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『とはずがたり』年表
| ☆次田香澄氏『とはずがたり全訳注(下)』p454以下による。注記も次田香澄氏の原注。 ☆『とはずがたり』の年表を作成することについての私の考え方はこちら。 |
| 西紀・年号 | 作者 年齢 |
『とはずがたり』記事 | 参考事項 |
| 1242(仁治3) | 正月 四条院死去(12歳)。 3月 後嵯峨院即位(23歳)。 6月 大宮院※子入内(18歳)。 この年、宗尊親王生れる(母准后棟子)。 |
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| 1243(寛元元) | 6月 後深草院生れる(母大宮院)。 | ||
| 1246(寛元4) | 正月 後深草院即位(4歳)。 | ||
| 1247(宝治元) | 性助法親王生れる(母公房女)。 | ||
| 1248(宝治2) | 正月 太政大臣通光死去。 | ||
| 1249(建長元) | 5月 亀山院生れる(母大宮院)。 | ||
| 1251(建長3) | 10月(一説に12月) 続後撰集撰進(撰者藤原為家)。 | ||
| 1252(建長4) | 4月 宗尊親王将軍となる。 弁内侍日記(寛元4年より本年までの記事を収む)。 |
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| 1253(建長5) | 3月 後深草院元服(11歳)。 | ||
| 1256(康元元) | 12月 東二条院入内(25歳、院14歳)。 | ||
| 1257(正嘉元) | 10月 性助法親王出家(11歳)。 | ||
| 1258(正嘉2) | 1 | 『とはずがたり』作者久我雅忠女生まれる。 (母四条隆親女) |
8月 亀山院東宮となる。 |
| 1259(正元元) | 2 | 5月5日 母死去。 | 11月 後深草院譲位 12月 亀山院即位(11歳)。 |
| 1260(文応元) | 3 | ||
| 1261(弘長元) | 4 | 9月 作者後深草院御所に上る。 | |
| 1262(弘長2) | 5 | 11月 親鸞死去。 | |
| 1263(弘長3) | 6 | ||
| 1264(文永元) | 7 | 叔父雅光に琵琶を習う。 | |
| 1265(文永2) | 8 | 4月 伏見院生れる(母東の御方)。 12月 続古今集撰進(撰者、藤原為家ほか4名)。 |
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| 1266(文永3) | 9 | この頃、西行の修行の記を見る。 | 7月 将軍宗尊親王を廃す。 |
| 1267(文永4) | 10 | 白河殿試楽に琵琶を弾く。 | 12月 後宇多院生れる(母京極院)。 |
| 1268(文永5) | 11 | 2月 後嵯峨院五十賀、蒙古の事により停止。 3月 時宗執権となる。 8月 後宇多院東宮となる(2歳)。 |
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| 1269(文永6) | 12 | 嵯峨のかよひ路(飛鳥井雅有)成る。 | |
| 1270(文永7) | 13 | 9月 遊義門院生れる(母東二条院)。 | |
| 1271(文永8) | 14 | 巻一 元日 御所新年の儀で院と父雅忠密約。 その夕、恋人雪の曙(実兼)から文と贈物。 1月15日院雅忠邸に御幸。作者意に従わず。雪の曙から文がある。 同16日院再訪。ついに意に従う。 東二条院作者を憎む。 注1 8月頃か、東二条院御産、姫宮誕生。七夜の夜御所に人魂の怪異がある。後嵯峨院 発病。 |
3月 実兼権大納言となる(23歳)。 9月 蒙古使者来る。 12月 蒙古の難を伊勢に報告。 この年、永福門院(実兼一女)生れる。 風葉和歌集成る。 注1 実際は前年である。 蒙古、国号を元と改む。 |
| 1272(文永9) | 15 | 正月 後嵯峨院重態、嵯峨へ御幸。後深草院の御幸に作者供をする。 2月15日 六波羅南方時輔討たれる。 同17日 後嵯峨院死去。 同18日葬送。 父雅忠出家を頼い許されず。 5月 雅忠発病。 6月 作者懐妊の兆、父にわかに作者のため祈祷。 7月 院雅忠の病を見舞う。 8月2日 作者着帯の儀。雅忠作者に遺誡。 同3日 雅忠死去(五十歳)。 8月 父の葬送・弔問。北の方・家人仲綱出家。 9月 雪の曙と語り明かす。 10月 四条大宮の乳母の家で雪の曙と契る。 同20日 母方の老女死去。 11月 醍醐の勝倶胝院に籠る。院御幸、雪の曙来訪。 |
2月 後嵯峨院死去(53歳)。 注2 8月 雅忠死去、45歳。(公卿補任) 同 京極院死去。 注2 父雅忠の死去の時の年齢は『公卿補任』と異なる。 |
| 1273(文永10) | 16 | 正月 石清水八幡の門外まで参る。 2月10日 作者院の皇子を生む。 12月 雪の曙の子懐妊の兆の夢。 |
この年、昭訓門院(実兼二女)生れる。 |
| 1274(文永11) | 17 | 正月より後深草院、如法経書写のため精進。 2月 作者曙の子の懐妊を知る、その処置に心を砕く。 5月 里で着帯、御所からも着帯の使。 9月 重病と称して雪の曙の女子を出産、流産と称して他へ遣る。 10月8日 昨年出生の皇子死去。作者悩み出家行脚を思う。 この頃、院皇位継承の不満から出家の意を示す。伏見院の立坊定まり、出家中止。 11月 前斎宮嵯峨の大宮院訪問に、院も同席。院斎宮と契る。 同 東二条院作者を非難、院作者を弁護。作者の出自・来歴と待遇を述べる。 12月 院再び斎宮と逢う、作者曙と逢う。 |
正月 亀山院譲位、後宇多院即位。 10月 元軍、九州に来寇(文永の役)。幕府軍防戦する。敵船大風に漂没。幕府、西 国・九州・山陰の防備を厳にするよう命令。 |
| 1275(建治元) | 18 | 巻二 正月 東宮・院、方分ちして遊戯。 正月18日 作者東の御方と申合せ院を打つ。院の訴訟により贖いと定まる。作者の縁者の贖い、久我尼の反論により院の贖い。 3月 後白河院御八講。 同13日 結願の日有明(性助法親王)作者に恋を打明く。 3月 亀山院、御所を訪問。蹴鞠の酌に出る。のち亀山院から文を贈られる。 4月 六条殿長講堂新造成る。御堂供養に供をする。壺合せ。 8月 院発病。 9月 8日より延命供、御所で作者有明と契る。 同 六条殿御供花。伏見へ松取りの御幸。 10月10日 院「扇の女」と逢う。資行の連れて来た傾城、泣き帰り出家。 有明と文通。 |
9月 執権時宗、元の使者を鎌倉に斬る。 11月 伏見院東宮に立つ。 同 実兼、東宮大夫。 |
| 1276(建治2) | 19 | 院・亀山院花合せなどで多忙。 9月10余日 隆顕のはからいにより出雲路で有明と違う。作者絶交を決意。 12月 有明から起請文を送られる。 |
12月 隆親大納言に復す。隆顕の官を罷む。 |
| 1277(建治3) | 20 | 正月 有明院参、作者酌に出てにわかに発病。 2月 両院小弓。院の負態の女房の蹴鞠、作者も出で立つ。亀山院の負態に嵯峨殿で帳台の試みの催し。 3月13日ふたたび院の負け、伏見殿で源氏六条院の女楽を模す。作者琵琶を分担。祖父隆親と衝突して出奔、醍醐に隠れる。作者懐妊中。 4月 賀茂祭の御幸の桟敷を隆親用意。隆親、帝・東宮の元服の上寿に隆顕の大納言を借り返さず。隆顕父を恨み籠居。 同 末 作者醍醐で隆顕と会う、有明の月の噂。雪の曙、作者を尋ね出す。隆顕・ 曙・作者三人語り明かす。 院に迎えられ御所に戻る。着帯。 同 末日 曙との女児に再会。 8月 近衡大殿(鷹司兼平)院参。伏見で今様秘事伝授、作者大殿と契る。 |
1月 後宇多院元服の上寿に隆親奉仕。 同 経任大納言に任ぜられる。 2月 隆親大納言を辞す。 注3 5月 隆顕出家(公卿補任、父との不和不調による)。 同 春日神木動座。 10月 阿仏、訴訟のため鎌倉に下り、弘安3年春まで滞在。 12月 東宮(伏見院)元服。 同 春日神木帰座。 この年、春より病事流布。 注3 隆顕の出家を『公卿補任』では五月とする。 |
| 1278(弘安元) | 21 | 7月 院の第四皇子満仁親王(12歳)仁和寺の室に入る。法名性仁、戒師性助法親王。 12月 続拾遺集撰進(撰者二条為氏) この年も病事流布。 |
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| 1279(弘安2) | 22 | 7月 元の牒状到る。 9月6日 隆親死去、77歳(公卿補任) |
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| 1280(弘安3) | 23 | 11月21日 円満院浄助法親王死去(28歳)。 この年、春の深山路(飛鳥井雅有)成る。 弘安源氏論議。 この年項、十六夜日記成る。 |
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| 1281(弘安4) | 24 | 巻三注4 2月中旬 遊義門院病気のため有明院参。院作者と有明の関係を知る。院これを許す。 2月18日 院、作者の有明の子懐妊を予言。 5月 雪の曙と逢う。 初秋 院、有明に作者の懐妊を語る。 10月 嵯峨法輪寺に籠る。両院の大宮院見舞いに呼び出される。 亀山院から贈物。四条大宮の乳母の家に下る。有明通う。院訪問、生児の処置を指示。 11月6日 有明の男子出生、他へ遣る。 同13日 最後の契り、鴛鴦の夢。 同18日 かたはら病み流行、有明発病。 同25日 有明死去。稚児形見を持参。 |
注4 この巻の有明関係の年立は、史料と若干のずれがある。有明を朧化するために意識的にした点もあると思われるが、この作品の内部では前後矛盾を起こさないので、特に改めず、作品の年立に従う。ただし有明との関係復活は、もう少し前からであろう。 6月 元の大軍博多に迫る、防戦。朝廷各所にて異国降伏の祈祷。 閏7月1日 元軍の兵船大風により覆滅。 10月春日神木入京。 |
| 1282(弘安5) | 25 | 正月15日 有明の四十九日を行う。 2月15日 東山で法華講讃、夢に有明を見て発病。 3月 有明の第二子の懐妊を知る。 4月 御所よりの召しに参らず。亀山院との仲を疑われる。 8月20日 東山でひそかに男子出産、自ら世話する。 |
この年、神木在京のため公事行事等停止。 夏以来病事流布。 7月 日触正現。 8月12日 円助法親王死去(47歳)。 10月 日蓮死去。 12月19日 性助法親王死去、36歳(仁和寺御伝)。 同21日 神木帰座。 |
| 1283(弘安6) | 26 | 2月 嵯峨殿の彼岸の説法に供をする。時時出て幼児を見る。 初秋 東二条院の命により御所を退出、隆親の邸に行く。 注5 この秋、隆親死去(隆顕もすでに死去) 11月八幡に籠る。祇園千日参籠を始める。 同 東山で有明三回忌を営む。 |
この年も病事流布。 正月 日吉神輿皇居に入る。 注5 『公卿補任』では四年前の弘安二年とする。 12月 仁和寺性仁法親王灌頂、17歳。大阿闍梨准后法助。 |
| 1284(弘安7) | 27 | 2月 祇園社に桜の枝を奉納。 | 2月 前斎宮※子内親王死去。後嵯峨院十三回忌供養。 4月 執権時宗死去(34歳) 11月 開田准后法助死去(58歳) |
| 1285(弘安8) | 28 | 正月 大宮院から北山准后九十賀出仕を勧められる。 2月29日・30日、3月1日 北山西園寺邸で准后の賀の盛儀に参会。 3月2日 管絃の遊び、舟中の連歌。 |
3月 後二条院生れる。 注6 8月 遊義門院、皇后となる(後二条院准母)。 隆良、当時東宮亮。 注6 この時は資格としての皇后で、実際に後宇多院の後宮となったのは永仁五年である。 |
| 1286(弘安9) | 29 | この年、太神宮参詣記(通海)成る。 | |
| 1287(弘安10) | 30 | 10月 後宇多院譲位、後深草院院政。 | |
| 1288(正応元) | 31 | 3月 伏見院即位。後伏見院生れる。 6月 実兼女※子入内、雅忠女三条の名で出仕(『増鏡』) 7月 隆良従三位。 11月 後醍醐院生れる。 12月 東の御方(※子)准后、同日院号(玄輝門院)。 |
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| 1289(正応2) | 32 | 巻四 (この前すでに出家している) 2月20余日 作者都を出立。東海道の旅。 3月 熱田社に参籠。三島に参る。 同 20余日 江島に宿る。 鎌倉に入る。七月まで病臥。 8月 新八幡放生会を見る。 将軍惟康親王の廃されて上京するのを見る。 10月 久明親王着任の準備指導のため、管領平入道頼網邸及び将軍御所に赴く。 飯沼新左衛門邸の連歌に招かれる。 12月 河越入道の後室に誘われ武蔵国川口へ下る。越年。 |
4月 後伏見院東宮となる。 8月 基具太政大臣に任ぜられる。 一遍摂津で死去(51歳)。 9月7日 亀山院出家(41歳)。師親出家(49歳)。 9月 将軍惟康親王廃せられる。 10月 久明親王将軍となる。実兼内大臣。 この年、病事流布。 |
| 1290(正応3) | 33 | 2月10余日 善光寺へ出立。 高岡の石見入道仏阿の邸に滞在。 8月15日 浅草観音に詣でる。 武蔵野の歌枕を訪ねる。 9月10余日 飯沼判官と別れの歌を贈答、帰途熱田に寄る。 10月 一旦帰京、奈良の社寺を巡拝する。 春日神社・法華寺・春日正預宅・中宮寺・当麻寺・太子墓。 |
2月11日 後深草院出家。 3月 浅原為頼禁中に乱入。伏見院難をのがれる。 8月 久明親王母房子、従三位となる。 |
| 1291(正応4) | 34 | 2月初 八幡で後深草法皇の御幸に違う。一夜語り明かす。 同 熱田参籠の夜、炎上。 4月 伊勢の外宮・内宮に参り二見に遊ぶ。神官らと贈答、連歌。 熱田に詣で写経を営む、経巻供養。 |
熱田炎上、2月2日(歴代編年集成他) 2月13日 (熱田社神官田島氏文書)。 4月 久子、内親王・准后となる。 8月 皇后※子院号(遊義門院)。 12月 実兼太政大臣(43歳)。 |
| 1292(正応5) | 35 | 4月23日 飯沼判官上京、一行の出で立ち等を賞賛される。 9月6日 大宮院死去(68歳)。 12月 隆良参議に任ず。 中務内侍日記、弘安三年よりこの年までの記事を収む。 |
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| 1293(永仁元) | 36 | 注7 9月 伏見殿で一夜後深草院と語る。作者の誓言。 この後、院から生活上の慰問がある。 注7 作品では「またの年」であるが、正応五年九月は、院の母后大宮院の死去葬送の月にあたるので、いちおう次の年とした。 |
4月 平管領頼綱、次男飯沼判官誅せられる。 8月 伏見院勅撰集撰進の命、中断。 |
| 1294(永仁2) | 37 | (数年のうちに)二見へ再び赴く、記事中断。 | 6月 遊義門院、後宇多後官に入る(25歳)。 8月 鷹司兼平死去(66歳)。 |
| 1295(永仁3) | 38 | 5月 春日神木帰座。 12月 東大寺・八幡宮神輿帰座。 同 大神宮一の禰宜尚良死去。 |
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| 1296(永仁4) | 39 | ||
| 1297(永仁5) | 40 | 正月 前権大納言経任死去(65歳)。 7月 花園院生れる(母顕親門院)。 |
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| 1298(永仁6) | 41 | 3月 京極為兼佐渡に配流。 7月 伏見院譲位、後伏見院即位(11歳)。 8月 後二条院東宮となる(14歳)。 この年、一遍聖絵成る。 |
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| 1299(正安元) | 42 | 6月 西園寺実兼出家(51歳)。 | |
| 1300(正安2) | 43 | ||
| 1301(正安3) | 44 | 1月 実兼二女瑛子、亀山院妃となる(昭訓門院、29歳)。 3月 後伏見院譲位、後二条院即位。 8月 花園院東宮となる(5歳)。 |
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| 1302(乾元元) | 45 | 巻五 注8 9月初 厳島へ出立。内海の旅。 9月13日 厳島の大法会を見る画。 土佐足摺岬の堂の由来、補陀落渡海信仰の伝説。 土佐安芸の牛頭天王に参る。 讃岐の白峰、松山の旧跡にとどまり写経。大集経二十巻供養。 11月 女房を訪ね、備後の和知一族の邸に滞在。 広沢与三入道、鎌倉から下向。 江田に移る。江田・和知の兄弟争う。入道との奇遇に驚く。 |
注8 この年立も確定はできないが、東二条院・後深草院の死去の年から逆算して、これよりは下れないところである。 10月 北山准后貞子死去(107歳)。 12月 後深草院六十賀。 |
| 1303(嘉元元) | 46 | 2月末 入道来訪、続歌をする。作者送られて出立。 備中荏原から入道と歌の贈答。 吉備津宮に詣でる。帰京。 |
5月 恒明親王生れる(母昭訓門院)。 12月 新後撰集撰進(撰者、二条為世)。 |
| 1304(嘉元2) | 47 | 正月 東二条院の死去の報に感慨。 6月 後深草院の病をきく。 7月1日 八幡に籠り、平癒を祈る。 同15日 西園寺入道(実兼)に頼み夢のように院を見る。 同16日 後深草院死去。 同17日 葬送の車を追い、火葬の煙を見て帰る。 天王寺に参籠する。 9月 伏見殿に院の四十九日の仏事を聴問する。 写経の資に、母の形見を売る。 9月15日 東山双林寺で懺法を行う。 大集経二十巻を春日の本宮に納める。 父雅忠の三十三回忌。和歌の夢想を得る。 人麿の墓に詣で、夢想がある。 |
正月21日 東二条院死去(73歳)。 |
| 1305(嘉元3) | 48 | 3月8日 人麿影供を行なう。 父の形見を売り、大品般若経二十巻を太子の墓に納める。 7月16日 後深草院一周忌に伏見殿の仏事聴聞。 この頃亀山院の病を聞く。 9月10日頃 熊野へ写経のため出立。 9月20余日 那智神社で夢想に父・院・遊義門院を見る。 大品般若経二十巻を那智神社に納める。 帰京して亀山院の死去を聞く。 |
9月15日 亀山院死去(57歳)。 |
| 1306(徳治元) | 49 | 3月 八幡に詣で、遊義門院の御幸に逢い、言葉をかわす。 7月15日 深草法華堂に院の肖像を見る。 同16日 院の三回忌の仏事を聴聞。師重・通基と歌の贈答。 (跋文) |
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| 1307(徳治2) | 50 | 7月24 遊義門院死去(38歳) |

工事中