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※関靖氏の略歴は後日記載します。
第三節 北条実時 第一 誕生・元服 実時の生年月日については、「吾妻鏡」にもその記載を闕いてゐるが、その年齢から逆算すると、元仁元年(一二二四)に生れたことが推知出来る。元仁の年号は、貞応三年十一月二十日に改元されてゐるから、或は貞応三年に生れたといふ方が正しいかもしれない。 実時の元服は「吾妻鏡」天福元年〔1233〕十二日〔月〕の条に、
とあるので、はつきりと知ることが出来る。陸奥五郎は義時〔1163〜1224.62歳〕の五男実泰〔1208〜63.56歳〕、武州とあるは時の執権武蔵守泰時〔1183〜1242.60歳〕、駿河前司は三浦義村〔?〜1239〕、亭主は泰時を指したものである。この元服式は一事以上亭主の御経営とあることから、万事泰時の指揮によつたもので、烏帽子親も亦泰時であつた。 唯不思議に考へられることは、この二十九日といふ日は大晦日で、一夜明ければお正月といふ前日である。何故にかくもおしつまつた日に、人生の門出を祝ふ儀式の日を選んだかといふことである。特にこの文に、『是れ兼日の構にあらず、存ずる所あつて、俄にこの儀を行ふの由仰せらる』と記してゐる所からも、何かそこにその元服を急がねばならない原因があつたに相違ない。私が推察する所では、父実泰は前にも記した通り、平素から余り強健な素質ではなかつたから、その頃病床にあつて、急に重態になつたので、その生前に嗣子の元服を行つておく必要を生じたためではなからうかと思ふ。又翌日からは年も改まるので、実時を一人前とさせて新しい年を迎へさせてやらうといふ親心からでもあつたらうと思はれる。 第二 時代 頼朝〔1147〜99.53歳〕が幕府を開いてから北条氏滅亡まで約百五十年、この間を鎌倉期と呼んでゐるが、この期間中北条氏が一番繁栄したのは、泰時〔1183〜1242.60歳〕・経時〔1224〜46.23歳〕・時頼〔1227〜63.37歳〕・長時〔1230〜64.35歳〕・政村〔1205〜73.69歳〕・時宗〔1251〜84.34歳〕が順次執権に坐つてゐた間で、その間凡そ六十年、泰時以前が約四十年、時宗逝去後が約五十年で、合せて約百五十年になるが、その約六十年は鎌倉幕府として最も繁栄した時と考へることが出来る。そして実時は泰時が執権となつた元仁元年(一二二四)に生れて、時宗執権時代の建治二年(一二七六)に世を去つてゐるから、丁度北条氏の一番繁栄した時代に活躍した人物となるので、別の意味から考へると、最も恵まれた時代に生存してゐたことになるのである。 然らばその頃の支那はどんな時代かといふと、所謂南宋時代で、実時の生れた時が、寧宗の嘉定十七年で、死んだ時が端宗の景炎元年であるが、南宋は都を臨安に建て、以来、絶えず金や蒙古からおびやかされて、常に内外多事であつたばかりか、実時歿年の三月には蒙古軍のために帝都臨安を奪はれ、張世傑等は端宗帝を奉じて、一旦広東の潮州に走り、翌年再び秀山に逃げたが、その翌年即景炎三年四月に端宗帝が※したので、その弟の衛王を立て、年号を祥興と改め、六月には更に遷つて◆山の険に拠つたが、又も敵将張弘範等の襲ふ所となつて、遂に皇帝以下身を海に投じて、我国平家没落と同じ悲惨の最期を遂げ、南宋は九主百五十二年で滅亡することとなつた。これが丁度実時死後三年目の年〔1279〕に当るから、実時は南宋時代を三分した後の五十年に生きてゐたことにもなる。 ※偏が「歹」、旁が「且」 ◆「崖」から「山」を除いた字 南宋といふ時代は、前にも述べた通り、絶えず隣国から苦しめられてゐたが、その国の文化の程度は、各般に亙つて頗る発達してゐたので、国歩多端の折柄であるにも拘らず、我国との間には常に唐船の往来があり、その都度種々の貨物が取引されてゐるばかりか、両国の僧侶も往復して、自然我国へ諸般の工芸学術の資料が輸入されてゐたことも事実である。今北条氏繁栄時代に於ける日宋僧侶の往復だけを拾つて見ると次の通りである。
実時が沢山の宋槧を蒐集し得たり、蔵経を手に入れることが出来たり、宋窯の花瓶や香爐を取寄せることが出来たのも、皆これらの唐船に託したのである。そしてそれ等の唐船は直接実時の領内に寄航したものであると伝へられてゐる。まだそれを確認することの出来る史料を発見し得ないが、この地方には昔時の渡津地として伝へられてゐる附近に三艘と称する地名がある。そして此処が唐船寄航の場所であると呼ばれてゐる。由来この六浦津は海水が袋形に湾入してゐる所で、殆んど風波の難のない所から、寛喜二年〔1230〕三月に将軍頼経〔1218〜56.39歳〕が三崎磯山の桜見物を志した時も、特にこの津から船出したことが「吾妻鏡」(註・一)に記されてゐる位であるから、唐船来航の時も、風波の関係から、屡々、この地が選ばれたであらうことは想像し得らるゝことである。仁治年間に泰時〔1183〜1242.60歳〕がこの地点と鎌倉との間にある岩山を開鑿し、その完成を急いで、自身の乗馬にその土石を運ばせたのも、要するにこの渡津を利用したり、当地に陸揚させた貨物や、製鹽を運搬させるための便宜を図つたものではあるまいか。泰時はこの時から八年ばかり前に、鎌倉材木座の東南に飯島の突堤を築かせて、風波の難を救ふことを謀つたが、その後も依然その難を蒙るものが続出したので、この六浦津に着眼して、この海岸を利用することになつたのが、この六浦道開鑿を急 がせた主要原因であつたのであらう。実時が沢山に宋からの貨物を、直接容易に入手することの出来たのも、この結果であらう。今現に称名寺に伝存してゐる西湖梅は西湖孤山に棲んだ林和靖遺愛の原種で、曾て太田道灌〔1432〜86.55歳〕はこれを江戸城内に分植して賞観してゐたことは、万里〔1428〜?〕の「梅花無尽蔵」(註・二)に載せてある。
三 人物 実時の官歴は天福二年〔1234〕十一歳の時に、父実泰〔1208〜63.56歳〕から小侍所別当(註・一)の重職を譲り受けた時から始まる。暦仁元年〔1238〕二月僅か十五歳で、将軍頼経〔1218〜56.39歳〕に扈従して上洛の途次、東海道橋本駅で高名(註・二)を博し、掃部助並宣陽院〔1181〜1252.72歳〕蔵人を拝して下向、仁治二年〔1241〕十二月小侍所々員は手跡・弓馬・蹴鞠・管絃郢曲その他一芸に秀でて、常に将軍の御用に立つベき旨を奉行、建長二年〔1250〕十二月には、将軍近習番六番に加へられ、翌三年〔1251〕十二月小侍所別当の労によつて、下総国埴生庄を賜はり、翌四年〔1252〕四月三十日引付衆に、更にその翌五年〔1253〕二月に評定衆に挙げられた。実時が自領六浦庄内に金沢の勝地を選んで、そこに別業を設けた時期は、正確に指示することは出来ないが、「伝法灌頂雑要抄」(註・三)によると、正嘉二年〔1258〕には既に金沢に邸宅が設けられてゐたことが知られる。正嘉二年は建長五年から五年目の三十五歳の時であるから、それ以前に設けたものであらう。金沢といふ土地が風光明媚で気持のよい幽静な所であるから、或は病弱の父を養ふために特にこの僻遠の地を別業の地と定めたものであるかも知れない。生母(註・四)を喪つたのが建長六年〔1254〕三月である。実時はその後この別業内に称名寺と称する念仏寺(註・五)を創建してゐるが、多分亡母の七回忌に当る文応元年〔1260〕にその普提を弔うために建てたものと察せられる。建長六年〔1254〕閏五月には相撲奉行(註・六)となつて、将軍の御前に於て若侍達の志気を鼓舞し、更に弓馬芸奉行となつて武芸の奨励をしてゐる。翌七年〔1255〕十二月廿三日越後守任官、(註・七)従五位下に叙せられ、正元二年〔1260〕二月廂御所結番一番(註・八)に加へられ、文永元年〔1264〕十二月越訴奉行となリ、(註・九)翌二年〔1265〕六月従五位上に叙せられた。父を喪つた(註・一〇)のは弘長三年〔1263〕九月廿六日彼が四十歳の時であつた。その七周忌に当る文永六年〔1269〕十月に梵鐘を鋳て(註・一一)称名寺に寄進して父母の冥福を祈つてゐる。 実時は幼少の頃から、叔父であり時の名執権と崇められた泰時〔1183〜1242.60歳〕から、その才能を認められ、僅か十一歳の時に父からの小侍所別当の譲附を認められ、十八歳の時には、執権侯補者たる経時〔1224〜46.23歳〕の師友に抜擢された(註・一二)ばかりか、常に幕府の秘議に参与(註・一三)せしめられて、而かも泰時・経時・時頼〔1227〜63.37歳〕・時宗〔1251〜84.34歳〕四代に亙つて重用されてゐたことは、如何にその人物が傑出してゐたかを証して余りありといふべきである。 実時は以上の如く幕政の上に重きをなしてゐたばかりでなく、武技の上にも卓越した腕を持つてゐたので、度々騎射の選に預り、(註・一四)武人としての名誉を得てゐたことは「吾妻鏡」の記載から知ることが出来る。かくて昼夜公務に多忙の身でありながら、常に又意を文学の上に置き、或は宋舶に託して宋典を取寄せ、或は京方面から秘籍を借用して、自ら書写校合するなど、よくもかくまで勉強することが出来たと驚嘆せしむるほどの努力家であつた。文武兼備といふ言葉は、実に実時のために出来たものでないかと思はれるほどである。 実時は建治元年〔1275〕九月に病気の故を以て金沢の別業に籠居(註・一五)し、専ら書写校正に従事してゐたが、翌二年〔1276〕十月廿三日に、この別業内で卒去(註・一六)した、時に享年五十三であつた。実時の画像はこの裔孫三人のものと共に、今金沢文庫に出陳されてゐる。
第四 学問 実時は清原頼業〔1122〜89.68歳〕の孫にあたる清原教隆〔1199〜1265.67歳〕(註・一)について所謂清家の儒学を学んだものであるが、その奥書の形式は二期に分けて考へることが出来る。第一期は実時が初めて教隆から訓説を受けた宝治元年〔1247〕から、教隆卒去の文永二年〔1265〕まで、第二期は文永三年〔1266〕から実時卒去の建治二年〔1276〕までゞある。何故に教隆卒去の文永二年を中心として前後二期に区分したかといふと、第一期が即ち専ら実時は教隆から訓説を受けてゐたが、この間の写本の跋文は、概ね教隆自身が記したもので、実時自身の署名にかゝるものは、ある特殊の場合を除いては全くない。多分これは実時が敬師の精神から自分の署名を遠慮したものらしい。この点に関して、既に近藤正斎も指摘してゐる所であるが、これは実時の奥書を(註・二)年代順に列記して見ると、直ぐと点頭することが出来る。教隆は実時よリも早く文永二年〔1265〕に京都で六十七年で卒去してゐるが、文永二年での実時自身の跋文を見ると、「源氏物語」の正嘉二年〔1258〕の跋、「群書治要」第四十六巻の跋、「令義解」第一巻の跋があるが、源氏は教隆の伝授を受けたものではないからこれは除くこととして、後の二者について考へて見ると、「群書治要」第四十六巻のものは、その年月を闕いてゐる。然しその文意から推すと、文応十二年〔ママ〕のものと思はれるから、文永二年以前のものであるが、恐らくこれは文永二年後に追書したものらしい。又「令義解」第一巻のものも文永二年以前のものであるが、これには単に『重談合了』とあるだけで、教隆に関する文字がないから、教隆とは無関係のものであらう。その他沢山の跋文の中には、実時筆と思はれるものは可なりの数に上つてゐるが、以上三例の外には文永二年以前の年号で実時の署名のあるものは一切ない。 第二期は文永三年〔1266〕を最初のもとして、毎巻総べて越州刺史と自署して、花押までを書入れてある時期である。 次に注意すべきことは、実時自署の方法で、実時は書写本に於ては、総べて『越州刺史』又は『越州刺史平』と記して、その花押を載せてゐる。言ふまでもなく之は越後守の官名を唐様に記したものであるが、従来往々これが何人の署名であるかゞ不明のまゝで葬られてゐたものが多数あり、又他人に擬せられてゐる場合も多かつた。然し実時越後守在官中は他に越後守の官名を持つてゐるものが無いから、この間の越州刺史は総べて実時を指したものである。「吾妻鏡」では多くの場合『越州』とのみ載せてゐる。 然らば実時は何時頃から教隆の訓説を受けてゐたかといふことであるが、私の親しく調査した結果では、宝治元年〔1247〕に「古文孝経」の訓読を受けたのが初見であるが、実時が教隆と関係を持つ様になつたのは、更に年月を溯ることになるから、宝治元年以前にも訓説を受けたものがあるのかも知れないが、それを証する文献は残つてゐない。 実時と教隆との関係については、従来の説によると、建長四年〔1252〕四月に教隆は宗尊親王〔1242〜74.33歳〕(註・三)に扈従して下向してからといふものがあるが、「吾妻鏡」について調べて見ただけでも、寛元二年〔1244〕以来七ケ所(註・四)に載せられてゐる。そして更に故内藤湖南博士〔1866〜1934.69歳〕旧蔵「古文孝経」によると、その奥にある教隆自筆の跋文(註・五)によつて、教隆は既に仁治二年〔1241〕には鎌倉幕府に関係してゐたことが察せられる。前項人物の項(註・一二)に載せたのによると、実時はこの年十二月には既に武家の政道に役立つ学問をしてゐたことが察せられるから、その頃から既に教隆について訓説をうけてゐたことが推定される。要するに実時は二十四年間以上に亙つて教隆〔1199〜1265.67歳〕に師事してゐたことが察せられるのである。 然らば実時はどんな書物について学習をしてゐたかといふことを、その跋文のあるものから察すると、孝経・春秋・群書治要・律令・類聚三代格・斉民要術・尉繚子、司馬法・本朝文粋・源氏物語を挙げることが出来る。少くともその範囲は政治・法制・農政・軍事・文学の広範囲に亙つてゐることを知ることが出来る。 そして又その勉強振りについては驚歎に値する事実がある。「令義解」第五の跋文によると、文応元年〔1260〕八月十六日の鶴岡八幡宮の放生会第二日のことであつたが、余興見物の桟敷の上でも見物を第二として、教隆から「令義解」の訓説を受けてゐたといふことである。又その根気のよかつたことについては、「群書治要」の如き長尺のものを二度も書写してゐることから察せられる。又実時は建治二年〔1276〕十月に死歿してゐるが、「群書治要」第十五巻の再度の書写は、この年八月廿五日に行はれたものであるから、実に死前ニケ月まで筆を擱かなかつたことが知られる。これが一面引付衆として、又許定衆として、更に又武将として、幕府の要職に勤務してゐたものの余暇の仕事であることを思ふとき、如何に偉大な人物であつたかを考ヘずには居られない。
第五 妻 実時妻も、父実泰妻と同様、前後二人あつた。それは「関東往還記」に、『越州室相州女顕時母』『越州旧妻実村篤時等母』の両人が、別に叡尊〔1201〜90.90歳〕の教化を受けた記事が載せてあるのから知ることが出来る。然し父は前妻に先立たれてから、後妻を迎へたのに対し、実時の場合は、何かの事情で前妻と離縁して後妻を迎へたのが相違してゐる。そしてその後妻に迎へたのが相州女とあるから、父実泰〔1208〜63.56歳〕の兄で、当時執権職であつた相模守北条政村〔1205〜73.69歳〕の女であつたことは、政村系図の長女の下に、『越後守実時妻』と記してあることからも明白である。そして孫貞顕〔1278〜1333.56歳〕は延慶二年〔1309〕十二月十八日に、祖母(註・一)のために第三回忌の仏事を行つたことが、「金沢文庫古文書」から発見されてゐるから、多分この後妻は徳治元年〔1306〕十二月頃に卒去したのであらう。実時〔1224〜76.53歳〕卒後尚三十年ばかり存命してゐたことが察せられる。その享年を正しく知ることは出来ないが、実時に嫁いで顕時〔1248〜1301.54歳〕を生んだ時を仮に十四五歳とすると、七十四五歳の長寿を保つた訳である。 次にその前妻について考ふると、俗名千代野法名如大が浮んで来る。如大尼について今日迄に尤も詳しく述べたものに、「延宝伝燈録」(註・二)がある。それによると、初名千代野、陸奥守平泰盛城氏の女で、越後守平某金沢氏に嫁し、所天を喪ひたる後に、祖元〔1226〜86.61歳〕について祝髪、祖元の入寂後その骨髪を受け、これを正脈庵に安置して、師の遺風を守り、永仁六年〔1298〕七十六歳で世を去つたと記してある。そしてこの記載では千代野が越後守某金沢氏に嫁したとのみで誰に嫁したか不明であるが、一般にはこれを越後守北条顕時〔1248〜1301.54歳〕に充てゝゐる。然しこれを顕時とすると、既に近藤正斎(註・三)が指摘してゐる様に年齢の上から矛盾がある。則ち千代野が七十六歳で永仁六年〔1298〕に入寂したといふことになると、その誕生は貞応二年〔1223〕である。所で泰盛〔1231〜85.55歳〕の生年はそれより六年後、宝治二年〔寛喜三年の誤り〕であるから、父を泰盛とすることも出来なければ、又顕時を所天とする筈もない。千代野の歿年及び年齢に誤がないとしその所天が越後守某金沢氏だとすると、その父を泰盛の祖父景盛〔?〜1248〕とし、その所天を顕時の父である実時〔1224〜76.53歳〕に擬するより外はない。都合のよいことには実時の妻は二人あつて、その一人則前妻の方が不明であるから、その前妻がそれであつたのではあるまいかといふことになる。又何故にその父を一足飛びに泰盛の祖父としたかといふと、父を義景〔1210〜53.44歳〕とすると、義景は承元四年〔1210〕の誕生であるから、父が十四歳の時の誕生となつて、甚だ不自然のことになるので、更に溯つて祖父景盛を充てることにして見た。景盛の生年月は不明であるが、宝治二年〔1248〕五月十八日に高野山で歿してゐるから、その子であるとする方が穏当であると考へられる。若し千代野が景盛の子であるとすると、かの有名な松下禅尼が又景盛の子であるから、自然彼女等は姉妹といふことになる訳である。又実時は元仁元年〔1224〕の誕生であるから、所天よりも一歳年上であるといふことになるが、これ位の差は普通の例で不審とするほどのことではない。 蓋し千代野が如大尼であるといふことは、「延宝伝燈録」を初とし江戸朝の文献には屡々見る所であるが、室町依然のものからは私はまだ見て居ないので、以上の如くこれを実時の前妻に充てゝは見たものの、この「伝燈録」が何処まで真を伝へてゐるものかヾ確められない限りは、私の仮定説は頗る不安定のものである。但し鎌倉期に於て祖元〔1226〜86.61歳〕に師事した如大と称する尼僧のゐたことだけは、建長寺住持永興(註・四)と、建仁寺住持妙在(註・五)の撰文から疑ふ余地はないのであるが、この文からはそれが安達氏の女であるといふことさへも知ることは出来ないので、唯一仮説として紹介しておくまでゞある。 終リに正斎は、実時後家は所天を喪つた後出家して慈性と号し、頗る長生であつたことを記してゐる。私も初めはこれを信じて「金沢文庫古文書」刊行の砌は、慈性の書状を総べて実時後室の書状としたが、近く新に得た資料から、それが実時の後家ではなく、顕時の後家であらうといふことが想像されることになつたので、慈性を実時後室としたことは訂正したいと思ふ。詳細は顕時の項に譲ることとする。
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| ☆関靖氏は実時の「前妻について考ふると、俗名千代野法名如大が浮んで来る」とされているが、これは無外如大についての伝記の混乱が反映したもので、現在の研究水準では維持され得ない見解である。無外如大については山家浩樹氏の「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』)と「無外如大の創建寺院」に詳しい。 |