一には氏の趣味がその辺には無かったのであろう。それよりも氏はサロン型の談笑を好んだ。だから氏との交誼は、市中ではなく学内である。私もその一人だが、他の二三の気心の知れた同僚が加入して、清談俗談をするのが常である。氏は「今Pさんに会ったから声をかけて置きました。Q氏もその中に来るでしょう」などと言って、客をよく迎えたのである。氏は俗物を白眼視し潔癖であったと共に、気心の合う人恋しさを絶えず持っていて、その談笑の一刻をこよなく楽しんでいたのだと思う。氏の研究室は、時として、教授会の後の残念会だの祝賀会になる事もあったから、一部の人達には不穏な輩の梁山泊のように思われる事があったかも知れない。しかしそういつも肩ひじを張っていたのではなく、俗物を截るという事自体がそもそも俗界の情報を肴にして娯しんでいたのだという事もできる。 氏が金海堂で手に入れて来た洋書のポルノを拝借した事もあったし、私が鹿児島を去る時には、「濱田さん、どうです、一つ形見に例の写真を置いて行かれては」という氏の申出に応じて、氏のサロンでの芸術的研究に資するために、私は秘本の印画紙を提供した。そう言えば、私が氏の信望を得たのは、何かのきっかけで、陽物信仰に関する多少の知見を披歴したのが始まりであったらしい。氏の年来の疑惑を掃う事ができたとかで、爾来万般の雑学の交換相手となった次第である。私は京都へ転じた後数年にして、故地を再訪する機を得たが、氏は私を邀撃して、もう一人の友人H教授と共に、谷山の某処にすばらしいマランカンサー(陽神)があるからと、わざわざ一日を消費してくれたのである。 氏から美術書を借覧した事も勿論あったが、氏が最も面白い小説だから是非に読めといって借しつけたのは、大仏次郎の「ごろつき船」であった。 氏が徒然草のフアンである事を知ったのは、氏と知って多年の後であった。恐らく昭和三十七年頃ではなかったか。氏は徒然草は何度読み返しても飽く事を知らぬと言われた。私にも大よその内容ならば、国文学者の常識としての心得はあるので、相槌を打つ事はできたのだが、間もなく小野の山里の所在地についての見解を求められたり、慈遍大僧正の伝記がどうのという段になると、もう遺憾ながら専門外の私の判断を超えた話題であったのである。 氏は己れの進む道に断乎たる信念と自信を持っていた。それは徒然草の研究に進まれてから特に強くなったのだと思う。その頃、氏は「自分には今恐ろしい事は何もなくなった。」という意味の事を洩らされた−勿論鹿児島弁で。その時の氏の感慨は、特定の戦闘に対しての謂ではなく、一般論としての人生観であったのである。私は氏の年齢に於ける男性とは、皆かくの如きものであろうかと思った。そして、今当時の氏の年齢を超えてみて、そう言い切る事の出来ない自分を見出したのである。 先述の如く、鹿児島で再会した時、氏は徒然草の論文の処女作を印刷した直後であった。そして、氏は美学の教授となる事を拒否して、人生を徒然草の研究に賭けた事を宣言した。それは何ものをも恐れないという氏の阿修羅たる事の宣言であった。その際氏はこうも洩らされた。「家内も、〈私〉がついていてあげるから心置きなくやるようにと言ってくれたので」と−実際は勿論鹿児島弁なのであって、その〈私〉というところに至っては、完全に私的な奥さんのニックネームを吐いたのである−。私は氏の信念に脱帽すると同時に、氏が何物をも恐れぬ強さを持つ根底には、実に夫人の愛の力のある事を知って、羨望を禁じ得なかった。ただし、氏が敢えて美学の教授昇任を拒むのには若干委曲のある事で、意地になっている向きもあったから、私としては「まあそちらの方は、拒否宣言などをせずに、自然の成行きを受容して下さいよ」となだめざるを得なかったのである。氏はその後数年にして美学の教授を甘受したけれども、爾来氏の凡ゆる情熱は、遂に、完全に国文学の上にのみ注がれるようになったのである。 氏はその晩年に於いて−壮年であるその年を晩年と言わねばならない事が悲しい−既に両統時代の文学については専門家であり、領域外の私の手の及ばない地位に進まれた。氏は恰もそのためにのみ残されたような最後の十年の時間に、燃焼し尽して、一応所期の目的を達した。阿修羅の誓いを果したのである。その限りに於いて、氏は以て瞑すべきである。しかし、私はこう思わざるを得ない。氏にはやはりし遺した事があったのだと。それは氏の成果を、氏と私の前に置いて、氏と私と、それから二三人の友人たちを呼んで来て、共に大いに語る事であった。そして、それをするのに京都へ来た筈だったのに。そして、それを実現する正にその日だったのに。氏は京都駅に着いたまま遂に立つ事ができなかった。この先に筆をすすめようとすれば、私は到底冷静たり得る事を得ず、悲嘆と痛憤の文字を連ねるの外は無い。 その十三夜の暁に氏は遙かなる大空に去った。 阿修羅雲名残の月の大空に |
宮内三二郎略歴
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宮内三二郎論文目録
| 本書に収載した論文は、最下欄に、その篇と章を〔Uの三〕のように示した。また、発表誌については、「鹿児島大学教育学部研究紀要」を「研究紀要」と略記、「第○巻」「第○号」などの「第」を省略した。 |
| 美学と言葉 | 昭和30年3月 | 美学・二○号 | |
| 「判断力批判」における「判断」と「感情」(T・U) | 昭和33年12月 | 研究紀要・一○巻 | |
| 「判断力批判」における「判断」と「感情」(V・W) | 昭和34年12月 | 研究紀要・一一巻 | |
| 「判断力批判」の「形式」概念 | 昭和36年12月 | 研究紀要・一三巻 | |
| 「判断力批判」の課題 | 昭和37年12月 | 研究紀要・一四巻 | |
| 続「判断力批判」の課題 | 昭和38年12月 | 研究紀要・一五巻 | |
| カントの美の思想について | 昭和39年3月 | 美学・五六号 | |
| 「表出と形式」 | 昭和41年7月 | 美学・六五号 | |
| フィドラーとハイデガー | 昭和43年12月 | 美学・七五号 | |
| 徒然草「序−三○段」の成立 | 昭和46年5月 | 私家版 | 〔Uの二〕 |
| 兼好法師と増鏡−増鏡の作者は兼好ではあるまいか− | 昭和46年9月 | 私家版 | 〔皿の一〕 |
| 「増鏡」の原形態−二十巻本が原形に近い− | 昭和46年10月 | 私家版 | 〔皿の二〕 |
| 増鏡と西園寺家−増鏡は西園寺家々門史でもある− | 昭和47年1月 | 国語国文薩摩路・一六号 | 〔皿の三〕 |
| 「徒然草」の作品形態 | 昭和47年6月 | 美学・八九号 | 〔Uの一〕 |
| 兼好と名子−「徒然草」と「竹むきが記」− | 昭和47年12月 | 私家版 | 〔Uの七〕 |
| 徒然草の執筆年代について | 昭和48年2月 | 国語と国文学・五○巻二号 | 〔Uの四〕 |
| 徒然草の執筆年代について(T・U) | 昭和48年3月 | 研究紀要・二四巻 | 〔Uの三〕 |
| 徒然草「常縁本」の章段配列 | 昭和48年3月 | 研究紀要・二四巻 | 〔Uの六〕 |
| 徒然草諸段執筆年時考証 | 昭和48年5月 | 中世文学・一八号 | 〔Uの五〕 |
| 徒然草と増鏡 | 昭和48年11月 | 文学・四一巻二号 | 〔Vの四〕 |
| 「増鏡」の成立年代 | 昭和49年3月 | 研究紀要・二五巻 | 〔Vの六〕 |
| 「増鏡」と「思ひのまゝの日記」 | 昭和49年3月 | 研究紀要・二五巻 | 〔Vの五〕 |
| 増鏡の成立 | 昭和49年9月 | 国語と国文学・五一巻九号 | 〔Vの七〕 |
| 徒然草の鑑賞(第二三七段〜第二四三段) | 昭和49年10月 | 徒然草講座・三巻(有精堂刊) | |
| 「とはずがたり」年立の再編成−「とはずがたり」異説その一− | 昭和50年3月 | 研究紀要・二六巻 | 〔Tの一〕 |
| 「とはずがたり」の作者と遊義門院−「とはずがたり」異説− | 昭和50年5月 | 文学・四三巻五号 | 〔Tの二〕 |
| 「とはずがたり」の作者と「有明の月」−「とはずがたり」異説− | 昭和51年3月 | 国語と国文学・五三巻三号 | 〔Tの三〕 |
| 続「とはずがたり」の作者と遊義門院−「とはずがたり」異説その二− | 昭和51年3月 | 研究紀要・二七巻 | 〔Tの四〕 |
あとがき 宮内三二郎氏が中世文学会に出席の途上で発病し、京都の病院で不帰の客となられてから、一年半余りにもなる。こうして氏の論文集のあとがきをしたためながら、追慕の念しきりに起こるを禁じえない。 美学研究者であった宮内三二郎氏が、中世文学研究者として人々に知られるようになったのは、昭和四十六年の後半であった。「徒然草(序−三○段)の成立」「兼好法師と増鏡」「『増鏡』の原形態」という三冊の論考を、たてつづけに著し、私家版として世に問われたのである。しかも、その内容は、通説に対する痛烈な批判や数々の新見に満ちており、人々を驚かすに足るものであった。その後、四十七年から四十九年にかけて、徒然草・増鏡に関する論文十余篇を発表し、五十年からは(没後に刊行されたものも含めて)、とはずがたりに関する四篇の、いずれも新見に富む精緻な論考を、発表された。わずか五年ほどの間に、これほど多く、これほど問題をはらんだ論文を、つぎつぎに発表されたことは、驚異というよりほかはない。 熱っぽく、しかも楽しそうに、目下究明中の問題を語っておられた宮内氏からは、病気のことなど全く想像もできなかった。京都へ出発される直前まで執筆をつづけ、絶筆となった「続『とはずがたり』の作者と避義門院」の「結び」は、学会から帰ってからまとめられる予定であったのだから、氏自身も病気のことなど思いも及ばなかったのであろう。しかし、病魔はひそかに氏の身体を虫ばんでいた。その病いは坐って仕事を続ける人に多いと聞く。この書に収められた諸論文は、まさに骨身を削ってまとめられたものであった、と言っても過言ではなかろう。 「宮内氏の論考は多くの問題を含んでおり、一冊にまとめておく必要があると思うが、地元にその意向はないか」−福田秀一氏と島津忠夫氏の、そういうお気持が伝えられたのは、五十一年一月はじめのことであった。宮内氏の告別式での御遺族の挨拶のなかに、できれば故人の遺稿をまとめて本にしたいとのお言葉があり、その折には全面的に御協力申し上げたいと思っていた地元の私ども(田中道雄氏や私)にとって、このお申し出は大変にありがたく嬉しいものであった。早速、富貴子未亡人にお伝えし、御意向をうかがったところ、御遺族としても故人の論文を整理するにもどこからどう手をつければよいか迷っておられたとのことで、この申し出を非常に喜ばれ、すべてをお任せするのでよろしくと、御承諾をえた。 こうして、一月下旬から、福田秀一氏を中心として、島津忠夫氏、それに地元鹿児島から田中道雄氏と伊牟田とが加わり、出版についての検討がはじまった。二月はじめには、福田氏の御尽力によって出版を明治書院が引き受けてくださることになり、同書院企画編集部の川見氏の参加をも得て、いよいよ具体的な編集にはいったのである。論文リストの作成、その取捨・配列、宮内氏自身の補訂や書入などの処置、解説や書名のことなどについて、手紙連絡によって、あるいは学会等の機会をとらえての会合によって、意見をかわしながら次第に内容を固めていった。 一方、富貴子未亡人にお願いして、宮内氏自身の補訂・書入の類や未発表論文の有無などを調査していただくことになった。多くの蔵書や遺品を整理して必要と思われるものを取り出すのは、大変な難事であったらしい。相当量の抜刷・ノート・草稿・清書原稿などをお届けくださったのは、四月はじめであった。その一つ一つを拝見しながら、抜刷に書き込まれた補訂・推敲・書入などの多さに、私どもは驚嘆したのであった。研究に情熱を傾け、徹底的に追及し、常に進展してやまない、そんな宮内氏の研究態度が、ひしひしと感じられたからである。 早速その一部をコピーして福田・島津両氏に報告し、さらに五月中ごろには機会を得て東京で会合して、これらの補訂・書入などは補注として盛リ込み、宮内氏の研発進展のあとを見ることができるようにすること、その礎稿は田中氏と伊牟田が作成し、福田氏と島津氏が統一し定稿とすることにした。また、草稿や清書原稿などについても、その内容を仔細に検討し、補注に入れるもの、本文として取り上げるものなど、次第に明確化していった。 こうして、本文や補注の整埋・定稿化を進め、八月には書名や論文の配列を最終的にきめ、各論文についての解説を福田・島津の両氏に、序文を木之下正雄氏(鹿児島大学名誉教授)に、宮内氏の思い出を濱田啓介氏(元鹿児島大学助教授、現在は京都大学助教授)に、それぞれお願いするという当初からの案を確認決定し、刊行までの経緯を地元側で担当執筆することになった。 彗星のように出現し、燃えた、中世文学研究者としての宮内三二郎氏の業績は、いま一冊の本に結実する。ここにいたるまでをふりかえり、あらためて、多くの方々の理解と尽力の大きさを感じないわけにはゆかない。 宮内氏の長年の知己であり、その中世文学研究に理解と励ましを惜しまれなかった木之下正雄氏と濱田啓介氏には、序文と思い出をお寄せいただき、宮内氏の人柄と研究とを浮き彫りにしていただくことができた。あつく御礼申し上げる。 福田秀一氏と島津忠夫氏には、本書の企画・編集・出版のすべてにわたって、多大の尽力をたまわり、さらに解説によって宮内氏の研究の位置づけを明確にしていただいた。このお二人なくしては、本書は成らなかったであろう。地元の私どもとしては、感謝の言葉も知らないほどである。 また、困難な出版をお引き受けくださった明治書院、この書の編集・出版のことに終始たずさわってくださった川見邦夫氏、校正に協力してくださった鹿児島大学の田尻英三氏、面倒な組版に御苦労をおかけした大文堂印刷の方々に対して、深甚なる謝意を表する。 昭和五十二年六月十日
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