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※村山修一氏の略歴はこちら。
| 村山修一氏の見解 | 私の立場からの補足 |
一〇 荘園所領 中世公家の生活を支える第一の要素は荘園である。本章では定家の荘園を中心とし、これに準ずるものとして彼の知行国ならびに縁者の荘園中、交渉あるものにつき概観を試み、もって当代中流公家階級の土地支配の実体を明らかにしたいと思う。『明月記』を通じてうかがわれる定家所有の荘園は十数ヵ所に上るが、そのうち吉富荘(よしとみのしょう)・越部荘(こしべのしょう)・細川荘及び小阿射賀御厨(こあざかのみくりや)の四ヵ所は家領として伝領した性質のものであり、その他は一時的に上層公家から与えられたものであって、この点、前四者は定家にとり、とくに重要な所領であったといわなければならない。 吉富荘(略) 越部荘(略) |
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細川荘 兵庫県美襄(みの)郡にあり、神戸市の西北方にあたり、現在は三木市に入っている。細川村であった時代は、旧三木町の東北に位置し、村を貫いて東北より西南に流れる美襄川は三木町に出て平地を流れるようになる。この荘は河内国讃良(さらら)荘とともに、定家の姉八条院中納言(九条尼)の所領であったが、恐らくこれは父俊成より伝領されたものと考えられている。荘には成時法師という者が代官であったが、彼は外祖父内蔵助季時法帥の時から代々荘を知行してきたという。定家は熊野御幸の際路次の宿所として讃良荘やこの細川荘成時の世話をうけている。ところが建暦二年(一二一二)八月九条尼が嵯峨の別荘で重病に陥ったとき、讃良・細川の両荘を他人に譲与しようとした。ちょうど卿二品藤原兼子の使として九条尼と伊輔との間に生れた女が六日に病床へ見舞に来、細川・讃良両荘を兼子にゆずるようすすめ、九条尼はその旨の書面をつくり、「遺跡之輩憐愍(れんびん)あるべき由」をあわせて請願した。八日になって兼子から「両庄の譲り其の望無しと雖も、懇志の至、又感悦の由」書状を送ってきた。八日尼を見舞った定家はこの話をきき、この書面のやりとりに何とも意見を加えず、「只神妙之由」を答えた。さらに尼は定家に細川荘を、兄成家に讃良荘を譲るといった。定家はこれに対して、「此条更々侯べからず、惣じて存ぜざる事なり」云々と答え、譲与を拒否した。 |
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| 以上の『明月記』の記述から、九条尼は兼子にも定家にも譲与を辞退され、幸い病気は快方に向ったので、そのままになって、依然死ぬまで九条尼は両荘を保有したとか、兼子は辞退によって定家・成家に譲り、二人が一応はことわりつつも相続したとか、兼子の辞退はあったが結局兼子が本家職をうけ、領家職は依然一期の間九条尼が保有したとか、種々の解釈が分れているようである。しかし八条院領に本荘がみえることから、本家職は終始八条院がもたれたものであり、領家職及び預所職を九条尼がもっていたと見た方がよい。この領家職を兼子にゆずるといったのに対し、彼女はその望なしと一応は辞退した。しかし私は結局うけたものと推測する。それは例えば建暦三年八月、後藤基清が荘に対して違乱をなしたとき、兼子から上皇に訴え、九条尼自身も奔走していることからみて考えられるし、元来、定家が建暦元年従三位になったとき兼子にこの両荘を献ずるよう内約していたことから察せられる。恐らく定家は九条尼に強請してかようにしたのであろう。かくて定家は従三位侍従の目的を達した結果として、両荘の領家職を強引に兼子に献ぜしめたのである。「両庄の譲り其の望無し」去々の兼子の手紙を余り簡単に解釈してしまってはいけないであろう。如何に定家でもそこまで裏の事情は書きたくなかったであろう。但し九条尼もこのころは事実、一応兼子にも定家にも辞退されて、いろいろ迷ったのであろうが、定家がいま譲与さるべきでないという進言だけはうけいれて、二人に譲与することは思い止り、その代り兼子へは強引に献ずることとし、遂にそれが成功し、定家も希望を叶(かな)えられたと愚考するのである。やがて承久の乱を契機に兼子の勢力も衰え、九条尼も死んで、領家職・預所職は細川荘が定家に、讃良荘が成家に相続されたのであろう。 |
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| 嘉禄元年(一二二五)十月には九条殿掃除料として人夫を徴発せられ、同二年五月十八日には蓮華心院修理のため役夫(やくぶ)供出を責められ、安貞元年(一二二七)十二月には綿を課せられたが、綿は産しないとことわった。また寛喜二年(一二三〇)七月、持明院殿新御所造営にあたって西渡殿一間及び附設の簾(すだれ)及び白砂を割宛てられ、嘉禎元年(一二三五)十月には大嘗会の召物が課せられるなど、かなり臨時の賦課は多く、定家の荘園支配が強化された反面を物語っている。事実定家は後述するように源実朝の希望で歌の指導をした関係上、実朝の好意によって地頭職を与えられたから、承久以後は完全な定家の支配に入ったのである。なおさきの下司後藤基清の乱暴事件は、定家によると基清は私(ひそ)かに神人を召取り殺害し、勝手に前下司の譲りをうけ、領家・朝廷・幕府の何(いず)れにも告げず、妄(みだ)りに横領したので、定家の訴えに対し、基清は神人殺害者は前下司であり、下司職相続のことは領家に上申した筈だ、幕府にも諒解ずみのことで、ただ下司分の田を苅ったにすぎぬ、狼籍の事実なしと抗弁した。その結果上皇は定家にこの訴訟は穏便にすますよう仰せられた。この際上皇の内意は、事件解決の鍵を幕府に握られたくないこと、基清に恩をきせてみずからの御領にしたきことの二点にあったようである。ゆえに穏便の沙汰を命ぜられたので、定家は「近代の事只斯(かく)の如し」とあきらめているところからも、上皇の荘園政策が甚だ野心的なものであったことを推しうる。承久以前の荘がかように脅威をうけていた時代と比べれば、承久以後の定家の経済的条件も本荘に関する限り、急に好転したことが考えられよう。 |
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| さて細川荘が有名なのは、定家の孫の代に為氏と為相の間で地頭職をめぐり相続の争いが起り、為相の母阿仏尼が関東に下ってこれを訴え、その間の紀行文が『十六夜日記』として著聞(ちょもん)したからである。阿仏尼は定家の嫡子為家の後妻であり、初め安嘉門院(邦子内親王)に仕え、四条あるいは右衛門佐と呼ばれた。為家には先妻である宇都宮頼綱の女との間に為氏・為定及び為教があり、正元元年(一二五九)頼綱が重病に陥ったとき、為家は十月二十四日の譲状及び十二月二十三日の書状を以て、為氏に細川荘・吉富荘及び後述小阿射賀御厨(こあざかみくりや)を譲り、但し為家の女が二条左大臣道良に嫁して生んだ女子には、一期(いちご)の間だけ、細川荘及び小阿射賀御厨の領家分は譲る。その女子が死んだのちは為氏の子孫で嫡子に立つものに返えさせるというのである。従って為氏は地頭職だけ譲られたわけであった。然るに為家が正元元年(一二五九)相続をきめてから四年後に、阿仏尼に為相が生れたので、文永十年(一二七三)七月為家は為氏に与えた本荘の地頭職を、為氏不孝(ふきょう)によるとの理由でこれをとりかえし(悔返し)、七月二十四日付譲状で為相に譲与したのである。この為氏不孝とは、為氏に不都合があったからではなく、幼い為相のため、阿仏尼が老齢の為家に迫った結果のものであろう。従ってこの相続変更には、為家も思い悩むところがあったらしい。恰(あたか)も彼は文永十年四月二十一日より日吉社に百ヵ日参籠するところあり、所領の問題についてもこの間に相当考えぬいたものと見られる。すなわち百日参籠がすんでから二十日程たって為相への譲状を認め、さらに八月二十四日には為氏に定家の日記を与える旨の手紙を書き、この日記が自分には宝に値いするものであること、相伝の和歌・文書は悉く為相に与えるが、返すがえすあだなることのないようにと心遣いを見せている。翌十一年、為家は再び細川荘地頭職の為相譲与の書状を認め、その翌建治元年(一二七五)五月一日、為家は七十八歳で逝去した。時に為氏は五十四歳、為相は十三歳であった。為家が死ぬと為氏は父の遺志を無視して細川荘の地頭職を押えて為相に渡さず、よって阿仏尼は朝廷や六波羅に訴えたが、目的は達せられなかった。当時悔返しがどれ位効力があるかは公家法・武家法によって見解が一致しないのみならず、為氏は亀山・後宇多両院の御信任厚く、阿仏尼の訴えは容易にいれられなかったのである。そこで彼女は意を決して鎌倉に下り、直接幕府に訴えたが、依然聴許せられず、阿仏尼の死後、弘安九年(一二八六)になって、為氏所有確認の院宣さえ下った。もとより為相側ではこれに抗訴し、遂に正応二年(一二八九)十一月悔返しは認められて目的は達せられ、細川荘は冷泉家の所有となった。 |
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