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後継者・時宗の誕生 またまた以前に遡ることになるが……。 嘉禄三年(1227)五月十四日の辰ノ刻(午前八時)、京都の六波羅探題の館で、一人の男子が生まれた。幼名戒寿丸、のちの北条時頼〔1227〜63.37歳〕である。きわめて異例のことだったが、天皇の診療を任とする侍医が、出産の介護にあたっていた。正四位下図書頭(ずしょのかみ)の和気清成(わけのきよしげ)である。 この時期、生まれた月や日どころか、時刻までが判明するというのは稀有のことであった。時頼の長兄経時の生年でさえ、寛元四年(1246)閏四月一日に二十三歳で死んだということから逆算して、ようやく元仁元年(1224)に生まれたと推定されるだけである。 元仁元年六月二十九日、経時の父北条時氏〔1203〜30.28歳〕は、妻室と一緒に鎌倉を出立して、京都に向かった。六渡羅探題の二代目として、任地に赴任したのである。 その年に生まれたとしか判らないのが、経時である。生まれたのが両親の上洛より以前だったか以後だったか、つまり、生まれた場所が鎌倉だったか京都だったか、それすらも不明ということになる。 これに対して時頼の誕生に関しては、かなり詳細な点までが、明らかになっている。鎌倉幕府の半公的記録である『吾妻鏡』が、時頼の子孫である北条貞時〔1271〜1311.41歳〕、高時〔1303〜33.31歳〕二代の時期に執筆編纂されたということが、その原因であろう。
よく知られているように、時政〔1138〜1215.78歳〕から経時までの得宗は、基本的に嫡々相承だった。しかし時頼は、時氏の次男だったのである。 時頼の出産にさいして、天皇家の侍医が介護にあたったというのも、きわめて稀有のことだった。六年前の承久ノ乱で、鎌倉幕府軍が京都朝廷勢を完膚なきまでに打ち破っていなければ、あり得ることではなかった。その承久ノ乱後、日本国の国政のほぼ全般は、鎌倉幕府が掌握することになった。次代の天皇たるべき皇太子なども、ほぼ幕府が決定するまでになっている。 乱の直後、鎌倉幕府は京都に、六波羅探題の北方と南方とを置いた。表面的には京都の治安維持と西国での訴訟などの管掌が目的とされたが、実際には京都朝廷の監視が、より主要な目的だった。承久ノ乱のような反幕の陰謀は、二度とあってはならないのである。 初代の六波羅探題は、北条泰時〔1183〜1242.60歳〕と同時房〔1175〜1240.66歳〕だった。その二人が元仁元年〔1224〕六月に鎌倉に帰ると、代わって六渡羅探題の二代目として上洛したのが、泰時、時房それぞれの長男の時氏、時盛〔1197〜1277.81歳〕だった。 このときすでに時氏は、一男二女の父になっていたらしい。一男は経時で、長女は宝治元年〔1247〕三月二日、足利泰氏〔1216〜70.55歳〕室として死んでいる。みな同腹で、生母は安達景盛〔?〜1248〕の娘、のちの松下禅尼である。そして時氏が上格して三年目に京都で生まれたのが、次男の時頼だった。続いて三男時定(のちの為時)〔?〜1290〕も生まれているが、やはり京都でだった。 さらに寛喜二年(1230)、時頼には妹にあたる檜皮姫(のち五代将軍九条頼嗣室)〔1230〜47.18歳〕が生まれたが、その場所が京都だったか鎌倉だったか、判然とはしない。その寛喜二年四月十一日、六波羅探題に在任すること約六年で、時氏は鎌倉に帰り着いたからである。病気だったらしい。いずれにしても四歳になっていた時頼も、このとき一緒に鎌倉に帰省したらしい。 直後の同六月十八日、時氏は鎌倉で死んだ。二十八歳という若さだった。大慈寺近くの山麓に葬られたというが、その場所は比定できない。時氏の未亡人は、出家して松下禅尼と名乗り、実家である甘縄の安達館に帰ったらしい。時氏の遺児となった三男二女は、やがて祖父の北条泰時に引き取られたようだが、確実ではない。 そして文暦元年(1234)三月九日、十一歳で経時は元服した。藻上御前という童名から、弥四郎経時と変わったのである。場所は四代将軍九条頼経〔1218〜56.39歳〕の御所で、烏帽子(えぼし)親も将軍頼経だった。経時の「経」の字は、頼経からの偏諱(へんき)だった。 なお経時は時氏の長男だったから、輩行仮名(はいこうけみょう)は太郎のはずだった。父時氏が祖父泰時の長男だったから、又太郎あるいは弥太郎か小太郎でもよい。にもかかわらず経時は、「弥四郎」だった。これは北条氏の初代の四郎時政〔1138〜1215.78歳〕、その跡を嗣いだ小四郎義時〔1163〜1224.62歳〕に、ちなんだものだろう。経時に対する祖父泰時の期待が、それなりに窺われる。 以降、北条弥四郎経時は、従五位上の左近将監(さこんのしょうげん)に任官し、小侍所別当を経て、仁治三年(1242)六月、祖父泰時の死後を嗣いで幕府執権に就任し、やがて官位も正五位下武蔵守と昇っている。 一方、時氏の次男時頼が元服したのも十一歳のときで、烏帽子親も同じ四代将軍九条頼経だった。将軍頼経が、わざわざ泰時の執権館に来てくれたのである。元服した時頼は、童名の戒寿丸を改め、五郎時頼と名乗った。時頼の「頼」の字は、やはり将軍頼経からの偏諱であった。 暦仁元年(1238)九月一日、時頼は左兵衛少尉(さひょうえのしょうじょう)に任官して、五郎兵衛尉と名乗った。そして延応元年(1239)十一月二日、毛利季光〔1202〜47.46歳〕の娘と結婚した。ときに時頼は、わずか十三歳だった。 毛利季光は、大江広元〔1148〜1225.78歳〕の四男だったが、兄三人が公卿の出であることから脱却できなかったのに、季光は相模国毛利荘(厚木市毛利台)を領して武士化し、事実において大江一族の惣領の地位にあった。その季光の娘と、時頼は結婚したのである。もちろん政略結婚だった。幕閣の宿老である毛利季光を、若き時頼の後見人に恃もうと、祖父泰時が図ったものだったのである。 寛元元年(1243)閏七月二十七日、時頼は左近大夫将監に昇り、同二年三月六日には、従五位上に叙された。そして同四年〔1246〕三月二十三日、重病の兄経時の譲りを受けて、時頼が家督と執権職とを嗣立したことは、先述してある。 ときに時頼は、弱冠の二十歳だった。直後の宮騒動で、同族の名越流北条光時らを※懲(ようちょう)して一族支配権を確立し、後藤、千葉、町野流三善などの将軍派を粛清して、ついに前将軍九条頼経を京都に追却した。頼経が烏帽子親だったことは、まったく配慮はされていない。 ※「鷹」の「鳥」を「月」に換えた字。 続いて三浦一族を挑発して、結局は滅ぼしているが、これについては別の解釈もある。時頼の祖母矢部尼の実兄三浦泰村〔1204〜47.44歳〕と、時頼の生母松下禅尼の弟安達義景〔1210〜53.44歳〕とが対立していたが、時頼は両氏の間の調停に努めていた。しかし突然に開戦となってしまったので、やむを得ず母方の安達氏に味方したのだというのである。いずれにしても三浦合戦では、意外な事態が生じた。時頼の後見人と目されていた毛利季光が、三浦側に走ったことである。 これを見た得宗被官の万年馬入道が、馬に乗ったまま時頼館の南庭に乗り込んで、 「毛利入道殿、敵陣に加わられおわんぬ。いまにおいては、世の大事、必然か」 と叫んだのは、このときである。毛利季光は、時頼にとって最有力の味方と世上から見られていたのだ。幕府の評定衆でもあり、五代将軍九条頼嗣〔1239〜56.18歳〕の近侍でもあったから、幕閣有数の有力者でもあった。その季光が、土壇場で三浦側に加わったのである。 「毛利殿までが、北条殿を見捨てたるぞ」と見られたら、日和見をしていた一般御家人の向背をも左右しかねない。北条軍の士気にまで関係するのは必定だった。万年馬入道が驚愕し、勝利に不安を抱いたのも、無理からぬものがあったのである。結局、毛利季光は三浦勢に加わって、頼朝法華堂で自刃して果てた。直後、季光妻室(三浦泰村の妹)は出家して、鶴岡八幡宮西隣の鴬ガ谷(やつ)の尼庵に籠って、亡夫の菩提を弔ったという。 のち室町時代の永享年間(1429〜41)に、大江氏の末の浄国院住僧元運が、その跡に季光追福のために石塔を建立したという。江戸時代末期には辛くも存在していたらしいが、現在はない。志一(しいち)稲荷の近くだったらしい。 もっとも悲劇的だったのは、時頼の妻室だった。実の父毛利季光が、夫時頼に敵対して、自刃して果てたのである。しかし三浦合戦より以降、彼女の名は、史料はおろか、伝説の上にも現われない。当然のことながら、離別ということになったのではないだろうか。あまりにも若年の夫婦だった故か、二人の間には子供は生まれていない。 それにしても三浦合戦から二か月ほどのち、時頼の身になにやらのことがあった。そして十月十日ほどたった宝治二年(1248)五月二十八日、時頼の長男が生まれた。童名は宝寿丸、のちに時利、改名して時輔〔1248〜72.25歳〕である。生母は「(時頼の)妾」で、「将軍家讃岐」あるいは「讃岐局」、さらには「三河局」とも呼ばれている。幕府の女官だったらしいとしか判らない。このことを記した『吾妻鏡』は、きわめて簡単である。 「左親衛(時頼)の妻・幕府の女房、男子を平産す。今日、字(あざな)を授けらる。宝寿丸云々」 あまりにも簡単すぎる点に、きわめていぶかしいものが感じられる。 それから十日ほどたった六月十日、得宗被官の諏訪盛重が、宝寿丸の乳母夫(めのと)に任じられた。しかし盛重は、それから約一か月の間、乳母夫としての行動に出ていない。必死に辞退していたらしい。 宝寿丸の乳母夫という役を押し付けられた盛重が、ついに断りかねて乳母夫としての役を始行したのは、七月九日のことだった。宝寿(のち時輔)の誕生は、あまり歓迎されてはいなかったように感じられる。 時輔の場合と正反対だったのは、時頼の次男正寿丸(のち時宗)の誕生だった。実際に生まれたのは、建長三年(1251)五月十五日の酉ノ終刻(午後七時)だった。しかし、その約一年ほど以前から、諸々のことがあった。その誕生が、諸人から期待されていたことが、推測されるのである。その間の様子を『吾妻鏡』から書き抜くと、次のようである。
ちなみに時頼の二度目の正室となったのは、極楽寺流北条重時〔1198〜1261.64歳〕の娘だった。建長二年〔1250〕元旦から鶴岡八幡宮別当の隆弁法師ママ〔1208〜83.76歳〕が、懐妊のことを祈っていたとあるから、時頼が重時の娘と再婚したのは、建長元年〔1249〕のことだったと推測される。 そして建長二年〔1250〕十二月二十三日、いささかの事件が、時頼一家の間で起こった。『吾妻鏡』には、次のように記されている。
ちなみに『吾妻鏡』はやや後年の編纂だから、文中の日付の時期の事実が、正確に記されているとは限らない。しかし時頼の長男宝寿丸(時輔)は、のちに三男の扱いを受けることになる。それがまだ「二男」とされている点に、案外の事実が示されていると、見ることができるかも知れない。 いずれにしても、まだ時宗は生まれてはいない。それどころか近く生まれる子が男か女か、それすらも、まだ判らなかったはずである。そのような時期に、本当は長男だった時輔は、すでに「二男」とされていたのである。生母の身分が低かったからであろう。 この日まで、時頼館では妻妾同居だった。あとから正室として入ってきた極楽寺流北条重時の娘と、すでに時頼の長男宝寿丸を生んでいた妻の三河局とが、同じ郭内に住んでいたのである。それを正室の父重時が、嫌ったのである。もしかすると娘から、不平を聞かされたかも知れない。重時が子細を申したことは、大きかった。北条一門の元老であり、幕府の連署でもあったからである。たちまち時頼は、三河局を他所に移すことにしたのである。 こうして、いささかの事件が起こった。他所に移るのを嫌った三河局が、「いささかの口舌等」で抵抗したのである。多分、泣き喚いて、自分が時頼の長男の生母であることを、かきくどいたということだろう。しかし冷厳な時頼の命令で、三河局は泣く泣く「他所」に移されていった。宝寿丸の身柄は、多分、そのまま時頼館に残されていたと思われる。 かつて東京大学の石井進氏は、「鎌倉武士館の三点セット」という指摘をした。鎌倉武士は鎌倉とその近くに、館が三か所あったというのである。 @は鎌倉内にあって平常の住館、Aは幕府の近くにあって、幕府に出仕する前後 に装束を改めたりする場所、Bは鎌倉の近郊に位置して若干の田畠が付属しているもので、その地で収穫された物が鎌倉で消費される。 これを時頼にあてはめると、それほど整然とはしていない。時頼はいまの宝戒寺の地に住んでおり、ここから幕府にも出仕していた。@とAとが、ほぼ一致することになる。その宝戒寺の地の館は、同年九月二十六日に焼失している。同時に、鎌倉の郊外にも屋敷があった。かつて祖父泰時〔1183〜1242.60歳〕が持っていた「山ノ内ノ巨福礼(小袋)ノ別居」で、時頼の代では「山ノ内ノ御亭」と呼ばれていた。いまの明月谷付近だったらしい。その明月谷に時頼は最明寺(さいみょうじ)を建立しているが、それがいつだったかが、問題である。『吾妻鏡』の建長八年〔1256〕七月十七日条に、
とある。この記事をもとにして、最明寺が創建されたのは、建長八年七月より以前だが、さはど遠くはないと、従来は考えられてきた。しかし建長三年〔1251〕二月十四日付「宗像氏業所職譲状案」(鎌倉遺文七二七五号)には、「最明寺殿(時頼)の御代の建長二年」という語があって、建長二年あるいは同三年より以前に、すでに最明寺が存在していたことが示されている。 以上のようなことから推測すると、時頼は祖父泰時から「山ノ内ノ巨福礼ノ別居」を伝領し、「山ノ内ノ御亭」としていた。そこにあった持仏堂が最初は最明寺と呼ばれたが、のち「山ノ内ノ御亭」の全体が、最明寺と呼ばれるようになった、ということかも知れない。いずれにしても時頼の本館(明月谷か)から追われた三河局は、鎌倉の郊外の某所にあった時頼の別宅に、このとき入ったものと思われる。 さらに、この時代、庶腹の長男をさしおいて、正室腹の次男が家督を継ぐという例は多い。三男だった頼朝〔1147〜99.53歳〕が、庶腹の兄二人をさしおいて源家の家督とされたことなどは、その好例である。 だから、庶腹の宝寿丸が家督を継げなくなることは、当然、予想されることであった。しかし時期が問題だった。長男である宝寿丸が「二男」とされたのは、時宗が生まれる前で、時頼の正室が男を生むか女を生むか、それすら判らなかったときだったのである。 時頼は、三河局・宝寿丸母子に対しては苛酷で、やがて正室が生む子に対しては、きわめて甘かった。それは年が改まって建長三年〔1251〕に入ると、安産の祈祷などが、さらに頻繁になっていくことに示される。
そして当日、五月十五日となった。天は晴れ、風は静かだった。この日の早朝、時頼は得宗被官の安東五郎太郎を使者として、鶴岡八幡宮別当の隆弁に書状を送った。 「我が妻の出産のこと、日頃、貴僧『今日たるべし』と仰せられるも、いまにその気なし。すこぶる不審なり。如何」 これに対して隆弁も、すぐに返書を書き送った。 「今日の酉ノ刻、必定たるべし。御不審あるべからず」 自分の予言に対して、隆弁は自信満々だった。そして実際に申ノ刻(午後三時−五時)に入ると、ようやく妊婦は産気づいた。ただちに典薬頭の丹波時長、陰陽師(おんみょうじ)の主殿助(とのものすけ)の安倍泰房、験者の清尊僧都と良親律師などが、枕頭に集まって、それぞれに祈祷をこらし始めた。 隆弁が予言した酉ノ刻というのは、いまの午後五時頃から午後七時頃まで、約二時間の幅がある。その酉ノ刻に入っても、なかなか出産はなかった。 さすがに堪りかねたのか、酉ノ刻の終刻(午後七時)近くになると、隆弁も馳せつけてきて、祈祷に加わった。と、ついに出産があった。まだ戊の刻には入っていなかった。辛うじて、隆弁の予言はあたったのである。 生まれたのは男子だった。童名は正寿丸、のちの北条時宗である。いま、甘縄神社境内に入って階段手前の西側に、「北条時宗産湯ノ井」がある。直後、安達館では祝宴が開かれたらしい。産婦の父重時など、北条一門の老若多数のほか、幕閣の要人たちも参集していた。 そして安産の加持や祈祷を行なった験者や陰陽師、医師などに、褒美の禄物が与えられた。それぞれに生衣(すずし)一領、野剱一柄、そして馬一疋ずつだった。 ときに情報を得て、佐原流三浦盛時も、馬に鞭うって馳せつけてきた。三浦合戦で三浦一族の惣領家が滅び去ったあと、得宗被官だった盛時が三浦一族の惣領になっていた。その盛時は喜悦のあまり、自分が騎乗してきた名馬「大島鹿毛」に、みずから銀(しろがね)造りの鞍を置いて陰陽師の安倍泰房に与えたという。祝宴のさなか、鶴岡八幡宮の別当隆弁法印は、「いまだから言うが」と前置きして、次のように語った。 「時頼殿、御成婚の直後より、男子安産の御祈祷のことを、拙僧に示し付けらる。よって拙僧、建長二年正月元旦を期して、丹誠の祈祷に肝胆を砕く。そして、夢の告げあり。 『同八月、懐胎すべし』 さらに今年二月、拙僧、伊豆国三島神社に参籠して祈請せるのところ、同十二日の寅ノ刻(午前四時)夢に白髪の老師あらわれ、拙僧に告げるに、 『汝が祈念するところの妊婦、きたる五月十五日の酉ノ刻、男子を平産すべし』 と。よって拙僧、今日のこの時刻に御安産のこと、予言せり。拙僧が予言に自信満々たりしこと、これによるなり」 これを聞いた一座の人々は、「奇特といいつべきか」と感嘆したという。 五代将軍の更迭 次男の正寿丸(北条時宗)〔1251〜84.34歳〕が生まれると、その生母(正室、重時の娘)に対する時頼の愛情はますます強くなったらしい。長男宝寿丸の生母三河局にくらべると、愛情というより偏愛に近い。 同時に時頼の鶴岡八幡宮別当の隆弁への帰依も、ますます強くなったようである。なにしろ隆弁は、正室の出産を安産にしただけではなく、その出産の日時まで正確に言いあてたのである。重時館で盛大な御七夜があってからのちの五月二十七日、生まれたばかりの正寿丸は、御産所の安達館から、時頼館に移された。しかし生母は痢病だったので、そのまま安達館に残された。その日、隆弁は時頼から、能登国諸橋保を与えられた。安産の祈祷に対する行賞だった。その寄進状には、次のように記されていた。
(以下、略) |
| ☆隆弁(1208〜83.76歳)は四条隆房(1148〜1209.62歳)の子で、後深草院二条の母方の祖父四条隆親(1203〜79.77歳)にとっては叔父にあたるが、年齢は隆親の方が5歳上である。「隆弁」の「隆」の字は四条家出身であることを示している。 略歴は、「文暦元年(1234)三月、鎌倉に下向し、将軍藤原頼経に謁す。寛元元年(1243)六月、上洛して後深草天皇誕生の御加持を務め、勧賞として法印に叙される。宝治元年(1247)六月二十七日、鶴岡八幡宮別当職に補任、以後没するまでの三十七年間在任した。建長四年(1252)十一月、権僧正。文永四年(1267)、園城寺長吏」(『鎌倉・室町人名事典』菊池紳一氏)となっていて、京都と鎌倉のいずれにおいても大変な存在感を持ったであろう人物である。隆弁については貫達人氏「隆弁」、湯山学氏「隆弁とその門流」に詳しい。歌人としての隆弁については中川博夫氏「大僧正隆弁−その伝と和歌−」が参考となる。 ☆隆弁は『とはずがたり』巻二「粥杖事件」に登場する。また、『徒然草』第216段にも、北条時頼(1227〜63.37歳)・足利義氏(1189〜1254.66歳)とともに登場する。 |