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岡一男 「解説」(前半)
(『日本古典全書 増鏡』.朝日新聞社.昭和23年.p3以下)





岡一男氏の略歴( 上掲書による)
(をかかずを)
明治三十三年福井市生。大正十三年早稲田大学文学部卒業。文学博士。早稲田大学名誉教授。
主著『竹取物語評釈』『道綱母』『源氏物語の基礎的研究』『源氏物語事典』『平安朝文学事典』『日本古典全書・大鏡』等。



※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。
※旧字は適宜改めました。





 一、『歴史文学』としての増鏡の地位

 増鏡は大鏡系統の歴史物語であつて、いはゆる「鏡物」と称せられる一類の文芸に属する。大鏡、水鏡とあはせて三鏡と呼び、さらに今鏡を加へて、四鏡と称することもある。

 大鏡は大体鳥羽天皇の頃に出て、文徳天皇から後一条天皇の万寿二年までを、ついで高倉天皇の頃今鏡が出て、後一条天皇から高倉天皇までを、ついで後鳥羽天皇の頃に水鏡が出て、神武天皇から仁明天皇までを物語つたが、このつぎに来るのが増鏡で、文治二年後鳥羽天皇の御即位から始めて、元弘三年(正慶二年)後醍醐天皇が隠岐から京都に還幸なされるまでの十五代百五十一年間の編年体の歴史物語である。

 もつとも、増鏡の序によると、藤原隆信の「いや世継」といふのがあつて、高倉・後鳥羽両天皇の御代のことを記し、今鏡と増鏡とのあひだの橋掛りとなつてゐたとのことであるが、それは早く滅んだ。その缺を補うたのが、近世の荒木田麗女の「月の行方」で、高倉・安徳両天皇時代の事蹟を叙してゐる。なほ麗女には「池の藻屑」の著があつて、増鏡の後を承けて、後醍醐天皇の元弘三年から後陽成天皇の慶長八 年までの二百七十一年間の歴史を載せてゐるが、この二著は擬鏡体の歴史物語といふべきで、真正の鏡類に入れるのには、年代が新らしすぎる。

 また、順徳天皇時代の「秋津島物語」は、水鏡を承けて、塩土翁(しほづちのおきな)に天地開闢から神武天皇隆誕までの物語を聴く趣向になつてゐるが、実は日本書紀の神代の巻を仮名で抄したものに過ぎなかつたためか、余り流布しなかつたので、普通鏡物のなかに数へられない。また藤原茂範の著した「唐鏡」といふ支那の歴史を伏義氏より宋の太祖建隆元年まで叙してゐる書もあるが、これは日本の歴史ではないから、やはり高閣に束ねられて来た。

 それで結局、鏡物といふと、大鏡・今鏡・水鏡・増鏡の四鏡をさすこととなり、そのうちの傑作としては、大鏡・増鏡の二鏡が挙げられる。といふのは、今鏡は、文章は王朝風の優艶な雅語で綴られてゐるが、中心となる人物も事件もなく、対象となつた時代も単調な平安季世であるから、部分としておもしろい箇処があつても、全体としては平板で弛緩してゐるし、水鏡は、また単に扶桑略記を稚拙な雅語に訳したに過ぎないので、後者の闕文を考証する際の資料にはなるが、文芸としての価値は最も低いからである。

 もし、広く国文の歴史物語といふ観点に立てば、これに栄花物語を加へて、栄花・大鏡・増鏡をわが代表的歴史文学と称することができよう。そして、これをやはり国文の史論の三大傑作である愚管抄・神皇正統記・読史余論とあはせて観るのもおもしろからうし、また和漢混淆体の軍記物語の三大代表作である平家物語・源平盛衰記・太平記と比較しても、啓発されるところが多いであらう。ことに史学的価値からいふと、栄花物語と大鏡とが、共に藤原氏全盛の世を写してゐるに対して、増鏡が単独で、公武対立し波瀾重畳たる鎌倉時代を対象としてゐるのは、ユニークであつて、他に比類がない。


 二、書名

 増鏡といふ書名は、序の老尼の「愚かなる心も見えんます鏡古き姿に立ちは及ばで」といふ謙遜した詠と、それに和した筆者の「今もまた昔をかけばます鏡ふりぬる世世の跡に重ねん」といふ激励の歌から出て、大鏡・今鏡などの書名に倣らつて、「真澄鏡(マスミノカガミ)」すなはち老尼の昔話をそのまま写した曇りのない鏡、あるいは、鎌倉時代の歴史を明瞭、微細にその真実相を描いた書物の義であらうが、それとともに前の三鏡に一鏡を増す意味もかけてある。また、増鏡は古く増鑑(応永古写本)真寸鏡(看聞日記・椿葉記御草本・親長卿記)ますかゞみ(宣胤卿記)益鏡(親長卿記)ます鏡(前田侯爵家蔵永正十八年本)とも記してゐて、宛て字が区々であつたが、近頃では増鏡と書くやうに統一されて来た。


 三、作者

 この書の作者に関しては、従来一条冬良説(東見記・本朝通鑑・扶桑集・群書一覧)及びその父の一条兼良説(指南抄)があつたが、これらの人人は増鏡の成立が確証せられる永和二年より遙か後に生まれてゐるから、夙に屋代弘賢・件信友らによつて破棄された。また僧慈延は「隣女晤言」で、屋代弘賢はその校本の奥書で、兼良の父である一条関白経嗣説を提唱したが、経嗣は永和二年に十九歳であつて、増鏡の著者であるためには若過ぎる。さらに経嗣の実父二条良基に遡らせた説も彰考館目録別本に見えてゐて、「塙倹校所蔵応永本云、園摂政良基作」と記してある。この応永本といふのは、現存の増鏡の最古写本である応永九年本(すなはち永和二年本を写したもの)と一致するかどうか不明であるが、一応その著者とする二条良基について考へてみる必要はある。

 良基は、後醍醐天皇が隠岐から京都に還幸あらせられた際、特にお召し出しになり、氏長者たるべき宣旨と都の管領をすべき仰せを蒙つた二条前関白道平の嫡男で、やはり後醍醐天皇に仕へ、妹はその女御となり天皇南狩の後は北朝に志を致し、光明・崇光・後光厳・後円融の四朝に歴事し、関白・氏長者・従一位・太政大臣に昇り、後小松天皇の御代に摂政となり、その嘉慶二年に六十九歳で薨じてゐるから、永和二年には五十七歳で、年次のうへからはさしつかへない。

 しかし、良基は和歌よりも連歌を好んで、菟玖波集・連歌新式・連理秘抄などの著があつて、この方面で有名であるから、増鏡の著者としてはどうかといふ説もあるが、かれは歌道にも思ひを致し、新後拾遺和歌集の仮名序も書いてをり、近来風体抄・愚問賢註などの歌学書を著して、近世和歌の古体をうしなつたことを慨嘆し、心の幽玄と詞の洗練とを主張してゐるし、また累葉摂関の家に生まれ、宮廷の事情にも精通し、文献も豊富であつたらうから、かならずしも増鏡の著者として不適任ではない。

 増鏡は源氏物語を非常に模倣してゐて、著者が源語をよく読んでゐたことが知られるが、良基ほどの学者が増鏡の著者程度ほどにも源氏物語に通じてゐなかつたとは考へられないので、この点ではかれを増鏡の著者に推すのに不安はない。また文藻からいふと、かれの遺著の文章のやや雄勁なのと、増鏡の文章の優艶なのと、多少の相違が感ぜられるが、これは女性の筆に仮托したからで、増鏡のなかにどうかすると、和漢混淆文が顔を出すのは、その馬脚があらはれたと見てよい。また、増鏡のなかに勅撰集の歴史や歌壇の消息や二条家の内情やが比較的にこまかに述べられてあるのも、二条為世の弟子の頓阿を挙用した良基にふさはしい。

 なほ、増鏡が後鳥羽院の北条氏討伐の決意を示された「おどろのした」に始まつて、後醍醐天皇の建武の中興を描いた「つき草の花」で終つてゐるのは、武家に反感をもつ者、あるいは大覚寺統に傾倒してゐる者の著になるからだといふ説もあるが、正中の変が勃発して、後醍醐天皇の討幕計画が発覚した条に「故院後宇多おはしまししほどは、世ものどかにめでたかりしを、いつしか、かやうのことも出で来ぬるよ」といつた時人の評をひき、獲麟の巻を「つき草の花」と名づけてゐるのは、そのうつろひやすいことを示してをり、新田義貞が、足利尊氏の子の義詮の四歳なるを大将軍にして義兵を挙げたなど記してゐるのは、足利幕府に媚びを呈してゐる観がある。護良親王らの御還俗に対しても、幾分皮肉の眼で見てゐるところがある。また、持明院流の後深草上皇や光厳天皇に対しても、決して悪意は持たないで、かへつて謳歌してゐる。これらの点から考へて、良基を増鏡の著者としてかならずしも妥当でないとはいへないと思ふ。

 あるいはさきにもいつたとほり、良基が増鏡の著者となるほど源語に通暁してゐたか疑がはしいと思ふ人があるかも知れないが、「おどろのした」にあるやうに、秦何某といふ御随身さへ、源氏には通じてゐた時代である。良基ぐらゐな学者が、増鏡程度に源氏物語をこなされないことはない。殊に増鏡の源氏物語の引用のしかたは連歌的なところがあつて、当時の連歌師の聖典が、また源氏物語だつたことも参考すべきである。

 ところが近年、和田英松氏・中村直勝氏・荒木良雄氏らによつて、それぞれ二条為明説・四条隆資説・丹波忠守説が主張されて来たが、いづれも根拠薄弱で、そのうち四条隆資は「すみぞめの色をもかへつ」と増鏡の巻末に最も手きびしくやりこめられてゐるし、丹波忠守は建武の中興後まもなく没してをり、二条為明は後光厳天皇の貞治三年に新拾遺集編纂の途中薨じてゐて、共にそれが私の考へてゐる増鏡の成立年代の遙か以前であるから、にはかに賛成しにくいのである。それで私は、ここでは仮りに塙本奥書に従つて、松本愛重氏や坂井衡平氏らと共に、増鏡の著者を、二条良基としておく。


 四、著作年代

 つぎに増鏡の成立年代について述べると、この書が元弘三年六七月頃をもつて獲麟としてゐるから、それ以後のものであることには疑ひない。なほ、序の二月の嵯峨の清涼寺の涅槃会における老尼の物語だとする著者の意図によると、翌建武元年以降の書に擬してあることも明らかである。また、この校註書の底本とした尾張徳川家蔵の古写本の奥書には、

永和二年卯月十五日
この本、女房のうつしがきにて侍るを、そのままうつし侍るほどに、如法不審なることども侍り。いとど僻書もおほく侍らむ。よき本をたづねて、静かになをし侍るべし。
     応永九年六月三日うつしをはりぬ。

といふ識語があるから、増鏡が遅くも永和二年四月十五日までには成立してゐたことが知られる。それで、本書成立の上限は建武元年であり、下限は永和二年であつて、その間四十二年のあひだに著作されたことは疑ひがない。

 ところで、文保初年の二条富小路新内裏移御を述べて「近きこと人みな御覧ぜしかばなかなかにて止めつ」(うら千鳥)といひ、元徳三年の北山行幸について「この中に御覧じたる人もおはすらん。うけたまはらまほしくこそ侍れ」(むら時雨)などといつてゐるのは、本書を建武ころのものとするにふさはしい。件信友は、比古婆衣巻六において、増鏡に南北朝対立の意識の出てゐないところから、両朝対立の形勢が確然としない以前に置かうとするのであるが、これは解釈のしやうで、近藤瓶城のやうに「信友大人は、北朝以前の書の様にいはれたれど、京師を復したる、高氏ひとりの功の様に、義貞の家を高氏が末家の様に、鎌倉攻めを高氏が子をもりたてて兵を挙げる様にかけるも、大塔の宮の復飾を意にみたぬ様に書けるも、自ら高氏が地をなせるかとも見ゆ。かの人、世を得ぬ先のふみとのみも定め難くなむ」(史籍集覧校正本巻尾)と反対にもいへる。ことに巻末に、

誰にかありけむ、そのころ聞きし、
 墨染の色をもかへつ月草のうつればかはる花のころもに

とあるのを見ると、「そのころ聞きし」の話によつて、この書の獲麟の正慶二年は、その執筆当時から相当年月を経てゐる趣きが知られ、「月草のうつればかはる」といふ歌は、建武の中興がまもなく瓦解したことを示唆してゐるやうに思はれる。もつとも、本書の著者を従来の解釈のやうに南朝に甚深な同情をよせてゐた者の作とすると、後醍醐天皇の隠岐還幸をもつて終つてゐるのは、暗に南朝の天子がふたたび吉野から帰京される日を期待する心からともとれるし、巻末の歌は、それとなく、いまの北朝の栄華もうつるぞと示唆したとも見られよう。

 それに和田英松博士が「増鏡の研究」(改造社版日本文学講座所収)で指摘されたやうに、「久米のさら山」に、光巌天皇の皇子たちがあまた三條の御腹にお生まれになつたことを記してゐるが、これは建武・延元以後のことであるから、本書が延元三年(暦応元年)以後に成立したことがわかる。

 なほ、これにつけ加へて、私は「さしぐし」の巻の、つぎの言葉に注意したい。それは、老尼が亀山院の后の新陽明門院の御行跡を語つた後に、

「さのみかかる御ことどもをさへ聞ゆるこそ、もの言ひさがなき罪、さり所なけれど、よしや、昔もさることありけりと、このごろの人の御有様も、おのづから軽きことあらば、思ひゆるさるるためしにもなりてんものぞと思へば、遠き人の御ことは、今は、なにの苦しからんぞとて、少しづつ申すなり」と、老尼うち笑ふもはしたなし。記者「いづら、このごろは、誰かあしくおはする」と問へば、老尼「否否、それはそら恐ろし」とて、頭をふるもさすがをかし。

といふ問答のあつたことを記してゐるところである。これによると、増鏡の執筆当時に、どなたか新陽明門院のやうなふしだらな皇妃がをられたことがわかるが、いま大日本史の「后妃列伝」によつて、建武以降永和以前において、その例を求めると、北朝の後光厳院の後宮にただ一つある。すなはち、同書に、

後光厳院、晩に権大納言藤原資名が女を召して、これを幸し、命じて後円融院の保母となし、二位を授け、呼びて二品の局といへり。二品の局、自らその寵をたのみて、すこぶる不法多し。かつて北面の士藤原懐国と私通し、請ひて備前守に拝す。懐国、勢ひをたのみて同列を凌忽しければ、後光厳院稍稍(やや)これを悪(にく)みて、食邑・給人を収めたり。後光蔵院崩じて、僅かに十余日に及び、懐国害に逢ひ、二品の局も、また外に出でて尼となりぬ。

とある、その二品の局をさしてゐるのではなからうかと思ふ。増鏡の記者が「いづら、このごろは、誰かあしくおはする」と問うたのに対して、老尼が「否否、それはそら恐ろし」と答へたのは、懐国が勢ひをたのんで、同列を凌忽するといふやうな乱暴者であつたからだらう。それで、わたくしは増鏡を後光厳院の応安末に成立したのであらうと思つてゐる。二條良基の五十代の初めの著作であらう。


 五、増鏡の諸本、特に古本と流布本について

 増鏡の最古の写本としての応永九年本は、上中下三冊からなり、十七帖に分かたれてゐる。これに尾張徳川家本と図書寮本とがある。これにつぐのが永正十八年本で、前田侯爵家と図書寮とに蔵せられてゐてその奥書に、

           
此三冊上中下釋宗観〔三富豊前守入道〕俗名藤原忠胤今年八十四歳所持本也宋観自書之 式部卿邦高親王〔伏見殿〕有一覧、外題令書給返給云々、可謂面目、伝子孫莫處聊爾者乎、余遂覧之次、相違所々加筆為後證記之、
                中御門一位大納言入道春秋八旬
    永正十八暦仲旬春夾鐘天 桑門 乗光

とあるが、桑門乗光は、中御門宣胤である。この他、近衛公爵家蔵本・谷森善臣氏旧蔵本・桂宮本は、いづれもこの系統の十七巻本である。この十七巻本は、のちにいふ二十巻本とは異つて、年次の錯乱や、記事の重複が無く、本書の原形をさながらに伝へてゐるものである。この十七帖の巻名は、

第一 おどろの下
第二 新島もり
第三 ふぢ衣
第四 三神山
第五 内野の雪
第六 おりゐる雲
第七 北野の雪
第八 あすか川
第九 草まくら
第十  老のなみ
第十一 さし櫛
第十二 うら千鳥
第十三 秋のみ山
第十四 春のわかれ
第十五 むら時雨
第十六 久米のさら山
第十七 月草の花

である。そして第六までが上冊、第十までが中冊、第十一以下が下冊に収められてゐる。

 二十巻本系統の諸本は、この十七巻本の一部を増補したものである。その原形と見なされる前田家所蔵の延宝書写の後崇光院御自筆本について、その主要な異同点を考へると、(1)「内野の雪」を大幅に増訂し、(2)これに「煙のすゑずゑ」の一篇を増加してゐる。(3)「北野の雪」にも新たに続篇一篇を加へてゐるなどのことが知られる。もつとも巻次は旧のままで、「煙のすゑずゑ」は第五に、「北野の雪」の続篇は巻名を附けないで、第七に添へてある。

 なほ、後崇光院の看聞御記の永享四年卯月三日から六月十七日の条に「眞寸鏡」書写のことが出てゐるが、「此間書写畢三帖上中下又一帖第四、五、七」と記されてゐて、三帖上中下とあるのは永和応永本の十七巻で、又一帖第四、五、七とあるのは、(1)の「内野の雪」の増訂本(2)「煙のすゑずゑ」(3)の「北野の雪」の続篇の三巻らしく思はれる。永和応永本の書写された応永九年から、この永享四年までの三十年間に何人かによつて、この三篇の増修がなされたらしい。

 いま、その増修のあとを見ると、(1)の「内野の雪」では、仁治三年九月の順徳院崩御から寛元五年二月の後嵯峨院の石清水参籠までが増してある。その追加の記事は、寛元元年五月の最勝講・源通光鳥羽八講・普賢寺基通仏事、六月の大宮院の皇子(後深草天皇)誕生の一層詳細な記事。それに、宗尊親王の御五十日、寛元二年十二月の石清水・賀茂行幸、仁和寺法助灌頂などである。

 (2)の「煙のすゑずゑ」では、宝治二年十月二十二日の閑院殿内膳屋の火事で、神代より伝はつた平野・忌火・庭火といふ釜のうち、二つは円融天皇の永観ごろ盗み取られ、忌火だけが残つてゐたのが焼けたこと、宗尊親王の御書始め、建長元年正月一日院の拝礼、二月一日閑院内裏の火事、三月二十三日からの京都の大火、蓮華王院の焼亡などの新らしい記事が見えるが、宝治二年十月二十日の宇治紅葉御覧の行幸の記事などは「内野の雪」よりは精細ではあるけれども重複してゐる。また「煙のすゑずゑ」の年紀は、宝治二年十月二十日から建長元年三月晦日までで、年紀も「内野の雪」と重複し、しかも「内野の雪」は建長七年頃までの記事があるので、錯乱もするのである。

 (3)の「北野の雪」続篇は、文永三年四月蓮華王院供養御幸、文永四年二月浄金剛院涅槃会、四月後嵯峨院大宮院如法経書写、五月大雨、九月両上皇大宮院日野山庄御幸、文永三年八月の京師大風、文永四年十月西園寺太政大臣公相薨じ、その葬送の夜、首が盗まれたこと。(これは公相の顔の下短かで、目が顔の中央にあるやうであつたので、外法の料にといつて盗み去られたのである)。十二月左大臣近衛基平に摂※(関白職)が渡つたことなどが、新らしい記事としてのつてゐる。しかし、宗尊親王の将軍退職や、公相の薨去前後のことや、皇后御産(後宇多天皇降誕)の条などは、旧篇と重複してゐる。年紀も文永三年、四年と重複してゐる。
※「碌」を金偏に替え、竹かんむりを載せた字

 この「内野の雪」の増訂、「煙のすゑずゑ」と「北野の雪」続篇の新添は、原本の十七帖を二十帖にみたさうとして、その方法が拙劣であつたために、年紀や記事の錯乱を招いたものであるが、近世に入つてからは、この二十巻本が写本・古活字本・印本として流布した。しかし、篇次が一定しないし、巻名も小異があるが、大体、烏丸本や米山本に依拠して、「内野の雪」は、原本を捨て、増訂本の方を取り、「煙のすゑずゑ」を「内野の雪」のつぎにして、「北野の雪」は「山のもみぢ葉」と改称し、そのつぎに続篇を置き、これに「北野の雪」の巻名を移し、(4)第十一「さし櫛」を「今日の日かげ」「つげの小櫛」にわかつた二十巻本が、明治三十年十月、和田英松・佐藤球両氏共著の「増鏡詳解」の本文に採用されてから、この方が十七巻本より一般に流布した。しかし、この増鏡詳解の本文が、史実によつて、年紀を正し、「内野の雲」の末文を「煙の末末」の終りに移してあるのは、後に和田博士が自認されたやうに武断であり、十七巻本の「内野の雪」を捨てて、増修本の方のを取つたのも、原本の面目を傷つけるものである。(増鏡の研究)

 そこで、近来では、応永古写本による覆刻が行はれ、昭和六年刊行の和田英松博士校訂の岩波文庫本、昭和九年刊行の佐成謙太郎氏の新訂要註増鏡、昭和十五年刊行の黒板勝美博士編輯の新訂増鏡増補国史大系はいづれも永和応永本を底本とし、これを同系統の永正十八年本で校訂してある。そのうへ新訂増補国史大系本は、前田家蔵の後崇光院御自筆本によつて、「内野の雪」の増補せられてゐる部分と、「煙のすゑずゑ」及び「北野の雪」の続篇をも附載してゐる。しかし、わたくしはこの三篇は後人の修補に係り、原作の真面目を損ふものと思ふので、この校註の本文は、やはり永和応永本・永正十八年本系統の十七巻本によることとしたが、その方が文芸的価値も高く、原著者の史観もはつきり把握できると思ふ。


 六、増鏡の文芸形式とその伝統

 増鏡が大鏡の系統をひいてゐることは既にいつたが、大鏡が雲林院の菩提講の講師の来る間のつれづれを場面にとり、大宅世継を主な語り手として、これに夏山繁樹夫妻、及び二十歳許りの生侍を配して、あるいは合い槌を打たせたり、質問させたり、批判させたりしてゐるのに反して、増鏡の方は、ただ二月の中の五日に嵯峨の清涼寺に詣でた著者が、「八十にもや余りぬらむ」と見えて、実は「百とせにもこよな く余」つた老尼と本堂の仏前の局に参籠することとなり、その老尼の昔話を筆記したのが本書であるよしが、序に断つてあるだけで、本文にはその尼のことや、記者のことは、ほとんど出て来ない。ただ、後鳥羽天皇から後醍醐天皇までの歴史が、源氏物語・栄花物語式の優艶な擬古文で編年体で記されてあるだけで、決して、大鏡のやうに、語り手の口吻をさながらに写すといふこともない。もつとも、さすがに、

かやうのことは、皆人知ろし召したらん。こと新らしく聞えなすこそ、老いのひが言ならめ。(おどろの下)
かやうの類ひ、すべて多く聞ゆれど、さのみは年のつもりにえなん。いままた思ひ出でば、ついで求めてとて。(新島もり)
皆人知ろし召したらん。なかなかにこそ。(内野の雪)
御返りごと忘れたるこそ、老いのつもり、うたて口惜しけれ。(北野の雪)
近きことは、人みな御覧ぜしかば、なかなかにてとどめつ。(うら千鳥)
なにかはさのみ、皆人もゆかしからず思さるらんとてなむ。(久米のさら山)

などいふ言葉が散見してゐて、多少老尼の口吻を思はせないではないが、擬古文であるから、大鏡の翁の言葉のやうになまなましく響かない。鎌倉時代の普通の文章は方丈記・平家物語・太平記のやうな和漢混淆文であつて、これらの書の対話の箇処には時代人の俗語もあらはれるが、それは増鏡の文章とはすこしも似てゐない。それにかういふ言葉は、大抵省筆の便宜のために用ゐてあつて、大鏡のやうに積極的に対話を活かし、全篇をドラマテイクに構成する意図がない。

 以上のほかに、増鏡の本文のなかに、著者の地の文として、老尼の態度や、老尼と著者との対話や、老尼の具してゐた若い侍女の質問などが、二三箇処挿入されてあるが、それは唐突であつて、反つて読者の感興をうすくするほどのものである。

 その一つは「三神山」の巻に、四条天皇の崩御の後、まだつぎの帝が決まらなかつたとき、順徳院の母宮の修明門院と土御門院の母宮の承明門院との御二方が、御めいめいに、あるいは御孫宮の即位といふことになりはしないかと、ざまざまに祈祷されたり、あるいは白川に人を立てて、関東の使者の入京後の動静を偵察せしめられたりしたことを叙した際に、突然「例の口すげみてほほゑむ」の語を挿んで、それを物語つてゐるとき老尼の話しぶりを形容して、折角、本文に熱中してゐる読者をまごつかせて、急に序の清涼寺の局の場面を想起させるなどは罪である。

 その二に、とりわけひどいのは「さしぐし」の巻の初めの、西園寺大納言実兼の姫君の入内を述べたところで、主上の御使ひとして姫君のもとに頭中将為兼朝臣が御消息を持つて来たと老尼が語ると、「また、この具したる女、いつぞや実教の中将とこそは語り給ひしかといふ」などあるのは、隋分だしぬけで、大抵の読者が混乱させられるのも無理がない。「この具したる女」といふのは、序にある老尼の「具したる若き女房」で、老尼の命令で、僧坊へ仏にささげる御燈明のことをいひつけに行つたのが、すでに局に帰つて来て、著者と共に老尼の話を聴いてゐて、それが突然口を挿んで、「いつぞや御使は実教の中将であつたとお話しなされたではありませんか。為兼朝臣はお間違ひでせう」と反問したのである。

 その三は「むら時雨」の巻に、元徳三年三月後醍醐天皇の北山行幸を叙したところに、「その日のこと見給へねば、さだかにはなし。幼なき童などの、しどけなく語りしままなり。この中に御覧じたる人もおはすらん。承らまほしくこそ侍れといふ」などとあるのも、かなり唐突であらう。

 もつとも、序にことはつてあるやうに、時は二月十五日の釈迦入滅の日であり、場所はインド伝来の如来像を安置した清涼寺の本堂の仏前の局であるから、参籠の人人の多かつたことはいはずと知れたことであるし、老尼が昔話をしてくれさへすれば、「今宵、誰も御とぎせむ」と著者がはげましたことも記してあるのだから、よいやうなものの、他の人人が聴衆になつたかどうかは明瞭には述べてなかつたのだから、ちよつと驚かされる。なるほど、前に挙げたやうに「皆人知ろし召したらん」とか「近きことは人みな御覧ぜしかば」といふ句もあつたけれど、それは著者一人に対してもさしつかへない言ひ方である。が、「この中に御覧じたる人もおはすらん」はどうしても多数の聴衆を予想した口振りで、序のことなど忘れてゐる結末に近い部分に、たつた一回多数の聴衆のあつたことを持ち出すなどは、余り良い趣味でもなからう。

 なほ、この北山行幸の条は、舞御覧記によつてゐることが一般に知られてゐる。この書は八十余りの老尼が「鳩の杖」によつて参会した見聞記になつてゐて、それが増鏡の序の老尼のモデルとなつたらしいから、わざわざここでは「幼なき童などの、しどけなく語りしままなり」とそらとぼけて、舞御覧記の老尼と別人であることを示したといふ平田俊春氏の吉野時代の研究の考へはおもしろい。

 その四に老尼と著者との問答を記したところを挙げると、「さしぐし」の巻に、亀山院の女御新陽明門院の行跡を物語つたのちに、老尼が「さのみかかる御ことどもをさへ聞ゆるこそ、ものいひさがなき罪、さり所なけれど、よしや昔もさることありけりと、このごろの人の御有様も、おのづから軽きことあらば許さるるためしにもなりてんものぞと思へば、遠き人の御ことは、いまはなにの苦しからんぞとて、少しづつ申すなリ」とうち笑ひながらいひわけするのを「はしたなし」と思ひながらも、著者が「いづら、このごろは誰か悪しくおはする」と一歩突込んだ質問をすると、老尼が「否否、それはそら恐ろし」と頭をふつたのもさすがにをかしかつたとある条である。これはわれわれに、増鏡の成立年代に大きな示唆を与へた箇処であり、老尼の身ぶりも、台詞も活きてゐて、なかなかおもしろい。が、こんな長い物語のなかで、ほんの二三行では、かへつて目ざはりであるといつてよい。

 それと反対に、増鏡が老尼の昔話の速記でなく、著者の編纂した史書にすぎないことを示すものもすくなくない。例へば、

また修明門院のおんはらからの甲斐の宰相中将範茂など、つぎつぎあまた聞ゆれど、さのみは記しがたし。(新島もリ)
例のことなればうるさくて、さのみもえ書かず。(老のなみ)
よろづ哀れなることのみ、書きつくしがたし。(うら千鳥)
誰も誰もこの筋にのみまとはれて、花のみゆきの外は、めづらしきふしもなければ、さのみも記しがたし。(むら時雨)

などいふ地の文があつて、折角、序において読者に抱かせた嵯峨の清涼寺で、老尼の物語りを聴いてゐるのだといふイルージョンをたたき壊してゐる。かういふことから、従来の文学史家は、増鏡が大鏡を模倣しながら、それにもかかはらす大鏡の問答文学・対話文学としての大きな特色を忘れて、ただ古老の昔話といふ形式だけを承け継いだことを非難するが、これは増鏡ばかりでなく、今鏡、水鏡もさうなのである。

 そこでわたくしの問題にしたいのは、なぜ今鏡以下の鏡物が大鏡の問答文学としてのおもしろさを失なつて、ただ古老の昔話といふ形式だけを学んだかといふことである。これに対するもつとも簡単な答へは、大鏡以後の人人が問答文学としての大鏡の面白さを解さなかつたとすべきであらうが、鎌倉時代の初期に出た無名草子や、秋津島物語などは大鏡の問答文学としての方面を発展させてゐるやうであるから、その考へは成り立たない。

 それに、今鏡にしても増鏡にしても、書名と、老人の昔話といふ点だけは大鏡に以せてあるが、巻名、文章、多教の和歌の挿入などは、すべて栄花物語の亜流である。だから、問題は今鏡以下の鏡物がなぜ大鏡の老人の昔話といふ形式だけを学んで、問答文学としての方面を閑却したかでなく、全然、栄花物語の模倣をこととする今鏡などの鏡物が−今鏡はまだしも大鏡の紀伝体にならつてゐるからよいとしても、特にまつたく編年体である水鏡・増鏡などが、なぜ書名と老人の昔話といふ形式だけを大鏡から学んだかである。それにはたつた一つの答へしかない。

 それは日本の古代の歴史といふものが、旧辞から出発してをり、口誦的な性質を持つてゐて、語り部(べ)の老人たちによつて伝へられ、一般民衆も、老人から昔話を聴くのを悦んだといふ事情によるのである。万葉集巻三の持統天皇と志斐姫との贈答歌はこれを証する。また古語拾遺の序文には、「蓋シ聞ク、上古之世、未ダ文字有ラズ、貴賤老少、口口相伝フ。」とあるし、そのつぎに、「書契以来、古ヘヲ談ズルヲ好マズ、浮華競ウテ興リ、還ツテ旧老ヲ嗤フ。」とあるから、やはり書契以前は旧老が故事を説き、少者がこれを伝へたのであらう。

 なほ、風土記撰進の勅令のなかには、古老の相伝ふる旧聞遺事を言上せしめよ、との言葉があるが、おそらく古事記・日本書紀のもつとも端初的な形態は、宮廷・貴族・豪族に附属せる語造(かたりのきみ)・語臣(かたりのおみ)らの古老の伝承した旧辞であつたらう。それが支那の史書を模倣した国史の官撰が行はれるやうになつて久しく忘れられてゐたのであるが、一度大鏡の中で翁の昔話といふ形式で復活されると、それ以後の歴史物語はみなこの形式に従ふこととなつたのである。

 といつて、古老の昔詰といふ形式は、なにも大鏡の著者が突然再興したわけではない。竹取物語・宇津保物語・落窪物語・今昔物話集などは別にことわつてないが、やはり古老の昔話の形式となつてゐる。これらは男性の手になつたのだが、女性の筆になる源氏物語のやうなものも、著者が源光の嫡妻である紫の上の侍女と、養女である玉鬘の侍女から伝承した源一家の栄華や恋愛の物語を記述した体裁になつてゐる。

 ただこの形式を歴史物語に、より効果的に、よりヴィヴィッドに活用したのが、大鏡の著者である。 音通、大鏡は支那の史書の紀伝体に擬したとされてをり、今昔物語集の本朝の部の影響をうけてゐると考へられるが、また、その対話体の記述は、五十嵐力博士によつて、源氏物語の「帚木」の雨夜の品定めにヒントを獲た(新潮社版日本文学講座所収大鏡研究)といはれ、あるいは堤中納言物語の「このついで」や、仏教の経典の構想にならつたとも称せられるが、これらは、大鏡の作者が創意を出した点ではなかつた。そのゆゑに今鏡以下の鏡物が、概して、大鏡の独特の点には眼もくれないで、ただ古老の昔話といふ伝統形式を墨守したのであつた。それとともに、かやうな民衆に親しみやすい、歴史叙述の形式を復活させたのが、大鏡であるから、その書名に模した何鏡といふのが続出したのである。

 さて、増鏡は大鏡の問答文学としての方面を発展させなかつたので、形式的には、大鏡よりも文学的価値が低いとされるのであるが、五十嵐博士が前記の論文で説かれたやうに、大鏡にも、あの百数十年間にわたる長物語を、雲林院の菩提講の講師の来るのを待つ間にさせたといふ無理がある。増鏡の方は、一夜語り明かすのだから、その難は救はれてゐる。

 が、もう一つ増鏡に救ひようのない欠陥があるのは、大鏡の大宅世継なり夏山繁樹なりは、いづれも皇后の宮なり、摂関の家なりに仕へてゐて、宮廷の内情や、貴顕の裏面に通じてゐる理由があるが、増鏡の老尼は、ただ百年にこよなう余る老媼だといふことだけがわかつてゐて、その履歴が知れないから、いくら「何となく、なまめかしく、心あらむかし」と見えたにしろ、それだけでは、どうしてかやうな朽尼が当時の公家の内外の事情に通じてゐるのか疑問になることであ る。その点では、大宅世継の孫で、少女の時に紫式部に仕へたといふ老媼を話し手とした今鏡や、また聞きではあるが葛城山の仙人の物語をうつした水鏡の方が、もつともらしくてよい。

 ただ、増鏡のとりえとされるのは、この物語の記者の人柄が、「おのづから、古き歌など書きたる物の片はし見るだに、その世に逢へる心地するかし」といつた、ちよつとした口吻にも、その尚古的な文学少女的性格がほの見えて、好感がもてるのは、他の鏡類にまさつてゐる。しかし、巻末は尻切れで、序をむすんでゐない。あるいは原著者はもう三巻ばかり書き続けるつもりで果たさなかつたのか知れないが形式上、他の鏡類に劣るところである。

 なほ、増鏡が弁内侍日記、中務典侍日記。とはずがたり(とはすがたり覚書、山岸徳平氏、国語と国文学十七の九参照)などの諸家の日記や、五代帝王物語以下の諸書によつて、その資料を得て来たことを知られてゐるが、それが十分消化されないで、例へば「老のなみ」に、北山准后記をそのまま和文に引き直してのせたり、「むら時雨」の元徳三年三月北山行幸の条に舞御覧記をそ知らね顔で拝借したり、その他これに類する記録のなまなましい転載のあるのは、老尼の昔話といふ折角の構想を台なしにするものであることはいふまでもあるまい。ただし、そのため、今日湮滅した諸記録の増鏡に残るものがあつて、本書の史料的価値を高めてゐるといへよう。



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