| 中西進氏の略歴(『朝日人物辞典』より) |
| (1929〜)国文学者。東京都生まれ。1953(昭28)年東大国文学科卒,34年大学院博士課程修了。東京芸大助手,成城大教授,筑波大教授を経て87年国際日本文化センター教授。『万葉集』の作家・作品・主題などの諸研究分野に中国文学との影響関係を追究した大著『万葉集の比較文学的研究』(63年。読売文学賞・日本学士院賞受賞)をはじめ,『万葉史の研究』(68年),『山上憶良』『万葉集の世界』(73年),『柿本人麻呂』(70年),『天智伝』(75年),『万葉集原論』(76年),『古事記をよむ』4巻(85〜86年)ほか著書多数。主専攻は古代文学だが,日本文学の全像を視野におさめた独自の研究・評論活動によって注目されている。(秋山虔) ※現在は帝塚山学院大学教授、国際日本文化センター名誉教授。 |
| 中西進氏の見解 |
私の考え方 | |
| 『増鏡』という歴史書の扱う時代が治承四年(1180)から元弘三年(1333)までであってみれば、その中にはまことに激しい動乱の世相が語られているはずである。たとえば平氏の没落、源氏の興隆とその衰滅、北条執権家の擡頭と京・鎌倉のあつれき、承久の変、蒙古の両度の来襲、皇統の分裂と迭立(てつりつ)等々、日本の歴史の中でも最も目まぐるしい混乱が、陸続と登場してよいはずである。 |
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| その作者は二条良基(にじょうよしもと)ともいわれ(異説もある)、建武元年(1334)から数十年間に執筆時期が推定されている(さらに後の執筆とする説もある)とすれば、作者は一層多くの政変と戦乱とを知っていたはずである。現に、対象とする時代をだぶらせつつ、『太平記』とよばれる書物は全四十巻という厖大な分量をもって、合戦のさまやそれにまつわる人間の運命を抑制的な冷静さをもって語っている。 |
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| しかし、『増鏡』はこれら戦乱を描くことがはなはだ少ない。立場は朝廷中心であり、まるで世の動乱が堪えかねる風雪であるかのような見方をもって、御代御代を語りついでゆく。王朝からの伝統の中に、誇り高く生きてゆこうとする精神を、多くの研究者たちが認めようとしているのも、故なしとしない。 |
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それでは、著者の中に明らかな時代錯誤(アナクロニズム)があったのだろうか。著者は追憶の郷愁の中にだけいた人間なのだろうか。そうではない。荒々しく攪乱されてゆく世相、凌辱されてゆく伝統的価値、そういったものが作者の視野に広がっていて、否応なく押し寄せてくる時代の変転の中で、大きく音をたてて崩壊してゆく何物かが、彼を著述へと向かわせたのであろう。たとえば後醍醐天皇の討幕計画がもれて、宮中が六波羅の武士どもによって荒らされるくだりは、
の如く述べられる。しのび寄る影が次第に形となり、また影を増大していってすべてが異形のものによって占められてしまう。そのようなものを時の流れだと認定することが、作者の歴史観の中にあったのではないか。 時間の流れは新たなる異形のものを許し、その中に価値が凌辱されてゆく。それが乱世というものであった。古き良きものが失われつづけてゆく。こんな作者にとっては、愛もまたその内の一つと見えた。 |
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| 後嵯峨天皇の皇女、やす子内親王(※)をめぐる人間模様は、『増鏡』が大きな関心をはらって描き出したものの一つである(巻九)。やす子は後嵯峨朝に伊勢の斎宮をつとめ、その崩御後三年にして都に戻ってくる。そしてさる一日、大宮院(おおみやいん.後嵯峨院の后、やす子の義母、後深草院の母)のもとで後深草院と顔を合わせる。その夜院はやす子の寝所に忍んでゆく。 このあたりは『増鏡』の筆者が『とはずがたり』を参考にしていて、同じことがそちらの方では院の愛人二条の側から語られているのだが、こちらではやす子を軸にして記される点におのずからの相違がある。『とはずがたり』の方では、斎宮がすぐに靡いてしまうところに力点があって、院がそのことを「美しいこと桜のごとくであったが、枝のもろい折りやすい花だった」といったと、半ば自分を慰めるように二条は書いているが、『増鏡』の方は抗いもせぬ様子を二度までも「らうたし」(弱々しい)ということばで語っている。 |
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| しかし『とはずがたり』との最も大きな相違は、二条がやす子のその後のことに全くふれないのに対して、『増鏡』がかなり具体的にそれを語りついでいることである。すなわち、院は当然のこととして間遠になりまさってゆくが、その後に愛を求めて来たのは、西園寺の大納言だったという。実兼、他ならない二条の初恋の相手で、ひそかに一女をうんだ男性である。そのことを二条が知らなかったとは思えない。知っていたとすれば、知りながらあえて筆にしなかったことを『増鏡』が書き立てたことになり、ある意味では残酷なことであった。 |
| いや残酷な仕打ちに逢っているのは桁(けた)はずれにやす子の方であって、かねて実兼から訪ねようといってきていた一夜、しのび歩きの左大臣師忠はやす子の家の前で実兼の車がくるのを見かけ、折しも開けてあった門の中に一まず身を隠して実兼をやりすごそうとする。何も知らないやす子方はてっきり実兼が入って来たと思い、そのまま几帳のところまで師忠を通してしまう。思いの他に女君と対面した師忠は、一方で「いとあさましう」思いながら、「一方(ひとかた)ならぬ御思ひ加はり給ひにけり」。 |
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片や実兼の方も、いってみると他の男の車が入っているのに驚いて、物見の者一人を残して帰ってしまうが、後に師忠の訪れたことを報告されると日頃もこういうことがあるのだろうと疑い、師忠はどんなつもりでいるのかと思い悩んで足が遠のいてしまう。しかし女君の方ではそんな事情を知らないから、
間遠になった実兼をいぶかしみながら月日を送るうちに懐妊に苦しむ身となり、しかし実兼は他に男がいると思っているから同情などはない。不愉快に思うばかりだったのも、いたし方のないことだった、という。 | ||
| やす子は弘安七年(1284)に世を去ったという。院との事があってから十一年後のことである。やす子が薄幸の生涯を早々と閉じざるを得なかったことに、右のような事情が無関係だったとは思えない。『増鏡』が右の記事につづいて実兼の心やさしい振舞を説いてはいても、やはりやす子は物の紛れに翻弄される悲しさを拭い得てはいない。 | ||
| そしてこの悲しみはまさに『とはずがたり』が筆を擱いた、院との「その後」にある。院のすき心にもてあそばれることもさることながら、その後実兼の求愛を受け入れたことも、師忠と対面したことも、それによって実兼から疎まれることも、彼女は一途に受動的であって自身の意志はどこにも作用していない。いわば彼女には予定された運命があって、それは屈辱にみちたものだったということができようか。筆著はそのことを「らうたし」というのである。「らうた」きものが汚濁にまみれるという、そんな時代の出現を筆者は愛において語ってみたのである。 |
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| やす子の事件が院との「その後」におこったといったが、もう一人、※子も亀山院との「その後」に一つの插話をもっている(巻十一)。※子は後嵯峨院の孫で宗尊親王の娘、亀山院の妃となったが「いとあざやかならぬ御覚え」だったので、院が出家した後は御所の一隅に捨てられたように置かれていた。年はなお盛りの頃である。もとより仕える人々もほとんどいない。ところがある初秋の「風あららかに吹き、稲妻けしからずひらめきて、神鳴りさわぐ、常よりも恐ろしき夜」、たった一人、今も宿直(とのい)に侍ってくれていた男が突如として恋を打ち明ける。「いとうたて、心憂(う)のわざやと思すに、御涙もこぽれ」るのだが、二人の仲は残りなくなってしまう。作者はここでも、「よよと泣き給ふさま、いよいよらうたし」と語っている。妃はやがて身ごもり、それとなく連れ出された所で出産したという。 |
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| 男は実は六条有房で、後にはとんとん拍子に出世して内大臣になったとはいっても、当時は一介の中将である。元の妃としては衿持が許さなかったであろうにもかかわらず、「その後」の空白の中では避けがたい運命だったと思われる。ここにも「らうたき」運命者が妃という位を汚濁にまみれさせる過程、それでいてどこまでも※子がゆゆしくうたてく流されてゆくさまを、筆者は語るのである。 |
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| いや、作者はこうした受難者だけを語るのではない。いかにも読者に比較を強いるように、※子につづけて語るのは位子(近衛基平の娘、亀山院の妃)のことであり、※子同様の寂寥の中に置かれている内に、一人の僧侶を愛し、一女までうんだという。位子はこの娘を溺愛したので、死後の財産の分配も「いといと猛にありき」という。この書きざまは、いかにも批判的である。 |
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まことに、作者は話題の提供者ではないのであって、こんな事を語るのも、今の世にみる事柄とて、それを思えばおのずから許されるだろうと思うからだという。『増鏡』は老婆が語るという体裁をとっているから、老婆はそういって、
というのである。「はしたなし」など、逆説以外の何物でもない。 |
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| 位子の淫乱もやす子や※子の受難も、実は同質のものなのであって、斎宮とか後宮とかという「伝統」の世界からさし放たれたものの品格がどのように当代の苛酷な世相につき崩されてゆくかを、作者は見つめていたのである。それは、どんな不倫も許されるだろうといって笑う老婆の、その乾燥した口許の不気味さに象徴されるほどに悲惨なものであった。歴史の転変による旧価値の凌辱が、そこには語られているのだと思える。旧聞を現在に重ね合わせるというところにも、現象のもう一つ根本にある歴史を見ようとする目が、顕著であろう。愛の無慚さも、そんな歴史の中の一つの風景なのである。 |
| 補説: 「とんとん拍子の出世」について 国文学者は、一般に自分たちが極めて繊細な神経をしていると思っているが、それは誤解である。狭い世界で純粋培養されている人は、繊細なのではなく弱いだけであり、愛だの恋だのといった分野で繊細だと思っている人間ほど、権力や組織について鈍感である。社会の中核にいる人間は、いつの時代でも強靱かつ繊細なのであり、弱くて「繊細」な人間は時代の傍観者にすぎない。そして傍観者には、現象だけはどうにか見えたとしても、その真の意味を理解することはできない。 中西進氏が権力や組織について、およそ鈍感なことは、六条有房に関し、「後にはとんとん拍子に出世して内大臣になった」と言っていることからも明らかである。国文学者の人物評を全く信用していない私は、常に歴史学者の見解と照らし合わせるように注意しているが、六条有房については、例えば本郷和人氏は次のように述べている。(『中世朝廷訴訟の研究』東京大学出版会.p265「廷臣列伝」)
たったこれだけの記述であっても、51歳でやっと参議ということから、当時の家格の持つ残酷な意味が感じられるし、また、それだけに有房が内大臣にまで昇ったことの異例さが伺われる。そして後宇多上皇が有房の死の直前に有房を病床で見舞ったことは、明治天皇が臨終の岩倉具視を見舞ったエピソードを想起させるものであり、後宇多上皇の有房に対する信任がいかに篤かったかを物語るとともに、後宇多上皇の性格を考える上で極めて興味深い事実である。 なお、有房は後宇多上皇・後二条天皇の関係から卜部兼好と接点があり、『徒然草』第136段では、極めて学識豊かな人物として好意的に描かれている。『とはずがたり』や『増鏡』で不名誉な書き方をされている人物について、『徒然草』で、その人物の別の優れた側面を見いだすことは他にも多くの例があり、この3つの書物の関係を考える上で興味深いが、その検討は後回しにせざるを得ない。 |