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村井章介 「執権政治の変質」(前半)
(『日本史研究』第261号.1984年)






※村井章介氏の略歴はこちら



村井章介氏の見解

私の立場からの補足

 鎌倉幕府政治のあゆんだ道程を、将軍独裁制→執権制→得宗専制の三段階としてとらえるみかたは、すでに定説といってよい。そしてまた、第二期と第三期を弘安八年(一二八五)の霜月騒動でくぎることも、常識的な理解になっている。たとえば網野善彦氏は、

泰盛の死、霜月騒動をもって、得宗専制時代の開始と断じられた佐藤氏の指摘は、この意味で深い含蓄のある指摘といわなくてはならぬ。これをいまは、霜月騒動によってしか得宗専制の時代はひらきえなかった、といいかえておきたい。(1)





網野善彦氏の略歴はこちら



安達泰盛(1231〜1285.55歳)の略歴はこちら。より詳しくははこちら(多賀宗隼氏「秋田城介安達泰盛」)。
と述べ、また石井進氏も、

この合戦以後、幕府政治はかつての御家人武士の代表者多数を加えての合議制を特色とする執権政治の段階に終止符をうち、北条氏嫡流たる得宗が御内人を任用しつゝ行なう得宗専制政治の段階に移行したと考えられる。このような霜月騒動の意義づけは、……佐藤進一氏の『鎌倉幕府訴訟制度の研究』(目黒書店、一九四六年)によって与えられたものであり、ほとんど不動のものといってよい。(2)

と論ずる。当代一流の中世史家が口をそろえて断言する命題に異をとなえるなど、無謀のきわみかもしれないが、私なりに研究史をふりかえると、右の説を「不動のもの」とすることにふたつの理由から賛成できない。

石井進氏の略歴はこちら






佐藤進一氏の略歴はこちら
 ひとつは、霜月騒動を得宗専制の出発点としない有力な学説が存在することである。上横手雅敬氏は、北条時頼の執政期以降の「公家政治に対する幕府の干渉は、実は得宗専制政治の一環だった」ととらえ、「霜月騒動は、得宗専制が御家人との対立をあらわした得宗専制の第二段階への突入の画期」だと主張する(3)。また安田元久氏も、時頼の時期に「専制政治への傾斜」を見、安達泰盛を「得宗専制政治の推進者」と評価する(4)。

 もうひとつは、網野・石井両氏とも佐藤進一氏の学説をよりどころとするが、佐藤説は霜月騒動画期説だとかんたんに言いきってしまえるようなものではないことである。たしかに『鎌倉幕府訴訟制度の研究』においては、佐藤氏は弘安年代に確立した引付責任制に「権利保護に於いて欠くる所なく、裁判をして正確ならしめんとする精神昂揚の発露」を見いだし(七五頁)、霜月騒動を「執権政治から得宗政治への移行」としていた(九七頁)。しかし一九五○年代の研究においてすでに、寛元宝治事件を「北条氏専制への道を開いた事件」「北条氏家督の絶対化を確立する過程での指標的な事件」とする評価(5)や「文永弘安以降の得宗専制時代」という表現(6)がみられる。さらに著書『日本の中世国家』(岩波書店、一九八三)によって、さいきんの佐藤氏の見解をみておこう。


上横手雅敬氏の略歴はこちら

北条時頼(1227〜1263.37歳)についてはこちら(阿部征寛氏「執権 北条時頼」)。

安田元久氏の略歴はこちら
評定会議が、創設時の期待通りに機能しえたのは、泰時・経時・時頼の執権期までくらいであって、評定会議及び評定衆の制度的権威は次第に低落の一途をたどっていた。……すでに時頼の執権在任当時、彼の私邸での秘密会議で幕政が談ぜられており、……やがてそれは「寄合(よりあい)」とよばれる合議体として制度化する(一四二〜四三頁)。

北条時宗執権期(連署の時期を合めて一二六四〜一二八四)より、幕府政治が急速に執権北条氏の専制へと転ずる……(一三三頁)。

得宗時宗の外舅の身で、将軍権力の恐らく最後の代弁者として、得宗の専制を抑える役割を一身に担った安達泰盛が、……滅び去ったあと、幕府政治は間ちがいなく大きく曲がり角をまがった(一五五頁)。


北条泰時(1183〜1242.60歳.第3代執権)
北条経時(1224〜46.23歳.第4代執権)





北条時宗(1251〜84.34歳.第8代執権)
 以上のように佐藤説は、寛元以降に得宗専制の出発をもとめ、霜月騒動を専制の確立(7)とみる考えかたであって、霜月騒動以前を執権制、以後を得宗専制とするような単純なものではない。泰盛の政治的立場についても“将軍権力の最後の代弁者”と評価するにとどまり、「執権政治体制の最後の護持者」と規定したり(8)、かれの首導した弘安の改革に執権政治の完成をみたり(9)する説とはことなる。

 むろんだいじなのは、佐藤氏の論述のはしばしを自説の典拠としてひけらかすことではなく、幕府の最高権力が「執権という幕府の公職から離れて北条氏の家督個人の手中に移」った段階を得宗専制と規定する、という佐藤氏のテーゼ(10)をただしくうけつぐことである。「季長に破格の待遇と恩賞を与えた剛腹な、気骨を愛する泰盛の風貌」とか、「貧道御家人、無縁の人々に対する配慮」とかいう、泰盛の人格への熱い共感から、かれを執権政治の権化にまつりあげる(11)のでなく、“幕府の最高権力の所在”という観点から、寛元・宝治事件以降の改治過程を冷静に分析すること、これを本稿の課題としたい。

(1)「『関東公方御教書』について」(『信濃』24の1、一九七二)一〇頁。
(2)「霜月騒動おぼえがき」(『神奈川県史だより』4、一九七三)一頁。
(3)「鎌倉幕府と公家政権」(岩波講座『日本歴史』5、一九七五)七二〜七五頁。
(4)『鎌倉執権政治』(教育社歴史新書56、一九七九)第六章・第七章。
(5)新日本史大系3『中世社会』(朝倉書店、一九五四)四〇頁。
(6)「鎌倉幕府政治の専制化について」(竹内理三編『日本封建制成立の研究』所収、一九五五)一一〇頁。
(7)注(5)書、四三頁に「この事件が泰盛一党の敗北に終ったことは、得宗専制がここに確立したことを示すものである。」
(8)石井進「『竹崎季長絵詞』の成立」(『日本歴史』273、一九七一)三一頁。
(9)網野善彦『蒙古襲来』(小学館、一九七四)二三七頁。
(10)注(6)論文、九九頁。
(11)注(1)論文、九頁。小稿「蒙古襲来と鎮西探題の成立」(『史学雑誌』87の4、一九七八)において、御家人保護の姿勢はなにも執権政治にのみ固有のものではなく、得宗専制下にもみられることを指摘した(三四頁)。






「季長」とは鎌倉時代後期の代表的な絵巻物である『蒙古襲来絵詞』を作らせた竹崎季長(1246〜?)のこと。



  1 ◆飯沙汰人

 それでは、幕府の実体的な最高権力がどこにあるかを、どうやって判断したらよいのだろうか。文書の様式などに表現される制度上の最高権力が実体をあらわすものでないことは、幕府中期以降の将軍をみれば明らかである。そこで注目されるのが、上横手氏によって、「幕府の諸将たちのランク付け」において「官位の高さ、幕府諸機関での地位、従来からの功績、領主としての規模等々……の諸要素に分解しきれない総合的評価」をあらわすものとされた、◆飯の儀式である(1)。

◆土へんに「完」

 ◆飯(わうばん)とはもともと椀(=◆)に盛った飯のことで、公家では諸行事のさいに殿上人以下に支給した食膳をさしたが、鎌倉幕府において重臣が将軍を饗応する儀式として発展し、もっとも重要な年中行事として正月の三が日に行なわれるようになった(2)。一例として寛喜元年(一二二九)正月一日の記事を『吾妻鏡』から引いてみる。

◆飯、相州(時房)御沙汰、御剣駿河守(重時)布衣、御弓箭大炊助(有時)、御行騰沓佐原三郎左衛門尉(家連)
一御馬 置鞍 陸奥四郎政村 同五郎(実泰)
二御馬 相模四郎(朝直) 同五郎(時直)
三御馬 佐原四郎(光連) 同十郎(頼連)
四御馬 吉良次郎      同三郎
五御馬 肥田三郎兵衛尉 同八郎(宗直)

 まずその日の「沙汰人」から食膳が献じられ、つぎに剣、箭、行騰(むかばき)と沓(くつ)が引出物としてそれぞれの「役人」から献上され(3)、つぎに五疋の馬が上覧に供されて一日の儀をおえる。二日、三日にもまったく同様のことが人を替えてくりかえされる。


行騰(むかばき)「(向脛むかはぎにはく意)鹿・熊・虎などの毛皮で作り、腰から脚にかけておおいとしたもの。奈良時代には短甲に付属し、平安初期には鷹飼が用い、平安末期から武士が狩猟・遠行に当って騎馬の際着用した。」(『広辞苑』)

『時範記(ときのりき)』は右大弁を極官とした桓武平氏平時範(1054〜1109.56歳)の日記。






源頼朝(1147〜99.53歳)
 さて『時範記』や『奥州後三年記』によると、十一世紀末ころ、新任の国司は在庁から三夜連続して饗応を受け、多量の引出物を贈られるのが習いだった。これは「三日厨(みっかくりや)」と称され、寺家の使者や預所の代官が現地に下向したさいにもみられる広範な慣行であり、「政治的に上位にある者が政治的に下位に位置づけられている在地に赴いたとき、その途次および目的地において提供されるもの」と定式化される(4)。◆飯もこの慣行に系譜をひくことは明らかで(5)、◆飯が元三の三日間行なわれることと「三日廚」とは内的な連関があるだろう。また二木謙一氏は、頼朝に◆飯を献じたものが三浦・上総・千葉・小山など有力豪族だったことに注目して、かれらが在庁として新任国司に進めてきた◆飯を、頼朝との主従関係を緊密にする意図をこめて献じたのが幕府◆飯のおこりだとする(6)。頼朝はいわば国司に優越する権限を身に帯して東国に赴いてきた上位者であり(7)、それを迎える東国豪族とのあいだに成立した◆飯は、東国政権としての幕府の独自性をもっともよく表現する儀礼として異常な発達をとげるのである(8)。

 つぎに式次第で注目されるのは、食膳献上のさい、「三献めの御盃ハ、其日申沙汰の人御給」(9)という儀のあったことである。これは将軍−沙汰人のあいだに献物−下(おろ)しという「互酬的な贈与の食物連鎖」(10)の存在したことを示し、ほんらい◆飯とは共同飲食によって主従関係をフィジカルに再確認する意味をになう儀式だったことが窺われる。また◆飯が、年の始めの恒例として以外に、頼朝の新造邸宅移徒の後(鏡治承4/12/20)、新造公文所吉書始(鏡元暦元10/6)、将軍の代始(鏡建仁3/10/9=実朝、同建長4.//1〜3=宗尊、注(8)=久明)−など、ものごとをあらたに始めるにさいして行なわれているのは、節目節目ごとに主従関係にあらたな活力をふきこむ復活・更新の儀式と観念されていたからであろう(11)。将軍−御家人間の主従関係を権力編成の根本原理とする鎌倉幕府において、◆飯がもっとも重要な行事として位置づけられたのは、きわめて自然なことであった。










源実朝(1192〜1219.28歳.第3代将軍)
宗尊親王(1242〜74.33歳.第6代将軍)は後嵯峨院の子、後深草院の1歳上の異母兄。詳しくはこちら(三山進氏「第六代 宗尊親王)。また、久明親王(1276〜1328.53歳.第8代将軍.後深草院皇子)についてはこちら(福田豊彦氏「第八代 久明親王」)。
 右の検討によって、◆飯儀式の参加者、ことにその主宰者たる沙汰人の役目が幕府内の実体的な地位に対応すること、具体的にいえば正月一日−三日の沙汰人が地位ランキングー位−三位に近似することが推察される。そこで『吾妻鏡』の歳首◆飯の記事にみえる沙汰人のすべてを〔表1〕にかかげた(12)。◆飯沙汰人が幕府内諸勢力の変遷を忠実にトレースしていることは、本表を通覧するだけで明らかになる。

〔表1〕はこちら
 たとえば頼朝の死後最初の◆飯である正治二年〔1200〕をみよう。絶対的な独裁者の死がひきおこした動揺を反映して、十一名もの人間があらわれており、さらに新将軍頼家の外祖父時政が首位を占めている。頼朝時代にあらわれるのは千葉・足利・三浦・小山・宇都宮といった東国の豪族領主層で、時政の姿は見えない。これは外祖父の地位の重さを明示する事実であって、北条氏の抬頭が、「将軍の外戚たる地位を殆ど唯一のより所として」、頼朝の死後表面化した「将軍独裁制支持者と東国御家人との反目抗争」の「調停者」となることによって、はじめて実現しえた、という評価(13)のただしさをうらづけている。北条氏がはじめて二名あいならぶ建保元年〔1213〕、第四位ながら和田義盛の名がみえるが、和田合戦の勃発はこの年の五月である。おなじ年首位を占めた大江広元の、この前後における地位の高さも明瞭である。承久の乱後の貞応元年〔1222〕、五名があらわれるのは執権権カの動揺を示し、また足利氏の復活が注目される。これ以降あらわれる外様が三浦・足利両氏にかぎられる(14)ことは記憶にとどめておきたい。安貞二年〔1228〕から仁治元年〔1240〕までは首位時房、二位泰時、三位朝時でまったく変化がなく、執権政治の安定期に対応する。執権政治が合議制によって特徴づけられながらも、一面では北条氏による高位独占の体制にほかならないことがわかる。それとともに注意すべきは名越朝時の存在である。名越家は鎌倉時代を通じて一度も執権・連署・両六波羅の重職についたことがない(15)。この事実が同家の家格の低さではなく、逆に得宗家に比肩しうるほどの家格の高さによるものであることを、朝時の存在は物語る。名越家は得宗家にとって、一門中もっとも危険な存在だった。両家のあつれきは、泰時の死んだ仁治三年〔1242〕に徴候をあらわし(16)、寛元四年〔1246〕、朝時の嫡子名越光時の乱にいたって爆発する(朝時は寛元三年死去)。
源頼朝は1199年に53歳で死んでいるが、その晩年についてはこちら(上横手雅敬氏『源平の盛衰』)。
源頼家(1182〜1204.23歳)
北条時政(1138〜1215.78歳)
和田義盛(1147〜1213.67歳.通称小太郎)は三浦氏の一族。幕府創設以来の功臣であり、侍所別当という重職にあったが、1205年の北条時政失脚後は北条氏との間に疎隔を生じるようになり、建保元年(1213)、北条義時に追いつめられて挙兵し、逆に滅ぼされた。
大江広元(1148〜1225.78歳)


北条時房(1175〜1240.66歳)は時政の子、義時の弟。承久の乱後、六波羅南方として戦後処理にあたり、1224年義時が死去すると鎌倉に戻って連署となり、執権泰時を補佐した。
名越朝時(1193〜1245.53歳)は北条義時の次男、泰時の10歳下の弟。

(1)「◆飯について」(『全訳吾妻鏡月報』4、一九七七)二頁。
(2)以下の記述は、『古事類苑』礼式部一、二九八頁以下に集成された◆飯関係史料に多くを負っている。
(3)青山幹哉「鎌倉幕府将軍権力試論」『年報中世史研究』8、一九八三)七頁は、この三役人を◆飯の盛儀に将軍に密着して随従する栄誉を与えられたものとし、「将軍御所内における有力御家人」と判断する。だがかれらは「引出物」「進物」を将軍に献上する「役人」以上のものではなく(『吾妻鏡』建保元年〔1213〕正月一日〜四日条、以下「鏡建保元正1〜4」のように略記)、特別に将軍親衛の役目を負っているようなようすは窺えない。
(4)早川庄八「『供給』をタテマツリモノとよむこと」(『月刊百科』210、一九八〇)九頁。
(5)『庭訓往来』三月状往は、荘園の政所に下る荘官にあてた書状であるが、文中に「◆飯無相違者、早課沙汰人等、地下目録・取帳以下、文書済例、納法注文、悉可被召進也」とある。
(6)「儀礼にみる室町幕府の性格」(『国史学』87、一九七二)四頁。
(7)佐藤前掲『日本の中世国家』、七七頁。
(8)『増鏡』第十一さしぐしに、正応二年〔1289〕十月久明親王が新将軍として鎌倉に着いたときのようすを、「三日が程は、わうばむといふ事、又むま御らん、なにくれといかめしきことゞも、かまくらうちのけいめい(経営)也、……せきのひんがしを宮こ(都)のほかとて、をとしむべくもあらざりけり」と描いている。
(9)「宗五大草紙」(『群書類従』第二十二輯、五三九頁)。大永八年〔1528〕、伊勢貞頼著。この「御盃頂戴」の儀は、『花営三代記』応永三十一年〔1424〕正月七日条、同三十二年〔1425〕正月一日条にも見えるが、鎌倉期には史料上確認できない。
(10)保立道久「庄園制的身分配置と社会史研究の課題」(『歴史評論』380、一九八一)一五頁。
(11)柳田国男「親の膳」によると、親の膳とは正月・盆など改まった期日に食膳を親元へ持って行くことであり、生みの親だけでなく本家・養親などオヤと名のつく人にはみな献じねばならぬ義理であった。そしてひとつ鍋を共にしたという現実を形に示さなければ、聟が新嫁の父や母と親子になりきることはできなかった、という(『定本柳田国男集』第十四巻、四三八〜四〇頁)。また注(10)論文にも、「摂関家大饗における芋粥の下物の飲食儀礼は、年頭にあたり、主人の下物を預いて主従の関係を新たにする象徴的意味−さらに、……主人による従者の身体の賦活の意味までをも有していたのではないだろうか」とある(一五〜一六頁)。
(12)八幡義信「鎌倉幕府◆飯献儀の史的意義」(『政治経済史学』85、一九七三)に同様の表がかかげられており、以下に述べる事実の一部も指摘されている。
(13)佐藤前掲『鎌倉幕府政治の専制化について』、九七頁。
(14)ただし建長四年〔1252〕四月の宗尊親王代始の◆飯の第二位に安達義景がみえる(鏡建長4//2)。
(15)上横手雅敬『日本中世政治史研究』(塙書房、一九七〇)三八七頁。
(16)泰時の死ぬ直前に朝時が出家したことを、平経高は「雖兄弟日来疎遠、而忽有此事、子細尤不審、世以驚」と記している(『平戸記』仁治三年〔1242〕五月十七日条)。石井進『鎌倉幕府』(中央公論社、一九六五)四一四頁、金沢正大「仁治三年順徳院崩御と六月関東政変」(『政治経済史学』89〜94、一九七三)Tの二一頁参照。

久明親王(1276〜1328.53歳)が正応2年に鎌倉に入った時の様子は『とはずがたり』に詳細に描かれており、『増鏡』の記述は『とはずがたり』を「引用」していることが明らかである。『とはずがたり』の当該部分はこちら。『増鏡』のそれに対応する場面はこちら






柳田国男(1875〜1962.88歳)



















安達義景(1210〜53.44歳)の略歴はこちら。安達氏についてはこちら(安田元久氏「安達一族」)。



  2 寛元・宝治・建長の政変

 一方では引付の設置を指標として執権政治期の頂点をなすといわれる時頼の時代は、他方得宗家による権力の極端な独占、さらにはその帰結としての幕府滅亡にいたる、鎌倉後期の政治過程の基本的な構図ができあがった時代でもあった。この構図は時頼政権誕生の波乱にみちた過程のなかにはやくも顔をのぞかせている。

 寛元四年(一二四六)三月、兄経時の夭折および経時の二人の男子の幼少(鏡寛元4//23)(1)という、多分に偶然的な要因にたすけられて、執権という権力の座についた時頼が、困難な道をあゆみはじめたとき、かれのまえには克服すべきいくつかの勢力があった。まず前述の名越光時とその一党。つぎに三浦氏・足利氏など外様の有力御家人層。これら反時頼の勢力は、嘉禄元年(一二三五)発足した評定衆のなかにも広く根をはっていた。寛元四年(一二四六)初頭の評定衆全二十一名中、反時頼と目される人は、〔表2〕のように八名を占めている。その頭目的な存在が、発足以来の評定衆の中心メンバー義村を父にもち、名族三浦氏をひきいる泰村だったと思われる。発足当初は北条一門が一人もいなかった評定衆に、この時点で上位三名を北条氏が占めていることは、これへの対抗策にほかなるまい。とりわけ延応元年(一二三九)政村(泰時の弟)・朝直(時房の子)を、姻族安達義景(経時・時頼の母の兄弟)とともに送りこみ、席次の上位を占めさせたことは重要である(2)。逆に頼経が将軍職を追われた寛元二年(一二四四)、のち宝治合戦の中核となる三浦光村・千葉秀胤の二人を送りこんだ(3)のは反対派の巻きかえしであった。十一名で出発した評定衆が寛元四年初頭には二十一名にまで増加しているのは、こうした両派の対立を反映したものであろう。



北条時頼(1227〜63.37歳.第5代執権)






北条経時(1224〜46.23歳.第4代執権)








〔表2〕はこちら

三浦義村(?〜1239)
三浦泰村(1204〜47.44歳)


北条政村(1205〜73.69歳.第7代執権)
北条朝直(大仏.1206〜64.59歳)
経時・時頼の母は『徒然草』第184段に登場する松下禅尼。
九条頼経(1218〜56.39歳.第4代将軍)についてはこちら(田中稔氏「第四代 藤原頼経」)。

 以上のように、時頼のまえに立ちはだかったのは、一門の名越光時と外様の三浦泰村を中核とし、後藤・千葉等の有力御家人層と大江・三善等の有力吏僚層(4)をふくむ容易ならぬ勢力であった。かれらのよりどころにしたものこそ、二十年近くも将軍の座にあって幕府内に隠然たる勢力をつちかって来、寛元二年経時によって将軍職を追われながらも、現将軍頼嗣の父として「大殿」とよばれ、鎌倉に居すわりつづけた藤原頼経その人であった。だがこれが統一された反対派を形成していたとは思われない。千葉秀胤のようにふたつの政変の両方に関係したものもいるが、光時の乱に連座した評定衆のうち、秀胤以外の三名はみなのちに復活しており(5)、宝治合戦で三浦方にくみしなかったことが明らかである。時頼はこの間隙に活路を見いだした。

北条光時(生没年不詳)「鎌倉時代の武将。朝時の嫡子。越後守となる。将軍頼経に親幸せられた。寛元二年(1244)四月二十八日、頼経は将軍職を頼嗣に譲り、ついで同四年三月二十三日、執権経時は病のため職を弟時頼に譲った。このことを光時は喜ばず、大殿頼経を担いで新執権時頼を除き、みずから執権になろうと陰謀を企てた。時頼は前但馬守藤原定員とその子息定範を禁固して光時を詰問した。陰謀の張本である名越一流の時章・時長・時兼らは、野心のないことを誓い処罰を免れた。一方光時は落髪して謝罪し、法名蓮智と称した。また、この計画に参画した光時の弟時幸もこの日に出家して六月一日自害した。このように時頼は機先を制して光時一族を退けると同時に、彼の同調者である評定衆後藤基綱・藤原為佐・千葉秀胤・三善康時らを罷免した。そして六月十三日、光時は越後国務以下所帯の職を収公され、伊豆に流された。」(『鎌倉・室町人名事典』豊永聡美氏)

金沢実時(1224〜1276.53歳)についてはこちら(関靖氏『金沢文庫の研究』)。
 外戚安達氏や諏訪・尾藤・渋谷などの御内人にささえられて、時頼はまず光時一派の陰謀を退けた。光時は出家のうえ伊豆国江馬へ配流され、弟時幸は自殺、ここに名越家の勢力は大きく殺がれ、これ以後〔表1〕から完全に消えてしまう。そして、時頼亭に政村・金沢実時・安達義景が「内々」に集まり、そこに諏訪・尾藤ら有力な御内人が「参侯」する「深秘沙汰」・「寄合」のあらわれるのが、この政変のさなかであった(鏡寛元4//23、同5/26、同6/10)ことは偶然でない(6)。六月十日の「寄合」に反対派の巨頭三浦泰村が「内々無御隔心之上、可被仰意見之故」という理由であらたにくわえられた(鏡同6/10)のは、反対派の勢力分断・各個撃破の戦略にもとづくものである。この戦略はさらに、宝治合戦の過程での、泰村と弟たちとの微妙な意見の対立(鏡宝治元6/2〜5)という、一石二鳥の効果をも生んだのであった。

 こうして頼経をささえる勢力の一方が没落した結果、時頼は懸案であった頼経の京都送還をただちに実行する。しかし頼経に供奉した三浦光村(泰村の弟)が、「思廿余年昵懇御余波」い「落涙千行」、人々に「相構今一度欲奉入鎌倉中」と語ったという有名な話(鏡寛元4//12)は、光村を急先鋒とする頼経派の広範な残存を物語っている。頼経帰京直後の九月一日、時頼が泰村を招いて「短智一身扶軍営之政、頗不自専怖畏(7)、招下六波羅相州(重時)、欲令談合万事」と相談したところ、泰村は同意せず沙汰やみになったという(鏡同9/1)。重時を連署に迎えて体制をかためようとする時頼と、それに反撥する三浦氏との対立は、一年を経ずして破局を迎える。

『吾妻鏡』に記されている光村(1205〜47.43歳)と頼経の京都における別れの場面の状況は次の通りである。
今月(1246年8月)一日、供奉人ら進発す。しかるに、能登前司(三浦)光村、御簾の砌に残留し、数刻退出せず。落涙千行。これ二十余年の昵懇の御余波を思うが故か。その後、光村、人々と談じて、「相構えて、今一度、鎌倉中に入れ奉らんと欲す」と。
 極めて物騒な会話であるが、この一部始終は、供奉人の一人北条時定(佐介流北条時房の子)が鎌倉に戻ってから早速時頼に報告したとされている。

北条重時(1198〜1261.64歳)は義時の子。1247年当時若干21歳の時頼にとって、重時は29歳上の頼りになる大叔父であった。
 翌宝治元年(一二四七)六月に勃発した三浦氏の乱で時頼をもりたてたのもまた、安達景盛・義景父子と諏訪・万年・平などの御内人だった。合戦の結果、三浦・千葉という大勢力は没落し、六波羅から重時を連署に迎えた時頼は、ようやく権力を揺ぎないものにすることができた。評定衆においても反対派八名が粛清され、あらたに兄光時にくみしなかった名越時章をくわえて、十四名中上位四名を北条一門でかためた(8)。翌々建長元年(一二四九)末に引付が設置され、その頭人を政村・朝直・資時の評定衆上位三名が兼任したことは周知のとおりである(9)。

 建長四年〔1252〕春、将軍頼嗣の実家九条家のからむ陰謀にことよせて、将軍を後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王にとりかえた事件は時頼の権力確立の仕上げと評価される。だがここに従来見のがされている事件として、建長三年〔1251〕暮における足利泰氏の出家、所領没収がある(10)。またこの建長三年が、時宗のうまれた年であることもあんがい注目されていない。

後嵯峨上皇(1220〜72.53歳)についてはこちら(水戸部正男氏『歴代天皇紀)。

『増鏡』に描かれた宗尊親王(1242〜74.33歳)東下の様子はこちら
 〔表1〕に明らかなように、三浦氏の滅亡後北条氏に比肩しうる唯一の豪族は足利氏だった。いうまでもなく足利氏は「右大将家御氏族」(鏡宝治2閏12/28)として、三代将軍滅亡後は清和源氏の棟梁の資格をもつ家である。足利義氏の武蔵守・陸奥守という官途、四位という位階のいずれも、執権・連署に匹敵する地位を表現している(11)。また足利氏は得宗家ともきわめて親密な関係をむすんでいて、〔図1〕にみるように、義兼・義氏・泰氏三代にわたって得宗家から妻を迎えている。三浦・安達両氏もまた得宗家と姻戚関係にあったが、それは娘を得宗家に嫁がせるという形態であり、これからすれば足利・北条両氏の家格は前者のほうが上だったとすらいえる。

鎌倉時代の足利氏については臼井信義氏「尊氏の父祖−頼氏・家時年代考」と千田孝明氏 「足利氏の歴史− 尊氏を生んだ世界−」が参考となる。
足利義氏(1189〜1254.66歳)についてはこちら(『近代足利市史』)。

〔図1〕(北条氏と足利・三浦・安達氏)は省略。
 さて建長三年〔1251〕五月十五日、時頼の正室である重時の娘が男子を出産した。このときのもようを『吾妻鏡』は「若君誕生、奥州(重時)兼而被座、此外御一門之老若、総而諸人参加不可勝計」と伝える。人々の騒ぎようは尋常のものではなかった。前年暮以来「御産御祈」がくりかえされ(鏡建長2/12/18、同3正/8、同正/21、同5/1)、産後には若宮別当法印隆弁に「今度男子平産、併所致御法験」とて能登国諸橋保が寄せられる(鏡建長3//27)というぐあいである。これに反しておなじころ、将軍頼嗣の近辺は「御所中頗無人」という状態である(鏡建長2/12/20)。さきに寛元四年(1246)の暮、頼経が京都から時頼に手紙を送って何事かを依頼した(鏡寛元4/12/12)のも、わが子の立場を危ぶんでのことだったろう。たびかさなる危機をのりこえて権力を確立した時頼に残されたさいごの仕事は、その権力を安全に嫡子にうけつがせることであった。そのためにはあらゆる障害はか除れママねばならない。「若君」の誕生は幕府内外に大きな波紋をよぶことになるのである。



鶴岡八幡宮第9代別当隆弁(1208〜83.76歳)は、この若宮誕生の前年、重時娘の妊娠時期を予言し、妊娠が明らかになると京都から呼び返されて種々の祈祷を要請され、さらに出産日時を正確に予言して時頼を驚嘆させた。時頼は嫡子時宗の誕生はひとえに隆弁の抜群の法力のおかげであると感謝したのである。この間の事情のついては奥富敬之氏「後継者・時宗の誕生」に詳しい。隆弁その人については貫達人氏「隆弁」、湯山学氏「隆弁とその門流」に詳しい。歌人としての隆弁については中川博夫氏「大僧正隆弁−その伝と和歌−」が参考となる。さらに延暦寺との対立抗争における園城寺側の指導者としての隆弁についてはこちら(辻善之助氏『日本仏教史中世遍之一』)。

足利泰氏(1216〜70.55歳)の出家については、『吾妻鏡』(建長3.12.2)に「宮内少輔泰氏朝臣、所領下総国埴生庄において、ひそかに出家を遂げらる。すなはち年来の素懐を遂ぐと云々。ひとへに山林斗藪(とそう)の志を挟めりと云々。これ左馬頭入道正義(足利義氏)が嫡男なり。」とある。
※「総」の旁のみの字


一宮は宗尊親王、三宮は恒仁親王(後の亀山天皇)。

九条道家(1193〜1252.60歳)の略歴はこちら
 建長三年〔1251〕十一月二十九日、時頼の邸で「関東安全御祈」が行なわれた(12)。十二月二日、足利泰氏が三十六歳にして突然の出家を遂げる。同五日、御内人諏訪蓮仏邸あたりで騒ぎがあり、「夜半之刻、人々加小具足、於相州(時頼)御第門前窺参」。二十二日、「鎌倉中無故有物※、謀反之輩之由、巷説相交、幕府並相州御第警巡頗厳密」。そして二十六日、謀叛のくわだてありとして「了行法師・矢作左衛門尉千葉介近親・長次郎左衛門久連等」が捕縛される。年が明けても動揺はおさまらず、正月七日未明に騒動、二月八日に大火とつづき、同十二日にはふたたび時頼邸で「関東安全御祈」が催される。同二十日、使節が上洛し、「上皇(後嵯峨)第一・三宮之間可有御下向之由」を申請。同二十七日、京都から飛脚が着き、頼経の父九条道家の死去を伝える。これについては「有説等、武家可有籌策之期也」とある。三月にはいり京・鎌倉の交渉のすえ、一宮宗尊親王に決定、同十九日宗尊は関東下向のため六波羅にはいる。いれかわりに二十一日、頼嗣が鎌倉を出発。

 事件の真相は『吾妻鏡』の例によって模糊としているが、『武家年代記裏書』が首謀者らしい了行法師に「三浦」と注していることから、この謀叛の直接の与同人が、宝治合戦で敗北した三浦・千葉の残党だったことが知られる。また、『鎌倉年代記裏書』に「因茲光明峯寺禅定殿下(九条道家)御一族僧俗、多蒙勅勘」、『保暦間記』に「了行法師ヲ召捕テ是ヲ進ス、尋問処ニ、先将軍頼経卿京都ニシテ世ヲ乱ントアルヨシ聞エケレバ、彼御一族僧俗太多勅勘ヲ蒙リ給キ」とあり、事件の黒幕が九条道家・頼経父子だったことは疑いない。

 以上の文脈に足利泰氏の出家を置いてみるならば、泰氏が右の陰謀に無関係だったとは考えられない。先述のように、いまや北条氏にとってかわりうる勢力は足利氏をおいてはない。この条件に、頼経を「相構今一度欲奉入鎌倉中」という、いまはない三浦光村の怨念がむすびつく。つまり、頼経をしたう寛元・宝治の政変の敗残者たちを糾合し、頼経を将軍によびもどし、執権には足利氏の当主泰氏をつける(13)。これが謀叛人たちのプランであり、それは時宗誕生のころから準備されつつあった、と私は推測する。泰氏の出家は状況の不利をさとっていちはやく手を打ったものだろう。諏訪蓮仏邸ちかくで騒ぎのあった二日後の十二月七日、泰氏は「自申出家之過」ている。これに対して時頼は泰氏の所領下総国埴生庄を没収し、金沢実時に与えた。泰氏は「為相州(時頼)縁者、其上父左馬頭入道(義氏)為関東宿老」と嘆願したが、聞き届けられない(以上、鏡建長3/12/7)。この記事が『吾妻鏡』に泰氏の名が出るさいごである。こうして北条氏は足利氏を権力の中心から遠ざけることに成功した。直接の犠牲者は泰氏ひとりにとどまり、〔表1〕にはこれ以後も康元元年(一二五六)まで足利氏の名がみえるが、〔図1〕のように泰氏の嫡子頼氏が得宗家から妻を迎えられず、上杉重房の娘を嬰っていることは示唆的である(14)。

『吾妻鏡』(建長3.12.7)には、「宮内少輔泰氏、みづから出家の過(とが)を申す。これによって所領下総国埴生庄はこれを召し放さる。(中略)当庄は泰氏朝臣始めて拝領の地、始めて入部の刻(きざみ)、この処においては素懐を遂ぐ。不思議といはざらんや。しかるに泰氏朝臣は、おのおの相州(時頼)の縁者たり。その上、父左馬頭入道(義氏)は関東の宿老たるをもつて、しきりに子細を嘆き申すといへども、人によつて法を枉(ま)ぐべからざるの由、御沙汰に及ぶと云々。」とある。

足利義氏は泰氏の出家騒ぎの3年後、1254年11月に66歳で死去しているが、1256年には足利頼氏が◆飯を献じている。

こうした北条家と足利家の緊張関係を考えると、時頼・義氏・隆弁が登場する『徒然草』第216段も、かなり意味深長な話のように思われる。
 以上に検討した三つの事件−名越光時の乱、宝治合戦、了行法師の陰謀−を、その共通した性格に注目して〈寛元・宝治・建長の政変〉とよびたいと思う。共通性とは将軍勢力と執権勢力の対立および後者による前者の継起的な撃破であり、両者の矛盾の焦点となった人物こそ、前将軍藤原頼経であった。頼経は寛元二年(一二四四)の退職後はもちろん、同四年の帰京後も、将軍頼嗣を通じて幕政に影響力をもちつづけた。建長二年(一二五〇)九条道家のしたためた初度惣処分状に、氏寺東福寺領について、「於此地者不可充催大嘗会・造内裏・役夫工以下勅事、家之長者奏請公家、早可令免除、亦不可有守護地頭煩、前亜相(頼経)誡子孫、必可令停止之、」とある(15)。 また、『保暦間記』によれば、光時の乱の原因を、「将軍ノ近習シテ御気色吉リケル」光時が、「将軍ノ権ヲ執ラセント企ケル程ニ、将軍モ光時ニ心ヲ被寄ケルニヤ」と述べる。頼経が反得宗勢力の結集点となり、また頼経自身も自己を推載する動きに積極的にこたえていたことがわかる。

上杉重房(生没年不詳)「鎌倉中期の武将。上杉氏の祖。式乾門院蔵人・修理大夫・左衛門督。勧修寺流藤原氏の流れをくみ、父は藤原清房。建長4年(1252)、宗尊親王が六代将軍として鎌倉に下向したのに供奉し、将軍側近の近習として武家となった。丹波国何鹿郡上杉庄を与えられたので、その地名をとって上杉氏と称した。孫の清子が足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生んだため、以後上杉氏は足利氏の外戚として重用されるようになった。」(『鎌倉・室町人名事典』田代脩氏)


 頼経の政変とのかかわりは、父九条道家が「去年(寛元四年)六七月比、有関東騒動之風聞、有洛中縦横之巷説、粗捜其濫觴者、多是入道亜相不調之所致歟」と否定していない(16)ことからも動かない。さらに道家についても、かれ自身は「近日関東有騒動、入道大納言無告送事、不知其由来、無被示合旨、不同意于此事、不知不聞也。」と極力関与を否定し(17)、また「良公(二条良実)以不孝為己性、不従親訓、以自専為先、……偏任僻韻廻奇謀、欲堕入令父於垢、或構媒略、竊令達子細於関東、寛元之天下転変其随一也、泰村反逆之時、以無実又奏達仙朝(後嵯峨)、聖主不信受之御、仍就縁者、以此趣風聞東方」と無実を主張しすべてを不仲の子良実の陰謀に帰してはいるが(18)、頼経の送還は「頼経が道家と共謀して、勇士を語らって北条氏を討たんとして事露われた結果であるという風聞が京都では専らであった」(19)という。たしかに、頼経を将軍に復帰させる計画は、後嵯峨院政−西園寺家のラインとの対抗関係において、九条家が自己の立場を一挙に好転させる目的でくわだてられた気配が濃厚である。

 寛元・宝治・建長の政変の結果として重要なものは以下のふたつである。第一は皇族将軍の出現であって、ここに実朝の死以来の懸案が解決し、鎌倉将軍は今上天皇と兄弟になったのである。承久の乱後、幕府の実力は朝廷側を圧倒し、皇嗣決定にさえ強い発言権を行使するようになっていたけれども、ここに幕府自身が名実ともに天皇につぐ高い権威をいただくにいたったことの意義は小さくない(20)。皇親奉載は、公武融和策のような外観をとりつつ、政治的磯能としては国家権力の分裂をもたらしかねない措置である(21)。将軍実朝の晩期に政子の画策した皇子迎立案に対しては、「イカニ将来ニコノ日本国二ニ分ル事ヲバシヲカンゾ」(22)と喝破して握りつぶした朝廷も、幕府優位のもとでの両権カの併存、後嵯峨院政−西園寺勢力と執権勢力の合作による九条家追いおとしの成功、という建長段階の状況をふまえて、皇子東下にふみきったのであった(23)。


九条道家の晩年についてはこちら(三浦周行氏『鎌倉時代史』)。

二条良実(1216〜70.55歳)「鎌倉中期の公卿。摂家二条家の祖。摂政九条道家の二男。母は太政大臣西園寺公経の女。十五歳で早くも従三位に昇り、二十歳で内大臣に任じ、以後累進して、後嵯峨天皇の仁治3年(1242)ついに関白になったが、その後天皇の信任と父の寵愛が弟の一条実経に傾き、寛元4年(1246)正月心ならずも関白を実経に譲った。ついで同年起った名越光時の乱に将軍藤原頼経が連座して京都に送還され、頼経の父である道家も政界から引退を余儀なくされたが、道家はこの事件に関連して良実が北条氏に内通したものと疑い、良実を義絶した。しかし道家の没後、弘長元年(1261)に再び関白に任ぜられ、文永2年(1265)、関白を弟の実経に譲ったのちも、内覧の宣旨を賜り、廟堂の長老として重きをなした。文永7年11月11日、病のため出家し、法名を行空といったが、同月29日薨ず。五十五歳。普光園院と号し、また居所の二条京極第にちなんで家号を二条と称し、五摂家の一つに数えられた。」(『鎌倉・室町人名事典』橋本義彦氏)

北条政子(1156〜1225.70歳)
 第二点は、将軍勢力と執権勢力の均衡状態、ないしは将軍−執権間の権力の分立状況の崩壊である。執権政治期の北条氏が、まさに“将軍の後見”の地位を権力掌握の源泉としたことは、この時期の将軍の地位が、ふつう考えられているほどカイライ的なものではなく、政治的実権をともなうものであった(24)ことを、逆に証明している。頼経の影響カの排除が、いくつものステップをふくむ複雑で長期の過程を必要とした理由もここにある。また、権力意思の決定過程における合議制こそ、執権政治を特徴づけるもっとも重要な要素だと考える(25)が、この合議制を不可欠にした要因も、将軍・執権両勢力のあやういバランスの維持に求めることができる。したがってこのバランスが崩れるとき、合議制の内実もまた空洞化する。光時の乱に初見する「深秘沙汰」「寄合」にその徴候がみえるが、より決定的な証明は、宗尊親王の東下申請という重要問題に関する幕府の意思決定過程に見いだされる。すなわち、「上皇(後嵯峨)第一(宗尊)・三宮(恒仁)之間可有御下向之由」の奏請については、「其状相州(時頼)自染筆、奥州(重時)被加判処也、他人不知之」といわれており(鏡建長4//20)、評定における合議を無視した執権・連署の独断専決がつらぬかれた。この問題が「群議」にはかられたのは、朝廷の同意が得られてのち、一宮・三宮のどちらにするかという、副次的な議題においてにすぎなかった(鏡建長4//5)のであった(26)。こう考えてくると、執権政治そのものを、上横手氏のように、将軍=鎌倉殿から北条氏嫡流へ実質的な権力が移行する特殊な過渡期の所産ととらえることも可能であろう(27)。

私にとっての当面の関心事は、足利家と四条家の関係である。四条隆親(1203〜79.77歳)が後妻とした女性は、「武蔵守・陸奥守という官途、四位という位階のいずれも、執権・連署に匹敵する地位を表現している」とされる足利義氏の娘であり、彼女が1243年に生んだのが善勝寺大納言隆顕である。
 四条家の戦略としては、承久の乱の結果、鎌倉との関係の強弱こそ家の発展を左右することが明瞭となった状況の中で、隆弁を通じて北条家との緊密な信頼関係を築く一方、北条家に匹敵する家格を誇り、かつ北条家とも数代にわたって姻戚関係を結んでいる足利家にも網を張っておこう、ということだったのであろうが、それだけに足利家の権勢の凋落は隆顕の地位にも影響を及ぼしたように思われる。
 1277年、隆顕が父隆親と対立して出家を余儀なくされた背景としては、もはや四条家にとって足利家との関係に利用価値がなくなったという冷徹な判断が隆親の側にあったのではないか、という感じがする。

(1)家督相続の有資格者であるこの二子が、いつのころか仏門にはいっているのは、時頼のいちはやい措置によるものだろう、と石井進氏は推測する(前掲『鎌倉幕府』、四一七頁)。
(2)『関東評定伝』延応元年〔1239〕・仁治元年〔1240〕条。泰時の時代にすでにこういう動きが始まっていることは注目される。
(3)同右、寛元二年〔1244〕条。
(4)大江(毛利)季光・大江忠成はともに広元の子、三善(町野)康持は康信の孫である。
(5)基綱・康持は建長四年〔1252〕、為佐は翌五年〔1253〕、いずれも引付衆として復帰(『関東評定伝』各年条)。
(6)こののち霜月騒動までの「寄合」の沿革については、黒川高明「霜月騒動の史的前提」(『歴史教育』11の7、一九六三)にくわしい。
(7)この部分意味不通。「頗非無自専怖畏」の意であろう。
(8)『関東評定伝』宝治元年〔1247〕・同二年〔1248〕条。執権・連署も評定のメンバーだから、じっさいには十六名中上位六名を独占したことになる。
(9)網野前掲『蒙古襲来』、五二頁以下に、建長元年〔1249〕当時の評定衆・引付衆の構成に関する詳細な記述がある。
(10)彦由三枝子「足利泰氏出家遁世の政治史的意義」(『政治経済史学』109・110、一九七五)参照。
(11)臼井信義「尊氏の父祖」(『日本歴史』257、一九六九)三一〜三三頁。
(12)以下の叙述はいずれも『吾妻鏡』各日条による。
(13)泰氏の出家をとげた地が、千葉秀胤の旧領下総国埴生庄だったこと(福田豊彦『千葉常胤』〈吉川弘文館、一九七三〉一二六頁)、謀叛人のひとり「千葉介近親」が足利氏の守護国三河の守護所所在地「矢作」を名のっていること、も気になる事実である。

経時男で僧籍に入った二子のうち、頼助(1245〜96.52歳)は仁和寺の開田准后法助(1227〜84.58歳.九条道家男)に灌頂を受け、東寺長者・東大寺別当・鶴岡八幡宮寺別当等の要職を歴任した人物。

毛利季光(1202〜47.46歳)は娘を時頼に嫁して権勢を誇るが、妻が三浦泰村の妹であった関係で宝治合戦では三浦氏に加担し、自害した。
(14)もっとも、頼氏の子家時の妻は北条時茂の娘、家時の孫高氏の妻は赤橋久時の娘である。だがこれらの女性はいずれも得宗家の出ではない。
(15)図書寮叢刊『九条家文書』一、五の(1)建長二年〔1250〕十一月日九条道家初度惣処分状。
(16)同右、四の(2)宝治元年〔1247〕三月二日道家敬白文案。また道家の嫡孫忠家も、建長四年〔1252〕の一族勅勘の後、「大納言入道一身縦雖有関東不義之子細、不可被棄関東開闢之因縁」と述べ(同一三、九条忠家遺誠草案)、頼経の与同を認めている。
(17)同右、四の(3)寛元四年〔1246〕六月十日道家敬白文案。
(18)同右、三の(1)年月日欠普光園院不孝記。これは一の(2)建長四年〔1252〕二月十九日道家第二度処分状抄に「前関白(良実)依不慮子細、違背年久、更不可為子孫、永不可交我家、条々不孝具記之」とあるのに相当する。一族勅勘後、瀕死の病床でしたためたものである(道家の死去は同月二十一日)。
(19)佐藤前掲『日本の中世国家』、一六六頁。
(20)鏡建長4//6に、安達義景が若宮別当隆弁に言ったことばとして、「此君仙洞御鍾愛之一宮也、東関諸人懇望不等閑之間、為三位中将殿(頼嗣)御替御下向、非武家眉目乎」とある。
(21)注(19)書、一七二〜七三頁。宗尊親王の迎立が幕府の国家としての自立を意味するかどうかについては、本書への書評(『史学雑誌』93の4、一九八四)で私見を述べた。
(22)『愚管抄』巻六にみえる後鳥羽上皇のことば。
(23)『五代帝王物語』には、「右府将軍(実朝)薨て後、宮を下まいらせばやと、鎌倉の尼二品頻に後鳥羽院に申入けれども、「国の二の主出来なんず、あるべからず」と御許しなかりければ、頼経卿は二歳にて下給へり、今は世も武家もこれほどしづまりぬる上は、兎角の子細なく下しまいらせられける成べし」とある。
(24)青山前掲「鎌倉幕府将軍権力試論」は頼経以降の将軍権力の実体的な基礎を分析する。ただし、摂家将軍時代と宗尊将軍時代の差別を明確にしていない点に不満がのこる。
(25)この立場から執権政治の始期を厳密に規定するならば、尼将軍北条政子の死去、両執権(執権・連署)制の発足、評定衆の設置− という重要事件の継起した嘉禄元年〔1225〕がそれにあたると考えられる。したがって政子を実質上四代目の将軍ととらえ(後述するように、正嘉二年〔1258〕の不易法は、泰時執政期の成敗を「准三代将軍并二位家御成敗」じて不易とした)、彼女の死去までを将軍独裁制にふくめて理解することになる。なお、上横手前掲『日本中世政治史研究』三八七〜九四頁参照。
(26)奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』(吉川弘文館、一九八〇)一七一頁。
(27)上横手前掲「鎌倉幕府と公家政権」、六六頁。こう考えることは、執権政治の合議制がうんだ稀有な達成−理非決断をささえる整備された訴訟制度、ながく武家法の模範とされた御成敗式目の制定など− の歴史的意義をおとしめるものではなく、逆にそれらをうみだした稀有な政治的条件を解明する視角を提供すると考える。


足利家時・尊氏とその妻についてはこちら(千田孝明氏 「足利氏の歴史− 尊氏を生んだ世界−」)。




九条忠家(1229〜75.47歳)についてはこちら。(三浦周行氏『鎌倉時代史』第68章)



貴族社会にとって、鎌倉時代は摂関家が五摂家(近衛・鷹司・九条・一条・二条)に分かれるなど、多くの家に分立する新秩序形成期である。この分立の過程では、村上源氏久我家の相続争いに見られるような混乱がどこの家でも頻りに生じているのであるが、それにしても九条道家と二条良実の対立の厳しさ、道家の良実に対する憎悪の凄まじさは別格であり、鬼気迫る感じさえする。

「この君は仙洞(後嵯峨院)御鍾愛の一宮なり。東関諸人の懇望等閑(なほざり)ならざるの間、三位中将殿(頼嗣)の御替りとして御下向。武家の眉目にあらずや。」という言葉は、建長4年4月に鎌倉に来たばかりの宗尊親王(11歳)が、同年8月に病気になってしまって食事も取れず、諸人が大変心配したという状況の中で、安達義景が隆弁に祈祷を依頼するための前口上として発せられたものである。
 もちろん隆弁はこの依頼を受ける。そして隆弁が御所において、「千手の法腹病を療す。・信読大般若経を始行」した結果、宗尊親王はお粥が食べられるようになり、更に祈祷を重ねると、病は完治して「諸人安堵の思ひをなす」ことになるのである。
 この時期の『吾妻鏡』を読むと、何か困った問題が生じる度に隆弁が颯爽と登場して、その法力で全てを解決してしまうのであり、隆弁の活躍振りは驚異的である。そしてこうした隆弁への畏敬の念が、園城寺への幕府の支援につながって行くのである。

北条政子(1156〜1225.70歳)



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