up12.8/10
| 齊藤歩氏の略歴( 上掲書による) |
| さいとう・あゆみ 東京大学大学院学生 |
| ※原文の傍線部分を太字としました。 ※なるべく早く、「私の立場からの補足」を付します。 |
一 歴史物語「四鏡」の掉尾を飾る『増鏡』は、永い研究史を持ちながら、その作者・成立年代・本文系統について確たる結論を得るに至っていない作品である。作者としては、江戸期から今日まで一一人が擬せられてきた。その説の唱えられた年代に沿って記すと、一条冬良・一条兼良・一条経嗣・二条良基・四条隆資・丹波忠守・二条為明・二条為定・中院通顕・吉田兼好・洞院公賢という順序となる。また、成立年代については延元三年(1338)から永和二年(1376)という上下限内にあるが、近年はその前半に想定する説が比較的優勢なようである1。さらに本文系統では一七巻本と一九乃至二○巻本のいずれが原態であるかという問題が残されている。 本稿は、これら三つの課題の中から特に作者説について検討し、成立年代にも若干考察を加えようとするものである。ただし、先に列挙した「作者候補」の中には、既に諸先学によって否定されているものも少なくない。あるものは生年が成立下限以降であり、あるものは作品の筆致と周辺状況が合致しない、などである2。従って本稿においても、それらについては改めて言及せず、従来有力視されてきた二条良基と、近年その対立項として浮上した洞院公賢の両者に問題を絞って考察を進めたい。 二 長く「二条良基が最も有力」とされていた作者論に一石を投じたのは田中隆裕氏の説である3。この田中氏の洞院公賢作者説に対しては、西沢正史氏4、木藤才蔵氏5の反論がなされた。その一方で、小川剛生氏による史料面からの補強もなされている6。ただその後、先述の他の作者候補群に比較して遙かに強力な条件を兼ね備えるかに見える公賢説にも、新たな展開は見られないように思われる。 ここで、田中氏の論拠を箇条書きに挙げてみると、
稿者も、右の両氏の反論に賛同するが、また別の角度から公賢説に疑義を抱かざるを得ない項目に、Bの北山行幸がある。田中氏は、
稿者が、さらに不審を感じるのは、この行幸における御会での後醍醐帝・中務の御子(尊良親王)の詠歌記事の形態である。
稿者は、尊良親王の歌が補われていることから見て、作者は後醍醐帝の歌をも、本来は完全なものにと望んでいたと考える。「後にも見出してぞ」は正直な備忘の書留めであったろう。では、代々の御幸のあとと思へば」の上の句は何処にも見出せないのだろうか。諸先学が指摘されるように、『藤葉和歌集』巻第一春歌に、
小倉 富小路 中園太相国妾 洞院実雄┬公雄─┬─実教──────女子 │ │ ┃ │ │左大臣実泰公室 ┃ │ │太相国公賢公母 ┃ │ └季子 ┃ │ ┠────────公賢 └公守──実泰 右の『尊卑分脈』に基づく系図に見る通り、小倉公雄女に「太相国公賢公母」とあり、さらに実教女に「中園太相国妾」がいる。公雄女が実教の姉妹なので、実教は公賢の伯父(叔父)であると同時に、その娘が「妾」となっているので、いわば舅の関係にある。 さらに、『藤葉和歌集』を巡っては、後藤丹治氏が指摘されたように12、公賢の日記『園太暦』康永三年(1344)八月廿四日条に次のような記事が見出される。(後藤氏の解説・推論を併せて引く。)
三 この小倉実教については、他にも不可解な叙述が見られる。それは巻一一「さしぐし」の正応元年六月西園寺実兼女※子入内に際しての記事である。 ※金へんに「章」
『増鏡』には多くの儀礼描写があり、そこには折々「公卿揃」14ともいうべき人名列挙が見出される。しかし、それらには右の記事の如き自信の無さといったようなものは認められない。また、「御消息の御使いにまいれりし上人」と再び朧化した表現を取っているのも不審である。このような書きぶりとなった原因は定め難いが、やはり作者が確たる史料、証言を持ち合わせていなかったとするのが順当であろう。史料としては『勘仲記』の、 御書勅使、左中将実教朝臣参仕15 があり、実教が「御消息の御使い」を勤めたことは確かなようである。また、証言者としては実教本人がまず挙げられようが、実教は『師守記』貞和五年(1349)九月七日条に、
その意味で、やはり「さしぐし」の筆致は不可思議であり、先の北山行幸の後醍醐帝御製と同じく、実教の近親者である洞院公賢を作者とすれば、よりその不審は強くなってくる。 以上、わずかな徴証であるが、『増鏡』の「むら時雨」「さしぐし」における一種独特な記述の中に小倉実教の名を見出すことができた。前者はその撰集中の和歌を復元し得ていないというものであり、後者は史料にも明らかなその登場を不可解な形式で語るというものである。尚、これ以外にも実教の登場は認められる。巻一三「秋のみ山」元亨二年七月乞巧奠の、
四 以上、小倉実教をめぐる二つの記事から洞院公賢作者説に対する疑義を呈した。次いで、公賢の政治的立場と『増鏡』の時勢に対する評語の面からの考察に進みたい。始めに、南北朝分裂後の公賢の略歴を確認しておく18。
稿者は、この略歴を以て公賢の政治的立場を節操の無いものと非難するつもりはない。しかしながら、このように晩年に至るまで南北両朝に身を置かなければならなかった公賢に、少なくとも現存の『増鏡』の、後醍醐帝の還幸までで叙述が打ち切られ、「すみぞめの色をもかへつ月草の移ればかはる花のころもに」で全巻を閉じる形態が叙し得たであろうか。 この巻末については、西沢正二氏の未完成説があり19、それに対する伊藤敬氏20・松尾葦江氏21の反論があるが、稿者は両氏の説とは別趣の観点から、『増鏡』は現存の形で完結していると読み取りたい。それは、この巻末が後醍醐帝の建武の中興をあえて記さないことで、その瓦解を暗示しているのではないかということである。 この「記さない」という「叙述」のあり方は、承久の乱に対するのと同じであり、皇統を危殆に瀕せしめた挙、即ち三上皇が流されるに至った承久の乱、および皇統を分裂せしめる結果となった「中興」を詳らかにしないという点で、『増鏡』作者の姿勢は一貫しているのではないだろうか。 この認識に立ったとき、『増鏡』の叙述と前掲の公賢の略歴との間に予盾が感じられてくる。小川剛生氏は、
五 以上、公賢説についての疑義を述べたが、次いで二条良基説をめぐって考察したい。まず、巻一六「久米のさら山」巻末を引く。
ここで、この「終のまうけの君」を興仁親王と仮定すると、巻末に置かれた叙述のあり方と相俟って、二条良基作者説に一つの補強がなされる。それは、良基がこの興仁親王の東宮傅を、受禅に至る七年の間勤めているからである。『公卿補任』によると、
となっている。 この条件は、先に挙げた田中氏による公賢説の「公賢が邦良親王の春宮大夫を勤めていたためにその哀悼の意が深い」と同様であり、良基説の根拠とはならないようにも思われる。 しかし、この両者は一見似ているように見えながら、その性格には大きな相違があるように思うのである。邦良親王の死は、確かにかなりの分量の記述を以て語られている。しかし、それは作者が近臣であったからというより、巻一四「春の別れ」巻末の「近ごろ、よき人びと多く失せ給ふさまこそ、いと口惜しけれ。」という時評の中心としてではないだろうか。邦良親王の父、後二条天皇も同じく夭折している。『増鏡』の叙述は、この薄幸の父子に対する悼辞であっただろう。そしてそれは、動乱に進んで行く後醍醐帝との対照をなしていると考えるのである。 ここで仮に公賢説の立場に立ってみると、『増鏡』の記事対象となっている時期に親王の死去に際会しながら、公賢の名も、親王に対する悼歌もみられないのは、やや物足りないとは言えないだろうか。これに対して良基の場合、興仁親王の立太子は、『増鏡』の叙述対象時期から後のことであるという相違がある 自らが盛り立てた皇子の誕生を記し、「終のまうけの君にてこそおはしますめれ」と言及するのは、皇子の誕生時には十八歳であった良基の筆致としてふさわしいものと言えるだろう。また、ごく短い記事ではあるのだが、その位置する場所についても注目すべきであると思われる。 この直後に、巻一七「月草の花」に入り、後醍醐帝の還幸で作品が閉じられるという、まさにこの時点で、北朝の皇子を「終のまうけの君」とするのは、後醍醐帝の行く末と合わせて自らの政治的位置を明確にするものと言えるのではないだろうか。 この、良基が「終のまうけの君」興仁親王の傅であったことは、良基を作者とする論考の中でも不思議に触れられることがなかった。それは恐らく、良基作としても、その執筆は少なくとも壮年後期であろうという想定が非常に強かったためと思われる。しかしながら、仮に貞和四年という時点を考えると、良基は二十九歳に達しており、当時としてはそれほど若年とは思われない。さらに草稿段階で「終のまうけの君」という表現が取られたとすれば、貞和・観応・文和年間の初期の成立、良基三十歳台前半の著作という仮定が成り立ち、充分に高い可能性を認めることができるのではないだろうか。 六 以上は主に『増鏡』の叙述それ自体により二条良基作者説を検討したのであるが、次に、良基を作者とする前提のもとにその成立年代を考察したい。 『増鏡』は一人の作者個人の博覧強記によって叙述しうる作品ではない。諸先学が指摘されるように、その記事内容は多くの日記・記録類を以てはじめて可能となるものである。即ち、作者とは別に、いわば記録関係収集のブレーンとも言うべき人物の存在を想定しなくてはならない。 二条良基を作者とした場合、これにあたるのは大外記中原師茂・弟の少外記記録所寄人中原師守であったと想像される。この二人の精勤を記したものに弟師守の日記『師守記』があり、以下その記事を手がかりに推論を試みたい。前項の仮定に基づき、貞和四年あたりの記事を捨ってみる。良基は、貞和二年に関白、氏長者、貞和三年に従一位、左大臣に任ぜられ、北朝廷臣の筆頭にあった。よって、中原氏にも種々の先例を勘案する命が度々下されている。(『師守記』本文の他、その当時の朝儀、及び『増鏡』に関連事項と思われる記事がある場合は、それを付した。) @貞和三年正月廿一日条
B同五月廿二日条
C同九月十三日条 良基書状
D同九月廿日条
E同十月廿八日条
『師守記』を貞和三年十月廿八日まで参照してきた。ところが、この後貞和四年記は逸文となっており、次に見出されるのは貞和五年正月九日条である。誠に憾みの残ることであるが、以下貞和五年の記事を拾ってみると、ある種の疑問が生じてくる。 F貞和五年四月七日条
G同六月九日条
H同閏六月十日条
I同八月廿一日条
J同八月廿九日条
K同十月一日条
先の@からEのように何事かの下問という訳でもなく、また世間が混乱して剣呑であるから出仕もしない、というのに、度々師茂・師守兄弟は良基邸へ参じている。貞和四年記が見出せず、想像の域を出ないが、その頃に中原兄弟による史料収集のピークがあり、良基の『増鏡』草稿の執筆が進んでいたとすれば、貞和五年頃には推敲段階に入っていたとしても不思議はない。よって、彼らは何らかの史料を携えることなしに、良基のもとに出仕していたのではないか。 一つの「状況証拠」に過ぎないが、『増鏡』の作者と成立年代について考祭した。本文系統の問題、また、作品の叙述本体については引き続いて別稿を期したい。 〔注〕 1 宮内三二郎氏「増鏡の成立年代」(『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』所収。明治書院、昭和五二年)、西沢正二氏「成立年代考」(『「増鏡」研究序説』所収。桜楓社、昭和五七年)等。 2 生年が成立下限以降であるのは、一条冬良・兼良であり、未だ年少であったのは経嗣である。また、周辺状況が合致しないものの例としては、石田吉貞氏によって、戦闘に明け暮れ執筆の余裕はなかったとされた四条隆資、在世であったか疑問の残る丹波忠守等がこれにあたる。 3 「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討−(前)(後)」(『二松学舎大学人文論叢』第27輯・29輯 昭和五九年三月・一○月)。 4 「『増鏡』作者論のゆくえ−洞院公賢説批判を中心に‐」(『学苑』五七七号昭和六三年一月)。 5 「増鏡の作者と成立した時代」(『歴史物語講座第六巻増鏡』所収。風間書房、平成九年)。 6 「『増鏡』と公家日記−十九巻本の文永四年記事をめぐって−」(『中世文学』第四二号平成九年六月)。 右の論文は、日野家の分流、広橋経光の日記『経光卿記』と『増鏡』一九巻本特有記事の見事な対応と、経光の子孫、兼綱が公賢の公事弟子となった点を中心とした精緻な論考であった。しかしながら、氏が「北朝公家の間で旧記の賃借や書写は予想以上に頻繁であった」とされたのは、公賢に限らず、記録類から遡及して作者を限定する方法にとって両刃の剣ともなるのではなかろうか。 7 『増鏡』本文の引用は時枝誠記氏・木藤才蔵氏他校注『神皇正統記 増鏡』(日本古典文学大系岩波書店、昭和四○年)によった。 8 木藤才蔵氏「増鏡の編集資料」(『中世文学試論』所収。明治書院、昭和五九年)。 9 『舞御覧記』の引用は『群書類従』第三輯帝王部によった。 10 「増鏡の成立に関する一考察−舞御覧記との関係について−」(『国語と国文学』昭和一四年七月号)。 11 『藤葉和歌集』の引用は『群書類従』第十輯和歌部によった。 12 「朗詠百首と藤葉和歌集」(『中世国文学研究』所収。磯部甲陽堂、昭和八年)。 13 『園太暦』の引用は『史料纂集』によった。 14 木藤才蔵氏「増鏡に及ぼした平家物語の影響」(注8前掲書所収。)。 15 『勘仲記』の引用は『史料大成』第二七巻によった。 16 『師守記』の引用は『史料纂集』によった。 17 『井蛙抄』の引用は『日本歌学大系』第五巻によった。 18 林屋辰三郎氏『内乱の中の貴族 南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書、平成三年)の年譜による。 19「未完結的性格」(注1前掲書所収。)。 20「増鏡の完結性−月草の花−」(『増鏡考説‐流布本考−』所収。新典社、平成四年)。 氏は、岡一男・井上宗雄氏の論を引きながら『増鏡』を仏法色に富んだ作品として読み解き、「『月草の花』の歌を、流転示唆の跋と読んで、増鏡はそこで完結と考えておく」とされた。 21 「軍記と歴史物語−増鏡と太平記第一部を中心に−」(『解釈と鑑賞』平成元年三月号「歴史物語の世界 上代から近世までを読み解く」)。 氏は、
22 注 6前掲論文。 23 「兼好法師と増鏡」(注 1前掲書所収)。 24 この点については、三角洋一氏より、「行幸に一人」ではなく、「如法経書写の御供に一人」の意であろうと御指摘を受けたが、可能性の一つとして記しておきたい。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||