更新11.12/8


阿部泰郎 『「とはずがたり」の王権と仏法』
(叢書・史層を掘る・第3巻・王権の基層へ.新曜社)






阿部泰郎氏の略歴(上掲書による)
(あべやすろう)
1953年横浜生まれ。和光大学人文学部芸術学科卒業。現在大手前女子大学日本文化学科助教授。(※)
論文:『中世高野山縁起の研究』(元興寺文化財研究所.1982年)、「湯屋の皇后」(『文学』54−11.55−1.1987年)「女人禁制と推参」(『巫と女神』平凡社、1989年)
※1992年当時。現在は名古屋大学教授。



阿部泰郎氏の見解

私の考え方

1. 『とはずがたり』とは何か

 『とはずがたり』は、奇跡的な作品である。

 このような言挙げは、いささか奇矯に過ぎるだろうか。しかし、これを読むごとに見いだされるものの豊かさは、あえてそう評したくなるような、深いうながしに満ちている。たとえば、その、書物としての伝来と発見の経緯からして、この言のあながちでないことを示すもののようである。

 宮内庁図書寮の一隅に納められた唯一の伝本は、霊元天皇筆の外題を付された五冊の写本である。宮廷に伝来した日記・物語類を後世に遺すための書写事業の一環として写されたものという。遡ればその底本は、さらに室町期に書写された、いわゆる禁裡本にもとづくものらしい。

 山岸徳平によって、昭和一三年に見いだされたその本は、どうした訳か、地理・紀行の部に収められていた。記された事柄が、あまりにもあからさまに皇室の内々にわたるものであったがため、その本文が公にされたのは戦後になってからのことであった。

第112代霊元天皇(1654〜1732.79歳)は古典復興に力を注いだことで有名。父、後水尾天皇譲りの剛毅な性格で、綱吉時代の幕府との間に多少の緊張を招いたこともある。

山岸徳平氏博士の「『とはずがたり』の思出」には「「とはずがたり」を、私が初めて図書寮に見出したのは、昭和十三年の冬頃であつた。大正五年の図書寮の書籍目録一冊には、たしか地理の部に掲載せられて居たかと思ひ出す」とある。
 一読した人々は驚倒した。そこには、中世宮廷の奥深い帳(とばり)のなかで、当代の貴顕たちのなまなましい姿が、主人公である作者との性のかかわりのうちに、あざやかに描き出されているではないか。中世宮廷の秘事というべきものをふかく籠めたこの書物を、他に流布させることもなく、当の宮廷自身が、かろうじて細い糸の続くように一本を伝えていた。それは皮肉な偶然というばかりではすまない、或る何らかの意志を感じさせる。

「驚倒」の一例として、日記文学研究の大家である玉井幸助博士は、「私は昭和二十五年に初めて問はず語りを読んで、わが国の古典の中に、こんな大胆な現実曝露の文学があったことを知って驚いた」と言われている(「『とはずがたり』解題」)。
 そのうえ、鎌倉時代の宮廷史を叙(しる)した『増鏡』が、これから相当な量の記事を転用しながら、その名を挙げるどころか、至るところに登場する作者の存在までほとんど抹消していることが明らかになった。当世流にいえば剽窃というところであろうが、そのような根の浅い現象では決してない。

 『増鏡』の作者は、『とはずがたり』という作品とその作者の存在を悉知し、この作品の意味するものを充分に承知しながら、その上で、確信犯的に、あえてその名を秘匿し、紛らかして、よそごとのように書き改めている。両者を較べてみると、それが周到で意図的な操作によるものであることがあきらかとなる。それでいながら、ただ一箇処、『とはずがたり』の作者を登場させるところがある。それは、『とはずがたり』には存さない部分、作者が宮廷を追放されたあと、伏見天皇の中宮として西園寺実兼の娘※子が入内する儀式においてである。作中では北山准后九十賀の儀をもって宮廷生活の最後を飾ろうとする作者にとって、この出仕が心に染まぬものであったことはいうまでもない。それが『増鏡』「さしぐし」では、(本来の二条という名より品下れる)「三条」なる女房名しか与えられずいたく嘆く、という点景として添えられ、暗にこの作者の存在をうかびあがらせている。持明院統の復活、すなわち後深草による院政の開始と、伏見帝と永福門院(しょう)子の許での、京極派歌壇の栄光の舞台ともなった華やかな宮廷の幕開けというべき盛儀の最中に、それは不似合に割り込んでいる。それは、『とはずがたり』に描かれたこととその作者を知ってみれば、謂くありげな、目くばせでもしているような一節であった。


『増鏡』と『とはずがたり』の関係についての阿部氏の見解は極めて鋭く的確であるが、更に阿部氏の意図を超えて「深いうながしに満ちている」ように思われる。
両者の比較は小西甚一氏


伏見天皇(1265〜1317.53歳)
※金へんに「章
北山准后(四条貞子.1196〜1302.107歳)についてはこちら。(角田文衛氏『平家後抄』)

二条が三条の名前で登場する場面はこちら。また、それについての私の解釈はこちら。
 
 『とはずがたり』は何を描こうとしたものなのか。その世界とはどのようなものか。中世文学史には名こそ挙げられるが、とうてい教科書では扱うべくもなく避けられていることが、ある意味でその本質をよく物語っているようである。いま、試みに語ってみようとすると、それは大層難しく、危ういことのように思われる。その内容が皇室の秘事を暴露したものであるからというのなら、もはや禁忌にはばかり遠慮すべき時世でもなかろう。むしろ困難や危うさは、それをどのような“作品”として把えるか、というわれわれの側の認識にあるだろう。

 たとえば、作者は若くして上皇の想い者となり、正妃たる女院の嫉視のもとで皇子までなしながら、幾人もの貴顕とひそかに交渉を重ね、あまつさえ皇弟の法親王と道ならぬ恋におち、やがて破局を迎え、宮廷を追放され、尼となって諸国を西行に倣って修行し、ついに院の崩御と葬送を見おくる、というような要約をしてみるとする。そうした語り口が思わずみちびき、設定してしまうような枠組が、いつかわれわれを縛っているということはないだろうか。それは一方で国文学という学問の領域の枠組でもある。そのなかで、この作品は、いささかならず扇情的な告白としての自伝−つまりは“異色の”中世女流日記として位置づけられてしまう。はたして、そうした分類におさまるものなのだろうか。


 
『とはずがたり』の語り口が多種多様で、ある場面では極めてスピード感に溢れているかと思うと、次の場面ではしっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出していたりするといった具合に変幻自在であるのに対し、阿部泰郎氏の語り口は常に荘重で、常に暗示的で、常に神秘的な深いうながしに満ちているのである。私はそうした語り口が思わずみちびき、設定してしまうような枠組が、いつしか阿部泰郎氏を縛っているということはないだろうか、と疑問に思うのである。



後嵯峨院(1220〜1272.53歳)についてはこちら。(水戸部正男氏『歴代天皇紀』)
 あるいは、こうした把え方もできるかも知れない。やがて南北朝の動乱という破局を、そして古代的王権の決定的な没落を迎える、その種子が蒔かれ、育っていった時代を『とはずがたり』は描く。王朝の栄華が幻想された後嵯峨院政の末にはじまる作者の宮廷生活は、その治天の君たる院の死とともに暗転し、夫というより仕えるべき主君であった後深草院が抱く皇統奪回の執念のもとに、敵手亀山院に対抗するための性的な貢ぎ物として、作者は翻弄された。その数奇な運命の叙述は、かく利用された作者の告発である−そのように見るのもまた、ことの一面でしかなかろう。宮廷秘史、裏面の稗史趣味ばかりでは、やはり、この作品がもつ振幅や深さを測りえない。

  いまだなお、そうした言説ではとらえきれぬ何かを感じてやまない、『とはずがたり』じたいが、強いうながしを私に与えるのである。

ここには、たしかに何かが実現されている。中世の一人の女性が、虚実をとり交ぜながら、一箇の作品として表現しようとする、その紛れもない主体的な意志が、『とはずがたり』にはつらぬかれている。それは、さきだつ豊かな古典の伝統や物語伝承をふまえており、また当代の物語や絵巻そして説話とも密接なつながりがある。それら多層の次元を重ね合わせながら、そのうえに立ちあがり、語りかけてくるのは、既にして、それらには還元できない何か決然とした骨太な訴求である。それをかたち造っているのは、もはや平安の仮名文学ではない、さまざまな領域から拉し来たった文体や修辞によって構成された、豊かな中世の散文の精神である。

 すでに、『とはずがたり』について、これを広く中世の女流日記−とりわけ天皇に仕える内侍の日記と対比しつつ、それらに共通する主題としての“中世の王権”のすがたを論じようと試みたことがある。(※)そこに、中世の王(天皇と院と)に奉仕する女房(とそのエクリチュール)が、いかにその“王権”をあらしめるか、という視点を設定してみた。さらに、内侍ならぬ、院の「女官風情」でしかなく、しかもその社会から逸出してしまった者の残したテクストにそれを求めてみようとしたのである。院という、きわめて中世的な王権のありかたが、作者−主人公の“性”を通して、そこに露わに照らし出される。




※原注 「『とはずがたり』と中世王権−中世女流日記と皇統をめぐりて」『日本文学史を読む(三)中世』有精堂、1992年。
 “王権”を注視したその考察において、あえて省いたのは“宗教”であり、とりわけて仏教であった。中世のことばに置き換えるなら、「王法」に対して「仏法」と称してもよい。中世国家がその組織体系を欠いては存在が成り立たなかったように、その一種の縮図である『とはずがたり』の世界もまた、宗教の主題が一方の重い極をなしている。たとえば、作中の主人公による出家や遁世など仏道への想いを告げる表現をとってみても、仏教の唱導・教化に由来する経典・聖句などの多さは驚くばかりである。そうした表現の彼方に潜んでいるものがある。それは、中世にあって、すべて世界が冥と顕とにおいて認識されていたことと等しく、秘かな、隠されたものである。この作品のなかに、容易にその貌をあらわさぬ主題があるのではないだろうか。いま、ここに探ろうとするのは、それをあきらかに照らし出そうとする試みにほかならない。

 

 





2.『とはずがたり』の宗教世界

 『とはずがたり』は、全篇が濃厚な宗教色に覆われている。主人公たる作者の、一貫した出世間へのあくがれと願い、そして思いを遂げ出家し修行の道を辿るありさま、その道程の至るところに宗教性が満ちている。しかしそれは、単彩の求道一色に塗りつぶされた絵柄ではない。その逆縁としての世間すなわち宮廷における恋愛の種々相と当代の王権をめぐるせめぎ合いが、作者を巻き込んで渦巻いていた。その渦中にあって悩み苦しんだ彼女の生々流転が、むしろその求道をあらしむる。

 『とはずがたり』における宗教性、それがいかなるものであるかを把えようとする。そのように方向を定めてみても、またこの宗教の諸相も多重にして複雑なすがたを呈していることに、ただちに気付く。これを平面的に羅列してみても、さして意味はない。あるいは、それを作者の立場や視点のみに限定して一元的に論ずるような先入主も、この作品における宗教性をかたち造る過程を一面のみで把えることにしかならないだろう。そこに、作者を−そして作品を−かく在らしめ、導くにいたる契機や媒(なかだ)ちとなるべき何者かが注視されなければならない。それは作品世界のなかで、登場人物であったり、場であったり、説話・伝承であったりするであろう。いま、そのなかの或る人物を中心にして、ひとつの場を視座として、『とはずがたり』の世界−その宗教性の意味するもの−を考察してみようとする。

 そのとき、『とはずがたり』の宗教牲を体現するような人物として、作者自身と深いかかわりをもった「有明の月」という隠名で呼ばれる高貴な僧侶が浮かび上がってくる。作者と有明との関係のすべてが、『とはずがたり』のなかで宗教なかんずく仏教の占めている位置とその意味を象徴的に集約している、と言ってよかろう。作者だけに注目して読むのでなく、むしろ有明の存在に着目し、かれとの関わりのなかでこの作品がどう読めてくるか、ひいては、その宗教的なるものがどのように立ちあらわれてくるか、ということを眺めてみようと思う。

「有明の月」を、通説は後深草院の異母弟の性助法親王(1247〜1282.36歳)に比定しているが、宮内三二郎氏は九条道家の子、開田准后法助(1227〜1284.58歳)だとしている。私はそもそも「有明の月」が実在したかどうか、また「有明の月」関連の話が本当に「愛の悲劇」なのかについて多大の疑問を抱いている。
 有明は、作品中においては、前半の巻三までしか登場せず、後半の四・五巻には全く言及されない。とくに巻二と巻三における強烈な存在感からして、この落差は奇妙なほど大きい。一般に『とはずがたり』は、前半と後半とに分かたれるが、それは描かれた世界や作者の境遇の違いばかりでなく、文体の面でも、執筆の姿勢の点でも、質的な位相の差異が指摘されている。有明のこともその要素のひとつに挙げられている。前半にあって尋常ならぬ情熱の昂まりをみせて悲劇的な結末を迎えたのとは打って変わり、後半は後深草院が作者にとってただ一人の男性として思いを捧げられており、これに対置し回想されるべき存在としてさえ、有明は全く伏せられてしまっているのである。この現象をいかに理解するかという点でも、これまでの研究では説得的な解釈を提示していないようである。

『とはずがたり』のひとつひとつの場面は極めて「リアル」で面白いのに、その場面相互の関係をきちんと考えようとすると、とたんに奇妙なほど大きい落差に気づかされてしまうのである。この不思議な『とはずがたり』の構造についての私の考え方はこちら
 なお、『とはずがたり』では二条は「有明の月」の子供を二人生んだことになっており、しかも最初の子の誕生後7日目に、二条は「有明の月」と最後の関係を持って第2子を妊娠してしまったとされている。「有明の月」は、その直後にポックリ死んでしまうのである。出産7日目でそんなことしていて本当にいいのだろうか、という気もするし、まして驚きなのは、それで妊娠してしまったという話の展開の御都合主義である。出産7日目で妊娠することは医学的に不可能なのであって、『とはずがたり』の「落差の大きさ」は別に前半・後半の間だけでなく、前半のごく短い部分の間にも存在しているのである。

以下、仏教について極めて深い学識を有しておられる阿部泰郎氏によって、『とはずがたり』の仏教的側面が詳細に分析されているが、紙幅の関係で省略し、結論の部分のみ紹介したい。
 これについて、ひとつの試案を提出してみよう。有明をめぐるそうした“現象”が、『とはずがたり』のなかで、どのような宗教世界の許に、いかなる深層の構造に支えられ在らしめられているのかを、解読してみようとするのである。


(中略)


14. 宿願の行く末

 『とはずがたり』の跋文は、作者が、院の崩御の後、「かこつべき御事ども跡絶え果てたる心地して侍り」もっとも聞いて載きたかった院が亡くなられてしまって、内心に抱き続けた「御事ども」を伝うべき道はもはや無くなったものと思い切っていた、という。それこそは、例の宿願のことであり、また、その発起の由来となった纏末、すなわち前半における院との関わりと有明との間の秘密に他ならない。後半に有明の名が一切あらわされないのは不思議ではない。院にもついに告げずにしまった秘められた宿願−祈りの対象であったのであるから、むしろ、あらわさぬことに意味があった。「かこつべき」とは、それを一人抱き続けたまま歩んでいかねばならぬ作者の修行の遙かな道程をさすのである。



跋文の原文はこちら



 むろん、それは完全に果たされた訳ではなかった。

 五部大乗経の書写・供養にしても、いまだ涅槃経の一部を残している。跋文のなかの「宿願の行く末いかがなり行かんとおぼつかなく」は、直接にはそれを指すものだろう。しかし、一人ひそかに抱いていた「年月の心の信」も、人丸影供にはじまる夢想と感得、そして女院との邂逅により、「さすが空しからずや、と思」われた。そうした吾が身の過ぎ越し行末を一人限り胸の内に秘め続けているのも「飽かず覚え」、その上に己が「修行の心ざしも、西行が修行の式」を羨しく覚えてこそ思い立ったものなので、「その思ひを空しくなさじばかりに」この記を書きしるしたのだ、と結ぶのである。







女院とは後深草院皇女で、1285年、後宇多天皇の皇后に冊立された遊義門院(1270〜1307.38歳)のこと。

 その跋文のなかでも、やはり「宿願」と「修行」が執筆の動機と分ちがたく言われるように、『とはずがたり』の成立−叙述をうながし、つらぬいているのは、作者の生と一体となった仏法にもとづくところの願いであり、行(おこな)いであった。それは、作者の関わったすべての仏事の営みでもある。たとえば有明との宿縁の発端となる修法も含め、その何れもが無意味な後景や記録ではない。あるいは、作者が私に主体的に始め、やがては修行として営み続けた仏事は、結縁も含めて、それらが互いに機縁をなし、不思議な冥合や照応、または夢想や感得などと重なりあって織りなされ、それらは総じて「宿願」の成就をめざしているのである。

 それは、“王の生と死”を祈り司(つかさど)るべき高僧を、却って魔縁−悪道に誘(いざな)うことになってしまった“王と契りを結びし女”が、その生に課せられ、また自ら誓って負うたのでもある、重いつとめではなかったか。跋文中の「西行が修行の式」に西行に託して告げているのも、その己れの修行の隠された真の意図なのであろう。さまざまな位相のなかに連ねられる種々の仏事は、そこで、何より作者の引き受けたひそかな願いと祈りを、しだいに実現し成就を期す過程としてあらわされる。そこに、『とはずがたり』がすぐれて中世の宗教文学であるゆえんがあろう。



阿部泰郎氏の見解に対する根本的な疑問


 この阿部泰郎氏の論文は『とはずがたり』の仏教に関する側面を執拗に分析した極めて詳細なもので、一種の驚異すら感じさせる程の高度な内容なのであるが、私は、阿部泰郎氏はどうして二条の仏教に関する話をこれほどまでに信用できるのだろうか、という素朴な疑問を抱かざるをえない。

 阿部泰郎氏自身が認めているように、『とはずがたり』は「虚実をとり交ぜながら」表現されている作品である。その「虚」の内容は、宗教関係に限定しても相当なものである。例えば、故冨倉徳次郎博士や小口倫司氏らの駒沢大学関係者が強く主張しているように、宗教的聖地である足摺岬行きの記事の真実性は極めて疑問であり、また善光寺訪問の記事も怪しいところが多分にある。

 そして、阿部泰郎氏は全く触れないけれども、遠路はるばる「霊仏と申すもゆかしくて」訪問したはずの浅草寺の本尊を、聖観音ではなく十一面観音と記すことなど、『とはずがたり』の仏教関係の話には、いくら何でもおかしなことが多すぎるのである。

 浅草寺訪問の記事についての私の考え方は久保田淳氏「「『とはずがたり』−配所の仮託」に基づいて別途述べたが、二条の宗教に対する態度を改めて検討するために、善光寺訪問の記事を、小口倫司氏とは違った観点から分析してみたい。善光寺訪問は二条が鎌倉を訪問した翌年の1290年になされたことになっており、その内容は次のとおりである。

 二月の十日過ぎのころであろうか、いよいよ善光寺へ思い立つ。碓氷峠、(木曾の)桟道の丸木橋、なるほど踏んでみただけであぶなげな山路である。道中の名所なども立寄って見たかったけれども、大ぜいの者に連れられている身でいろいろとめんどうだったので、なんとなく過ぎてしまった。しかし(皆といっしょの旅は)思いのほかにわずらわしかったので、善光寺には宿願の志があってしばらく籠りたい旨を言って、帰りには一人とどまった。私を一人残して置くことをみな心配して、いろいろいったので、

 「死んで後、中有(ちゅうう)の間の旅にはだれがいっしょに行ってくれましょう。生れた時も一人で来ました。去ってゆく折もまたそうです。相逢う者はかならず別れ、生ずる者はかならず死に至るものです。桃の花は装いはどんなに美しくても、ついには根に返ります。紅葉はいく度も色を染めて盛りはあっても、風が吹けば秋の色は長く続きません。名残を慕うのは一時の情です」などいって私は一人とどまった。

 この善光寺の地形は開けた眺望などはないけれども、本尊は生身の如来とお聞き申しているので頼もしく思われて、百万遍の念仏などを申し上げて、明かし暮らすうちに、近くに高岡の石見の入道という者がいて、風流の士で、歌をつねに詠み、管絃などをして楽しんでいるというので、かたわらの修行者や尼に誘われて行ったところ、まことに風雅な住まいは片田舎の分際には過ぎている。あれこれと心を懸める便りともなるので、秋まではここにとどまつた。(次田香澄訳)

 ここも二条の性格を考える上で、極めて興味深い部分である。まず、半年間お世話になった人の家を、「まことに風雅な住まいは片田舎の分際には過ぎている。」と言い切るずうずうしさがすごい。私のような謙虚な性格の人間には、ここだけでも理解しがたいところである。

 また、二条が団体旅行のできない人間、つまり非常に我が儘な性格の人間であることも興味深いのであるが、それより面白いのは、一緒にいるのがわずらわしいという気持ちを直接に表現せずに、もっともらしい仏教用語を豊富にちりばめて、相手を煙に巻いてしまう話術のすごさである。

 この人は本当に社交のプロであり、一瞬の判断で、その場の空気と相手に応じた最も的確な言葉が次から次へとリズミカルに湧いて出てきて、あれよあれよという間に相手を言いくるめてしまうのである。決して相手を不快にせずに、自分の我が儘を簡単に押し通してしまうのである。

 仏教関係の語彙の豊富さ、それを自在に操れる話術の巧みさ、そして仏教用語を宗教的文脈を離れたところで適当に使うことに対するやましさの完璧な欠如。

 これらを考慮すると、確かに『とはずがたり』は、阿部泰郎氏が言われるように「全篇が濃厚な宗教色に覆われている。主人公たる作者の、一貫した出世間へのあくがれと願い、そして思いを遂げ出家し修行の道を辿るありさま、その道程の至るところに宗教性が満ちている。」のであるけれども、それが本当に純粋な宗教心に由来すると考えてよいのであろうか。もしかすると、阿部泰郎氏をはじめとする現代の学者は、善光寺への同行者と同様に、「善人だけどトロい連中だね。」と二条から軽くあしらわれているのではなかろうか。


(※善光寺訪問の場面の原文はこちら。)




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