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七 文永の役 元の出師準備完了、合浦より出動 元国が早くから目算を立てて着々計画を進めていたと考えられる征日本軍の発遣は、高麗の耽羅島における反乱・騒擾によって、一時その出先きを挫じかれた観があった。よって元は高麗を督し、戮カして共にその鎮定にカを尽くし、ようやくにしてその効がなって、至元十年(文永十年)〔1273〕六月にその討伐軍の元将忻都及び高麗将金方慶は高麗国都に凱旋したので、征日本の時期はまさにここに到来したのであった。この両将は直ちに元に赴いている。ついで元は忻都及び洪茶丘〔1244〜91.47歳〕等と共に、金方慶を征日本の事に従わせることとし、高麗に対して造船令を下した。よって翌至元十一年に、高麗は金方慶を造船官である東南道都督使に、許※を全羅道都指揮使に、洪禄遒を羅州道指揮使に任じて、造船の統督に当たらせ、その令下の諸役人を、全羅道・慶尚道・東界・西海道及び交州道の各地に派し、造船の工匠・人夫三万五百名を徴集して造船所に赴かせた。造船所は全州道の辺山及び羅州道の天冠山にあって、いずれも木材に豊富な海辺の山であったという。しかして工程は正月十五日から始まり、五月末日をもって竣工した。しかも始めは大船三百艘の建造令を受けたのであったが、結局大小あわせて九百艘が造られたという。三月、元は忻都・洪茶丘を将として、七月をもって出師の期と定めたが、六月に高麗国王元宗が逝き、後嗣忠烈王が八月元都において、王位継承の礼を行なったことのために、出師の期が延引されて、十月三日に高麗の南海の要港、後の馬山浦にあたる合浦を出動することになった。その兵力は蒙漢軍二万五千、高麗軍八千、梢(かじ)工・水手六干七百人、戦艦は三百、上陸用軽舟三百、水舟三百で蒙漢軍は忻都、高麗軍は金方慶の指揮下にあったという(東国通鑑・元史)。 ※王へんに「共」 対馬島襲わる、日蓮註画讃 元高麗の大船団は、文永十一年〔1274〕十月五日の申ノ刻に、対馬島佐須浦に殺到し、ここに蒙古との交戦の緒がひらかれたのであり、いわゆる蒙古襲来となったのである。この間の闘争の情況や経過を伝えている主なものは、八幡愚童記と日蓮註画讃である。前者によれば、同日の卯ノ刻に国府八幡宮の仮殿から出火があって、在家の焼亡となり、人々が怪しんでいる裡に、申ノ刻になって対馬島の西岸佐須浦に、四、五百艘の外国船の侵入を見た。 急報を受けた地頭所では、地頭宗助国〔1207?〜74〕が八十余騎を従え、深夜現地に到着し翌日卯ノ刻に通訳真継を伴って、来着した人々にその子細を尋ねんとしたところ、彼よりは散々に射、大船七、八隻から上陸した軍勢は一千人にも及んだので、助国は配下を指揮して敵兵を数知らぬ程射倒した。その中には大将軍と覚ぼしいものもあったが、助国の善戦もついに功なく主従十二人が戦死を遂げ、敵軍は佐須浦の在家を焼き払うに至った。この折りに助国の郎等小太郎・兵衛次郎のニ人は急遽小舟を操って博多に渡りこの顛末を注進したという。日蓮註画讃にも十月五日国府八幡の炎上についで、申ノ刻に異国の兵船四百五十艘三万余人が、対馬西佐須浦に寄せ来たり、六日辰ノ刻に合戦が行なわれて、守護代資国等が蒙古方を伐ち取ったが資国・子息ことごとく討死したと記している。この日蓮註画讃は日澄上人の著であると伝えている。日澄は嘉暦元年〔1326〕八月一日に示寂しているが、本書にはその入寂後九十三年目に当たる応永二十六年(一四一九)の高麗の来寇した記事までのせている。要するに後年の編著であって、当時の実録とは認められないが、古来から著名なもので、元寇の研究家中山平次郎氏の解題が八幡愚童記と共に元寇史蹟の新研究に収められている。 この外地方誌等にも関係の記事はあるが、おおむね以上の二書の記事によったものに過ぎないようである。しかしこの後この報告を京都において接受した勘解由小路兼仲〔1244〜1308.65歳〕はその日記勘仲記の文永十一年十月二十二日の条に「去ぬる十三日対馬島に於て、筑紫少卿(少弐氏)の代官凶賊等と合戦す云々」と載せている。この日記は東洋文庫に収蔵されているもので、兼仲が具注暦に自ら記入した原本である。前記した十月六日の交戦と日時の一致していないことが注目される。或いは勘仲記の日時をもって正確とすべきかもしれないが、元高麗の船団が合浦を出動して対馬侵犯まで十日の日時を経過しているのはいかがかとも疑われている。 侵掠壱岐島より今津に及ぶ 対馬を犯した敵軍は、十月十四日にさらに進んで申ノ刻に壱岐島の西岸に着き、その中に二艘から四百人許りが下船し、赤幡を指して東方を三度おがんだ。この時守護代平景高ならびに御家人等百余騎が、庄の三郎の城の前で矢合せをしたが、蒙古方の矢は二町ばかりを射通したために、守護代方の二人が負傷するに至った。敵方は大勢であって到底敵対する由もなかったので、城の内に入って自害してしまった。同じく十六・十七両日には平戸・能古・鷹島諸島辺が襲われ男女が多く捕えられ、松浦党は敗北し、十八日に景隆の下人宗三郎が博多へ渡ってこの事を注進した頃には、蒙古の船団は既に筑前の国の津に到着したことを八幡愚童記が伝えている。池内宏氏の元寇の新研究には筑前の津は肥前の津の誤りで、松浦郡の事であると論証されている。日蓮註画讃にも同様に、十月十四日に壱岐守護代平景隆の玉砕したことを伝え、それにつけ加えて対馬・壱岐二島の百姓等は、男は或いは殺され或いは捕えられ、女は一所に集められ、手を徹して舷側に結び付けられ、虜となったもので害せられざるものは一人もなかった。肥前国の松浦党数百人が敵と戦ったが、肥前国の百姓男女等は壱岐・対馬と同様な惨害をこうむったと付記している。この付記された事実は、高祖遺文録に収められている建治元年〔1275〕四月付の日蓮〔1222〜82.61歳〕の書状の中にも見えていて、敵軍の残虐な行為が流伝されているが、或いはこれが日蓮註画讃の記事の資料であったかもしれない。これ等の伝承を綜合すれば対馬・壱岐を掃討した敵軍は、漸次に南下して肥前の平戸・能古・鷹島等の島々を襲い、在地の松浦党の面々も衆寡敵せず、敵の横行に委せざるを得なかったものの如くであった。かくて敵軍は九州本土に迫り、十月十九日に筑前今津に侵入して、一部隊の上陸を開始した。 大宰府守護所の邀撃態勢 大宰府守護所は対馬からの敵襲の注進を得ると、即時に鎌倉・六波羅に急報すると共に、管内の守護・地頭に急遽防衛の部署につくべき檄(げき)を伝えて、敵を待つ態勢を整えた。これによって九州の地頭・御家人等の諸将士は兼ねての計画に従って、大宰府・博多等の要所を警固すべく馳せ参じた。北肥戦誌によれば、九州諸国の軍兵が博多に集中せんとしたとき、その途次の筑後国千年川が折節の洪水のために、薩・隅・日・豊後・肥後方面よりの軍兵の渡渉を阻んだので、筑後の神代良忠が仮橋を渡して渡河を容易ならしめたことを伝えている。かようにして予定された軍勢を麾下にした鎮西奉行武藤経資〔?〜1291〕は、全軍を督して沿海に備え、弟景資〔?〜1285〕 を前線の指揮官とし、薩摩守護島津久経〔1225〜84.60歳〕を箱崎方面の警備につかしめた如くであった。 博多沿岸の激闘、八幡愚童記所伝 十月二十日をもって筑前今津に一部隊を揚陸した敵軍は、さらに大船団を海上博多方面に進めて、百道原辺及び博多にも逐次上陸して、わが防衛拠点である大宰府守護所を目指した。その合戦の概要は八幡愚童記が伝えている。これによればわが軍勢は少弐・大友を始めとして白杵・戸次・松浦党・菊池・原田・小玉党以下神社・仏寺の司に至るまで数万に及んだと称せられ、少弐景資が総指揮官として第一線に立ち、わが古例による矢合せの鏑矢を放ったことによって戦闘は開始されたが、敵軍は大鼓をたたき銅鑼を打ち喚声をあげたので、わが軍の馬がこれに驚いて敵陣に進撃を躊躇し、また敵の射た矢は短かかったけれど、矢の根に毒を塗っていたので、わが方はすこぶる苦戦であり、相互に名乗り合って一騎打をいどむ古来の戦法は全く用をなさず、敵方は多勢が一度に進撃してくるので、わが方は手も足も出ない有様で、松浦党などは多く打たれ、原田の一類は深田に追いこめられた。かくして敵軍は勝ちに乗じて攻め入ってきたので、今津・佐原・百道原・赤坂の各地が乱闘の地区となって、わが方の損害はおびただしく、次第に軍勢は退却の態勢となった。この時に菊池重基がその勢百三十騎を従え侘磨頼秀が百騎を具して、敵中を蹂躙して奮闘したが郎等の多くは打たれ、重基・頼秀の二人も一時は倒れたけれど幸いに事なく、死人の中から起きあがって陣中に戻り、武名をあげたと伝えている。またわが方の大将軍少弐景資〔?〜1285〕は自ら郎従を督して奪戦し、敵方の大将軍とおぼしい大男とわたり合って、終に馬上より射落した、その乗馬であった金覆輪の鞍を置いた葦毛馬が走り廻ったのを、後に捕虜に尋ねたところ、敵の一方の大将軍流将公の馬であったということであった。かくてこの日の戦闘は巳ノ刻に始まって日没に及び、わが軍は漸次に防衛力を喪失して、水城を指して引き上げるの余儀なきに至ったとの事であった。なお八幡愚童記所載の戦闘記事の解釈については専門研究者の間に諸説があって、必ずしも一定していないようである。日蓮註画讃には博多・箱崎・今津・佐原に寄せてきた敵勢と、辰ノ刻から戦い、少弐覚恵・同景資・大友直泰・同重秀・難波在助・菊池康成等九州の諸兵が奪戦し、死者がすこぶる多数であったことを簡略に伝えているに過ぎない。 竹崎季長絵詞の成立と史料価値 その他の各種年代記類の所伝も、大同小異でいずれも簡略なものに過ぎないがここに当時の合戦についての根本資料として古来から尊重されている蒙古襲来絵詞、すなわち当時戦場に奮戦した武士の一人竹崎季長〔1246〜?〕が、自己の業績を中心として書き留めた絵詞の原本が、散逸し錯乱はしているとはいえ、その現存している部分の図絵と詞書とはよく当年の真相を伝えていて、蒙古襲来史実の中核をなしているようである。 竹崎季長はこの絵詞等によれば、肥後国下益城郡豊福村竹崎の住人で、文永十一年蒙古の襲来に際しては、青春二十九、一族郎等を率いて博多に出陣し、麁原・鳥飼等の各地区で奪戦して功を立て、よって建治元年(一二七五)十月に、竹崎の東南の海東郷の地領職を拝領した。ついで弘安四年(一二八一)再度の来襲に際しては、肥後国内の諸将士の中にあって先頭して敵軍と戦い、また夜襲して敵船に突入して敵将を仆す等、抜群の戦功を立て、この功によって左兵衛尉に任ぜられた。この絵詞の作成された由緒については特に所伝はないが、現存しているこの絵詞の中の一所に、永仁元年二月九日と見え、また巻末の場所に永仁元年歳次癸巳二月□□と見えている。 この永仁元年(一二九三)は正応六年が八月五日になって永仁と改元されたものであるから、厳密いえば二月九日は正応六年であるべきである。よって年号記載の慣例から見て、永仁改元の月日が一般の人々の記憶から遠ざかったころに、この絵詞が成り立ったものらしく、少なくとも永仁元年以降二十余年位を経た頃以後の記載と考えられてる。さらに絵詞の記事の内容を子細に検討して見ると、島津久長の手のものの行動が記されているが、この久長は島津忠宗〔1251〜1325.75歳〕の弟で、弘安四年〔1281〕四月十六日に父の久経から薩摩国伊作庄を譲与されて、島津氏の一門である伊作家の祖となった人で、初名は薬寿丸といい、次に忠長と号し、さらに久長と改名しているのである。伊作家伝襲の文書によると、久長と改名したのは正和五年(一三一六)八月一日である。従って久長の名を書きのせているこの絵詞の成立は、少なくとも正和五年八月一日以後でなくてはならない。しかしてこの正和五年は永仁元年を去る二十三年の後に当たっている。 これ等の事情とあわせて考察すべきことは絵詞の製作された目的である。絵詞の現状から見て、季長が両度の戦役における自分の行動を画家に描かせ、これに詞書を添えて業績を後世に伝えたものであることは推察されるが、季長の業績を尋ねて見ると、戦功によって海東郷の地頭職を拝領しているが、この地は下益城郡の甲佐岳に鎮座する甲佐大明神社の社領である。しかして甲佐社は阿蘇社の末社であり、同郡西海村にある同社の神宮寺である塔福寺には、季長が塔福寺に修造料所を寄進した文書が残っている。それによれば季長は正和三年(一三一四)に入道して法喜と号し、当時なお六十九才で在世中であったことがわかり、その自筆の寄進の置文は、正応六年〔1293〕正月二十三日付で記してあったものを、正和三年正月十六日に書き改めたものである。 絵詞の記載によれば、季長は建冶元年〔1275〕五月二十三日に関東において、甲佐大明神の示現をこうむった霊験によって、海東郷を拝領したということであり、絵詞の中に、また神のめでたき御事を申さんためにこれをしるしまいらすと書かれている諸点を綜合して、この絵詞は季長が自己の経歴を記して、甲佐大明神の神恩を謝せんがために、同宮に奉納せんとして作成されたものと勘考され、その製作年代は正和以後に及んでいるものらしく、絵詞の体裁・様式が鎌倉時代末期以後に製作された他の絵巻物と一脈相通ずるものがあることは、美術史研究家の間にも認められているという。この絵詞についての論證は、荻野三七彦氏が歴史地理(第五十九巻第二号)に詳細に記述されているところである。かつては絵詞の製作が永仁元年であり、その目的が幕府に戦功の恩賞を請求せんがためにあったと考えられたこともあった。 竹崎季長絵詞はその伝承についても明白を欠いている。前述の如く始めは甲佐宮の神庫に納められたと思われるが、古画目録には肥後国阿蘇宮蔵と記されている。季長の後数百年を経て肥後国宇土城主名和顕孝の家に伝えられ、やがて顕孝の女が同国大矢野城主大矢野種直に嫁した。この種直は蒙古襲来の当時季長と共に戦功を立てた大矢野種保の子孫であったので、顕孝はこの婚儀により絵詞を種基に贈与した。これから代々大矢野氏家に伝承されたが、文政八年〔1825〕にその子孫である門兵衛が、散佚を恐れて藩主の細川氏の保管を請うた、この後は久しく細川氏の庫に蔵せられたが、明治二年〔1869〕廃藩の時に細川氏は門兵衛の後である十郎に還付した。二十三年〔1890〕十二月に十郎は改めて宮内省に献上し、明治天皇〔1852〜1912.61歳〕がこれを愛蔵されて現に御物となっている。この絵詞は何時の頃かいくつかの※本が作られ、幕末には水野忠央〔1814〜65.52歳〕がその一つを丹鶴叢書に収めて出版したので、世に広まったようである。その後これ等の※本等が相次いで出版をされ、昭和六年〔1931〕には東洋文庫において、池内宏氏の元寇の新研究の付録として、御物の絵詞が写真版として出版された。ただし現存の絵詞は惜しいことに何時の頃か大部分が散逸してしまい、また修補の際に錯簡が生じたので、絵及び文章の順序の復原案が研究者によって幾度びか試みられてきた。近年においては中山平次郎氏が元寇史蹟の新研究で考定され、また池内宏氏も元寇の新研究において考定されたが、未だ必ずしもことごとくが諸研究家の是認が得られない実情であって、これがために戦況の経緯にも諸説が生じている現状である。本書においても甚だ不備ながら先覚の研究の成果に拠り、まま私見を加えて大方の批判を仰ぐこととした。 ※「募」の「力」を「手」に換えた字 竹崎季長鳥飼潟に奮戦 竹崎季長絵詞によれば、当時わが軍の将士は少弐景資〔?〜1285〕の指揮下にあって、その本営は大宰府或いはその付近と推考される。諸将士は景資の命を受けて、陸続博多の息浜方面に進発したものの如く、季長もまた一門の人々と共に、赤坂方面に侵入した敵軍を打ち破るべく箱崎に向かって進発したが、この時既に陣営を箱崎に移していた大将軍の景資に会して、直ちに博多方面に馳せ向かった。この時は季長の一門の江田秀家はとり残されて、季長とその姉聟三井資長等の主従わずかに五騎であった。大将軍景資は敵情に応じて、陣営を箱崎から息浜に進め、諸将士に対して戦闘指令を相次いで下していたところであったので、季長は景資に謁してその命を受けて、比恵川を渡り、住吉社の鳥居前を過ぎて赤坂を目指して急進撃をつづけた。その折たまたま肥後の菊池武房〔1245〜85.41歳〕が百余騎の軍勢を従え、赤坂の敵陣を蹂躙して敵勢を追い払い、大刀と薙刀に貫かれた敵兵の首を左右の郎等に持たせて、意気揚々として引き上げてくるのに遭遇し、互いに声をかけて馳せ過ぎた。この武房に撃破された敵勢は二分して麁原・鳥飼潟の間に退いたが、やがてまた合体して麁原に陣を構えた。季長は単身で、鳥飼潟の汐屋の松樹の下で敵と奮戦したが、乗馬は敵矢に傷つき一身もまた危急に迫った。この時後陣から馳せつけた肥前の御家人白石通泰の手勢の進撃によって、辛くも救助された。その後は資長が代わって敵勢を追撃し、麁原に拠った敵陣を追い落とした有様が、次々と絵巻に活々と描き出されていて、当時における季長の奪闘した有様をよく伝えているのである。この絵詞の所伝の戦況は、前記した八幡愚童記の所伝と概ね一致している。八幡愚童記に記されている菊池重基は絵詞の菊池武房と同一人であり、重基は武房の改名である。この二十日の戦闘は主して麁原・赤坂間で行なわれたものらしい。敵軍の隊伍をなした戦闘の模様、またわが方で未知の兵器として恐れられたいわゆる鉄砲と呼ばれた爆弾の炸烈した模様、その他敵軍の将兵の装備・武具等については、絵詞は実に唯一の資料として貴重なものとされている。 敵上陸軍の行動 これ等のわが方の諸文献と高麗史の記事とを綜合すると、敵軍は十月二十日の朝から相前後して、今津・百道原・博多等の各地に上陸した如くである。今津方面の戦況はほとんど伝わっていないので不明であるが、百道原から麁原・赤坂方面に戦闘を展開したのは、金方慶麾下の高麗軍であり、博多に侵入したのは敵の主力である蒙漢軍で、敵方の目標は大宰府の占拠におかれ、その主力を博多に集中させたものらしく、景資麾下のわが主力軍が博多・箱崎方面において、巳ノ刻から日没まで激闘を継続していることも、その為であり、激戦による戦火のために、箱崎八幡宮社殿は罹災し、僧俗社官が神輿を奉じて、宇義付近に避難せざるを得なかったのであった。高麗軍の麁原・赤坂方面への進出は、日本軍を牽制するための作戦と考えられる。今津は赤坂方面の戦闘地区とはやや隔たっておるから、この両地区の敵軍は、必ずしも連絡が保たれたものとは考えられない、或いは独立的の行動ではなかろうか。 逆風に敵船団敗退す かくてこの日の日没に至って博多方面のわが軍勢は戦いに疲れて、大宰府方面へ引き上げ、水城を防衛拠点として、明日の作戦に入ったものの如くであるが、敵軍もまた同様甚大な損傷を受け、陸上に営所を構築して、一夜を明かす成算がなかったらしく、一旦揚陸した兵員を全部艦船に収容してしまった。かくて博多湾頭には九百余艘の大船団が仮泊して不気味の裡に夜の幕が下りることとなった、折から雨滴が海面に灑ぐと共に、逆風が吹き荒んだために、仮泊の大船団は大損傷をこうむったようである。 主将等は逸早くも暁前に博多湾から撤収してわが追撃をさけ十一月二十七日までに合浦に引き返した(東国通鑑)。この時進退の自由を失った一船が、博多湾頭の志賀島に残されてしまい、覆没した艦船も夥しかったようである。されば翌二十一日の早暁に、わが軍は前夜松原に陣していた敵部隊の姿がなく、また海面には所せまきまでに仮泊していた敵の船影を見なかったことに驚いた。やがて敵船一隻の志賀島にあるのを発見して直ちに追撃を強行し、敵兵二百二十人を捕えて斬り、前日来の戦闘は一応ここに終わりを告げることとなった。よって戦場地帯から避難した人々も立ち戻ったけれど、宿所は焼け資財は奪われて、惨憺たる状況であったことを八幡愚童記が伝えている。かくて文永度の蒙古の来襲は十月六日に対馬島における闘争に始まって、壱岐島から肥前の諸島沿海に移り、二十日に九州本土に彼我の攻防戦が展開され、同日夜半の逆風によって敵船団が大破し、進攻を中止して引き返したことによって戦いは終った。敵方の戦死或いは溺死したものは無慮一万三千五百余人で、残余は合浦に返ったということであり、戦闘は逆風によって終わり、わが方は多大の損害をこうむったが幸いにして、短時日で敵の鋭鋒を免がれることを得たのであった。以上がいわゆる文永の役の概況である。 敵軍の予定撤収説とその批判 かくの如く従来の伝承では、文永の役は逆風が原因となって、わが方に有利に局を結んだことになっているが、近年気象学の研究家荒川秀俊氏は日本歴史第百二十号誌上に文永の役の終りを告げたのは台風でないとの題下に、この問題を論究され、第一に文永十一年十月二十日はすでに台風シーズンが去ったあとであるとして、日本台風資料等から精細に論じて、過去五十年間の統計上から、如何なる考え方をしても、十一月二十六日すなわち旧暦十月二十日に、北九州が台風のために大荒れになることはほとんど考え得られないことであると論断し、第二に信頼すべき当時の文書等には、太風がおこった証拠は見えないとして、八幡愚童記の記事中にある、をりふしふる雨に涙おちそひて、いとど袂ぞぬらしける、(中略)さるほどに夜も明ぬれば、廿一日なり、あしたに松原を見れば、さばかり屯せし敵もをらず、海のおもてを見わたすに、きのふの夕まで所せきし賊船一艘もなし云々の語句を論証として、敵がひいたのはわが軍によっては驚異であり、敵軍にとっては自発的な予定の行動であったように思われるとし、また元史日本伝に「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」とある文によって、明らかに予定の退却でありとして、大風雨を否定し、東国通鑑の文中に、「忽敦曰小敵之堅、大敵之擒、策痩兵戦大敵非完計也、不苦回軍、復享中流矢、先登舟、故遂引兵還、会夜大風雨戦艦触巌崖多敗」とあるのは、明らかに予定の退却であって、その撤収作戦中に大風に遭ったとしているが、夜大風雨というのは、撤収作戦がうまく行かなかったというくらいの意であり、文永の役には難破船が海岸にほとんどなかったらしいことも、その傍証となり得ると論ぜられている。現存の文献の不備の弱点を突かれたもので敬重すべき所論と考えられるが、論証に使用された気象学上の科学的統計資料はわずかに最近五十年間のものに過ぎず、六百年の長期間にこの統計上の資料が適用され得るや否やは疑問である。八幡愚童記には直接に風の記事は全く見えていないし、元史の記事によれば予定の撤収である事も一面には考えられ、東国通鑑の文においてもまた同様に解釈される点もあるが、しかし東国通鑑には夜大風雨に会ったことが明記されているので、これを理由なく抹削することはいかがであろうか。わが方の文献としては、八幡愚童記の外に、この論文に引用されていなかった原本勘仲記の記事を看過することはできない。これは順序として後述すべきものであるけれど、この問題の解決を試みるために便宜上ここにあわせてとり上げることにした。 勘仲記所伝の価値 文永の戦いの現地の戦況は、刻々と大宰府から京・鎌倉に注進されていた筈である。鎌倉における模様は徴証がないが、京都において聞知した現地の戦況は、幸いにして当時治部少輔であった勘解由小路兼仲〔1244〜1308.65歳〕がその日記の勘仲記に見聞を記している。世に流布されている勘仲記は文永の部分を欠いているが、兼仲自筆の文永十一年〔1274〕の具注暦に書き入れた原本は、前述した如く東洋文庫に架蔵されている。これを検討すると、兼仲が京都において文永の役の終結を聞知したのは文永十一年十一月六日であって、この事情について、六日の条に次の記事をのせている。
恐らく大宰府よりの情報を書き留め、それに感想を付記したものであろう。これによれば敵の船団は逆風のために、本国の方向に吹きまくられたもので、一部の船は陸上に打ち上げられたものもあった。よって大友頼泰〔1222〜1300.79歳〕の部隊が急襲して敵兵五十余人を捕えたが、引き具して上洛するということである。この度び起こった逆風は恐らく神明の加護であって、貴い事であり、また大いに憑とすべきものであるとして、神国日本における神明の擁護を逸早く確信して、その喜びを述べているのである。 問題の逆風の事は現地からの注進によったものであり、十月二十日夜の事実であると認めたい。この大風のことは必ずしも後世から付加されたことではなく、京都の人々が現地の注進に歓喜して、自然神明の加護を仰ぐ感懐となって勘仲記に書き残されたものと思う。敵軍の予定の撤収計画のことも考えられるけれど、結局は大風による大損傷を受けての敗退であることは、動かし難い事実であると認めてよいと思う。この勘仲記の記事は大正初年に八代国治氏によって既に紹介されているところである。 |
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