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| 多賀宗隼氏の略歴 |
| (1) 上掲書より 明治42年生 昭和8年東京帝国大学文学部国史学科卒業 大正大学・駒沢大学講師を経て 現在 国士舘大学教授・文学博士 編著書:慈円全集・鎌倉時代の思想と文化・慈円・源頼政・栄西(人物叢書)・校本拾玉集・玉葉索引・慈円の研究 (2)『日本史研究者辞典』(吉川弘文館) 中世文化史。国士館大学教授。1909年(明治42)2月23日、清国河北省に生まれる。東京府立第四中学校、浦和高等学校文科甲類を経て、33年(昭和8)、東京帝国大学文学部国史学科卒業。明徳学園女子高等家政女学校教諭。37年、東京帝国大学大学院人文科学研究科修了。48年、東京都立第九女子高等学校教諭。50年、東京都立多摩高等学校教諭。68年、平安博物館助教授。69年、宮内庁管理部嘱託、新宮殿造営記録編纂に従事。71年、同辞任。78国士館大学文学部教授。88年、同定年退職。1994年(平成6)3月15日没、85歳。中世史、特に鎌倉時代の文化史を研究。 《主要業績》『鎌倉時代の思想と文化』目黒書院、1946)、『玉葉索引−九条兼実の研究−』(吉川弘文館、1974)、『論集中世文化史』上・下(法蔵館、1985) 《追悼文》大隅和雄「多賀宗隼氏の訃」(『日本歴史』553、1994) |
秋田城介安達泰盛はさほど著名の人物ではない。従来われわれが、その名にいやしくも接したのは殆ど専らこの徒然草の伝えによるとさえも云い得るであろう。殊に終りを全うしなかった彼として、その事蹟の伝えらるるの乏しく、国民的名声を博するには及んでいない。が、仔細にこれを点検するとき、彼の一生には種々の観点よりして軽々に見のがすべからざる重要なものが含まれていた様に見える。さらにその滅亡そのものが北条執権政治上にもつ意味は特に重大なるものがある。かくの如き点から、以下いささか彼の一生を考えてみたいと思うのである。 安達泰盛(寛喜三年〔1231〕−弘安八年〔1285〕、五十五歳)(註)を生んだ安達氏が、頼朝〔1147〜99.53歳〕以来の功臣として、曾祖父藤九郎盛長入道蓮西〔1135〜1200.66歳〕、祖父景盛入道大蓮房覚智〔?〜1248〕、父義景入道願智〔1210〜53.44歳〕と、代々相ついで鎌倉武家政治の確立、北条執権政治の擁護に不抜の功績を残した迹の著しきものある事は史上顕著な事実であって、それ自身としては、今あらためて説くを要しない。が泰盛の人物と事蹟とを明らかにする上には、これ等の父祖について一応顧みておく必要がある。すなわち今必要なる範囲に於て、先ず簡単にこれに触れておきたい。
盛長が挙兵以来頼朝を助けて草創の業を大成せしむるに与って力あった事は今しばらく措く。その子景盛は父の後をうけて幕府の政局に参与し、帷幕の裡に在ってよく政治の大方針を定め、さらに幕府を危地より救うた事もあったのである。即ち宝治元年〔1247〕の三浦氏の乱に於ける彼の活動の如きはその第一に挙げらるべきであろう。当時彼は既に出家して覚智と称して高野に隠棲していたが、常に天下の形勢に注目するを怠らず、時あたかも三浦氏の勢力強大にしてややもすれば北条氏の塁を摩し、殊には自家の存立を危うせんとするを見て、先を制して大事を未然に防ぐの必要を痛感し、遂に同年四月、親しく関東に下向して三浦氏討滅戦の火蓋を切ったのであった。即ち一方に於ては、踟蹶〔ちけつ〕決せざる幕府当局を引摺って意を決せしめ、他方三浦氏を激発せしめて戦端を開き、その子義景、孫泰盛を励して進んでこれを討たしめ、遂にこれを族滅して以て執権政治と自家との憂患を除きたるが如き、その政治的眼光の如何に鋭く、その手腕の如何に非凡辛辣なるものありしかを察せしむるに充分である。 景盛が執権政治に参与してその重きに任じていた事は、なお、泰時〔1183〜1242.60歳〕との深い関係によっても知られる。彼は夙に明恵上人高弁〔1173〜1232.60歳〕に帰依し、京の栂尾に在ってその教えを聴いていた。承久役に際し、官兵の栂尾に遁入せるを追うて入山してこれを索めんとしたのは彼景盛であった。が、慈悲深い上人の断乎たる拒絶にあって、泰時と共にその浅慮軽卒を謝し、爾後両人は上人の言に深く聴従して以て施政上に資するところ少なくなかったのであるが、殊に、泰時が政治上に於て上人に負うところの深きを感謝せる趣の述懐を後世のわれわれに伝えているのは明恵上人伝記によれば、他ならぬ景盛(註)の口を通してであって、以て景盛に、泰時の重きを寄するところ如何に大なるものありしか、従って執権政治の中枢に与ることの如何に深かりしかをみるべきである。
景盛は上述の如く初め栂尾に住したが、後高野に入って大蓮房覚智と号し、高野入道と呼ばれた。彼が出家したのは建保六年〔建保七年〈1219〉の誤り〕正月二十七日将軍実朝〔1192〜1219.28歳〕暴〔にわ〕かの薨去を悼み悲しむのあまりに出でた事は周知の如くである(景盛の如き政治的辣腕家がかくも深く実朝に傾倒したという事実は、或は実朝なる一風流将軍に止まらずして、実は政治的識見に於て非凡なるものを備えていたという事を傍証するに足るものではなかろうか)。彼はなお明恵上人遷化の時も(寛喜四年〔1232〕四月十九日)高野から栂尾にかけつけている。宝治乱に際しては冷血を疑わしむるまでの鉄腕を揮うた政略家の人間味を示すものとして忘るべからざるところであろう。景盛の信仰生活についてはなお述ぶべきもの少なくないが、それ等に関しては後段に於て触れる事とする。 景盛の男義景(承元四年〔1210〕−建長五年〔1253〕、四十四歳)亦政治家として乃父を辱めぬ見識と手腕とを備えていた。宝治合戦に際しては父の勧励によって三浦氏討伐の先鋒として活躍した事は右に述べた如くである。吾妻鏡によると、戦端開始に先だって、父景盛は子義景に諷詞を加え、孫泰盛には「突鼻」し、かつ「云義景云泰盛緩怠稟性無武備之条奇怪云々」と罵り戒めたとあるから、景盛の目からすれば当年三十八歳なりし義景といえども心許なく感ぜられるところあったのであろう。併しながら、それは恐らく父の思いすごしであり杞憂であったろう事を思わしむるに足るものとして、これより先、仁治三年〔1242〕の皇位継承問題に際しての義景の態度が注目される。即ち同年正月、四条天皇〔1231〜42.12歳〕の俄かの崩御の報に接して幕府は狼狽したが執権泰時は鶴岡八幡の宝前に神慮を請うた結果、邦仁親王(後嵯峨天皇)〔1220〜72.53歳〕の受禅あらせらるべきを奏せんとし、義景を以て使者として京師に遣した。義景直ちに出発したが途中気付いて引き返し、万一既に京に於て他の皇子の御継承の儀に決せるが如き事ある場合の処置に関して泰時の意見を仰いだ。泰時は、自ら失念していたこの重要な点についての考慮を促した義景の周到なる心遣いに感嘆したという(五代帝王物語、関東評定伝)。義景時に三十三歳、宝治合戦に先だつ六年。 宝治元年〔1247〕七月、泰時の弟重時〔1198〜1261.64歳〕が連署に列せられた時、その辞令を伝えたのは彼義景であった(吾妻鏡)。即ち泰時以来引き続き幕府の重要政局に参与していた事が知られる。翌宝治二年六月四十四歳を以て没した。義景亦出家して高野に入り法名を願智と称した。 ☆「翌宝治二年六月」は誤り。宝治二年に亡くなったのは景盛であって、それは五月十八日のこと。没年齢は不詳。義景は建長五年(1253)六月三日に亡くなっており、没年齢は四四歳。 安達氏が執権政治に斯の如き重要な地位を占めている事を考うる上には、これ等の事蹟や人物と共に、その北条氏との血縁関係は、これと不可分のものとして見のがすべからざるところであろう。よって今、これが概観に便するためその間の略系を示すと次頁の如くである。 (系図省略) 秋田城介安達泰盛はかくの如き人物を父祖としかくの如き伝統を背負うて生まれたのである。母は小笠原六郎源時長女(尊卑分脈)。その生年は寛喜三年〔1231〕、父義景十九歳〔二一歳の誤り〕の時に当たる。即ち彼が宝治合戦に遭遇したのは十七歳の若冠に於てであった。言いかえればその幼少年・青年時代は泰時・時頼〔1227〜63.37歳〕等の手によって執権政治の基礎漸く固められ、その下における父祖の活躍によって安達氏の勢望また旭日の如くならんとした頃に当たっていたのである。 泰盛が幼時から何人の手によって如何なる教育を受けたかはこれを徴すべき史料に乏しい。が、前に引いた宝治合戦の際の記事−恐らく彼自身に関する最初の記録−によると彼は祖父景盛から厳格な訓戒を受けて「武備緩怠」を戒められている。これはわずかな記載に過ぎぬが頗る注目に値する。即ちそれは父祖の彼に対する庭訓の厳であったこと、父祖の政略家的及び武士的風格の醸し出した雰囲気のうちに人となったであろうことを察せしむるに足るものをもっている。 宝治の頃の兄弟が幾人であったか、その中に在って如何なる地位を占めていたかは詳かでないが、とにかく、ひとり彼のみを祖父が問題にしている点からみると、父祖の彼泰盛に期侍するところ、夙に他と異なるものがあったかと推測される。以上は勿論臆測を出でぬが、ただ幼少の頃から厳重な家庭教育の下に在った事、そしてそれが武家政治家的なる方向をもったものであったろう事は凡そ謬りなきところであろう。
寛元二年〔1244〕(十四歳)六月十七日以前に、すでに番頭となり(評定伝)、宝治合戦の後、宝治元年〔1247〕十二月十日、将軍家遠笠懸御覧の時には射手を命ぜられている。以て彼が射を善くしたことを察すべく、殊に騎に妙を得ていたことは徒然草に特記されているところと相照らして、人々の間に著聞していたことと思われる。建長二年〔1250〕二月六日執権時頼は、将軍家のために、壮者のうちから文武の器量あるものを選んで伺候せしむる定めとしたが、その後間もなく十二月、泰盛はこの近習の一人に加えられており、文応元年〔1260〕(正月二十日)の頃にも同じく将軍近侍の一芸に堪うるの輩の中に数えられている。 建長五年〔1253〕六月、父義景を喪うた後間もなく同十二月、引付衆に加えられ、翌年十二月、秋田城介に任ぜられているのは、近習より進んで漸く政治家としての本道を踏み出したものと観るべきであろう(二十三歳)。爾後康元元年〔1256〕六月には五番引付頭に進み、同年さらに評定衆に加わり、文永元年〔1264〕六月三番引付頭、同十月より文永四年〔1267〕四月まで越訴奉行等を勤めている。 右は彼の官歴の概略であるが、これによっても彼の幕政上に重要な地位を占めた迹は凡そ察せられる。が単にこれだけを以てするならば特に云うに足るほどのものありとはなし得ない。特に安達家の嫡々としてはむしろあまりにも当然である。われわれが彼に於て特に注目せんとする第一のものは、父祖三代に亙る赫々たるその声望、執権攻治の支柱として蓄え来たったその隠然たる努力と輿望とを担うて政局の舞台に登場し来たった彼泰盛が、父祖の希望と期待とに沿うて十二分にこの好条件を活用したる点に在る。よく箕裘〔ききゅう〕の業を紹述してこれに点晴した点に存するのである。 右の官途にあった間、泰盛は如何なる活動をしているであろうか。先ず建長末頃から父に代わって政局に参与し始めている事は先にみた如くである。数年後の弘長三年〔1263〕(三十三歳)十二月、執権時頼卒去の際、仙洞より右少弁経任朝臣〔中御門.1233〜97.65歳〕を勅使として御弔問を賜うたが、選ばれてその接侍の役をつとめたのは外ならぬ泰盛であった(吾妻鏡)。その後、吾妻鏡文永二年〔1265〕正月五日条によると、京より山門・寺門騒擾が報ぜられた時にはその評定に与っており、さらに翌文永三年〔1266〕六月十九日条には将軍宗尊親王〔1242〜74.33歳〕廃立の重要秘密会議に列している由がみえている。吾妻鏡はこれについて「於相州御亭有深秘御沙汰、相州、左京兆、越後守実時、秋田城介泰盛会合、此外人々不及参加云々」と特記している。即ち彼はこの頃すでに幕政の枢機に参じて押しも押されもせぬ大立物であったのである。時に年齢三十六。爾後約二十年間、弘安八年〔1285〕の滅亡まで執権政村〔1205〜73.69歳〕、時宗〔1251〜84.34歳〕、貞時〔1271〜1311.41歳〕の三代に亙って常にかわらずその地位に在って重要政局を左右していたのである。惜しいかな以後吾妻鏡も缺けており、執権政治の委曲をつくすべきものに乏しいため、彼の政治家としての活動の具体的なる迹の殆ど全部が湮滅してしまっており、従ってその政局を料理する手際を具体的に観るべき史料に殆ど接することが出来ない。ただ先にみた如き、若冠にして勅使応接の役に選ばれたという如き事実などによって間接にこれを窺うに止まらねばならぬのであるが、しかもこれ等に徴するも幕府当局の彼に俟つところ深く期待するところ多かりしを知るべく、父祖の余威のみによって単に員に備わるのみでなかった事は明らかである。そしてこの間の消息を積極的に物語る殆ど唯一の史料として、筆者はかの蒙古襲来絵詞に於ける泰盛の記事を挙げたいのである。 絵詞によると蒙古合戦に参加した竹崎季長〔1246〜?〕は、戦後、恩賞に関して意に満たぬところあるより、建治元年〔1275〕、自ら関東に赴いて当時恩賞奉行たりし泰盛の門を叩いた。泰盛、これを引見して委細にその間の事情を聴取したが、季長の述ぶるところに不備なる点を見出した。よって詳かにこれが説明を与え、かつその急所を衝いていささかの隙をもみせぬ油断なき応待ぶりを示している。蓋しその手腕の片鱗を示す一挿話として注目に値すべきを信ずる。 政治家としての泰盛の地位・勢力・人物はまたその滅亡をめぐる諸事情によってうかがわれる。 泰盛が貞時のために滅ぼされたのはその息宗景〔1259〜85.27歳〕の「専横」に坐するものと保暦間記は伝えている。いうところの「専横」とは一体如何なるものであったろうか。それが結局貞時やその執事平左衛門尉頼綱〔?〜1293〕等との権力争いの表面化に外ならぬ事は云うまでもあるまい。が、その具体的なきっかけは何処にあったのであろうか。保暦間記によると、宗景は曾祖父景盛の、実は頼朝〔1147〜99.53歳〕の子なるを主張し、よって自ら姓を「源」と改めたところ、平頼綱はこれを以て将軍の地位を覬覦〔きゆ〕するものとなして貞時に訴え、その結果として族滅の難に遭うた、という。この事は泰盛に関する次の伝えと考え併せる時一層その意味の深きを覚える。即ち相州文書所収法花堂文書に云う。
頼朝第二回目の上洛の際、京に留め置いた源家重代の銘剣髭切丸を、泰盛(真覚)が、上洛した時、尋ね出して鎌倉へ齎してあったのを、弘安八年〔1285〕十一月泰盛滅亡の際不慮に手に入れた、というのである。これによっても泰盛も亦特に頼朝を崇拝していたとの推定は許されるであろう(勿論それは鎌倉武家社会一般に通ずる風ではあったろうが)。なお、先に述べた通り、景盛は実朝〔1192〜1219.28歳〕の薨去を悼んで出家したのであり、頼朝以下三代将軍の菩提の為に高野山に金剛三昧院を建立し第一開山住持として荘厳房行勇〔1163〜1241.79歳〕を推したのも、その庄園河内国讃良庄を実朝善提の為に高野山禅定院御堂護摩用途に寄進した(寛喜元年〔1229〕八月二十五日)のも何れも外ならぬ景盛であった(以上、金剛三昧院文書)。
安達氏の源家に対して懐いた親しみの、かくも濃かに、かつ、根底深きものありしとするならば、それが色々な形で貞時の政治に牴触するところあったであろう事、想像に難からぬところであろう。況んや貞時からみれば岳父に当たる泰盛が安達氏累世の権を負うて臨めるをや。かくの如くにして互に募った結果が政権争いとして爆発しなければ寧ろ不思議であるとも云えよう。しかして敗者に一切の悪名が帰せられなかったとすればなお一層不可思議と云わなければならぬ。 弘安八年〔1285〕十一月、泰盛は五十五歳を一期として鎌倉に、聟北条貞時のために斃れた。鋭き剃刀の刃のこぼれ易きが如く、鋭きに過ぎた彼は当局の忌憚するところとなって遂に禍を招いたのであったが、保暦間記いうところのこの「霜月騒動」がひとり鎌倉に於ける一大事変であったに止まらず、その波紋は殆ど全国的とも云うべきものあり、かつ抜き打ち的に勃発している迹のあるを見ても、当局の安達氏に対する畏憚危倶の如何に大なるものありしか、泰盛を中心とする安達氏とその党派の勢力の根底の如何に深くかつ大なるものありしかを想望するに足る。− 「霜月騒動」が如何なる程度と規模に於て演ぜられたか、その詳細については別の機会に譲ることとする(後稿「弘安八年『霜月騒動』とその後」参照)が、史料の湮滅にも拘らず、諸書より零砕なものを拾いあつめて今日考えられるだけでも意外に広い範囲に及んでいる。 即ち鎌倉に於ては将軍の邸も兵燹に罹っており、鎌倉に於て泰盛と連命を共にしたものにはその一族にあってはその息宗景、弟重景、時景、及び景盛の弟時長三代の孫に当たる宗長、弟顕盛の子宗頼、時盛の子時長等がある。他氏には大江泰広、その息盛広、泰元、荒木氏には義職の子義泰、また舟木長朝、佐原泰親及び弟盛次、横須賀頼連、佐々木宗清、有道基重等あり、なお実名明らかならざる遭難者の姓をあぐれば殖田、葦名、綱島、池上、行方、伊藤、足立、南部、和泉、田中、武藤、筑後、鎌田、小笠原、伴野、有坂、武田、鳴海、秋山等の多きにわたり、武家中の大族の名も少なからずみえている。人数の点も不明であるが、諸記録或は宗徒のもの自害三十人負傷十人となし、或は死傷五百人に及ぶとなしいずれとも定め難い。地方に於けるその余波としては、先ず鎮西に於ては肥後の守護であった泰盛の息盛宗が同時に討たれているのをはじめとし、泰盛母の生家たる信濃の小笠原氏、常陸の加志村氏、更に三河、播磨、美作、因幡等に於ける騒動が伝えられている。災いはなお北条一族に及んで泰盛女を室としていた金沢顕時〔1248〜1301.54歳〕またこれに坐して下総に謫せられたことは特記されねばならぬ。 われわれにわずかに残されたもののみを以てしてもこれだけの波紋が辿らるるとするならばこれが当時如何に人人の耳目を聳動した大事件であったかを想望してよいであろう。 安達氏はかくして殆ど滅びた、少なくとも盛長以来の勢力は根底から一掃されたのである。ただ顕盛〔1245〜80.36歳〕の一流のみわずかに残りその孫時顕〔?〜1333〕が秋田城介を継いだがもはや昔日の勢力は見るべくもない。時顕が文保二年〔1318〕八月高野山金剛三昧院に播磨国在田上庄を寄進した時の寄文(同院文書)に「最勝園寺禅定太守洪恩」云々と記して父宗顕の讎敵たる筈の貞時に全く屈伏してしまっている。即ちここに執権政治は、一時、その危機から救われた。が実は同時にそれは一大支柱を喪失していたのであって、執権政治が凡そこの頃を絶頂として、以後一路下り坂に向うの趣あることは注目されねばならぬ。安達氏の滅亡はこの政治の下に於ける大族の滅亡の最後をなすものなることは頗る意味深きものがあると思われる。即ち相つぐ大族族滅の覆轍に危惧の念を益々深くしたと思われる諸大氏の韜晦沈黙によって政界の中心勢力は爾後表面上執権の執事(例、長崎氏等)にうつり、従って政界の暗流もこれを中心として渦まくに到り、諸大族は機を狙いつつ中央政局はこれを傍観し積極的協力より手を引くの態度を執るに到ったかと推察されるのであって、このように観て来る時、安達氏は執権政治とその興亡を共にしたと大観し得るのではあるまいか。ともかく泰盛の滅亡が執権政治の側から見ても一画期的事件であり、事件そのものとしてもその含んだ意義に於ても今日のわれわれの想像を超えた大かつ深なるものがあったと解せねばならない。 |
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