更新14.3/2
| 大岡信氏の略歴(『朝日人物辞典』より) |
| (1931〜)詩人、評論家。静岡県三島市生まれ。1953(昭28)年東大国文学科卒。『読売新聞』外報部記者を経て、65年明治大助教授、70年教授、89(平1)年より東京芸大教授。沼津中学4年から一高文科に入学した頃より、新古今集とボードレールを並べて読むような学生であった。教官に寺田透、同級生に佐野洋、上級に村松剛、日野啓三らがいた。17歳の頃より詩作をはじめ、21歳の時「海と果実」(後に「春のために」と改題)を発表、詩風を確立する。また,59年頃より南画廊を通じ現代美術家と親しみ、美術批評を手掛ける。 彼の、みずみずしく日本的と呼ばれる作品は、明治以後の痩せたサムライ型のものではなく、郷里の風景、水の流れ、海によって養われたものであり、それに加えて、エリュアールや瀧口修造らに導かれたシュールレアリスムによって目をひらかれた大胆な表現が一体になっている。彼の柔軟な感受性は、近代詩史のみならず、日本の伝統的詩歌のなかに新しく美の法則を見付け出す仕事にも現れている。近代から現代への流れは、61年の『抒情の批判』から、大正・昭和・敗戦後の日本の詩を分析した69年の『蕩児の家系』(歴程賞)ヘと続くのであり、一方伝統への遡航は、71年の『紀貫之』(読売文学賞),78年の『うたげと孤心』にその航跡を見ることができる。その一方で大岡の明晰さは、岡倉天心の新しい理解、菅原道真を独創的な詩人として採り上げた業績にも現れている。大岡の詩・評論を通じて柔らかな表現のなかを貫いているのは、骨格の明らかな近代的「知」であることは重要である。朝日新聞連載の「折々のうた」により80年菊池寛賞、89年詩集『故郷の水へのメッセージ』にて花椿賞を受賞。(辻井喬) |
| 大岡信氏の見解 |
私の考え方 |
| 「とはずがたり」の後深草院二条 建礼門院右京大夫より百年ほど後になりますが、『とはずがたり』の後深草院二条の話をします。時代としては鎌倉末期で、室町に入りかけている時代です。王朝が二つに分かれている時代で、彼女は後深草院に仕えたので後深草院二条という名です。北条家の後押しによって大覚寺統と持明院統ができますが、これはあの南北朝よりもちょっと早い時期です。この頃、大覚寺統と持明院統とで交互に天皇を出すわけです。そして、この通称・後深草院二条という人ですが、父親は中院大納言源雅忠、母親は四条大納言隆親女近子という人で、彼女自身は正嘉二(一二五八)年に生まれています。それ以後、一応四十九歳までのことは分かっていますが、その後どれぐらい生きたか、いつ死んだかは全然分からない。この父方は村上源氏の出ですが、源というのはもともと天皇家の息子ですから、代々有力な政治家とか勅撰集に歌が載っている歌人が出ています。有力な政治家というと摂関家の権力を削減する一策として後三条天皇に起用されて右大臣、やがて太政大臣にまでなった源師房をはじめ、代々藤原氏と対抗するかたちで政治家を輩出した家だった。しかしお父さんの雅忠のころになると、さすがに力が衰えてくるらしい。ただし歌では、まだ代々有力な歌人が出ているということで、後深草院二条自身も歌道の名門であることを非常に誇りにしていた。彼女も自分の歌が勅撰集に載ることを夢に見ていたけれど、可哀想に結局出なかった。そのかわり、散文作家として、はるか後世、すなわち現代になって急に有名になってしまった。彼女のお母さんの近子は、後深草天皇に仕えていた人です。後深草天皇にとって、母の近子はお気に入りだった。お気に入りの女が源雅忠と結婚して、そしてとてもきれいな子を生んだけれども、母近子は二条が二歳の時に死んでしまう。後深草天皇自身はとても気にかけました。それで宮中に彼女を引き取り、彼女は宮中で育つ。幼年期、少女期は、たいへん美少女だったため、天皇や周りの人にとても可愛がられた。ところが、ある時突然に天皇が寝床に入ってきて変なことをするので、彼女はびっくりして肝をつぶす。けれども結局犯されてしまって、それ以来ずっと後深草院の思いもののひとりとなる。そういう意味では、物心もなにもつかないうちに男と女のことを教えられ、しかも教えた人が主上だから、特殊な女性になってしまったわけです。 その宮中にはいろいろな本がふんだんにありますが、なかでも西行法師の修行の道筋の絵巻物を見て、彼女は非常に西行に憧れていた。西行を慕うあまり、自分も西行のあとを追って諸国を行脚したいとまで思っていた。そういう意味では、やはり中世の女です。わりと幼い少女期から西行に憧れたということは、言ってみればひとつの精神世界に憧れている。それから、外を見て歩くことに憧れている。精神の世界に憧れ、なおかつ外部の世界に憧れるというのは明らかに中世です。平安朝ではそんなことはない。平安朝の女は、精神にも外部にもほとんど興味がない。中世とそれ以前との大きな違いというのは、自立してくるということです。平安朝の小説とかエッセイを書いた人々というのは、もちろん自立した精神を持っていたけれど、ほとんどの場合には男の言いなり、あるいは家の言いなりということがまったく疑うべからざる普通の女の守るべき道だったから、それ以外のことは考えられない。それが平安朝だった。けれど中世になって、独りぼっちになることがあるんだということを女たちが知った。だからこの後深草院二条の場合にも、やはり中世という時代の注目すべき精神的な課題を抱えていたということになると思う。 けれど、いずれにしても後深草院に女にされてしまうわけです。後深草院に寵愛を受けたのは十四歳の正月です。そして翌年お父さんが死んで、彼女は孤児になってしまう。母親も父親もいない孤児になってしまうので、ますます後深草院の意に反することは一切できなくなります。彼女自身は後深草院にたえず深い愛情を持っていて、後深草院も彼女をいとしく思っていることはいるけれど、この後深草院という人は非常に不思議な人で、ほかの男たちにも彼女を斡旋する。そういう一種の倒錯した愛情の持ち主だった。それはやはり宮廷という社会のデカダンスのひとつかもしれない。 また彼女は、これは後深草院が全然知らなかったことですが、西園寺実兼というその当時もっとも有力な貴族のひとりに愛され、秘密の関係が生じる。西園寺実兼は「雪の曙」という名前で『とはずがたり』に登場しますが、彼女は非常に罪の呵責に悩んでいる。言い換えると、彼に惚れていたということです。惚れていたから、彼女は悩む。 |
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| それから、こともあろうに後深草院の異母弟の性助法親王の求愛を受けて、罪深い女だと畏れおののきながらも男関係が次々続々と広がってきてしまう。性助法親王は「有明の月」という名前で出てきます。これは他の人という説もありますが、だいたいは「有明の月」はすなわち性助法親王ということになっています。結局関係ができて、できてしまうと愛してしまう。つまり多情仏心の女です。 もうひとりは、これも奇妙な話ですが、後深草院自身が仲立ちをして、ひとりの男と彼女との間で恋愛関係を生じさせる。それは近衛大殿といって、鷹司兼平がモデルだという。これがつまり後深草院の倒錯的な愛情です。彼女自身はいつでも後深草院を思っているけれども、その思っていることを分かっているにもかかわらず、平然とほかの男に彼女を世話する。そういう間に、「有明の月」つまり院の異母弟の性助法親王ですが、この人との恋愛がばれてしまう。それまでは密かに愛していたけれど、このとき後深草院は「いいよ」と言っただけでなく、「あれはすばらしい女だ」と男にけしかけた。それで公然と恋愛関係が進行する。このお坊さんと灼熱の恋になって、どうなることかと読者としては思うけれど、運が良くというか悪くというか、この人は流行病で死んでしまう。彼女は非常に悲しむけれど、しようがない。 そのうちに、今度は後深草院にとって耐え難いことが起きます。彼女が亀山天皇とできたのではないか、という噂が生じる。天皇同士ということで、これだけは許せなかった。おそらく大覚寺統と持明院統との関係もあったのではないかと思うけれど、結局二条は宮中にいられなくなる。もうひとつは、いろいろ噂になって後深草院の中宮の東二条院という女性もだんだん事情が分かってきて、あなたはけしからん、ということになる。だからお后にはやられる、天皇にもうとんじられるというわけで、一気に寵愛が衰えた感じになってくる。それで御所を退いた。御所を退いた後にも、宮中で盛大な儀式があるときには出仕したりしているけれど、後深草院とは縁が切れるわけです。けれど、縁が切れた後々も、院を慕っているらしいのですから、不思議なことです。 |
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尼になった後深草院二条 縁が切れて、彼女はいよいよ旅に出ます。それからがまた面白くなってくる。かねての念願どおり出家します。つまり女西行になろうとした。そこで、まず東国に旅します。鎌倉に行って、あたりを周遊していると、将軍の惟康親王という人が幕府の意向で廃止されて都へ護送される時にぶつかった。この時代、天皇の周辺から必ずひとり将軍が送られているわけです。そこのシーンがじつに面白い。その後、後深草院の息子の久明親王が新しい将軍として下る。その御所の準備にも加わっている。故事来歴を知っているから、そういうときには重宝されます。いたるところで彼女は先生となって、結構お礼などももらっていたと思う。田舎の金持ちとか田舎の侍の家などに逗留するとき、そこの家の女どもにいろいろ教えます。絵の先生になるし、礼儀作法の先生になるし、着物の着方から何からすべての先生になる。彼女は非常におもしろい生き方をするようになる。この惟康親王が送られていくところがとくに注目すべきところで、みじめで目も当てられないという状態をじっと見て、書いている。普通の女は「いとも目も当てられぬ」ときは見ない。けれども彼女は「いとも目も当てられぬ」という状況をじっと見ている。それが本当に面白い。凄い女だと思う。その部分を少しくわしく説明します。 鎌倉に彼女が滞在していたときに、将軍の惟康親王が執権の北条貞時に罷免されてしまった。それで真夜中に不吉な風雨のなか、容赦なく都に送還されていく。それまで将軍だった人を、雨のばしゃばしゃ降る嵐の日、しかも真夜中に叩き出すのだからひどい。都に送還されていく様子がじつに哀れで、それを逐一見て『とはずがたり』に記している。例えば将軍が乗るべき御輿が「罪人護送の際の先例に倣うべし」というので、前後逆さまにさせられた。普通は前を向いて座るのに、後ろを向いて座らされる。これは罪人護送のときにそうしたらしい。また、将軍がまだ御輿に乗り込まないうちに、はや将軍が使っていた庭のほうでは、下人がわらじをはいたままずかずかと御殿へ上って御簾を引きむしったりしている。そういうありさまを逐一じっと見て、「いと目も当てられず」と書いている。いとも目も当てられなければ見なければいいと思うけれど、それを逆に克明に書いて記録している。さらに佐介(さすけ)の谷というところにいったんとどまった惟康親王が、いよいよ上洛するために真夜中に御輿に乗って出発するのを、わざわざ付近に宿をとって見送りにいく。本人としては、可哀想に、と見送るつもりなんでしょう。だけど客観的に見ると、むしろ好奇心に満ちている。でなければ、そんな雨の晩にこんなことしません。この親王は、後深草院とも縁がないわけではないから、行為は深い同情から出ているけれど、同時に同情だけでやっているとも思えない。それがよくよく分かるのは、彼女の文章、文体です。 |
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「物」というのは妖怪変化です。雨が降っているし、お化けなど出そうな時刻なのに、時刻を狂わせるわけにはいかないといって出し参らせると、将軍の乗っている御輿がむしろで包まれている。御輿を寄せて乗り込むかと思っていると、何かとぐずぐずしていて、庭にまた輿をでんと据えた。しばらくすると親王が鼻をかんだ。ひっそりと忍んでやっているのだけれど、たびたびかんでいる、と書いている。しかも、この将軍は同じように将軍職を罷免されて都へ帰った宗尊親王とは違って、都への帰路あるいは都へ帰った後に、歌を詠んで自らの潔白の証とするようなことをしなかった。つまり、この親王は幕府に突っ返されたままだった。宗尊親王の場合は歌を詠んで、「俺は潔白だ、なのに」とやったのに、それができなかった。二条はそれが「いと口惜しかりし」、本当にしゃくにさわった、悔しい、と書いている。だから、ただ同情しているのではなく「残念だわ、ちゃんとした歌を一首や二首作ればいいのに」ということを言っている。単純に「おかわいそうに」とうだけではないことが良く分かる。それと、ここで注目すべきことは、親王が御輿のなかに入って鼻をしばしばかんでいるとあるけれど、このとき雨がじゃあじゃあ降っています。雨が降っていて、輿のなかで鼻をかんだ音が聞こえたということは、彼女はよほど近くに行っていなければならない。本当に夜の闇に紛れて、よほど間近にまで行って見ていた。面識はなかったのだから、これは不思議です。しかし、面識はなかっただろうけれど、彼女にとってはやはりそのままにしておけなかった。そのうえで、観察力のしたたかさは文章で分かります。それに、別に真夜中に行く必要はないのに見送りに行って、しかも「こんな惨めな姿で送られていくなんてかわいそう」「せめて歌でも詠めばいいと思うけれど、ちっとも詠まない」「情けない」と思っているわけだから、かなり勝ち気です。 |
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| 『とはずがたり』は巻一から巻五までに分かれていますが、巻四と巻五が放浪時代を書いている。巻五では備後の国、広島と岩国のあたりの「和知の里」というところへ行きます。「悪業深重なる武士」と書いてあるので、悪業を重ねた武士のところへしばらく逗留する。そこで見聞したことを書いていますが、そこでも本当に肝っ玉が太いことが分かるようなことを書いている。結局、男どもは彼女に手を出せない。美しい女で威厳があって、尼さんで、というので、相当したたかな男でも一目も二目もおいてしまう。それから、男たちには女が、妻や妾がいる。そういう女どもは彼女の一挙手一投足に注目しているから、男は彼女に近づけない。この女たちは、彼女に都の風習を教えてもらおうという熱望があるから、非常に尊敬している。たぶん、気品から何からまったく違ったから、女たちにしてみれば彼女に対する嫉妬なんてありえない。嫉妬する理由がなかった。彼女のほうでも男どもをまったく問題にしていない。そういう意味で非常に肝が太いところがある。とにかく面白い。 | ||
−人生を二度生きた女たち− 彼女が行った場所というのを見ると、まずはじめに鎌倉へ行って、そこから今の埼玉県の川口へ行くところで年を過ごし、それから善光寺へ行ってお参りして高岡へ行く。そしてまた関東へ戻ってきて、武蔵野で秋が来て、それから草深い浅草寺にお参りへ行く。その当時、浅草のへんは草深かった。それから、隅田川、また鎌倉へ戻り、京都へ戻ってくる。それから、まもなく出発して、今度は奈良へ行く。途中、石清水で偶然後深草院と再会する。再会するけれど、また分かれて伊勢、熱田と回って、伏見の御所へ行く。伏見の御所へ行ったときに、そこで後深草院と会います。会って、いろいろ昔話をする。けれども、そのときはもう男と女の関係はない。それから五年たったときに、備後、安芸、厳島、それから足摺岬へ行った。この足摺岬はフィクションかもしれない。足摺岬というのは四国の末端ですから。そこから有名な西行の話に倣って愛媛県の白峰へ、それから松山に止まる。その昔、悲惨な運命にあった崇徳上皇を、西行が慕ってわざわざ白峰の崇徳院のお墓に詣でて、夢のなかで崇徳院と問答する有名な話があります。『西行物語』や『撰集抄』、また謡曲にもなっていますが、一番知られているのが上田秋成の『雨月物語』のなかの「白峰」です。松山も、崇徳院の血がぽたぽた垂れていたという話が伝わっているところです。愛媛県は崇徳院の足跡がいろいろありますが、そういうところに二条はお参りしている。四国から戻ってきて、次には備後へ行きます。備後の和知へ行って、ここで豪族どもの争いに巻き込まれ、たいへん困った立場に二条は追い込まれる。そのとき鎌倉で出会ったある出家した入道が割って入って、運良く助けてもらう。入道とは男と女の仲ではなくて、鎌倉の連歌の会で知っていた人です。争いあっていた人たちの従兄弟だった。こうして争いから解放された二条は、結局大変な教養を見せて、そこの荒くれ男どもを心服させる。みんながひれ伏してしまう。「悪業深重なる男ども」が、なんとかしてここへとどまってくれと言う。けれど振り払って帰る。 |
| その後、後深草院のお后で、彼女を嫉妬で苦しめた東二条院が病気でお亡くなりになる。その半年後に、今度は後深草院が病気になる。院は結局、真夏にお亡くなりになる。彼女は悲嘆にくれて、裸足で院の柩をずっと追いかけていきます。感動的なシーンです。その後はほとんど物語はなくて、法皇の三回忌があったというところで終わります。だから、後深草院のことを書き終えれば、もう書く気がなくなってしまった。言いかえると、女の一生というものが、最初の男との不思議な運命の糸でつながれてしまったということの、ひとつの典型的なケースです。 |
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| そういう意味で、たいへん数奇な運命をたどった人ですけれど、とにかく巻四と巻五を読むと、肝っ玉が据わっている女ということが強く感じられる。そこを読むと、かつては天皇ならびに高位の貴族や僧侶のあいだで性的な人形として、まるでピンポン玉みたいにあっちへやられたりこっちへやられたりしていた時代の彼女とは、まるで違った別の女が誕生していることがよく分かります。貴族ではあるけれど、精神状態としては新しいなにかを求めている女というイメージが非常に強い。求めているものの最たるものは、おそらく自分自身とはなにか、というような一種の哲学的な問題でしょう。そういう哲学的な問題を抱えている女だと思うしかない。そうでなければ、女だてらに西行の後を追って、東だけでなくて西のほうへも行って歩き回ってしまうということはできない。むしろ、これは西行の後を追うということを越えてしまっている。 そういう意味では後深草院二条も、前に話した建礼門院右京大夫、そして北条政子も、それぞれの生き方で、自らの意志をもってひとり立ちした女であったというふうに思います。その場合に建礼門院右京大夫と後深草院二条に共通のものは、人生の道の半ばで両方とも非常に苦しんで、その最後にいったんは世を捨てたという状態を経て、また社会に復活したことです。建礼門院右京大夫の場合には、出家はしなかったけれど引っ込んでしまった。ところがまた復活して、とにかくお婆さんになるまで、なんらかの意味で宮仕えをしていた。だけど、自分の生涯はある時点でぽっきり折れてしまっているということを自覚している。それから、後深草院二条の場合にも、やはり折れてしまったということは、『とはずがたり』が後深草院の崩御というところで終わっているということではっきりしている。だから、言ってみれば人生を二回生きている。それはやはり中世的な現象だと思う。 王朝の女たちというのは、一本線です。もちろん、その間にはいろんなことがある。和泉式部の場合には、恋愛で大変に苦しんだりしているけれども、人生の軌道を飛び出して全然別のところへ行って、またやり直してみるというふうなかたちの生き方ではなかったと思う。相変わらず、ずっと同じところで生活しているわけです。 |
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| ところが、この中世の女たちの場合は、世を捨てたということがあります。世捨て人になるということは中世でなければ生じなかった現象です。日本では、世捨て人の、草庵文学というのがあって、『方丈記』とか『徒然草』が非常に有名です。『方丈記』も『徒然草』も、やはりあるところで世を捨てるというところが、はっきりした文学的な、つまり見るに足る現象として生じている。それが新しい文学形式としてのいわゆる「随筆」というものの出発点になっています。そういう点で言うと、女の場合にも、建礼門院右京大夫は、おおざっぱだけれど時代的にいえば鴨長明、西行と一緒で、後深草院二条の場合は兼好法師と一緒です。 中世の時代をそう見ますと、なんらかの意味で男と女は対応しています。それは、男だけが中世を生きたわけではないからです。女もやはり中世を生きていた。そういうところが、面白いと言えば面白い、当たり前と言えば当たり前のことだった。しかし、当たり前のことを我々はあまりに知らないから、当たり前のことを知るとびっくりすることもある。先ほど『方丈記』『徒然草』をあげましたが、ある意味で言うと、兼好法師と後深草院二条の観察眼は接近しているかもしれない。兼好のほうが、やはり男だからさっぱりしている。後深草院二条の場合はしつこいところがあって、そこがなんともいえない魅力であります。 |