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西沢正史 「増鏡における とはずがたり の受容」
(『歴史物語講座第六巻 増鏡』.風間書房.平成9年.p145以下)



西沢正史氏の略歴( 上掲書による)
駒沢女子大学教授


※原文の傍点部分を太字に換えました。


1、『増鏡』における素材・典拠研究の意味を求めて

 日本文学史において、『栄華物語』『大鏡』『今鏡』『水鏡』と続く多彩な歴史物語の系譜の中で、南北朝時代に成立した『増鏡』は、独創的な歴史叙述の方法によって定評のある『大鏡』の影に隠れるように、いかにも古風なアナクロニズムに毒された、何とも風采のあがらない末っ子のような甘さをもち、中世文学として必ずしも注目されてこなかった作品である。

 しかし、いま改めて読み返してみると、末妹『増鏡』は、確かに長兄『大鏡』にはかなわないものの、他の兄弟たちに比べても、さまざまな点で、歴史物語のみならず、中世文学の世界の中で何ほどかの異彩を放っており、歴史物語の掉尾を飾る作品として、一定の評価を与えることができる。

 従来、しばしば言及されてきたように、歴史の中の人間をダイナミックに活写し、文学的な豊かさをたたえているという点では、『増鏡』は、同じ歴史物語の『大鏡』や、同じ南北朝歴史文学の『太平記』には及ばないかも知れない。が、もう少し視点を変えて『増鏡』を見つめ直してみると、その世界は、一途な古風さ・純粋さをもち、ある種の光沢をはらんだ特異な興趣性を有しており、中世文学における異端児としての意味を担うのに足りるものと考えられる。

 すでに十五年の昔になってしまったが、私は、『増鏡』研究の先駆的な意味をこめて、『『増鏡』研究序説』(昭57)をまとめたが、いま思えば、相当に若書きであり、あまりにも総花的すぎたかも知れない。

 そのころ、研究者としては駆け出してあった私は、多種多彩である点に特色のある中世文学に関する視点があまりにも狭隘で貧弱であったためか、その中世文学の一つである『増鏡』の世界がもっている、必ずしも豊饒とはいえないまでも、何ほどかの異彩さを評価しえなかったことを後悔している。

 たとえば、私は、前著の中で、次のような久保田淳氏の『増鏡』に関する評価に付和雷同してしまっており、その本当の文学的価値を見出だすことができなかったという慚愧を、いまだに切なく引きずっている。

 すなわち、久保田淳氏は、『増鏡』の文学的評価について、次のように述べられた(1)。

(『増鏡』は)たしかによくこなれた擬古文は流麗で、出来のよい古物語の世界に遊ぶような感はあるのであるが、承久の乱、文永・弘安の役、元弘の乱等々の大事件を含む時代を対象としているにもかかわらず、筆者の関心事は狭い公家社会の年代記からさほど出ているとも思われないのは、中世文学として特記するだけのものには乏しいのではないかと思わせるのである。

 十五年後の現在、もう一度、右の久保田氏の『増鏡』評価を読み直してみると、久保田氏がその後変節したかどうかは知らないが、中世文学の研究者を代表していると自他ともに認めているらしい久保田氏にしては、あまりにも狭量で浅薄な評価であったといわざるをえないように思える。

 もとより、私自身にしても、すべての中世文学に精通しているわけではないが、中世文学というものは、もっと多彩で、もっと広がりがあり、異端見さえも包摂してしまうような度量の広さをもつものとして理解すべきではないだろうか。モノカラーであった平安朝の貴族文化が拡散し、さまざまな階級が文化の担い手として錯綜したところから生まれた中世文学は、さまざまな可能性として捉えるべきであるようだ。

 南北朝動乱の時期を対象とした歴史文学だからといって、すべての歴史文学が戦乱の中における人間像を描くものであるとは限らない。戦乱期に生きながら、その戦乱から少し離れたところで、ひたすら純粋に、一途な精神によって宮廷文化を憧憬し、その物語的再現に情熱を傾けていた斜陽の公家も、確固として中世の人間の一人であったことを忘れることはできない。

 驚くべき偏見・狂気のアナクロニズムをもった一人の公家が、中世=戦乱の時代という現代の常識をくつがえすかのように、歴史から相当に遊離した立場において、ある種の文学的虚構の眼をもって、夢想的な歴史を描いたとしても、それはそれなりに“特記”すべき中世文学の一つなのである。そうした読み直しの観点は、近時急速に研究が進みつつある鎌倉時代物語(擬古物語)や中世日記文学に関する研究へも有効的であり、自らが研究対象としている作品を身びいきするという独善的なものでは決してない。

 さて、『増鏡』は、他の歴史物語以上に、多種多様の資料を駆使して、その作者の生きた時代(南北朝期)から遠く隔たった歴史的時間を再現し、歴史的世界を再構成した、いわば編年的性格の濃厚な歴史物語である。それゆえに、『増鏡』は、独創性に乏しいとか、中世文学として特記すべきものがないとかなどと批判され、文学性を相対的に低く見られがちであった。

 確かに、『増鏡』は、『源氏物語』をはじめとする王朝物語のように、深々と奥深い人間像を創出してはいないし、また『平家物語』のように、歴史の中における人間をダイナミックに描出してはいないし、さらに歴史物語の兄貴分にあたる『大鏡』のように、立体的な方法によって人間を活写してはいない、という点において、独創性に乏しく、必ずしも中世文学として光っているとはいいがたいかも知れない。

 しかしながら、『増鏡』における資料主義によった編纂的性格は、先行文学(特に中古文学)の剽窃的摂取によるところが大である中世文学−たとえば、中世和歌・鎌倉時代物語・御伽草子・謡曲などにも共通的に見出だされ、中世文学の創造という点と深く関わっている。そうしたことを考えると、中世文学、とりわけ編纂的性格の濃い『増鏡』のような作品を、独創性というような近代的視点からのみ考えるのは、どうも限界がありそうである。

 一般的に、古典文学における創造の意味は、個人の創造を焦点とする近代文学とは異なり、伝統をいかに創造に結びつけているか、伝統をいかに再生して創造となしえているか、といった点に新しい創造の意味を見出だすことが重要である。それは、古典文学における伝統の再発見ともいうべきものであろう。

 従来の中世文学における研究は、ある作品が影響を受けた素材・典拠の指摘、さらにその素材・典拠に何を新しく加えたかといった視点から創造性を論じたものが少なくなかった。しかし、『増鏡』のような資料編纂的性格が強い中世文学の場合、そうした従来の方法だけでは必ずしも十分ではなく、何を素材・典拠として選び出されたのか、その選び出された素材・典拠の中のどの部分(記事)が活用されたのか、という視点が重要である。

 思うに、古典文学にあっては、特に中世文学においては、われわれの想像以上に多くの資料や文学作品が歴史の波の彼方に散佚してしまっていて、ごく少数しか残されていないという推定を考慮すると、途方もなく広く深い伝承と資料の海の中から、作者が何を選び出したのかという文学的選択の行為は、その選び出されたものが作者の始源的な熱い共感と深々とした感動に支えられたものであるという点で、伝統の新しい発見、伝統の再生という重たい意味を背負っている。『増鏡』の研究は、そうした地平から始発させなければならないはずである。

 さて、『増鏡』の素材・典拠研究は、大正時代末の和田英松氏あたりを嚆矢とし、石田吉貞・松村博司・木藤才蔵・吉岡幹子・井上宗雄・次田香澄らの諸氏によって行なわれてきた。それらの諸氏が指摘・言及された『増鏡』の素材・典拠は、実におびただしい数になるが、最も慎重な木藤才蔵氏でさえ、

五代帝王物語・とはずがたり・舞御覧記・大鏡・今鏡・平家物語・土御門院百首・遠島御歌合・続古今集などのほか、古来風体抄などが資料とされていることは、ほぼ疑いのないところであろうと思う。

というように、『とはずがたり』など、相当に多くの素材・典拠となった資料をあげておられる(2)。これらのことからも、『増鏡』が先行の資料や文学を幅広く摂取・受容し、その構想に活用していることがうかがわれ、きわめて資料編纂的性格の濃厚な中世文学の一つであることが知られる。

 『増鏡』の夥しい素材・典拠を総合的・図式的に整理・分類し、その利用方法の分析によって、作品論への道を探ったのは、松村博司氏門下の吉岡幹子氏であった。すなわち、吉岡氏は、従来の研究で指摘・言及されてきた多数の素材・典拠を次のように三分類され、『増鏡』の特質を論じられた(3)。

@歴史を書くための、歴史的資料として、部分的に直接に用いられたもの……以下これを歴史的典拠という。
A作品に文芸的な深みを与えるために、作品の随所に使用された先行文学……以下これを文芸的典拠という。
B和歌に関するもの

 そして、@−Bの典拠利用方法の相違を検討し、『増鏡』三部構成説に従って、次のように述べられた。

増鏡の成立に関して、正中・元弘の変の記事が最も早くから作者の心で暖められており、それに呼応するように、承久の変の記事が考えられ、そういう腹案が長い間作者の胸の中にしまってあった後で、「とはずがたり」の出現によって中間部分が埋められて増鏡という作品が出来上ったという仮説を提案したいのである。

 右の吉岡幹子氏の論は、すでに塚本康彦の批判があるように(4)、いささか図式的すぎるかもしれないが、『増鏡』における素材・典拠の分類と差異の指摘から、構想論・作品論への方向性を示唆しているという点で、新しい展望への布石を拓いたものである。

 『増鏡』が摂取・受容した夥しい素材・典拠の中で、その作品全体と深い関わりをもつのは、『栄華物語』以下の歴史物語のほかでは、『源氏物語』『とはずがたり』『五代帝王物語』の三つであるが、特に『増鏡』の文学性に質量ともに大きな寄与を果たしているのは、前二者、つまり『源氏物語』と『とはずがたり』である。吉岡幹子氏は、その『とはずがたり』を歴史的典拠の一つとされているが、後述するように、『とはずがたり』は歴史的典拠と文芸的典拠との二つの性格を合わせもっているとみるべきであろう。

 さて、『増鏡』と、中世女流日記文学の白眉たる『とはずがたり』との関係については、従来、山岸徳平氏をはじめ、玉井幸助・呉竹同文会の諸氏・松本寧至・吉岡幹子の諸氏によって、影響個所が指摘されてきたが、最近に至り、塚本康彦・松本寧至・井上宗雄の諸氏によって、両者の文学的な比較研究がなされはじめた。私も、前著『『増鏡』研究序説』において、総体的な両者の比較研究を試みた。

 なかでも、塚本康彦氏は、われわれ後輩の『増鏡』研究者の意欲をそそらせるような刺激的・啓発的な論を発表されているが、三十年後のいま読み直してみても、その斬新さ・鋭さに驚かされる(5)(その後、塚本氏は、近代文学の方へ転向されたらしいが、中世文学研究者の一員である私としては至極残念である)。

 それはともかく、塚本康彦氏は、『増鏡』と『とはずがたり』との影響関係を論じた研究について、

『増鏡』の此所は『とはずがたり』の彼処を典拠としているとのさまを、両者のまさに機械的な比較によって、指示するばかりで恬然たる!のは残念でならぬのである。

と述べておられる。このような視点は、何と何とが似通っている、どことどことが関係がありそうだ、という、まるでクイズ遊びのような“研究”(作業?)に対する鋭い警笛の意味をもっている。蓋し名文句というべきであろう。

 とりわけ、『増鏡』のような編纂的・剽窃的な作品の少なくない中世文学研究にあっては、基礎研究という大義名分によって、単なる資料の発見・紹介に自己満足し、あるいは素材・典拠研究に狂奔している、いわば“重箱のスミ”型の研究が大手をふっているが、その関係性の背後にある、あるいは内在している作者のヴィヴッドな精神や思想を追究してゆかなければあまり意味がないであろう。

 さらに、塚本氏は、研究者の執筆意欲を駆り立てるような警抜な発言をされている。すなわち、前掲の吉岡幹子氏の論に対して、

先行作品の何処其処を後続作品がいかに模倣・剽窃したかを上段下段に分けて記し、胡麻点圏点を印して示すといった並列調査に止まらず、いかに換骨奪胎し、その結果そこにいかなる別世界を成就せしめたかをば美学的に、例えば誰の台詞が彼のに変えられて、或いは派手な形容句が一つ加えられたため、更には看板だった何行かがあっさり削られたがゆえに、という具合に追求されねばならないだろうと言いたいのである。

と、鋭く批判されている。

 いったい、古典文学研究者、なかんずく中世文学研究者の何人が、右の塚本氏の警言を真の研究的な意味で重く受け止めえるであろうか。塚本氏の批判の対象は、吉岡幹子氏であり、その師たる松村博司であるようだが、古典文学研究者のすべてを含むと理解すべきであろう。

 私自身にしたところで、十五年ほど前の若書きであった論文集『『増鏡』研究序説』において、右に掲げた塚本氏の論を引用し、そのときのそれなりに考察したつもりであったが、いま改めて読み直してみると、概して並列的・機械的・総花的であり、文学論的深味に欠けているという点で、塚本氏の真意を十分に理解していたとは思われない。若気の至りであったといわざるをえないのである。

 『増鏡』がなぜあれほどまでに『とはずがたり』の大きな影響を受けたのか、『増鏡』がいかに『とはずがたり』を換骨奪胎していったのか、『増鏡』と『とはずがたり』の出合いの意味は何であったのか、といった点は、前著では必ずしも明らかにしていないようである。今回、機会を与えられたことから、もう一度、前著とは異なった新たな視点で、『増鏡』の文学的方法と意味とを追究してみたいと思う。



2、『増鏡』における『とはずがたり』受容の方法T(「東二条院出産」の記事)

 さて、『増鏡』の中で『とはずがたり』に依拠して書かれた記事は、さまざまな典拠の中では群を抜いて多いが、その受容の方法は、必ずしも一様ではなく、かなり巧妙に使い分けられており、その文学性に大きく寄与している。

 たとえば、松本寧至氏によれば、『とはずがたり』を主たる典拠として書かれた『増鏡』の記事は、全十七巻中の中ほどの巻八−巻十の三巻にすぎないが、十八項目にのぼり、量的には『源氏物語』を抜いて最も多い(6)。

 いま便宜上、松本氏が整理された項目を参考にして私なりに再整理してみると、次のごとくおよそ十五項目となる。 (なお、「〈松〉(1)」は、松本氏が立てられた項目番号を示す)。

(1)東二条院の出産
  (『増』巻八「あすか川」→『と』巻一〈松〉(1))
(2)後嵯峨院の死
  (『増』巻八「あすか川」→『と』巻一〈松〉(1))
(3)後嵯峨院の三年忌
  (『増」巻九「草枕」→『と』巻一〈松〉(2))
(4)後深草院の出家決意
  (『増』巻九「草枕」→『と』巻一〈松〉(3))
(5)後深草院と前斎宮との恋物語
  (『増』巻九「草枕」→『と』巻一〈松〉(4)(5))
(6)持明院殿の蹴鞠会
  (『増』巻十「老のなみ」→『と」巻二〈松〉(6))
(7)後深草院の長講堂への移転
  (『増』巻十「老のなみ」→『と』巻二〈松〉(7))
(8)後深草院の長講堂供花
  (『増』巻十「老のなみ」→『と』巻二〈松〉(8))
(9)後深草・亀山両院の宮廷遊戯
  (『増」巻十「老のなみ」→『と」巻二〈松〉(9))
(10)北山准后九十の賀宴
  (『増』巻十「老のなみ」→『と』巻三〈松〉(10)〜(12))
(11)鶴岡八幡宮の放生会
  (『増」巻十一「さしぐし」→『と』巻四〈松〉(13))
(12)将軍の交代
  (『増」巻十一「さしぐし」→『と」巻四〈松〉(14))
(13)東二条院の死
  (『増』巻十一「さしぐし」→『と」巻五〈松〉(15))
(14)後深草院の死
  (『増』巻十一「さしぐし」→『と』巻五〈松〉(16))
(15)亀山院の死
  (『増」巻十{「さしぐし」→『と」巻五〈松〉(17)(18))

 右に掲げた各項目の記事については、すでに前著『『増鏡』研究序説』において、かなり詳細に具体的に比較検討しているので、ここではその結果だけを摘記しておく。

(A)『増鏡』が、『とはずがたり』の記事をかなり忠実に利用している場合

(B)『増鏡』が、『とはずがたり』の記事の一部を利用したり、全体の要点を摘記したりするなどの方法で、再構成している場合
(3)後嵯峨院の三年忌
(4)後深草院の出家決意
(6)持明院殿の蹴鞠会
(8)後深草院の長講堂供花
(9)後深草・亀山両院の宮廷遊戯
(12)将軍の交代
(14)後深草院の死
(15)亀山院の死

(C)両者の影響関係が明確に認められない場合
  (13)東二条院の死


 右の(A)(B)の各パターンにおいて、『増鏡』における『とはずがたり』受容の方法は、

(1)『増鏡』は、『とはずがたり』の記事の中で、作者二条に関わる私的な部分を、省略化・簡略化・一般化している。
(2)『増鏡』は、『とはずがたり』の私的・個人的な色彩の濃い記事に、政治的・歴史的な説明を補足したり、他の資料と重ね合わせたりすることによって、いくばくかの歴史的客観性を付与し、歴史の時間の中に定位している。
(3)『増鏡』は、『とはずがたり』の記事の中から、儀式・行事・遊宴などのほか、前掲の一覧表の中の(A)の(5)のように、『源氏物語』ヘの強い憧憬に支えられた鎌倉時代物語風(擬古物語風)の恋物語を取りこんでいる。

というような点があげられる。そこには、私的色彩の濃い日記文学から客観性を指向する歴史物語への転換、『源氏物語』的世界の縮小再生産ともいうべき鎌倉時代物語(擬古物語)的世界への傾斜、といった『増鏡』の受容方法が看取できる。

 ところで、問題はその奥にある。『増鏡』は、多種多彩な『とはずがたり』の記事の中から、なぜその記事を選んだのであろうか、という問題である。たとえば、他に適当な資料がなかったからであるとか、たまたま偶然的・恣意的に選んだのであるとか、いろいろなケースが考えられるが、とりわけ重要で大部な記事については、『増鏡』作者の始源的な熱い共感、深々とした思い入れに支えられたものと理解すべきであり、素材・典拠の重さに支えられた、伝統の再発見ともいうべき選択であったと考えるべきである。

 本稿では、そうした視点に立って、『増鏡』が『とはずがたり』から選択した記事のうち、質量ともに重要な位置を占めるものから、儀式・行事関係として、(1)の「東二条院の出産」、恋物語風の記事として、(5)の「後深草院と前斎宮との恋物語」、との二つについて視点を変えて改めて検討してみたい。

 まず、(1)「東二条院の出産」について考える。

 周知のように、東二条院は、鎌倉時代に摂関家をも凌ぐ勢いであった清華家の一つ西園寺家(実氏の娘)出身であり、後深草院の正妃として、宮廷社会に大きな力をもっていたが、『とはずがたり』によれば、作者二条を終始迫害し続けた悪役風に描かれている。

 『増鏡』における「東二条院の出産」の記事は、その三部構成説による第二部の巻八「あすか川」に、『とはずがたり』文永八年(一二七一)八月の記事によって、宮廷生活史の一場面として、次のごとく詳細に描かれている。


(中略)


 右の東二条院出産の記事について、行論の都合上、前著の結論を摘記してみると、およそ次のようになる。

(1)『増鏡』は、『とはずがたり』における、傍線(イ)の、作者二条の父雅忠大納言に関する記事と、傍線(ハ)の、二条の女性らしい感概を記した部分とを省略し、代わりに夫たる後深草院の不安げな心情を付加している。
(2)『増鏡』は、『とはずがたり』における、傍線(ニ)の仏教的記事を大幅に簡略化している。
(3)『増鏡』は、傍線(ニ)の、『とはずがたり』にはみられない部分を補足付加し、東二条院出産記事に関わる宮廷社会の政治的影響を説明し、歴史性を指向している。

 右のような『増鏡』における『とはずがたり』受容の方法は、出産記事全体を簡略化・客観化・一般化することによって、日記文学の歴史物語化を意図したものである。

 さらに、問題を拡大深化してゆくならば、『増鏡』は、なぜ、東二条院出産の記事を大きく取りあげたのであろうか。『とはずがたり』の多種多彩な記事の中から何故に東二条院出産記事をすくいあげたのか、という題材の意味が『増鏡』の場合には問題となるのである。

 ちなみに、『とはずがたり』の場合は、作者の二条が後深草院の後宮の人となった記事に続いて東二条院出産の記事が女性の羨望という視点(傍線(ハ)の部分)から書かれ、その七夜の人魂(ひとだま)事件後嵯峨院の死父雅忠の死へと続く、二条の不本意な人生の端緒という構想性のもとに書かれている。

 それに対して、『増鏡』は、いわゆる中間部分の巻八「あすか川」の宮廷生活史の一コマとして、東二条院出産の記を大きく扱っている。その巻八「あすか川」の記事を一覧すると、次のようである。(下の数字は行数)

 第八 あすか川

後嵯峨院五十賀試楽  48
富小路殿舞御覧 21
蒙古襲来の報  4
亀山天皇の皇子(後宇多天皇)立太子など  5
後嵯峨院観月歌合  9
後嵯峨院出家 15
月花門院薨去  6
後嵯峨院の御八講 14
後嵯峨・後深草両院の御方分ち 14
東二条院の出産 16
後嵯峨法皇病悩、崩御 28
大宮院・経任・公雄の出家 29
後嵯峨法皇の遺詔 22
亀山天皇親政・東宮病悩 18
内裏炎上 16

 右の記事をおよそタイプ別に分類してみると

(A)儀式・行事・遊宴など 111行(42%)
(B)人事  134行(51%)
(C)事件  20行(7%)

となる。(C)の蒙古襲来や内裏炎上などの歴史的事件よりも、(A)の儀式・行事・遊宴、(B)の人事などの記事が圧倒的に多く、『増鏡』が宮廷生活史であることがよくわかる。その作者にとって、蒙古襲来のような歴史的大事件よりも、皇室を中心とする、優艶と悲哀とが織りなす宮廷生活の方がはるかに重大な意味をもっていたのである。

 そうした宮廷生活史の中で、東二条院出産の記事は、出家・病悩・死去などの人事関係の記事の一つとして書かれているが、他の記事とは異なった意味を有している。

 巻八「あすか川」は、その巻名が、後嵯峨院の出家の決意を詠んだ歌、

我のみや影も変はらむあすか川おなじ淵瀬に月はすむとも

によったものであることからわかるように、全体として、出家・病悩・死去・火事などの、「飛鳥川」から連想される無常の悲哀−つまり人生のを書いた記事が多い(全体の50%)。

 ところが、東二条院出産の記事は、巻八「あすか川」の人事関係の記事の中では、たった一つ明るい色調を帯びたものである。確かに、この時の東二条院の出産で生まれたのが皇子ではなく姫宮(後の遊義門院)であったというマイナスを負うにしても、暗い色調の他の人事関係の記事の中で明るい色調のものであったという意味は決して小さくないであろう。

 すでに、福田景道(7)・伊藤敬(8)・小島明子(9)の諸氏によって指摘・言及されていることであるが、『増鏡』は、「明暗循環」「明暗因果流転」の方法によって歴史世界を描き出しているという。そうした方法は、歴史文学にしばしば見出されるものであるが、『増鏡』の場合には、文学的な意味をはらんでいて顕著な特色とみられる。

 右の巻八「あすか川」の場合も、前半は、五十賀試楽・舞御覧・歌合などのの記事が多いのに対して、後半は、病悩・出家・死去・火災などのの記事が多い。巻八「あすか川」は、全体としてみると、前半と後半がの色調によって書き分けられている点に特色のみられる巻である。

 さらに、巻八「あすか川」の人事的記事は、前にも述べたように、出家・病悩・死去などの暗い色調をもったものが多いが、「東二条院出産」の記事は、唯一の色調をもったものとして、特記すべき存在であり、その作者の素材的・題材的な選択の重さを負っている。『増鏡』が『とはずがたり』の多彩な記事の中から「東二条院出産」の記事を右のような意図によって選択し、作者二条に関わる私的・日記文学的な部分を削除し、政治的なコメントを付加したのは、素材の歴史的改変、題材の歴史的選択という意味をもった、いわば伝統の再確認、伝統の再発見というべきものと考えられる。



3、『増鏡』における『とはずがたり』受容の方法U(「斎宮物語」)

 次に、『増鏡』巻九「草枕」の圧巻、「後深草院と前斎宮の物語」(以下、「斎宮物語」と略す)について考える。

 『増鏡』の三部構成説による第二部の中ほどに位置する巻九「草枕」の半分以上を占めている斎宮物語は、後深草院と異母妹※子(がいし)内親王との恋物語であるが、ほぼ『とはずがたり』に依拠して書かれている。
※りっしんべんに「豈」

 斎宮物語の主人公である前斎宮(※子内親王)は、後嵯峨院の更衣腹の皇女で、後深草院の異母妹にあたる。彼女は、建治元年(一二七五)秋に斎宮を退任して伊勢から上京し、仁和寺衣笠に住んでいたが、義母にあたる大宮院(後嵯峨院妃・西園寺実氏の娘)から亀山殿に招待されたとき、異母兄後深草院に見初められ、近親相姦的な交情をもつ。

 『とはずがたり』においては、斎宮物語は、『源氏物語』における斎宮物語(後の秋好中宮が主人公)をふまえながら、作者二条が後深草院と斎宮の仲を取りもつというシュチエーションにおいて描かれている。しかも、手引き役の二条は、東二条院の嫉妬による出入り差し止めを受けるという非常事態の中で、「折りやすき花」であった斎宮への関心を失ないつつあった後深草院をけしかけるような方法で、再び二人の逢瀬を取りもったりしている。二条が自分自身をまるで恋物語の準主役のように描いている点は、日記文学としての面白さといえるかもしれない。

 それに対して、『増鏡』における斎宮物語は、巻九の巻名「草枕」が、『とはずがたり』には見えない後深草院の後朝の歌、

夢とだに定かにもなきかり臥しの
       草の枕に露ぞこぼるる

によっているように、巻九の後半部、全体の六○%(十一頁中七頁)にも及んでおり、宮廷生活史としての性格が濃厚な第二部の中でもとりわけきわ立った存在である。

 行論の都合上、前著『『増鏡』研究序説』によって、『増鏡』と『とはずがたり』との比較対照と、各段落毎に両者の相違点を摘記しておきたい。


(中略)


 以下、『増鏡』における『とはずがたり』の受容方法について、前著との重複をいとわず、整理してきた。その結果、全体的にみるならば、『とはずがたり』は、後深草院と二条との関係という枠組の中で斎宮物語を構想し、あまりにも初心(うぶ)で一途な、好色の院の恋の対象としてはひどく物足りない女性として斎宮を形象しているが、『増鏡』は、その『とはずがたり』に依拠しながら、それとは相当に異なった方法で、貴やかで、ものはかなげな女性が、男性たちの好色の波間に漂いつつ、あわれな運命に翻弄されて、歴史の流れの中に消えゆく、といった悲劇的人生を歩んだ斎宮像を形象している。

 『増鏡』の斎宮物語は、すでに松本寧至氏が指摘されているよように(10)、『伊勢物語』や『源氏物語』における斎宮物語の影響を受けつつも、それらの王朝物語とはかなり異なった、いわば鎌倉時代物語(擬古物語)に近いような世界である。一般的に、鎌倉時代物語は、自律的な意志が薄弱で、境遇や運命に翻弄されるままの優柔不断な人間を主人公とし、『源氏物語』などの王朝物語への憧憬・夢想などによって書かれているとされるが、『源氏物語』が決して書かなかったような遊蕩・退廃の世界へと踏みこんでいる。

 ちなみに、『増鏡』は、なぜか、兄妹などの危険な恋、現代風にいえば近親相姦風の禁じられた恋を書くことが少なくない。右に掲げた、巻九「草枕」における後深草院と斎宮(※子内親王)との恋のほか、巻七「北野の雪」における西園寺公宗と妹佶子との恋、巻十「老の波」における亀山院と妹の五条院(懌子内親王)との恋などがその代表的なものである。

 もっとも、巻十「老の波」の亀山院と五条院の物語は、数行程度で、「にがにがしき御事」と否定的に描かれているだけであるが、巻七「北野の雪」における西園寺公宗と妹佶子の物語、巻九「草枕」における後深草院と妹斎宮の物語は、相当のスペースをさいて描かれている。加えて、巻十一「さしぐし」における六条有房と亀山院妃△子の物語は、雷鳴の一夜というスリリングな設定で、注目されるものである。
△てへんに「侖」

 『増鏡』おける、そうした擬古物語風の恋物語は、従来あまり積極的な評価を与えられず、どちらかといえば否定的な異分子として捉えられることも少なくなかった。たとえば、鈴木一雄氏は、「歴史物語の限界を越えてまで、歴史物語には異質のような恋物語」と否定的に捉えておられ(11)、また井上宗雄氏も、「鎌倉期宮廷社会の一頽廃現象」と切り捨てられている(12)。

 しかしながら、『増鏡』は、巻七の公宗・佶子物語や、巻九の斎宮物語を、決して近親相姦風ではなく、むしろ肯定的に大きく取り扱っており、河北騰氏が言われるように(13)、歴史物語にふさわしくないというような否定的な観点だけではとうてい済まされない問題をはらんでいるといえる。

 そこで、もう一度、巻九の斎宮物語にもどって考えてみる。『増鏡』は、なぜ歴史物語にはふさわしくないと評されるような斎宮物語を、わざわざ『とはずがたり』から取りこんだのであろうか。たまたま『とはずがたり』にあった面白そうな記事だからという理由だけで摂取したにすぎないのであろうか。それにしては、巻九「草枕」の六○%を占めるほど大きな比重をもって、しかも斎宮の後日譚を設定するなどの巧妙な方法によって『とはずがたり』を潤色・脚色している『増鏡』の意味が理解しがたいのである。

 そうした方法を考えると、『増鏡』は、歴史物語にふさわしくないと評されるような記事−斎宮物語を初めとする擬古物語風恋物語を意図的に描こうとしたのであると考えられる。『増鏡』研究の中心であられる木藤才蔵氏は、次のように述べておられる(14)。

増鏡の作者は、源氏物語をはじめとする王朝の物語の面影を、鎌倉時代の貴族の生活に求め、王朝の伝統を確認しながら、歴史を書きつづっていったといえるのである。

 『増鏡』にとって、歴史としては異質・異端であるような、巻九の斎宮物語を初めとする擬古物語風の物語は、『源氏物語』的な王朝世界の再現・確認の意味をもったものとして、詳細に書かれている儀式・行事・遊宴などの記事と同様に、宮廷生活史という歴史の中に確固たるものとして定位されているとみるべきである。

 そういうふうに巻九の斎宮物語を捉え直すと、『増鏡』が、『とはずがたり』の私的(作者的)・日記文学的な部分を削除し、あわれな後日譚を加えていることは、一種の先祖返り風に『源氏物語』ヘ回帰しようとしたことを示唆する。河北騰氏は、『増鏡』における恋物語と『源氏物語』との類似点を比較検討されているが、巻九の斎宮物語の後日譚については、『源氏物語』の浮舟が薫君とまちがえて匂宮と関係した話、あるいは源氏が姿を消した空蝉の身代わりに軒端の荻と契った話などとの類想性を指摘されている(15)。

 確かに、『増鏡』は、全体的に、とりわけ恋物語について、『源氏物語』を意識して書いていることは明らかであろう。斎宮物語を具に検討してみると、ある点では『とはずがたり』を通して間接的に、またある点では『とはずがたり』を越えて直接的に、『源氏物語』の世界を指向し、夢想し、再構成しようと努めていることがうかがわれる。

 そうした『増鏡』の方法は、鎌倉時代物語(擬古物語)と類同的である。先にも述べたように、『増鏡』の斎宮物語は、『源氏物語』における女三の宮や浮舟を連想させるように、高貴ではかなげな美しい女性が、男性たちの間でさすらい、あわれな運命に翻弄されて、歴史の波間に消えてゆくといった薄幸のヒロインとして形象されている点で、鎌倉時代物語(擬古物語)と類似する点が少なくない。

 周知のごとく、鎌倉時代物語(擬古物語)は、『源氏物語』や『狭衣物語』などの王朝物語の世界への夢想と縮小再生産を指向しているが、年代記的な家の歴史と自律性に乏しい主人公の悲恋遁世譚を特質としているものが少なくないというが、それらの特質は、『増鏡』と類同的なものである。いわば、『増鏡』は、他の歴史物語の中では、最も鎌倉時代物語(擬古物語)に近い方法で書かれたものである。先に検討した巻九の斎宮物語は、そうした『増鏡』の鎌倉時代物語的方法によって書かれた典型的なものであるといってよい。

 『増鏡』と鎌倉時代物語との関係については、従来あまり言及されることがなかったが、最近小島明子氏によって、『増鏡』と擬古物語との関係が具体的に検討され、その擬古物語的性格が明らかにされたのは(16)、研究史上特記すべきことである。『とはずがたり』や『増鏡』のような作品では、鎌倉時代物語(擬古物語)との関係を具体的に考えてゆくことがその本質や文学性理解のためにはきわめて重要なカギとなるにちがいない。

 しかしながら、『増鏡』が、鎌倉時代物語と類同的であったとしても、鎌倉時代物語そのものではなく、歴史物語であるということは、決して閑却することはできない。いくら構想や表現が類同的であったとしても、鎌倉時代物語とは異なる歴史物語であるという点こそ、『増鏡』の本質や文学性に深く関わってゆく重要なモメントなのである。

 紙数も少なくなってしまったので、その問題については別稿に譲らざるをえないが、今後への展望の意味をこめて、『増鏡』巻九の斎宮物語に触れておく。

 今まで細かく具体的に比較検討してきたが、『増鏡』の斎宮物語は、『とはずがたり』の記事を大幅に利用しながら、さまざまな方法で、私的・日記文学的部分を排除し、抑制された表現のもとに客観的・歴史物語的に改変して描かれている。塚本康彦氏の一言を借用するならば、「『とはずがたり』のように生臭さが鼻を衝くことはない、艶麗であっても抑制が効いていて妙に崩れていない」ような高貴典麗な情趣がそこに見出される(17)。

 換言するならば、『増鏡」の斎宮物語は、日記文学とは異なった意味で、歴史の時間の流れの中に定位され、『とはずがたり』における二条の愛の軌跡といった日記文学的な束縛から解放され、他の儀式・行事・遊宴などの歴史的記事と並列的あるいは孤立的に歴史のワク組の中に定位され、一つの重要な歴史的意味を背負ったものとしての存在を主張している。

 結局、『増鏡』の斎宮物語は、『源氏物語』を規範とする鎌倉時代の宮廷生活史という歴史的な意味を負うことによって、その典拠とした『とはずがたり』とは異なった、物語風な歴史物語における一角を確固として占有しているものであるといえよう。




(1)久保田淳氏『中世文学の世界』(昭47東大出版会)所収「中世文学史への試み」。
(2)日本古典文学大系『神皇正統記 増鏡』(昭40岩波書店)解説
(3)吉岡(旧姓田尻)幹子氏「典拠から見た増鏡の性格」(『名古屋大学国語国文学』昭42・6月号)。
(4)塚本康彦氏「『とはずがたり」と『増鏡』」(『日本文学』昭43・1月号)。
(5)注4に同じ。
(6)松本寧至氏角川支庫『とはずがたり』(昭43)の解説、及び「『増鏡』と『とはずがたり』」(鑑賞日本古典文学『大鏡・増鏡』(昭51)所収。
(7)福田景道氏「『増鏡』の基調−二家系対象と明暗循環の構図−」(『文芸研究』平3・9月号)。
(8)伊藤敬氏「増鏡の思想」(『増鏡考説』平4新典社)。
(9)小島明子氏「『増鏡』の先例の意味−「明暗循環」説との関連−」(『国語国文』平5第62巻第9号)。
(10)注6に同じ。
(11)鈴木一雄氏「増鏡の文学性について」(鑑賞日本古典文学『大鏡・増鏡』(昭51)所収。
(12)井上宗雄氏講談社学術文庫『増鏡』(中巻)解説。
(13)河北騰氏『歴史物語の世界』第四編第一章「『増鏡』の文学性について」(平4風間書房)。
(14)注2に同じ。
(15)注13に同じ。
(16)小島明子氏「『増鏡」と擬古物語−恋愛情事記事に関して−」(『日本文学』平6・1月号)。
(17)注4に同じ。

 なお、本文の引用は、『増鏡』が日本古典文学大系『神皇正統記・増鏡』、『とはずがたり』が新潮日本古典集成『とはずがたり』による。 ただし、私意に表記を改めたところがある。

○付記 本稿は、行論の性質上、私の前著『『増鏡』研究序説』と重複するところが少なくない論であることを付記する。






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