更新11.11/23
| 司馬遼太郎氏の略歴 |
| 小説家。1923大阪生まれ。大阪外国語学校蒙古語科卒。1960年、「梟の城」により直木賞受賞。1981年、芸術院会員。1996年逝去。 主たる著書−「竜馬がゆく」「国盗り物語」「世に棲む日日」「坂の上の雲」「翔ぶが如く」「空海の風景」(芸術院恩賜賞受賞)など。 |
| 司馬遼太郎氏の見解 |
私の考え方 |
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| 日本には、古典文学が多い。その多くが、古いころから筆写されたり板行(はんこう)されたりして、ひとびとになじまれてきた。ところが、『とはずがたり』ばかりは、例外である。戦時中に発見され、戦後に研究された。いわば、古典の新顔である。いまでは、多くの研究者の注釈のおかげで、私ども素人でもなんとか読むことができる。以下、『新潮日本古典集成』のなかの『とはずがたり』(福田秀一氏校注)に多くを負っている。 |
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| 二条という女性が、作者である。かつ主人公でもある。彼女は、鎌倉後期にうまれ、前半生を京の宮廷ですごした。高位の公卿の娘である。恋が多かった。賢く、かつ性的魅力にも富み、それもひょっとするとある種の男の嗜虐趣味をそそるようなところがあったのかもしれない。恋には、したたかでもあった。ある時期、複数の相手を愛し、当時も罪の意識になやみ、その後、仏門に入ってから、そういう自分の罪障を見すえ、そのことによって菩提を得ようとした。 |
| 『とはずがたり』は伝統的な日記文学の形をとりつつも、明治末年から大正期にかけての日本の自然主義文学に偶然ながら似ている。出家したのは、女の盛りをすぎたころである。やがて旅に出た。東(あずま)にくだったのは、西行の故事を慕ったからでもあるという。正応二年(一二八九)、鎌倉に入るために化粧坂(けわいざか)をのぼり、かつくだった。 |
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| 以上、十三世紀の美しい(と思いたい)尼僧についてふれたのは、彼女が鎌倉の街の印象を、『とはずがたり』のなかで、ひとことながら、触れてくれているからである。これほど記録好きの民族でありながら、さらには鎌倉と京の往来が繁かったにもかかわらず、当時の鎌倉の景観や幕府の建物、道路、人情についてふれた文章がほとんどのこっていない。その点、『とはずがたり』はありがたい。 |
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| 彼女は、鎌倉へ入る前夜、江ノ島で一泊した。ときに、陰暦三月である。江ノ島はまわり一里ほどの小島で、陸地とのあいだを、一条の砂洲がつないでいる。干潮時には、徒歩でわたることができる。島には、弁財天(弁天)がまつられている。弁財天は、もとはインドの土俗神だった。ガンジス川など大河を象徴する神で、ひょっとすると蛇への古代信仰の発展したものだったかもしれない。女神である。琵琶を弾いている。元来が河神であるために、日本では琵琶湖の竹生島や厳島など、湖や海の小島にまつられてきた。江ノ島も、いかにも弁財天がよろこびそうな小島である。 |
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| さきにふれた文覚という奇僧がこのことに気づいた。文覚は、頼朝がまだ伊豆の流人だったころに訪ねてきて、平家を倒すために拳兵せよ、とすすめた。江ノ島に弁財天をまつれといったのは、そのときだったか、そのつぎの機会だったかどうかはわからない。ともかくも、頼朝は鎌倉に府をさだめて早々、鶴岡八幡宮を造営するとともに、江ノ島に弁財天をまつった。寺ではなく、神社の形式をとった。 |
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| 頼朝が、「御正体」(おしょうたい)として八(ひ)の弁財天を寄進した。それとはべつに、この神社は、裸形で琵琶を弾く形の弁財天(?)がふるくからつたわっていることで知られる。少女のかたちをし、性器までそなえている。鎌倉のリアリズムのゆきつく果てかとも思えるが、時代はよくわかっていない。江ノ島のこの神は、関東武士の崇敬をうけたという。 |
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| 当然、伏屋(宿)などもあったかと思われるが、しかし二条とその従者がここにきた正応二年には、建物をそなえた宿はなかった。どうやら岩屋にとまったらしいのである。漫々たる海の上に離れたる島に、岩屋どもいくらもあるに泊る。岩屋が宿というのも、十三世紀末の関東の一風景といえるかもしれない。 |
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| 二条が泊まった岩屋は、「千手(せんじゅ)の岩屋」という屋号めかしいものがついていた。おそらく千手観音をまつっていたのだろう。この岩屋で修行していたのは、齢のたけた山伏で、後世でいえば、宿の亭主である。「霧の(まがき)、竹の編戸」と、『とはずがたり』のなかで彼女はいう。霧をもって(まがき)とみなし、竹やぶをもって編戸とみなした、というのだから、文学的修辞ではなしに、まことの岩屋だったのかもしれない。 |
| この時代、「経営」ということばがあって、経営(けいめい)とよみ、いろいろ世話をするという意味だった。その山伏が、彼女たちをケイメイしてくれた。その謝礼として彼女は、従者の笈から扇子一つを取り出させ、「これは、都の土産(つと)です」と、山伏に贈った。山伏はむかし都にいたのか、大よろこびし、「このように暮らしていますと、都の便りもありません」といったりした。扇子一つが、ことごとしくも都の文化をしのぶよすがだったのである。のちの室町時代とくらベ、都鄙のちがいは大きかったらしい。 |
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| その夜、二条は、旅衣の上にさらに重ね着して臥せたという。夜具は苔筵(こけむしろ)だったというのも、あながち形容ではなく、実際にそうだったのだろう。寝ぐるしくて、岩屋のそとに出て夜の海を見たりした。 | |
| 明けて、彼女は鎌倉の府をめざした。鎌倉に入る前に、極楽寺という寺に詣でた。極楽寺は武家の寄進などで寺領が多く、従って僧も多かった。彼女は、僧たちの服装やふるまいが都とおなじだというだけで、奇妙なほどに感動した。僧が普遍的な存在である以上、都鄙のちがいがないのは当然なのだが、そのことに心を安らがせるほどに、彼女は鄙に疲れていたのに相違ない。 | |
| 鎌倉は、三方が山にかこまれていて、外界から入る者は、坂を上下せねばならない。入口は、七つあるとされた。彼女は、西方からくる人の多くがそうするように、極楽寺のそばの切通(きりとおし)を通った。極楽寺坂とよばれてきて、いまもそうよばれる。私も、その坂を上下してみたかった。まず、江ノ電に乗った。江ノ島電鉄長谷駅から乗り、ほどなくトンネルをくぐった。このトンネルの上が、こんにちの極楽寺坂の山である。電車がトンネルからぬけ出ると、極楽寺駅で停車した。私は、そこで降りた。トンネル一つをくぐるために電車に乗ったことになる。駅を出て、線路沿いの道を徒歩でのぼった。 |
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| 極楽寺坂は、坂の両側に、山の緑がせまっている。車がすくなく、歩道を歩く人もいない。ただの鋪装道路ながら、声をあげてほめたいほどに閑寂である。鎌倉の文化はこの閑寂さにあるといってよく、その原型は頼朝をふくめた代々の鎌倉びとがつくったものながら、明治以後、この地の閑寂を賞でてここに住んだひとたちの功といっていい。 |
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| 坂の頂点にちかいあたりに、店が一軒、山肌に貼りつくようにして建っている。電車のように紬長い建物で、店内には古時計やら陶器が置かれており、喫茶店でもある。茶をのみつつ、どうも『とはずがたり』の二条尼は、坂の名を取りちがえて記憶していたのではないか、とおもった。坂の名を、化粧坂(けわいざか)だと思っていたようである。 |
| 化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)を見れば‥‥とある。彼女はやがて坂の上から鎌倉市街を見おろすのだが、その前に極楽寺を参詣している。当然、彼女が選んだ入口は、極楽寺坂なのである。当の化粧坂は、極楽寺から直線にして二キロ半ほども離れている。途中、山また山で、じつに遠い。さらにいうと、彼女は坂をくだって由比ケ浜に出たという。化粧坂だと、海岸に出ず、いまでいえば鎌倉税務暑の前に出てしまう。おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない。 彼女は、その前半生を化粧(けわい)のなかですごした。院に寵せられ、五摂家の当主とも思い出があり、それに仏門に入ったはずの法親王にまで愛された。俗体のころは粉黛(ふんたい)にまみれていたなどという感想も、化粧坂という地名に触発されて湧いたかとも思える。 |
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| 彼女は、坂の上から、市街を見た。 袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。筒潔なこのひとことが、十三世紀の鎌倉の市街をよく言いあらわしている。また、「階(きざはし)などのやうに重々(じゅうじゅう)に」ともいう。傾斜地が造成されて、建物が重なるように建っている景観がおもしろかったらしい。さらに重要なのは、京都のような東山があるわけでもない、と比較していることである。城下町がまだ成立していないこの時代、政権の存在する都市は、京都と鎌倉しかなく、つい比較したかったのだろう。 | |
| いまの極楽寺坂からは、鎌倉市街の全景は見えない。道路わきの山道まで登れば、十三世紀の彼女の得た跳望を見ることができるはずだが、いまはその労を省く。私も、坂をくだった。由比ケ浜までくだり、浜づたいに歩いた。ゆくほどに、若宮大路の南端に達した。彼女も、そうした。大路を北にむかい、鶴岡八幡宮に至った。「先づ御社(おんやしろ)へ参りぬ」と、彼女はいい、比較都市論のくせが出た。京都の南郊の石清水八幡宮とくらべたのである。海を見はるかしているぶん、鶴岡のほうがまさっている、という。私も同感である。 |
| 彼女は、参詣するひとびとの風俗についても比較した。 京の神社では、然るべき階層の男子が参詣するとき、浄衣(じょうえ)を着る。鎌倉では、ひとびとは白装していない、という。参詣する武士たちは、武家の礼装である直垂(ひたたれ)を着ているために、色とりどりだったというのである。 |
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| 私も、二条のように、境内にいる。有名な公孫樹(いちょう)の老樹の前にくると、北欧からの団体旅行客らしい一団がいた。樹に、たくさんのリスがいた。黒ずんで、ふつうのリスよりやや大ぶりなこの小動物が、数ひき、幹を上下している。すばやいために、煙をひいているようにもみえる。公孫樹は、老いている。樹齢千年以上で、むろん源頼朝も知っているし、その子で三代将軍になった実朝が、甥の公暁のためにこの樹の蔭の下で斬殺されたのも見ている。 |
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| ただ、頼朝も実朝も、このリスたちを知らない。境内で出会った禰宜の池田正弘氏が、「タイワンリスです」と、教えてくれた。池田さんは、「これは新聞で読んだ知識ですが」とことわって、戦時中、江ノ島で飼われていたタイワンリスが逃げて、鎌倉じゅうに繁殖した、という。 | |
| ついでながら、『とはずがたり』が発見されたのは、宮内省図書寮(いまの宮内庁書陵部)で、発見者は、山岸徳平(一八九三〜一九八七)であった。わが二条も、その鎌倉見聞記も、五百年以上ねむっていたことになる。 |
| 「化粧坂」の意味について 「極楽寺坂」と「化粧坂」の取り違いの理由を検討する前提として最初に考えなければならないのは、『とはずがたり』においては異常に頻繁に重大な地名の誤りが出てくること、そしてそこで用いられている言葉が喚起するイメージに奇妙な特徴があることである。地名の誤りを列挙すると以下のとおりである。 第一に東海道を鎌倉に下るときに、二条は伊勢物語の「かきつばた」の歌で有名な八橋(愛知県知立市)の次に熱田社・鳴海潟(愛知県名古屋市)を通過したことになっているが、これは順序が逆である。 この点、例えば冨倉徳次郎氏は、『とはずがたり』(筑摩叢書)において、「前段に三河の八橋を記してこの段熱田に至るのは、旅程として倒錯している。結局作者の過失によることと思われるが、その過失の意味するところは、この紀行が旅程の中で書き継がれたのではなく、晩年の一括した回想の中でたどられたものであること、後日に書いたときに正確な旅のメモなどもなかったであろうことを思わせる。」などと言われている。 しかし、尾張は「故大納言の知る国」即ち父雅忠の知行国であって、しかも熱田詣では『とはずがたり』において都合四回もなされているのである。どんなに物覚えの悪い人であっても、四回も行った場所とその周辺の地名の関係は把握できるであろう。まして八橋と言えば、歌を詠む人間で知らない人はいないほどの著名な歌枕なのであるからなおさらである。それを二条のような博覧強記の人間が過失で間違えるというのは、どう考えても異常である。 そこで、この部分は過失ではなく、作者が何らか意図を持って書いているのではないかと考えると、気になるのは「八橋」、即ち幅の狭い橋板を数枚、折れ折れに継ぎつづけて架けた橋、という言葉である。そしてこの言葉が創り出すイメージを素直に考えると、それは不安定さ・複雑さ・繊細さといったものだと思う。 第二に、二条は武蔵国川口から信濃の善光寺に行ったことになっているが、その途中で「碓氷坂、木曽の懸路(かけぢ)の丸木橋、げにふみみるからにあやふげなるわたりなり。(なるほど踏んでみただけであぶなげな山路である。)」という場所を通過したことになっている。 しかし、「木曽の懸路」は長野県木曽郡上松町にある東山道(中山道)の難所であり、碓氷峠経由で武蔵から善光寺に行くのにこんなところを通るはずがないのである。この部分は堀辰雄の『美しい村』の中に島崎藤村の『夜明け前』が数ページ分紛れ込んでいるようなもので、とても変なのである。 堀辰雄も島崎藤村も読まない人のために言うと、この部分は森村誠一の『人間の証明』で有名になった西条八十の詩に出てくる「碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦藁帽子」が霧が峰と中央アルプス木曽駒ヶ岳をはるばる越えて、名勝「寝覚の床」まで飛んで行ったようなもので、極めて奇妙なのである。 森村誠一も読まず、角川映画すら見ない人のために即物的に言うと、碓氷峠と「木曽の懸路」は直線距離で約100キロ離れており、しかも歩くとすれば、それを遙かに超える距離を高低差の激しい曲がりくねった道を通って延々進まなければならないほど離れた土地なのである。 ま、学者は「碓氷も険路であり、ここでは慣用的に使う」(次田香澄氏)、「善光寺へ行ったとしても、通った筈はないが、信濃路の険阻から慣用的に出したと解される」(福田秀一氏)とか、「難所を連らねた文飾と見られる」(三角洋一氏)だとか、適当なことを言っているのであるが、いくらなんでも不自然な説明である。 ここも、「懸路」すなわち「木材で崖に棚のように造り懸けた路」という言葉に着目すると、この言葉から最も素直に導かれるのは、不安定さ・危険さといったイメージだと思う。 第三に、浅草寺の近くの隅田川に「すだの橋」があって、その対岸が「みよしのの里」、つまりこれも『伊勢物語』などに出てくる歌枕で現在の埼玉県川越市だという、もう本当に訳のわからない話があって、学者たちが困惑しているのである。これも重大な問題を孕んでいると私は考えるが、ただ、これは浅草寺の本尊たる聖観音を尼である二条が十一面観音と間違えるという、これまたとんでもない記述と密接に関連すると思われるので別途検討する。 第四に、西国旅行に出かけた二条は和知(広島県三次市)の豪族の館に滞在するのであるが、この和知は中国山地の山懐に抱かれた土地であるのに、『とはずがたり』では鞆の港(広島県福山市)のすぐ近くのように描かれているのである。二条は滞在先の人々が鎌倉にいる親族の広沢入道という人物を迎える準備をしていて、「絹障子を張って、それに絵を描きたがっていたときに、なんという深い考えもなく『絵の具さえあれば描くのですけど』と申したところ、『鞆というところにあります』といって取りに人を走らせる。まったく悔しかったけれど仕方ない。持ってきたので描いた。」(次田香澄訳)などと言っているのである。 ここも素直に考えれば非常に不自然なのであるが、学者たちは粘り強いから、「海岸近くにも一族が住んでいたようだから、その地名が落ちたのかもしれない」(次田香澄氏)などと格別の根拠もない説明をするのである。 私は、そんなことよりも「絵を描く」という言葉の創り出すイメージに着目すべきだと思う。「絵を描く」と言えば、やはり想像力をフルに働かせて場面を創り出している、という感じがするのである。 この和知の話はスリリングな展開と社会派ルポルタージュ風のきびきびした文章で、特に歴史学者の興味を引きつけているところであり、一橋大学名誉教授永原慶二氏・東京大学教授村井章介氏をはじめとする錚々たる歴史学者が地方豪族の生態を「リアル」に記録した貴重な資料として生真面目に引用されているのであるが、どうも話が面白すぎるのである。 私は、二条がさりげなく、なんという深い考えもないようなフリをしつつ「絵を描く」という言葉を出しておいて、ここに描かれていることは事実ではなく適当に作り上げた面白い話なのよ、その点充分注意してちょうだいね、でも私はこれだけ丁寧にヒントを出しているのだから、間違えても私の責任じゃないわよ、と言っているような感じがするのである。 以上のように『とはずがたり』における地名の誤りは凄まじいものである。それぞれの場面について単純に直線距離を測ると、熱田社と八橋が約30キロ、碓氷峠と「木曽の懸路」は約100キロ、浅草と三芳野の里が約40キロで、鞆の港と和知が約60キロ、合計約230キロ分の誤りがあるのである。 このように、重大な地名の誤りが頻出することと、そこでいわばキーワードになっている「八橋」「木曽の懸路の丸木橋」「絵を描く」という言葉が喚起するイメージを考えると、これらの地名の誤りは決して偶然ではなく、二条という極めて緻密な知性の持ち主が残したサインのように思われるのである。 創作能力が異常に豊かで、極めて高慢で、知的でないもの・下品なもの徹底的に軽蔑し、「心の中を人や知らんといとをかし」(秘密を知っている自分の心の中をだれが知ろうか、とまことにおもしろかった。)と思うような、人をからかうのが大好きな女が残したメッセージのように思われるのである。『とはずがたり』は、決して素直な事実の記録ではなくて、危険で複雑で不安定な創作物だから、取り扱いには充分注意してちょうだいね、というからかいに満ちたメッセージのような気がするのである。 さて、地名の誤りについては、浅草寺の本尊を「聖観音」ではなく「十一面観音」にしているという重大な「誤記」との関係で、東京大学名誉教授久保田淳氏の『隅田川の文学』(岩波新書)を素材として再論するが、浅草を除く三例と比較対照してみるだけでも、「化粧坂」が単なる勘違いなどとはとても言えないと思う。 その本当の意味を知るためには「化粧」という言葉が創り出す最も素直なイメージに着目すべきだと私は思う。即ち、これは決して素顔の私ではなく、お化粧で極めて巧みに装った私なのよ、これから入ろうとする鎌倉についても面白い話をたっぷり用意しましたけれど、化粧した私が話すことだから充分に注意して下さいませ、という半分冗談のメッセージなのではないかと思うのである。 |