更新11.12/11
| 久保田淳氏の略歴(『朝日人物辞典』より) |
| (くぼた・じゅん.1933〜)国文学者。東京都生まれ。1956(昭31)年東大国文科卒,大学院博士課程修了。東大文学部助手を経て,66年白百合女子大助教授。70年東大助教授,84年教授。『建長八年百首歌合の研究』(64年),『藤原家隆集とその研究』(68年),『新古今歌人の研究』(73年)など,「新古今」歌人の研究を基軸に中古・中世和歌史を開拓するとともに,『中世文学の世界』(72年)など,中世文学の全体像を視野に入れた幅広い研究活動で注目されている。(梶原正昭) (※現在は白百合女子大学文学部教授、東京大学名誉教授。) |
| 久保田淳氏の見解 |
私の考え方 | |
|
浅草観音の月 雷門から浅草寺の仲見世通りを本堂へ向かって行くと、宝蔵門の手前左側は店がなく、塀で囲われている。塀の向う側は浅草寺の寺務を取りしきる伝法院で、建物の西側には池を抱いた回遊式庭園がある。ここに入ると、参詣人でごったがえす仲見世の賑わいはまるで遠い彼方の潮騒のような静けさである。 庭には鎌倉時代の年号を刻んだ石碑もある。伝法院庭園はかすかに中世における浅草寺の俤(おもかげ) をとどめているのかもしれない。 |
||
文学作品で鎌倉末期の浅草寺の有様を伝える記述が僅(わず)かに見えるのは、後深草院二条の『とはずがたり』である。正応三年(1290)の秋、三十三歳でもはや尼姿となっている彼女は浅草寺参詣を志す。彼女はその前の年鎌倉に下って来て、暮には鎌倉から武蔵国川口に行き、そこで年を越し、この年二月信濃の善光寺に詣でて、どうやらそこから浅草寺へと向かったらしい。川口での越年の有様が次のように述ぺられている。
|
||
| 「岩淵の宿」というのは、おそらく今の東京都北区岩淵町のあたりであろう。川口市と岩淵町の間には新荒川大橋が架かっている。すると、前に流れている入間川というのは、たとえ流路はひどく変っていても、中世における隅田川の上流の一つで、現在の隅田川の始発の部分であったことになる。 さて、善光寺詣でを果たして浅草寺へと向かった道筋は、こんなふうに描かれている。
|
||
| 西行に仮託された説話集の『撰集抄(せんじゅうしょう)』や、西行の生涯を物語風に潤色して語った『西行物語』には、東国修行中の西行が千草の咲き乱れる秋の武蔵野で、元は郁芳門院に仕える侍であった世捨て人とめぐり逢い、語り合ったという話が語られる。『西行物語絵巻』に描かれているその場面は美しい。九つの時「西行が修行の記といふ絵」を見てその境涯に憧れたという彼女は、あるいはそれらの記述を思い出しながら自らの旅を綴っているのかもしれない。 浅草寺に参詣したのは丁度八月十五夜の晩であった。 |
| 観音堂はちと引き上がりて、それも木などはなき草の中におはしますに、まめやかに、「草の原より出づる月影」と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。雲の上の御遊びも思ひやらるるに、御形見の御衣(おんぞ)は、如法経(にょほうきょう)の折御布施に大菩薩に参らせて、今ここにありとは覚えねども、鳳闕(ほうけつ)の雲の上忘れたてまつらざれば、余香をば拝する心ざしも、深きに変らずぞ覚えし。 草の原より出でし月影、更けゆくままに澄み昇り、葉末に結ぶ白露は玉かと見ゆる心地して、
涙に浮かぶ心地して、
明けぬれば、さのみ野原に宿るぺきならねば、帰りぬ。 |
| 「草の原より出づる月影」というのは、『新古今和歌集』秋上に収める藤原良経(よしつね)の、「行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月影」という歌を引いているのである。この歌は摂政左大臣であった良経が後鳥羽院の主催する五十首歌会で「野径月(やけいのつき)」という題を詠んだものである。摂関家に生れた良経はついに東国に下ることはなかった。これは彼が観念の世界で思い描いた武蔵野の風景であった。が、それから一世紀近く経って関東に下ってきた後深草院二条が見た武蔵野の月は、この歌のままであったのである。 |
|||
| 出家以前の後深草院二条 「御形見の御衣」というのは、旧主後深草院から与えられた衣服である。彼女は後深草院の女房であった。しかし、院は彼女にとって単に主君であっただけではない。彼女は四歳の時から院の御所で養われた。九歳の時には院から琵琶を習った(後深草院は今様や琵琶などの音楽に長けていた)。 | |||
| 十四歳になった正月、院は彼女の父久我大納言源雅忠の了解のもとに、何も知らずに里に下って寝入っていた彼女をほとんど強引に抱き、自身の少なからぬ後宮の女性の一人に加えた。院はいわば父であり兄であり、そして夫でもあった。 彼女は宮廷において数人の男と深い交渉を持った。それらの中には院が黙認し、いな勧めた場合さえある。院は正妃東二条院の嫉妬にもとづく激しい攻撃からも彼女をかばっててくれた。 が、皇統の継承をめぐって対立関係にある実の弟、亀山院と彼女との間柄が取り沙汰されるや(実際、亀山院はそれ以前にも彼女に強い関心を示している)、後深草院は彼女をかばおうとはしなかった。 二十六歳の年に彼女はほとんど追放同然に院の御所を退いた。その院から下賜された衣服は写経奉納の布施として今は無いが、かつて宮仕えした折のことは忘れないので、心の裡で「余香」を拝するというのは、『大鏡』に語られている、配所太宰府における菅原道真の行為を思い浮かべているのである。
彼女は罪なくして配所の月を仰ぐ道真に自身を重ね合わせている。しかし、それだけではない。彼女以前に自らを道真に擬した人物に、須磨の浦で十五夜の月を見る源氏がいる。
源氏が都の優柔不断な兄朱雀帝を偲(しの)ぶように、今、後深草院二条が「隈もなき月」に見ている「面影」も、都に健在である筈の、やさしくてしかもつらかった後深草院のそれである。彼女は道真とともに『源氏物語』の源氏をも自らに重ねる。しばしば女西行と評される彼女を、女源氏と見る見方もあるのである。 後深草院二条の隅田川 「明けぬれば‥‥帰りぬ」という。通夜をおえた彼女が帰ったのは、おそらく浅草寺かその近くの寺院の宿坊であろう。そして、隅田川のほとりに立つ。 |
| さても、すみだ河原近きほどにやと思ふも、いと大なる橋の清水(きよみづ)・祇園(ぎをん)の橋の体(てい)なるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり。 「このわたりにすみだ川といふ川の侍るなるは、いづくぞ」と問へば、「これなむその川なり。この橋をばすだの橋と申し侍り。昔は橋なくて、渡し舟にて人を渡しけるも、わづらはしくとて、橋出で来て侍り。すみだ川などはやさしきことに申しおきけるにや、賤(しづ)がことわざには、すだ川の橋とぞ申し侍る。この川のむかへをば、昔はみよしのの里と申しけるが、賤が刈り干す稲と申す物に実の入らぬ所にて侍りけるを、時の国司、里の名を尋ね聞きて、「ことわりなりけり」とて、吉田の里と名を改められてのち、稲うるはしく実も入り侍り」など語れば、業平の中将、都鳥に言問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、 尋ね来(こ)しかひこそなけれすみだ川住みけん鳥の跡だにもなし 川霧寵めて、来(こ)し方(かた)行く先も見えず。涙にくれて行くをりふし、雲居遥かに鳴くかりがねの声も折知りがほに覚え侍りて、 旅の空涙にくれてゆく袖を言問ふ雁の声ぞかなしき |
|
「みよしのの里」を思わせる古い地名として、『伊勢物語』十段に「入間の里、みよし野の里」というのがあり、現在の埼玉県坂戸市横沼かとされている。また、「吉田」は川越市に地名として残る。 両市は境を接し、『伊勢物語』の、「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌語りの世界はここかと伝えられてもいるのだが、しかし彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行ったのではないであろう。この時代にも隅田川は浅草寺のすぐ東側を流れていたと考えられるのである。 |
また、「『伊勢物語』の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為」があると考えるならば、浅草寺という宗教的聖地に関連して、このような作為を平然と行う後深草院二条の宗教に対する基本的態度について、多少の疑問を感じるのが常識的な感覚だと思うが、久保田淳氏にはそうした感覚は全く無いようである。 私は、この浅草寺関連の記述は、後深草院二条という女性を理解するための極めて重要なヒントが集中している部分と考えているが、久保田淳氏のしみったれた叙情感覚と気色の悪いオカマ文体では立ち籠める川霧が全然晴れず、何の参考にもならない。 |
| 「みよしのの里」や「吉田」は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれないし、『伊勢物語』の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為であるかもしれない。 ともかく、この川は大河であった。そこに架けられた橋は、清水詣でに渡った都の五条橋、祇園に参籠した時渡った四条大橋を思い出させた。しかし、業平が呼び掛けたという都鳥は見えない。立ち籠める川霧に視界もきかない。雲の中に初かりがねの声がする。その声は「どうして旅するの、何が悲しいの」と呼び掛けるかのようである。長旅にやつれながらも昔の色香を失っていない尼は、大川のたもとに佇(たたず)んで涙する。 |
| 浅草寺関連の記述について(補説) 『とはずがたり』において、浅草寺の本尊を聖観音ではなく十一面観音としている点について、私は主要な注釈書を全てチェックしたみたが、国文学者たちは完全に無視するか、せいぜい『廻国雑記』でも十一面観音としている、といった程度のコメントを載せているだけである。 しかし、この部分は極めて奇妙である。二条は尼であり、仏教の専門家である。そして彼女は浅草寺に「霊仏と申すもゆかしくて参」ったはずの人なのである。そのような人が訪問先の寺の本尊を間違えるなどということが本当にありうるのだろうか。 現代の観光客なら観音の種類などどうでもよいことであるが、それでも聖観音は顔がひとつだけの最もシンプルな観音であるのに対し、十一面観音は文字通り顔が十一もあるのであって、知っていさえすれば小学生でも区別は簡単である。しかも二条は『とはずがたり』に記された仏教的語彙だけからみても、仏教について深い知識を持っていることが明らかな仏教の専門家である。その専門家が参詣のためにわざわざ出向いて行った寺の本尊を間違えるなどということはずいぶん仏教を軽んずるものであり、仏罰を蒙ってもおかしくないほどの醜態である。それは国文学者が枕草子の作者を紫式部と誤解したり、仏教学者が日蓮宗の開祖を親鸞だと思い込んだり、鮨屋の親父がイカとタコを間違ったりするくらい変なことだと私は思う。 要するに、この「誤記」は単なる間違いとして済ますことは到底できないほど奇妙なものであり、細心の注意を払って分析する必要があると私は考える。そして、その際には少なくとも以下の点に配慮しなければならないと思う。 第一は、二条が描き出した浅草寺の様子は、他の史料から伺われる当時の浅草寺の状況と較べると貧相に過ぎ、二条が実際に浅草寺を訪問したにしては不自然に思われる点である。(これについては金龍山浅草寺が編集・発行した『図説浅草寺−今むかし−』(東京美術)に基づいて検討する。) 第二に、どこか暗示的なのが「浅草」という地名である。これは「深草」の反対語になっていて、この言葉自体、後深草院を連想させる。しかも「浅草」の対岸が何と埼玉県川越付近の「みよしのの里」であり、この「みよしのの里」という地名が、久保田淳氏も言われるように『伊勢物語』の「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌を思い出させ、さらにこれらの歌が『とはずがたり』巻一の冒頭、即ち後深草院が二条を後宮に入れようとして、父大納言雅忠に「この春よりはたのむの雁もわが方によ」と言った場面を連想させる、という具合に、複雑かつ優雅な連想をともなって「浅草」は後深草院を思い起こさせるのである。 『とはずがたり』において最も重要な登場人物は後深草院であるが、同時に後深草院こそ、最も不可解な、最も謎めいた人物である。そして、この浅草寺の場面も随分謎めいているのであり、もしかしたら作者二条にとって必要だったのは、当時現実に存在していたはずの浅草の地や浅草寺ではなく、この「浅草」という言葉自体だったのではないか、作者は「浅草」という言葉をキーワードにして後深草院に関係する何かを表現しようとしているのではないか、という感じがするのである。 第三が問題の十一面観音である。これは『岩波仏教辞典』によると、次のような仏である。
この説明で一番気になるのは、「暴悪大笑面」である。十一面観音の穏やかな正面の顔の反対側には、大笑いしている顔が隠されているというのである。私は初めてこの『岩波仏教辞典』の説明を読んだときは、笑う仏像というイメージが全然浮かんでこなくて、実際にどのような顔をしているのか確認しようと思ったのであるが、仏像に関する普通の写真集に出ている十一面観音の姿は正面像ばかりで、背後からとった写真など、なかなか見あたらないのである。 さんざん苦労したあげく、ある図書館でやっと室生寺の十一面観音の「暴悪大笑面」を見つけたのだが、これには意表を突かれた。これを見たときは本当にぞっとした。いくら名前が「暴悪大笑面」とはいえ、観音と言えば慈悲の代名詞、母性の象徴のような仏様なのだから多少は穏やかな顔をしているのではないかと思っていたのだが、実際の「暴悪大笑面」は、笑い顔というよりは凶悪・凶暴な面構えと言った方がいいような凄まじい顔なのである。 で、結論であるが、上記の点を総合的に考慮すると、作者が浅草寺の聖観音を十一面観音と「誤記」したのは、「浅草」が「深草」の反対語なのだから、十一面観音の反対側を御覧なさいよ、そこに本当の私がいるかもね、それが敬虔な尼を演じている私の本当の姿なのかもしれないね、というメッセージを伝えたいためなのではないかと私は考える。後深草院二条は、十一面観音の「暴悪大笑面」に、にんまり笑いながら隠されたメッセージを発信している自分を重ね合わせているのではないかと思うのである。 そして「浅草」の対岸を「みよしのの里」としたのは、十一面観音だけではヒントが少なすぎて、誰も気づかない可能性があるから、バカでも分かるような甘いヒントを付け加えておいて、この浅草の場面には何かとんでもないたくらみが存在していることを示しているのではないかと思う。 以上のような見解は古典の常識を覆すものであって、容易に理解されないであろうことは私も十分わきまえている。私も、後深草院二条という女性が誠実で信頼できる人間ならば、いくら地名の誤りが多いからと言って、また、暗示的と受け取られるような表現があるからと言って、こんな技巧的な分析はしないのである。 しかし、後深草院二条という女性が常識ではとても捉えきれない存在であることは、他ならぬ『とはずがたり』が豊富な例証を用意している。学者たちが詳細に分析しているように、彼女は、話を面白くするためには皇女(遊義門院)の誕生と治天の君(後嵯峨院)の死という、身分秩序の根幹に関わる重要人物の生と死の時期について、史実と異なる記述をすることを全くためらわない。また、同じく話を面白くするためには1279年に死んでいるはずの祖父隆親を1283年に生き返らせることもためらわない。さらに、どう見ても行っていないはずの足摺岬という宗教的聖地に行ったと平然と言い張ることもためらわない。 これらのひとつひとつについて、国文学者たちはもっともらしい、とは言っても「何らかの事情で事実を朧化したのであろう」という、全然理由にもならない莫迦丸出しの説明を重ねるけれども、ごく素直に考えてみれば、後深草院二条は相当に変な女である。どんな社会においても、ついてよいウソといけないウソがあると思うが、後深草院二条は、基本的な身分秩序より、先祖の生死より、宗教的聖地より、話の面白さを優先させているのである。この女はどう見ても普通の女ではないと私は思う。 もっとも、以上は後深草院二条という女ならとんでもないことをやりかねないと言っているのみで、いわば状況証拠の積み重ねに過ぎないことは私も承知している。『とはずがたり』を使って後深草院二条が何をやろうとしたのか、その動機の部分が正確につかめないと説明としては不十分であることはもちろん私も自覚しており、私はそれについてもひとつの仮説を用意している。しかし、その仮説の説明のためには前提として『増鏡』と『とはずがたり』の関係について詳細に準備的な説明をしなければならないので、現時点で述べることはできない。 |