尾崎左永子『鎌倉極楽寺−古典文学散歩−』(完訳日本の古典月報第31)




尾崎左永子氏の略歴
(『梁塵秘抄漂遊』紅書房.巻末より)
(おざき・さえこ)1927年生れ。東京女子大学国語科卒。文筆業。著書『源氏の恋文』『源氏の薫り』(求龍堂)、『女人歌抄』(中央公論社)、『恋ごろも』(角川書店)、『光源氏の四季』(朝日新聞社)ほか多数。歌集『さるびあ街』(沖積舎)、『彩紅帖』(紅書房)、『炎環』(砂子屋書房)。『放送詩集・植物都市』(白凰社)『合唱組曲・蔵王』(カワイ出版)ほか。第三十二回日本エッセイストクラブ賞受賞。



尾崎左永子氏の見解 私の考え方
 鎌倉に関係のある女流の古典といえば、すぐに阿仏尼の『十六夜(いざよい)日記』が頭に浮ぶのだが、昨今は地味な『十六夜日記』は敬遠されて、代りに後深草院二条の『とはずがたり』が人気を獲得しつつあるようだ。『とはずがたり』が活字になったのは比較的新しいのだが、はじめてこの書に接したときの、奇妙に鮮烈な印象は、いまだに記憶にあたらしい。

 だいたい、「宮廷女流文学」といわれる種額のものは、今はすでに失われた優雅艶麗な雰囲気をまとっていて、読者に少なからぬ憧憬を呼び起すのが例である。ところが、この、『とはずがたり』は全く異質で、その退廃的な崩れかたが世紀末風な魅力を伝えてくる。


阿仏尼(?〜1283)
定家の息子の為家の後妻に入り、前妻の息子為氏との間ですさまじい相続財産争いを繰り広げた。1279年、訴訟のために鎌倉に下ったときの歌日記が『十六夜日記』である。二条より10年前に鎌倉に下ったことになる。
 後深草院は、作中で「わが新枕(にいまくら)は故典侍大(こすけだい)にしも習ひたりしかば」といっているように、昔典侍だった二条の母に性の手ほどきを受けたとみえる。二条が十四歳の時、それまで院から「あが子」と呼ばれて可愛がられていた二条は、何の心構えもないまま院に犯されてしまう。そのあたりの描写も「今宵(こよひ)はうたて情なくのみあたりたまひて、薄き衣(ころも)はいたくほころびてけるにや、残る方(かた)なくなりゆくにも‥‥」などと、妙になまなましいのである。

後深草院(1243〜1304.62歳)
 それを手はじめに、「雪の曙」「有明の月」「近衛大殿」それに院の弟「亀山院」と、次々に男が入り乱れつつ物語は展開する。それも絢爛(けんらん)とした恋の絵巻風ならいいのだが、後深草院はわざと二条と他の男との仲をとりもって、暗い嫉妬の炎を燃やすという被虐的な性癖の持主である。二条はまた、父の異なる子を何人か生んでは、秘密裡に処理されるという、何ともやりきれない経過をたどっていく。


亀山院(1349〜1305.57歳)
 これがもし、王朝の和泉式部だったら、たとえ “浮かれ女(め)” などと言われながらも、男心をくすぐる軽やかな風流のなかに、女が中心になっているという主体性が感じられるのだが、後深草院二条の場合には、男たちのいいおもちゃにされている哀しさがある。しかしその哀しみを自ら追いつめることもない。そこがいわば現代風なのかもしれないが、その背景にある男たち女たちの隠微な心象風景には、崩壊寸前の貴族の在りようが透けてみえる。つまりは、「鎌倉時代」でなければ生れなかった女流作品だといえるのだろう。

尾崎左永子氏は「崩壊寸前の貴族」という表現を使われているが、これは国文学者たちに根深く存在する時代認識の誤りの反映である。南北朝の動乱が起きるまでは、貴族・寺社勢力はなお広大な荘園を支配しており、また特に鎌倉時代後期には、貨幣経済が急速に浸透する中で、有力貴族・寺社は流通・金融の新たな権益を握って富裕を誇ったのである。当時、自分たちが崩壊寸前だなどと思っていた貴族はいなかったはずである。

東二条院(1232〜1304.73歳)
 その二条が、東二条院の不興を買って、追われるように宮廷を出てから、やがて出家、そして以後十七年にも及ぶ諸国標遊の旅がはじまる。二条三十二歳の正応二年(1289)のことである。三月二十日すぎ、二条は江の島に一泊。やがて鎌倉に入った。
 明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺(ごくらくじ)といふ寺へ参りて見れば、僧のふるまひ都に違(たが)はず。なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて鎌倉の方(かた)を見れば、東山(ひんがしやま)にて京を見るには引き違(たが)へて、階(きざはし)などのやうに重々(ぢゆうぢゆう)に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。あなものわびしと、やうやう見えて、心留(とど)まりぬべき心地もせず。(本冊17ページ)
 私自身鎌倉に住んでいるので、今回の文学散歩は勝手知ったるわが家の庭、と思ったのがまちがいだった。江の島方面から極楽寺に入るのは、古くからの順路で、今でも江ノ電(江ノ島電鉄)でコトコトと光る海のそばを走り、山ふところに入るとそこに極楽寺がある。が、そのつづきは「極楽寺坂」であって「化粧坂」ではない。「化粧坂」は源氏山から扇ガ谷(やつ)に下りてくる切通しで、全く方角がちがうのである。作者の思いちがいなのだろうと思う。

極楽寺については、別途、松尾剛次氏の『中世都市鎌倉の風景』(吉川弘文館)に基づいて検討するが、極楽寺周辺は、初めて鎌倉に入ろうとする人間にとっては強烈な印象を与えたと思われる空間である。
 私は、極楽寺坂と化粧坂の取り違えが、「作者の思いちがい」によるものとは考えていない。もともと作者は、その複雑華麗な文献引用の仕方から見て、極めて緻密な頭脳を有する人であって、観察力・記憶力いずれも通常のレベルの人間ではない。
 そういう女性が、極楽寺坂のような軍事的・宗教的に特別な意味をもつ空間を、1289年3月という時点、即ち内管領平頼綱が1285年11月に安達泰盛派を殲滅してから3年4か月しかたっておらず、恐怖政治に人々が怯えていた時代に通過していながら、化粧坂と間違って記憶するようなことは絶対にないと思う。
 ここは過失ではなく、意図的に化粧坂としているのだと思う。何を意図していたかについての私見は別途述べる

要塞というのは決して大袈裟な表現ではない。鎌倉幕府の歴史はすさまじい内紛と殺戮の歴史であり、権力を掌握していた者は、常に外部からの攻撃と内部の裏切りを警戒していたのである。
 現在でも逗子方面から鎌倉に入るあたりには名越の大切岸が偉容を誇っているが、これは外敵の侵入を防ぐ人工的な断崖であり、当時はこうした切岸が鎌倉七口を結ぶ線上に連続していたのである。
 それは都から下ってきた人には異様な印象を与えた光景だったはずである。

「江ノ電沿線マップ」は こちら。(江ノ電ホームページより)
 鎌倉には入り組んだ丘陵に深く切れ込んだ谷戸(やと)が数多くある。ヤト、又はヤツ、といい、笹目ガ谷(やつ)、比企谷(ひきがやつ)、明月谷(めいげつがやつ)、亀ガ谷(やつ)、獅子ガ谷(やつ)‥‥それぞれ奥深く入って山につき当る。

 鎌倉という古い都は、堅固な要塞になっていて三方を山で囲まれ、一方は海である。鎌倉に入るには古来七つしか外部との通路がなかった。いわゆる「鎌倉七ロ(ななくち)」の切通しで、ここを固めれば外敵を容易に防げるように配慮されていたのである。名越(なごえ)、朝比奈、巨福呂(こぶくろ)坂、亀ガ谷、化粧(けはい)坂、極楽寺坂、大仏坂がそれであるが、このうち極楽寺坂は昔くから鎌倉の玄関口とされ、京から来ると、ここを通って鎌倉に入るのである。

 昔なつかしいチンチン電車の江ノ電も、このところ新型車がふえてしまったが、いまでも単線で、いかにものんびりと走っている。新装成った鎌倉駅から乗るのもよし、逆に藤沢方面から、七里ケ浜の海を跳めて極楽寺駅に至るのもよい。可愛らしい小駅におり立つと、すぐ目の前に山の崖が迫っていて、日によっては海鳴りも聞えてくる。

 私が極楽寺を訪れたのは、咲きはじめた桜に冷たい雨の降りそそぐ四月八日であった。花祭の日を中心に三日間だけ、重文の釈迦像の拝観ができるのである。坂をのぼって、朱塗の桜橋を渡る。下は川ではなく、江ノ電の線路で、線路は古いレンガのトンネルに消えていく。古い避暑地の面影が偲ばれるムードが何となくなつかしい。線路を越えれぱすぐに極楽寺の茅葺(かやぶき)の山門である。参道の上に桜が咲き、どこか砂っぽい土の上に、花びらがはりついて美しい。

 極楽寺は鎌倉にはめずらしい真言律宗の寺で、約七百年前北条重時によって創建され、大伽藍が建ち並んでいたという。何度か戦火や火災にあって今はその偉容を偲ぶすべもないが、二条の訪れた時は京の寺院にも劣らぬ盛んな勢いであったとみえる。

 開山の忍性(にんしょう)は社会事業にカを入れ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けて貧しい人々を救ったが、当時、日蓮は政治力のある忍性を法敵としてはげしく非難したそうである。
北条重時(1198〜1261.64歳)
忍性(1217〜1303).「字(あざな)は良観といい、大和(奈良県)の出身.西大寺叡尊にしたがい戒律と密教を学ぶ.あつく文殊を信仰し、貧窮者や癩病患者の救済にあたる.36歳のとき関東に下向し、北条重時一族の支援により,鎌倉極楽寺を中心に戒律を復興した.また聖徳太子を追慕して、病院や馬病舎を設置し、社会救済事業を推進した.なお、極楽寺を光明真言の道場とし,その流布に努めると共に寺院経営や出版事業などにも功績を残し、西大寺流の発展につくした.また摂津多田院や四天王寺別当、東大寺大勧進職にもなった.弟子に栄真・順忍.諡(おくりな)は忍性菩薩.」(岩波仏教辞典)
忍性塔は宝篋印塔ではなく、五輪塔である。忍性は非常に優れた技術を有する工人集団を率いており、忍性塔は五輪塔の傑作として著名。なお、尾崎左永子氏が拝んだ宝篋印塔はおそらく北条重時の墓と伝えられているものであろう。(参考.前青山学院大学教授三山進『極楽寺』中央公論美術出版.和島芳男『叡尊・忍性』吉川弘文館人物叢書)
 宝物殿に立つ釈迦像(重文)は、驚くほど繊細優雅で、穏やかな表情をたたえていた。いわゆる清涼寺式の、首まで布を巻いた型なのだが、その衣文の襞(ひだ)がじつに美しく、見ていて倦(あ)きることがない。同じく重文の十大弟子像が、これはまたまことにリアルな表情を持っていて、一体ごとの写実的な姿態を見比ぺていると時を忘れてしまう。文永五年(1268)造立とあるから、二条も当然、これらの像を見たことであろう。

 裏山に登って忍性の宝篋印塔を拝む。樒(しきみ)の木に、淡黄色半透明の花がびっしり咲いている。一見蝋梅の花のような感じで、樒にこんな花が咲くとは、はじめて知った。
 極楽寺坂をゆっくり下ってゆくと、雨が止んで重い曇り空から、鳶(とび)の声が聞えてくる。この道は切通しになっているが、右手の崖の上に成就院(じょうじゅいん)がある。そこへ登る階段が、旧い極楽寺坂である。山門前に海棠(かいどう)が花を開きほじめていた。長い階段を越えて行くと、向こうに由比ヶ浜の海が一望できる。二条が階段状に狭い士地にひしめく家々を見てわびしく思ったのも、このあたりからの景観かもしれない。鎌倉の家々の相を、よく把握しているのがおもしろい。

二条は観察力が極めて鋭く、しかも的確な比喩を駆使して、観察結果を簡潔明瞭に伝達する豊かな表現力を持つ人間である。
 階段を向こうに下りきって、元の切通しに出るとすぐ、虚空蔵(こくぞう)堂の下に「星月夜の井」(星の井、星月の井とも)がある。昼でも星が映って見えたというのだが、井戸の名は堀河院百首にある「われひとり鎌倉山を越えくれば星月夜こそうれしかりけれ」に因むともいう。鎌倉には十井、五名水、十橋など、水に関わる名所が多いが、多くは江戸時代に観光用として宣伝されたものだとも聞く。井戸の蓋が竹で作られているのがいかにも鎌倉らしい。

 坂を下りたあたりが坂ノ下で、突当りまで行けば由比ケ浜、途中左折して長谷に出れば、大仏のある高徳院、十一面観音のある長谷寺、それに海棠をはじめ、花の絶えないので有名な光則寺と、見どころは多いが、長谷は観光客が多いので、休日は避けた方が無難である。


【メモ】
・交通
電車東京駅−鎌倉駅(国鉄横須賀線60分/乗換え)−極楽寺駅(江ノ電6分)。又は、逆に小田急線藤沢駅から江ノ電で、極楽寺駅(30分)下車の方法もある。
*極楽寺/宝物館は土・日・祝日のみ開館。二百円。釈迦如来立像は四月七〜九日の三日間のみ開扉。忍性塔は四月八日のみ拝観できる。
・味
力餅家(極楽寺坂切通し下(0467−22−0513)。 
 名物力餅がお土産に買える。
久霧(ひさぎり)(0467−23−0941)。
 静かな座敷で、すきうどんなど。
らい亭(らい−木扁に雷)(鎌倉山。0467−32−5656)。
 広い庭園を眺めながら、各種そぱが味わえる。会席料理は要予約。近くに棟方志功美術館がある。



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