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第七代惟康親王
生誕と宗尊親王の将軍職廃位 惟康王(のち親王宣下)は文永元年(一二六四)四月二十九日、将軍宗尊親王〔1242〜74.33歳〕の第一王子として鎌倉で生まれた。母は前摂政関白近衛兼経〔1210〜59.60歳〕の娘宰子〔1241〜?〕であった。 これよりさき弘長三年(一二六三)十一月十六日に宰子の着帯の儀が行なわれているが、験者は大納言僧正良基、医師玄蕃頭丹波長世、御祓陰陽権助晴茂朝臣、宿曜師大夫法眼晴尊などであり、武藤景頼〔1204〜67.64歳〕が奉行している。宰子は公武の関係を密接にする意図により、宗尊親王との婚儀にさきだち、鎌倉に下向して、北条時頼〔1227〜63.37歳〕の猶子となった間柄であるが、着帯の儀が行なわれた六日後の十一月二十二日には時頼は三七歳で没しており、北条氏得宗専制政治の確立に大きな役割を果した時頼の死によって、多くの御家人が薙髪出家する者が多いため、出家を禁ずる御教書が出される動揺の中での生誕であった。 翌年、宰子は再び懐妊したので御産所の北条宗政〔時宗の同母弟.1253〜81.29歳〕邸に移っているが、惟康王も母と共に宗政邸に入り、九月二十一日に生まれた姫宮と共に十一月十七日に還御している。 文永三年(一二六六)正月二十五日には魚味の儀が行なわれ、執権北条政村〔1205〜73.69歳〕、連署北条時宗〔1251〜84.34歳〕以下が出仕しており、同二十九日、二月九日には北条政村邸を母妹と共に訪れており、政村は引出物として剣・馬を贈ったことが『吾妻鏡』に見える。 しかしこのような将軍家と北条氏との交流も、同年六月の宗尊親王の将軍職廃位によって断絶された。六月二十日の北条政村邸での秘密会議によって廃位が決定されると、二十三日に宰子と姫宮は山内殿に移され、惟康王は北条時宗邸に迎えられた。 宗尊親王は七月四日、鎌倉を出立して京都に向かったが、宗尊親王は乗った女房輿を惟康王が移されている時宗邸の方に向けてしばらく祈念されただけで、訣別のための対面も許されなかった。 将軍宣下 北条氏は後継将軍に惟康王を迎えることを決定し、七月二十四日に将軍宣下が行なわれ、従四位下に叙せられた。この時、惟康王はわずか三歳の幼少将軍であった。この時、将来執権となるべき時宗は一六歳であったので、時宗よりも年下である惟康王を将軍にするために、宗尊親王を追放したことは明らかである。したがって惟康王もまた北条氏の傀儡(かいらい)としての宿命を負って就任したわけである。 惟康王が五歳となった文永五年(一二六八)三月五日に予定通り、執権、連署の交替が行なわれ、北条時宗が執権に就任し、政村が連署となった。文永七年(一二七〇)二月三日、惟康王は七歳で元服した。同年十二月二十日には源姓を賜い、従三位、左近衛中将に補せられた。文永八年(一二七一)三月一日尾張権守、翌九年正月五日従二位に叙せられた。 蒙古襲来と霜月騒動 文永十一年(一二七四)八月一日に父宗尊親王が薨じ、同十月には蒙古の軍兵が対馬・壱岐・博多に来寇し撃退された。これ以後幕府は再度の蒙古襲来に備えて臨戦態勢に入ることになったが、将軍惟康王が特に蒙古襲来に備えて特別の活動を行 なったことを知るべき史料は見当らない。したがってこの非常時においても、もっぱら執権北条時宗を中心とする北条氏がその任に当ったものと考えられる。 その間、建治二年(一二七六)正月二十三日に讃岐権守、弘安二年(一二七九)正月五日の叙位で正二位に昇進している。 『鶴岡社務記録』によれば、将軍惟康王が弘安四年三月八日に鎌倉鶴岡八幡宮に参詣している記事が見えるが、再度の蒙古襲来の危機が増大していたにもかかわらず、特に異国降伏を祈念したとの記事も見えない。 同五月には再び蒙古・高麗の連合軍船が対馬・壱岐・博多に襲来したが、大暴風雨が襲い、ほとんどの軍船は沈没してしまった。 弘安七年(一二八四)四月四日には執権北条時宗が死に、七月七日に貞時〔1271〜1311.41歳〕が執権に就任した。翌八年十一月十七日に貞時は安達泰盛邸を襲撃し、泰盛〔1231〜1285.55歳〕およびその子宗景〔1259〜85.27歳〕をはじめ安達氏一族が滅亡した。この騒動によって鎌倉は兵火に焼かれ、将軍惟康王の邸宅も焼失した。 この安達氏の誅伐は、得宗専制強化によって台頭した得宗被官と安達氏を中心とする外様勢力との対立が原因であり、外様勢力の排除を目的として起こされたものであったので、全国に波及し、肥後国守護であった安達盛宗をはじめ多くの外様勢力が討たれた。この騒動は「霜月騒動」と呼ばれている。 滅亡した安達泰盛の妹は時宗の室であり、執権貞時の母でもあったのでこの騒動が鎌倉幕府内部に与えた影響は深刻であり、この安達氏の排除の成功によって、得宗専制は強化され、内管領平頼綱〔?〜1293〕の勢力が伸張することになった。この内紛の際も、将軍惟康王は全く傀儡として影響力を及ぼした形跡はない。 将軍更迭 弘安十年(一二八七)六月五日の小除目により、惟康王は権中納言兼右近衛大将に任じられた。そして同八月十六日には「霜月騒動」によって焼失したため新造された御所が完成し、ここに移っている。 同九月二十六日に関東より使者佐々木宗綱〔1248〜97.50歳〕が上洛し、関東申次の西園寺実兼〔1249〜1322.74歳〕を通じて、惟康王の右近衛大将を解任し、親王に立てられることを奏請した。これは異例のことであったが、奏請は容れられ、十月二日に親王宣下が行なわれ、二品親王となり、帯剣が許され、右近衛大将は解任された。 このような北条氏の朝廷に対する働きかけは、将軍更迭の時期が迫りつつあることを暗示するものであった。すなわち三歳で将軍に就任してから二四年、惟康親王も既に二六歳に達しており、これまでの将軍の例からしても、将軍更迭は時間の問題であった。 はたして北条氏は正応二年(一二八九)九月、惟康親王の更迭を決定した。 九月十四日、京都に送還のため鎌倉を出立するに当り、逆さまの網代車に乗せて送り出した。人びとはこの有様を見て、「親王は京都に流され給ふ」と称したといわれる。『増鏡』はこの惟康親王の送還について次のごとく述べている。 「鎌倉中さはがしきこといできて、みな人きもをつぶしさゞめくといふ程こそあれ、将軍都へながされ給ふとぞきこゆる。めづらしきことのはなりかし。ちかくつかうまつるおとこ女、いと心ぼそくおもひなげく、たとへば御位などのかはるけしきにことならず、さてのぼらせ給ふありさま、いとあやしげなるあじろの御こしを、さかさまによせてのせ奉るも、げにいとまがまがしきことのさまなり、うちまかせては、都へ御のぼりこそ、いとおもしろくもめでたかるべきわざなれど、かくあやしきはめづらかなり、母御息所も近衛大殿と聞えし御女なり、ちゝみこの将軍にておはしましゝ時の御息所なり、さきにきこえつる禅林寺殿の宮の御方もおなじ御腹なるべし、文永三年よりことしまで廿四年、将軍にて天下のかためといつかれ給へれば、日の本の兵をしたがへてぞおはしましつるに、けふはかれらにくつがへされて、かくいとあさましき御ありさまにのぼり給ふ。いといとをしうあはれなり、みちすがらもおぼしみだるゝにや、御たゝうがみのをとしげうもれきこゆるに、たけきものゝふも涙おとしけり」 その後の惟康親王 上洛後、惟康親王は嵯峨に隠栖し、十二月六日薙髪して出家した。『増鏡』は上洛後の惟康親王の動静について、 「前大将殿は、さがのほとりに御ぐしおろし、いとかすかにさびしくておわす」 と記述している。 惟康親王更迭の理由については全く記述されたものがない。惟康親王が成長し過ぎたことが理由であり、既定方針により、更迭のための何等かの理由付けが行なわれたものと思われるが、大したトラブルもなく、先例によって当然のこととして遂行されたらしい。 鎌倉八代将軍には後深草上皇の皇子で、当時一四歳であった久明親王〔1276〜1328.63歳〕が迎えられた。その後、惟康親王は正応六年(一二九三)二月二十日に山内第に入られたことが『醍醐寺日記』に見える。 そして永仁三年(一二九五)十二月二十七日に、将軍久明親王が惟康親王の王女を御息所として迎えている。このことによっても、執権北条氏が特に惟康親王に悪感情を有していなかったことがわかる。 王女は正安三年(一三〇一)五月十二日に、のちの鎌倉九代将軍に就任した守邦親王〔1301〜33.33歳〕を生んでいる。このほか惟康親王には四人の王子があったが、いずれも僧となっており、仁澄、聖恵はともに天台座主となっている。 晩年の惟康親王については全く知るべき史料がないところからすれば、俗世間から離れてしずかな日々を送ったものと思われる。嘉暦元年(一三二六)十月三十日、六三歳で没した。 |