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中村直勝 『増鏡の史実性について』−「国語と国文学」昭和36年6月号
(有精堂.日本文学研究資料叢書.歴史物語U所収)





中村直勝氏の略歴(※)
1890年大津市三井寺の社家に生れる。神縁なくして神職にならず、三高・京大・京都女子大に勤む。酒・煙草・魚介類を一切口にせず。古文書学専攻。著書、『日本古文書学』『荘園の研究』『南朝の研究』。淡交社より『光厳天皇』『京の魅力』『続・京の魅力』『奈良・大和路の魅力』『吉野・熊野路の魅力』『古都の門』等。大手前女子大学学長。
※『カラー京都の魅力』.淡交社.昭46の著者紹介による。1976年没。



中村直勝氏の見解

私の考え方

一.

 鎌倉時代の歴史を知るための恰好の史籍は宮廷関係ならば増鏡、幕府関係ならば吾妻鏡である事は、誰も知って居る通りであり、もしこの二書なかりせば、鎌倉時代史は殆んど解明されないであろうと思われる。勿論、鎌倉時代を知るための史書や史料は数々あろうが、その殆んど全時代に亘る歴史を書き、或る点まで事件の推移を説明してくれるものはこの二書を措いて外はないのである。



『吾妻鏡』「鎌倉時代の史書。五二巻。鎌倉幕府編。幕府の事跡を変体漢文で日記体に編述。源頼政の挙兵(一一八〇年)から前将軍宗尊親王の帰京に至る八七年間の我が国最初の武家記録」(『広辞苑』)。

 もう一度、この事を言葉を換えて言って見ると、鎌倉時代に関する古文書や古記録は沢山にあるけれども、それ等は何れも歴史を後世に伝えるために残されたものではなく、一々の事件を、事件の起った時に処理したというだけのもので、その事件の前後左右の関係を物語るものでもなく、その事件の纏い附いている因果関係を説明したものでもなく、ただ事件事件の一断片を血も肉もない骸骨の一片のように、残したもの、否、寧ろ残ったものにすぎないのであって、そこから歴史を知る事は、不可能である。歴史とは一つの事象ともう一つの事象との相互関係を見定めて、少くとも二つの事象を順序を整えて配列しなければならないものである。だから、断片がいくら数多くあったとしても、そこから歴史は生れて来ない。どうしても幾つかの史料を配列して見なければならないのであるが、その配列という事がまた非常に難儀な事で、何等の指向もなく、自由気儘に陳べれば陳べ得られるのであるが、それは歴史ではない。列べるのに何か列べる方針か、それとも暗示でもほしい。

 そうなると編纂された歴史書というものが必要になって来る。これは事件の本末関係を示すか、事件の起った年月日を明示してくれるので、断片史料の配列取扱に大きな助力となるものである。

 こうした史料と史籍との関係は、即ちいま本題にして取扱わんとする増鏡の史実性という事を述べる前に、当然、一考されねばならぬ問題なのである。何となれば、私はここで、増鏡という纏った歴史の書物を、個々別々で纏りのない断片史料を基礎として、批判しようというのであるから、その出発点からもう既に大きな無理と、無反省な矛盾があると言わねばならない。


二.

 さきにも言った事であるが、一つの事象を処理した所の一史料は、処理してしまえば、それで、その任務は果せた事となるから、その後は無価値となる、だからそれは当然後世に残して置く必要は無い。だからその任を果したらその瞬間に破毀されるべきである。後世に残らないのが本来である。だが、それは決して事件を「物語ろう」とするものでないから、正直そのものである。

 然るに、歴史が編纂されるという事は、編纂される必要があるからであり、何等かの目的がある事になる。自然、その目的に添うべく、筆が運ばれている。史料を羅列したのではない。史料に基いて事件の因果関係を究めたのであるが、それがなかなか公平無私に、事件を判断するという事が出来るものではないのである。理論上では、歴史は公平でなければならないと言う事は知っておっても、人間というものの弱さであろうか、未熟であろうか、どうしても事件の解釈に色が着いて来るものなのである。人間というものは神の様な純白さには成り切れないのである。故に、編纂された歴史には、或る何らかの色があり、偏りがあるのは已むを得ない。増鏡にも当然そうした弱味がある。だから吾人は、増鏡が、どの位に正確にして正道な歴史を伝えているだろうかについて一応の吟味を試みる事は、許されるべき学問であり、寧ろなされねばならない反省であろう。


中村氏の言われるように『増鏡』は『吾妻鏡』と並んで鎌倉時代史の究明に不可欠な書物であるので、その「偏り」を正確に把握しておかないと鎌倉時代史全体の認識を大きく歪めることになる。私は『増鏡』の作者は極めて特異な個性の持ち主であって、『増鏡』の「偏り」はおそらく中村氏が予想していたであろうより遙かに大きいと考えている。
三.

 増鏡は、何の必要があって編纂されたものであろうか。編纂をする以上、何かの目的があり、その目的に適うように編纂されるのは当然であろう。とすれば、増鏡の編述されたからには、何かの主張がその中に含まれているのであろう事は、予め察知すべきである。

 然らば、その目的は何であろうか。それを見究める事が出来れば増鏡の伝えた歴史に関しても、どの点が確かで、どの点が弱味であるかを見分ける事が出来るのである。

 そこで増鏡の序文に当るべき箇所、即ち書き初めの所にある清涼寺の尼の言葉に従えば、この物語は、水鏡、大鏡、世継、いや世継と相連続する仮名書の日本歴史書に引きつづいて、後鳥羽院以後の事を語り出したかに書いてある。それに従えば本書成立の目的は如上の歴史書につづったものである様な書き振りである。それ故に、もしその通りだとすれば、増鏡も一種の冷淡峻酷な歴史書にすぎないのであるが、私にはそうは思えない節がある。それは増鏡が後鳥羽天皇の即位から語り初め、建久三年三月十三日後白河天皇が崩御になったので、後鳥羽天皇が「偏へに世をしろしめして、西方の海、波しづかに、吹く風も枝をならさず、世治り、民安うして、あまねき御うつくしびの浪、秋津島の外まで流れ」と言って、天皇の御親政を第一に伝えている事は注目さるべきではないか。

『増鏡』序文の原文はこちら

清涼寺についてはこちら(『国史大辞典』)。





後鳥羽天皇(1180〜1239.60歳)
後白河上皇(1127〜92.66歳)
 これよりずっとさき白河天皇が堀河天皇に御譲位の後、白河院に入御、上皇として院政を初め給うて以来、鳥羽院、後白河院と連綿院政即ち上皇政治が行われ、天皇は殆んど位に備わり給うだけで、政治には触れ給わぬという変態的な政治であったのが、いまや珍らしくも後鳥羽天皇の親政時代が出現した事、しかもその天皇政治が風雨枝を鳴らさぬ御治世であった事を、口を極めて褒め称えたのである。そしてその一巻を「おどろのした」と名附け、鎌倉幕府の倒潰を図り給いながら、事志と違い、隠岐に流され給うた後鳥羽上皇のおどろの下の毎日を伝える事に主力を注いでいる。

白河院(1053〜1129.77歳)
堀河天皇(1079〜1107.29歳)
鳥羽院(1103〜56.54歳)


『増鏡』作者の後鳥羽上皇に対する評価は必ずしも高いものではないと私は考える。別途検討する。
 それに対照して最後の一巻「月草の花」では、後鳥羽上皇の成そうとして果し給わなかった鎌倉幕府討潰を成し達げ給いながら、後鳥羽上皇の轍を踏んで隠岐の荒渡に身をさらし給うた後醍醐天皇の御流浪の有様を描き、それから討幕の事成れる報を得て天皇めでたく京都に還御の事を記して、事のついでに二三の事を伝えた所までで、この巻を閉じているのであるから、増鏡一巻は後鳥羽天皇に始まり後醍醐天皇の建武中興に終ると言わねばならぬ。要するにこれは討幕精神であり、天皇親政の要求であると言い得る。

 それが増鏡編纂の目的であったと言うべきであろう。当時の言葉を以てすれば、「公家一統の政治」の実現を希う所に、狙いはあったと言わねばなるまい。

 繰り返して言いたいのは、それが増鏡の狙いであったとすれば、そこに増鏡の美点もあるし、そこに増鏡の著者に聞くべき点もあるし、また増鏡に若し偏見ありとすれば、大覚寺統に同情的であり、持明院統を白眼視しているという点であろう。

 その事は、著者が誰であるかを決定する事に相連関したものを含む事となろう。だから次には、著者が何人であるかを決定する必要がある。


後醍醐天皇(1288〜1339.52歳)
後醍醐天皇還御の場面の原文はこちら

「大覚寺統に同情的であり、持明院統を白眼視している」というのは疑問である。確かに後嵯峨院の遺詔の扱いなど両統対立の最重要場面においては大覚寺統寄りであるが、後宇多院とその周辺の人物についての悪意のある記事も目立つなど、大覚寺統一辺倒とも言えない。また、後醍醐天皇関係の記述の分量はかなり多く、内容も好意的であるが、後醍醐天皇御製の歌に関して極めて奇妙な扱いをしている箇所もある。私は『増鏡』の作者は基本的に大覚寺統の後醍醐天皇派に肩入れしており、後宇多院の系統にはかなり冷ややかな見方をしているものと考えている。なお、後醍醐天皇への高い評価は『増鏡』の成立時期と密接に関係していると思われるが、その点についての私の考え方は、後醍醐天皇御製の歌に関して極めて奇妙な扱いをしている場面に関連して述べた。こちら
四.

 増鏡が何等特定の自的を持たず、普通の歴史書のように、ただ故(ふる)きを温(たず)ねてという意味しか持たないものならばいざ知らず、その清澄なる文章と高踏なる文脈との間に、脈々として人に愬うるものを含む事は、一読した誰しもが、直ちに看取する所である。そうした人心の琴線に激しく触れる何物かがある故に、他の二鏡とは比較にならぬ程に、多くに読まれ、多くに好愛されるのではないか。

 とすれば、どうしても増鏡の著者が誰であるかを知りたい。若しそれが判れば、増鏡が求める所に対しても首肯が出来るのであろうし、その何人であるかによって、本著の内容に対する信頼の度合も決定するわけである。だから古来、国文学に少しでも手を染めた人は、大ていの人が、増鏡の著者を掴み知ろうとして、いろいろの候補者を挙げ、或はそれかも知れぬという臆説を出しているのだけれども、未だ何れも定説として万人の承認するものはないらしい。





ただ、『増鏡』には宮中秘話・好色話、さらには変態的な話も相当な分量で含まれていて、それが「清澄なる文章と高踏なる文脈との間に」同居しているために、一読した誰しもが困惑せざるを得ない面もある。
 それにも拘らず、私のような国文学の門外漢が、とやかくの議論をする事は、無作法の極みであって、控えるべきであろうかと思わぬでもないが、史学をやったものとしてはまた史学の立場から、どうしても著者を見知る必要がある、何とかして知りたい。誰某と明言出来ないまでも、どうした範囲の人々であるべきかという垣根位は判らし得るのではないか。そうした立場から、私は一つの臆測をして見た事がある。

 それは、許されれば詳述したいのであるが、紙数の関係もあるので極めて省略して要項だけを摘記して見よう。

 その第一は、増鏡の著者は歴史の家柄の人ではなかろうという事である。

 歴史を記すためには、どうしても幾多の史料を持っていなけれぱならぬ。史料を蒐め得る人でなければならぬ。然るに歴史を語る史料というものは、そう都合よく後世に貽(のこ)されるものではない。そう都合よく集め得るものではない。だから、もし幾代かに亘る歴史を語ろうとするならば、祖先以来何代かが、筆まめに事件の推移を記録して居らねばならないし、事件の真相を知り真髄に触れねばならぬ。宮中の記録を掌り、政治の大小に関知する小槻宿禰の家筋以外に、そうした条件に適いそうな家はない。増鏡の著者は、そうした幾代か積み重ねられた遺産の持ち主ではない。だから著者はその冒頭に、本書は釈迦の清涼寺に於ける八十の老尼の物語であると弁解し、「ひが事ぞ多からまし。さはさし直し給へ。いといとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かのふる事どもに、なぞらへ給ふまじうなむ」と言って、大鏡や水鏡等と同等に取扱ってくれるな、と断っているのである。これは八十の老尼の謙譲の言葉でもあるが、また同時に著者の立場を暗示する言であって、事実、増鏡の中には、他の史料と照合して見て、どうかと思われる点があり、紀年にも誤謬が無いとは言えないのである。












冒頭の場面は、狐と狸の化かし合いめいた雰囲気があり、語り手であるクセのある老尼の言うことを、そのまま「謙譲の言葉」と受け取るのは問題だと思う。作者はこの「謙譲の言葉」をニヤニヤ笑いながら言っている感じがするのである。
 第二の点は、増鏡が国家の力による編纂でない、と言う事である。言を換えると、本書の著者は、国家の力を動員する程の高位高官者ではないということである。或る程度の高さを有する家柄であると共に、或る程度の低さをも有する家筋であろうと思われる節がある。

中村氏は「ある程度の低さをも有する」と言われるが、諸階層の貴族の描き方や敬語の用い方に着目すると、作者が清華以上の最上級の出自の人であることは明らかだと私は考える。
 第三の条件は、後醍醐天皇の側近者であろうという点である。

 前述した様に、本書の筆致は、どう考えても後鳥羽天皇から後醍醐天皇に継承される公家一統の政治を謳歌する人の筆である事。後宇多天皇と後醍醐天皇との御間に隠れて介在した秘事がある事を漏らし伝えた事の如き、他の史料にては絶対に窺知を許されない程の大きな悲劇を知っている事。後醍醐天皇の隠岐御遠行の御様子を仔細に伝え、隠岐に於ける御日常を細かく知って居り、就中、世尊寺行房との御物語を詳知せる事、隠岐より御還幸の模様を洵に喜ばしげに記している事。

 そうした条項を数え陳べて見ると、この著者は後醐醍天皇の御傍の公卿でないかと推察されるのである。

「後宇多天皇と後醍醐天皇との御間に隠れて介在した秘事」とは後醍醐天皇の母、談天門院忠子(1268〜1319.52歳)のことを言っているのだと思うが、しかし『増鏡』の作者が後醍醐天皇の側近であれば、そのような「秘事」は知っていても書かないのが当然であり、中村氏の立場からは、あえてそうした不謹慎な記述をしていることについての説明が必要となるはずである。なお、談天門院の記事については、私は『増鏡』の作者がすべての事情を知りながら、あえて読者が誤解するような表現をしたのだと考えている。即ち、『増鏡』の作者は、本来は自分のような高貴な家柄出身の教養豊かな女性が后妃にも女院にもふさわしいのに、実際には家柄が低く才能もない女たちがそうなっていて、実にけしからん、と思っているような女性であって、談天門院に相当な悪意を持っていると仮定すると、当該部分の奇妙な表現も納得できるのである。談天門院についてはこちら(村松剛氏『帝王後醍醐』)。

世尊寺行房(?〜1337)は千種忠顕(?〜1336)とともに隠岐に同行した。後、金ヶ崎城にて戦死。
 第四の条件は、さればと言って、それでは天皇に供奉して隠岐にまで行った人の様でもない事がある。第十六の「久米のさら山」の巻では、後醍醐天皇を「先帝」とか、「前の御代」と言ったり、光厳天皇を「うヘ」とか「内」とか言ったりしている事は、後醍醐天皇が隠岐行幸の前に光厳天皇に御譲位があったかに記している事は、歴史学的に見て御譲位の事はともかく、事実に於いて後醍醐天皇の一旦の権義ながらの退位に際会して、心を痛く苦しめた人であると考えねばなるまい。

 こうした四つの条件を組合せて考察の眼を巡らせて見ると、本書著者の範囲はずっと狭められて来たのである。


五.

 そこで一つの鉤が見附かる。それは疑問の扉を開く鍵ではなく、開くぺき鍵を拾い上げる鉤である。そしてその鉤が拾い上げたる一つの孔は、増鏡が、何を最後に伝えて一巻の結語としているかという事である。

 即ち最終巻の終末のところで増鏡は四条隆資が蓄髪した事の訳を、細かく説明しているのである。

結末の場面の原文はこちら。四条隆資(1292〜1352.61歳)と後深草院二条の関係、四条隆資が登場する理由についての私の考え方はこちら
 隆資がさきに剃髪したのは本心から俗塵を避けようためにやった事ではなく、敵の目から身を隠さんがためであった。それが、今や公家一統の政治が成り、敵の目を掠める必要がなくなって見れば、緇衣を纏うて身を避ける要が無くなったので、再び、もとの俗の姿に返ったのである。それは丁度尊雲法親王が還俗されて護良親王と仰せられたのと一般であると言い張って居り「天台座主にていませし法親王(護良親王)だにかくおはしませば、まいて」と言って自分如き−それが隆資自身であるが−の還俗を合理化しているのである。

護良親王(尊雲法親王.1308〜35.28歳)
 思うに、四条隆資の剃髪も、別に歴史に伝えねばならぬ程の重大なる事件ではない。まして彼が還俗しようが、そしてそれがどんな動機からであろうが、わざわざ数行を使って伝えねばならない程の「歴史性」があるわけでもない。それにも拘らず、一公卿の剃髪蓄髪をかくも巨細に亘って記し、その由来する所についても相当の言葉を使って尤もらしい理由を陳べているのは留意せねばならぬ事ではないか。それ程の位置の人でもない隆資の事を、かくも記す、という所に、何か因縁があるのではないか。

中村氏のこの疑問はもっともであるが、通説(二条良基説)に立つ学者は、これに対するきちんとした説明をしていない。ただ、西沢正史氏(『「増鏡」研究序説』桜楓社)は、『増鏡』は未完成であって四条隆資の登場する場面は跋文ではないとされており、結論的には賛成できないものの、興味深い指摘であるので、別途検討したい。
 そうした推理から、そうした焦点の絞り方から、私の眼鏡に映って来たのは、四条隆資自身の姿であった。隆資こそ、増鏡の著者なのではないか。彼が著者であればこそ、彼の程度の身分柄であっても、清涼寺老尼の口の端に上り得たのではないか。

鎌倉時代の四条家の実力を考えると、「彼の程度の身分柄」というのは少し言い過ぎの感がある。四条家についてはこちら(角田文衛氏『平家後抄』)。四条隆資についてはこちら(平田俊春氏「四條隆資父子と南朝」)。
 私はそれ故に四条隆資が増鏡の著者ではないかと推定し、それを学界に提唱しているのであるが、誰からも賛成の拍手を得られない現状である。併しながら、四条家の過去を少し洗って見れば、私の見当はあたっているように思われるのであるが。


中村氏が四条隆資説を最初に唱えたのは昭和七年、『岩波講座日本文学』に於いてであるが、それから六十年の歳月を経て、やっと竹本源吾氏から「賛成の拍手を得られ」ることとなった。竹本源吾氏の見解はこちら
六.

 四条隆資の家は大体に於いて大納言を止りとする家筋で、その始祖は右大臣魚名である。四条を名乗ったのは隆資の祖父隆親からで、その妹貞子は西園寺実氏に嫁し、後嵯峨天皇の后大宮女院や東二条院の母となり、洛北西園寺に住んだので北山准后又は今林准后と言われ、亀山天皇の御祖母である。四条家のこうした西園寺家──それはこの時代に於いて第一流の権勢家であった──との親近さを有したが、両統迭立にからみ着いて西園寺自身の内紛とから、両家の綱は余りの密着を示さなかった事と、鎌倉末期に現われた一種の下剋上から、近衛九条の摂関家は既に政界の彼方に没落し、代って権勢の座に着いた西園寺の家も信望を墜し、第二流第三流の大納言家の辺に政界の重心が移って来た機運に乗じ、日野、万里小路、四条の程度の公卿が中心になり、それは進歩主義的な大覚寺統の方に著しく現われた傾向であった。故に隆資の一族はみな後醍醐天皇の御一統に奉仕した。隆資の長子隆量は元弘の変に際して北条氏に誅され、次子隆童は護良親王に候して打死をした。第四子隆俊また南山に出仕し、その女少納言は後醍醐天皇に召されて、後の醍醐宮尊真を生み奉った。



四条隆親(1203〜79.77歳)
「隆資の祖父隆親」と記されているが、正確には隆資の祖父は隆顕(1243〜?)で、曾祖父が隆親である。隆資の父は『公卿補任』では隆顕、『尊卑分脈』『断絶諸家略伝』では隆顕の子の隆実となっているが、これは実父隆実が早世のため隆資が祖父隆顕の養子となって家を継いだものと考えられている(平田俊春氏「四條隆資父子と南朝」)。
四条貞子(北山准后.1196〜1302.107歳)は隆親の妹ではなく、七歳上の姉である。
西園寺実氏(1194〜1269.76歳)
大宮院(1225〜92.68歳)
東二条院(1232〜1304.73歳)
西園寺家についてはこちら(龍粛氏「西園寺家の興隆とその財力」)。
隆資には六人の子があったが、早世した一人をのぞき、残りは南朝方として父と行動をともにし、結局、全員が討死ないし処刑されて、隆顕の系統の四条家は廃絶となっている。『とはずがたり』では、善勝寺大納言隆親は軽妙洒脱な小太りのひょうきん者として登場しているが、その子孫の運命を考えると暗澹たる気持ちになる。なお、隆顕の兄弟である房名の子孫の四条家と、隆良の子孫の鷲尾家は存続し、明治維新後はそれぞれ四条侯爵家・鷲尾伯爵家となっている。
「足利義詮の兵が洛南男山の後村上天皇行在を犯した」のは正平七年(1252)年五月十一日であり、正平八年ではない。
四条隆資を作者だと考えれば、「北山准后九十賀」の記述が異常な分量になっていることの説明も確かに可能ではある。
中村氏は『増鏡』の最後の場面に四条隆資以外の人物が登場していることに気づいていない。私は、「墨染の」の歌の作者は隆資ではなく、もう一人の人物だと思っている。
 こうして後醍醐天皇と四条家との間には幾本かの綱がつながっている。隆資自身も蓄髪の後なおも南山に祗候し、終に家格を破って一品に昇叙され、正平八年五月十一日足利義詮の兵が洛南男山の後村上天皇行在を犯した時、奮戦討死をした。太平記や園太暦はその軍功を記すに吝かでなかった。やがて戦功によって左大臣を追贈される事になった。

 増鏡の中に今林准后の事は巻第四、第七、第十、第十三に出て、この准后は、たしかに両統時代のヒロインである事を明らかにし、亀山院後宮の秘事を漏らし伝える所があるなどを併せ考える時、増鏡の著者は、この隆資を措いて外にはないと思われる。増鏡の最後に記した「墨染の色をもかへつ月草の移れば変る花の衣に」の一首は、正に隆資自身の詠歌であろう。最後の巻第二十の巻名「月草の花」もこの和歌に基くものでこの辺のところは、如何にも隆資が還俗した事に就いての申訳らしく聞えるのも、どうやら、自己弁解らしい声に聞える。


七 .

 私のこうした結論は、或は図外れた横着かも知れないが、若し、増鏡の著者を誰かに比定しなければならないとすれば、そしてそれを吾人の知れる僅かの人々の中から求めるとすれば、四条隆資の外に持って行く所はなかろうと思う。

 而してそれは必ずしも窮余の一策である、とは思っていない。


八.

 著者を斯くの如くにして決定出来ないまでも見当を附ければ、次には増鏡の史実性に関しては自ら一つの限界が出て来る筈である。

 要言するならば、歴史の家でない著者の手許には正確にして誤り無き歴史を伝えるだけの材料が無かったから、年次その他については多少の錯誤があり得る。あっても不思議ではない。

 持明院統に対しては、或る冷視する所があり、その関係記述に、何となく温か味を欠く所がある。その代りに割合に嘘も書いていないであろう。







「多少の錯誤」の一例はこちら(遊義門院誕生の場面)。なお、従来、『増鏡』の叙述の誤りは作者の過失によるものとされることが多かったが、私は故意によるもの、すなわち作者がすべてを熟知しているのに何らかの目的でウソをついているものが殆どだと考えている。
 之に反して大覚寺統に関する部分は頗る同情的であるから、却ってその間に筆の曲りが無い事もない。とは言うものの大覚寺統関係の事、殊に内房に関しては恐ろしいまでに精通した記事が点在する事は見逃してはならぬ特色であろう。この実例を摘出して見る。


九.

 第八十八代後嵯峨天皇の後、皇子後深草天皇が御即位。次いで皇太弟亀山天皇が御即位になって後嵯峨上皇を本院と申し、後深草上皇を新院と申し上げ、本院が院政を遊ばしたから亀山天皇の親政ではなかったが、亀山天皇の皇太子にはその皇子世仁親王が御在坊の時である。



後嵯峨天皇(1220〜72.53歳)
後深草天皇(1243〜1304.62歳)
亀山天皇(1249〜1305.57歳)
後宇多天皇(世仁親王.1267〜1324.58歳)

後嵯峨院崩御の場面はこちら。後嵯峨院の遺詔が問題となる場面はこちら









伏見天皇(1265〜1317.53歳)
浅原事件が起きたのは1290年。また、「亀山上皇が御不快に思うて、浅原をして宮廷を騒がし給うたと、証言した男」とは西園寺公衡(1264〜1315.52歳)である。『増鏡』に描かれた浅原事件の様子はこちら

後伏見天皇(1288〜1336.49歳)
花園天皇(1297〜1348.52歳)
光厳天皇(1313〜64.52歳)
 文永九年二月十七日後嵯峨天皇が崩御になった。その七七日の御忌の済んだ後で、御遺勅が発表された。それによると「この頃の通例として、かかる時は後嵯峨院の院政の後であるから後深草上皇の院政となるべきであるに、亀山天皇の親政たるべき由の御遺勅であり、その後は永く亀山天皇の御流が在位せらるべし、とあったので、時の人は、後深草院の院政とばかり期待して居ったので案外の面持であったし、また仮りに、差し当りのところを天皇親政と仰せられた事はともかくとして、後深草上皇にも皇子が御座すに、それを指しおいて、亀山天皇の御末のみ、と仰せられたは、少し非道い御遺勅である」と書いている事。更にそれに関連して、伏見天皇の御時に、浅原為頼なるものが宮闕に乱入したと言う大変が起った事があったが、それは、後嵯峨院の遺勅を関東幕府が守らずして後深草上皇の皇子即ち伏見天皇を御迎えしたので、亀山上皇が御不快に思うて、浅原をして宮廷を騒がし給うたと、証言した男のあった事を記した所でも、後嵯峨院の遺勅なるものが皇統に就いて言及されたものであった事を確認せしめようと努力している事がある。もしかかる遺勅があったとすれば、後嵯峨故院に対する世上の非難はともかく、大覚寺統が永く九五の位を占められるべきで、持明院統は故院の遺勅を破ったのである事となる。若し然らば、後醍醐天皇の御立場は正当と言う事になり、伏見、後伏見、花園、光厳の御四代は無理な即位という事になる。これは皇統の正否を論ずる者に取っては頗る大きな問題なのである。

 ところが、一つの疑問は、かかる皇位を如何にすべきかという様な重大な政治問題を後嵯峨天皇は関東幕府に一言の御内示もなく、独断で決行する事が出来る御立場であったろうかという点にある。

 四条天皇の御後、皇位をどうするかが難解になった。幕府は、嘗て承久役に際して、唯御独りだけ後鳥羽上皇の討幕御計画あった時に、かかる事起らざれと努め給うた土御門上皇の御洪恩に酬い奉ろうとして、その皇子後嵯峨天皇を擁立したのであって、そうした困縁は、後嵯峨天皇をして独断を許されない様な条件の許に立たしたのは当然である。

四条天皇(1231〜42.12歳)

土御門院(1195〜1231.37歳)
幕府の後嵯峨天皇擁立の方針が朝廷側に通知された場面はこちら




「後嵯峨上皇の御遺勅」についてはこちら(三浦周行氏「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」)。

 当時の根本的な史料、例えば伏見宮家御所蔵の諸記録によると、後嵯峨上皇の御遺勅は、御所領についてはあったけれども、皇位については何もなかったのであり、すべてを幕府の決定に任すという事が平素の御意であったから、というので幕府が、後深草院の院政とすべきか、亀山天皇の親政にすべきかの決定に迷うて、後嵯峨院の中宮たる大宮女院に、故院の思召を伺った所、故院の御本心は天皇親政であったと返答したので、亀山天皇の治世となるのである。しかも故院の御本意はどうであったかは判らないが、仮りに大宮女院の言を真としても女院の口から、亀山天皇以後の皇統に関しては何の言葉も出されているのではない。

 それが事の真相である。とすれば増鏡の所伝は外皮である以上に、皮相の見である事が指摘出来ると思う。


「皮相の見」ではなくて、大覚寺統が正統なのだという政治的主張をするために、史実を意図的に改変して記載したと考えることも可能である。これは『増鏡』の成立時期にもかかわる問題であるが、この点についての私の考え方はこちら
十.

 少し紙数を超過したので恐縮であるが、もう一つ増鏡が真相を伝えている事の方を一例だけ挙げて置きたい。

 楠木正成に関する事である。後醍醐天皇が笠置に御逃幸なったとき、太平記によると天皇の御夢判断から楠木正成が召し出される事になってあるが、増鏡では、笠置行宮に諸国から馳せ集った武士の中に「事の始めより頼み思されたりし楠木正成の顔も見えた」と言った書き振りがあり、天皇と正成とが旧知であるやに記している所は、たしかに増鏡の記述が真相なのであろう。

 増鏡の史実性について言う事は、所詮、極めて難渋であって、確実である場合もあれば、不確実でもある場合もある。併し、他の類書の中では断然他を抜んでて史実を伝えてくれる。だから増鏡を無視しては鎌倉時代は釈けないであろう、という事になる。

楠木正成(?〜1336)が登場する場面は、「笠置殿には大和・河内・伊賀・伊勢などより、つはものども参り集ふ中に、事のはじめより頼み思されたりし楠木兵衛正成といふ者あり。心猛くすくよかなる者にて、河内国に己が館のあたりを厳めしくしたためて、このおはします所、もしあやうからん折は行幸をもなし聞えん、など用意しけり」となっている。
(「国文学」昭和32年12月号)





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