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関靖 「北条実時」
(『金沢文庫の研究』.大日本雄弁会講談社.昭和26年.p24以下)






※関靖氏の略歴は後日記載します。



 第三節 北条実時


 第一 誕生・元服

 実時の生年月日については、「吾妻鏡」にもその記載を闕いてゐるが、その年齢から逆算すると、元仁元年(一二二四)に生れたことが推知出来る。元仁の年号は、貞応三年十一月二十日に改元されてゐるから、或は貞応三年に生れたといふ方が正しいかもしれない。 実時の元服は「吾妻鏡」天福元年〔1233〕十二日〔月〕の条に、

『二十九日、辛亥、陸奥五郎子息小童年十於武州御亭元服、号太郎実時、如駿河前司在座、一事以上亭主御経営也、即又為加冠、是非兼日之構有所存、俄及此儀之由、被仰云々

とあるので、はつきりと知ることが出来る。陸奥五郎は義時〔1163〜1224.62歳〕の五男実泰〔1208〜63.56歳〕、武州とあるは時の執権武蔵守泰時〔1183〜1242.60歳〕、駿河前司は三浦義村〔?〜1239〕、亭主は泰時を指したものである。この元服式は一事以上亭主の御経営とあることから、万事泰時の指揮によつたもので、烏帽子親も亦泰時であつた。

 唯不思議に考へられることは、この二十九日といふ日は大晦日で、一夜明ければお正月といふ前日である。何故にかくもおしつまつた日に、人生の門出を祝ふ儀式の日を選んだかといふことである。特にこの文に、『是れ兼日の構にあらず、存ずる所あつて、俄にこの儀を行ふの由仰せらる』と記してゐる所からも、何かそこにその元服を急がねばならない原因があつたに相違ない。私が推察する所では、父実泰は前にも記した通り、平素から余り強健な素質ではなかつたから、その頃病床にあつて、急に重態になつたので、その生前に嗣子の元服を行つておく必要を生じたためではなからうかと思ふ。又翌日からは年も改まるので、実時を一人前とさせて新しい年を迎へさせてやらうといふ親心からでもあつたらうと思はれる。


 第二 時代

 頼朝〔1147〜99.53歳〕が幕府を開いてから北条氏滅亡まで約百五十年、この間を鎌倉期と呼んでゐるが、この期間中北条氏が一番繁栄したのは、泰時〔1183〜1242.60歳〕・経時〔1224〜46.23歳〕時頼〔1227〜63.37歳〕・長時〔1230〜64.35歳〕・政村〔1205〜73.69歳〕・時宗〔1251〜84.34歳〕が順次執権に坐つてゐた間で、その間凡そ六十年、泰時以前が約四十年、時宗逝去後が約五十年で、合せて約百五十年になるが、その約六十年は鎌倉幕府として最も繁栄した時と考へることが出来る。そして実時は泰時が執権となつた元仁元年(一二二四)に生れて、時宗執権時代の建治二年(一二七六)に世を去つてゐるから、丁度北条氏の一番繁栄した時代に活躍した人物となるので、別の意味から考へると、最も恵まれた時代に生存してゐたことになるのである。

 然らばその頃の支那はどんな時代かといふと、所謂南宋時代で、実時の生れた時が、寧宗の嘉定十七年で、死んだ時が端宗の景炎元年であるが、南宋は都を臨安に建て、以来、絶えず金や蒙古からおびやかされて、常に内外多事であつたばかりか、実時歿年の三月には蒙古軍のために帝都臨安を奪はれ、張世傑等は端宗帝を奉じて、一旦広東の潮州に走り、翌年再び秀山に逃げたが、その翌年即景炎三年四月に端宗帝が※したので、その弟の衛王を立て、年号を祥興と改め、六月には更に遷つて◆山の険に拠つたが、又も敵将張弘範等の襲ふ所となつて、遂に皇帝以下身を海に投じて、我国平家没落と同じ悲惨の最期を遂げ、南宋は九主百五十二年で滅亡することとなつた。これが丁度実時死後三年目の年〔1279〕に当るから、実時は南宋時代を三分した後の五十年に生きてゐたことにもなる。
※偏が「歹」、旁が「且」
◆「崖」から「山」を除いた字

 南宋といふ時代は、前にも述べた通り、絶えず隣国から苦しめられてゐたが、その国の文化の程度は、各般に亙つて頗る発達してゐたので、国歩多端の折柄であるにも拘らず、我国との間には常に唐船の往来があり、その都度種々の貨物が取引されてゐるばかりか、両国の僧侶も往復して、自然我国へ諸般の工芸学術の資料が輸入されてゐたことも事実である。今北条氏繁栄時代に於ける日宋僧侶の往復だけを拾つて見ると次の通りである。

安貞元〔1227〕 道元帰朝
安貞二〔1228〕 浄業帰朝
天福元〔1233〕 浄業再渡宋、宗円渡宋
嘉禎元〔1235〕 栄尊・弁円渡宋
嘉禎三〔1237〕 湛海渡宋
暦仁元〔1238〕 栄尊帰朝、智鏡渡宋
仁治二〔1241〕 弁円・浄業帰朝
寛元二〔1244〕 湛海帰朝
寛元四〔1246〕 宋僧道隆及び紹仁来朝
宝治二〔1248〕 覚如帰朝
建長元〔1249〕 覚心渡宋
建長三〔1251〕 普門渡宋
 同四〔1252〕 静照渡宋
 同五〔1253〕 義尹渡宋
 同六〔1254〕 覚心帰宋
 同七〔1255〕 湛海帰朝(再出)
康元元〔1256〕 義尹帰朝
正嘉二〔1258〕 慧雲渡宋
正元元〔1259〕 紹明・真照渡宋
文応元〔1260〕 宋僧普寧来朝
弘長二〔1262〕 順空渡宋、真照帰朝
文永元〔1264〕 義尹再渡宋
文永二〔1265〕 静照・円海帰朝
 同三〔1266〕 慧暁渡宋
 同四〔1267〕 紹明・義尹帰朝
 同六〔1269〕 慧雲帰朝、宋僧正念来朝
 同八〔1271〕 宋僧子曇来朝
同一一〔1274〕 瓊林渡宋
弘安元〔1278〕 宋僧子曇帰国
弘安二〔1279〕 宋僧祖元・覚園・徳悟来朝

 実時が沢山の宋槧を蒐集し得たり、蔵経を手に入れることが出来たり、宋窯の花瓶や香爐を取寄せることが出来たのも、皆これらの唐船に託したのである。そしてそれ等の唐船は直接実時の領内に寄航したものであると伝へられてゐる。まだそれを確認することの出来る史料を発見し得ないが、この地方には昔時の渡津地として伝へられてゐる附近に三艘と称する地名がある。そして此処が唐船寄航の場所であると呼ばれてゐる。由来この六浦津は海水が袋形に湾入してゐる所で、殆んど風波の難のない所から、寛喜二年〔1230〕三月に将軍頼経〔1218〜56.39歳〕が三崎磯山の桜見物を志した時も、特にこの津から船出したことが「吾妻鏡」(註・一)に記されてゐる位であるから、唐船来航の時も、風波の関係から、屡々、この地が選ばれたであらうことは想像し得らるゝことである。仁治年間に泰時〔1183〜1242.60歳〕がこの地点と鎌倉との間にある岩山を開鑿し、その完成を急いで、自身の乗馬にその土石を運ばせたのも、要するにこの渡津を利用したり、当地に陸揚させた貨物や、製鹽を運搬させるための便宜を図つたものではあるまいか。泰時はこの時から八年ばかり前に、鎌倉材木座の東南に飯島の突堤を築かせて、風波の難を救ふことを謀つたが、その後も依然その難を蒙るものが続出したので、この六浦津に着眼して、この海岸を利用することになつたのが、この六浦道開鑿を急 がせた主要原因であつたのであらう。実時が沢山に宋からの貨物を、直接容易に入手することの出来たのも、この結果であらう。今現に称名寺に伝存してゐる西湖梅は西湖孤山に棲んだ林和靖遺愛の原種で、曾て太田道灌〔1432〜86.55歳〕はこれを江戸城内に分植して賞観してゐたことは、万里〔1428〜?〕の「梅花無尽蔵」(註・二)に載せてある。

註・一「吾妻鏡」寛喜二年〔1230〕三月の条に、
『十九日、辛亥、晴、将軍為御遊覧 出御于三崎磯 山桜花尤盛也、仍領主駿河前司、以殊御儲申案内 相州、武州以下被参、自六浦津召御船 海上有管絃(若宮兒童)有連歌 両国司并廷尉基綱散位親行、平胤行等各被献秀句云々

註・二 「梅花無尽蔵」第二巻七絶の中に、
『梅時会故人、江戸城香月亭下、有西湖梅蓋分取金沢余根挿之、于時看花爛漫、得鴻字 寒暖皆梅白雑紅、裂西湖置数株中、春風話尽主人榻、一片帰心遂去鴻、』
  同第六巻雑文の中に『貼西湖梅詩序」と題して左の文がある。
丙午小春(文明十八年〔1486〕十月)余入相州(武州の誤)金沢称名律寺 西湖梅以未開為遺恨、富士則邦之山、而斯梅則支那之名産也、唯見※蕾 而雖未見其花 豈非東遊第一之奇観乎哉、金沢蓋先代好事之主、属南舶移杭州西湖之梅花於称名之庭背、以西湖呼之、余作詩云、前朝金沢古招堤、遊十年遅雖噬臍、梅有西湖指枝拝、未開遺恨翠禽啼、及今余恨未尽、巨福山有識面、丁未之春、摘其花数十片 為一包恵焉、巳酉夏五、余帰濃之旧廬 奉献彼一包於春沢梅心翁、翁借余手描枝条貼其花 近而見之、則造化所設、遠而見之、則趙昌所尽、并以出於春翁之新意矣、掛高堂 一日招余令観焉之次、要作賛語題軸上 漫従揚水之末章云、一横枝上貼西湖 名字斯花別不呼、意外春風実仮合、傍人定道昼成岡、』
※くさかんむりに「倍」


 三 人物

 実時の官歴は天福二年〔1234〕十一歳の時に、父実泰〔1208〜63.56歳〕から小侍所別当(註・一)の重職を譲り受けた時から始まる。暦仁元年〔1238〕二月僅か十五歳で、将軍頼経〔1218〜56.39歳〕に扈従して上洛の途次、東海道橋本駅で高名(註・二)を博し、掃部助並宣陽院1181〜1252.72歳〕蔵人を拝して下向、仁治二年〔1241〕十二月小侍所々員は手跡・弓馬・蹴鞠・管絃郢曲その他一芸に秀でて、常に将軍の御用に立つベき旨を奉行、建長二年〔1250〕十二月には、将軍近習番六番に加へられ、翌三年〔1251〕十二月小侍所別当の労によつて、下総国埴生庄を賜はり、翌四年〔1252〕四月三十日引付衆に、更にその翌五年〔1253〕二月に評定衆に挙げられた。実時が自領六浦庄内に金沢の勝地を選んで、そこに別業を設けた時期は、正確に指示することは出来ないが、「伝法灌頂雑要抄」(註・三)によると、正嘉二年〔1258〕には既に金沢に邸宅が設けられてゐたことが知られる。正嘉二年は建長五年から五年目の三十五歳の時であるから、それ以前に設けたものであらう。金沢といふ土地が風光明媚で気持のよい幽静な所であるから、或は病弱の父を養ふために特にこの僻遠の地を別業の地と定めたものであるかも知れない。生母(註・四)を喪つたのが建長六年〔1254〕三月である。実時はその後この別業内に称名寺と称する念仏寺(註・五)を創建してゐるが、多分亡母の七回忌に当る文応元年〔1260〕にその普提を弔うために建てたものと察せられる。建長六年〔1254〕閏五月には相撲奉行(註・六)となつて、将軍の御前に於て若侍達の志気を鼓舞し、更に弓馬芸奉行となつて武芸の奨励をしてゐる。翌七年〔1255〕十二月廿三日越後守任官、(註・七)従五位下に叙せられ、正元二年〔1260〕二月廂御所結番一番(註・八)に加へられ、文永元年〔1264〕十二月越訴奉行となリ、(註・九)翌二年〔1265〕六月従五位上に叙せられた。父を喪つた(註・一〇)のは弘長三年〔1263〕九月廿六日彼が四十歳の時であつた。その七周忌に当る文永六年〔1269〕十月に梵鐘を鋳て(註・一一)称名寺に寄進して父母の冥福を祈つてゐる。

 実時は幼少の頃から、叔父であり時の名執権と崇められた泰時〔1183〜1242.60歳〕から、その才能を認められ、僅か十一歳の時に父からの小侍所別当の譲附を認められ、十八歳の時には、執権侯補者たる経時〔1224〜46.23歳〕の師友に抜擢された(註・一二)ばかりか、常に幕府の秘議に参与(註・一三)せしめられて、而かも泰時・経時・時頼〔1227〜63.37歳〕・時宗〔1251〜84.34歳〕四代に亙つて重用されてゐたことは、如何にその人物が傑出してゐたかを証して余りありといふべきである。

 実時は以上の如く幕政の上に重きをなしてゐたばかりでなく、武技の上にも卓越した腕を持つてゐたので、度々騎射の選に預り、(註・一四)武人としての名誉を得てゐたことは「吾妻鏡」の記載から知ることが出来る。かくて昼夜公務に多忙の身でありながら、常に又意を文学の上に置き、或は宋舶に託して宋典を取寄せ、或は京方面から秘籍を借用して、自ら書写校合するなど、よくもかくまで勉強することが出来たと驚嘆せしむるほどの努力家であつた。文武兼備といふ言葉は、実に実時のために出来たものでないかと思はれるほどである。

 実時は建治元年〔1275〕九月に病気の故を以て金沢の別業に籠居(註・一五)し、専ら書写校正に従事してゐたが、翌二年〔1276〕十月廿三日に、この別業内で卒去(註・一六)した、時に享年五十三であつた。実時の画像はこの裔孫三人のものと共に、今金沢文庫に出陳されてゐる。

註・一 「吾妻鏡」天福二年〔1234〕六月の条に
『卅日、陸奥五郎〔実泰〕依病痾 辞小侍所別当 而此事、為重職、子息太郎実時、年少之間、難譲補之由、雖有其沙汰、武州〔泰時〕雖重役、雖年少可加扶持之由、依令申請給所被仰付也云々

註・二「吾妻鎮」嘉禎四年(暦仁元年)〔1238〕二月の条に、
『七日癸未、霽、著御橋本駅 先之人人点定家家間、陸奥太郎実時主宿于舞沢松原 及戌尅 京兆〔泰時〕令聞彼野宿事給、被仰曰、実時者小侍所別当、重職異他、尤可候于御所辺之仁也、而依無其所 止宿駅路上者、予暖座於里家之条、有其恐云々、仍令到于陸奥太郎野宿之間、宮内少輔泰氏〔足利〕、駿河前司義村〔三浦〕以下人人、多以辞申旅宿参件松原還為諸人之煩早可令入本所之由、各申之、又遠山大和守辞旅店(御所近)請陸奥太郎之間、京兆憚人人礼令帰本宿給、太郎主施面目 宿于和州本所云々

註・三 「伝法灌頂雑要抄」大悲心院法印権大僧都能禅の付法の条に、
『弁誉大輔阿闍梨花山院中蓮坊息
正嘉二年〔1258〕成午四月二十三日辟─月─於武蔵国倉城郡六連庄内金沢村点越後守平実時堂廊伝之』

註・四 「吾妻鏡」建長六年〔1254〕三月の条に、
『一六日、己丑、掃部助実時之母儀卒去云々

註・五 「関東往還記」弘長二年〔1262〕二月廿七日の条に、
『又去鎌倉不幾有一寺号称名寺、年来雖置不断念仏衆已令停上畢、(以下略)』

註・六 「吾妻鏡」建長六年〔1254〕閏五月の条に、
『一日、壬寅、相州〔時頼〕随身下若等 参御所給、将軍家出御広御所、御酒宴及数献 近習人人、被召出之 各乗酔、于時、相州被申云、近年武芸廃而自他門共、好非職才芸、触事已吾家之礼訖、可謂此興逐者弓馬芸者追可有試会、先於当座被召決相撲勝負、就勝負可有感否御沙汰之由云々、将軍家珠有御入興、爰或逐電、或令固辞為陸奥掃部助〔実時〕奉行於遁避之輩者、永不可被召仕之旨、再三依呈仰含十余輩、憖及手合不撤衣裳 長田兵衛太郎被召出候砌、判申勝負是非依為譜代相撲也、(以下略)』

註・七 「関東評定伝」建治二年〔1276〕の条に、
『建長七年〔1255〕十二月十三日任越後守 同日叙爵』

註・八「吾妻鏡」正元二年〔1260〕二月の条に、
『廿日、戊午、廂御所結番、更被書改行方書之、定廂御所結番事
一番(自一日至五日)
一条中将、越後守(以下略)』

註・九「関東評定伝」文永元年〔1264〕の条に、
『越後守平実時三番引付頭六月十六日二番頭十月廿五日為越訴奉行

註・一〇 「吾妻鏡」弘長三年〔1263〕九月の条に、
『廿六日、癸卯、晴、入道陸奥五郎実泰(法名浄仙)卒(年五十六)』

註・一一 「大日本武州六浦庄称名寺鐘銘」に、
『(銘文略)文永己巳仲冬七日、奉為先考先妣、結縁人等、同成正覚鋳之、大檀那越後守平朝臣実時』

註・一二 「吾妻鏡」仁治二年〔1241〕十一月の条に、
『廿五日、戊申、今夕前武州〔泰時〕御亭有御酒宴 北条親衛〔経時〕、陸奥掃部助〔実時〕、若狭前司〔三浦泰村〕、佐渡前司〔後藤基綱〕等著座、信濃民部大夫入道、太田民部大夫等、文士数輩同参候、此間及御雑談 多是理世事也、亭主被諫親衛曰、好文為事、可扶武家政道且可被相談陸奥掃部助凡両人相互、可被成魚水思之由云々、仍各着理、今夜御会合、以此事為詮云々

註・一三「吾妻鏡」寛元四年〔1246〕五月の条に、
『廿六日、癸未、天晴、於左親衛〔時頼〕御方内内有御沙汰事、右馬権頭〔政村〕、陸奥掃部助〔実時〕秋田城介〔安達義景〕等為其衆云々』
  同六月の条に
『十日、丁酉、於親衛〔時頼〕御亭又有深秘沙汰 亭主右馬権頭〔政村〕、陸奥掃部助〔実時〕、秋田城介〔安達義景〕等寄合、今度被加若狭前司〔三浦泰村〕 内内無御隔心之上、可被仰意見之故也、此外、諏訪入道、尾藤太平三郎左衛門尉参候、』
  同文永三年〔1266〕六月の条に、
『廿日、辛巳、天晴、於相州〔時宗〕御亭 有深秘御沙汰 相州、左京兆〔政村〕、越後守実時、秋田城介泰盛〔安達〕会合、此外人人不及参加云々

註・一四 「吾妻鏡」仁治二年〔1241〕十一月の条に、
『四日、丁亥、天晴、今朝将軍為武蔵野開発御方違、渡于秋田城介義景武蔵国鶴見別庄 御布衣、御輿、御力者三手供奉、著水干 宿老帯野箭 若輩為征矢 面面刷行粧 頗以壮観也。前武州〔泰時〕参給、申剋著御、即有笠懸 可決勝負 就其雌雄於鎌倉可定諸課之由、被仰下之間、各想箭員云々、
射手
(上略)陸奥掃部助(以下略)』
  同寛元五年〔1247〕二月の条に、
『廿日、甲子、於左親衛〔時頼〕御第将軍家御濱出之間、犬追物射手以下人数事、有其沙汰掃部助実時奉行之、○廿三日、丁未、今日、将軍家御濱出始也、左親衛令参給、被構御座敷等云々
犬追者射手
(前略)
下手
陸奥掃部助(以下略)』
  同宝治元年〔1247〕十二月の条に、
『十日、己丑、将軍家出御馬場殿 覧遠笠懸、相州〔重時〕、左親衛〔時頼〕令参候給
射手
陸奥掃部助(以下略)』

註・一五「関東評定伝」建治元年〔1275〕の条に、
『評定衆、越後守平実時、一番引付頭、五月隠居六浦、依所労也』

註・一六「関東評定伝」建治二年〔1276〕の条に、
『評定衆、越後守平実時、(中略)建治二年十月廿三日於六浦別業卒、年五十三、』


 第四 学問

 実時は清原頼業〔1122〜89.68歳〕の孫にあたる清原教隆〔1199〜1265.67歳〕(註・一)について所謂清家の儒学を学んだものであるが、その奥書の形式は二期に分けて考へることが出来る。第一期は実時が初めて教隆から訓説を受けた宝治元年〔1247〕から、教隆卒去の文永二年〔1265〕まで、第二期は文永三年〔1266〕から実時卒去の建治二年〔1276〕までゞある。何故に教隆卒去の文永二年を中心として前後二期に区分したかといふと、第一期が即ち専ら実時は教隆から訓説を受けてゐたが、この間の写本の跋文は、概ね教隆自身が記したもので、実時自身の署名にかゝるものは、ある特殊の場合を除いては全くない。多分これは実時が敬師の精神から自分の署名を遠慮したものらしい。この点に関して、既に近藤正斎も指摘してゐる所であるが、これは実時の奥書を(註・二)年代順に列記して見ると、直ぐと点頭することが出来る。教隆は実時よリも早く文永二年〔1265〕に京都で六十七年で卒去してゐるが、文永二年での実時自身の跋文を見ると、「源氏物語」の正嘉二年〔1258〕の跋、「群書治要」第四十六巻の跋、「令義解」第一巻の跋があるが、源氏は教隆の伝授を受けたものではないからこれは除くこととして、後の二者について考へて見ると、「群書治要」第四十六巻のものは、その年月を闕いてゐる。然しその文意から推すと、文応十二年〔ママ〕のものと思はれるから、文永二年以前のものであるが、恐らくこれは文永二年後に追書したものらしい。又「令義解」第一巻のものも文永二年以前のものであるが、これには単に『重談合了』とあるだけで、教隆に関する文字がないから、教隆とは無関係のものであらう。その他沢山の跋文の中には、実時筆と思はれるものは可なりの数に上つてゐるが、以上三例の外には文永二年以前の年号で実時の署名のあるものは一切ない。

 第二期は文永三年〔1266〕を最初のもとして、毎巻総べて越州刺史と自署して、花押までを書入れてある時期である。

 次に注意すべきことは、実時自署の方法で、実時は書写本に於ては、総べて『越州刺史』又は『越州刺史平』と記して、その花押を載せてゐる。言ふまでもなく之は越後守の官名を唐様に記したものであるが、従来往々これが何人の署名であるかゞ不明のまゝで葬られてゐたものが多数あり、又他人に擬せられてゐる場合も多かつた。然し実時越後守在官中は他に越後守の官名を持つてゐるものが無いから、この間の越州刺史は総べて実時を指したものである。「吾妻鏡」では多くの場合『越州』とのみ載せてゐる。

 然らば実時は何時頃から教隆の訓説を受けてゐたかといふことであるが、私の親しく調査した結果では、宝治元年〔1247〕に「古文孝経」の訓読を受けたのが初見であるが、実時が教隆と関係を持つ様になつたのは、更に年月を溯ることになるから、宝治元年以前にも訓説を受けたものがあるのかも知れないが、それを証する文献は残つてゐない。

 実時と教隆との関係については、従来の説によると、建長四年〔1252〕四月に教隆は宗尊親王〔1242〜74.33歳〕(註・三)に扈従して下向してからといふものがあるが、「吾妻鏡」について調べて見ただけでも、寛元二年〔1244〕以来七ケ所(註・四)に載せられてゐる。そして更に故内藤湖南博士〔1866〜1934.69歳〕旧蔵「古文孝経」によると、その奥にある教隆自筆の跋文(註・五)によつて、教隆は既に仁治二年〔1241〕には鎌倉幕府に関係してゐたことが察せられる。前項人物の項(註・一二)に載せたのによると、実時はこの年十二月には既に武家の政道に役立つ学問をしてゐたことが察せられるから、その頃から既に教隆について訓説をうけてゐたことが推定される。要するに実時は二十四年間以上に亙つて教隆〔1199〜1265.67歳〕に師事してゐたことが察せられるのである。

 然らば実時はどんな書物について学習をしてゐたかといふことを、その跋文のあるものから察すると、孝経・春秋・群書治要・律令・類聚三代格・斉民要術・尉繚子、司馬法・本朝文粋・源氏物語を挙げることが出来る。少くともその範囲は政治・法制・農政・軍事・文学の広範囲に亙つてゐることを知ることが出来る。

 そして又その勉強振りについては驚歎に値する事実がある。「令義解」第五の跋文によると、文応元年〔1260〕八月十六日の鶴岡八幡宮の放生会第二日のことであつたが、余興見物の桟敷の上でも見物を第二として、教隆から「令義解」の訓説を受けてゐたといふことである。又その根気のよかつたことについては、「群書治要」の如き長尺のものを二度も書写してゐることから察せられる。又実時は建治二年〔1276〕十月に死歿してゐるが、「群書治要」第十五巻の再度の書写は、この年八月廿五日に行はれたものであるから、実に死前ニケ月まで筆を擱かなかつたことが知られる。これが一面引付衆として、又許定衆として、更に又武将として、幕府の要職に勤務してゐたものの余暇の仕事であることを思ふとき、如何に偉大な人物であつたかを考ヘずには居られない。

註・一 清原氏略系(略)

註・二 実時関係の跋語を年代順に挙ぐ
「古文孝経」
『寛元五年三月九日以清家累葉秘説奉授洒掃少尹閤畢 前参河守清原教隆(花押)』
(以下、約7頁に亘って書名等が列挙されているが、略)

註・三 「右文故事」附録巻一金沢文庫の条に、
『建長四年〔1252〕四月一日宗尊親王下向、ソノ卅日実時清原教隆ト共ニ引付衆ニ列ス、意フニ教隆此時親王ニ扈従シテ鎌倉ニ淹留セシニヨリ、実時モト学ヲ好ムト雖モ、今マタ良師友ヲ同僚ニ得テ特ニ瑳琢ノ功アリシナルヘシ、」

註・四 「吾妻鏡」
(一)『寛元二年〔1244〕六月廿六日、若宮御前御不例之間、為三河前司教隆奉行、被行御祈祷等』
(二)『寛元三年〔1245〕四月廿一日左馬頭入道正義(中略)献猿於御所、彼猿舞踏如人倫(中略)教隆云是匪直也事歟、』
(三)『寛元三年八月一日、依為鶴岡八幡宮神事(中略)参河守教隆及算勘云々、』
(四)『寛元四年〔1246〕四月五日、連々天変出現事、被召陰陽勘文、三河前司教隆奉行云々、』
(五)『建長二年〔1250〕二月廿六日、将軍家〔頼嗣〕可有文武御稽古之由、相州〔時頼〕以消息状令諫申之給、為和漢御学問則縫殿頭、参河前司(下略)、』
(六)『建長二年五月廿日将軍家〔頼嗣〕有帝範御談義云々、相州〔時頼〕令参給、教隆真人候之云々、』
(七)『建長四年〔1252〕二月廿八日、自腰越海上至和賀江津、而池之水如血、広三丈許、及晩消滅畢、三河前司教隆進勘文云々、』

註・五「古文孝経」旧鈔(故内藤湖南博士蔵)
清原教隆自筆跋文に、
『仁治二年〔1241〕九月十日雨中燭本校点功畢(中略)于時柳営拝趨之節、雖無余力、杏壇鑽仰之功、猶労寸腸耽道之志、孔父捨諸、正五位行参河守清原真人』


 第五 妻

 実時妻も、父実泰妻と同様、前後二人あつた。それは「関東往還記」に、『越州室相州女顕時母』『越州旧妻実村篤時等母』の両人が、別に叡尊〔1201〜90.90歳〕の教化を受けた記事が載せてあるのから知ることが出来る。然し父は前妻に先立たれてから、後妻を迎へたのに対し、実時の場合は、何かの事情で前妻と離縁して後妻を迎へたのが相違してゐる。そしてその後妻に迎へたのが相州女とあるから、父実泰〔1208〜63.56歳〕の兄で、当時執権職であつた相模守北条政村〔1205〜73.69歳〕の女であつたことは、政村系図の長女の下に、『越後守実時妻』と記してあることからも明白である。そして孫貞顕〔1278〜1333.56歳〕は延慶二年〔1309〕十二月十八日に、祖母(註・一)のために第三回忌の仏事を行つたことが、「金沢文庫古文書」から発見されてゐるから、多分この後妻は徳治元年〔1306〕十二月頃に卒去したのであらう。実時〔1224〜76.53歳〕卒後尚三十年ばかり存命してゐたことが察せられる。その享年を正しく知ることは出来ないが、実時に嫁いで顕時〔1248〜1301.54歳〕を生んだ時を仮に十四五歳とすると、七十四五歳の長寿を保つた訳である。

 次にその前妻について考ふると、俗名千代野法名如大が浮んで来る。如大尼について今日迄に尤も詳しく述べたものに、「延宝伝燈録」(註・二)がある。それによると、初名千代野、陸奥守平泰盛城氏の女で、越後守平某金沢氏に嫁し、所天を喪ひたる後に、祖元〔1226〜86.61歳〕について祝髪、祖元の入寂後その骨髪を受け、これを正脈庵に安置して、師の遺風を守り、永仁六年〔1298〕七十六歳で世を去つたと記してある。そしてこの記載では千代野が越後守某金沢氏に嫁したとのみで誰に嫁したか不明であるが、一般にはこれを越後守北条顕時〔1248〜1301.54歳〕に充てゝゐる。然しこれを顕時とすると、既に近藤正斎(註・三)が指摘してゐる様に年齢の上から矛盾がある。則ち千代野が七十六歳で永仁六年〔1298〕に入寂したといふことになると、その誕生は貞応二年〔1223〕である。所で泰盛〔1231〜85.55歳〕の生年はそれより六年後、宝治二年〔寛喜三年の誤り〕であるから、父を泰盛とすることも出来なければ、又顕時を所天とする筈もない。千代野の歿年及び年齢に誤がないとしその所天が越後守某金沢氏だとすると、その父を泰盛の祖父景盛〔?〜1248〕とし、その所天を顕時の父である実時〔1224〜76.53歳〕に擬するより外はない。都合のよいことには実時の妻は二人あつて、その一人則前妻の方が不明であるから、その前妻がそれであつたのではあるまいかといふことになる。又何故にその父を一足飛びに泰盛の祖父としたかといふと、父を義景〔1210〜53.44歳〕とすると、義景は承元四年〔1210〕の誕生であるから、父が十四歳の時の誕生となつて、甚だ不自然のことになるので、更に溯つて祖父景盛を充てることにして見た。景盛の生年月は不明であるが、宝治二年〔1248〕五月十八日に高野山で歿してゐるから、その子であるとする方が穏当であると考へられる。若し千代野が景盛の子であるとすると、かの有名な松下禅尼が又景盛の子であるから、自然彼女等は姉妹といふことになる訳である。又実時は元仁元年〔1224〕の誕生であるから、所天よりも一歳年上であるといふことになるが、これ位の差は普通の例で不審とするほどのことではない。

 蓋し千代野が如大尼であるといふことは、「延宝伝燈録」を初とし江戸朝の文献には屡々見る所であるが、室町依然のものからは私はまだ見て居ないので、以上の如くこれを実時の前妻に充てゝは見たものの、この「伝燈録」が何処まで真を伝へてゐるものかヾ確められない限りは、私の仮定説は頗る不安定のものである。但し鎌倉期に於て祖元〔1226〜86.61歳〕に師事した如大と称する尼僧のゐたことだけは、建長寺住持永興(註・四)と、建仁寺住持妙在(註・五)の撰文から疑ふ余地はないのであるが、この文からはそれが安達氏の女であるといふことさへも知ることは出来ないので、唯一仮説として紹介しておくまでゞある。

 終リに正斎は、実時後家は所天を喪つた後出家して慈性と号し、頗る長生であつたことを記してゐる。私も初めはこれを信じて「金沢文庫古文書」刊行の砌は、慈性の書状を総べて実時後室の書状としたが、近く新に得た資料から、それが実時の後家ではなく、顕時の後家であらうといふことが想像されることになつたので、慈性を実時後室としたことは訂正したいと思ふ。詳細は顕時の項に譲ることとする。

註・一「為祖母」(表白)
『延慶二年〔1309〕十二月十八日第三廻仏事』
『伏惟過去祖母禅定比丘尼者、生累葉繁之家、恣寿城福庭之栄、逐使人世之不常、欣仏乗之妙果、落飾成※蒭尼、染衣趣菩提道(中略)因茲新起立塔婆奉納遺骨、剰建立仏閣安置本尊、飾秘密瑜伽之壇場、整供養讃嘆之軌儀云々
※くさかんむりに「必」

註・二「延宝伝燈録」
『京兆景愛尼無外如大禅師、別号無著、初名千代野、陸奥太守平泰盛城氏之女、既笄配越後守平某金沢氏失所天後、帰心祖※、拝請仏光、祝髪納戒、上京師謁諸知識、構資寿精舎、専一座究做工、一日触縁忽然大悟、詠和歌曰千代野不加位多々久於計之会古奴計天美太末良禰者月毛也登羅寸、謁光呈所悟、光挙黄龍三関徴問答三転語光付法衣并自賛頂相、有末後一句分付無著之句、上杉氏二階堂氏等、建景愛寺於京、請為第一代師及開堂、堅払拈鎚、応接来機、無異大方叢林凡有所問答、曰日面仏月面仏、時号日面和尚、諸官奏朝、陞寺位於京兆庄五山之甲、光臨遷化与手書曰汝受我衣法道風大行、老懐懽喜、骨髪少許、分留与汝、汝為安奉、別置一禅刹、代吾分化、須当竭力、不得達吾之志師相攸城北、置正脈庵、為仏光之塔頭 永仁六年中冬二十八日化、寿七十六』
※門がまえの中に「韋」

註・三 「右文故事」附録巻之三
『守重曰、伝燈録ニ失所天後帰心祖※ト云ヒ、永仁六年〔1298〕化トアレトモ、予按ニ顕時ハ正安三年〔1301〕卒ス、永仁六年ハ正安三年ヨリ三年前ナリ 顕時ノ率セサル前ニ此尼遷化シタレハ失所天ノ語誤レリ、永仁六年化寿七十〔ママ〕ト云ヘハ年紀ヲ推スニ元仁元年〔1224〕ニ生レタリ、然トモ元仁元年ハ顕時カ父実時カ生レシ年ナリ、父ト同年ニ生レシモノ子ノ婦タルヘキ謂レナシ 誤ト謂フヘシ」

註・四 「万年山真如弾寺開山仏光無学禅師正脈院碑銘、」
『巨福山建長禅寺住持四明姪孫比丘永興撰
東山建仁禅寺住持嗣孫比丘妙在書并篆
蓋弘安八年〔1285〕有山城景愛寺尼如大号無外云尼如大遵師遺訓建一禅刹曰正脈庵奉 御爪髪以蔵于塔(中略) 文安五年〔1448秋八月初吉当代守塔比丘妙※重立之』
※日へんに「斤」

註・五 「天龍開山夢窓正覚心宗普済国師年譜」
臨川禅寺住持小師妙葩編康永元年〔1342壬午の条に、
『正脈庵者、尼如大為仏光所建也、仏光与如大長老手書并手染牌額等、諸大字収在本庵、其書略曰、汝受吾衣法、道風大行、老懐懽喜、骨髪少許、分留与汝、汝為安奉別置一小禅刹、代吾分化、須当竭力、不得違吾之志、(後略)』
(備考)春屋妙葩(一三一一−一三八八)は夢窓国師〔1275〜1351.77歳の甥で、臨川寺第十代に入りたるは建武以後である。嘉慶二年八月十二日七十八で入寂


(参考) 北條実時に関する伝説
 金沢文庫付近の某家所蔵に係る写本に「鰻(うなぎ)の井の縁起」と題する書がある。 これは原本がもと、横浜市南区笹下町の三河楼にあつたもので、興味あるものであるから、要点を転載する。
『(前略)往古人皇八十九代亀山院の御宇、文永年中執権北條越後守平朝臣実時、金沢の郷に住居(中略)爰に実時此地に居城の砌り、不斗病悩に犯され日を追ふて快気のけんなく、増々病増長しけるゆヘ、一家臣属挙り集りて良医良薬を尽すといへども更に其験し無く、依て実時日頃信する紀伊国那智山の如意輪観音を祈念すべしと、一門集り一七日之間祈念丹誠をこらしけるに、不思議なる哉、七日の夜満る明方に異相の人忽然と顕れ実時の枕神に立給ひ告ていはく、汝我をしらずや、日来信ずる所の那智山の如意輸観音也。汝等一門の信ずる所我も納受しぬれ共、此度の病悩汝の命数故、中々良医の力に及難し。され共汝日来の一念我も歓喜にあまれり。是に依りて汝に一日の妙薬を与うべし。是地より西北の間に当り、行程二里余る里に腐れ井あり。此中の水を汲来りて服用すれば汝が病ひ立所に快気あるべし。扨又井の内に二疋のうなぎあり、かしらに斑紋あり、是ぞ汝の命を救ふ霊物也。早くも取寄せ服すべしとありて、霊神は其儘失給ふ。実時はむつくと起あがり、かゝる奇瑞もある物か、是偏に大悲の御利益なりとて近習を召し(中略)里老と彼二人、井の傍に至りてみれば井の四方には野草葱々として生茂り、人跡たへたるさまにて誰有て此水を汲ものなき様子に侍れども、君の命ゆへかの水を汲んとすれば不思議や二疋のうなぎ浮出し、嬉しげに水を呑けるゆへ、二人の者は何意なく此水を汲取り、里老に一礼を述て館へこそは帰りける。早速右之様子言上し、彼水を天目に一盃君に進むれば、不思議や今迄良医良薬数を尽すといへども験なき実時が病ひ一日一夜に全快あるぞ恐しき。感ずるに猶あまりあり。実時早速紀伊国那智山に代参を立られ、又全快の後実時自ら此井に尋ね来り様子を見給ふに、以前のうなぎ井中におよぎけり。実時奇瑞の思ひをなし、是よりして此井を鰻の井と名付られ、井垣杯しつらひたりとなん。(中略)夫よりして諸国へ鰻の井の名流布し、諸人群集して此水を汲病悩を退けると也。其後、北條実時没後に至り、不思議成哉此井の鰻いつとなく二疋共失せて、里人といへ共かつて行方もしらずと也(後略、)』


☆関靖氏は実時の「前妻について考ふると、俗名千代野法名如大が浮んで来る」とされているが、これは無外如大についての伝記の混乱が反映したもので、現在の研究水準では維持され得ない見解である。無外如大については山家浩樹氏の「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』)と「無外如大の創建寺院」に詳しい。





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