更新10.10/10


脇田晴子 『中世に生きる女たち』(岩波新書)p.63以下





脇田晴子氏の略歴(上掲書による)
1934年西宮市に生まれる。神戸大学文学部卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
専攻−日本中世史・日本女性史
現在−大阪外国語大学教授(※).文学博士
著書−「日本中世商業発達史の研究」(お茶の水書房)「日本中世都市論」(東京大学出版会)「室町時代」(中公新書)「戦国大名」(小学館)「日本中世女性史の研究」(東京大学出版会)
編著−「日本女性史」全5巻(共編.東京大学出版会)「母性を問う−歴史的変遷」上・下(人文書院)「日本女性生活史」全5巻(共編.東京大学出版会)「ジェンダーの日本史」上・下(共編.東京大学出版会)(「日本女性史研究文献目録」全3巻(共編.東京大学出版会)
※1995年当時。現在は滋賀県立大学教授。



脇田晴子氏の見解

私の考え方

後深草院二条−宮廷の女房生活からはみだした女性

数奇な運命をたどる

 『庭のをしへ』に教える女房の生き方の反対を行った人に、『とはずがたり』を書いた後深草院二条(1258−?)がある。彼女は名門の出であるにもかかわらず、そして才知と美貌に恵まれすぎたゆえに、宮廷の女房生活からはみだしてしまった女なのである。彼女は宮廷儀礼の粥杖(かゆづえ)にことよせて、本気で後深草院を杖で打ち、公卿たちから「不敬」として非難をあびるといったところのある人であった。これは幼いときからの院に対する甘えが、そうさせたのであろう。

本気で打つわきゃねえだろ、と私は思う。「粥杖事件」には遊戯的な雰囲気が溢れており、粥杖打ちの場面はもちろん、その後も後深草院や公卿が裁判ゲームを楽しんでいる(ように作者によって描かれている)のは明らかであり、「不敬」として非難をあびる、などというのは異常な表現である。この誤読から始まって、以下、誤読のオンパレードである。もともと思い込みの激しい生真面目な学者が、『とはずがたり』のような特殊な構造をもった物語を読んだときに、如何なる悲喜劇が生ずるかを典型的に示しており、その意味で興味深い論文である。
 (→「粥杖事件」の原文はこちら。また 『とはずがたり』の構造についての私の考え方はこちら。)
 彼女は村上源氏の久我雅忠を父に、後深草天皇の大納言典侍を母として生まれた。『とはずがたり』は自伝的で日記的要素が強いといわれる。とにかく、彼女のくわしい実像を伝えるのはこれだけである。それによれば、母は典侍大(すけだい)として、院の初体験の添臥(そいぶ)しを勤めたという。

 その母の死後、四歳から後深草院の御所に出仕、一四歳で上臈女房として後宮に入り、院の子を生みながらその子は夭折、「雪の曙」(西園寺実兼)と「有明の月」(性如法親王か)と密通し、それぞれの子を生むが、東二条院(後深草天皇中宮藤原公子)の嫉妬を受け、院にも見限られて御所を下がり、そののち尼となって地方諸国を行脚した。後深草院の葬送にゆきあい、二条の行く末を心配して死んでいった父の三十三回忌も果たし、また、後深草院の皇女遊義門院に出会い、後深草院三回忌で終わっている。

久我雅忠(1228〜1272.45歳)
後深草院(1243〜1304.62歳)
西園寺実兼(1249〜1322.74歳)

「性如」法親王は「性助」法親王(1247〜1282.36歳)の誤り。
 わたしは『とはずがたり』にみられる女房としての二条と院御所を出てからの尼としての二条の生き方に、『庭のをしヘ』に説く理想像とは反対の女房像をみたい。国母となれなかったら、浮名を流さず出家せよ、という教えにさからって浮名を流した、『庭のをしヘ』とは反対の女房像である。しかし、そのかわりに女房たちの出世地獄にはまりきれなかった、正直な女性の生涯である。はみだしたがゆえに、後宮にうごめく女房たちにみえなかったものがみえてきた。それゆえに、それを書きのこそうとした。『とはずがたり』の創作動機の一つはそこにあると思うのである。



東二条院(1232〜1304.73歳)
遊義門院(1270〜1307.38歳)

『庭のをしヘ』は阿仏尼(?〜1283)の作と言われている。阿仏尼についてはこちら(瀬野精一郎氏「悪女阿仏尼」)。

私には、二条は正直とは程遠い人のように思われる。
暗黒と救済の物語

 『とはずがたり』は、一方で創作的要素があり、とくに『源氏物語』の影響が強く、父のような後深草院におかされる過程は紫上に、父親の遺言の箇所は宇治の八宮の大姫に、対する箇所に、密通については女三宮に似ているといわれている(清水好子「古典としての源氏物語−とはずがたり執筆の意味」)。たしかにそのようである。著者は『源氏』を学び、それをふまえて書いたのであろう。

 ただ『源氏物語』では、宮廷の雅(みやび)な男女関係が光源氏をめぐる女たちというかたちで、光源氏を中心に描かれているのに対し、宮廷の隠微な男女関係が、二条をめぐる男たちというように女性中心に描かれている点において、『とはずがたり』は決定的に違うのである。そして、『源氏物語』の王朝文化の謳歌、男女の雅な交際に対する肯定的な明るさに対して、これは何というおどろおどろしい暗さと隠微さにみちみちているのであろうか。

『とはずがたり』には粥杖事件など「肯定的な明るさ」に満ちている部分もあり、「おどろおどろしい暗さと隠微さにみちみちている」訳ではない。『とはずがたり』は矛盾に満ちた多様な要素からなりたっているために、観察者が何を重要部分だと思って抽出するかで、全く違った作品像・作者像が描き出されてしまうのである。「おどろおどろしい暗さと隠微さにみちみちている」のは、もしかすると脇田晴子氏らの女性史研究者の側かも知れないのである。

私は仏教が「中世の暗黒の世界」を作ったとは思わない。そんなことを思っている中世史研究者を私はあまり知らない。
 わたしは中世の社会全体が暗黒世界だとは思っていないが、かつて暗黒と描写されたものの実態にふれたような気がする。仏教がつくった中世の暗黒の世界とそこからの救済というものを、自分という一人の女を素材にして描いてみせたところに、この作品の値打ちがある。

 中世の仏教的世界は、落ちれば下は地獄というところに、宙吊りになってうごめいているはかない人々の営みを自覚させるところにある。二条の父親は、二条のことが気にかかって成仏できない。それがまず前提としてある。その宙吊りになったこの世の、文字通り雲の上の−これは殿上人であるが、ふわふわとたよりない−世界での男女の、一瞬のあいだの束の間の快楽の記録という感じである。男女は二人で快楽をえるにもかかわらず、たえず相手を蹴落とそうとする。椅子は一つしかないのだ。二条に恋慕した「有明の月」は、僧侶としての罪咎の悩みで自分から落ち込んでいく。

父雅忠の死の場面は、二条を楊貴妃に喩えた遺言など、変な部分が多い。(→原文はこちら。)

「男女は二人で快楽をえるにもかかわらず、たえず相手を蹴落とそうとする。椅子は一つしかないのだ。」という部分は極めて難解であり、脇田晴子氏が何を言いたいのか、私にはさっぱり理解できない。
 後深草は密通をしている二条を結局は許さなかった。亀山院などとの関係を強要し、一方で、自分の火遊びの手引をさせ、サディスティックな楽しみでもってそれをみていて、あげくのはてに御所から二条を追放する。お釈迦様の蜘珠の糸のように、後宮の女房たちを吊り下げることのできるのは院であり、皇子を生むことによって極楽に上げてもらえるかにみえた二条は、皇子の夭折によってその希望もなくなる。窮屈な宮廷生活では、はみださざるをえない二条の性向であれば、宙吊りから落とされるのもやむをえまい。

亀山院(1249〜1305.57歳)

女性史研究者の殆どは、昔から女性は被害者だった、とバカのひとつ覚えのように騒ぎ立てるのであるが、少なくともそれは二条にはあてはまらないと思う。冷酷な殺戮者たる内管領平頼綱に対する対応など、二条の精神の強靱さ・ずうずうしさは通常人のレベルを遙かに超えており、二条は加害者にこそなれ、被害者に甘んじているような弱い女では絶対にないと私は思う。「加害者」としての後深草院像は「被害者」二条の一方的な証言によって形成されたものであり、後深草院側の反対尋問は全くなされていないのである。

西行(1118〜1190.73歳)
 だが、まっさかさまに落ちた二条は、そのまま地獄に落ちずに、信仰によって別の世界に落ちつくことをえた。西行がそうであったように、出家・遍歴することによって別の世界を知り、『とはずがたり』を創作することによって、院という他者によって生きる後宮の女ではなくなったのである。

 見方を変えれば、院とて絶対ではない。御所の評価とは次元の違う世界があり、それは仏教の教えである。後深草院がすべてではなく、院とて死ねば煙になって地獄に落ちるのだ。院に追放されたおかげで出離の縁をえて、院を、院を取り巻く御所の世界をはじめて超越することができた。

脇田晴子氏は二条の一方的な証言を素直に信じて、二条の後半生を信心深い尼のそれとして捉えているが、私は、遠路はるばる訪問し寺の御本尊を(たとえ過失であっても)間違えるような人間の宗教心を信頼することはできない。
 そして中世の芸能・能楽などにあらわれる女神たちが「懺悔」の物語をすることによって罪科から免れ、成仏得脱の身となるように、『とはずがたり』の長い物語を執筆し、表現することによって、この世のしがらみから解き放される機縁になるのだ、二条にはこんな思いがあったであろう。何よりも来し方を追憶し、客観化して(主観的なものであるにもせよ)著述する営みのなかに救いがあったのだ、と考えられる。いまふうにいえば、創作によって「自己実現」をして、解放された自分というものを確立することができたといえようか。





愛憎なかばする表現はなぜか

 二条の後深草院に対する叙述は、愛憎なかばするものがあるように思われる。『とはずがたり』における後深草院についての叙述は、優雅で、繊細な心のもちぬしであり、二条に対する心づかいもいきとどいていたように、かなり美化されて書かれている。だから、わたしの以上のような解釈には、反論があるかもしれない。

 しかし事実として書かれていることは相当、残酷である。遊ぴの女の仲介をさせたり、亀山院その他の男との関係を命じたり、やはり女房というのは高級召使で、ときには娼婦並みなのである。后妃とはちがうのだ。女房の性も守られていないのだ。

 二条がそのことを自覚しているかどうかはわからない。女房のことば、叙述というものは、決してむきつけには書かないのだ。『庭のをしヘ』にも、〃不愉快なことがあって退出するにも、きれいごとにして黙って退け〃と書いてある。まして『とはずがたり』は、天皇家所蔵の秘書であり、発見は戦争中で、発表は戦後の一九五○(昭和二五)年である。

 天皇家の奥深く蔵されていたものであれば、書かれた当時に想定された読者層は、宮廷・後宮の人々であろう。院・天皇のことであれば、女房特有のきれいごとで書かれざるをえず、しかもそのなかで、なお書きたいことは書かねばならない。いわば、戦争中の検閲体制下における自己検閲のごときものであろう。そして、誇り高い二条にあっては、自分も大事にされ、けっして蔑(ないがし)ろにされたのではないことも書かねばならないのである。

 全体を貫くナルシシズムについては、すでに指摘もあり、わたしもそれを感じる。しかし、ナルシシズムが強いゆえに、後宮にもなじめず、尼寺の安穏な生活もできず、漂泊のなかに自己を確立していかざるをえない、業の深さがあった。作家とはそういうものではあるまいか。

 また、「雪の曙」とのあいだの子どものための出生証明書のような役割を本書がもった、という指摘もある。たしかに、どうして「雪の曙」や「有明の月」との情事をことこまかに書きつらねたか。それを出離の縁としての懺悔の物語という意味もあるが、「雪の曙」とのあいだの女子(永福門院※子とも、昭訓門院瑛子とも推定される)や、そのほかに生きている子どもがあり、その出生の秘密を書きのこしておきたかったからではなかったか。そういう事情はそれとして存在すると思うが、それもふくんで、後宮の一女性の魂の遍歴の記録として、その真摯さに打たれるのである。






※金扁に章。
私には『とはずがたり』は極めて綿密に構成された「魂の遍歴の記録」のように思われる。脇田晴子氏の女性史研究者としての真摯さには私も心を打たれるのであるが、二条自身が真摯な女性だったのかと言われると疑問を抱かざるをえない。複雑な人間関係と政治情勢の中で生きていた貴族社会の女性と、閉鎖的な学問の世界で生きている現代の研究者との間には、埋めようのない溝が存在しているように私には思われる。





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