更新14.3/19 up9.11/17
村松剛 「忠子の『恋』」(1/2)
『帝王後醍醐』(中央公論社.昭和53年.p7以下)
| 引用の趣旨 |
| 村松剛氏は、歴史学会の動向とは無縁な場所で、独自に歴史の研究を重ねてこられた方で、その研究の緻密さは、網野善彦氏など村松剛氏の史観に批判的な立場の学者からも高く評価されている。 ここに紹介する後醍醐天皇の母、談天門院をめぐる亀山院と後宇多院の関係は、戦前は全くタブーとされ、研究が不可能だった分野であり、村松剛氏の開拓者としての意義は大きい。 しかし、村松剛氏の立論は『増鏡』が歴史の真実を伝えていることを前提にするものであり、その点に根本的な誤りが存在しているのではないか、と私は考える。 私は、『増鏡』の作者は、自分のような高貴な身分の出身で美しく教養溢れる人間こそ、本来、中宮にも准后にも女院にもふさわしかったのに、実際には出自が卑しく美貌も教養も劣る連中がそうなっていて、実にけしからん、と思っているような女性だと想定している。従って、『増鏡』の女性関係の記事は極めて偏向しており、悪意に満ちているから、充分注意し、根本から疑ってかからなければならないと考えている。 結論として、談天門院に関して、私の考え方は村松剛氏のそれと大きく異なってくる。 |
| 村松剛氏の略歴(※) |
| 1929年、東京都生まれ。1954(昭29)年東大仏文科卒,同大学院修了。在学中より文芸評論を書きはじめ、同人誌『世代』に小林秀雄論,三島由紀夫論を発表。『現代評論』を経て、58年佐伯彰一らと『批評』を創刊し、ヴァレリー論を連載する(のち68年に『評伝ポール・ヴァレリー』として刊行)。またこれより早く遠藤周作、服部達らと『文学界』に「メタフィジック批評の旗の下に」を連載、作品自体の内的構造を美学的に究明すべきことを主張し、作家の実生活や政治との関連の中で作品を捉える当時の批評のありかたに異を唱えた。その後、『評伝アンドレ・マルロー』(72年)をまとめる一方で、アイヒマン裁判やアルジェリア戦争の現場に赴き、『中東戦記』『ナチズムとユダヤ人』などを刊行、“行動する批評家”の一面を見せた。やがて日本の伝統文化も対象となり、『死の日本文学史』(75年)、『帝王後醍醐』(81年)を執筆。上下2800枚の大作『醒めた炎−木戸孝允』(87年)で菊池寛賞を受賞した。89〜90(平2)年『新潮』に連載された『三島由紀夫の世界』(90年)は、三島没後20年にして出現した本格的評伝である。立教大、京都産
業大教授を経て、筑波大教授。 ※『朝日現代人物辞典』による。94年没 |
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私の考え方 |
忠子の恋 1 京都の今出川堀川の西北に、五辻(いつつじ)という町がある。いまは西陣の織物問屋が軒をつらね、本隆寺という法華宗の寺がまんなかの辺りに築地塀をめぐらしている。 今出川は応仁の乱のとき、西軍の総師山名宗全持豊の本陣のおかれた場所である。「死人手負不臥所ハ尺寸ノ地モナカリケリ」(『応仁記』巻二)というような激戦が、このあたりでくりかえされた。西陣の名がここから出たことはひろく知られているけれど、それは十五世紀も後半のはなしで、二百年まえの十三世紀にはまだこの近辺には公卿、殿上人の邸が集まっていた。(本隆寺は江戸期の創建だから、当時はむろん存在していない。) |
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| 五辻を号する家が、このころいく軒かあった。藤原花山院(かざのいん)系の五辻家は、そのなかのひとつである。花山院は執柄(摂関)家に次ぐいわゆる清華家に属し、左右の大臣をあいついで出している。しかし花山院左大臣兼雅の次男、家経が分家して五辻を名乗ってからは、家格は本家とのあいだにだいぶん差がついてゆく。五辻藤原家は、当主が晩年に辛うじて公卿の最下級につらなることを許され、そのまま退官という程度の家柄だった。 家柄が往時の宮廷でもっていた苛酷なまでの意味を、現代の人間が理解することは容易ではないであろう。一般に三位以上を公卿といい、公卿のなかの参議がいわば閣僚である。三位以上でも官職のないのがいて、これは散位(さんに)と呼ばれる。名目上の位階はあっても、仕事はない。 |
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| 花山院のたとえば定雅は、十九歳で正三位参議に列し、二十歳で従二位、二十二歳で正二位、三十六歳で右大臣に昇っている。同じ時代の五辻家の方は、さきにその名を引いた家経の子、雅継が四十一歳でようやく従三位(散位)に叙せられ、十年後に正三位で出家しているのである。 五辻雅継の子を、忠継という。忠継も父親以上に昇進が遅く、彼が従三位に昇って公卿の列に加えられたときには年齢は五十歳前後に達していた。昇階のわずか二年後に、彼は出家している。明治以後の軍人の場合、将官に任じてただちに退官という方式があったけれど、それと扱いは似ているかも知れない。 要するに中級の上程度の、目立たない廷臣の家柄だった。そういう家に、しかも朝廷衰微の時代に生まれた五辻忠継は、政治家としては何の業績も残していない。だが彼は、娘たちについては不思議に運がよかった。娘たちを通して、忠継は死後二人の天皇の外戚となっている。 |
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| はじめに孫娘のひとり経子が伏見天皇に奉仕し、のちの後伏見天皇を生んだ。(忠継が死んでから、十年あまりのちのことである。) 晩年の忠継は出家隠遁する直前に、ひとりの女を寵愛した。女は蔵人頭皇后宮亮、平高輔の娘である。平高輔は恒武平氏の出身だが本流ではなく、おかげでこの家は源平の争乱を生きのびた。正四位上右大弁をつとめ、蔵人頭を最後についに公卿にならずに退官していて、これも中級貴族といってよい。忠継は彼女によって、ひとりの女児を生んだ。 |
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| 忠継の娘だからのちに忠子と呼ばれることになるこの女児は、成長してから後宇多上皇の眼にとまり、弘安の末に十八歳くらいで入内して四人の皇子皇女をあいついで生むのである。孫の経子の入内よりも娘の忠子の入内のもつ意味の方が、歴史上はるかに大きい。 |
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| 忠子は四人の皇子皇女をもうけたあと、後宇多上皇のもとを去ってその父の亀山法皇のところに行き寵愛をうける。つまり舅の方に、鞍がえをしたのである。そのころの宮中の男女関係はフリー・セックスといってもいいような自由なものだったが、上皇の側室が皇子皇女をつれたまま舅の側室に公然と収まるという例は、さすがに珍しい。「夫」の後宇多院は、当然ながら激怒された。 |
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| この彼女の行動が、南北朝の争乱の重要な起爆剤となる。すべての発端だったとさえ、いえそうに思う。五辻の築地塀にかこまれた邸の中で、何ということもなしに生涯をすごした忠継という男は、晩年の情事によって歴史に名を残す。 忠継卿女、忠子の生んだ長子が、のちの後醍醐天皇である。 | |
| 後醍醐天皇は、正応元年(西暦一二八八年)十一月の誕生である。母の忠子は、このとき数え齢で二十一歳だった。 その前年、弘安十年には、父の後宇多天皇が退位して皇太子が践祚している。伏見天皇である。伏見天皇は後深草院の皇子で、当時は天皇の父である上皇が院政を行なうのがふつうだったから、爾後後深草上皇が事実上の君主となった。後深草、伏見の血筋がいわゆる持明院統であり、のちの北朝へとつづいてゆく。 |
| さらに後醍醐帝誕生の翌年、正応二年には、伏見帝の皇子胤仁親王の、立太子の儀がある(のちの後伏見帝)。これは次の院政が、伏見帝に行くことを約束するものだった。後深草、伏見、後伏見と、持明院統の正統性が、ここに確立されたかのように見えた。関東申次(もうしつぎ)の地位にいた西園寺実兼──権大納言正二位だったが、正応二年には功により内大臣従一位──と持明院統とが気脈を通じ、鎌倉幕府に働きかけた結果である。 |
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| 後深草院の弟君、亀山院から後宇多上皇への流れが、大覚寺統と呼ばれる。亀山天皇のあとを御子の後宇多帝が継ぎ、大覚寺統が威勢がよかったときには、後深草院は出家の決意を表明し周囲を慌てさせた。こんどは、事態が逆転する番になる。伏見天皇の皇子の立太子が行なわれたあと、正応二年の九月に、亀山上皇は剃髪、出家した。絶望感は、よほど深かったのだろう。 | |
| その翌年の四月に、武士が天皇の寝所にまで斬込むという椿事が勃発した。浅原八郎為頼という名の大男で、一族数人を率い騎乗のまま御所に踏込んだ。緋おどしの鎧を着け、赤鬼のような顔つきで女官に、 「御門(みかど)はいづくに御よるぞ」 そうきいたと、『増鏡』は伝えている。みかど、すなわち天皇の寝所の所在をはじめからたずねているのだから、目的は明かである。 |
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| 伏見天皇は女装して「忍びて逃げさせ給ひて」危く難をまぬがれ、浅原為頼は包囲されて天皇の褥の上で自害して果てた。長男は紫宸殿の御座所で自害し、弟は清涼殿の大庄子(食卓)の下で腹を切り「腸をば皆繰りいだして、手にぞもたりける」。寝所と御座所と食堂とでそれぞれ死んでいるのであって、執念の凄じさが知られる。 |
| 未曾有の不祥事に、朝廷は震駭した。事件の背後には亀山院の画策があったという噂が立ち、西園寺公衡──実兼の長子──などは、亀山院を六波羅に幽閉し奉れとまで後深草院に献言している。 亀山法皇がどの程度まで事件に関係していたかは、不明である。持明院統の即位、立太子は、前述のように西園寺実兼とその一派の廷臣たちの暗躍によって、鎌倉幕府の了解を得て行なわれたのだから、天皇の拭逆や幽閉だけで片づく問題ではない。亀山院側近が関与していたにしては、やり口がそもそも粗雑すぎる。しかしいずれにせよ状況は、剃髪したばかりの亀山院にとって不利だった。 |
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| 中ノ院(亀山法皇)も事件しろしめしたるなどいふきこえありて云々と、『増鏡』(「さしぐし」)は書いている。(なお『増鏡』は法皇の出家、剃髪をこの事件のあとのこととしてしるしているけれど、諸記録に徴してこれは誤りであろう。) 大覚寺統の亀山、後宇多両院は驚かれて、事件を「知ろしめさぬよし誓ひたる」誓紙を鎌倉にいれ、とにかくもことは一応の落着を見た。しかし被害者である持明院統の方では、なお疑惑はくすぶりつづけるのである。 |
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| 伏見天皇は二年後の正応五年三月のある朝、亀山法皇が兄の後深草院に詫びをいれるのを夢に見た。日頃の凶意を後悔している、との御沙汰だったという。伏見天皇にとっては、事件はとうてい忘れられない悪夢であり、「敵対者」亀山院の面影と悪夢は切り離し得なかったらしい。あるいは大覚寺統の廷臣のなかに、「王自身よりも王党派的」な熱狂的分子がいて、実際に事件を演出したのだろうか。 |
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| のちの後醍醐天皇は、そういう大覚寺統の危機のさなかに生まれているのである。先帝後宇多の第二皇子でありながら、親王宣下さえ長く行なわれなかった。異母兄の第一皇子邦治は、弘安八年に誕生し翌九年には親王になっている。 邦治親王の実母は、権大納言正二位、源具守の女である。具守はその後、内大臣従一位にまで昇る。後宇多院の皇后は伯父の後深草院の皇女だったが、皇后には御子がなかったので、具守の娘の生んだこの邦治を猶子とした。 |
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| 邦治親王と五辻の娘の御子後醍醐とでは、兄弟でも母親の格がちがうのである。邦治親王は永仁六年(一二九八)に、元服して皇太子となる。にわかに大覚寺統から皇太子が出たのは、持明院統の廷臣のあいだに対立が生じ、関東申次、西園寺公衡が持明院統を離れてこんどは大覚寺統に近づいたためである。邦治親王の立太子は帝位の大覚寺統復帰と後宇多上皇の院政とを、予告するものであろう。 しかしこのときにもなお、のちに後醍醐天皇になる十一歳の皇子は、親王宣下をうけないままだった。親王宣下がないから系図にはただ皇子とのみしるされ、名前もわからない御子が『本朝皇胤紹運録』には数多く出ている。後醍醐天皇の場合もそうなる可能性がなかったとはいえないし、まして皇位は当時の形勢では望み薄だった。 | ||
ここで参考までに、鎌倉後半期の天皇の母后の出自を列挙しておく。
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後伏見と後二条との両帝の場合を例外として、あとは母后がことごとく西園寺系の姫君たちである。この時期の西園寺家の──傍流の洞院家を含めて──結婚による対宮廷政策の周到さは、瞠目にあたいする。 それでも大覚寺統の後宇多帝には娘を入内させていなかったから、源具守の娘の生んだ邦治親王が後二条天皇になっている。もうひとりの例外の後伏見帝については、父帝伏見天皇の皇后に西園寺実兼の娘、※子がはいっていたのだが、彼女には子がなかった。やむを得ず藤原経子の生んだ皇子を、西園寺※子の猶子ということにして立太子させたのである。 |
※金へんに「章」。 |
| 藤原経子はすでに述ぺたように五辻忠継の孫娘で、忠子には姪にあたる。経子の父親は経氏といい、彼女がのちの後伏見帝を生むよりも三年まえに、五辻家代々の例によって従三位を最後に没した。なお経子自身は皇子が帝位についたことによって、従三位に叙せられている。 姪の皇子の立太子を、忠子はどんな気持で眺めていたかと思う。自分の皇子には、いつまでたっても親王宣下さえない。一族に頼りにできる実力者はなく、姪を通して運動することはたとえ彼女の自尊心が許したとしても、姪は持明院統の中にいるのだから、大覚寺統の彼女には何の意味もないのである。 |
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| 西園寺家と鎌倉との監視下で、五辻家程度の家格から出た皇子が帝位を継ぐなどということは、異例中の異例に属した。そのことへの不満を当然忠子は、皇子たち、ことに長子の後醍醐にことあるごとにいっていたであろう。後年の帝王後醍醐の行動は、幼少期に植えこまれたこの苦い思いをぬきにしては考えることができない。西園寺家とその背後にある鎌倉の圧力は巨大な壁を形成していて、この壁のあるかぎり五辻系皇族の浮かび上り得る機会はないのではないか。 |
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| 異例中の異例を強行する意志を、夫の後宇多院がもっていないとすれば、忠子としては皇子の庇護を、大覚寺統の最有力者にすがるほかなかった。大覚寺統の最有力者は、いうまでもなく亀山院である。 剃髪された亀山院は、嵯峨の大堰川に臨む離宮、亀山殿におられた。いまは天竜寺が、立っている場所である。忠子が計算づくで亀山院に接近をはかったのか、それとも亀山院の方から誘われたのかは、男女間のことがらであり推断はむつかしい。いずれにせよ忠子にとっての幸せは、亀山院が無類に好色な君主だったことだった。 |
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彼女の歌が『続千載和歌集』と『続後拾遺和歌集』とに、六首収録されている。忠子についての、数少い資料である。
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歌の方の才能は、それほど豊かだったとは思えない。最初の「をのづから法の道ある」云々は釈教歌だから理窟っぽいのはやむを得ないとしても、それ以外の「心のくまもあらしとをしれ」といい「心にすめる秋の夜の月」といい、紋切型で情感にとぼしい。亀山、後宇多院父子の寵愛をうけた彼女は、魅力的ではあったのだろう。 魅力的だが芯のつよい勝気な女の姿が、これらの歌からは浮かび上って来るのである。 |
| 五辻忠子について 村松剛氏は、『増鏡』を極めて素直に読んだ結果、「忠子は四人の皇子皇女をもうけたあと、後宇多上皇のもとを去ってその父の亀山法皇のところに行き寵愛をうける。つまり舅の方に、鞍がえをした」女であって、「異例中の異例を強行する意志」を持っていない後宇多院を見捨て、「皇子の庇護を、大覚寺統の最有力者にすが」った野心と行動力に満ちた女と認識されている。 そして、「自分の皇子には、いつまでたっても親王宣下さえない」と不平不満を抱いていた忠子が、その「不満を当然忠子は、皇子たち、ことに長子の後醍醐にことあるごとにいっていた」と推定され、「後年の帝王後醍醐の行動は、幼少期に植えこまれたこの苦い思いをぬきにしては考えることができない」と、忠子の性格が後醍醐天皇に与えた影響を極めて大きいものと認識されている。 私も当初、後醍醐帝のような特異な天皇を生んだ女であるから、忠子も特異な女だったに違いないと思っていたのであるが、どうも変である。仮に忠子が亀山院のもとに移ったことが「異例中の異例」で、強い社会的非難を浴びるような出来事だったとすれば、少し事情は異なるが、白河上皇と待賢門院の関係を知った廷臣たちのように、少なくとも日記に批判を書き留めるような人が出ても不思議ではないし、何より後宇多院自身が「激怒」したはずである。しかし、そうした事実を記録した文献が見あたらないのである。 それどころか、後宇多院は父亀山院と一緒にあちこち外出したりして、随分仲がよさそうな感じである。また、そもそも後宇多院は亀山院と冷泉万里小路殿に一緒に暮らしており、その点からも両院が仲が悪かったようには思えないのである。 私は、『増鏡』の作者は、本来なら自分のような高貴な出自の頭が良くて美しい女性が、中宮にも女御にも、女院にも准后にもふさわしいのに、実際には家柄が劣り、知性も美しさも劣る女どもがそうなっていて、実にけしからんと思っている特異な女性だと考えている。そして、『増鏡』の女性関係の記事は悪意に満ちているから、充分注意し、根本から疑ってかからなければならないと思う。 この忠子の処遇に関しても、作者は表面的な事実だけを嫌味たっぷりに、読者が誤解することを承知の上で書いており、実際には当時の人々には充分納得できる事情が存在していたのではないかと思っている。そして、その事情を考察する際に重要なのは遊義門院の動向だと考える。 忠子の生んだ皇子・皇女を生まれた順に並べると、
となる。そして、忠子は永仁六年(1298)七月二十一日に、「亀山院沙汰」によって従三位に叙せられているので、後宇多院と忠子の関係は、弘安九年(1286)から永仁二年(1294)までの間はそれなりに円滑であったが、その後に変化が生じ、忠子は亀山院の庇護のもとに置かれたと思われる。 他方、遊義門院は弘安八年(1285年)八月の段階で後宇多天皇の皇后に冊立されながら、ずっと後深草院・東二条院と同居していたのに、永仁二年(1294)六月、後宇多院によって後深草院の御所から「盗」まれて(『続史愚抄』の表現)、後宇多院の御所に移動し、遊義門院は逃げ出しもせず、そのまま後宇多院の御所にとどまっているのである。 忠子と遊義門院の動向を比べると、後宇多院と忠子の関係に決定的な変化を与えたのは遊義門院が後宇多院の御所に来たことだと考えるのが自然である。 すなわち、遊義門院にとって皇子・皇女が四人もいる忠子は目障りな存在だったのではないか、忠子は自ら積極的に後宇多院から亀山院のもとに「鞍がえ」したのではなく、極めて気位が高く、行動的で勝ち気な遊義門院から疎んぜられたのではないか、遊義門院から対処を迫られた後宇多院は、亀山院と相談して、皇子・皇女四人とともに忠子を亀山院に引き取ってもらったのではないか、要するに忠子は遊義門院に追い出されたのではないかと思われるのである。 こう考えると、永仁二年(1294)以降、忠子が亀山院沙汰によって従三位に叙せられた永仁六年(1298)を挟んで、亀山院が西園寺瑛子(実兼女.昭訓門院.1273〜1336.64歳)に生ませた恒明親王を鍾愛して、皇位を継承させようとするに至るまで、ずっと亀山院・後宇多院父子間の関係が円滑であり、また、後宇多院が忠子の生んだ子供たちを疎外していないどころか、むしろ大切にしていることが素直に説明できるのである。 そして、忠子が従三位に叙せられた永仁六年(1298)七月二一日は、伏見天皇から後伏見天皇への譲位という重大事件の前日であり、当時、亀山院側と後深草院側の間に頻繁な接触が行われていることを考えると、これは決して亀山院の忠子への愛情の現れ、などいう次元の話ではなく、亀山院が将来を睨んで尊治親王(ただし、親王宣下は正安四年〈1302〉六月)の地位を引き上げるための政治的演出だと考えるべきである。 同様に忠子が正安三年(1301)七月二○日に三四歳で准三宮となったことも、この年一月に、わずか二年半前に即位したばかりの後伏見天皇から大覚寺統の後二条天皇に譲位がなされたことを受けて、皇弟の地位の引き上げを狙った政治的演出であると考えるべきである。 とにかく、嘉元元年(1303)五月九日に恒明親王が誕生するまでは亀山院と後宇多院の関係は基本的には円滑であって、後宇多院が父亀山院に皇子・皇女を四人も生んだ妻を奪われてメンツをつぶされ、「激怒」せざるをえなくなるなどという事態はありえなかったと私は考える。 ☆遊義門院が極めて気位が高く、行動的で勝ち気な女性であったことについては、宮内三二郎氏の見解(「続とはずがたりの作者と遊義門院」)を批判的に検討する際に述べた。また、『増鏡』の「後宇多院の後宮」の場面を検討する際にも、西華門院・万秋門院との関係を中心に述べた。 ☆後宇多院が忠子の生んだ皇子・皇女を大切にしたことについては、森茂暁氏「後醍醐の誕生とその環境」が参考となる。また、恒明親王誕生以後の亀山院・後宇多院間の対立については森茂暁氏「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」が参考となる。 |
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