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大岡信 「女たちの中世−建礼門院右京大夫と後深草院二条」
(『あなたに語る日本文学史.古代中世篇』.新書館.1995年.p216以下)






大岡信氏の略歴(『朝日人物辞典』より)
(1931〜)詩人、評論家。静岡県三島市生まれ。1953(昭28)年東大国文学科卒。『読売新聞』外報部記者を経て、65年明治大助教授、70年教授、89(平1)年より東京芸大教授。沼津中学4年から一高文科に入学した頃より、新古今集とボードレールを並べて読むような学生であった。教官に寺田透、同級生に佐野洋、上級に村松剛、日野啓三らがいた。17歳の頃より詩作をはじめ、21歳の時「海と果実」(後に「春のために」と改題)を発表、詩風を確立する。また,59年頃より南画廊を通じ現代美術家と親しみ、美術批評を手掛ける。
 彼の、みずみずしく日本的と呼ばれる作品は、明治以後の痩せたサムライ型のものではなく、郷里の風景、水の流れ、海によって養われたものであり、それに加えて、エリュアールや瀧口修造らに導かれたシュールレアリスムによって目をひらかれた大胆な表現が一体になっている。彼の柔軟な感受性は、近代詩史のみならず、日本の伝統的詩歌のなかに新しく美の法則を見付け出す仕事にも現れている。近代から現代への流れは、61年の『抒情の批判』から、大正・昭和・敗戦後の日本の詩を分析した69年の『蕩児の家系』(歴程賞)ヘと続くのであり、一方伝統への遡航は、71年の『紀貫之』(読売文学賞),78年の『うたげと孤心』にその航跡を見ることができる。その一方で大岡の明晰さは、岡倉天心の新しい理解、菅原道真を独創的な詩人として採り上げた業績にも現れている。大岡の詩・評論を通じて柔らかな表現のなかを貫いているのは、骨格の明らかな近代的「知」であることは重要である。朝日新聞連載の「折々のうた」により80年菊池寛賞、89年詩集『故郷の水へのメッセージ』にて花椿賞を受賞。(辻井喬)



大岡信氏の見解


私の考え方


 「とはずがたり」の後深草院二条

 建礼門院右京大夫より百年ほど後になりますが、『とはずがたり』の後深草院二条の話をします。時代としては鎌倉末期で、室町に入りかけている時代です。王朝が二つに分かれている時代で、彼女は後深草院に仕えたので後深草院二条という名です。北条家の後押しによって大覚寺統と持明院統ができますが、これはあの南北朝よりもちょっと早い時期です。この頃、大覚寺統と持明院統とで交互に天皇を出すわけです。そして、この通称・後深草院二条という人ですが、父親は中院大納言源雅忠、母親は四条大納言隆親女近子という人で、彼女自身は正嘉二(一二五八)年に生まれています。それ以後、一応四十九歳までのことは分かっていますが、その後どれぐらい生きたか、いつ死んだかは全然分からない。この父方は村上源氏の出ですが、源というのはもともと天皇家の息子ですから、代々有力な政治家とか勅撰集に歌が載っている歌人が出ています。有力な政治家というと摂関家の権力を削減する一策として後三条天皇に起用されて右大臣、やがて太政大臣にまでなった源師房をはじめ、代々藤原氏と対抗するかたちで政治家を輩出した家だった。しかしお父さんの雅忠のころになると、さすがに力が衰えてくるらしい。ただし歌では、まだ代々有力な歌人が出ているということで、後深草院二条自身も歌道の名門であることを非常に誇りにしていた。彼女も自分の歌が勅撰集に載ることを夢に見ていたけれど、可哀想に結局出なかった。そのかわり、散文作家として、はるか後世、すなわち現代になって急に有名になってしまった。彼女のお母さんの近子は、後深草天皇に仕えていた人です。後深草天皇にとって、母の近子はお気に入りだった。お気に入りの女が源雅忠と結婚して、そしてとてもきれいな子を生んだけれども、母近子は二条が二歳の時に死んでしまう。後深草天皇自身はとても気にかけました。それで宮中に彼女を引き取り、彼女は宮中で育つ。幼年期、少女期は、たいへん美少女だったため、天皇や周りの人にとても可愛がられた。ところが、ある時突然に天皇が寝床に入ってきて変なことをするので、彼女はびっくりして肝をつぶす。けれども結局犯されてしまって、それ以来ずっと後深草院の思いもののひとりとなる。そういう意味では、物心もなにもつかないうちに男と女のことを教えられ、しかも教えた人が主上だから、特殊な女性になってしまったわけです。

 その宮中にはいろいろな本がふんだんにありますが、なかでも西行法師の修行の道筋の絵巻物を見て、彼女は非常に西行に憧れていた。西行を慕うあまり、自分も西行のあとを追って諸国を行脚したいとまで思っていた。そういう意味では、やはり中世の女です。わりと幼い少女期から西行に憧れたということは、言ってみればひとつの精神世界に憧れている。それから、外を見て歩くことに憧れている。精神の世界に憧れ、なおかつ外部の世界に憧れるというのは明らかに中世です。平安朝ではそんなことはない。平安朝の女は、精神にも外部にもほとんど興味がない。中世とそれ以前との大きな違いというのは、自立してくるということです。平安朝の小説とかエッセイを書いた人々というのは、もちろん自立した精神を持っていたけれど、ほとんどの場合には男の言いなり、あるいは家の言いなりということがまったく疑うべからざる普通の女の守るべき道だったから、それ以外のことは考えられない。それが平安朝だった。けれど中世になって、独りぼっちになることがあるんだということを女たちが知った。だからこの後深草院二条の場合にも、やはり中世という時代の注目すべき精神的な課題を抱えていたということになると思う。

 けれど、いずれにしても後深草院に女にされてしまうわけです。後深草院に寵愛を受けたのは十四歳の正月です。そして翌年お父さんが死んで、彼女は孤児になってしまう。母親も父親もいない孤児になってしまうので、ますます後深草院の意に反することは一切できなくなります。彼女自身は後深草院にたえず深い愛情を持っていて、後深草院も彼女をいとしく思っていることはいるけれど、この後深草院という人は非常に不思議な人で、ほかの男たちにも彼女を斡旋する。そういう一種の倒錯した愛情の持ち主だった。それはやはり宮廷という社会のデカダンスのひとつかもしれない。

 また彼女は、これは後深草院が全然知らなかったことですが、西園寺実兼というその当時もっとも有力な貴族のひとりに愛され、秘密の関係が生じる。西園寺実兼は「雪の曙」という名前で『とはずがたり』に登場しますが、彼女は非常に罪の呵責に悩んでいる。言い換えると、彼に惚れていたということです。惚れていたから、彼女は悩む。



「北条家の後押しによって大覚寺統と持明院統ができます」と言う表現は不正確である。幕府側が朝廷の対立を利用しようとした側面は確かにあるが、そもそもの対立の発端は朝廷側にあり、幕府側は対応の煩わしさに辟易していたとも言える。
後深草院(1243〜1304.62歳)
中院雅忠(1228〜72.45歳)
四条隆親(1203〜79.77歳)
村上源氏についてはこちら(橋本義彦氏「村上の源氏」)。
「代々、藤原氏と対抗するかたちで」という表現は不正確である。村上源氏と藤原摂関家は相互に密接な血縁関係を結んでおり、単純に対立していた訳ではない。ただ、二条の曾祖父源通親九条兼実の紛争など、極めて厳しく対立した時期があったことは確かである。
通親の子孫は久我家・中院家・堀河家・土御門家などに分かれており、その盛衰はそれぞれの家ごとに細かく分析しなければならず、村上源氏で括るのは若干乱暴である。雅忠が生まれた久我家では、通親の子の通光が死んでから相続争いが非常に厳しく、一時的な沈滞を招いていた(その概略はこちら。)
母親の話は第三巻になって後深草院自身の告白として語られたとされるもの。原文はこちら。この話を聞けば誰でも『源氏物語』の「若紫」を思い出すが、そうすると二条に紫の上のイメージが重なってきて、まるで物語の主人公めいた雰囲気が出てくる訳である。
何故「たいへん美少女だった」と言えるかというと、二条が自分でそう言っているからである。二条は自分を楊貴妃に喩えるなど、非常にずうずうしい性格の持ち主である。「ある時突然に天皇が寝床に入ってきて変なことをする」というのも、原文を見れば結婚の儀式に即した行動であることは明らかであり、何よりこの部分はコメディタッチで描かれており、深刻さは全くない。さらに「物心もなにもつかないうちに」というのも変な表現である。これは14歳のときのできごとであるが、当時の14歳は結婚しても当たり前の年で、現代とは全然感覚が違う。まして二条は4歳から宮廷で生活していたのであり、14歳にもなれば物心はつきまくっているはずである。
西行(1118〜90.73歳)の修行の絵巻物を見て西行にあこがれたとの話は九歳の子供の発想としては異常であり、後の遍歴篇の布石として創作したものと考える学者が多い。後深草院二条の西行追慕についてはこちら(目崎徳衛氏「没後のことども」)。
「孤児」と言っても、最高レベルの貴族の家柄であるから世話をしてくれる有力な親戚はいっぱいいる訳で、別にそんなに卑屈になる必要もなかったはずである。実際、二条の行動は粥杖事件をはじめとして後深草院の意に反することだらけである。
後深草院は子供が何人いるのか分からないほど女性関係が激しかった亀山院と異なり、『とはずがたり』が発見されるまではごく普通の人と思われていた。後深草院が「倒錯した愛情の持ち主だった」と断定されるようになったのは『とはずがたり』の「発見」以降である。後深草院が本当にそのような人物だったのか否かを、二条という特異な女性の証言だけで判断することは極めて危険である。
「雪の曙」を西園寺実兼(1249〜1322.74歳)の実像ととらえることは疑問である。これは、およそ権力から切り離されて生きている現代の国文学者たちが、関東申次という実兼の地位の重要さを想像できないこと等から生じる誤解だと思う。(この点についての私の考え方はこちら。)
 それから、こともあろうに後深草院の異母弟の性助法親王の求愛を受けて、罪深い女だと畏れおののきながらも男関係が次々続々と広がってきてしまう。性助法親王は「有明の月」という名前で出てきます。これは他の人という説もありますが、だいたいは「有明の月」はすなわち性助法親王ということになっています。結局関係ができて、できてしまうと愛してしまう。つまり多情仏心の女です。

 もうひとりは、これも奇妙な話ですが、後深草院自身が仲立ちをして、ひとりの男と彼女との間で恋愛関係を生じさせる。それは近衛大殿といって、鷹司兼平がモデルだという。これがつまり後深草院の倒錯的な愛情です。彼女自身はいつでも後深草院を思っているけれども、その思っていることを分かっているにもかかわらず、平然とほかの男に彼女を世話する。そういう間に、「有明の月」つまり院の異母弟の性助法親王ですが、この人との恋愛がばれてしまう。それまでは密かに愛していたけれど、このとき後深草院は「いいよ」と言っただけでなく、「あれはすばらしい女だ」と男にけしかけた。それで公然と恋愛関係が進行する。このお坊さんと灼熱の恋になって、どうなることかと読者としては思うけれど、運が良くというか悪くというか、この人は流行病で死んでしまう。彼女は非常に悲しむけれど、しようがない。

 そのうちに、今度は後深草院にとって耐え難いことが起きます。彼女が亀山天皇とできたのではないか、という噂が生じる。天皇同士ということで、これだけは許せなかった。おそらく大覚寺統と持明院統との関係もあったのではないかと思うけれど、結局二条は宮中にいられなくなる。もうひとつは、いろいろ噂になって後深草院の中宮の東二条院という女性もだんだん事情が分かってきて、あなたはけしからん、ということになる。だからお后にはやられる、天皇にもうとんじられるというわけで、一気に寵愛が衰えた感じになってくる。それで御所を退いた。御所を退いた後にも、宮中で盛大な儀式があるときには出仕したりしているけれど、後深草院とは縁が切れるわけです。けれど、縁が切れた後々も、院を慕っているらしいのですから、不思議なことです。


大岡信氏は真剣にこれを書かれているのであるが、率直に言って何か滑稽な感じがしてきてしまう。確かに「罪深い女だと畏れおのの」くような場面も出てくるのであるが、それがいつまでもダラダラ続くのではなく、すぐに別の場面になって雰囲気もガラリと変わってしまうのである。
性助法親王(1247〜82.36歳)

鷹司兼平(1228〜94.67歳)は五摂家の一つ、鷹司家の祖。二条の父雅忠と同年の生まれ。1252年、25歳で摂政・氏の長者。能書で有名。この人も『とはずがたり』のために変態老人扱いされてしまったことになる。「近衛大殿」が登場する場面の原文はこちら

「有明の月」との関係が後深草院に知られてしまう場面の原文はこちら

次から次へと奇妙な人が出てくる訳で、常識人なら『とはずがたり』が本当に事実を記録した日記なのだろうかと疑うはずだと思うが、そうした疑問を抱くのは田中貴子氏(『日本古典への招待』)など、ごく少数の学者に限られている。
東二条院(1232〜1304.73歳)も、かなり戯画化されて『とはずがたり』に登場するが、二条の一方的な証言だけで、本当に意地の悪い人物だったと決めつけるのは問題である。ちなみに『徒然草』第222段には竹谷乗願房に対して仏教に関する質問をする理知的な東二条院の姿が描写されている。
 尼になった後深草院二条

 縁が切れて、彼女はいよいよ旅に出ます。それからがまた面白くなってくる。かねての念願どおり出家します。つまり女西行になろうとした。そこで、まず東国に旅します。鎌倉に行って、あたりを周遊していると、将軍の惟康親王という人が幕府の意向で廃止されて都へ護送される時にぶつかった。この時代、天皇の周辺から必ずひとり将軍が送られているわけです。そこのシーンがじつに面白い。その後、後深草院の息子の久明親王が新しい将軍として下る。その御所の準備にも加わっている。故事来歴を知っているから、そういうときには重宝されます。いたるところで彼女は先生となって、結構お礼などももらっていたと思う。田舎の金持ちとか田舎の侍の家などに逗留するとき、そこの家の女どもにいろいろ教えます。絵の先生になるし、礼儀作法の先生になるし、着物の着方から何からすべての先生になる。彼女は非常におもしろい生き方をするようになる。この惟康親王が送られていくところがとくに注目すべきところで、みじめで目も当てられないという状態をじっと見て、書いている。普通の女は「いとも目も当てられぬ」ときは見ない。けれども彼女は「いとも目も当てられぬ」という状況をじっと見ている。それが本当に面白い。凄い女だと思う。その部分を少しくわしく説明します。

 鎌倉に彼女が滞在していたときに、将軍の惟康親王が執権の北条貞時に罷免されてしまった。それで真夜中に不吉な風雨のなか、容赦なく都に送還されていく。それまで将軍だった人を、雨のばしゃばしゃ降る嵐の日、しかも真夜中に叩き出すのだからひどい。都に送還されていく様子がじつに哀れで、それを逐一見て『とはずがたり』に記している。例えば将軍が乗るべき御輿が「罪人護送の際の先例に倣うべし」というので、前後逆さまにさせられた。普通は前を向いて座るのに、後ろを向いて座らされる。これは罪人護送のときにそうしたらしい。また、将軍がまだ御輿に乗り込まないうちに、はや将軍が使っていた庭のほうでは、下人がわらじをはいたままずかずかと御殿へ上って御簾を引きむしったりしている。そういうありさまを逐一じっと見て、「いと目も当てられず」と書いている。いとも目も当てられなければ見なければいいと思うけれど、それを逆に克明に書いて記録している。さらに佐介(さすけ)の谷というところにいったんとどまった惟康親王が、いよいよ上洛するために真夜中に御輿に乗って出発するのを、わざわざ付近に宿をとって見送りにいく。本人としては、可哀想に、と見送るつもりなんでしょう。だけど客観的に見ると、むしろ好奇心に満ちている。でなければ、そんな雨の晩にこんなことしません。この親王は、後深草院とも縁がないわけではないから、行為は深い同情から出ているけれど、同時に同情だけでやっているとも思えない。それがよくよく分かるのは、彼女の文章、文体です。


これは1289年、二条が32歳の時のこと。鎌倉入りの場面の原文はこちら。当時鎌倉では1285年の霜月騒動で安達泰盛派を文字通り殲滅した平頼綱により恐怖政治が敷かれていた。二条の平頼綱に対する態度は極めて高慢で面白いが、本当にそうした態度をとれたとすれば、二条は自分で言うような遁世の尼ではなく、特別な政治的存在だったと考えるのが自然だと思う。
久明親王(1276〜1328.53歳)は1289年、14歳のときに鎌倉に下り、第8代将軍に就任。この人自身も将軍在任19年に及んだ1308年、解任されて京都に帰還し、後任にはその子守邦親王が就任した。将軍には政治的な実権はなかったが、北条得宗家は不平をもつ北条一族の分派や御家人らが将軍と結びつくことを嫌い、将軍就任期間が長くなると将軍を京都に追い返すことを繰り返したのである。

惟康親王(1264〜1326.63歳)が都へ護送される場面の原文はこちら。大岡信氏の分析は、この惟康親王が追放される場面についてだけ何故か妙に鋭い。大岡氏が言われるように確かに二条の観察力の鋭さ、肝の太さは通常人とは全く異なる。

既に発たせおはします。折、節宵(ふしよひ)より降る雨、殊更(ことさら)その程となりてはおびただしく、風吹き添へて、物など渡るにやと覚ゆる様なるに、時違(たが)へじとて、出し参らするに、御輿を筵(むしろ)といふ物にて包みたり。あさましく、目もあてられぬ御様(やう)なり。御輿寄せて、召しぬと覚ゆれども、何かとて、又庭に舁(か)き据ゑ参らせて、程経(ほどふ)れば、御鼻かみ給ふ。いとしのびたる物から、度々聞ゆるにぞ、御袖の涙も推し量られ侍りし。


「既に発たせおはします。折、節宵(ふしよひ)より降る雨」は、「既に発たせおはします折節、宵より降る雨」(まさに御出発になる折に、前夜から降っていた雨が)の誤りだと思われる。

 「物」というのは妖怪変化です。雨が降っているし、お化けなど出そうな時刻なのに、時刻を狂わせるわけにはいかないといって出し参らせると、将軍の乗っている御輿がむしろで包まれている。御輿を寄せて乗り込むかと思っていると、何かとぐずぐずしていて、庭にまた輿をでんと据えた。しばらくすると親王が鼻をかんだ。ひっそりと忍んでやっているのだけれど、たびたびかんでいる、と書いている。しかも、この将軍は同じように将軍職を罷免されて都へ帰った宗尊親王とは違って、都への帰路あるいは都へ帰った後に、歌を詠んで自らの潔白の証とするようなことをしなかった。つまり、この親王は幕府に突っ返されたままだった。宗尊親王の場合は歌を詠んで、「俺は潔白だ、なのに」とやったのに、それができなかった。二条はそれが「いと口惜しかりし」、本当にしゃくにさわった、悔しい、と書いている。だから、ただ同情しているのではなく「残念だわ、ちゃんとした歌を一首や二首作ればいいのに」ということを言っている。単純に「おかわいそうに」とうだけではないことが良く分かる。それと、ここで注目すべきことは、親王が御輿のなかに入って鼻をしばしばかんでいるとあるけれど、このとき雨がじゃあじゃあ降っています。雨が降っていて、輿のなかで鼻をかんだ音が聞こえたということは、彼女はよほど近くに行っていなければならない。本当に夜の闇に紛れて、よほど間近にまで行って見ていた。面識はなかったのだから、これは不思議です。しかし、面識はなかっただろうけれど、彼女にとってはやはりそのままにしておけなかった。そのうえで、観察力のしたたかさは文章で分かります。それに、別に真夜中に行く必要はないのに見送りに行って、しかも「こんな惨めな姿で送られていくなんてかわいそう」「せめて歌でも詠めばいいと思うけれど、ちっとも詠まない」「情けない」と思っているわけだから、かなり勝ち気です。









宗尊親王の略歴についてはこちら(三山進氏「第六代宗尊親王」)。宗尊親王とその子孫については菊地大樹氏が詳細な検討を加え、研究水準が飛躍的に向上した(「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」)。







当然のことながら、無関係な尼が、特殊な政治犯的存在である前将軍の、そんなに間近にまで行けたのであろうか、という疑問が生じる。むしろ、幕府即ち平頼綱側の承認のもと、一種の立会人のような形でいたのではないか、との疑いが生じる。


二条がとんでもなく勝ち気な女性であったことは、ここだけではなく、『とはずがたり』の随所に出てくる。
 『とはずがたり』は巻一から巻五までに分かれていますが、巻四と巻五が放浪時代を書いている。巻五では備後の国、広島と岩国のあたりの「和知の里」というところへ行きます。「悪業深重なる武士」と書いてあるので、悪業を重ねた武士のところへしばらく逗留する。そこで見聞したことを書いていますが、そこでも本当に肝っ玉が太いことが分かるようなことを書いている。結局、男どもは彼女に手を出せない。美しい女で威厳があって、尼さんで、というので、相当したたかな男でも一目も二目もおいてしまう。それから、男たちには女が、妻や妾がいる。そういう女どもは彼女の一挙手一投足に注目しているから、男は彼女に近づけない。この女たちは、彼女に都の風習を教えてもらおうという熱望があるから、非常に尊敬している。たぶん、気品から何からまったく違ったから、女たちにしてみれば彼女に対する嫉妬なんてありえない。嫉妬する理由がなかった。彼女のほうでも男どもをまったく問題にしていない。そういう意味で非常に肝が太いところがある。とにかく面白い。
和知の場面については吉舎町教育委員会編『吉舎町史』に詳しい。和知は広島県の三次市付近、中国山地の山ふところに抱かれた土地であるので、「広島と岩国のあたり」は不正確。ただ、『とはずがたり』では、奇妙なことに鞆の港のすぐ近くのように描かれている。ここだけではなく、『とはずがたり』には不自然な地名の誤りが頻出する。それはとても偶然とは思えない程の多さであるが、この点についての私の考え方はこちら


−人生を二度生きた女たち−

 彼女が行った場所というのを見ると、まずはじめに鎌倉へ行って、そこから今の埼玉県の川口へ行くところで年を過ごし、それから善光寺へ行ってお参りして高岡へ行く。そしてまた関東へ戻ってきて、武蔵野で秋が来て、それから草深い浅草寺にお参りへ行く。その当時、浅草のへんは草深かった。それから、隅田川、また鎌倉へ戻り、京都へ戻ってくる。それから、まもなく出発して、今度は奈良へ行く。途中、石清水で偶然後深草院と再会する。再会するけれど、また分かれて伊勢、熱田と回って、伏見の御所へ行く。伏見の御所へ行ったときに、そこで後深草院と会います。会って、いろいろ昔話をする。けれども、そのときはもう男と女の関係はない。それから五年たったときに、備後、安芸、厳島、それから足摺岬へ行った。この足摺岬はフィクションかもしれない。足摺岬というのは四国の末端ですから。そこから有名な西行の話に倣って愛媛県の白峰へ、それから松山に止まる。その昔、悲惨な運命にあった崇徳上皇を、西行が慕ってわざわざ白峰の崇徳院のお墓に詣でて、夢のなかで崇徳院と問答する有名な話があります。『西行物語』や『撰集抄』、また謡曲にもなっていますが、一番知られているのが上田秋成の『雨月物語』のなかの「白峰」です。松山も、崇徳院の血がぽたぽた垂れていたという話が伝わっているところです。愛媛県は崇徳院の足跡がいろいろありますが、そういうところに二条はお参りしている。四国から戻ってきて、次には備後へ行きます。備後の和知へ行って、ここで豪族どもの争いに巻き込まれ、たいへん困った立場に二条は追い込まれる。そのとき鎌倉で出会ったある出家した入道が割って入って、運良く助けてもらう。入道とは男と女の仲ではなくて、鎌倉の連歌の会で知っていた人です。争いあっていた人たちの従兄弟だった。こうして争いから解放された二条は、結局大変な教養を見せて、そこの荒くれ男どもを心服させる。みんながひれ伏してしまう。「悪業深重なる男ども」が、なんとかしてここへとどまってくれと言う。けれど振り払って帰る。





善光寺参詣の場面の原文はこちら。大岡氏のように「高岡へ行く」と書くと、まるで二条が富山県の高岡へ言ったように聞こえるが、これは「高岡の石見の入道」の家に寄っただけで、高岡も石見も長野市周辺の郷名である。
浅草寺参詣の場面のこちら。浅草寺の本尊は聖観音、即ちもっともオーソドックスな形の観音様なのであるが、二条は十一面観音に詣でたとしている。学者は全然この誤りを重視しないが、尼である二条がこんな誤りおかすのは極めて不自然である。(この点についての私の考え方はこちら。)
「男と女の関係がない」とは思っていない学者も多い。八嶌正治氏の見解(「頽廃の魅力」)を素材として別途検討する。
学者たちは、この足摺岬訪問は不自然だと言うのだが、他の土地だって不自然なことだらけである。学者たちは極端に不自然なところを指摘するだけで、こんな不自然さに平然としている二条への根本的な疑問を抱こうとしない。
松山というのは道後温泉のある松山ではない。白峰の麓、崇徳院の行在所のあったところで、現在の香川県坂出市松山であり、大岡信氏は完全に勘違いしている。香川県と愛媛県を間違えるくらいであるから、先の高岡もやはり富山県と間違えていたのだろうか。雑である。
とにかく、どこに行っても次から次へと事件に巻き込まれる訳である。この和知については、前述の疑問がある。
 その後、後深草院のお后で、彼女を嫉妬で苦しめた東二条院が病気でお亡くなりになる。その半年後に、今度は後深草院が病気になる。院は結局、真夏にお亡くなりになる。彼女は悲嘆にくれて、裸足で院の柩をずっと追いかけていきます。感動的なシーンです。その後はほとんど物語はなくて、法皇の三回忌があったというところで終わります。だから、後深草院のことを書き終えれば、もう書く気がなくなってしまった。言いかえると、女の一生というものが、最初の男との不思議な運命の糸でつながれてしまったということの、ひとつの典型的なケースです。

東二条院と後深草院が亡くなるのは1304年、二条が47歳のときである。
二条が「裸足で院の柩をずっと追いかけて」行く場面の原文はこちら。確かに、この場面だけ見れば「感動的なシーン」かも知れないが、二条のような勝ち気でわがままな女がこんな純情な行動をとるのも変な話である。なお、西園寺公衡による後深草院崩御・葬送の記録はこちら
 そういう意味で、たいへん数奇な運命をたどった人ですけれど、とにかく巻四と巻五を読むと、肝っ玉が据わっている女ということが強く感じられる。そこを読むと、かつては天皇ならびに高位の貴族や僧侶のあいだで性的な人形として、まるでピンポン玉みたいにあっちへやられたりこっちへやられたりしていた時代の彼女とは、まるで違った別の女が誕生していることがよく分かります。貴族ではあるけれど、精神状態としては新しいなにかを求めている女というイメージが非常に強い。求めているものの最たるものは、おそらく自分自身とはなにか、というような一種の哲学的な問題でしょう。そういう哲学的な問題を抱えている女だと思うしかない。そうでなければ、女だてらに西行の後を追って、東だけでなくて西のほうへも行って歩き回ってしまうということはできない。むしろ、これは西行の後を追うということを越えてしまっている。

 そういう意味では後深草院二条も、前に話した建礼門院右京大夫、そして北条政子も、それぞれの生き方で、自らの意志をもってひとり立ちした女であったというふうに思います。その場合に建礼門院右京大夫と後深草院二条に共通のものは、人生の道の半ばで両方とも非常に苦しんで、その最後にいったんは世を捨てたという状態を経て、また社会に復活したことです。建礼門院右京大夫の場合には、出家はしなかったけれど引っ込んでしまった。ところがまた復活して、とにかくお婆さんになるまで、なんらかの意味で宮仕えをしていた。だけど、自分の生涯はある時点でぽっきり折れてしまっているということを自覚している。それから、後深草院二条の場合にも、やはり折れてしまったということは、『とはずがたり』が後深草院の崩御というところで終わっているということではっきりしている。だから、言ってみれば人生を二回生きている。それはやはり中世的な現象だと思う。

 王朝の女たちというのは、一本線です。もちろん、その間にはいろんなことがある。和泉式部の場合には、恋愛で大変に苦しんだりしているけれども、人生の軌道を飛び出して全然別のところへ行って、またやり直してみるというふうなかたちの生き方ではなかったと思う。相変わらず、ずっと同じところで生活しているわけです。

『とはずがたり』の原文を読んだ私には、二条が若いときには「ピンポン玉みたいにあっちへやられたりこっちへやられたりしていた」女だったとはとても思えない。若いときに肝っ玉が据わっていなかった人間が、中年になってから突然肝っ玉が据わるようになる、というのも不自然な話である。勝ち気で我儘でずうずうしいところは年をとっても全然変わっていない。だいたい人間の基本的な性格はそうそう変わるものでもないと私は思う。

二条が「自分自身とはなにか、というような一種の哲学的な問題」を抱えている女だったとは私には思えない。そういった貧相な問題意識は繊細な近代人である大岡信氏にはふさわしいが、最高級の貴族として自分に強烈な誇りと自信を抱いていた二条には似合わないと思う。










二条が人生を二度生きているのではなく、大岡氏が二条の人生を一貫して貫くものを見い出していないだけだ、という可能性もある。
 ところが、この中世の女たちの場合は、世を捨てたということがあります。世捨て人になるということは中世でなければ生じなかった現象です。日本では、世捨て人の、草庵文学というのがあって、『方丈記』とか『徒然草』が非常に有名です。『方丈記』も『徒然草』も、やはりあるところで世を捨てるというところが、はっきりした文学的な、つまり見るに足る現象として生じている。それが新しい文学形式としてのいわゆる「随筆」というものの出発点になっています。そういう点で言うと、女の場合にも、建礼門院右京大夫は、おおざっぱだけれど時代的にいえば鴨長明、西行と一緒で、後深草院二条の場合は兼好法師と一緒です。

 中世の時代をそう見ますと、なんらかの意味で男と女は対応しています。それは、男だけが中世を生きたわけではないからです。女もやはり中世を生きていた。そういうところが、面白いと言えば面白い、当たり前と言えば当たり前のことだった。しかし、当たり前のことを我々はあまりに知らないから、当たり前のことを知るとびっくりすることもある。先ほど『方丈記』『徒然草』をあげましたが、ある意味で言うと、兼好法師と後深草院二条の観察眼は接近しているかもしれない。兼好のほうが、やはり男だからさっぱりしている。後深草院二条の場合はしつこいところがあって、そこがなんともいえない魅力であります。









確かに「おおざっぱ」である。兼好の生年ははっきりしないが、かつての通説に従って1283年とすると、二条より25歳下となる。ただ、この25年の間には2度にわたる元寇があり、日本史上屈指の激動期であるので、この差は相当大きい。

この部分、大岡氏が何を言いたいのかよく分からない。女も中世を生きていたのは当たり前すぎることで、そんなことに驚いていたら驚かないで済ませることがなくなってしまう。
「兼好法師と後深草院二条の観察眼は接近しているかもしれない」との指摘は、大岡氏の意図を超えて極めて暗示的である。





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