更新:10.5/17
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| (1918〜)小説家。東京都日本橋生まれ。早く母を失い,中学時代には父も死去したが,一高をへて1941(昭16)年東大仏文科を卒業。この年ネルヴァル『火の娘』訳を刊行し,堀辰雄の知遇を得る。42年福永武彦,加藤周一らとグループ「マチネ・ポエティック」を結成,東京音楽学校講師,海洋気象台嘱託をしながら作品を執筆。戦後は47年に福永,加藤と共著の『1946文学的考察』を刊行する一方,大河小説の第1編『死の影の下に』(47年)で戦後派作家としてひろく認められ,弟2編以下も52年にかけて『シオンの娘等』『愛神と死神と』『魂の夜の中を』『長い旅の終り』と順次刊行した。フランス小説の方法論を取り入れた,詩的で知的な長編ロマンの作家だが,風俗的恋愛小説でも『回転木馬』(57年),『恋の泉』(62年)などを発表。その後『空中庭園』(65年)は知的夫婦2組の悲喜劇をとらえた代表作となる。 一方妻の急死の衝撃によって神経症をわずらったが,その回復期に親炙した江戸漢詩にふかく分け入った評伝の大著『頼山陽とその時代』(71年,芸術選奨)とその後の『蠣崎波響の生涯』(89年,読売文学賞)は博識な知的美食家としての個性を生かした秀作である。初期の5部作と対をなす爛熟期の4部作は『四季』(75年),『夏』(78年,谷崎潤一郎賞),『秋』(81年),『冬』(84年,日本文学大賞)として完成,内的リアリズムと回想形式によって,主人公の愛と遍歴を重層的に表現している。(高橋英夫) ※1997年12月、逝去。 |
| 中村真一郎氏の見解 |
私の考え方 |
| サド侯爵風−−『とはずがたり』 政権が完全に鎌倉に移り、安定した北条氏の治世の続いていた頃、京都の宮廷社会は王朝の文化伝統を保持しながら、空洞化していた。彼等は現実のなかで実現すべき、何らの未来像をも持たず、武士階級に対する優越性を保証している貴族文化のなかで、実現可能な唯一の観念である「好色」だけが、極限にまで展開されることになる。 |
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| その一例は、十三世紀半ばの蒙古襲来の頃、宮廷に仕えていた一女性の回想録である。『とはずがたり』という、優雅な表題を持つこの回想録は、登場人物も、彼女自身が「たのむの雁」であり、恋人が「雪の曙」だったり「有明の阿闍梨」だったりと呼ばれて、全体が事実の記録というより、『源氏物語』的な生活の再現となっている。ただし人物たちの実名やその経歴は、今日では専門家によって正確に推定が行われているので、この回想録は事実に還元して読むことが容易である。 |
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| ここに展開されているのは、好色というものが、ほとんど唯一の目的となった人生であり、すべての人物が愛欲のために生きている。
院は少年時代に自分の童貞を与えた女性が忘れられず、その女が結婚して生んだ幼女(この回想録の筆者)を引きとり、やがてその女の成長を待って、恋人とする。それは『源氏物語』の紫の上の挿話の再現と言える。その幼女に対する欲望は、伝統的古典の世界に自ら没入することで、獣欲から美的なものに転化されるのである。 |
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| 院はやがて、その女を恋人であると同時に、自らの夜毎の恋の仲介役兼立会人にさせる。更には自分の弟の僧侶の恋人ともさせ、その後も政界の実力者に後見役を命じたり、─この時代の後見役というのは、性的関係を伴う保護者である─また別の弟であると同時に、宮廷内の反対派でもある新院とも、その女性を同床内で共有して、快楽の領域を限りなく押し拡げて行く。 |
| ここに見られるのは、恐らく日本文学のなかで空前絶後の、性的関係の奔放さであり、性的感覚の探究の深化であり、またその領域の拡大の冒険である。しかもこの回想録の人物たちは、そうした性的自由を、冷たいシニカルな放蕩者の精神態度で行っているのではなく、過度とも言える官能の遊びのなかに、同時に過度とも言える感情の戯れを混えている。 回想録の筆者自身、少女としてのごく早い時期に院と関係を生じたあとで、幼なじみの男性と、可憐な初恋を経験し、彼との性的交渉のなかに、二度目の処女喪失の喜びを味わっている。 |
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| またこうした性的饗宴の組織者である院は、極めて意識的な性哲学の完成者であり、彼はそのフリー・セックスなり、スワッピングなり、乱交パーティーなりを、堂々と人間の本来的に持つ可能性の実現であるとして、自覚的に実験をどこまでも推し進めて行く。 それは単に肉欲の満足のための行為の繰り返しという、カサノヴァ的な日常性の遊戯ではなく、性の領域の肉体的であると同時に精神的なあらゆる辺境への、哲学的な開拓という、サド侯爵風の試みなのである。 |
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| 彼は従って、どのような度外れな交渉をも、変態であるとは認めない。また人間の本能の実現を規制しようとする、どのような宗教的、あるいは社会的な枠、たとえば獣姦への罪の意識とか、一夫一婦制的道徳とか、そういうものを、一切、否定している。。 |
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| これがかつて平安朝においては、平衡感覚によって支えられていた、好色という紳士的生き方の、その究極的な到達点であった。かつての支配階級が、生活上の平衡を支える一方の柱である政治というものを失った代償として、もう一方の柱の性だけが無限に拡大して行ったわけである。 |
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| しかし、この院の哲学や、またこの回想録の筆者であった女性の、想像を絶する奔放な性生活は、当時の宮廷礼会における例外ではない。それは、その社会全体を風俗として覆っていた。 そして、より素朴で剛健な性道徳の支配する、新しい権力者である武士階級も、京都の文化保待者である旧貴族社会の、この性のモラルを、すぐれた伝統的美学として承認し、憧れてさえいた。 だからこの回想録の筆者も、その性生活の無拘束を何ら非難されることもなく、充分の敬意をもって、北条政府の礼法の指導者として、鎌倉へ迎えられている。礼法のなかには、恋の作法も入っていたことは、勿論である。 |
| ※中村真一郎氏の見解の詳細はこちら。 |