更新13.4/8 up10.10/18
※村井章介氏の略歴はこちら。
| 村井章介氏の見解 |
私の立場からの補足 | |
鎌倉幕府政治のあゆんだ道程を、将軍独裁制→執権制→得宗専制の三段階としてとらえるみかたは、すでに定説といってよい。そしてまた、第二期と第三期を弘安八年(一二八五)の霜月騒動でくぎることも、常識的な理解になっている。たとえば網野善彦氏は、
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と述べ、また石井進氏も、
と論ずる。当代一流の中世史家が口をそろえて断言する命題に異をとなえるなど、無謀のきわみかもしれないが、私なりに研究史をふりかえると、右の説を「不動のもの」とすることにふたつの理由から賛成できない。 |
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| ひとつは、霜月騒動を得宗専制の出発点としない有力な学説が存在することである。上横手雅敬氏は、北条時頼の執政期以降の「公家政治に対する幕府の干渉は、実は得宗専制政治の一環だった」ととらえ、「霜月騒動は、得宗専制が御家人との対立をあらわした得宗専制の第二段階への突入の画期」だと主張する(3)。また安田元久氏も、時頼の時期に「専制政治への傾斜」を見、安達泰盛を「得宗専制政治の推進者」と評価する(4)。 もうひとつは、網野・石井両氏とも佐藤進一氏の学説をよりどころとするが、佐藤説は霜月騒動画期説だとかんたんに言いきってしまえるようなものではないことである。たしかに『鎌倉幕府訴訟制度の研究』においては、佐藤氏は弘安年代に確立した引付責任制に「権利保護に於いて欠くる所なく、裁判をして正確ならしめんとする精神昂揚の発露」を見いだし(七五頁)、霜月騒動を「執権政治から得宗政治への移行」としていた(九七頁)。しかし一九五○年代の研究においてすでに、寛元宝治事件を「北条氏専制への道を開いた事件」「北条氏家督の絶対化を確立する過程での指標的な事件」とする評価(5)や「文永弘安以降の得宗専制時代」という表現(6)がみられる。さらに著書『日本の中世国家』(岩波書店、一九八三)によって、さいきんの佐藤氏の見解をみておこう。 |
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| 以上のように佐藤説は、寛元以降に得宗専制の出発をもとめ、霜月騒動を専制の確立(7)とみる考えかたであって、霜月騒動以前を執権制、以後を得宗専制とするような単純なものではない。泰盛の政治的立場についても“将軍権力の最後の代弁者”と評価するにとどまり、「執権政治体制の最後の護持者」と規定したり(8)、かれの首導した弘安の改革に執権政治の完成をみたり(9)する説とはことなる。 |
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むろんだいじなのは、佐藤氏の論述のはしばしを自説の典拠としてひけらかすことではなく、幕府の最高権力が「執権という幕府の公職から離れて北条氏の家督個人の手中に移」った段階を得宗専制と規定する、という佐藤氏のテーゼ(10)をただしくうけつぐことである。「季長に破格の待遇と恩賞を与えた剛腹な、気骨を愛する泰盛の風貌」とか、「貧道御家人、無縁の人々に対する配慮」とかいう、泰盛の人格への熱い共感から、かれを執権政治の権化にまつりあげる(11)のでなく、“幕府の最高権力の所在”という観点から、寛元・宝治事件以降の改治過程を冷静に分析すること、これを本稿の課題としたい。
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| 1 ◆飯沙汰人 それでは、幕府の実体的な最高権力がどこにあるかを、どうやって判断したらよいのだろうか。文書の様式などに表現される制度上の最高権力が実体をあらわすものでないことは、幕府中期以降の将軍をみれば明らかである。そこで注目されるのが、上横手氏によって、「幕府の諸将たちのランク付け」において「官位の高さ、幕府諸機関での地位、従来からの功績、領主としての規模等々……の諸要素に分解しきれない総合的評価」をあらわすものとされた、◆飯の儀式である(1)。 |
◆土へんに「完」 |
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◆飯(わうばん)とはもともと椀(=◆)に盛った飯のことで、公家では諸行事のさいに殿上人以下に支給した食膳をさしたが、鎌倉幕府において重臣が将軍を饗応する儀式として発展し、もっとも重要な年中行事として正月の三が日に行なわれるようになった(2)。一例として寛喜元年(一二二九)正月一日の記事を『吾妻鏡』から引いてみる。
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| まずその日の「沙汰人」から食膳が献じられ、つぎに剣、箭、行騰(むかばき)と沓(くつ)が引出物としてそれぞれの「役人」から献上され(3)、つぎに五疋の馬が上覧に供されて一日の儀をおえる。二日、三日にもまったく同様のことが人を替えてくりかえされる。 |
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| さて『時範記』や『奥州後三年記』によると、十一世紀末ころ、新任の国司は在庁から三夜連続して饗応を受け、多量の引出物を贈られるのが習いだった。これは「三日厨(みっかくりや)」と称され、寺家の使者や預所の代官が現地に下向したさいにもみられる広範な慣行であり、「政治的に上位にある者が政治的に下位に位置づけられている在地に赴いたとき、その途次および目的地において提供されるもの」と定式化される(4)。◆飯もこの慣行に系譜をひくことは明らかで(5)、◆飯が元三の三日間行なわれることと「三日廚」とは内的な連関があるだろう。また二木謙一氏は、頼朝に◆飯を献じたものが三浦・上総・千葉・小山など有力豪族だったことに注目して、かれらが在庁として新任国司に進めてきた◆飯を、頼朝との主従関係を緊密にする意図をこめて献じたのが幕府◆飯のおこりだとする(6)。頼朝はいわば国司に優越する権限を身に帯して東国に赴いてきた上位者であり(7)、それを迎える東国豪族とのあいだに成立した◆飯は、東国政権としての幕府の独自性をもっともよく表現する儀礼として異常な発達をとげるのである(8)。 |
| つぎに式次第で注目されるのは、食膳献上のさい、「三献めの御盃ハ、其日申沙汰の人御給」(9)という儀のあったことである。これは将軍−沙汰人のあいだに献物−下(おろ)しという「互酬的な贈与の食物連鎖」(10)の存在したことを示し、ほんらい◆飯とは共同飲食によって主従関係をフィジカルに再確認する意味をになう儀式だったことが窺われる。また◆飯が、年の始めの恒例として以外に、頼朝の新造邸宅移徒の後(鏡治承4/12/20)、新造公文所吉書始(鏡元暦元10/6)、将軍の代始(鏡建仁3/10/9=実朝、同建長4./4/1〜3=宗尊、注(8)=久明)−など、ものごとをあらたに始めるにさいして行なわれているのは、節目節目ごとに主従関係にあらたな活力をふきこむ復活・更新の儀式と観念されていたからであろう(11)。将軍−御家人間の主従関係を権力編成の根本原理とする鎌倉幕府において、◆飯がもっとも重要な行事として位置づけられたのは、きわめて自然なことであった。 |
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| 右の検討によって、◆飯儀式の参加者、ことにその主宰者たる沙汰人の役目が幕府内の実体的な地位に対応すること、具体的にいえば正月一日−三日の沙汰人が地位ランキングー位−三位に近似することが推察される。そこで『吾妻鏡』の歳首◆飯の記事にみえる沙汰人のすべてを〔表1〕にかかげた(12)。◆飯沙汰人が幕府内諸勢力の変遷を忠実にトレースしていることは、本表を通覧するだけで明らかになる。 |
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| たとえば頼朝の死後最初の◆飯である正治二年〔1200〕をみよう。絶対的な独裁者の死がひきおこした動揺を反映して、十一名もの人間があらわれており、さらに新将軍頼家の外祖父時政が首位を占めている。頼朝時代にあらわれるのは千葉・足利・三浦・小山・宇都宮といった東国の豪族領主層で、時政の姿は見えない。これは外祖父の地位の重さを明示する事実であって、北条氏の抬頭が、「将軍の外戚たる地位を殆ど唯一のより所として」、頼朝の死後表面化した「将軍独裁制支持者と東国御家人との反目抗争」の「調停者」となることによって、はじめて実現しえた、という評価(13)のただしさをうらづけている。北条氏がはじめて二名あいならぶ建保元年〔1213〕、第四位ながら和田義盛の名がみえるが、和田合戦の勃発はこの年の五月である。おなじ年首位を占めた大江広元の、この前後における地位の高さも明瞭である。承久の乱後の貞応元年〔1222〕、五名があらわれるのは執権権カの動揺を示し、また足利氏の復活が注目される。これ以降あらわれる外様が三浦・足利両氏にかぎられる(14)ことは記憶にとどめておきたい。安貞二年〔1228〕から仁治元年〔1240〕までは首位時房、二位泰時、三位朝時でまったく変化がなく、執権政治の安定期に対応する。執権政治が合議制によって特徴づけられながらも、一面では北条氏による高位独占の体制にほかならないことがわかる。それとともに注意すべきは名越朝時の存在である。名越家は鎌倉時代を通じて一度も執権・連署・両六波羅の重職についたことがない(15)。この事実が同家の家格の低さではなく、逆に得宗家に比肩しうるほどの家格の高さによるものであることを、朝時の存在は物語る。名越家は得宗家にとって、一門中もっとも危険な存在だった。両家のあつれきは、泰時の死んだ仁治三年〔1242〕に徴候をあらわし(16)、寛元四年〔1246〕、朝時の嫡子名越光時の乱にいたって爆発する(朝時は寛元三年死去)。 |
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| 2 寛元・宝治・建長の政変 一方では引付の設置を指標として執権政治期の頂点をなすといわれる時頼の時代は、他方得宗家による権力の極端な独占、さらにはその帰結としての幕府滅亡にいたる、鎌倉後期の政治過程の基本的な構図ができあがった時代でもあった。この構図は時頼政権誕生の波乱にみちた過程のなかにはやくも顔をのぞかせている。 寛元四年(一二四六)三月、兄経時の夭折および経時の二人の男子の幼少(鏡寛元4/3/23)(1)という、多分に偶然的な要因にたすけられて、執権という権力の座についた時頼が、困難な道をあゆみはじめたとき、かれのまえには克服すべきいくつかの勢力があった。まず前述の名越光時とその一党。つぎに三浦氏・足利氏など外様の有力御家人層。これら反時頼の勢力は、嘉禄元年(一二三五)発足した評定衆のなかにも広く根をはっていた。寛元四年(一二四六)初頭の評定衆全二十一名中、反時頼と目される人は、〔表2〕のように八名を占めている。その頭目的な存在が、発足以来の評定衆の中心メンバー義村を父にもち、名族三浦氏をひきいる泰村だったと思われる。発足当初は北条一門が一人もいなかった評定衆に、この時点で上位三名を北条氏が占めていることは、これへの対抗策にほかなるまい。とりわけ延応元年(一二三九)政村(泰時の弟)・朝直(時房の子)を、姻族安達義景(経時・時頼の母の兄弟)とともに送りこみ、席次の上位を占めさせたことは重要である(2)。逆に頼経が将軍職を追われた寛元二年(一二四四)、のち宝治合戦の中核となる三浦光村・千葉秀胤の二人を送りこんだ(3)のは反対派の巻きかえしであった。十一名で出発した評定衆が寛元四年初頭には二十一名にまで増加しているのは、こうした両派の対立を反映したものであろう。 |
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| 以上のように、時頼のまえに立ちはだかったのは、一門の名越光時と外様の三浦泰村を中核とし、後藤・千葉等の有力御家人層と大江・三善等の有力吏僚層(4)をふくむ容易ならぬ勢力であった。かれらのよりどころにしたものこそ、二十年近くも将軍の座にあって幕府内に隠然たる勢力をつちかって来、寛元二年経時によって将軍職を追われながらも、現将軍頼嗣の父として「大殿」とよばれ、鎌倉に居すわりつづけた藤原頼経その人であった。だがこれが統一された反対派を形成していたとは思われない。千葉秀胤のようにふたつの政変の両方に関係したものもいるが、光時の乱に連座した評定衆のうち、秀胤以外の三名はみなのちに復活しており(5)、宝治合戦で三浦方にくみしなかったことが明らかである。時頼はこの間隙に活路を見いだした。 |
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| 外戚安達氏や諏訪・尾藤・渋谷などの御内人にささえられて、時頼はまず光時一派の陰謀を退けた。光時は出家のうえ伊豆国江馬へ配流され、弟時幸は自殺、ここに名越家の勢力は大きく殺がれ、これ以後〔表1〕から完全に消えてしまう。そして、時頼亭に政村・金沢実時・安達義景が「内々」に集まり、そこに諏訪・尾藤ら有力な御内人が「参侯」する「深秘沙汰」・「寄合」のあらわれるのが、この政変のさなかであった(鏡寛元4/3/23、同5/26、同6/10)ことは偶然でない(6)。六月十日の「寄合」に反対派の巨頭三浦泰村が「内々無御隔心之上、可被仰意見之故」という理由であらたにくわえられた(鏡同6/10)のは、反対派の勢力分断・各個撃破の戦略にもとづくものである。この戦略はさらに、宝治合戦の過程での、泰村と弟たちとの微妙な意見の対立(鏡宝治元6/2〜5)という、一石二鳥の効果をも生んだのであった。 | ||
| こうして頼経をささえる勢力の一方が没落した結果、時頼は懸案であった頼経の京都送還をただちに実行する。しかし頼経に供奉した三浦光村(泰村の弟)が、「思廿余年昵懇御余波」い「落涙千行」、人々に「相構今一度欲奉入鎌倉中」と語ったという有名な話(鏡寛元4/8/12)は、光村を急先鋒とする頼経派の広範な残存を物語っている。頼経帰京直後の九月一日、時頼が泰村を招いて「短智一身扶軍営之政、頗不自専怖畏(7)、招下六波羅相州(重時)、欲令談合万事」と相談したところ、泰村は同意せず沙汰やみになったという(鏡同9/1)。重時を連署に迎えて体制をかためようとする時頼と、それに反撥する三浦氏との対立は、一年を経ずして破局を迎える。 |
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| 翌宝治元年(一二四七)六月に勃発した三浦氏の乱で時頼をもりたてたのもまた、安達景盛・義景父子と諏訪・万年・平などの御内人だった。合戦の結果、三浦・千葉という大勢力は没落し、六波羅から重時を連署に迎えた時頼は、ようやく権力を揺ぎないものにすることができた。評定衆においても反対派八名が粛清され、あらたに兄光時にくみしなかった名越時章をくわえて、十四名中上位四名を北条一門でかためた(8)。翌々建長元年(一二四九)末に引付が設置され、その頭人を政村・朝直・資時の評定衆上位三名が兼任したことは周知のとおりである(9)。 | ||
| 建長四年〔1252〕春、将軍頼嗣の実家九条家のからむ陰謀にことよせて、将軍を後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王にとりかえた事件は時頼の権力確立の仕上げと評価される。だがここに従来見のがされている事件として、建長三年〔1251〕暮における足利泰氏の出家、所領没収がある(10)。またこの建長三年が、時宗のうまれた年であることもあんがい注目されていない。 |
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| 〔表1〕に明らかなように、三浦氏の滅亡後北条氏に比肩しうる唯一の豪族は足利氏だった。いうまでもなく足利氏は「右大将家御氏族」(鏡宝治2閏12/28)として、三代将軍滅亡後は清和源氏の棟梁の資格をもつ家である。足利義氏の武蔵守・陸奥守という官途、四位という位階のいずれも、執権・連署に匹敵する地位を表現している(11)。また足利氏は得宗家ともきわめて親密な関係をむすんでいて、〔図1〕にみるように、義兼・義氏・泰氏三代にわたって得宗家から妻を迎えている。三浦・安達両氏もまた得宗家と姻戚関係にあったが、それは娘を得宗家に嫁がせるという形態であり、これからすれば足利・北条両氏の家格は前者のほうが上だったとすらいえる。 |
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| さて建長三年〔1251〕五月十五日、時頼の正室である重時の娘が男子を出産した。このときのもようを『吾妻鏡』は「若君誕生、奥州(重時)兼而被座、此外御一門之老若、総而諸人参加不可勝計」と伝える。人々の騒ぎようは尋常のものではなかった。前年暮以来「御産御祈」がくりかえされ(鏡建長2/12/18、同3正/8、同正/21、同5/1)、産後には若宮別当法印隆弁に「今度男子平産、併所致御法験」とて能登国諸橋保が寄せられる(鏡建長3/5/27)というぐあいである。これに反しておなじころ、将軍頼嗣の近辺は「御所中頗無人」という状態である(鏡建長2/12/20)。さきに寛元四年(1246)の暮、頼経が京都から時頼に手紙を送って何事かを依頼した(鏡寛元4/12/12)のも、わが子の立場を危ぶんでのことだったろう。たびかさなる危機をのりこえて権力を確立した時頼に残されたさいごの仕事は、その権力を安全に嫡子にうけつがせることであった。そのためにはあらゆる障害はか除れママねばならない。「若君」の誕生は幕府内外に大きな波紋をよぶことになるのである。 |
※「総」の旁のみの字 | |
| 建長三年〔1251〕十一月二十九日、時頼の邸で「関東安全御祈」が行なわれた(12)。十二月二日、足利泰氏が三十六歳にして突然の出家を遂げる。同五日、御内人諏訪蓮仏邸あたりで騒ぎがあり、「夜半之刻、人々加小具足、於相州(時頼)御第門前窺参」。二十二日、「鎌倉中無故有物※、謀反之輩之由、巷説相交、幕府並相州御第警巡頗厳密」。そして二十六日、謀叛のくわだてありとして「了行法師・矢作左衛門尉千葉介近親・長次郎左衛門久連等」が捕縛される。年が明けても動揺はおさまらず、正月七日未明に騒動、二月八日に大火とつづき、同十二日にはふたたび時頼邸で「関東安全御祈」が催される。同二十日、使節が上洛し、「上皇(後嵯峨)第一・三宮之間可有御下向之由」を申請。同二十七日、京都から飛脚が着き、頼経の父九条道家の死去を伝える。これについては「有説等、武家可有籌策之期也」とある。三月にはいり京・鎌倉の交渉のすえ、一宮宗尊親王に決定、同十九日宗尊は関東下向のため六波羅にはいる。いれかわりに二十一日、頼嗣が鎌倉を出発。 | ||
| 事件の真相は『吾妻鏡』の例によって模糊としているが、『武家年代記裏書』が首謀者らしい了行法師に「三浦」と注していることから、この謀叛の直接の与同人が、宝治合戦で敗北した三浦・千葉の残党だったことが知られる。また、『鎌倉年代記裏書』に「因茲光明峯寺禅定殿下(九条道家)御一族僧俗、多蒙勅勘」、『保暦間記』に「了行法師ヲ召捕テ是ヲ進ス、尋問処ニ、先将軍頼経卿京都ニシテ世ヲ乱ントアルヨシ聞エケレバ、彼御一族僧俗太多勅勘ヲ蒙リ給キ」とあり、事件の黒幕が九条道家・頼経父子だったことは疑いない。 |
| 以上の文脈に足利泰氏の出家を置いてみるならば、泰氏が右の陰謀に無関係だったとは考えられない。先述のように、いまや北条氏にとってかわりうる勢力は足利氏をおいてはない。この条件に、頼経を「相構今一度欲奉入鎌倉中」という、いまはない三浦光村の怨念がむすびつく。つまり、頼経をしたう寛元・宝治の政変の敗残者たちを糾合し、頼経を将軍によびもどし、執権には足利氏の当主泰氏をつける(13)。これが謀叛人たちのプランであり、それは時宗誕生のころから準備されつつあった、と私は推測する。泰氏の出家は状況の不利をさとっていちはやく手を打ったものだろう。諏訪蓮仏邸ちかくで騒ぎのあった二日後の十二月七日、泰氏は「自申出家之過」ている。これに対して時頼は泰氏の所領下総国埴生庄を没収し、金沢実時に与えた。泰氏は「為相州(時頼)縁者、其上父左馬頭入道(義氏)為関東宿老」と嘆願したが、聞き届けられない(以上、鏡建長3/12/7)。この記事が『吾妻鏡』に泰氏の名が出るさいごである。こうして北条氏は足利氏を権力の中心から遠ざけることに成功した。直接の犠牲者は泰氏ひとりにとどまり、〔表1〕にはこれ以後も康元元年(一二五六)まで足利氏の名がみえるが、〔図1〕のように泰氏の嫡子頼氏が得宗家から妻を迎えられず、上杉重房の娘を嬰っていることは示唆的である(14)。 |
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| 以上に検討した三つの事件−名越光時の乱、宝治合戦、了行法師の陰謀−を、その共通した性格に注目して〈寛元・宝治・建長の政変〉とよびたいと思う。共通性とは将軍勢力と執権勢力の対立および後者による前者の継起的な撃破であり、両者の矛盾の焦点となった人物こそ、前将軍藤原頼経であった。頼経は寛元二年(一二四四)の退職後はもちろん、同四年の帰京後も、将軍頼嗣を通じて幕政に影響力をもちつづけた。建長二年(一二五〇)九条道家のしたためた初度惣処分状に、氏寺東福寺領について、「於此地者不可充催大嘗会・造内裏・役夫工以下勅事、家之長者奏請公家、早可令免除、亦不可有守護地頭煩、前亜相(頼経)誡子孫、必可令停止之、」とある(15)。 また、『保暦間記』によれば、光時の乱の原因を、「将軍ノ近習シテ御気色吉リケル」光時が、「将軍ノ権ヲ執ラセント企ケル程ニ、将軍モ光時ニ心ヲ被寄ケルニヤ」と述べる。頼経が反得宗勢力の結集点となり、また頼経自身も自己を推載する動きに積極的にこたえていたことがわかる。 |
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| 頼経の政変とのかかわりは、父九条道家が「去年(寛元四年)六七月比、有関東騒動之風聞、有洛中縦横之巷説、粗捜其濫觴者、多是入道亜相不調之所致歟」と否定していない(16)ことからも動かない。さらに道家についても、かれ自身は「近日関東有騒動、入道大納言無告送事、不知其由来、無被示合旨、不同意于此事、不知不聞也。」と極力関与を否定し(17)、また「良公(二条良実)以不孝為己性、不従親訓、以自専為先、……偏任僻韻廻奇謀、欲堕入令父於垢、或構媒略、竊令達子細於関東、寛元之天下転変其随一也、泰村反逆之時、以無実又奏達仙朝(後嵯峨)、聖主不信受之御、仍就縁者、以此趣風聞東方」と無実を主張しすべてを不仲の子良実の陰謀に帰してはいるが(18)、頼経の送還は「頼経が道家と共謀して、勇士を語らって北条氏を討たんとして事露われた結果であるという風聞が京都では専らであった」(19)という。たしかに、頼経を将軍に復帰させる計画は、後嵯峨院政−西園寺家のラインとの対抗関係において、九条家が自己の立場を一挙に好転させる目的でくわだてられた気配が濃厚である。 寛元・宝治・建長の政変の結果として重要なものは以下のふたつである。第一は皇族将軍の出現であって、ここに実朝の死以来の懸案が解決し、鎌倉将軍は今上天皇と兄弟になったのである。承久の乱後、幕府の実力は朝廷側を圧倒し、皇嗣決定にさえ強い発言権を行使するようになっていたけれども、ここに幕府自身が名実ともに天皇につぐ高い権威をいただくにいたったことの意義は小さくない(20)。皇親奉載は、公武融和策のような外観をとりつつ、政治的磯能としては国家権力の分裂をもたらしかねない措置である(21)。将軍実朝の晩期に政子の画策した皇子迎立案に対しては、「イカニ将来ニコノ日本国二ニ分ル事ヲバシヲカンゾ」(22)と喝破して握りつぶした朝廷も、幕府優位のもとでの両権カの併存、後嵯峨院政−西園寺勢力と執権勢力の合作による九条家追いおとしの成功、という建長段階の状況をふまえて、皇子東下にふみきったのであった(23)。 |
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| 第二点は、将軍勢力と執権勢力の均衡状態、ないしは将軍−執権間の権力の分立状況の崩壊である。執権政治期の北条氏が、まさに“将軍の後見”の地位を権力掌握の源泉としたことは、この時期の将軍の地位が、ふつう考えられているほどカイライ的なものではなく、政治的実権をともなうものであった(24)ことを、逆に証明している。頼経の影響カの排除が、いくつものステップをふくむ複雑で長期の過程を必要とした理由もここにある。また、権力意思の決定過程における合議制こそ、執権政治を特徴づけるもっとも重要な要素だと考える(25)が、この合議制を不可欠にした要因も、将軍・執権両勢力のあやういバランスの維持に求めることができる。したがってこのバランスが崩れるとき、合議制の内実もまた空洞化する。光時の乱に初見する「深秘沙汰」「寄合」にその徴候がみえるが、より決定的な証明は、宗尊親王の東下申請という重要問題に関する幕府の意思決定過程に見いだされる。すなわち、「上皇(後嵯峨)第一(宗尊)・三宮(恒仁)之間可有御下向之由」の奏請については、「其状相州(時頼)自染筆、奥州(重時)被加判処也、他人不知之」といわれており(鏡建長4/2/20)、評定における合議を無視した執権・連署の独断専決がつらぬかれた。この問題が「群議」にはかられたのは、朝廷の同意が得られてのち、一宮・三宮のどちらにするかという、副次的な議題においてにすぎなかった(鏡建長4/3/5)のであった(26)。こう考えてくると、執権政治そのものを、上横手氏のように、将軍=鎌倉殿から北条氏嫡流へ実質的な権力が移行する特殊な過渡期の所産ととらえることも可能であろう(27)。 |
四条家の戦略としては、承久の乱の結果、鎌倉との関係の強弱こそ家の発展を左右することが明瞭となった状況の中で、隆弁を通じて北条家との緊密な信頼関係を築く一方、北条家に匹敵する家格を誇り、かつ北条家とも数代にわたって姻戚関係を結んでいる足利家にも網を張っておこう、ということだったのであろうが、それだけに足利家の権勢の凋落は隆顕の地位にも影響を及ぼしたように思われる。 1277年、隆顕が父隆親と対立して出家を余儀なくされた背景としては、もはや四条家にとって足利家との関係に利用価値がなくなったという冷徹な判断が隆親の側にあったのではないか、という感じがする。 |
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もちろん隆弁はこの依頼を受ける。そして隆弁が御所において、「千手の法腹病を療す。・信読大般若経を始行」した結果、宗尊親王はお粥が食べられるようになり、更に祈祷を重ねると、病は完治して「諸人安堵の思ひをなす」ことになるのである。 この時期の『吾妻鏡』を読むと、何か困った問題が生じる度に隆弁が颯爽と登場して、その法力で全てを解決してしまうのであり、隆弁の活躍振りは驚異的である。そしてこうした隆弁への畏敬の念が、園城寺への幕府の支援につながって行くのである。 |
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