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龍粛 「西園寺家の興隆とその財力」
(『鎌倉時代・下』.春秋社.昭和32年.p171以下)





※龍粛氏の略歴はこちら



新時代の先覚者
 西園寺氏は、鎌倉時代に承久の変を契機として、新時代に順応して頭角を現わした藤原氏の一門中の一家で、爾来、京都政界の重鎮となり、鎌倉の武家政権と緊密な連携を保って、治世の君の継承・摂関の交迭をその意のままにし、京都政府の政治の推進力となって、権威をほしいままにした雄族であった。鎌倉以後は一般公家社会の家々と同様に家運は衰えたけれど、なお大臣の官を家の先途とする清華家(せいけけ)の一として、また藝能界においては琵琶の家として、連綿、その伝統を保って、明治維新に及んだ。維新の変革期に際しては、縉紳界中の時勢の先覚者の一人として、一世の耳目を聳えさせ、台閣に列しては、内閣に首班たること前後数回、大政党の総裁としてまた元老として数次の内閣の生みの親となって、国政の重寄(ちょうき)となった西園寺公望〔1849〜1940.92歳〕を世に出した。

西園寺氏の起り
 西園寺氏は九條右大臣藤原師輔(もろすけ)〔908〜60.53歳〕の第十子公季(きみすえ)〔956〜1029.74歳〕の後である。藤原氏の宗家は、公季の兄兼家(かねいえ)〔929〜90.62歳〕の子孫が世襲することとなり、兼家の子道長(みちなが)〔966〜1027.62歳〕が氏長者となるにおよんで、摂関家としての地位を確立したので、公季は太政大臣に進み、仁義公(じんぎこう)と諡(いつ)せられたが、その子孫は漸く大納言を先途とするに止まり、四世の孫公実(きみざね)〔1053〜1107.55歳〕が白河・堀河・鳥羽三帝の外戚の地位に立つに至って、漸く世に現われるようになった。公実に実行(さねゆき)〔1080〜1162.83歳〕・通季(みちすえ)〔1090〜1128.39歳〕・実能(さねよし)〔1096〜1157.62歳〕の三子があって、それぞれ三條・大宮・徳大寺をもって称せられた。通季は次子であったが、父の遺志によって嫡家と定められたと伝えている。これは通季の母の光子が堀河天皇〔1079〜1107.29歳〕の乳母であった関係らしい。当時、乳母の勢力は洵に大きなものであった。しかし通季は早世したため、官は権中納言に止まったが、実行・実能は長命で、共に大臣に進んだ。西園寺氏は実にこの通季の後裔で、通季の孫実宗(さねむね)〔1145〜1213.69歳〕に至って内大臣に進み、その子公経(きみつね)〔1171〜1244.74歳〕が傑出した政治的手腕を振って、俄かに顕栄を極めることとなったので、西園寺氏の興隆は実に公経の一代において築き上げられた、というて過言ではない。家名となった西園寺の称は公経の営んだ伽藍の名に起っている。

公経の世系と縁組
 公経は実宗の子、母は持明院基家(もといえ)〔1132〜1214.83歳〕の女で、平頼盛〔1131〜86.56歳〕の外孫女にあたっていた。この血統の関係が、公経の政界に進むべき途筋をきめていたごとくに考えられる。公経の生誕は承安元年(一一七一)で、まさに平家の全盛時代にあたっていた。家の例によって、九才の春、治承三年(一一七九)に叙爵して官途についた。この年十一月、平清盛〔1118〜81.64歳〕の起した政変から、中央政界はめまぐるしい転変を見せ、平氏政権の没落から鎌倉幕府の出現となり、その主張する天下草創を標榜した革新政策には、京都政権もまた追従しなければならない情勢となった。京都政権の基盤となっている院宮・社寺・権門等は、これに多大の憤懣を懐いたが、これと正面衝突を敢行するだけの力を欠いていたために、冷戦状態を持したけれど、その中の一部の先覚者は進んで武家と協調して京都政権を推進せんとした。公経もまたこの政治情勢を検討し、武家との協調をもってその進むべき途としたごとく、その第一段階として現われたのが、頼朝〔1147〜99.53歳〕の妹婿として当時京都に権威を輝かしていた一條能保(よしやす)〔1147〜97.51歳〕の女を娶って、源氏との所縁関係を密にしたことであった。この間に生れた公経の長女倫子〔1191〜1251.61歳〕は建久二年(一一九一)の誕生であるから、この縁組は文治の末年頃と思われる。且つこの建久二年には、公経の妻の姉妹である能保の女が、摂政九條兼実〔1149〜1207.59歳〕の嫡子良経〔1169〜1206.38歳〕に嫁した。これによって公経は九條摂家とも縁故関係が結ばれることとなった。九條家は幕府の後援を得て時めきつつあった家であり、またこの九條・一條両家の縁組が、頼朝の意向によっていたことから推して、公経と一條家との縁組もまた頼朝の意によったものかと考えられる。すなわち公経の外祖母は、頼朝が再生の恩人として深く感謝している平頼盛の女であったから、頼朝の関心が定めし少くなかったことと思われる。かくして公経は一條家との縁組によって、源氏の頼家〔1182〜1204.23歳〕・実朝〔1192〜1219.28歳〕両将軍とは義理の従兄弟、頼朝の御台所政子〔1156〜1225.70歳〕や、政子の同胞義時〔1163〜1224.62歳〕とは義理の叔母・叔父、泰時〔1183〜1242.60歳〕とは義理の従兄弟に当ることになった。また一條家を通じて縁故をつけた九篠家とは、承元二年(一二〇八)に公経は長女倫子を義弟良経の嫡子道家〔1193〜1252.60歳〕に嫁せしめて、さらに縁故関係を密にした。翌年には外孫女※子(そんし)藻璧門院.1209〜33.25歳〕が、その翌年には外孫である道家の嫡子教実(のりざね)〔1210〜35.26歳〕が生れた。
※偏が「立、旁が「尊」

幕府方として官海に出る
 かくて公経は源氏を中心とした縁つづきである一條・九條両家との結び付きを背景として、中央政界に地歩を築きはじめた。すなわち建久七年(一一九六)には、上臈六人を超えて蔵人頭に進み、同九年の御代替りには、新帝土御門天皇〔1195〜1231.37歳〕の蔵人頭と、先帝後鳥羽上皇〔1180〜1239.60歳〕の院の別当となった。しかしその反面には反幕府派のために乗ぜられて、出仕を一時止められたこともあり、討幕を標榜した城長茂(じょうのながもち)〔?〜1201〕のために、院御所で追跡されたこともあった。しかし琵琶の名流であり、また敷島の道にも秀でていたので、建仁三年(一二〇三)、俊成(しゅんぜい)〔1114〜1204.91歳〕九十賀宴の御遊には選ばれて琵琶を弾じ、建保四年(一二一六)、内裏の百番歌合には全勝の栄誉を博したことなどがあって、貴族社会から敬重され、後鳥羽上皇の信任を得て、伊予・周防の両国を賜わり、これによって公経は院御所高陽院殿(かやのいんでん)百宇・法勝寺九重塔等を造進した。

幕府との結びを固くする
 関東とは所縁の関係から、その支援を求めたことは少くなかったことと思われる。実朝将軍の頃には、所領の公事について、消息を通じたことがあり、また公経が近衛大将の官を院の権臣と競争して、不利の形勢となるに及び、関東の支援を求めてついにその目的を達したが、そのため院側の感情を少なからず害したこともあった。この頃から関東との関係は一層緊密の一路を辿った。承久元年(一二一九)、実朝が右大臣拝賀の儀を鎌倉に行なうに際しては、嫡子の実氏〔1194〜1269.76歳〕を派遣し、実朝の仆れた後に、関東の主として幕府がかねて黙契した皇族の推載が行きなやみとなるに及んでは、公経は幕府の要望に応えて、自分の膝下に養育していた外孫に当る九條道家の第三子三寅(みとら)〔1218〜56.39歳〕を、後継将軍の侯補として東下させた。しかしこれがために京と鎌倉との間は、急速に情勢が険悪化して、ついに承久の変となった。

父子共に院に拘禁される
 公経が関東との縁故をもって、幕府の為にする態度に出ていることは、幕府を謀ろうとする後鳥羽院側の極めて不満としたところで、討幕計画は、公経とその縁に連る九條家に対しては、極秘として警戒を厳重にし、秘密の漏洩をいましめることに汲々としたのであったが、公経は院側の動静を早くも探知し、院の計画の無謀であることを揚言して、これを牽制せんとする態度にでた。事ここに至って、院の当局は、急速に計画の実施をはかって、敵方の虚を衝くよりほかに策がないこととなった。かくて承久三年(一二二一)五月に、まず公経父子を弓場殿(ゆばでん)に拘禁して関東との連絡を断ち、討幕計画を発足させるに至った。しかし公経は拘禁の直前に、幕府の出先きである京都守護伊賀光季に、院の計画を牒報し、公経の家司三善長衡(みよしながひら)〔1168〜1244.77歳〕は、討幕宣旨の発令、公経父子の捕縛、伊賀光季の敗亡等の京都の情勢の詳細を急使をもって鎌倉に報じた。承久の変が忽ちにして幕府方の勝利となった一原因は、この急報によって幕府が京都の動向の実態を把握し得たことにあった。

公経事変処理の首脳者となる
 公経の予測したごとく時局は京都側の期待を裏切って進展した。院側の敗色が急激に濃厚となるに至って、公経父子は一部の強硬な反対を押し切って釈放されることとなった。これは討幕計画に失敗した院の首脳部が、来るべき幕府側との諸般の交渉を行なう際に、公家側の工作に当らせるための策であったかとも推考される。幕府の軍勢が京に接近するにおよび、三善長衡は主将泰時〔1183〜1242.60歳〕を洛南の深草に迎えての連絡をつけることに成功し、幕軍の入京についての打ち合せを行ない、泰時は一部の兵力をさいて、公経の保護の任に当らせたのである。戦後の時局拾収の談合は、幕軍の両主将泰時・時房〔1175〜1240.66歳〕と院の当局との間に進められたが、これらの交渉の裏面にあって、京都政府の立て直しに尽力したのは、公経にほかならなかったようであった。討幕謀議者の処分、京都政府の改造などが、極めて急速に進行し、しかも京都政府の形態が、これまでと変るところがなくおさまったのは、公経の力によったことが頗る多かったと推測される。後鳥羽院の治世が交代することとなって、後継の治世の君に後高倉院〔1179〜1223.45歳〕が推戴されたが、後高倉院の妃陳子北白河院.1173〜1238.66歳〕は持明院基家の女で、公経の母の妹で叔母に当り、ついで皇位につかれた後高倉院の皇子茂仁すなわち後堀河天皇〔1212〜34.23歳〕は公経の従兄弟にあたっている。公経の発言が重きをなした結果と思われる。伝えるところでは、後高倉院は治世を固辞されたが、妃の懇請をついに容れられたと伝えているが、公経の進言が妃を仲介として働いたものであろう。また土御門上皇が進んで土佐に遷られたのは、公経を経て幕府の承認を得られたことであったという。当時、公経は幕府に対して交渉権をもった宮廷方の唯一人であった。

公経の顕栄
 承久の事変に身命を賭して、幕府のためを謀った公経に対する幕府の信頼と感謝は絶大なものであり、公経は京都政界の推進者として、絶対の権威を握ることとなった。事変の直後、幕府の口入で、承久三年閏十月十日に内大臣に、翌年太政大臣の極官に進んだ。一年を経ずして上表したが、この後は前大相国として政権を握り、やがて現任の摂関と同様に牛車・随身・兵仗の待遇を受けた。この間、公経は女婿九條道家を後援して、天皇外祖父の地位を与え、さらに道家の女を近衛兼経〔1210〜59.50歳〕に嫁せしめて、九條・近衛両摂政家の対立を解消して、両家に摂関の地位を与えるなど、京都政界の中心となった。後嵯峨天皇〔1220〜72.53歳〕の登極に及び、公経は嫡孫女を中宮に冊立して、摂家の特典と見做された皇室外戚の地位を占めて、その権威は並ぶものがないようになった。寛元元年(一二四三)十月七日の公経の熊野詣は、古き御幸の盛儀を遙かに越えたと世の人を驚かせている。その翌年八月二十九日に病をもって波瀾の多かった生涯を閉じた。

北山別墅の建営
 公経の盛んな権勢とともに、一世の耳目を驚かせたのは、その驕奢な生活振りで、海内の財力が尽されたと批判された。承久変後に営んだ洛北の北山の別第の豪華優麗は、まず京人の目を驚かせた。このところは現に林泉の美をもって称せられる金閣を含む地域である。もとは神祗伯(じんぎはく)仲資王(なかすけおう)の所有地で、極めて辺鄙なところであった。公経は夢想によって、この地を物語で著名な源氏中将の病を養った遺跡として、慕念に燃えたあまり、尾張国にあった自分の所領松枝庄と交換して、力の限りを尽して田畑の土地を優麗な苑囿(えんゆう)に改造し、山容を変え、泉水を湛え、阿弥陀如来を安置した本堂、すなわち西園寺を中心として、多くの殿堂を配し、豪壮華麗な別荘を建営した。正に人境外の仙園であると喧伝された。元仁元年(一二二四)十二月二日に、北白河院・安嘉門院(あんかもんいん)〔1209〜83.75歳〕を迎えて、盛んな落慶の典があげられた。公経は北の寝殿を住居として豪華を誇り、周辺の山々に稚木の桜を植えて、
山桜みねにも尾にも植ゑおかむ見ぬ世の春を人やしのふと
と詠じたという。

 世に道長〔966〜1027.62歳〕の法成寺(ほうじょうじ)を豪華の極致として讃美しているが、この北山にはさらに林泉の美が加わり、彼に優るとも劣らないと批評された。山桜の歌は御堂関白の望月の詠と好一対をなしている。以上は増鏡の内野の雪の巻頭に描与されているところであるが、北山と松枝庄との相博(そうはく)の文書の写しは大徳寺に伝わり、その日付は承久二年十一月廿九日となっているから、承久の変以前からの企画であったと察せられる。落慶以後にもますます手が加えられた。嘉禄(かろく)元年(一二二五)には不動堂・愛染王堂(あいぜんおうどう)が建営された。不動堂の本尊は津の国から蓑笠(みのかさ)を着て歩いて渡ってきたもので、そのおりの蓑笠は宝蔵に納められ、三十三年目にとり出されることになっていたといい、また愛染王の堂は成就心院(じょうじゅしんいん)と号し、ここでは不断の御修法が行なわれ、僧座の冷えたことがなかったということである。竹むきか記には、安貞二年(一二二八)から貞和五年(一三四九)まで百二十二年にわたって、退転のことがなかったと記されている。庭園には寛喜元年(一二二九)に北隆石(ほくりゅうせき)と呼ばれた大石が立てられ、十七頭の牛で運び入れたという。公経に心を寄せた人々は、この北山の構築に種々と手をさしのべて手伝いをしているが、土御門通方〔1189〜38.50歳〕は松の生えた石を遺ったということである(明月記)。

洛内洛外の別墅
 公経の奢侈の生活の舞台をなした豪壮な別墅は、北山だけに止まらなかった。五代帝王物語には、「天王寺・吹田(すいだ)・槇(まき)の嶋・北山さしも然るべき勝地名所には、山荘を造り営みたり」と見えている。すなわち京の東北郊には吉田泉亭を作り、南西郊の山崎には円明寺、吹田には水郷の荘を設けた。吉田泉亭は泉水を中心にして構築されたもので、夏季の納涼に専ら使用したようである。本邸の一條今出川邸と程近いので、公経は北山と同様にしばしば出かけている。雪見の興をしたこともあった。炎旱の甚だしいため泉水の枯れたおりは、全く風情が失われてしまい、公経の権勢をもってしても、雨を待たなければならなかったが、泉亭の結構は贅を尽したもので、臨幸を仰いだ時には、赤地の錦で作った橋を泉水に架け、橋の柱には名香である沈香(じんこう)を用いて、風流を極めたことが評判となり、六波羅の武家が後でその様子を見物したと伝えている。円明寺は山崎の北方の丘陵にある菴室で、医王寺と称した。寛済(かんせい)法印から譲られたものという。菴は丘陵にあって水に臨み、秋には松茸が沢山に生え、また紅葉の眺めの絶勝地であったので、公経はここから嵐山にいたる西山一帯の、色づく紅葉を観賞している。吹田は淀川べりの水郷で、舟※(しゅうしゅう)をもって出入した別天地であった。近くの江口(えぐち)の遊女を招いて興宴を催したり、またはるばる有馬(ありま)の温泉から、毎日二百の桶で出で湯を運び入れて入湯している。さらに公経は有馬にも新たに湯屋を築いて、しばしば入湯に赴き、その往還には沿道の名勝地を訪ねて優遊をほしいままにした。
※【揖+戈】

豪華生活の財源
 如上の諸所の別荘は、公経が遊興のために使ったものであるが、その遊興が贅を尽したものであったのに加えて、一族並びに縁故者を多数伴っての催しであったため、一夜の遊宴に海内の財力を尽したと評せられたほどである。これは一面に公経の財力が頗る豊富なものであったことを示すもので、これらの消息は公経の義弟にあたる定家〔1162〜1241.80歳〕によって詳しく伝えられている。この当時、世の権門が財力に物をいわせて珍重愛玩したものに、宋から舶載されてきた香料・織物・鳥獣の類があり、また夥しく宋銭が輸入されて、国内経済界が貨幣経済時代へ切り換えられる趨勢に際会していたがために、資産家の貿易の利を追うものが頗る多く出てきた。早く平氏が宋貿易によって暴富を得たことは著名であるが、当代に権勢を掌握した公経もまたその例に漏れる人ではなかった。その活躍の一端は経光(つねみつ)卿記に伝えられている。仁治三年(一二四二)七月四日の条によれば、公経が宋に遣した唐船が帰朝して十万貫の銭貨をもたらした上に、種々の珍寶等を伝えたが、その中に言葉をよく言う鳥が一羽と、水牛一頭があった。鳥は意のままに舞わせることができ、人語を一語の相違もなく言うことができたし、水牛は普通の牛の廿頭力をもっていたということであった。これらは公経が檜材で組み立てた、三間四面の家一宇を贈遺したのに対して、宋帝が賞翫の余りに送ってよこした珍賓であるということである。

利権の獲得意のままとなる
 当時は鎌倉の威力によって荘園の領有状態は一応安定して、権力による土地の兼併は、前代のごとくに容易ではなかったけれど、権威を擅にした公経の任意の振舞は、福原の平禅門にも超えたとの評があり(明月記寛喜三年三月廿三日の条)、寛喜二年(一二三〇)には、豊後阿南(あなみ)郷を家領としたことが、柞原(ゆすはる)八幡宮文書に見え、また歓喜光院の辺に堂宇を建立せんとして、在家を追い払ったことが明月記(寛喜二年十一月廿八日)に見え、さらにまた関東に強要して、伊予国宇和郡を家領としたことがあった。吾妻鏡の嘉禎二年(一二三六)二月廿二日の条によれば、この地方は幕府の家人小鹿島公業(おかじまきみなり)の相伝の地で、公業の先祖が純友の乱平定の功によって拝領したという、由緒の深いところであり、且つ幕府の法規では、罪なくして家人の土地を収公しないことになっていたにもかかわらず、幕府は公経のためには、その厳然たる法規を枉げなくてはならなかったのであった。しかし一方において、公経もまた幕府に絶大な好意をよせてその恩義に報いていた。嘉禄元年(一二二五)に尼将軍政子が他界した際には、これを弔問させるために特使を発し、妻の名義で盛んな佛事供養を鎌倉で営ませた。そのおり導師の役を勤めた行勇(ぎょうゆう)に対する布施としては、錦の被物を金銀で飾り、舶来の呉綾十段に黄金百両をそえて与えたほか、事毎に美を尽し、善を尽くして、万人もって壮観となした、と吾妻鏡が特記している。また嘉禎三年(一二三七)に鎌倉大慈寺郭内に、丈六の堂が新営された時には、被物百重、鞍馬十疋、銀扇檜扇に百両の砂金をのせて贈っている。この頃ある大臣家では、生計が窮迫を告げたため、御領の恵みを安嘉門院〔1209〜83.75歳〕に申請したが、これに対して、この御領は鳥羽院〔1103〜56.54歳〕の御遺誡によって聴許されなかったので、大いに怨を懐いた(明月記寛喜二年九月廿九日の条)ということなどがあって、貴顕の生計にも安定しなかったものが少くなかった際であったから、西園寺家の驕奢は、世の耳目を驚かせたことであった。

西園寺家財力の建設者
 公経が如上の権力と財力とを持ったことは、その卓絶した手腕によったことであることは勿論であるけれど、なおここに陰に陽に公経を助けて、その成功に絶大な支援を与えた者のあったことを、看過することはできない。殊に西園寺家の財力を豊富にしたことに与った有力な援助者のあったことを特筆したい。それは公経の股肱として、彼の承久の変にはともに生死の境を冒して、ついに西園寺家に不動の地位を与えた公経の家司三善長衡であった。不幸にして長衡の業績を伝えた文献は頗る僅少で、よくその事情を明らかにし得ないのが残念である。長衡は算道の名家三善氏の出である。三善氏の世系については、拠るべきものが管見に入らない。三善氏系図の題名は続群書類従目録に掲げられているが、本文は欠けているので、検討の途がない。三善氏として古く名を残しているのは三善清行〔847〜918.72歳〕である。延喜の頃の文章博士で、暦運の道にも通じ、菅原道真〔845〜903.59歳〕のために暦運の吉凶から退隠を勧告し、また革命勘文を上って、辛酉改元の議を建策し、これによって昌泰(しょうたい)四年が延喜と改元されることとなった。また延喜十四年には詔によって政治上の改革意見十二ヵ條を上った業績を伝えている。この家は古く中国から渡来した学術の名家といわれ、平安以来、太政官の大外記、すなわち局務を世襲してきた。頼朝に招かれて問注所執事に挙用された三善康信〔1140〜1221.82歳〕も、この一族と見られている。この長衡もまた同じ一門であろうと思われる。

三善長衡の業績
 長衡の名が管見に入った最初は、建久九年(一一九八)正月三十日に、父の算博士行衡(ゆきひら)の譲を受けて、算博士に任ぜられたことである(三長記)。ついで正治三年(一二〇一)辛酉の歳に、前例によって紀伝(きでん)・明経・算(さん)・陰陽(おんよう)および暦(れき)の各道の学者が、革命勘文を提出した時に、算道では長衡が算博士小槻公尚(おつききんひさ)とともに勘文を提出している。しかしこれらの勘文について仗議が行われた際に、権中納言徳大寺公継(きみつぐ)〔1175〜1227.53歳〕から不備の点が指摘されたことが伝わっている(革命)。その後建永元年(一二〇六)に至って、摂政近衛家実〔1179〜1242.64歳〕の文殿衆(ふみどのしゅう)となったが、時に官は従五位上算博士兼主税(ちから)権助であった(猪隈関白記十一月三日の条)。ついで公経の家司別当に転じたのであるが、その時期は明らかでない。しかし承久二年(一二二〇)十一月には、右大将家(公経)の別当として家領相博の文書にその名を載せている。その時の官は主税頭兼算博士但馬介と見えているから、主税寮に長く関係していたことがわかる。なおこの文書によれば、長衡は別当の主席であるが、その末席に主税権介三善朝臣との署記がある。長衡の一門かと思われる(大徳寺文書)。翌承久三年の事変に、公経を助けて幕府との連絡に奔営したことは前記のごとくである。要するに、この事変は西園寺氏の興亡を賭した大事件で、その成功は一つに家司長衡の活動にかかっていた。西園寺氏がこれを契機として興隆したのは、公経の非凡な才略によったものではあるが、公経をして意のままにその才略を縦横に伸ばさしめたものは、実に家司長衡の絶大な協力の賜物というてよく、主従一体となっての活躍の賜物にほかならなかったのである。されば公経の長衡に対する信任眷顧は絶大なるものがあったと思われる。事変後の承久三年朔旦の叙位に、長衡は算道として従四位上に進み(家光卿記)、やがて嘉禄元年〔1225〕正月の叙位にさらに正四位下に進んだ(明月記)のは、算道として異例の昇叙であった。

長衡の経理の鬼才
 長衡は算道の家の出であり、したがって経理の才にはおのずから傑出したものがあったことが推知される。承久事変後十四年の嘉禎元年〔1235〕に、長衡は公経の周旋によって少将一條忠俊(ただとし)を聟とした。忠俊は一條能保〔1147〜97.51歳〕の孫で、公経の外甥にあたっている。この顛末を伝えた明月記の記事によれば、これまで貧乏人であった忠俊は、この縁組によって天下の陶朱(とうしゅ)と残るべしと評し、押小路京極の新宅に居を移したことを伝え、忠俊の新妻となった長衡の女を、富有妻と称して定家は羨望した。長衡はその主人公経と同じ年の寛元二年(一二四四)に公経にさきだつこと半年、三月二十五日に七十七才で卒去した。このことを伝えているのは平戸記であって、平戸記の記者平経高〔1180〜1255.76歳〕は、長衡の死を哀悼して、「算道之長也、相国禅門(公経)専一無双之者也、陶朱之類也、無常之理、誠難遁事歟」と評しているが、陶朱の富を擁したとの世評を受けていたほど、当時世の耳目を驚かせた理財に長じた富豪であったことをうかがうことができる。これは算道の長者であった手腕によったものであり、公経が愛重措く能わざりしもののあった重な理由の一つであったと考えられる。公経が豪奢を極めたのは、その権勢によったことは勿論であったが、同時に理財の長者を家司として、その権勢に任せて、思うがままにその鬼才を振わせたことによったものと思う。公経の豪奢の具現とも見倣されている北山の西園寺の建営は、その第一段階たる土地の入手について、家司として長衡が画策の第一歩を踏み出したことは前述したごとくであって、爾来、その建営の中心となって、経理に画策したものと考えられる。寛喜三年〔1231〕、公経が吹田の別荘に赴いた際には、長衡は先発して用意にあたっており、天福元年〔1233〕に関東から三浦光村〔1205〜47.43歳〕が上京した時には、長衡は光村を鴨泉亭(かものせんてい)に迎えて饗応している(明月記)。公経の代理としての務めであったらしい。また公経が伊予国宇和郡を家領としたいことを幕府に強要したおりに、その交渉の衝にあたったのも長衡であり、吾妻鏡には、この当時、陸奥入道理繆(りびゅう)と号していたと伝えている。幕府が厳然たる法規を曲げて、公経の要請を容れた一面には、長衡の巧妙な懸引もあったもののごとくである。殊にこの地が富有境であったことは、長衡が公経の意志を強固にさせた重な因であったことが考えられる。主従意を同じうしての計策であり、長衡の業績の大きな一つであったと思われる。

西園寺・三善両家の結合
 西園寺家と三善氏との主従の縁は、公経と長衡との意気投合した主従の情誼に啓かれて、世伝されたもののごとくであった。しかし西園寺氏のその後の動静は、皇室の外祖として、また関東申次(もうしつぐ)の重位を世襲したために、比較的よく伝えられているけれど、地位の低い家司三善氏の業績に関する徴証は極めて乏しい。寛喜三年〔1231〕正月に、馬助(うまのすけ)長衡の子光衡の叙爵されたこと、三善直衡(なおひら)が大膳権亮(だいぜんごんのすけ)に、三善為俊が大和守に任ぜられたことなどが、明月記に伝えられているけれど、長衡との関係は判然としていない。公経の五世の孫公衡1264〜1315.52歳〕は、弘安から正和にわたっての経歴を、その日記管見記に残しているが、その自筆の原本は西園寺家に伝襲され、昭和十三年に立命館で影印に付せられた。これによれば、弘安六年1283〕に幕府から派遣された使者美濃守長景等の入洛したことを、公衡が関東申次である父の実兼1249〜1322.74歳〕に報告するために為衡法師を使としたことが管見記の七月一日の条に見え、また実兼は為衡法師の家に赴いたこと(弘安十一年1288〕正月十七日)があり、康衡(やすひら)1241〜1315.75歳〕の任官の執り成しをしたことがあった(弘安十一年二月二十二日)。この康衡は久しく西園寺家の家務を管領し、また造内裏紫宸殿の雑掌の任にあたって功を立て、正和四年1315〕には七十五歳の高齢に達して、春の末には長い病患も快癒した喜びを迎えたが(正和四年三月二十三日条)、夏に至って再び病床に就き(五月二十一日)、六月三日についに易簀(えきさく)し、公衡は痛悼措く能わざるものがあった。この庚衡の嗣子と思われる春衡(はるひら)は、この年の四月十四日に公衡の使として、造内裏等の条々交渉のために関東に下向していたので、公衡は急使を発して庚衡の訃を伝えさせた。同時に公衡は、これまで康衡が幕府関係の政治的事務に従事していたので、とりあえず春衡の東下不在中は、種範(たねのり)に代行させた(正和四年六月五日)。これらの公衡と関係のあった人々は、三善氏の一門で、長衡の後裔であったと思われる。

 長衡の後には、その子孫が西園寺家の家司の職に任じて主家を輔け、当時、政務の枢機の任にもあたっていたもののごとくである。関東申次西園寺氏と幕府との関係は、公経以来、逐年緊密となって、中央政界の原動力を形成してきた。さればその家司三善氏もまた歴代にわたって、公経と長衡とによって緒口がひらかれた関係を世伝して、あるいは主命を帯して東下し、親しく幕府の要路と会して、その使命の達成に努力し、常時は幕府の京都の出先六波羅と緊密な連絡を保持し、また造内裏等の重要な財務計理の任にしたがっていたことを知ることができる。かくのごとき三善氏の業績は、長衡以来、西園寺家の家司(けいし)としての務めであって、西園寺・三善両家の主従関係が、ますます濃厚を加え、西園寺家の顕栄には、三善氏の功績が多大な貢献をなしたものと思われる。当時、政界の重鎮であり、花形であり、公武に権威を輝かした西園寺家の活躍の背後には、政治に理財に名声の高かった家司三善氏のあったことを没却することはできない。



☆西園寺家の財力の源泉については網野善彦氏「西園寺家とその所領」が参考となる。




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