更新14.3/20 up12.4/23

☆森茂暁氏の略歴はこちら。
| 森茂暁氏の見解 |
私の考え方 |
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後醍醐の誕生 後醍醐天皇(口絵・図4参照)の諱(いみな)を尊治(たかはる)という。尊治の生まれは、正応元年(一二八八)一一月二日である(「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」『群書類従』第五輯所収)。二度目の蒙古襲来、いわゆる弘安の役が弘安四年(一二八一)であるから、尊治の誕生はこれよりわずか七年後にあたる。そのころ、社会一般には「日本これ危うし」(藤原兼仲の日記『勘仲記』弘安二年七月二五日条)という表現で象徴される外敵襲来の恐怖感がいまだ冷めやらぬ状況にあったことは想像に難くない。 |
『帝王後醍醐−「中世」の光と影』)を批判的に検討するに際して、かなり述べているので、以下は比較的簡単な補足にとどめたい。 |
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| 直接的にはそのような社会不安が高じているなかで、そして間接的には前述したような公家社会の構造的変革が漸次進行してゆくなかで、やがて南北朝動乱の時代の幕開け役を果たしたといって過言ではない後醍醐がこの世に生をうけたということをまず念頭に置く必要があろう。尊治の幼年・青年時代がそのような時期であったことは、彼の人間形成に大きな影響を与えたに相違ない。換言すれば、このような時代の要請が後醍醐という人間を生み、彼に歴史的役割を与えたのである。 尊治の父は後宇多院、母は談天門院藤原(五辻〈いつつじ〉)忠子(ちゅうし)である。後宇多の父は亀山院、蒙古襲来の時、公家社会での政権担当者であった。一方、忠子の父は五辻忠継である。五辻家は、藤原氏北家花山院(かざんいん)流の庶家。 |
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| 後醍醐はこうした激動の中世社会のなかでごくふつうに誕生したわけだが、時代の荒波はやがて彼を予想外の歴史の表舞台に押し上げてしまう。以下に述べるように、後醍醐は始めから天皇の地位を約束されたわけでは決してなかったし、偶然手にした天皇の地位にも一代限りの天皇、「一代の主(ぬし)」という厳しい制約が付けられていた。しかし後醍醐はそういう制約を打破、鎌倉幕府を倒して建武政権を樹立し、さらには足利尊氏と対立して南北朝動乱の時代の幕開け役を果たすのである。ここにいたる過程において、むろん歴史的な偶然もあったろう。しかし、後醍醐の強靭な政治的意思も正当に評価したうえで、彼の役割を歴史のうえに位置付けなければならない。 以下、後醍醐の性格に大きな影響を与えたと思われる幼年・青年時代を中心にして(おおよそ延慶元年〈一三〇八〉九月の立太子ころまで。立太子当時二一歳)、後醍醐の家族的環境を調べてゆくことにしよう。 |
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父後宇多院のこと 人間の性格形成にとって父母の影響が大きいことはいうまでもない。尊治(後醍醐)の人間形成を見てゆくにあたってまず父後宇多院のプロフィールを簡単に述べておこう(図5参照)。後宇多院はうたがいなく鎌倉時代の牽引役を果たした人物の一人で、歴代天皇・上皇のなかでもまれにみる辣腕の政治家であった。後宇多の生まれは、文永四年(一二六七)一二月一日、諱を世仁(よひと)という。もちろん父は後嵯峨院の次子亀山院、母は洞院実雄(西園寺実氏の弟)の女(むすめ)京極院佶子(きっし)。 |
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| まず『増鏡』第八「あすか川」には、後宇多の幼時をしるすくだりがある。「今上(亀山)の若宮」世仁の御五十日(いか)の祝いは、文永五年正月二○日、「本院(後嵯峨)のおはします富小路殿にて」「いみじう清らをつく」して行われた。 他方、亀山院の兄後深草院の第一皇子煕仁(のちの伏見天皇。世仁より二歳年上)は、当初重んじられていなかった。その理由について、『増鏡』第七「北野の雪」は「(煕仁は)大方も又うけばりやむごとなき方にはあらねば」とするが、井上宗雄氏の現代語訳によれば「だいたい、だれはばかることのない尊い方というわけではないから」という意である。それは煕仁の母※子(いんし)(洞院実雄の女。玄輝門院)が皇后でも中宮でもなかったことによるとされる。 |
※りっしんべんに「音」。 |
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| このようにみると、世仁親王は誕生の当初より祖父の後嵯峨院によってすこぶるかわいがられたものと思われる。「あすか川」は「今上(亀山)の若宮(世仁。後宇多)、(文永五年)六月廿六日(廿五カ)親王宣旨ありて、おなじき八月廿五日、坊にゐ給ぬ」と述べ、世仁が生後わずか半年余で立親王、一○ヶ月足らずで立太子したことを伝えている。このスピードは、平清盛の孫安徳天皇の例に準ずる。「あすか川」はさらに「かく花やかなるにつけても、入道殿(西園寺実氏)はめざましく(気にくわないこと)思さる」と述べているが、洞院実雄に対抗意識をもつ西園寺実氏のこころの内を的確に伝えている。後嵯峨院は同じ血を分けた皇子とはいえ、どちらかというと亀山院をかわいがっていたものと思われる(図6参照)。 |
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北畠親房の著作『神皇正統記』(延元四年〈一三三九〉執筆、興国四年〈一三四三〉修訂)が「後宇多ノ御門(みかど)コソユゝシキ稽古ノ君(学問熱心の意)ニマシマシゝ」と賛辞を呈する後宇多院の評伝は、花園院の日記『花園天皇宸記』元亨四年(一三二四)六月二五日条に詳しい。後宇多院はこの日、五八歳の生涯を閉じたのである。鎌倉後期の政治史においてこの上皇・法皇が果たした役割は非常に大きい。後醍醐天皇の父親は、他ならぬこの後宇多院なのである。花園院の日記のこの日の条は、後宇多院について次のように述べている。長文にわたるが、主要な個所を中心にあげてみよう。
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☆女へんに「令」 |
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| この評伝を記した花園院は後宇多院とは別の皇統に属するけれども、評伝の内容はすこぶる客観的でしかも正確であり、これによって後宇多院の生涯のアウトラインをつかむことができる。のちに述べるように、花園院は後宇多院によって皇位を奪われた経験の持ち主であるから、後宇多院に対して特別の感情を持っていたことも考えられるが、批評の筆致は是々非々の立場にたち、冷静な判断を下している。結論的には「末代の英主」と評し、「愛惜せざるべからず」と哀悼している。 右の評伝の内容を、やや補足して意味をとると、次のようになろう。 |
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| 後宇多院(法皇)の諱は世仁。法名は金剛性。真言宗仁和寺の前大僧正禅助(中院通成〈みちなり〉の子息)より秘密灌頂(かんじょう)を受けた。母は、入道左大臣洞院実雄の娘佶子。天性聡敏で、経史に通じ、詩句と隷書が得意であった。文永一一年(一二七四)より弘安一〇年(一二八七)まで一三年間天皇の座にあった。子息後二条天皇(邦治)が在位中であった乾元から嘉元の間(一三〇二〜〇六)、後宇多院の政治は厳正に行われたが、徳治二年(一三〇七)最愛の皇后☆子(遊義門院)が三八歳で没したのを機に出家。翌延慶元年には将来を託した後二条天皇が二四歳で急死した。後二条の急死とともに後宇多の院政は停止するが、度重なる悲運にみまわれた後宇多はいよいよ世俗から離れて仏道の修行に専念、京都西郊嵯峨の大覚寺に隠棲し、いにしえの宇多天皇になぞらえて仁和寺で修行した。 |
| このような後宇多に再び政権を担当する機会がおとずれる。文保二年(一三一八)より次子後醍醐天皇が践祚するに伴い、その父後宇多に院政を開く道が開けたのである。のちに述べるように、後醍醐天皇の践祚は、他ならぬ後宇多院が自ら行った執拗な政権奪還工作の成果だったのである。こうして後宇多は再度の院政を担当するわけだがすでに法体の身、法皇の立場からの後宇多の政治は賄賂に堕したものだった。初度の院政は善政であったのに、再度のそれは賄賂政治。花園院の「惜しいかな、始めあつて終りなし」という言葉は、そのようなことを意味するであろう。この三、四年、脚気のために起居もままならず、体調不良が続き、ついに死去。宋医が「石薬」をすすめたが高熱を引き起こし、「尊躰火の如く」して没したとの説もあった。墓所は大覚寺の北東、蓮華峰寺(れんげぶじ)陵(京都市右京区北嵯峨)である(図7参照)。 |
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後宇多院の女性関係については、『増鏡』第一二「浦千鳥」に以下のくだりがある。
後宇多院の在位中は適当な女御・更衣もいなかったが、譲位(弘安一○年〈一二八七〉一○月)の後は心の赴くままに忍んで歩いたので、院の寵愛を得ようと競う女性たちが多くなった。しかし、院の遊義門院☆子への寵愛はことさら深く、彼女と肩を並べる者はいなかった。この記事はそういうことをいっている。 |
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ここにいう遊義門院☆子とは後宇多院の皇后、後探草天皇の皇女である。後宇多院と☆子との関係については、『増鏡』第一一「さしぐし」に次のようにみえる。
この記事は、☆子をみそめた後宇多院がだまして彼女を略奪したのだといっている。略奪行為を傍証する史料は他にみあたらないが、のちに述べる皇子尊治が東宮時代の正和二年(一三一三)秋、正室となる西園寺禧子(きし)(実兼の女)を略奪したという同様の事実もあるので(『花園天皇宸記』)、後宇多院が略奪によって☆子と結婚した可能性は高いと思われる。 |
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| 平安から南北朝期にいたる女院の列伝である「女院小伝(にょういんしょうでん)」(『群書類従』第五輯所収)によれば、☆子は文永七年(一二七〇)生まれで(以下で述べる忠子より二歳年下)、翌年内親王となり、弘安八年(一二八五)八月一六歳で皇后宮となる。正応四年(一二九一)八月院号宣下(遊義門院)。後宇多院のもとに入るのは永仁二年(一二九四)六月三○日のことで、当時二五歳。徳治二年(一三〇七)七月、三八歳で没。 この記事と先の『増鏡』の記事とを比較しよう。後宇多院が☆子を略奪したとすれば、それは永仁二年ころのことであろうか。☆子に対する後宇多院の愛情は深く、☆子が没すると、院は「御髪(みぐし)おろして、ひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる」(『増鏡』第一二「浦千鳥」)という状況であった。その後の後宇多院の熱心な仏道修行ぶりについても『増鏡』が続けて述べている。 のちに述べるように、後宇多院の側室談天門院忠子が同院のもとに入ったのは弘安末年と考えられ、遊義門院☆子が同院の寵愛を受けるのはそれより数年後のことと思われる。 |
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| 後宇多院の皇妃ではもう一人西華門院源基子(きし)をあげておかねばならない。後宇多院の長子邦治(くにはる)(のちの後二条天皇)の生母であるからである。「女院小伝」によると、基子は内大臣堀河具守(とももり)の女。弘安八年(一二八五)に邦治を生んだとする。基子の生まれは文永六年(一二六九)と考えられる。だとすると、基子は談天門院忠子より一歳年下となる。 これらの皇妃たちと後宇多院との関係が、当時の宮廷社会の動向に及ぼした波紋は決して小さいものではない。結果的には、尊治の母談天門院忠子はのちに述べるように、後宇多院のもとを去って、舅(しゅうと)の亀山院のもとに身を寄せるのである。 |
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| さて、肝心の尊治と父後宇多院との関係であるが、尊治の誕生から立親王(一五歳)・元服(一六歳)ころまでの間に、尊治と父後宇多院との関係を直接的に示す史料はみあたらないようである。このことは尊治と後宇多院との間に相当の距離があったことを示唆しよう。間接的ではあるが、尊治と後宇多院との関係を知るためには、後宇多院と亀山院、そして尊治の母談天門院忠子との関係を調べなければならない。ともあれ、尊治は幼年期ないしは少年期においては、父後宇多院の眼中にはおよそなかったということをまず念頭に置く必要がある。 母談天門院藤原忠子のこと 尊治の母談天門院藤原忠子についてのまとまった史料はない。一次史料としての『花園天皇宸記』でさえ忠子が没した元応元年(一三一九)一一月一五日の翌日の同一六日条に「今朝聞く、去る夜子剋(ねのこく)、談天門院(忠子)崩ずと云々」と記すにとどまり、忠子の経歴や事績については述べるところがない。ただ、訃報が使者によって「禁裏(きんり)・仙洞(せんとう)」つまり後醍醐天皇と後宇多院にもたらされたこと、花園院は弔問の使者を遣わしたこと、天下諒闇(りょうあん)(天子が父母の喪に服すること)の措置がとられ、後宇多院も喪に服したこと、量仁親王(持明院統の後伏見院の第一皇子)の着袴(ちゃっこ)の儀(初めて袴をつける儀式)が延期されたことがかきとめられ、忠子は現職天皇の生母であっただけに、当時の宮廷社会にそれなりの波紋を及ぼしてはいる。しかし花園院の日記のこの日の条の頭書(とうしょ)(日記本文の頭の余白に書かれた記事)に注目すべきである。次のように記されている。
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| 後宇多院は忠子の喪に服して籠居したのではなく、ただ近辺に御所を為しただけだというのである。後半部分は、形だけ喪に服するそぶりをして近辺にこもりのための御所を設定したという程度の意か。ようするに、心から忠子の死を悼んでいる様子ではない。徳治二年(一三〇七)七月皇后遊義門院☆子が没した時(これを機に後宇多は出家した)と比較すると大きな違いである。
この相違が二人の妃の後宇多院との個人的関係の差に起因することは明らかであろう。忠子と後宇多院との関係はうまくいっていなかった模様である。『増鏡』第一三「秋のみ山」に忠子の死去に関する記事が簡単に載せられている。 忠子関係の史料は少なくかつ断片的である。「女院小伝」に以下の記事がみえる。
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| 内容を要約すると以下のようになろう。忠子の父は参議藤原(五辻)忠継、母は皇后宮亮(すけ)平高輔(たかすけ)の女(但し異説あり)。永仁六年(一二九八)七月二一日、三一歳のとき亀山院の沙汰として従三位に叙され、正安三年(一三〇一)七月二○日に三四歳で准三宮となり、嘉元元年(一三〇三)九月に「亀山御事」にさいし出家して三六歳で尼となった。法名は蓮花智。真言宗での出家であろう。ただ「亀山御事」とは亀山院の没のことで、それは『増鏡』第一一「さしぐし」にみるように嘉元三年(一三〇五)の「九月十五日のあけぼの」であったから、忠子の落飾は嘉元三年九月、三八歳のときとしなければならない。文保二年(一三一八)四月一二日院号宣下(談天門院)。元応元年(一三一九)一一月一五日、五二歳で死去。 |
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| これによって忠子の生年を算出すると、文永五年(一二六八)となる。したがって、尊治を生んだ正応元年(一二八八)には二一歳であった。おそらく忠子は弘安の末に一八歳くらいで後宇多院の女房として入内したのであろう。北畠親房の『神皇正統記』(後醍醐)によると、忠子について「内大臣師継ノ女。実(まこと)ハ入道参議忠継ノ女ナリ。(尊治を)御祖父亀山ノ上皇ヤシナヒ申給キ」と記し、忠子が一門の嫡流花山院師継の女という形で入内した事情をうかがわせている。皇室系図として比較的信頼性が高いといわれる「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」によると、忠子は後宇多院との間に、尊治を含めて承覚(しょうかく)法親王、性円(しょうえん)法親王、奨子(しょうし)内親王(達智門院)の三男一女をもうけている。 |
| さて、先に忠子と後宇多院の間はうまくいっていなかったようだと述べたが、「女院小伝」の忠子関係の記事によると、忠子の背後には後宇多院ではなく後宇多院の父亀山の庇護を濃厚によみとることができる。忠子が従三位に叙されたのも准三宮の待遇を受けたのも、他ならぬ亀山院のあとおしがあってのことだった。亀山院の死を機に出家したのもその報恩の意思の表現である。 |
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| さらに先の『神皇正統記』の記事のなかの「(尊治を)御祖父亀山ノ上皇ヤシナヒ申給キ」を合わせて考えると、どうやら忠子・尊治母子はある時点から夫であり父である後宇多院でなく、舅であり祖父である亀山院の庇護を受けていた公算が高くなる。つまり忠子は四人の皇子皇女をもうけたのち、後宇多上皇のもとを去り、その父の亀山法皇のもとに行き寵愛をうけたのである。
亀山院の没を述べる『増鏡』第一一「さしぐし」の「院(後宇多)の二の御子(尊治)の御母(忠子)も、近比(ちかごろ)は法皇(亀山院)めしとりて、いと時めきて、准后などきこえつるも、思ひ歎き給べし」という一文は、そのことを雄弁に物語っている。 |
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嘉元三年(一三〇五)九月、亀山院が死去すると、忠子・尊治母子を庇護する有力者はいなくなった。忠子は勅撰集に和歌八首をとどめているが、そのなかの一首、『続後拾遺和歌集』(正中二年〈一三二五〉二条為定が奏覧)巻第一六雑歌の和歌は以下のようなものである。
この歌は、おそらくそういうときに詠まれたものであろう。しかし忠子は強運だった。延慶元年(一三〇八)八月、突如後二条天皇(後宇多院第一皇子)が死去した。これによって、忠子所生の皇子尊治に出番がめぐってきたのである。尊治はたとえ便宜的な措置であろうと、後宇多院によって大覚寺統の中心に据えられ、それに見合う地位と待遇を獲得した。早くも同年九月に立太子。一○年後の文保二年(一三一八)二月には践祚するのである。忠子が「談天門院」の院号を受けるのは文保二年四月、尊治が践祚して二ヶ月後のことであった。 |
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