更新14.3/4
永井路子 「二条‥‥自作自演、わが恋の記録」
(『歴史をさわがせた女たち』.文春文庫.1978年.p51以下)
| 永井路子氏の略歴(『朝日人物辞典』より) |
| (1925〜)小説家。東京都生まれ。東京女子大卒。小学館に入社し,雑誌編集に従事。『近代説話』の同人となり,1964(昭39)年,『炎環』によって直木賞受賞。84年,中世を扱った歴史小説に新風をもたらしたという功績によって菊池寛賞を受賞している。現代小説『茜さす』も歴史小説のバリエ一ションであり,古代から現代に至る幅広い素材をこなし,また既成の小説概念にとらわれず,ユニークな小説形式に凝る作家といえる。敗戦による史観,価値観の転換の影響を受けて真の歴史に関心をもち,すぺての通史を疑いはじめて以来,現代感覚に富んだ歴史小説を書き続けている。その他に,『氷輪』『つわものの賦』などの史伝がある。(磯貝勝太郎) |
| 永井路子氏の見解 | 私の考え方 |
カザノヴァやドン・ファンには及ぶべくもないが、まず、ちょっとした「わが恋の記録」を書いた二条という女性がいる。西洋のオノコどものそれが、とかく量を誇る趣があるのに比べて、彼女のは量よりも質─―。一つ一つの恋が、それぞれ曰(いわ)くつきであるのも、日本的こまやかさと言うぺきか。 しかも登場人物がソウソウたるもの。天皇あり大臣あり、その他の貴族あり、坊さんあり‥‥。恋のパターンのいろいろを書きわけたのは紫式部だが、式部のがオハナシであるのに比べて、二条の書いた「とはずがたり」は、体験的報告であるところがミソである。 しかもおもしろいことに、彼女の告白を読んでみると、どこかに「源氏物語」との共通点がある。 ―ひょっとすると、源氏物語の読みすぎではないか‥‥ そんな気もしないではない。 |
|
| たとえば─。二条の初体験は十四歳の初春。女のしるしを見て間もなくのことである。邸の中がちょっといつもとは違う、と思っていたら、夜になって、後深草上皇がしのびで姿を見せ、そのまま、彼女を床につれていってしまう。 「ま、何ということを…いや、いや」 彼女は必死に抗(あらが)う。なぜならその日まで彼女は、後深草を父とも慕ってその膝元で育てられて来たのだから……。 |
|
| 彼女の母は大納言典侍(だいなごんのすけ)と呼ばれ、後深草の乳母だった。大納言久我雅忠(こがまさただ)との間に彼女を儲けたが、二年あまりで死んでしまった。だから彼女は、ほとんど母の顔も知らない。後深草は、母に死におくれた彼女をあわれに思ったのが、ずっと手許において、 「あが子(我が子)」 と呼んでかわいがってくれた。だから彼女は父の屋敷よりも、むしろ宮中をわが家のようにして育って来たのである。 |
|
| ―その父とも幕うお方が…… その夜はとうとう拒みつづけた。周囲は、そんな彼女を、 「思いのほかにねんねなのね」 「今どきの若い人にしてほ珍しいわ」 苦笑の眼でみつめている。そして次の日、 「私はね、そなたが十四になるのを、待っていたんだよ」 という後深草の囁きに、遂に彼女は身をまかせてしまう。 |
|
| このあたり、「源氏物語」の紫の上の話を地でゆくような感じである。しかも、のちに、後深草は思いがけない告白をする。 「じつはね、自分の新枕は、そなたの母なのだ」 少年が、乳母によって初めての経験をするというのは、よくあることで、珍しい話ではない。 「が、あのときは私はまだ少年だったし、典侍には、そなたの父をはじめ、何人も恋人がいた。気おくれがして、何やら恥ずかしく、思うままに愛しあう勇気もなかった。だからそなたが生まれると知ったとき、いわば母の腹にいる時から、この子が生まれたら、きっと‥‥と思っていたのさ」 |
| 上皇の告白に眼を丸くしたり卒倒していただくと、先が書きにくくなる。いや、その前に、現在と当時は愛のモラルが違うのだということを前提にして読んでいただきたい。社会の全部がそうなのではないが、特に宮廷社会は、インモラルな雰囲気に満ちみちていたのである。 ところでこの話も「源氏物語」に何とよく似ていることか。源氏は、自分の母によく似た父帝のおきさき、藤壺を愛してしまったために、その藤壺と血のつながりのある紫の上に関心を持つようになるのだから。 この告白によって、二条は、後深草が今日まで、どんな思いをこめて彼女をみつめていたかを知る。今日の常識では、自分の母とかかわりのあった人なんて! というところだが、むしろその告白を通じて、二条は上皇の愛の深さを知るのである。 そしてこのまま納まってしまえば、二人はさしずめ、源氏と紫の上ということになるのだが、困ったことに、早熟な彼女は、すでに恋文をとり交していた男性がいた。一方の後深草には、父のように甘えていただけに、かえって男性としての魅力を感じなかったのかもしれない。 |
|
| 二条は、この恋人の名を「とはずがたり」の中ではあかしていない。一応文中では「雪の曙」ということになっているが、学者の研究では、西園寺実兼だろうと言われている。実兼とすれば、のちに宮廷で、かなりやり手として活躍する男である。 それから間もなく、二条は後深草の子を身ごもる。 「さては皇子誕生」 と喜んだ実父雅忠は、残念ながら、出産を見ないうちに死んだ。そしてそのころ乳母の家に里下りをしていた彼女は、訪れて来た雪の曙と遂に肉体の交渉を持ってしまう。身ごもっているということも、かえって彼女を大胆にさせたのかもしれない。ともあれ、ここで、彼女は後深草に秘密を作ってしまうのである。 彼女が皇子を産んだのはその翌年、その後も里下りして、ずるずると雪の曙との逢瀬を続けているうち、はっと気がついたときは、彼の子を身ごもっていた‥‥。 |
|
| さあ大変、悪事露見! 悪知恵のありったけを働かせて、急いで後深草の許へ戻って交渉を持ち、 「また身ごもりました」と披露して御所を退出、こっそり不義の子を産み、上皇には、「流産いたしました」と報告する。このときは言の曙もお産につきそい、生まれた女の子は、その場からつれていってしまう。このときの彼女の告白が面白い。 「親子だから、かわいくない事はないが、まあしかたがない」 と、ごくあっさりしたものだ。のちに彼女は母と名乗らずに、よそながら成長したわが子の姿を見せてもらうが、ここでも母子もののお涙映画を予想した向きは大いにあてがはずれる。彼女の手記には、「もう人の子になっているのだから」としか書いていないのである。 |
|
| 雪の曙との交渉はその後も続いたようだが、今度は新しい男性が現れた。これも「有明の月」ということになっているが、後深草の異母弟の性助法親王の事らしい。後深草の病気平癒の祈祷によばれた有明の月に、二条が何気なく近づくと、思いつめたふうで恋を打明けられ、否やの余裕もなく、抱きすくめられてしまう。二条は、これについて、 「相手は尊いお方だし、声をあげることもできず‥‥」 と言っているが、多少いかもの食い的なアバンチュール精神もあったのかもしれない。が、有明の月は、恋上手な雪の曙とは勝手のちがう相手だった。 「私はこの年まで禁欲していた」 と言うだけあって、真剣すぎて気味が悪い。二条もいささかへきえきした様子である。いい加減逃げ腰になって後深草に告白すると奇妙なことを言いだした。 「あんまり拒むのは、かえって罪造りだよ」 有明の月との情事をすでに知っていたのかもしれない。このとき、さらに後深草は、 「まあ、私にまかせなさい。悪いようにはしない」 薄気味悪いようなものわかりのよさを見せて、積極的にデイトの機会を作ってやり、その結果生まれた子供の処置まで面倒を見てくれる。 |
| 彼女を真剣に愛していたはずの後深草が、これはいったい本気なのかと思いたくなるが、これがあの社会の何ともはやおかしな所であって、その代り、後深草も、二条に手引きさせて町の女や、斎宮(いつきのみや)だった異母妹との情事を持ったりしているのだ。そして二条も、それを怒る気配もなく、すぐ言いなりになってしまった相手のことを、 「もうちょっと焦(じ)らせてあげれば、おもしろいのに」 などと評している。 |
|
| また有明の月の事についても、あれだけ面倒をみてもらっておきながら、その後も、後深草に内緒で交渉をもち、またもや子供を身ごもったりしている。その間に有明の月が急死したので、二条は今度はたった一人で子供を産む羽目(はめ)に陥った(もっともその子をどうしたかは文中には出て来ない)。 |
| そのほか、伏見の離宮で、酔っぱらった関白鷹司兼平に袖をひっぱられて、ついうかうかと─といった、おじいちゃま相手の情事もある。このときも後深草は見て見ぬふりをしているらしい。 |
|
| いろいろ取りそろえられた情事の手帖を読み進んで蒼くなったり赤くなったりするのは野暮(やぼ)というものであろう。彼らの誰にも、さほど罪の意識はないのだから。そして「源氏」を地でゆくようにみえて、その実大きに違うところはそこなのである。「源氏」はさまざまな恋を描きながら、その底に重く流れる無常観やら人間の本質に迫る罪の意識があるけれども、二条たちは、そういう取りくみ方はしていない。 |
|
| 無責任で軽やか、いやもしかしたらスマートてドライなのかもしれない。情事から情事へとその事だけに没頭しているように見えて底の方では、ふっとシラけている。まあ、現代新しがっているようなことが七百年前のここに、ちゃんとそろっているのだ。もし二条が、冥土からふらりと戻って来て、現代の若者の行状を見たら、 「あんたたち、そんなことで新しがってるの、オホホホホ」 と笑いとばすかもしれない。 |
|
| たしかにー。性というものの世界にさほど新しい事は生まれないもののようである。 さて、その後二条はどうしたか。自分でははっきり書いていないが、当時皇位継承をめぐってライバル関係にあった亀山上皇(後深草の弟)などからも誘いをかけられることがあったらしく、それが理由かどうかはわからないが、後深草の皇后、東二条院に憎まれて御所を出される。 |
|
| さてこそ罪の報い─。と見えるが、そうなればなったで、さっぱりと出家し、鎌倉に、信濃に安芸にと放浪の旅に出る。放浪といっても乞食旅行ではないし、行く所で手厚くもてなされたりして、なかなか優雅なものだ。経済的にもかなり余裕があったのだろう。 |
| 諸国をひとめぐりして戻って来たとき、二条は偶然後深草に再会する。 「そういう姿をしていても、やっぱり誰か身のまわりにはいるのだろう」 と言われて、 「そんなことはございません」 などと答えているが、後深草がこの世を去るのはそれから間もなくのことだ。御所へ入ることを許されない二条は、葬送の夜、柩を追って泣きながら走り続けるが、いつか行列から取りのこされ、夜明けにやっと火葬の地に辿りついて、わずかに煙の立昇るのを見送る。最後の瞬間に彼女が後深草の淡々とした水のような愛を知るこのあたりはなかなか神妙である。多分後深草は、やんちゃな妹の、手のつけられない、いたずらっ子ぶりを苦笑するような思いで彼女をみつめていたのかもしれない。とすればこれも一つの大人の愛のありかたというぺきだろうか。 |
|
| ともあれ、女流の書き手の少ないこの時代、彼女はなかなか興味のある恋愛遍歴を残してくれた。特にこれが偽らない体験報告であるという点、日本の女性もなかなかおやりになるのだという強力な証言をしているともいえそうである。 |
|
| かといって、オミゴト、オミゴトと彼女こそ、性解放のヴィーナスなどとあがめ奉るのはどうだろうか。ここでもう一つの事をつけ加えておくと、彼女が恋愛遊戯に夢中になっているそのときは、蒙古が襲来したその時機なのだ。彼女はかなり長いこの作品の中で、その事には全くといっていいくらい関心をしめしていない。 |
|
| 一方では鎌倉幕府が、蒼くなって対策に苦慮し、九州では合戦も行われている、というその時機に、この政治オンチはどういうわけか。彼女一人を責めるわけではないが、これは当時の宮廷のおかれた位置を如実にしめしているとはいえないだろうか。当時の朝廷は政治的には殆ど無力だった。亀山上皇はこのとき「敵国隆伏」の額を書いて祈念しているが、当時の天皇及び朝廷のできることはそのくらいだったのてある。 |
| 政治的に浮上った存在は、必然的に社会に無関心になり無責任になる。それが続けばどうなるか、せいぜい関心を持つのは、セックスくらいになってしまうだろう。「とはずがたり」はそのいい見本でもある。 そして、そのことは、彼女の性のアバンチュールの大胆さ以上に、現代の我々に問題をなげかけてはいないだろうか。 |
| 二条の第一子出産の経緯について 二条の父雅忠が死んだのが1272年8月、「雪の曙」と関係をもったのが10月で出産が翌年2月10日であるから、二条は妊娠六か月で浮気をしていたことになる。さらに変なことに、二条は妊娠八か月目の12月に、付き添う人もなく醍醐の真願房の庵室に籠もり、そこへ後深草院と「雪の曙」があいついで来訪したと書かれている。特に「雪の曙」が吹雪の中を訪れた翌日は「日ぐらし九献(くこん)にて暮れぬ」(終日酒盛りで暮れてしまった)となっている。 永井路子氏を含め、学者・小説家たちはこれが事実だと言うのであるが、ずいぶん変な話である。1258年生まれの二条は1272年には15歳(数え年)であり、これが初産である。この時代、死産はもちろん、出産に際して母親が死亡することは当たり前であり、現にこの年の6月には後深草院の妃の一人の「御匣殿」が出産に伴い死んでいることが『とはずがたり』自体に書いてある。「六月の頃からは気分も普通でなく、妊娠の兆候があって、ひどく苦しい」と思っていた二条は、「御匣殿さへこの六月(みなづき)に産するとてうせ給ひにしも、人のうへかと恐ろしきに」(御匣殿さえ、この六月にお産をしてお亡くなりになったにつけ、人の身の上だろうかと恐ろしく思われるうえに)」(現代語訳は久保田淳氏『新編日本古典文学全集47』による)と言っているのである。 出産が病院で行われて、母子ともに死から免れることができるようになったのは本当にごく最近であり、かっては出産は文字通り死と隣り合わせであったのである。だからこそ東二条院が遊義門院を生んだ時のように、大勢の僧侶が呼ばれて祈祷を行ったりした訳である。 そういう時代において、父を亡くして大変な不安を抱えていたと自ら語っている15歳(満年齢なら14歳)の少女が、初産を控えた妊娠六か月の身で男を幾夜もひっぱりこみ、さらに妊娠八か月で醍醐のようなところに、しかも吹雪もある極寒の時期に付き人もなく引きこもり、あまつさえ終日酒盛りをやっていたというのである。精神異常か、鬼・悪魔の所行と言ってもいいような話である。 原文を読んでいると、場面が次々にかわり、そのひとつひとつがまことに興味深い内容であって、話の流れはそれなりに通っているのであるが、ごく普通の常識がある人間ならば、これは事実の記録ではなく創作ではないかと疑うべきではないだろうか。 なお、「御匣殿」について、諸注釈書はすべて三条房子としている。例えば久保田淳氏の 上掲書214・222pによれば「御匣殿」は「三条内大臣(藤原)公親の女従二位房子。藤原氏北家公季流三条。後深草院の女房で久明親王(後の鎌倉将軍)・行覚法親王・章善門院等の生母。遊義門院にも出仕したか。生没年未詳」となっているが、久明親王が産まれたのは1276年であって、『とはずがたり』から推定される「御匣殿」死亡の四年後である。 (以上については細川涼一氏「洛東山科における寺院の成立と展開−醍醐寺の歴史と真言密教寺院の展開」を素材として重ねて検討した。こちら。) |