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納富常天 「道元の鎌倉行化について」
(『駒沢大学仏教学部研究紀要』第31号.昭和48年)






納富常天氏の略歴
昭和二年生れ
神奈川県立金沢文庫元文庫長
※後日、補充します。



※難しいと思われた方はこちら。(東隆真氏「道元の生涯」)



 はじめに

 道元〔1200〜53.54歳〕の鎌倉行化は北越入山よりわずか五年を経過した宝治元年(一二四七)秋から翌二年春までの、約六ケ月間という短期間ではあったが、権門勢家への親近を否定し、深山幽谷に居して一箇半箇を接得し、関東下向の慫慂に対しても自主的参学を強調した道元の根本的立場に背反するものであった。

 しかしそのような思想的・宗教的問題を有する鎌倉行化は、東国における純粋禅の首唱であるばかりか、その後の東国における純粋禅興隆の先鞭となっていることは、日本禅宗史上注目しなければならない。

 従来道元の鎌倉行化については、大久保道舟氏「道元禅師伝の研究」、辻善之助氏「日本仏教史」「日本文化史」等をはじめとして、すぐれた多くの研究があり、すでに新資料が発見されないかぎり窮めつくされた感がないでもない。しかし資料が貧困で充分な究明が不可能であるということは、反対にまだ研究の余地が多く残されているということに他ならない。ここでは動機・実態・意義等二、三の問題点を中心に、鎌倉行化の真相を考察してみたい。


 (一)

 まず行化の動機について大久保道舟氏は、檀越波多野義重の慫慂、および良忠〔1199〜1287.89歳〕の内面的活躍を挙げており(1)、竹内道雄氏も「三祖行業記」「建撕記」等の諸伝は、いずれも時頼〔1227〜63.37歳〕の召請としているが、おそらく当時鎌倉にいた永平寺建立の大檀那波多野義重、および参禅の門人鎌倉光明寺開山記主禅師良忠の切なる懇請があり、これに時頼の招請が加わり、決意せざるを得なかったとなしている(2)。

 まず道元の外護者であり、大檀越であった波多野義重であるが、「永平広録」第三に、

宝治二年戊申三月十四日上堂。曰。山僧昨年八月初三日。出山赴相州鎌倉郡。為檀那俗弟子説法。今年今月昨日帰寺。今朝陞座。這一段事。或有人疑著。渉幾許山川為俗弟子説法。似重俗軽僧。又疑有未曾説底法。未曾聞底法乎。然而都無未曾説底法。未曾聞聞底法。只為他説。修善者昇。造悪者堕。修因感果。抛※引玉而已。雖然如是。這一段事。永平老漢。明得。説得。信得。行得。大衆要会這箇道理麼。良久曰。◇耐永平舌頭。説因説果無由。功夫耕道多少錯今日可憐作水牛。這箇是説法底句。帰山底句作麼生道。山僧出去半年余。猶若孤輪処太虚。今日帰山雲喜気。愛山之愛甚於初。(3)
※土へんに「專」
◇扁ははこがまえの中に「口」、旁は「寸」

とあるように、檀那俗弟子(波多野義重)のための行化であったことが知られる。

 いま「吾妻鏡」を中心として、波多野義重の略行実を探ってみると、第1表(略)のとおりである。

 これにより、波多野義重は道元の鎌倉行化の期間はいうまでもなく、その前後を通じて鎌倉に在住し、将軍家の随兵・供奉人として活躍していることが知られる。したがって檀那はまさしく波多野義重であり、義重の懇望により鎌倉行化は実現したものと思われる。

 つぎに従来記主禅師良忠上人の内面的活躍が強調されているが、これは否定されなければならない。良忠が鎌倉に入った時期については、諸説があり明確でない。すなわち今岡達音氏は弘長二年(一二六二)とし(4)、恵谷隆戒氏は正嘉二年(一二五八)末か、若しくは翌正元元年のころとなし(5)、大橋俊雄氏は「徹選択鈔」巻下の奥書「于時正元二年三月二十六日終功。然阿弥陀仏六十有二。発起三十八。同聞忍性四十八。又顕勝房二十七」(6)から、「徹選択鈔」の成立は下総の地と推定し、また「宗要集聴書」の「聴書者本末口伝鈔云、於鎮西御前宗要相伝已後、以師仰趣文応元年庚申六月十七日於佐介自取筆書、故云聴書」とあることから、良忠の入鎌は正元二年三月末から、文応元年〔1260〕六月初旬に至る約二ケ月間に求むべきである(7)となしている。

 いま因みに良忠の行実を簡単に考察すると、嘉禎三年(一二三七)八月三日、三十九歳で二祖聖光上人〔1162〜1238.77歳〕から「領解末代念仏授手印鈔」の印可をうけ、三祖としての地位を獲得し、その後石見・京洛さらには信州を教化し、「経歴諸国。上野。下野。武蔵。上総。下総。常陸。広談真実」(8)とあるように、東国に赴き宗義を宣揚している。東国における良忠の活躍が、いかに目ざましいものであったかは金沢文庫資料のみでも充分知ることができる(第2表(略))。

 以上のように下総・上総・常陸を中心として、「法事讃」「観経定善義」「観経玄義分」「往生礼讃」「無量寿経論注」「釈浄土群疑論」「倶舎論宗要集」の講義を精力的に開き、宗義の宣揚に努力していることが知られるが、その時期は建長六年(一二五四)ごろから正嘉元年(一二五七)末にわたっており、良忠の鎌倉入りは少なくともそれ以後ということにならざるを得ない。そして道元の鎌倉行化の時期における良忠は、石州・芸州の化導を終えて上洛し、宝治二年(一二四八)唱導文芸で有名な安居院聖覚〔1167〜1235.69歳〕の妹浄意尼の請により「選択集」を講ずる等(11)、京都を中心に活躍しているから、道元の鎌倉行化には何等関係がなかったことが知られる。そればかりか従来良忠は「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」(群書類従本)に、

加之仏心禅宗。教化別伝之旨。首経円覚之法門者。訪建仁栄西之門人栄朝道元等。法相三論華厳律等之宗旨。禀渡宋之律師泉涌俊▲。(中略)如入禅定。端坐而逝焉。(12)
▲「荷」の「可」を「乃」に替えた字。

とあり、諡号も記主禅師(13)とあることから、帰朝後間もないころの道元に参禅し、大きな影響をうけたとされているが(14)、群書類従本よりもその記録が正確とされる(15)慶安版「然阿上人伝」には、

仏心禅宗教外別伝之旨首経円覚之法門者訪渡宋之禅師法相三論華厳律等之宗旨禀本宗碩徳。

とあり、渡宋の禅師に禅を受けたとわずかにあるのみで道元の名はみることができない。

 このように道元と良忠は時間的に吻合しないばかりか、その相見も疑われる(16)程であるから、道元の鎌倉行化に対して内面的に活躍することもあり得なかったわけである。

 つぎに執権時頼〔1227〜63.37歳〕であるが、道元招請に関する資料は「建撕記」に「宝治元年二月二十八日改暦丁未八月三日、鎌倉ニ御下向ノコトハ最明寺殿法名道崇ノカタク請シ申サルル間御下向」(17)とあるように、時頼の積極的招請となしている。しかし道元自身の記録に時頼招請の事実がまったく見られず、また道元の権門勢下への親近を否定している立場からも納得できない。また「建撕記」は巻頭に「末世ノ童蒙等ノ、見易カラン為ニ、片仮字ヲ以テ、抜書之、殊者永平檀那第七世沙弥元忠、依所望之也、法孫比丘建撕記之」とあるように、末世の蒙童の理解を易くするためと、殊に永平寺檀那である波多野出雲守通定(沙弥元忠)の所望に応じて書いたことが知られる。したがって多少の誇張・曲筆があること、さらには時頼教化の事実を結果論的立場から叙述した関係から招請としたのではなかろうか。しかしまた具体的資料は皆無であるが、その前後に円爾弁円〔1202〜80.79歳〕興正菩薩叡尊.1201〜90.90歳〕を招請しているばかりか、蘭渓道隆〔1213〜78.76歳〕・兀庵普寧〔1197〜1276.80歳〕に参禅し、非常に求道心も厚かったから、道元の鎌倉行化はあるいは時頼の招請によるものか(18)とされていることも注目しなければならない。また「傘松道詠」の初めに「宝治元年相州鎌倉に在して最明寺道崇禅門の請によりて」と題し、十首の和歌が伝えられているから、時頼も教導にあずかっていたことは明らかであり、また興正菩薩招請が、北条実時1224〜76.53歳〕を通じて行われたことを考えあわせた場合、あるいは波多野義重を通じての招請であったかも知れない。

 このように波多野義重、および北条時頼の招請が道元の鎌倉行化に大きなカがあったと思われるが、さらに道元の俗系やその他の面からも綜合的に考察してみる必要がある。

 道元の俗系で関東に関係があるものは意外に多い。いま便宜的に父方の久我通親〔1149〜1202.54歳〕関係と、母方の藤原基房〔1145〜1230.86歳〕関係とにわけて考察してみたい。

      北条義時─┬女子──┐
              ├女子─┐│
              └女子  ├┼┬─顕親
       ┌通親─┬定通─ ┘│ └─顕雲
 源雅通─┤     ├道元    │
       │     └定親     ├──通清
       │             │
       └通資──通時 ──┘

 最初に久我氏関係では、(1)義時女、(2)定親、(3)三浦泰村夫人がある。まず義時女であるが、久我氏と北条氏との関係を「尊卑文脈」および「久我家系譜」により図示すると、前頁のとおりである。

 このように北条義時〔1163〜1224.62歳〕の女が道元の兄定通〔1188〜1247.60歳〕および従兄弟通時に嫁し、顕親〔1220〜?〕・顕雲および通清を儲けており、北条氏と久我氏が密接な姻戚関係にあったことが知られる。とりわけ通時は「明月記」天福元年十二月六日条に、

巳時許興心房来談給之次、聞左中将源通時、十一月廿三日於関東終命。

とあるように、天福元年(一二三三)十一月廿三日関東において没しているが、これは通時と関東との関係を如実に示すものである。また内大臣定通も宝治元年〔1247〕九月二十八日に六十歳で薨じているから、道元の鎌倉行化時まで存命中であったことが知られる。

 つぎに鶴岡八幡宮寺別当定親および三浦泰村室は、ともに久我通親の子、すなわち道元の弟妹である。まず定親であるが、定豪〔1152〜1238.87歳〕および行遍〔1181〜1264.84歳〕に灌頂をうけ、東南院の樹慶に「三論」を学び、嘉禄元年〔1225〕興福寺維摩会講師になるなど非常に博弁であった(19)。そして早くから東国に下り活躍をしていることが、「吾妻鏡」により知られる。いまその主なものを掲げると第3表のとおりである。

 以上のように定豪の後を襲い、早くから鶴岡別当職として、さらには東密の棟梁として、定豪の門流を支配し、大小の法会を主催したことが知られる。したがって道元の弟であり、鶴岡別当職として、幕府とも密接な関係にあり、さらには鎌倉における宗教界の中枢に位置していたから、道元の鎌倉下向に対する慫慂者としてもっとも相応しく、またその効果も大きかったと思われる(20)。

 つぎに三浦泰村室は、「吾妻鏡」に「泰村後家者。鶴岡別当法印定親妹也」(21)とあるから、定親の妹、すなわち道元の妹であることが知られる。三浦氏は為通−為継−義明〔1092〜80.89歳〕−義澄〔1127〜1200.74歳〕−義村〔?〜1239〕−泰村〔1204〜47.44歳〕と次第し、頼朝〔1147〜99.53歳〕以来の功臣であって、鎌倉幕府の確立、さらには北条執権政治の擁護に不抜の功績を残しているが、とくに泰村は執権政治の中枢にあって、その活躍はめざましいものがあった。

 また宗教生活においても累代みるべきものがあった。すなわち義澄は「前律師忠快向三浦。是義澄依有申請之旨也。碩学之故歟。義澄殊帰仏法之士也」(22)とあり、忠快〔1159〜1227.69歳〕に化導を受けているが、家連も「同十月応肥州刺史平家連之請。下向関東」(23)とあるように、泉涌寺俊▲〔1166〜1227.62歳〕を招請して裨益を受け、また義村は「於三崎海上。有来迎之儀。走湯山浄蓮房依駿河前司請。為結構此儀。兼参儲此所。浮十余艘之船。其上有件※。荘厳粧映夕陽之光。伎楽音添晩浪之響也。事訖有説法」(24)とあるように、伊豆山源延を招して、鎌倉における最初の迎講を営んでいることが知られる。このような三浦氏における仏教受容の動向(25)からも、泰村室が道元の鎌倉下向を熱望し、内面から積極的に推進したものと思われる。
※手へんで旁は「育」の「月」を「冉」に換えた字

      ┌義時
 時政─┤        〔藤〕
      └女子 宇都宮弥三郎頼綱妾、泰綱母、
        ┃         後天王寺摂政妾
        ┃           〔藤師家〕
        ┃ 或基房公子 僧正 横川長吏
 基房─┬師家─────承澄 号小川
     │            忠快法印灌頂
     │    悉曇師
     │    画図名人
     │
     ├尊澄      仁僧正
     ├忠房────良基 定豪僧正資
     └女子         延慶元十二入
        ┃
        ┠────道元
        ┃
 雅通──通親

 つぎに基房〔1145〜1230.86歳〕関係は(1)義時妹、(2)松殿法印良基、(3)承澄および尊澄がある。いま「尊卑文脈」によりながら、これを図示すれば上図のとおりである。

 まず義時妹ははじめ法然〔1133〜1212.80歳〕の弟子となり、一向専修の行者となった(26)宇都宮頼綱〔1172〜1259.88歳〕の妾であったが、後藤原師家〔1172〜1238.67歳〕の妾になっており、北条氏と松殿と姻戚関係にあったことが知られる。

 つぎに松殿法印良基は師家の弟忠房〔1193〜?〕の子で、道元とは従兄弟の関係であるが、早くから関東に下り活躍していることが知られる。いま「吾妻鏡」によりその行実をさぐると、第4表のとおりである。

 以上のように祈祷において霊験著しいものがあったらしく、将軍の病気御悩をはじめとして、祈雨・日月蝕・出産その他にしばしば活躍している。とくに道元が下向した宝治元年(一二四七)の三月二十八日には、将軍家御祈願による摺写不動尊ならびに慈恵大師像一万体の供養導師を勤めていることは、鎌倉の宗教界における良基の地位を示すとともに、幕府との密接な関係を証するものとして注目しなければならない。

 つぎに承澄および尊澄であるが、まず台密における儀軌および図像を集大成した「阿娑縛抄」の著者小川承澄〔?〜1282〕は、「悉曇師、画図名人」として名声が高く、藤原師家の子で、基房からは孫に相当する(27)。道元は基房の女子の子であるから、道元と承澄は従兄弟の関係に相当する。また承澄とともに「阿娑縛抄」撰述に大きな功績があった尊澄は基房の子であるから、道元および承澄からはともに叔父に相当することになる(28)。

 この承澄および尊澄は、いかなる理由によるか明らかでないが、鎌倉大蔵谷(多分覚園寺と思われる)や二階堂(多分永福寺と思われる)において著作活動を進めている。すなわち「愛染王」の奥書に、

       五月
宝治第二暦※賓上九日於関東大蔵鈔畢

とあり、さらに「安鎮本」に、

建長二年十二月二十三日於大蔵抄之書籍不具之間猶不尽心棘又々可抄加之。

とあって、その間「六字河臨法」「仁王経」「烏枢渋摩」「冥道供」「昆沙門天王」「吉祥天」「一切仏」「四天別総」「弁才天」「熾盛光」「大仏頂法」「文殊五字」「文殊六字」「求聞持」「虚空蔵」「烏枢渋摩」「五秘密」等を著わしている。とくに「安鎮」とともに「烏枢渋摩」には「書籍不具之間不尽心棘」とあり、参考文献が手許にないことを嘆いている。そのような状況下にあっても鎌倉へ赴いているのは宗教的事情、たとえば承澄の師忠快法印は、三浦義澄の外護をうけ、鎌倉で活躍をしている関係(29)によるものかも知れないが、あるいは前述の松殿一族の良基関係によったものかも知れない。もしそうだとすれば、承澄・尊澄の鎌倉における初見が宝治二年〔1248〕五月九日であるから、道元帰越直後である。したがって道元招請の背景と相通ずるものとして注目しなければならない。

 以上のように久我氏および松殿が北条氏と姻戚関係にあったこと、道元の弟・妹・従兄弟・叔父にあたる定親・三浦泰村夫人、良基・承澄・尊澄等が鎌倉の宗教界を中心に活躍していること等、道元招請の背景となる多くの因子が鎌倉に介在したことを思うとき、それらによる慫慂さらには促進の内面的働きかけが必ずあったものと思われる。


 (二)

 (以下、略)



(1)大久保道舟氏「道元禅師伝の研究」二八八頁参照
(2)竹内道雄氏「道元」二八五頁参照
(3)日本大蔵経「曹洞宗章疏」一・六三七頁参照
(4)「三祖然阿良忠上人年譜考」(浄土学四・一八頁)参照
(5)恵谷隆戒氏「然阿良忠上人伝の新研究」四四頁参照
(6)浄土宗全書七・一二三・上参照
(7)大橋俊雄氏「鎌倉光明寺草創考」(日本歴史一四六号所収)参照
(8)「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」(続群書類従九上・四一下)参照
(9)「金沢文庫古文書識語篇」では建長八年〔1256〕とあるも、六年の誤りである。
(10)建長七年〔1255〕三月四日はその後の調査で発見したものである。
(11)恵谷隆戒氏「然阿良忠上人伝の新研究」一一頁参照
(12)続群書類従九上・三九上−四四上参照
(13)「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」(続群書類従九上・四五上)に「伏見帝人王九十一代永仁元年癸巳七月。賜諡号記主禅師」とある。
(14)大久保道舟氏「道元禅師伝の研究」二八九頁参照
(15)群書類従本は巻末に「右記主禅師伝以貞享印本可一校了」とあり「貞享版」と同じとみてよい。簗田真教氏「三祖記主禅師伝記考」(浄土学第一集所収)および恵谷隆戒氏「然阿良忠上人伝の新研究」によれば、「貞享版」は「慶安版」に比較し、時代も下り、杜撰であるばかりか、随所に改竄の跡がみられるので、「慶安版」がより正確であるとされる。
(16)大久保道舟氏は「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」に「訪建仁栄西之門人栄朝道元等」とあることから、道元は栄西〔1141〜1215.75歳〕の弟子であったとされるが、道元と良忠〔1199〜1287.89歳〕の相見がないとなれば、「栄西之門人栄朝道元」を根拠とする栄西・道元の相見説も必然的に否定されなければならない。
(17)曹洞宗全書「史伝」下・二七頁上参照
(18)辻善之助氏「日本仏教史」中世篇之二・二八一頁参照
(19)「本朝高僧伝」(大日本仏教全書一○二・二五二下)参照
(20)「吾妻鏡」宝治元年〔1247〕六月十八日条に「鶴岡別当法印定親籠居。依若狭前司泰村縁坐也」とあるように、道元の鎌倉下向直前に、三浦泰村夫人の兄として連坐の憂目にあっているが、道元に対する招請はそれ以前に行なわれたと思われ、また別当職を辞任しても、上洛後は東寺一長者法務大僧正、さらには東大寺別当と累進しているから、運坐はその生涯を左右する決定的なものではなかったことが知られる。
(21)宝治元年六月十四日条参照
(22)「吾妻鏡」建久六年〔1195〕六月二十八日条参照
(23)石田充之氏編「鎌倉仏教成立の研究−俊▲律師」四一七頁参照
(24)「吾妻鏡」安貞三年〔1229〕正月二十一日の条参照
(25)拙稿「三浦義村の迎講−鎌倉における弥陀信仰を通して−」(三浦古文化第二号所収)参照
(26)「法然上人行状絵図」第二十六「御家人帰仰の巻」参照
(27)「尊卑分脈」(新訂増補国史大系五八・八一頁)参照。しかし註記に「或基房公子」とある。
(28)註(27)参照
(29)註(25)参照

 (以下、略)



第3表

西暦 年月日 事項
一二二四
一二二九

一二三一
一二三三
一二三五


一二四〇



一二四四

一二四五
一二四七
一二六五
元仁元年七月十六日
寛喜元年六月廿五日
      十二月十日
   三年四月十一日
貞永二年十二月十二日
文暦二年二月十五日
      六月廿九日
     十二月廿二日
延応二年一月十七日
        六月一日
        六月二日
        七月四日
寛元二年六月三日
      九月十五日
   三年十二月廿四日
宝治元年六月十八日
文永二年七月廿五日
北条義時五七日仏事の導師をつとむ
鶴岡別当となる
雷電のため大般若経の転読を命ぜらる
天変のため金剛夜叉法を修す
南御堂において八万四千基塔の供養導師をつとむ
定清等七人と涅槃経論義行う
五大堂洪鐘完成による曼茶羅供職衆つとむ
将軍の疱瘡平癒のため金輪法を修す
彗星出現により愛染王法を修す
最勝三経修法つとむ
祈雨法修す
祈雨のため十壇水天供を修す
天変に対し十壇水天供を修す
後鳥羽院御追福のため摺写法華経よむ
日蝕に対し北斗護摩修す
三浦泰村の縁坐により籠居
入滅



第4表

西暦 年月日 事項
一二二三
一二二九
一二三一
一二三二
一二四七

一二五二
一二五三
一二五六
一二五七


一二五八


一二六〇


一二六三




一二六五
一二六六
貞応二年六月廿六日
寛喜元年三月一日
   三年九月廿五日
   四年閏九月十日
宝治元年一二月廿八日

建長四年五月七日
   五年五月廿三日
   八年九月三日
正嘉元年八月廿一日

      十月十六日
   二年五月五日

      六月四日
文応元年四月廿二日
      八月八日
      十二月廿七日
弘長三年十一月八日
      十一月十三日
      十一月十五日
      十一月十六日
      十一月廿三日
文永二年九月廿一日
   三年四月廿二日
      六月廿日
勝長寿院五仏堂所において千日講結願導師
天変のため愛染王修す
来月一日触のための三壇御修法導師にきまる
天変のため一字金輪・北斗法修す
将軍家御祈願の摺写不動尊并慈恵大師像一万体
供養導師
祈雨法修す
祈雨法修す
将軍家御悩のため薬師護摩修す
頼兼・良瑜・隆弁とともに大慈寺曼荼羅供大阿闍梨
候補となる
月蝕の祈祷を修す
良瑜・隆弁・尊家・厳恵とともに勝長寿院供養曼荼羅
供大阿闍梨の候補たるも、大阿闍梨導師に決定
勝長寿院供養曼荼羅供大阿闍梨導師つとむ
改元につき祈祷す
将軍赤痢にかかり、良瑜・隆弁等と七座法を修す
将軍家御悩の祈賞により権僧正となる
時頼病気により五穀を断ち昼夜不断千手佗羅尼修す
時頼病気により五穀を断ち行法を修す
時頼病気により不動護摩を修す
時頼病悩により御験者として祈精す
持頼病悩により御験者として祈精す
土御門大納言(顕方)夫人出産の御験者となる
将軍家御悩の験者となる
子細あり遂電





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