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齊藤歩 「『増鏡』作者論への一考察 」
(『国語と国文学』平成12年6月号.p16以下)






齊藤歩氏の略歴( 上掲書による)
さいとう・あゆみ
東京大学大学院学生



※原文の傍線部分を太字としました。
※なるべく早く、「私の立場からの補足」を付します。




  

 歴史物語「四鏡」の掉尾を飾る『増鏡』は、永い研究史を持ちながら、その作者・成立年代・本文系統について確たる結論を得るに至っていない作品である。作者としては、江戸期から今日まで一一人が擬せられてきた。その説の唱えられた年代に沿って記すと、一条冬良・一条兼良・一条経嗣・二条良基・四条隆資・丹波忠守・二条為明・二条為定・中院通顕・吉田兼好・洞院公賢という順序となる。また、成立年代については延元三年(1338)から永和二年(1376)という上下限内にあるが、近年はその前半に想定する説が比較的優勢なようである1。さらに本文系統では一七巻本と一九乃至二○巻本のいずれが原態であるかという問題が残されている。

 本稿は、これら三つの課題の中から特に作者説について検討し、成立年代にも若干考察を加えようとするものである。ただし、先に列挙した「作者候補」の中には、既に諸先学によって否定されているものも少なくない。あるものは生年が成立下限以降であり、あるものは作品の筆致と周辺状況が合致しない、などである2。従って本稿においても、それらについては改めて言及せず、従来有力視されてきた二条良基と、近年その対立項として浮上した洞院公賢の両者に問題を絞って考察を進めたい。


  

 長く「二条良基が最も有力」とされていた作者論に一石を投じたのは田中隆裕氏の説である3。この田中氏の洞院公賢作者説に対しては、西沢正史氏4、木藤才蔵氏5の反論がなされた。その一方で、小川剛生氏による史料面からの補強もなされている6。ただその後、先述の他の作者候補群に比較して遙かに強力な条件を兼ね備えるかに見える公賢説にも、新たな展開は見られないように思われる。

 ここで、田中氏の論拠を箇条書きに挙げてみると、

@大臣薨去の記事において、洞院実雄・実泰に対する哀悼表明が顕著である。

A元亨四年賀茂祭で公賢の女婿徳大寺公清が好意的に描かれている。

B公賢は『増鏡』に記載される後醍醐朝の御会六回のうち五回に出席しているが、唯一出席していないのが「その日のこと見たまへねば」とある巻一五「むら時雨」の元徳三年三月北山行幸の際の御会である。

C巻一四「春の別れ」で邦良親王の死を悼むのは九年間春宮大夫を勤めた公賢の筆によるためである。

D後醍醐隠岐遷幸が詳細なのは、公賢が、これに供奉した養子内侍三位の通信を得たためである。

E公賢は四条隆蔭と密接な関係にあり、『とはずがたり』の提供を受け得た。

F二条為定とは終生泥懇であり、自らも優れた歌人であった。

G『皇代暦』『歴代至要抄』の編述があり、修史に対する強い関心を有していた。

の八項目に要約できよう。 西沢氏・木藤氏はこれらにそれぞれ反論を示しており、@Aについては、「『増鏡』作者の、宮廷的・公家的なものへの賛美、何事にもほほえみを失わない微温的な描き方」(西沢氏)の一例に過ぎず、特に公賢を作者と想定する根拠にはあたらないとの指摘がなされた。CDFについても独り公賢のみに適合する条件ではなく、殊にEについては孤本である『とはずがたり』の伝本関係が明らかにならない以上、無意味であると断じる点でも、西沢氏・木藤氏ともに一致している。

 稿者も、右の両氏の反論に賛同するが、また別の角度から公賢説に疑義を抱かざるを得ない項目に、Bの北山行幸がある。田中氏は、

…その日のこと見たまへねば、さだかにはなし。幼きわらはべなどの、しどけなく語りしまゝ也。このうちに御覧じたる人もおはすらむ。うけたまはらまほしくこそ侍れ7

の「幼きわらはべ」について、「…問題の会には公賢の四歳年下の弟公泰の名がみえる。恐らくこの弟から聞いたと想定しても自然であろう」とするが、西沢氏・木藤氏が述べるように当時公泰は二七歳であり、この表現にはやはり無理があるといわざるを得ない。

 稿者が、さらに不審を感じるのは、この行幸における御会での後醍醐帝・中務の御子(尊良親王)の詠歌記事の形態である。

(西園寺公宗)
 時をえてみゆきかひある庭の面に花もさかりの色や久しき
御製、
 代々の御幸のあとと思へば このかみわすれ侍。後にも見出だしてぞ 中務の御子、
 代々をへて絶えじとぞ思ふこの宿の花にみゆきの跡をかさねて

 後醍醐帝の和歌が下の句のみで、甚だ不体裁な形となっている。『増鏡』所収の一九○首にものぼる歌の中で、このようなかたちのものはこれ一首のみである。ここで、『増鏡』の編集資料と目されている8『舞御覧記』を引用しよう。

…御製などの御ことは申出もおそれおほくおぼえ侍れども。代々の御幸のあとゝ思ば。御歌のたけたかく。御こと葉たくみに。ためしなく人々沙汰申侍き。御あるじの御面目も色そひて聞ゆ。中務の御子のはなにみゆきのあとをかさねてとよませ給ける。おもしろく9

 ここにおいては、両者とも下の句のみである。しかるに、『増鏡』では、尊良親王の歌のみ復元され、後醍醐帝の歌は不完全なままに挿入された。これはどうしたことであろうか。かつて平田俊春氏は、

…西園寺公宗は幕府と最も関係深く、殊に量仁親王の春宮大夫として後醍醐天皇と反対の立場に居り、(中略)天皇が此の公宗の第に行幸遊ばされたのは、決して彼を御寵遇あらせられたからでもなく、又その御製も決して御真意ではおはしまさなかつたと拝察される。而して増鏡の作者も此の真相を知れるが故に、西園寺家の家来が西園寺家の誉れを賛歎するために作つた舞御覧記を材料としつゝも、而もその立場にとらはれなかつたのである10

との見解を示された。しかし、稿者が思うに、平田氏が思い描く『増鏡』作者の立場と、『増鏡』における西園寺家の公経・実氏・実兼についての好意的な叙述とは、いかに数代を隔てるとは言え不均衡であり、何よりも、もし公宗に筆誅を下すならば公宗の歌をこそ切り捨て、尊良親王の歌も後醍醐帝の歌と揃えて不完全にしておくべきだったと言えはしないだろうか。

 稿者は、尊良親王の歌が補われていることから見て、作者は後醍醐帝の歌をも、本来は完全なものにと望んでいたと考える。「後にも見出してぞ」は正直な備忘の書留めであったろう。では、代々の御幸のあとと思へば」の上の句は何処にも見出せないのだろうか。諸先学が指摘されるように、『藤葉和歌集』巻第一春歌に、

 次の年の春行幸侍て庭花ということを講せられける次に
                     後醍醐院御製
宿からは花も心にとまるかな代々の御幸のあとゝ思へば11

とある。即ち、『増鏡』作者が『藤葉和歌集』を目にすることができたならば後醍醐帝の御製は復元できたこととなる。ここに、稿者が公賢作者説に対して抱く疑義が存在する。『藤葉和歌集』は小倉実教1265〜1349.85歳〕の撰であるが、この実教とは公賢と非常に近い人物である。

        小倉    富小路     中園太相国妾
 洞院実雄┬公雄─┬─実教──────女子
       │     │               ┃
       │     │左大臣実泰公室      ┃
       │     │太相国公賢公母      ┃
       │     └季子            ┃
       │       ┠────────公賢
       └公守──実泰


 右の『尊卑分脈』に基づく系図に見る通り、小倉公雄女に「太相国公賢公母」とあり、さらに実教女に「中園太相国妾」がいる。公雄女が実教の姉妹なので、実教は公賢の伯父(叔父)であると同時に、その娘が「妾」となっているので、いわば舅の関係にある。

 さらに、『藤葉和歌集』を巡っては、後藤丹治氏が指摘されたように12、公賢の日記『園太暦』康永三年(1344)八月廿四日条に次のような記事が見出される。(後藤氏の解説・推論を併せて引く。)

廿四日、天晴、藤葉集事又及晩小倉前大納言実教・光吉朝臣等入来、藤葉集冬房(部カ)随身、被談之旨、春夏秋同其比連々談之、亦荒凉所存事等有之13

…すなはち藤葉集の春夏、秋の部は以前から度々相談にあづかったことを述べ、この日(康永三年八月二十日)も同集の冬の部を実教が公賢の家に持ち来り、公賢に相談したといふのである。公賢は吉野朝時代の著名な学者で、色々な著述があり歌道にも達してゐた。殊に公賢は実教の一族であつたから、この歌集の編輯に就いても親しく意見を陳述したものであらう。

 この事実からすると、また、『園太暦』に見える彼の几帳面さから推してみるに、『増鏡』においてあのような不体裁を残すとは考えにくいように思われる。換言すれば、作者をだれと想定しても不可解な筆致なのだが、公賢を作者とすれば一層その不可解さが強くなるように思うのである。


  

 この小倉実教については、他にも不可解な叙述が見られる。それは巻一一「さしぐし」の正応元年六月西園寺実兼女※子入内に際しての記事である。
※金へんに「章」

 その暮れつかた、頭中将為兼の朝臣、御消息もてまいれり。内の上(伏見)、身づからあそばしけり。

雲の上に千代をめぐらん初めとてけふの日影もかくやひさしき

紅の薄様、おなじ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿(師忠)、「包むやうしらず」とかやのたまひけるとて、花山に心得たると聞かせ給ければ、つかはして包ませられけるとぞ承りしと語るに、又この具したる女、「いつぞやは、御使ひ、実教の中将とこそは語りしか」といふ。
    (中略)
 まことや、御入内夜の御使い、勾当の内侍まいれりし禄に表着・唐衣を給はる。御消息の御使いにまいれりし上人も、女の装束かづきながら帰りまいりて、殿上口に落とし捨つ。後朝の御使いには、実連の中将なりし。公衡の中納言対面して、勧盃の後、これも女の装束かづけらる。

 『増鏡』は『大鏡』と比較して、語り手の会話体という形式が不完全であると言われる。その中で珍しく、語り手である老尼とそれに伴われた女房が登場するのが、右の一節である。さて、ここでも小倉実教が「登場」している。しかし、その現れ方はまことに曖昧で、京極為兼か、小倉実教であったかわからない、といった態のものであり、しかもそれを余り用いない会話体でわざわざ際だたせているという、非常に珍しい叙述となっている。

 『増鏡』には多くの儀礼描写があり、そこには折々「公卿揃」14ともいうべき人名列挙が見出される。しかし、それらには右の記事の如き自信の無さといったようなものは認められない。また、「御消息の御使いにまいれりし上人」と再び朧化した表現を取っているのも不審である。このような書きぶりとなった原因は定め難いが、やはり作者が確たる史料、証言を持ち合わせていなかったとするのが順当であろう。史料としては『勘仲記』の、

 御書勅使、左中将実教朝臣参仕15

があり、実教が「御消息の御使い」を勤めたことは確かなようである。また、証言者としては実教本人がまず挙げられようが、実教は『師守記』貞和五年(1349)九月七日条に、

天晴、後聞、今日入道前権大納言正二位藤原実教卿薨、年八十六、老病云々法名阿覚16

とあるように、かなりの長命を保っており、また先に挙げたようにその死の五年前にも私撰集の編纂に手を染めるほどの人物であった。つまりは『増鏡』作者の同時代人であり、その証言を得ようとすれば不可能ではなかったのである。

 その意味で、やはり「さしぐし」の筆致は不可思議であり、先の北山行幸の後醍醐帝御製と同じく、実教の近親者である洞院公賢を作者とすれば、よりその不審は強くなってくる。

 以上、わずかな徴証であるが、『増鏡』の「むら時雨」「さしぐし」における一種独特な記述の中に小倉実教の名を見出すことができた。前者はその撰集中の和歌を復元し得ていないというものであり、後者は史料にも明らかなその登場を不可解な形式で語るというものである。尚、これ以外にも実教の登場は認められる。巻一三「秋のみ山」元亨二年七月乞巧奠の、

…この度は和歌の披講なれば、その道の人々、藤大納言為世、子ども孫どもひき連れてさぶらへば、上の御製、
 笛竹の声も雲井にきこゆらし今宵手むくる秋のしらべは
ずんながるめりしかど、いづれもただあまの川、鵲の橋より外のめづらしきふしはきこえず。まこと、実教の大納言なりしにや、
 おなじくは空まで送れたき物のにほひをさそふ庭の秋風
げにえならぬ名香の香どもぞ、めでたくかうばしかりし。

とあるのがそれで、これは「その道の人々」として、『井蛙抄』に、

富小路(実教、稿者注)は父禅門(公雄、同上)ほどのたけ姿はなかりしかども、歌ごとに案じしぼりてあだならずよむ人なリ17

とあるのに通じ、近親者の筆になる極端な賞揚というのとは異なって、客観的評価の窺える一節と言えよう。


  

 以上、小倉実教をめぐる二つの記事から洞院公賢作者説に対する疑義を呈した。次いで、公賢の政治的立場と『増鏡』の時勢に対する評語の面からの考察に進みたい。始めに、南北朝分裂後の公賢の略歴を確認しておく18

康永二年 (1342) 五三歳 任左大臣。
貞和二年 (1346) 五六歳 辞左大臣。
同四年 (1348) 五八歳 任太政大臣。
観応元年 (1350) 六○歳 辞太政大臣。
観応二年
(正平六)
(1351) 六一歳 任南朝左大臣兼後院別当。
文和二年
(正平八)
(1353) 六三歳 任南朝太政大臣。
延文五年 (1360) 七○歳 薨去。

 稿者は、この略歴を以て公賢の政治的立場を節操の無いものと非難するつもりはない。しかしながら、このように晩年に至るまで南北両朝に身を置かなければならなかった公賢に、少なくとも現存の『増鏡』の、後醍醐帝の還幸までで叙述が打ち切られ、「すみぞめの色をもかへつ月草の移ればかはる花のころもに」で全巻を閉じる形態が叙し得たであろうか。

 この巻末については、西沢正二氏の未完成説があり19、それに対する伊藤敬氏20・松尾葦江氏21の反論があるが、稿者は両氏の説とは別趣の観点から、『増鏡』は現存の形で完結していると読み取りたい。それは、この巻末が後醍醐帝の建武の中興をあえて記さないことで、その瓦解を暗示しているのではないかということである。

 この「記さない」という「叙述」のあり方は、承久の乱に対するのと同じであり、皇統を危殆に瀕せしめた挙、即ち三上皇が流されるに至った承久の乱、および皇統を分裂せしめる結果となった「中興」を詳らかにしないという点で、『増鏡』作者の姿勢は一貫しているのではないだろうか。

 この認識に立ったとき、『増鏡』の叙述と前掲の公賢の略歴との間に予盾が感じられてくる。小川剛生氏は、

…仮に公賢作者説の立場に立てば、暦応末期に一旦成立した『増鏡』を、最晩年の延文年間の『経光卿記』を有力な資料として加筆増補したという憶測も可能であろう22

と述べられたが、自らの現実的位置を南北両朝に漂わせながら、かかる筆致を残せるものだろうかとの疑問が生じる。確かに両朝に枢要な位置を占めた公賢であったからこそ、この激動期を公平に叙述し得た、とも考えられるかもしれない。しかしながら、公賢はその日記『園太暦』の中にかなり強硬な感情を記している。

文和元年(1352)一月一七日条
天晴、入夜通冬卿入来、謁之、窮冬廿六日参南方御所、今月五日退出、被任権中納言歟者、其間山中式談之、所詮於不参之輩者、断官位望歟、

 このような発言と、次の『増鏡』巻一五「むら時雨」巻末の評語は対応するであろうか。場面は元弘の変の後、光厳天皇が即位し、邦良親王の子、康仁親王が立太子するにあたってのものである。

…ありし後(邦良親王の亡くなられた後、稿者注)、をのがさまざままかで散りにし古女房・上達部・殿上人など、世の中屈じいたくて、ここかしこに篭りいたりしも、いつしかと参り集ふさま、谷の鴬の春待ちつけたる心ちして、いと頼もしげ也。傅に久我右の大臣長通、大夫に中院の大納言通顕なりたまふ。なべて世に年ごろ埋もれたりし人びと、いつしかと官位さまざま思ふままなる気色ども、目の前に移りかはる世のありさま、今さらならねど、いとしるく※焉なるもあぢきなし
※てへんに「曷」
 『増鏡』の作者は、全巻の半ばまで持明院統・大覚寺統の両統迭立ごとに「めでたし」と祝意を表するのを忘れなかった。しかし、この『増鏡』の終末に近づくに至って、人々の急激な浮沈の交替に対し、批判的な評価を下しているのである。対立する二勢力の両者に関わりを持ち続けた人物がこのような評語を記すのは、やはり不自然ではないだろうか。換言すれば、『増鏡』が執筆された南北朝分裂期にあっては、少なくとも南朝・北朝いずれかに自らの存在を定めた人物こそ、この評語を述べ得たとするのは早計であろうか。


  

 以上、公賢説についての疑義を述べたが、次いで二条良基説をめぐって考察したい。まず、巻一六「久米のさら山」巻末を引く。

 内(光厳)には女御もいまださぶらひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿(実衡)の姫君、広義門院の御かたはらに、今御方と、かしづかれ給を、まゐらせ奉り給へれば、これや后がねと、世人もまだきにめでたく思へれど、三条大納言公秀の女(秀子)、三条とてさぶらはるゝ御腹にぞ、宮宮あまた出でものし給ぬる、終のまうけの君にてこそおはしますめれ。

 この記事は、『増鏡』の成立年代を考える上で重要視されている箇所である。ここで宮内三二郎氏の論を引くこととしたい。

作者が巻十六「久米のさら山」の末尾のこの記事を書いたのは、三月に弥仁親王が生れ、八月に興仁親王が皇太子に立ったまさにその年、すなわち暦応元年(延元三年(1338))か、あるいはその翌年ないし翌々年までのことではなかったろうか。おそく見積もっても、それは光明帝の在位中、つまり興仁親王がまだ皇太子であった時期(貞和四年(1348)まで)に書かれたものではなかろうか。貞和四年以後に書かれたとすれば、「終のまうけの君にてこそ」という一句は、もっとちがった書き方になっていたのではあるまいか23

 氏は兼好作者説を説かれたが、その過程で、成立年代の可能性の幅を即座に縮められる傾向があった。興仁親王立太子の一三三八年は、内部徴証による成立年代の最上限であるが、それを「興仁親王が皇太子に立ったまさにその年」と、そのまま執筆の年とされたのもその一例であろう。しかし、氏の指摘には、『増鏡』の問題点に鋭く迫るものが少なくなく、右引用の後半部分は、従来の成立下限を三十年近く遡らせる提言であった。

 ここで、この「終のまうけの君」を興仁親王と仮定すると、巻末に置かれた叙述のあり方と相俟って、二条良基作者説に一つの補強がなされる。それは、良基がこの興仁親王の東宮傅を、受禅に至る七年の間勤めているからである。『公卿補任』によると、

・暦応五年(興国三年)壬午四月廿七日改元為康永元年(1342)
内大臣正二位同(二条)良基二十三 左大将。三月卅日兼皇太子傅。十二月廿一日辞大将。不及上表。
院参之次第内々申之云々。

・貞和四年(正平三年)戊子十月廿七日受禅…十月廿七日皇太子興仁践祚。年十五。
関白従一位藤(二条)良基二十九 皇太子傅。十月廿二日可列太政大臣由宣下。同廿七日依受禅止傅。

となっている。

 この条件は、先に挙げた田中氏による公賢説の「公賢が邦良親王の春宮大夫を勤めていたためにその哀悼の意が深い」と同様であり、良基説の根拠とはならないようにも思われる。

 しかし、この両者は一見似ているように見えながら、その性格には大きな相違があるように思うのである。邦良親王の死は、確かにかなりの分量の記述を以て語られている。しかし、それは作者が近臣であったからというより、巻一四「春の別れ」巻末の「近ごろ、よき人びと多く失せ給ふさまこそ、いと口惜しけれ。」という時評の中心としてではないだろうか。邦良親王の父、後二条天皇も同じく夭折している。『増鏡』の叙述は、この薄幸の父子に対する悼辞であっただろう。そしてそれは、動乱に進んで行く後醍醐帝との対照をなしていると考えるのである。

 ここで仮に公賢説の立場に立ってみると、『増鏡』の記事対象となっている時期に親王の死去に際会しながら、公賢の名も、親王に対する悼歌もみられないのは、やや物足りないとは言えないだろうか。これに対して良基の場合、興仁親王の立太子は、『増鏡』の叙述対象時期から後のことであるという相違がある

 自らが盛り立てた皇子の誕生を記し、「終のまうけの君にてこそおはしますめれ」と言及するのは、皇子の誕生時には十八歳であった良基の筆致としてふさわしいものと言えるだろう。また、ごく短い記事ではあるのだが、その位置する場所についても注目すべきであると思われる。

 この直後に、巻一七「月草の花」に入り、後醍醐帝の還幸で作品が閉じられるという、まさにこの時点で、北朝の皇子を「終のまうけの君」とするのは、後醍醐帝の行く末と合わせて自らの政治的位置を明確にするものと言えるのではないだろうか。

 この、良基が「終のまうけの君」興仁親王の傅であったことは、良基を作者とする論考の中でも不思議に触れられることがなかった。それは恐らく、良基作としても、その執筆は少なくとも壮年後期であろうという想定が非常に強かったためと思われる。しかしながら、仮に貞和四年という時点を考えると、良基は二十九歳に達しており、当時としてはそれほど若年とは思われない。さらに草稿段階で「終のまうけの君」という表現が取られたとすれば、貞和・観応・文和年間の初期の成立、良基三十歳台前半の著作という仮定が成り立ち、充分に高い可能性を認めることができるのではないだろうか。


  

 以上は主に『増鏡』の叙述それ自体により二条良基作者説を検討したのであるが、次に、良基を作者とする前提のもとにその成立年代を考察したい。

 『増鏡』は一人の作者個人の博覧強記によって叙述しうる作品ではない。諸先学が指摘されるように、その記事内容は多くの日記・記録類を以てはじめて可能となるものである。即ち、作者とは別に、いわば記録関係収集のブレーンとも言うべき人物の存在を想定しなくてはならない。

 二条良基を作者とした場合、これにあたるのは大外記中原師茂・弟の少外記記録所寄人中原師守であったと想像される。この二人の精勤を記したものに弟師守の日記『師守記』があり、以下その記事を手がかりに推論を試みたい。前項の仮定に基づき、貞和四年あたりの記事を捨ってみる。良基は、貞和二年に関白、氏長者、貞和三年に従一位、左大臣に任ぜられ、北朝廷臣の筆頭にあった。よって、中原氏にも種々の先例を勘案する命が度々下されている。(『師守記』本文の他、その当時の朝儀、及び『増鏡』に関連事項と思われる記事がある場合は、それを付した。)

 @貞和三年正月廿一日条
今日予着衣衣冠参殿下押小路殿、今年初度也、…今朝自殿下被返下公卿補任、此次春宮御書始、年々重可注進、以前注進被召仙洞之間、御不審云々、則付御使御注進之、
 (同廿六日条「春宮御書始云々」)
※『増鏡』では後鳥羽(巻一「おどろの下」)、宗尊親王(一九巻本「煙の末々」)

 A同五月十六日条
今日自殿下以仮名御状被尋仰家君云、後嵯峨院已後、初度両社御幸年々所見候者、可被注進云々、随所見御注進之、
 (同四月十九日「今日上皇御幸八幡宮、当御代初度」)

B同五月廿二日条
今日自殿下被尋仰家君云、文永十一年賀茂御幸、執柄御供奉有無也、御状注裏、
裏書廿二日殿下仰
文永十一年四月の加茂の御幸にハ、とのは御くふは候ハぬとおほしめし候、もし所けん候ハゝ、志るしてまいらせられ候へく候…
一ゐんまい人なとくせられさふらふ御かうにハ、しへい(執柄)の御まいりはさたまれる事にて候、さも候ハぬに、御まいりの所けん、まれに候ほとに、ちとふるい(部類)せられたく候程に、かやうに、おほせ事候、
※光厳上皇の御幸は既に終わっているにもかかわらず、良基は石清水・賀茂の御幸について詳細に先例を確認している。『増鏡』では「内野の雪」の一九巻本特有記事に後嵯峨天皇の寛元元年一二月両社初度行幸の記事があり、巻一三「秋のみ山」に後醍醐天皇の正中元年三月・四月の親政後初の両社行幸の叙述がある。御幸と行幸の相違があるが、この後嵯峨・後醍醐の御幸・行幸記事は、「後嵯峨院時代」の開始と後醍醐の親政開始の宣言という点で、その筆致・性格ともに酷似しており、『増鏡』の叙述に対称性を与えている。ただ文永二年四月の御幸については、巻九「草枕」の冒頭にあたり、亀山院のそれであるはずだが、亀山院の御幸の方は『増鏡』にその記述は見えない。

 C同九月十三日条 良基書状
裏書十三日殿下御書
いま二三日のほとに、御ひま候はゝ、御まいり候へく候、くし(公事)などの事につき候ててうてう(条々)たん(談)しおほせられたき事の候、…又こうあん九年九月のにんくわむいんしゆ(任官員数)さためられて候しよけん(所見)、もろあきのあそむ(師顕朝臣)しるしをきて候らん、しるし申され候へきよし、おほせこと候、
※弘安九年は巻一○「老のなみ」の末だが、記事のない年である。但し、師茂の請文に「弘安九年任官数御沙汰の事、くはしくしるしおかす候、但いさゝか所見の分しるし申上候、件度評定香園院殿(師忠、良基の曾祖父)御参候か、御記定分明候や」とある。


D同九月廿日条
今日自殿下有仮名御書被尋仰家君、たん(談)し仰られたきことの候、この程にさん(参)ぜられ候へく候、さて一夜の任大臣のついてに…又□□(弘長カ)以こ(後)のせいふ(制符)に任官のゐんしゆ(員数)、又とうよう(登用)のことなと、のせ□(下)されて候はんするをかきぬきて、この程にちさん(持参)せられ候へく候、このほかしゆんきよ(准拠)候はゝ、かきく(書具)してまいらせられ候ヘ、又ひか事も候らむ、なをされ候へく候とおほせ事候、(同十六日任大臣節会)
※これも当時の節会が終わってのことである。弘長は亀山天皇の世で、『増鏡』では巻七「北野の雪」に以下のような記事がある。
かくて、弘長三年の二月の比、おほかたの世の気色もうらゝかに霞みわたれるに、春風ぬるく吹て、亀山殿の御前の桜ほころびそむる気色、つねよりことなれば、行幸あるべくおぼしをきつ。関白二条殿良実、この三年ばかり又返なり給へば、御随身ども花を折りて、行幸よりも先に参りまうけ給。
(「関白二条殿良実」は二条家の家祖)


E同十月廿八日条
今日自殿下被尋仰家君云、行幸公卿一人供奉例、御不審云々、付御使御注進之、
※『増鏡』の巻七「北野の雪」に、
其年(弘長三年)にや、五月の比、本院、亀山殿にて御如法経書かせ給。いとありがたくめでたき御事ならんかし。後白川院こそ、かかる御事はせさせ給けれ。それも御髪おろして後の事なりけり。いとかく思し立たせ給ける、いみじき御願なるべし。さるはあまた度侍しぞかし。おとこは、花山院の中納言師継一人さぶらひ給ける。
とある。この「おとこは…」の部分が「行幸公卿一人供奉例、御不審」に相当するのであろうか24。良基は、師継一人の供奉とある記録を訝しく思い、師茂に確認させたのではないだろうか。また、これまでの先例勘案と異なり、後に適用するための先例ではなく、過去の何ものかの記録を播いての「不審」であろう。

 さて、ここまでの中原氏への下問は多分に良基の職務に関連してのことであり、いわば執務の一環であったと思われる。しかしながら、当然のこととは言え、『増鏡』の叙述に結びつくと思われる事項も見出せるようである。それは良基の執政としての必要であり、また、氏長者としての家門意識も認められよう。あくまでも、良基を作者とした仮定のもとにではあるが、自らの職掌に携わるうちに歴史意識を啓発され、かかる史料収集のもとに一編の歴史物語の叙述に至ったと想定するのである。

 『師守記』を貞和三年十月廿八日まで参照してきた。ところが、この後貞和四年記は逸文となっており、次に見出されるのは貞和五年正月九日条である。誠に憾みの残ることであるが、以下貞和五年の記事を拾ってみると、ある種の疑問が生じてくる。

 F貞和五年四月七日条
今日予着布衣参殿下、於泉殿有御会、玄恵法印参入、仍申入已出了、

 G同六月九日条
今日家君参殿下給、依召也、其後参文殿給、

 H同閏六月十日条
今日自殿下被仰家君云、有指ママ可被仰事、

 I同八月廿一日条
今日家君出仕、世上物※已後不出仕、参殿下・近衛已下給、
※「総」の旁のみの字

 J同八月廿九日条
今日予着布衣参殿下、
(九月十三日良基辞左大臣)

 K同十月一日条
午剋家君刷朝衣自重参殿下給、其後近衛前殿下并相国已下参向給、依更衣也、

 L同十月二日条
今日予着布衣、参殿下、

 先の@からEのように何事かの下問という訳でもなく、また世間が混乱して剣呑であるから出仕もしない、というのに、度々師茂・師守兄弟は良基邸へ参じている。貞和四年記が見出せず、想像の域を出ないが、その頃に中原兄弟による史料収集のピークがあり、良基の『増鏡』草稿の執筆が進んでいたとすれば、貞和五年頃には推敲段階に入っていたとしても不思議はない。よって、彼らは何らかの史料を携えることなしに、良基のもとに出仕していたのではないか。

 一つの「状況証拠」に過ぎないが、『増鏡』の作者と成立年代について考祭した。本文系統の問題、また、作品の叙述本体については引き続いて別稿を期したい。



〔注〕
1 宮内三二郎氏「増鏡の成立年代」(『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』所収。明治書院、昭和五二年)、西沢正二氏「成立年代考」(『「増鏡」研究序説』所収。桜楓社、昭和五七年)等。
2 生年が成立下限以降であるのは、一条冬良・兼良であり、未だ年少であったのは経嗣である。また、周辺状況が合致しないものの例としては、石田吉貞氏によって、戦闘に明け暮れ執筆の余裕はなかったとされた四条隆資、在世であったか疑問の残る丹波忠守等がこれにあたる。
3 「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討−(前)(後)」(『二松学舎大学人文論叢』第27輯・29輯 昭和五九年三月・一○月)。
4 「『増鏡』作者論のゆくえ−洞院公賢説批判を中心に‐」(『学苑』五七七号昭和六三年一月)。
5 「増鏡の作者と成立した時代」(『歴史物語講座第六巻増鏡』所収。風間書房、平成九年)。
6 「『増鏡』と公家日記−十九巻本の文永四年記事をめぐって−」(『中世文学』第四二号平成九年六月)。
右の論文は、日野家の分流、広橋経光の日記『経光卿記』と『増鏡』一九巻本特有記事の見事な対応と、経光の子孫、兼綱が公賢の公事弟子となった点を中心とした精緻な論考であった。しかしながら、氏が「北朝公家の間で旧記の賃借や書写は予想以上に頻繁であった」とされたのは、公賢に限らず、記録類から遡及して作者を限定する方法にとって両刃の剣ともなるのではなかろうか。
7 『増鏡』本文の引用は時枝誠記氏・木藤才蔵氏他校注『神皇正統記 増鏡』(日本古典文学大系岩波書店、昭和四○年)によった。
8 木藤才蔵氏「増鏡の編集資料」(『中世文学試論』所収。明治書院、昭和五九年)。
9 『舞御覧記』の引用は『群書類従』第三輯帝王部によった。
10 「増鏡の成立に関する一考察−舞御覧記との関係について−」(『国語と国文学』昭和一四年七月号)。
11 『藤葉和歌集』の引用は『群書類従』第十輯和歌部によった。
12 「朗詠百首と藤葉和歌集」(『中世国文学研究』所収。磯部甲陽堂、昭和八年)。
13 『園太暦』の引用は『史料纂集』によった。
14 木藤才蔵氏「増鏡に及ぼした平家物語の影響」(注8前掲書所収。)。
15 『勘仲記』の引用は『史料大成』第二七巻によった。
16 『師守記』の引用は『史料纂集』によった。
17 『井蛙抄』の引用は『日本歌学大系』第五巻によった。
18 林屋辰三郎氏『内乱の中の貴族 南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書、平成三年)の年譜による。
19「未完結的性格」(注1前掲書所収。)。
20「増鏡の完結性−月草の花−」(『増鏡考説‐流布本考−』所収。新典社、平成四年)。
氏は、岡一男・井上宗雄氏の論を引きながら『増鏡』を仏法色に富んだ作品として読み解き、「『月草の花』の歌を、流転示唆の跋と読んで、増鏡はそこで完結と考えておく」とされた。
21 「軍記と歴史物語−増鏡と太平記第一部を中心に−」(『解釈と鑑賞』平成元年三月号「歴史物語の世界 上代から近世までを読み解く」)。 氏は、
軍記物語は合戦記述によって武力が事態を変えて行く経緯を明らかにとらえ、意志的人間の行動が、歴史を不可逆的に先につき進めて行くダイナミズムを表出した。『増鏡』のように、その経緯をとばしてしまえば、「移ればかはる」と慨嘆するほかないだろう。
と分析された。稿者はこれに賛同するが、「武力が事態を変えて行く経緯」が、『増鏡』の場合、帝王(後鳥羽・後醍醐)の失誤と重なるものであることに注意しておきたい。
226前掲論文。
23 「兼好法師と増鏡」(注 1前掲書所収)。
24 この点については、三角洋一氏より、「行幸に一人」ではなく、「如法経書写の御供に一人」の意であろうと御指摘を受けたが、可能性の一つとして記しておきたい。





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